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今、ほしいもの。「どこでもドア」。そして、本を買うお金・・・当たり前のことだけれど、学ぶにはお金がかかるぅぅぅぅ・・・私より年下の妹や弟のほうがすでに稼いで、両親におこづかいをあげているよ・・・妹よ、弟よ、すまぬ・・・私は今あなた達に、フィリピンのドライマンゴーをお土産に持っていくことくらいしか出来ないよ。親に本代を頼むのも肩身が狭い・・・申し訳なさ過ぎて・・・あぁ、でも、心はこせこせしないように、生きよう!いつか別の場面で、みんなを助けられるように、今ここにいる意義を、精一杯、生き抜くしかない。
2008.09.16
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今朝、Tarsha's mama よりメールがきた。:おはよう、Tarsha.(^O^):おはようございますポ!:とても咲かせるのが難しい品種がとうとう咲きました! とても嬉しい♪ので写真を送ります。わたくし、「空色の上」でございます。:わぁ~おぅ!! すごい!! 空色の朝顔なんて初めて見たよ!mama 様が丹精こめて育てて下さいました。:mama は本当に植物を育てるのが上手だよねえ!一粒の小さな種から・・・まるでトトロだよ。よく見ると、下のほうにもピンクの朝顔が群れ咲いている・・・ってことは、ここ2階? 2階まで登ってきたんだね?:植え時が遅かったのですが、Tarsha をはな咲かせて迎えたいという mama の心が通じたのでしょう。でも、3月だから、来年また植えるけど…フフ。また、楽しみが増えるね:にゃっ・・・すみません。:もうすぐ、ハリーちゃんの戦いだから、真剣に daimoku 送るね mama 花が咲かせてみせる「青色」は、とても神秘的だ・・・言葉に表せないという意味で。ターシャのとても好きな色。本当に、空の色が流れ込んだような青さだね。:mama も空色の上も、美しいまごころをありがとう。Halim は今日は残念だった。明日もまた取組がある。負けたときは、「負けるが勝ち」でいけばいい。:ドンドンガバチョ、ドンガバチョ!大変な世界で戦っている弟にふさわしいお姉ちゃんでありたい。決意も願いも・・・言葉であれこれ言うのはもう疲れた。ただ進むのみ。結果を出すまで。
2008.09.15
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明日はいよいよ Halim の初日。今夜は月がとても高く昇っていた。やさしい虹色のまるい笠をかぶって、煌々と輝いていた。:あぁ、ああいう色を「金色」というのだ。 うさぎさんも見えた。月の光に照らされて、東の空に連なった巨大な入道雲たちは驚くほど立体的で、まるで雪の山脈のようだった。 群青色の夜空にそびえた―平らな形の寮は、そのふもとに光を灯した小さな家のようだった。背伸びをしながら、Tarsha's family と友達の名前を心のなかでとなえた。:みんなもこの月を見ているかなぁ・・・寮の駐車場でぐるぐる走り回るターシャ。 ・・・・ゼェ、ゼェ・・・:明日が初日一番一番絶対に勝って来るからね毎度のことだけど、15日間、応援よろしくねよっしゃー!!まかせろ!!! 「絶対に勝つ」と信じて祈りましょう。 Halim と共に、私も私の道を。:ゆっくり急げ。
2008.09.14
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人がああだこうだと気にして、だから自分はこうでこうだとぼやいていたら、時間がもったいない。全部、自分で決まる。こんなに大事で、シンプルなこと。なんですぐに思い出さなかったんだろう。人生を劇にたとえれば、自分こそが、自分の人生という劇の「脚本家」であり、「主人公」なのである。神とか、偶然とかの、他の何ものかが、脚本を書いてくれるのではない。自分が書いて、自分が名優として演ずる。だれのせいでもない。全部、自分がつくるのである。:名優として演じるのか・・・悠々としていたい。空に両腕を広げた、大きな木のように。たとえちょっと不愉快なことがあっても。そうじゃなきゃ、そのたびに心にしわが寄って、自分も生活も狭苦しくなってしまうよ。イライラして、眉間にしわ寄せて、心の中でトグロを巻いて―他人の動きに、いちいち鎌首もたげてる。それでは、どこにいても不愉快だろう。自分の中に、神経質な蛇を飼っているんだから。心ひとつでもっと良く生きることもできるのに、それでは愚かなんだな。賢いとはどういうこと?うまく自分をコントロールして、他者との間に調和を生み出すこと。自分中心―つまり心を師としているかぎり、悩みは尽きない。そうではなく、心の師となって、自分の一念を、明るいほうへ、楽しくなるほうへと向け、周囲もその方向に向けていくことです。生き方には、人生の解釈には、2通りあるんだな。悲観的か、楽観的か。悪く考えるか、良く考えるか。たぶん、この2つのうちのいずれかに収束していくんだな。朗らかに生きたほうがいい。けれどそれは案外、難しかったりするのだと、最近は実感している。感情に振り回される自分に勝たないと、人に笑顔で接することもできない。そしてその不愉快な感情は、なかなか自分の思うようにならない強さを持っている。よく生きるには、努力がいるのだ。自分を律していく努力が。ただ従うだけの「惰性」でもなく、反発だけの「わがまま」でもない。釣り合いを取って、調和を図っていく。やりづらいなかで苦労してこそ、そのような聡明な考え方ができるようになっていく。たぶん、今の自分が経験していることも、これと同じなのかな。人間関係の葛藤を上から悠々と見下ろして、自分の大道を歩んでいきたい。楽しく。周囲に感謝しながら。:「聡明さ」とは、思うにまかせぬこの複雑な「生」と自分自身との関係に、価値を生み出していくための努力であり、創造的な知恵なのかな。春、種をまく。三日で育てといっても無理である。やはり、実りは秋を待つしかない。これが道理である。人生の秋は四十代、五十代、六十代である。四十代以降に、花が咲けばよい。実がなればよい。それまでは全部、修行である。全部、忍耐である。むしろ若いときこそ、苦労していく環境が必要なのである。:そうか・・・道理・・全部、修行・・・納得です。
2008.09.13
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:みんな、色々なものを抱えながら、生きているのだなあと・・・今、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を聴いている。外はもう真っ暗だ・・・犬の遠吠えもやんだ。Halim の戦いがあと少しで始まる。明日は Halim のために、もちろんほかの願いもいれて、できれば10時間、chanting をするつもり・・・(体力が続けば)今日、ターシャがお世話になっている先輩・・・そうですね、Mr. Butman としましょう・・・Mr. Butman からメールをいただいた。件名は、Perseverance brings success.いつもの「Tarsha姫」ではじまっていた。数行の短い激励文だった。有難かった。Mr. Butman に近況をお知らせする返信メールを送った。しばらくの間、前に進めなくて論文執筆から離れていたこと。でもやっと、前に進めそうなこと。人間は、心も体も知性も健康であることが大事だと分かったこと。毎日、キャンパス内をジョギングしていること。あと、あまり考えすぎないようにしていること。Halim の戦いがもうすぐ始まること。なんだか、この歌、宮沢賢治の「よだかの星」のモチーフに似ている部分があるな。・・・自分の幸せ願うこと わがままではないでしょ誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよみんなの願いは同時には叶わない・・・:エトセトラ・・・でも、なかなか詩的な歌詞だと思う・・はて・・・詩的って、なんだろう?「リンジュウ只今」というのは、誰のリンジュウなのかということを、一昨日、知った。衝撃的だった・・・「『リンジュウ只今にあり』というが、このリンジュウは、どなたのリンジュウかわかるかね。ホトケ様のリンジュウだよ。ホトケ様がいらっしゃらなくなったとしたら、どんなに心細いだろう。どんなにか悲しいことだろう。ホトケ様に今、お別れしなければならないのだと思って、シンジンすることだよ」。この言葉を漫然と聞いていた人は・・・先生が生きておられるうちに、ああすればよかった、もっと戦って喜んでいただきたかったと後悔したのです。一瞬、自分の未来像が脳裏に浮かんだ・・・気がした・・・:こ、後悔はしたくなーい!!!先日、papa が「祈りかた」を教えてくれた。それは、「結果だけを祈る」ことだった。自分がなりたい結果、ほしい結果だけを。理想だけを。そして「よろしく」でいいのだと。:なんと!この2段階だけでいいんですね? 当然、現実において、自分ができる努力をしていくことが大事だ。でも祈りに関しては、「方法論」をあれこれ祈るんじゃない。そうだよね・・・自分の小さな境涯じゃ、見えないこと、決められないこと、分からないこと「だらけ」だものね。自分自身も、未来も、方法も、決めつけちゃいけないんだね。なんてシンプルなんだ。でも私はシンプルが好きだ。分かりやすくて歓喜!である。・・・喜んでいただきたい。そういう人たちが、たくさんいる。
2008.09.12
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今日、久々にジープニーに乗ってデパートへ。今月末、フィリピンで大変お世話になった同窓の先輩 Ms.Library が帰国されるため、来週にでも、フィリピンにいらっしゃるご主人もご一緒に3人でお食事することになっている。そこで、Ms. Library への贈り物を買うのが、今回の目的だった。(ついでにいつもの野菜も)また日本の大学の博士課程に戻られる Ms. Library。フィリピンへはリサーチのため、休学されて来られていた。Ms.Library への贈り物は、フィリピンの淡水真珠がいっぱい飾られたブローチがいいかな、それとも、フィリピン特産のスカーフがいいかな、色々考えたけれど、しばらくの間は、まだフィリピンに残られるご主人と離れ離れの日々を送られる・・・ 久しぶりに戻られる忙しい日本の生活で、疲労を癒せるものを・・・と思い、BODY SHOP で「アロマ炊きセット」を購入した。アロマオイルには様々な種類があった。小瓶を手にとっては、犬のようにクンクンかぎまくり、最終的に、グリーンティー、ラベンダー、シトラスの3つのアロマオイルを選んだ。 どれもターシャが気に入ったもの。それに加えて、キャンドルとオイルを炊く素敵な陶器。:ターシャも欲しいかも・・・一学生が贈るギフトとしては決して安くはなかったけれど、値は関係ない。Ms. Library に対する感謝の気持ち・・・学問においても、ソシキにおいても、人間関係においても、どんなに助けられ、励まされ、心癒されたことか・・・そして、何度、胃も癒されたことか・・・時たまお会いすることがあると、レストランで食事やケーキやコーヒーをご馳走して下さった。また、何かの用事でターシャの生息する寮に寄られることがあると、手作りのおにぎりとインスタント味噌汁を持ってきて下さることもあった。そのおにぎりにはふりかけが混ぜてあって、中には日本の昆布や梅干が入っていた。本当に、本当においしかった・・・ :もしかして・・・食の記憶って、案外忘れないもの・・・?Ms. Library が行ってしまわれるのは本当に寂しい・・・ 「常識」がどんなに大切で、「常識」を持った人が、人間をどんなに安心させ癒すものかを教えて下さったのも、この先輩だった。Ms. Library との出会いに、心から感謝している。帰りはデパート内のスーパーで野菜を買った。玉ねぎ、キャベツ、人参、トマト、さやえんどう、それからインスタントコーヒー。あと、たった1つ、ちょっと贅沢を・・・外国食品の売り場で、韓国の「辛」というラーメンを買った。以前、友達がおいしいと言っていたもの。:なんか、食ばっか・・・?自分へのご褒美です。今日、論文についてやっと1つの道筋が見えたので。今晩の夕食は、この「辛」に野菜をたっぷりいれて食した。おいしぃぃ~!また買おう。(←即決):だって、食がおいしくないと、人生、悲惨だよね?きっとこう思うのは・・・ どんなに多忙でもお金がなくても、食に対して決して手抜きをしなかったmama、そして結婚後、子ども達のために料理を覚えた papa に育てられたおかげだ。2人とも、とっても料理が上手なのです。なんだか、今宵は「食」の話になってしまった・・・ えへへ。おいしい夕食を食べたからだろうか。
2008.09.11
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人はどこかで、意識するにせよしないにせよ、自分のしていることは正しいと信じて、行動する。そこで、自分と違う意見を持つ人と相対したときに、自分が自分自身に対して抱いている「正当性」が崩されそうになると、その途端、ものすごく不愉快になる。相手が「自分が正しい」と信じ込んで、「お前の考えは間違っている」とぐいぐい押してくるのが分かると、よけいそうだ。おまけに、自分の意見の正当化に、さりげなく、mentor の名前を差し込んでくる。こんな相手に接すると、「あなたのほうが間違っているのだ」と、なんとしても押し通したくなる。「対話」って難しい。自分の意思を通すだけなら、相手は存在しないものとして、自分との間の回路をシャットダウンしたり、あるいは無理に力に訴えたほうが、ずっと簡単なのだ。対話には、一致点を焦らぬ忍耐も、見晴らしの良い知性も、包容力も、必要だ。自分と相手の立ち位置を、よくよく知ることも。そして、意見は違っていても、相手の人格を否定しないことが、最低の生命線・・・こんなことをつくづく思ったのは、昨日、月に1度の大きな meeting の合間のランチタイムに、ある問題で先輩と議論したからだった。その先輩とターシャは1歳しか違わず、これまでもよく話してきた仲の良い先輩だった。そういう人を相手にしても、いざ意見が食い違うと、こんなに相手を受け入れがたくなるのかと感じたのだった。一つ嫌だったことは、ランチも済んで議論も済んで、みんなと会場に戻る道すがら、その先輩から、「Tarsha Curie はひどい女だと思ったよ」と言われたことだった。もちろん、その問題を先輩が知った時に、そう感じたということである。真剣に取り合う必要などないと言うように、先輩の口からさらりと流れた言葉。けれど一瞬、その場から浮き立っているような異様感を感じた。相手に対するとげを、「これまでの短くない付き合い」でくるみ込んでいる感じ。一種の違和感に気づきながらも、そのうわべに流されて、私も流した。外は晴れ渡って白い入道雲が青い空に浮かんでいたし、日は燦々と降り注いで、風もちょうど良くふいていた。道を渡ったときには、もうそんな言葉は忘れていた。けれど、はて、後からこの言葉だけ、記憶から浮かび上がってきた。:・・・・・・その時すかさず、「『私も、先輩は甘っちょろいなと思いましたよ』と切りかえしてやれば良かった」と、自分の機転のなさを悔しく思ったりもした。最後にポロッと出た言葉―結局、先輩は、私を、そして同じ意見を持つほかの先輩方を、断罪したままなのだ。自分より年上の先輩に対して、自分の思うところをいくら言えるとしても、まさか「あなたはひどい人間だ」とまでは言えないから、私にそう言うんだろう。「正しさ」に目隠しされて、「自分にも見えない部分はある」ということを、知らないんだ。その「正しさ」は絶対的な mentor の存在に裏打ちされているから、1ミリも動かすことができない。そういう姿勢が良くないのは―結局、先輩のようにやれない人、やらない人、違う意見を持っている人を「断罪」するからだ。でもその実、先輩自身が、一面からのみ人を決めつけ、切り捨てる「断罪」を非難していたのだった。文学の分析でよく見かけるロジックがここにある。―相手の論理を崩そうとして、無意識のうちに自分も同じ論理の中に組み込まれている、という。自分とは異質で多様な「他者」との<対話>―これが、ターシャの、今後最大のテーマになると思う。
2008.09.08
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スカイプによる Pagasa との英語練習も、明日で最後。暗記を必要とする語学学習を敬遠し、苦手意識を持っていたPagasa は、かなりの間、英語から離れていた。そんなPagasa が、自分の人生岐路にたって真剣な英語学習に取り組んだのは、ここ1,2ヶ月のこと。先日、papaが電話で、Pagasa にこう言ったそうだ。「自分の境涯で決め付けるな」と。:今、お前が断崖絶壁に立っているとするだろ。下には荒れ狂う川がゴーゴー流れている。お前は向こう岸に渡りたい。でも、橋は架かっていない。橋は探すな。橋を探すというのは、方法論だ。お前の境涯で橋を探しても、橋はないんだ。合格させて下さいと、ただそれだけ祈れ。・・・そうすれば、予想だにしなかった方法で、gohonzon-sama が橋を架けてくれる。そう信じて祈れ。:おぉ・・・ さすがpapa!papa はすごいと、改めて思った瞬間であった。:それでね、あともう一つ、「:Halim のように、根拠のない自信をもて」って。:・・・ hahaha! 確かに!そうだね、自信は大事だよ。そんなこと言いながら、過去に自分は、英検準1級の面接を受ける前に恐怖で泣いたこと、また、1級の面接を受けた後は撃沈して泣いたことを思い出した・・・ 高い目標に挑むとき、自信なんて、少しもなかったな。でも、だからこそ「根拠のない」自信と言うのかな。そんなとき、私の合言葉はいつも「当たって砕けろ」だった・・・(笑) なんてシンプルなんでしょ。精一杯やってきたのだから、それで砕けるなら、砕けてもいいという思いだった。そうやって自分を解放して、やっとすがすがしく、挑戦の壁に立ち向かっていくことができた。Pagasa は何度も、ため息をついていた。空をどんよりと覆う、重い、重い、雨をいっぱい含んだ雲のような。言葉にできないよね。だから、「祈る」という最後の手段をもてた私たちは、幸せなんだ。Pagasa が明日するべき英語トレーニングの内容と、明日スカイプ上で会う時間を決めて、&:See you tomorrow
2008.09.04
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昨日、弟の Halim からメールをもらった。その第一声は・・・:真面目過ぎで見てるこっちも疲れるよ。:・・・ なんと!ターシャのブログを読んでいたのね!?そうかねえ・・そうかもねえ・・私、ちょっと真面目過ぎなのかねえ・・・つまらなくて、暗くてごめんよ。:もう、あまり考えちゃダメだよ考えるんじゃない 感じるんだ本能で、心で、大空のごとく晴れやかに、楽観主義で、その目的、目標を感じ取れ:う、う~む・・・(感じ取ろうとしている):いいか フィリピンに骨を埋める覚悟を持っている我が姉よ。:あれ もう骨はう埋めないことにしたんだけど・・・言ったよね:ちみは現地の太陽なんだよ 太陽は明るく、情熱と元気による栄養をみんなに与えている存在なんだよ ちみは。 潰れたり腐っちゃダメだよ。:心配するない!腐っちゃいないわい! :俺もぶつかりけいこで頭の中が苦しいと思ってた時は本当に苦しかった。正直心が折れたよ。でもその反対に、苦しくない。楽勝、よしやってまた強くなるぞって思えば心に余裕が生まれるんだよ。少し落ち着いて視野を広くして。ゆっくりでいいよ。間違って進んでない。ゴールは絶対あるんだから……心に余裕で笑顔全開 Halimyakより:少し落ち着いて、視野を広げて、ゆっくり・・・間違ってない・・・ゴールは絶対ある・・・ そうだね・・・Halim の命令に従って、ゆっくり、ゆっくり、進んでみるね。なんだか、7歳も年下の Halim のほうが、私より年上みたいだ。Halimの一言、一言が、すとんと心の中に入ってくる。そんな言葉をつむげるようになったんだ、いつの間に。自分も大変な中にいるのに、他人のためにこうやって励ましを送れるようになって・・・・いつの間に、こんなに成長したんだね。すごいね。お姉ちゃんは嬉しいよ。お姉ちゃんなんて言って、ちっとも威張れる玉じゃないけどね。 Halim のほうがずっとずっと立派だよ。本当にありがとう。
2008.08.28
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卒業を来学期に延ばすことを決定したのは、21日。先週の木曜日の夜だった。20日(水)から異様に疲れて、ほとんど何もできなかった。前日、21日(木)の午前と午後。かろうじて、少しだけ論文をすすめた。その夜。卒業を延ばす話を切り出してくれたのは、papa だった。断固、それだけは避けようとして今まで取り組んできた私は、現状を冷静に見た上で、もうそれしかないのかもしれないと思ったとしても、とても、とても両親には言えなかった。papa, mama と頻繁にメールをやり取りして、その夜は更けていった。22日(金)。久々にデパートへ行って、野菜をたっぷり仕入れてきた。その日は休憩した。23日(土)。the ten-hour chanting をした。ひたすら祈った。心新たに出発するために。心は晴れやかだった。嬉しく充実に満ちていた。24日(日)。母校からきた1人の後輩からの電話で目を覚ました。またデング熱の症状を出した日本人留学生がいるとのこと。彼女はすでに用事があって外出中のため、彼を病院に連れて行ってもらえないか頼まれた。私は彼のことをまったく知らなかった。同じ寮にいながら会ったこともなかった。彼と仲の良い、誰か他の人にお願いできないか頼んだ。保険会社に電話して、キャッシュレスで治療してもらう手続きをとるよう話して、電話を切った。眠くてまた寝ようとした。私の直接の後輩ではないし―・・・10時間やって、これかよ、と思った。自分は、結局、自分のことで頭がいっぱいなんだ。変わっていやしない。空は、朝から灰色の雲に覆われていた。私の心の中も同じだった。くさくさしながら、ベッドから身を起こした。なんで翌日、またこんなことが起こるのか。こんな難しい葛藤が。もし、誰も病院に連れて行ってくれる人が見つからなかったら・・・ こうしている間に、部屋で1人、彼はベッドで横になって苦しんでいるに違いない。そこに思いが至る前に―頼まれた瞬間、寝起きの頭の中で、彼を病院に連れて行くためのあらゆる手間と時間を考えたこと。一度手を尽くすと、私以外に誰かいそうなものなのに、損な役ばかり、またこうやって頼まれるのだと皮肉に思ったこと。私がときおり後輩たちに流す連絡メールには返信をよこしたことのなかった彼女自身が、こういう時には真っ先に頼みにくるのだと、そんなことをふと思い、少し苦々しく感じたこと。一瞬でも、自分の中で「内」と「外」を分けて考えたこと。こんなことを一遍に思っていたのだ。一瞬の間に顕れた自分の命を見つめた。朝の祈りをそうそうに切り上げて、寮のロビーへ降りていった。病気の彼については、本名も分からなかったけれど、なんとかするつもりだった。しかし、ロビーにはすでに他の日本人の女の子がいて、彼を病院へ連れて行く用意をしていたので安心した。病人らしき男の子も、ロビーのソファーでぐったりして座っていた。しかし、保険会社に電話をかけても繋がらないとのことだった。やっぱり降りてきて良かった。私が連絡を引き受けたが、なかなかスムーズにいかず、何度も電話した。結局、1時間近くかかった。もう大丈夫と彼らを病院へ出発させ、自分の部屋に戻った。まだ眠く、疲労感を感じた。雨がしとしと降っていた。人のために動くということは、自分の身を削るような思いで行動することなんだなと、そのとき、初めて思った。午後、the ten-hour chanting は体力を消耗することを実感。その日やる予定だった計画は進まなかった。その夜、洗濯屋さんに服を預けた後、寮のロビーの一角にある図書室に寄った。そこには、過去の学生らが置いていった本が沢山、無造作に置いてある。そこから、いくつか文庫本を取り出した。なんだか、純粋に、ただ「楽しみ」のために、本を読みたかったのだ。インターネットでニュースを見るのも、とっくのとうに飽きてしまっていた。夏目漱石、安部公房、永井荷風、新田次郎、エドワード・サイード、川端康成、堀辰雄・・・その夜、埃で黒くなった本たちを拭いて、紙のカバーをかけた。25日(月)。論文指導教官の ma'am Serene にメールをし、翌日会う約束をした。論文執筆の新たなスケジュールを立てた。その後、昨日、図書室から引っ張りだしてきた、夏目漱石の『坊っちゃん』を手に取って読んだ。とても楽しめた。何事に対しても竹を割ったような、まっすぐな性格の主人公。彼はとても不器用で、その行動はがさつだ。けれども、釣りをしながら坊っちゃんが見上げる空の表現は、とても美しくて繊細だった。その本の最後にある「解説」は、文学研究ではすでに見慣れた理論を使って、作品の構造を説明していた。鮮やかだった。でも、やっぱり、何か足りなかった。chanting をしながら、これに足りないものは何だろうと、文学研究についてまた考えた。その夜、日本人の院生の友達と3人で韓国料理店へ行った。こうやって友達と、気分転換に良いレストランに食べに行くなんて、もう本当に久しぶりだった。2人とも、院生、そしてフィリピン大学ならではのストレスフルな生活を送っていた。うち1人は、退学まで思いつめるほど大変な渦中にいた。おおいに愚痴り合い、笑い合い、語り合った。
2008.08.26
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色々書きたいのだが:疲れてしまった。色々あった1週間だった。後輩の病状をデング熱と疑い、病院に連れて行ったこと。しかし予想とはまったく違う診断を下され、寮に帰る。その夜、彼女は薬を飲んだにもかかわらず高熱がひどくなったこと。翌朝、診断との相違に違和感を感じ、また彼女を病院へ連れていき、即入院となったこと。彼女をふたたび病院へ連れて行く前、自分の論文のことを思って、少し泣いたこと。自分の中のエゴイズム―こんなにも分かりやすく。ちっぽけな自分だと思ったこと。病院へ向かうタクシーの中、横に座っている後輩が目をつぶって辛そうにしている姿を見たとき、泣いてる時間があったら、1分でも早く連れて行ってあげるんだったと後悔したこと。その日、病院のベッドで眠る彼女のそばで、自分も同じデング熱で入院した5年前のことを思い出したこと。世話して下さった1人1人の方のこと・・・お見舞いに来てくれた友達、先輩・・・・あれから色々変わった・・・生老病死・・・出会いと別れ・・・入院はしたものの、医者から下される診断がコロコロ変わり、何かおかしいと感じたこと。「尿感染 → デング熱 → サルモネラ菌による腸チフス → やっぱりデング熱」保険でお金がおりるのが確実だから、退院を長引かそうとしているのではないかと、かなり医者を疑い、憤ったこと。そして、1週間後の退院。日本人メンバーのご夫婦に、本当にお世話になったこと。心から感謝にたえない。進路のこと。文学に対する自分のスタンスの変化。ずっと心配していた nono ちゃんの体調不良。待ちに待った彼女からの手紙。それに対する私の返事が届いたとのメールを受け取った。体調が落ち着いたとのこと。本当に本当に嬉しかった。昨夜初めて知った「筋ジストロフィー」という病気のこと。その大変な難病と戦う人の存在を知り、なんだか自分のしている、あらゆることが相対化されたこと。ルームメイトへのちょっとした怒りも吹っ飛んだこと。今日は Tarsha's mama の誕生日。昨夜、日付が変わる前にメールを送った。mama より返信。:あなたたちの母であることを誇りに思っています。:まぁ!Pagasa が昨夜、ついに30分内で300words以上の英文を書けるようになったこと。前のルームメイト Pretty ちゃんの誕生日パーティーが、ついさっきあったこと。彼女のためにプレゼントを買う時間がなかったので、私が1度も使っていないネックレスをあげたら、とっても喜んでくれたこと。ポットラックパーティー(それぞれが食べ物を持ち寄るパーティー)で参加者全員が韓国人の中、唯一の非韓国人だったターシャ・・・ 実は気まずかったこと。でも韓国語が飛び交う中、彼らの中にいるのもそんなに悪くないと気づいたこと。Pretty ちゃんのためにほんの短時間だけ顔を出し、彼女が作ったアイスクリームを「マシッタ」(韓国語で「おいしい」)を連呼しながらパクつき、論文が終わったら一緒に遊ぶことを約束して、Tarsha's space に退場。この1週間、papa と mama よりたくさんの励ましを受けたこと。本当にいつもいつもありがとうございます。すべてに対して・・・このような感じで時が過ぎた。その中、漱石の章を進めていった。現在は『こころ』再読中。やっぱり、漱石はすごいと感嘆・・・:おもしろい。 自分の文学に対するスタンスと目的が、「批評」から「創作」に変わったら、視点が変わった。こっちのほうが楽しく読める。もっと素直に読んで良かったんだ。ここに書いてあるのに、どうして気づかなかったんだろう。しかし、1時間~1時間半で集中力が切れる。:あれ?最近、左目の奥が、ズンと痛む。眼精疲労? 痛い。気をつけないと。:ちっともまとまっていなくてソーリーポ!
2008.08.19
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あまりにも、あまりにもルームメイトが部屋にいないので、そんな日々が、1、2週間どころじゃなく、もうかなり長く続いているので、彼女がシャワーを浴びるためだけ、あるいは、何か物を取りにくるためだけに部屋に戻ってくる時、それはほとんど、もう真夜中だったり(もうすでに私も後輩も寝ている時もしばしば)、時々、日中だったりするが、机に向かっている私は、首を90度、いや、110度右に回せば(ちょっと実際、窮屈な角度である)部屋に入ってくる彼女と挨拶も出来るけれど、挨拶もしたくない。まったく、mind my own business なんだが、そうなんだが、ほっとけばいいんだが、実際、外見はほっといているが、の背中:ターシャ全然気にしてないからーターシャ論文に集中してるからーまったくポーカーフェイスを装っているが、本当は、一体ちゃんと寝てるのか? 夜中の間中いつもどこにいるんだ? 今週末いつものように家に帰らなかったのに、お母さんになんて説明したんだ? あるいは、ちょっと最近、ユーのスペース、ちらかりすぎだよ。(いつもはもっと整然としてるのに)合わせた顔にいつもの自然な笑顔がないぜえ!本音は渦巻いているが、ポーカーフェイス。 それは、少々、蟲、じゃない、無視に近い。会話が少なくなると、お互いの間にだんだん隙間ができて、不自然な風が通るようになる。いやだな。いやだけど、こういう場合は難しい。「普通の日常」というのは、いとも脆いものだよ。生活における暗黙の規範は、私達を縛るような太い縄でもなければ、越えられない鉄壁でもない。それは細い糸。簡単に切れてしまう。ボーイフレンドはいらない。友達でいい。そう言っていたけれど、できてみたらこうだよ。この急変ぶりは激しすぎる。私は一体、誰。心配性の、寂しがりやの、おっせっかい婆か、無言で机に座ってる・・・。:複雑で哀しい像だな。あぁ、彼女は、私が内心どう思っているか、本当はこわがっているのかな。
2008.08.18
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さっき、嵐のような雨が降ったけれど、今は木々の葉っぱから滴り落ちる滴の音が聴こえるくらいに落ち着いた。庭で牛蛙が鳴いている。でも「モーモー」じゃない。なんだか変な鼻濁音だ。うまく擬音語に出来ない・・・ しばらく集中して聴いてみる。:フワァォ、ワァオォ、ワオン、ワォ・・・と言っていますね。しのつく雨の中、彼らの声が眠そうに響く。最近、新しいボーイフレンドができたルームメイトは、ほとんど部屋にいない。というか帰ってこない。あまりに部屋にいないので、ちょっと寂しい。もう一人の後輩も、今日はどこかに出かけている。最近、ご飯を食べる休憩時間に見るニュースには、北京五輪のアスリート達が沢山。彼らの一途な姿に励まされる。水泳でも、競歩でも、レスリングでも。「徹すること」なんてシンプル。そして、限りなく苦しい、自分自身との戦いだ。スポーツでも、勉強でも、語学でも、仕事でも、「徹する」ことが大事なんだと教えられる。徹しなければ、物事は分からない。身に着かない。中途半端で後悔するだけだ。一本の道に徹した時はじめて、自分を活かしていけるんだ。その道を通して人々のために。:人生、徹していこう。よし!!彼らの目には、「力」がある。まなざし一つにも、貫くような力が。自分の道に「徹する」人は、格好良いな。さわやかだな。余分なものは一切そぎ落とされている。私もそうありたい。人間、別に他人の目を気にして気取る必要もなく、流行を追って外見を変える必要もなく、自然体で、何かに向かって、真剣に一途に努力している姿、わき目もふらずに没頭している姿が、一番美しいのだと思う。その人には、その人しかなれないから。論文を書きながら、文学とは何か、文学研究はどうあるべきか、ずっと考え、悩んできた。今に始まった悩みではなかったけれど。でも、今日、思った。文学から、「楽しむこと」をとったら駄目なんだ。ここでいう楽しみとは、「心が動かされる」感動という意味だ。色々なアプローチを見てきたけれど、そう思う。文学から「楽しむこと」を取ったら、人間を離れてしまう。あるいは忘れてしまうのだ。人間を置いてきぼりにした文献が、最近のものには多い。それらが提出する論には、それなりに意義がある。けれど、薄っぺらくて仕方がないものも実は多い。よくぞこんなものを載せたものだと、その無責任さに驚き呆れ怒りを感じることもある。文学研究において、単なる解釈の生産と再生産が、連綿と続いている気がしないでもない。そもそも、この人たちは一体、何のためにやっているんだろう。学者、研究者が「多すぎる」気がしてきた。最終的には、文学研究は、私達が受けるこの「楽しみ」、「感動」とは何かを追求していくことに落ち着くのだと思う。きっと音楽や絵画だったら、そうだろう。文学も「文楽」という認識だったら、もっと早くそこに気づけただろうに。私はこれから、「文楽」の追求を根本に据えよう。こっちのほうが、変に肩肘張らなくてずっと良い。牛蛙はもう眠ったのかしら。・・・あ、まだ遠くで鳴いているよ。鈴虫も、リィリィリリ、透明な音色で鳴き出した。雨はまだ静かに降り続いている。
2008.08.16
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結局は、自分の研究において「軸」となる1人の作家がいなければ、本当に深い研究はできないのではないかということ。そして自分にはその1人がいないこと。そしてもうすでに、多くの作家たちが多くの研究者たちによって論じられていること。私は結局、1人の読者であり、評論や研究を行うには、あまりに底が浅すぎること。日本文学を論じようとしながら、その背景がすっぽり抜け落ちており、自分の手が届く貧弱な情報で補うには、あまりに無理があること。そして、特定の1人の作家に打ち込めない私は、普通の生活人として、これから本当に良い文学作品だけを楽しめればいいこと。必要性はどこにある? 今まで板挟みだった。「古い」方法と「新しい」方法の。日本では前者。フィリピンでは後者。しかし「古さ」を否定する「新しさ」に限界を感じてもきた。一方で、「古い」あり方には変わらず、息詰まりを覚える。それでも、新しさには欠けがちな、作家と作品に対する「誠実さ」がある。文学研究がこれからどうあるべきか。私はまだよく分からない。「文学」というカテゴリーが相対化されている今。しかし、その研究方法が古いものであれ、新しいものであれ、「文学」を研究しようとするならば、やはり、足場となる1人の作家が必要なのだということを、痛烈に思い知った―改めて江藤淳の漱石研究を読み直して。作家が生きた「時代」とその生涯をよくよく、底の底まで知らなければ、本当の意味で、現実の生活に生きる「私達」に還元される読み・研究は展開できないのだということを。流行している現代思想や現代理論を応用する読みに永遠性はない。普遍性もない。江藤淳の漱石研究は違っていた。そして彼の研究をそうならしめているものは、何よりも、漱石に対する深い尊敬と愛情だった。普通の読書に終わるなら、作家に対する徹底的な知識と思い入れは必要ないだろう。でも、研究であれば違う。違うのだということを思い知った。作家を、特定の時代に生きた、血の通った一人の人間として、立体的に現前に蘇らすことができなければ、作品研究においても、致命的な何かが欠ける。文学理論では、すでに作家の、作品に対する権威は失墜している。そこから、作家を無視して作品のみを見ていこうとする方法論もある。でも作家は無視できない。作品を、そして人間を理解するということに誠実であろうとするならば。そして、研究の対象が「文学」であり、何より人々に「読まれる」ことを前提とする芸術ならば―どんなに新しい読みが展開できたとしても、それが、ほんの一握りの専門家の間でしか受け入れられず、その他大勢の、一般の読書人には理解されない「読み」、活かされない「貢献」であるならば、不毛だ。「文学」研究が生み出す結果に、人々の「共感」が伴わないのであれば、一体、その存在理由は何なのだろう。作品と作家と読者は、相互関係にあるのだから。方向転換しよう。この修士を終えたら。絶望じゃない。
2008.08.14
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「紅の豚」にあるジーナの歌は、「さくらんぼの実る頃」(Le temps des cerises)というフランスの歌だった。加藤登紀子さんがフランス語で歌っている。本当に美しい。心慰められる。すごいなあ・・・真夜中。庭で、トゥリリリリ、虫が鳴いている。病院から帰るタクシーの窓から見上げた夕暮れの空は、いつも寮から見える色と違っていた。林立する高層ビルの、雑然とした大きな都会の、そのさらに向こう側に―激しく行き交うジープとバスと乗用車と、その間をうごめく人々の群れの、その上に―包み込むような空があった。なんともいえぬ、透き通ったブルー。朱にも紫にもなりそうな、優しいブルー。タクシーの小さな窓から見える限り、空を求めた。昨夜は、研究に関して新たな失望と怒りを覚え、随分疲れてしまった。研究者には、知性とともに、正義感が必要なのだと思った。そして、きっと何より、正義とは何かを知ることが。そして、それを知ったら、それを守る勇気を持つことが。さあ、明日も頑張ろう。おやすみぽ。
2008.08.12
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心配していた後輩の症状は、病院で尿検査と血液検査をした結果、デング熱ではないことが明らかになった。デング熱になると、血小板の数が「異常に」下がるのだ。でも、彼女の血小板の数値はノーマルだった。良かったぁ。しかし何らかの菌に感染していることが分かり、これから数日、薬を飲むことに。交通渋滞に見舞われ、寮に着いたのは7時前だった。先ほど彼女の部屋に「熱冷まシート」を届けに行ったら、ベッドに横たわっていた彼女が手で目をぬぐっているのが見えた。目の周りはぬれて、少し赤くなっていた。:泣いてるの?:・・・頭がすごくずきずきして・・・さっき計ったら39度だった・・・:えぇっ!!(大丈夫か?本当にデングじゃないのか?)・・・でも夜になると、熱ってあがるものなんだ。:そうなんだ・・・さっきお薬飲んだばかりだから・・・20分くらい前に。:ああ、じゃ、まだ飲んだばかりだね。ご飯は?:さっきバナナ食べた・・・:そっか・・・じゃ、もうちょっと様子見てみようね。また後でくるね。彼女の部屋は、私の部屋のように3人各々の間の仕切りが何もなく、だだっ広かった。彼女のルームメイトは、DVDを観ていた。私が1時に彼女を部屋に迎えに行ったときも観てたぞ? 難しいんだよね。ルームメイトの間の距離感。特に、相手が世話を必要とする場合。それぞれの生活があるから、つきっきりで看てもらうなんていう甘えや頼りは「ない」。また、相手に迷惑になることを気にして、かえって言えないことも多い。でも、一言でも、声をかけてあげたのかな? それだけで、「気にかけてくれている」ということが分かるだけで、全然、違うのだ。そしてそれを示すのは、なるだけ早いほうがいい。でないと、1人黙って横たわっている相手の沈んだ心に、孤独感が堆積していく。私の場合、「怨み」もだったな・・・相手が友人だったから。気づいてくれないことに対して・・・私が交換留学時代にデング熱で倒れたとき、多くの方々にお世話になった。たくさんの真心と思いやりをいただいた。今、その小さな恩返し。
2008.08.12
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母校の後輩が、デング熱にかかったかもしれない。お昼時、起きたときから熱があり頭痛がするといった彼女の症状を聞くと、ターシャが交換留学時代、フィリピンにきて1ヶ月でかかり入院したデング熱の症状と符合している。関節が痛い、目を動かすと痛い・・・本当にデングか、まだ確定していないけれど、これからタクシーで病院に連れていく。ターシャが入院した病院へ。漱石の文献、読み終わっていないものはすべて午前中で終わらせて良かった。それに私もなんだか頭が飽和状態でだるいから、ちょっと机から離れよう。あぁ、後輩の健康と無事故を祈っていたけれど、出ちゃったな、一番来てほしくないものが。とにかくてきぱきと。
2008.08.12
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最近、ジブリの映画を観たくなるのだけれど、そんな時間ないので、youtube でジブリの音楽を聴いて、雰囲気に浸ってます。なぜか、「紅の豚」に出てくるジーナの歌が聴きたいターシャ。あるのかな? ・・・・・ありました。 "Porco Rosso."What would lift the spell on you? ―どうやったらあなたにかけられた魔法が解けるのかしらね・・・素敵な声です。今聴いているのは、魔女の宅急便「ルージュの伝言」。:これ、よく聴いたら、浮気した彼のママに会いに行って、ママに彼を叱ってもらうという歌詞なんですね・・・これ、万が一ターシャの場合だったら、そんなまわりクドイことしないな。女性にそんな哀しい気を利かせる時点で、もうアウトだろ。 でも、ママの存在はやっぱり大きいのですねえ。 現在、夏目漱石の『こころ』に入っています。漱石とその作品に対して否定的な、韓国人研究者の論文を読んだところ。最初に目を通したときは、「おぉ、すごい!」と思ったのだが、丁寧に読んでいくと若干、論展開にいい加減なところがあり、「むむむっ・・・」と思うところも少なからずあった。答えはすでに決まっているのだ。理論で整備されたレールの上を通れば、そこに行き着くのだ。でもその途中で踏みにじられたり、視野に入れられていない土地がある。そこに気づくと、作家と作品がひどくかわいそうになる。「帝国主義批判」を目的とする論文。それはそれなりに面白いし、刺激的だ。大事なことだと思う。でも、ターシャが思うに、そこには2つの限界がある。1つは、「批判」で終わっていること。彼らが指摘した、作品にひそむ帝国主義や、政治的共犯関係。それらをいかに乗り越えるか、どうしたら乗り越えられるのかという次の展望までは、開けていない。2つ目に、大体どれも同じアプローチになり、出る結論も似てくる。そこからの発展が出にくい。そして類似した方法による論文が続くと、内心、「またか・・・」と辟易する。漱石は、「批評は未来の創作のためにある」といった。今まで地盤の下に隠れて見えなかった岩をあえて露出させたのなら、その岩をどう処理したらいいのかまで見せないと、むき出しの岩が地表にあげられるばかりで、次の具体的な創造にはつながらない。:はあ・・・今日は本当に暑かった・・・そうめんのスープにカレー粉を使い、トマトを入れて食しました。「トマトカレーそうめん」? おいしかった
2008.08.10
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さっきから、鼻をすする音が聞こえる。ルームメイトの後輩が泣いているのだ。仕切りで区切られていて見えないけれど、分かる。こういう時は、どうしたらいいのか。私も一人、泣くときがある。でも、そういう場合、誰にも見られたくない。部屋に誰かいるときは、壁に向かった机から席を立たない。顔が見えないように。鼻もあまりかむと悟られるので、最小限に抑える。彼女は昨日、ターシャに悩みを打ち明けてくれたのだった。人間関係だった。外国にいるのに、日本人同士の。気持ちはよく理解できた。日本人の変な特性。何かあればみんなで集まることが、暗黙の了解のようになり、そこから1人離れることに対しては気兼ねし、不安を覚えるのだ。でも、その輪の中にいるのは正直きつい。苦手なタイプもいる。しかし、そこにいない間、周りが自分のことをどう思っているのか気になって仕方がない。そして、彼女の親友がその輪の中心にいた。自分とは対極にあるタイプ。これまで自分の知らなかった彼女がどんどん見えてくる。自分以外の人間とも、こんなに仲良くできたんだ・・・ 嫉妬。内向的な自分に対して、誰とでも仲良くできる社交的な彼女に対する羨望。尊敬。ついつい比較して感じる劣等感。人間はみんな変化する。だから辛いけれど、自分の知っている姿のみに固執する心は乗り越えなければいけない。変化が怖いと彼女は答えた。彼女だけ、自分のところにいればいい。結局、同じところをぐるぐる回る。これまでも似たようなことを経験してきた。それを避けてきたから、今こうしてまた来ているんだ。そう彼女は言った。きっと、根っこは、寂しいんだ。大事な親友が、自分の知っている親友が、自分のもとから去ってしまうのが。自分のものでなくなるのが。そして独りになってしまうのが。そして、2人でいたときには感じなかった、周囲の見えない圧力が怖いんだ。親友が離れるということは、本当に、ものすごく辛いことだ。分かる。寂しいだけでなく、相手の変化に憤りもする。でも、その寂しさと怒りは、結局のところ、自分が乗り越えるしかない。自分のために。相手のために。私が最後に言えたのは、相手のために祈ることだった。最初はつらくても。少しずつでいいから。そうすれば、自分が変わってくるからと。そして相手が必要なときには、すぐに手を貸してあげられるようになるからと。えぇ、と彼女は言った。本当ですか。難しいぃぃ・・・ そうだ、自分に苦しみを与えた相手のために祈るのは、きつい。無声で chant している彼女の後姿が見える。もうちょっと様子を見たら、声をかけてみよう・・・軽~く。BGM: カントリーロード一人ぼっち おそれずに 生きようと 夢みてた寂しさ 押し込めて 強い自分を 守っていこう寂しさを乗り越えるまでは、その寂しさを心に運んでいかなければいけないんだよね。
2008.08.08
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今日、久しぶりに Tarsha's space を出た。mama の健康保険証の更新に、ターシャの在学証明書が必要となるため、意を決して()、およそ2ヶ月も行っていない文学部棟へ。聞いたところ、3日で出してもらえるそうだ。ラッキー!その後、今晩の夕飯と若干の買い物のため、キャンパス内のショッピングセンターへ。その中に入っている果物屋さんの前を通ると、まるまる太ったマンゴーたちが並べてあった!!:・・・・そういえば、今は雨季。マンゴーたちの季節なのです。実は、フルーツに満ち満ちた南国にいるのに、ターシャはほとんど食べない。でも、マンゴーたちに魅せられて、思わず果物屋さんの中へ。:Magkano po? :100 per kilo. むむむ、ちと高い。本当は3つ買おうかと思ったけれど、それだと1キロに届きそうなので、2つに抑えた。:マンゴー買ったの久しぶり!いつもの買い物が、ちょっとだけ豊かになった気がした・・・日本のスーパーで見るマンゴーはたいてい、海を越えた長旅のためか、老いて新鮮味に欠けていますよね? しかも小さい。フィリピンで逞しい巨大マンゴーに見慣れたターシャの目には、:貧弱、ひんじゃくぅ! (←誰?)こんな大きさなのです。手のひらからあふれんばかりの大きさと重量。:プラスチックのお皿が、重みで沈むほど・・・(←うそ) :この巨大マンゴーを、もう家族への御土産に持って帰ることはできない。見つかったら空港で没収でしょう。残念である・・・以前ブログで少しお話した、4匹のかわいい子猫たち。この4匹のベイビーたちが、見事に重なりあって眠っている写真。マンゴーと一緒に紹介しましょう。:くぅっ・・・かわいすぎるどことなく、われ等が4人兄弟を思い出してしまう・・・部屋のドアを開けた瞬間、小さな彼らが一斉に部屋の中に駆け込んでくる姿は、なんとも可愛らしく、そして「どうしようもない」。(笑) エサで外におびき出すしか術なし。Pagasa とは昨夜から、英語でメール交換している。彼女の英語力アップの手助けのため。:がんばれ、Pagasa! Halim は競技の世界で―Talino は美と癒しの世界で―Pagasa は化学の世界で―Tarsha は文学の世界で―毎日祈っている。各々の世界で、偉大な目的に貢献する capable person に。はかない価値への妄執と、人を傷つける暴力が横行する世界だからこそ、人の心を洗う、美しい価値を生み出していける人に。
2008.08.06
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今夜、やっと、藤村の章を脱稿。『破戒』―本当に難しかった。原稿自体はまだ、ところどころ冗長な部分があるため、更なる推敲が必要ですが。ターシャ、原稿は最初、「紙」の上で、ペンで書くのです。過去に幾度かコンピューター上でやってみたのですが、思考のスピードが「数段」落ちることに気づきました。でも、紙とペンだと落ち着き、思考も進むのです。その「汚い」下書きをもとに、今度はコンピューター上に文章をタイプ。タイプしながらもまた考える。そんなこんなで、2日も費やしたぞ?!ちなみに、原稿は最初、日本語で書きます。英語だと、徹底して考えられないのです。だから、これから翻訳。:長い、長いよ、この道・・・文学の新しい面白さを引き出せますように。そして人間の心についての、より深い理解を。今、Yo-Yo Ma さんの音楽を聴いている。彼のことは以前、テレビ番組で観たことがあったのだが、本当に素晴らしい音楽家だ。来世は音楽家になりたいなあと独り言ちるターシャでした。
2008.08.05
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自己中といわれようが、頑固といわれようが、確かにそうだ、相手に合わせられない私は。この数年来、良い時も悪い時もずっとそばにいた1人の人をケアできずに、君はこれから大勢の人をケアしようとするんだ?でも、もう仕方がない。傷つけてしまったこと。自分のずるさ。友達だったら、長い間離れていても、思いやることこそすれ相手を責めることはない。相手の負担になる期待はしないから。でも、友達以上になると、人一倍のケアを求め、求められる。相手が自分に対してそうだと、そしてそれに自分が返してあげられないと、そしてそれが長期間続けば、もう駄目だ。よけいな情けと甘えのために、これ以上傷つけてしまうなら、すっかり切ったほうがいい。やっぱり寂しさと悲しさは否定できないけれど。1つのことに集中すると、他のことを禁欲的に絶ってしまうのが自分のスタイルで、たぶんそれが致命的。積極的な係わり合いを必要とする関係においては。それでも、工夫すればどうにかなるんだろう。でも工夫するほどの魅力と面白さを相手に感じなくなってしまったのも致命的。こう言い放つ私は本当に酷い。ごめん。「好き」という気持ちは、実はまだ「浅い」。それが深まらなければ、いつか消える。相手は、私の目指す目標を自分なりに応援してきたという。振り返ってみればそうだ。私が必要な部分を、これまで本当に助けてきてもらった。そこを忘れたら、私はとんでもない恩知らずになってしまう。けれど、きっと、ずっと一緒に歩んでいくには、相手も己の目標に向かって邁進していないと駄目みたいだ。そしてその目標を私自身が尊敬できないと駄目なんだ。そういうふうにして相手も同じように忙しくないと駄目なんだ、私には。どこまでも自分のプライオリティーは学びだった。だから結局、都合の良い時しか時間を割けなかった。それが相手の気持ちを利用することになってしまった。どんなにそれまでの過去を有難く思っても、それまでの沢山の優しさと助けに感謝しても、これ以上何を言っても相手にはもう、ノーのための言い訳にしか聞こえないし実際にそうだから、もう今は何も言わず、自分のこれまでの不誠実さを認めて、感謝と有難さは心にそのまま―それがもうまっすぐ伝わらないことは悲しいけれど、将来の大きな貢献のために、今はこの自己中な道を頑固に進む。存在が残した空白はどうしたって寂しいけれど。進む。
2008.08.02
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:気分転換で、今夜の日記は長いです。先週末(何曜日か忘れてしまった)の夕方、突然、2年ほど前に同じ寮に住んでいたトルコ人の友人が訪ねてきた。ネブネブとしよう。とにかく、平和を愛し、友を愛し、学ぶことを愛する素晴らしい友人で、彼自身はイスラム教徒だが、Buddhism にも強い興味関心を抱いていた。それで話すことも多かった。彼はフィリピン留学を終えた後、アメリカの大学院の博士課程で平和学・紛争学を研究していることは知っていたが、それ以後は何も聞いていなかった。突然の訪問に、驚きと喜びの再会。寮のベンチでしばし話す。ネブネブは、博士課程のプロジェクトの1つで、フィリピンをはじめ、あちこちの国を数日単位で訪問しているそうだ。「超」「超」強行スケジュールである。ほとんど部屋から出ない私は「カタツムリ」か?というほど、あちこちの国に行っている。:もう、ものすごく忙しいんだ。でも僕はこの生活が好きだよ。夕日の光が彼の眼に差し込んだ。あぁ、へーゼルってこういう色なんだな。透明なうすいグリーンに茶色が混ざっている。彼の瞳は本当に美しかった。知性と優しさが宿っていた。:ネブネブの研究テーマは何なの?:「多文化間・多宗教間の対話」だよ。・・・たいていの人は、キリスト教とイスラム教にのみ注目しているけれど、僕はそれに、仏教とヒンズー教を加えたいと思っている。:それは素晴らしいことだよ!今思えば、ネブネブが考える「平和」の定義とは何なのか、聞いておけば良かったのにと思う。でもとにかく、尊敬する懐かしい友人に会えたこと自体が嬉しくて、研究内容よりも、お互いの近況を報告し合っていた。ネブネブは言った。:これまで本当にたくさんの国に行ったよ。でも、不思議なんだ。僕が恋しくなるのはフィリピンなんだよ。・・・きっとその理由は、ここで素晴らしい友達に会えたこと、そしてあの女性に会えたからだよ。かの女性とは、ターシャの友人。そして彼が深く愛した女性だった・・・:まだ彼女のことを好きなの?ターシャも短刀直入に聞いてしまった。彼は宙に何かを見出そうとするような眼差しをしながら、神妙な声で答えた。:・・・忘れるのに、1,2年かかった。本当に時間がかかったよ。あれが僕にとっての初恋だったからね。:えぇ・・は、初恋って、普通、もっと早い時期じゃないっけ?:ボーイフレンドやガールフレンド程度のレベルだったらね。でも、本当にシリアスな、深い恋ってことだよ。それはあれが初めてだったんだ・・・ もちろん、傷つきもした。今はもう大丈夫だけどね。僕がどんなに相手を思い、何か運命的なものを感じても、相手が何も感じていないのであれば、仕方がない。それだけのことさ。それでいいんだ。それでも僕は彼女の幸福を祈っている。・・・あの恋は、僕を成長させてくれたよ。両手を広げながら、ネブネブは笑って言った。そうやって自然に笑えるようになるまで、長い間、切ない心の痛みと哀しみに耐えたんだね。ターシャ、なんて受け答えしたんだっけ? なんかベタなことしか言ってなかった気がする。(汗) これって、圧倒的な経験の深さの差なんだろうか・・?ネブネブは口元で、祈るように手を組んだ。でもね、あの経験を通して僕は分かったよ。愛は美しいんだ、とても。本当にその人を愛したら、何があっても、その人に傷ついてほしくないと思うんだ。だから、言葉1つにも、振る舞い1つにも心を配る。それって、美しいことだと思わないかい?私は彼の言葉を、とても美しいと思った。そして、そう思う彼の心が。きっとそれが、「平和」の原点なんだろう。そういう愛だったら、ターシャの心にもあると思いたい。家族、友達、尊敬する先生方・・・ 相手の幸福を祈る「愛」を、生活のあらゆるところに浸透させていくのが、平和の戦いなんだろう。1時間後、パシャパシャ2人で写真を撮って寮の外へ。ちなみに彼のカメラはニコン、ノートパソコンはトウシバ、あとなんだっけ? 他の電子器具もすべて日本のメーカーだった。:僕、日本が大好きなんだよ。彼が知っている友人は、もうここに私しかいなかった。うっ・・・(汗) あえて言い訳をすれば、彼の友人はほとんどが交換留学生か、学部の3、4年生、もしくはもうすぐ卒業の院生ばかりだったのです。翌日はマレーシアに旅立つというネブネブだった。彼の名前を、ターシャのご祈念帳に新たに書き込んだ。 これからまた、信じがたいほど沢山の国に行く彼の健康と安全無事故、研究の成功と幸福を祈るため。
2008.07.31
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提出書類の関係で、久々に家に電話した。mama, papaと話した。2人の声を聞きながら、論文の進みが遅いことに思いをはせると、ちょっと泣きそうになった。10分ほど経過したところで、まだ papa が話している最中、ぷつっ・・・ツーツー携帯に最近入れた金額分、全部切れてしまった。:泣。もっと話したかった。帰国中、我が家で何時間でもテーブルを囲んで話していたことを、ふと思い出した。あぁ、早くそんなことが出来るようになりたい。でも、また元気が出た。こんなことを考えた。「建設」とは、「価値」を生み出していく戦い。そんな大事なものが、簡単に生み出せるわけ、ないだろう? 1枚の絵も、1冊の文学作品も、1本の論文も、1つの曲も、それが美しくあり、人を喜ばせ、良き影響を与えるためには表面に顕れた姿のその下に、どれだけの労苦と試行錯誤と時間が堆積している。文化とは何か。ひと括りに言うことなど、とても出来ない。でも今、ふと思うのは・・・それは、人間向上の戦いの証なのかもしれない。自分自身も、他の人々も、向上させていく精神的苦闘。それが自らを捧げた価値ゆえに、そしてその心ゆえに、その戦いの営みも証も、尊く美しいのだと思う。mentor の言葉が胸に響く。目に見えない「心」が、目に見える「姿」となって現れる。それが人生である。:頑張ろう。
2008.07.30
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:本日、1,000,000 times daimoku 達成!今年1月1日から始めた100万遍を今夜達成した。今年が終わるまで、あと5ヶ月。また新たな100万遍に挑戦する。こうやってあげられることに、「有難うございます」という感謝の気持ちです。つい先ほど、やっと藤村の章全体の内容が決定した!明日はこの下書きをもとに、実際の文章に起こしていく。この2ヶ月。当初の予定では、200ページ強の第一原稿「完成」のはずが・・・自分のアプローチの徹底と最初の藤村で終わった。:うっ・・・『破戒』の主人公・丑松のように、「自分はどう生きるべきか」―共に模索した2ヶ月間だった。不思議にも、丑松の悩みが私の生と重なっていた。人も作品も、自分の境涯で決めつけたらいけないんだな。でもそんな先行研究が、どんなに多かったことだろう。一部分しか見ないで。作家と作品は、あらゆる批評の前に何の言い訳も説明もできない。ある意味、ものすごく無力だ。じっと押し黙っている。「読んで」と頼みもしない。だからこそ、研究者の責任は重大なんだ。そこから何を汲み取り、どう評価するかは、どこまでも、読む側の境涯によるのだから。日本文学研究の実態をかいま見た2ヶ月間でもあった。言葉遣いのいい加減さ、曖昧さが目立った。一番、言葉に対して敏感でなければいけないのに。言葉に対するケアを取ったら何が残るんだろう、文学研究に。最近、実感したこと。"Mentor and Disciple" を離れた人生は浅いのだなと実感した。たとえ同じ所を出ていても、そこを忘れてしまった生き方は怖ろしく浅く、話す内容は恥ずかしいほど稚拙で、残念に思う・・・
2008.07.28
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ターシャにとって、Pagasa とのメールのやり取りは楽しみの一つである。勉強に飽きたり疲れたりすると、よく Pagasa にメールする。あと papa. papa には、実家の家族を代表して送っているのもある。mama, Talino は仕事の疲労で、返信メールを打つのも大変なことが多いので。今日、Pagasa からのメールが届いていた。:にゃ!ありがとうねえ。また後で、ゆっくり返信しまする。つい最近、ターシャが心から尊敬し、大変お世話になっているフィリピンの先輩に、thesis の内容をメールでお伝えしたところ、以下のように激励のお言葉をいただいた。本当に、勇気のあることです。僕にはわかります。しょう法・ぞう法時代には Mystic Law のために命を捨てた人が Buddha になりました。まっ法においては、名聞名利を捨てて mentor を護り、宣揚する人が Buddha になります。堂々と自信を持ってやってください。そして、ジャングルで戦う Halim へも励ましのお言葉を下さった。・・・つらいことは、これからも多々あることでしょう。The grand champion になるまでは、忍辱の鎧を着ることです。 「濁劫悪世の中には多く諸々の恐怖あらん、悪鬼その身に入りて我を罵詈毀辱せん。我等仏を敬信して当に忍辱の鎧を着るべし」:この一文、ものすごい迫力と覚悟をもって心に迫ってくる。「忍辱の鎧」・・・きっと、なんでもそうなんだ。この先輩は、実はいつも私のことを、「ターシャ姫」と呼ばれる。「僕は従者ですから、何でも言いつけてください。すっとんで行きますから」と。私より一回り以上も年齢が上の先輩が・・・ そのことを mama に話したとき、mama は涙を流した。「ほんとうに、なんて有難いんだろうね。お前は、ほっ・・・んとうに、良い先輩に恵まれたね・・・」と言いながら。ちなみに、相手が姫だからといって「イエスマン」になるのではない。必要なことはきちっと仰って下さる。たとえそれが厳しく聞こえたとしても。それが本当に有難い。本当に慈悲がなければ、厳しくできないんだ。相手に嫌われることが怖いから。何かあれば、私はいつもこの先輩に相談する。小さなことでも、分からないことや疑問があれば、自己解決のふりをせず、聞くことにしている。心から尊敬し信頼できる先輩を持てて、本当に幸せだ。そのはっきりした物言いのためか、強い反骨精神のためか、詳しい事情は分からない―先輩は、ここの中心部からは「敵視」されている。徹し抜いた人は本質を言う、先輩のように。本当に貢献している人が誰なのか。タイトルなんかじゃ絶対にない。いつか大恩ある先輩を、今はまだ小さなお子さん達を、護れるように。:For what purpose should one cultivate wisdom? May you always ask yourself this question!
2008.07.25
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:む。。。ちょっとでも進め。人材に成長したい。My mentor のお心に応じられる自分に。5年後・・・10年後・・・15年後・・・そのためには、進むこと。今。この一歩を、丁寧に。そして「無駄」なく。焦る? 若干。 不安? 立ち止まったら。自己嫌悪? 振り返ったら。でも思い悩む時間があったら、どうすれば進めるかを考える。この卵を孵化させるのは、思った以上に困難です。でも、その姿が現われたら、きっと、どんなに嬉しいだろう。美しいだろう。そこにたどり着くための道程を、今、開拓している途中。あっち掘ったり、こっち見てみたり・・・ 誰にでも分かりやすいように。:よし!眠気覚めた!
2008.07.24
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ルームメイトは2人とも、それぞれ出かけたきり、まだ部屋に戻ってきていない。部屋に一人。鈴虫の音が、真っ暗な夜の底にひときわ響く。今日は本当に、随分よく聴こえる。トゥルトゥル、トゥリトゥリ、リリリリ・・・時々、猫の鳴き声が混じる。涼しい空気が窓から入ってくる。平和な夜。ここ数日、ずっと纏まらなかったことが、ようやく一筋の流れになった。やっと一つ。ウェン先生は、4月のディフェンスの折、私に色々と質問される先生を遮り、こう言われた。:僕たちは、彼女の言うことすべてに対して賛同する必要はない。しかし日本では、偏見のある学者は後ろの引用文献を見ただけで打ち捨てて、中身さえ読もうとしないだろう。だから僕は、なんで彼女がここでこういう内容に取り組むのかよく理解できる。日本ではこういう内容を扱うのは非常に困難なんだ。僕たちは receptive だが、日本の一部の学者はそうではない。だからこそ、彼女のやろうとしていることは、これまで日本の研究者が取り組まなかったために私たちが見ることを許されなかった新しい側面を見せてくれる。これはいわば、日本の既成のアカデミズムへの挑戦であり、文学の新しい面白さを浮かび上がらせる aesthetics だ。私は、本当はずっと怖がっていた。第1章を書いている間中、恐怖のために縮こまって、立ち止まることがしばしばだった。だから私の論文を見て下さる、何も知らぬ先生方に対して「よけいなこと」は言わなかった。でも東大に留学されたウェン先生だけは、すでにご存知だった。私がやろうとしていることが、きっと日本の一部(ほとんど?)の学者には偏見と共に黙殺されるような内容であることも。それを知っての上でそのように言って下さった。本当に、驚いた。私が隠していたことをそのものずばり言われ、しかもそこに大きな意義を見出して下さった。心からの感動と感謝を抱いた。ターシャのことを勇敢だとも仰っていた。私が思うに、無知な人間の強みはただ一つ。事情をよく知らぬがために思いっきりがいいこと。(苦笑) 私は「勇敢」ではなくて、「無謀」なだけだ。新しいアプローチを試みるというのは、本当に、大変なことだ。実際にやってみて痛感する。未だ修士のレベルで、まだ足りないことだらけの力不足なのに。今の状態では、本当は時間も足りない。新しいことは、一通りすべてのアプローチをマスターした上でやる、というのが常識なんだもの。でも、そういう流れになったんだ。最初はやろうとしていなかったのに。・・・それを求めている人がここにいる。私をいつも本当に助けて下さった ma'am Artemis もその1人だ。それを伝えられるのは、今この場所に、私しかいない。だからやる。それでいい。UPはフィリピンのトップの大学だ。そこの先生方が喜んで下さるような内容の論文、そして求めているものに応えられるような内容の論文が書ければいい。それが、今の私がフィリピンに対してできる、最高の恩返しだ。
2008.07.21
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:負けるのも自分!勝つのも自分!「環境」や「困難」や「現状」が、私に代わって私の人生を生きるんじゃない。それらはそこにあるだけなんだ。そこを乗り越えるか、恐れて逡巡するか、駄目だったと言い訳するか、いずれにせよ、そのように生きた結果を受けるのは、自分だ。だったら、「可能性」を恐れることはない。柔軟な心をもって、私の道を進むだけ。:一歩一歩。こつこつと。あぁ、それなんだな。地味な道が真の王道。そして真に自分を開いていく道。疲れた時に立ち止まって確かめるのは・・・自分のしていることは、何のためか。その目的のために、それはいかなる意義を持つのか。過去と今、自分を支えてくれた人々の存在。自分がお応えすべき my mentor の存在。
2008.07.20
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:ルームメイトが寝ている・・・私も寝たい。でも我慢。食後は眠くなると決まっている!昨夜、Halim の名前をネットで検索したら、彼を応援して下さっている見知らぬおじ様のブログを発見した。なんと、Halim の写真が載っていた。朝稽古の後、Halim だけ残っていたところを、写真を撮らせてもらったそうだ。ウエスト周りのミートが若干、ぷよっとしていて気になる・・・(汗) でも、朝の光の中で、かわいい、あどけない笑顔をしていた。(←姉バカ) とてもあの弱肉強食のジャングルの中で、毎日毎日、日本人なのに日本語も通じない人間たち(いや、そもそも人間なのか?)に嫌がらせを受けながら耐えて耐えて、生きている人間の顔とは思えない・・・苦労は、その渦中にいるときはどんなに辛くても、長い目で見たときには、やはりかけがえのない財産になるのだと思う。でも、その苦労を財産に変えられるかどうかは、ただひとつ、苦労に負けないかどうかにかかっている。それは結局、「自分」に負けないかどうかなのだと思う。苦労に負ければ、人間は卑屈になる。負けなかった時、耐え抜いた時、苦労は人間を大きくするのだと思う。その世界にいるときは、あえてそこのやり方に甘んじて、歯を食いしばって、ただじっと耐え抜くだけしか術がないときもある。その中で、周りがどうあろうが、黙々と自分の中の一剣を磨くこと。どんなに、辛抱のいることだろう。Halim は高校にいた時より、ずっとずっと良い顔をしている。:あぁ、こういうところで頑張っているんだね。あそこに残っていたのは、一人で後片付けをするためなんだね。毎日毎日祈っている。あと2年で決着をつけると Halim は言った。ターシャの計算では5~7年後。彼が23~25歳、必ず the Grand Champion になるとき。私も自分の分野で、「幕内力士」のレベルに到達していたい・・・「十両」ではなくて。うぅん、でもやっぱりまだ「十両」かな、学問の世界では・・・30~32歳。その世界で堂々と生き、戦えるだけの力をつけて、「スタート地点」についていたい。
2008.07.19
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「言葉」も「思い」も尽くした後にできることは、それが目に見える形となって応答される「時」を「待つ」ことだけ。「待つ」ことは、相手を信じること。そして相手を忘れないこと。心にあるのは「祈り」だけ。庭で鳴いている鈴虫の音を聴きながら、木の向こうの青空を眺めながら、星の見えないよどんだ夜の空を見ながら、どうしているのかなと思う。一体何があったのだろうかと思う。想像するだけでは心配になるだけ。だから祈る。期待するその「時」がたとえ来なかったとしても。目に見えないけれど、目に見えないところに、祈りの跡が刻まれて、いつかどこかで、相手を守ることを信じて。
2008.07.18
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未来は未来にあるのではない。今、この時からしか、未来は生まれない。(マータイ博士)私も、Pagasa も、Talino も、Halim も・・・!!!じっと座っているばかりだからだろうか。体重が減った。ジーパンがまたスカスカになった・・・ 腕がなんだか、やたら細い・・・(汗)日本にいた時には、ほっぺに親指と一指し指のリングをはめるようにして掴むと、むにっと「たこ焼き」ができたのだが、今はほとんどつかめない。フィリピンに来ると、男の子は痩せ、女の子は太るのが大抵である。しかしターシャは男の子のほうである。スリムになるのは嬉しいのですが。しかし、あんまりやせると、papa mama が心配し、Talino は「ずるい」と言う(笑)ちょっとストレッチでもして体を動かそう。久々に外に出たら、いつもは猿のごとく早足のターシャなのに、足取りがゆっくりでパワーがなかった。:にゃあ!論文は、ようやく、一歩、前に進めた、かな? 仮タイトルもやっとつけられた。ウェン先生の言われていた、「焼き鳥の串」。論文における一貫性を例えられた言葉。やっと一本、通った。ふぅ。タイトルがつけられないほど、収拾がつかなくなっていたのが現状だったのでした。
2008.07.17
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一晩寝て、昨夜よりすっきりした頭で考え直した。この岩とはがちんこせず、迂回して通ることにした。ひとまず、お蔵入り(?)。ターシャが時間と労力をかけたこの「言葉」。手放すのに随分と時間がかかった。:たとえば誰かのためじゃなく あなたのために歌いたい この歌を・・・ 終わらない story 続くこの輝きに always 伝えたい ずっと永遠に・・・私が伝えようとする story は、フィリピンのために。そして、人間のため、文化のため、文学のために。ターシャの思う「あなた」。これが、私を支えてくれた人々に対する「報恩」の形。「貢献」の形。一生。そして一瞬一瞬。
2008.07.15
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最後に日記書いたのいつだっけ・・・やっと道が開けて前に進むと、またゴツン。岩にぶつかる。全部取り除いたつもりで忘れていた岩。次に進めると思ったのに。もうこの「言葉」、使うのやめようかなという思いも浮かぶ。でもこの言葉の内実と歴史を調べるのに、国会図書館に連続5日間通って資料を集めた。たった一つの言葉のために。誰も、しっかりとした定義も、包括的な説明もできていない言葉。そして散々使われた挙句、否定され捨てられようとしている言葉。でもその先に現われている「表現」を、誰も明確に捉え得ていない。日本文学の専門家でさえそうだ。私が敏感すぎるんだろうか??? 日本の文学研究の曖昧さ、いいかげんさ、西洋志向のメンタリティと無批判な態度、近代日本の問題、等々、さまざまな問題が、複雑にこの言葉に絡んでいる。すでに従来の研究者の意識それ自体に関わる問題になっている。この言葉を新しい捉え方でもって、活かそうとしているんだ。これだけで1本、別のテーマの論文が書けるくらいだ―『日本における近代的自我のディスコース』。:にゃんにゃん。(嗚咽)今日の嬉しいニュース。Halim 第1日目の取組、勝利 おめでとう
2008.07.14
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:あぁ、Def Tech の My Way、本当に良い歌だ。"Believe it my way" are some words to live byNo matter how you feelin' even if you wanna cryYou gotsta do what you do, stayin' true to your crewGivin' it a soul on the role but always keepin' it new With your own style, own existence, own realityBring complexity and love with creativityDays are something special be your own vesselJust take what's inside and give it a wrestleBring it to the light of day, take flightInject your own music to make up your own hypeIt don't matter what you say, gotsta do it my wayDon't display, dismay, stand up straight and portrayWhat you are inside, so you know who you areLiving it up, with no doubt ready for any scarSo that's it go make a hit, go out, benefitFrom the words that we spit and never, never, never, ever quit...Just do it "my way" take all these words to heart...Life is too short, don't regret or look back to forget That you were true to "my way" stay real it's a bet.:太線、ターシャが特に好きな箇所。 心を打たれる。勇気をもらえる。でも丸ごと全部好き。Tarsha's mama が言っていた言葉を思い出した。:人間は人生のいろいろな「複雑性」を「単純化」して進んでいくのよ。So, just do it my way. Believe it my way.
2008.07.09
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:色々あるけれど・・・自分の道をまっすぐ見つめましょう。心に浮かぶ心配、後悔、後輩に関わった責任、言ってしまったらもう戻らない過去の言葉・・・ 手にとって眺め回していたら、「自分の仕事は期限つきなのだ」ということを忘れてしまう。少々、悠長にやりすぎた。色々な人の意見に触れるのは良いこと。でも、彼らの生き方と私のそれは違う。フィリピンに期限はない。だから自分で自分を追い込まないと、ダラダラ延びてしまうぞ。フィリピンの、変化の少ない気候のように。実際、彼らの生き方に期限はないじゃないか。彼らの雰囲気に染まるな。いつも私はどこかに危機感を持て。忘れない。忘れない。今の私の仕事。:良い論文を「早く」「早く」書き終えること。絶対に卒業を延ばさない。年内帰国。そして次のステップへの準備。
2008.07.08
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人間にとって大事なのは、何であるかじゃない。どう生きるかだ。責任が大きいということは、それだけ多くの人の幸福を預かっているということなんだ。それなのに、どうして上はこんなに腐りやすく、頭は硬直しやすく、性質は排他的になりやすく、その心は偉い気分で満たされやすいんだろう。それが一番分かるのは、自分たちにとって痛いこと、面倒なことを言う「うるさい」人をどう扱うかにおいてだろう。これまで色々な話を聞いたし、色々なことを見てきた。もう一切、「タイトル」や「名前」に絶対に騙されないと決めたのは、今に始まったことじゃない。それはその人の本質では絶対にないから。私たちの間を区切る、あらゆる「線」など、本当は関係ないのだ。一番大事なのは、一番小さなこと、地味なこと、基本的なこと。その人の本質が出るのも、ちょっとした振る舞いや言葉の端。人を傷つけるのも、喜ばせるのも、小さなこと。誰が見ていようが見ていまいが「変わらない」人、地味なことに献身している人、一人の人の心に光を燈せる人が一番尊い。体を使って、心を使って、時間を使って、自分のすべてを使って。そしてきっと一番、充実しているんだろう。私も一生、そうありたい。そして心にはいつも一本、青空を突き抜けるような「志」を抱いていたい。たとえどんな立場になろうと、どこにいこうと、これが自分が依って立つ大地、歩くべき大地なんだということを忘れまい。
2008.07.07
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:あぁ、眠い・・・論文執筆。次から次へと、「当たり前」で問うこともなかった概念を見直さなければいけなくなってきた。でも決して無駄じゃない。こんなことを言ったら今の状況に似合わないのかもしれない・・・でも「今のところ」、ターシャは楽しんでおります。頑張って乗り越えよう。乗り越えられるところまで。しかし、2ヶ月で踏破予定だったこの道は思っていたよりも長いかもしれないぃぃぃ・・・・やっぱり物事は、「深く」学ばなければ駄目なんだな。そんなこと、ずっと前から知っていたはずなのに、どこかで学びが止まっていると、どこかでちょっと苦い思いと共に思い知らされる。「知っている」と無意識のうちに思っていたことを、自分の中で突き崩していく過程―これがたぶん、深く学ぶことの一歩であり、二歩、三歩・・・そしてずっとずっと。:地に足つけ 頭雲ぬけ 進む 前に前に前にぃ~・・・ (Def Tech "My Way")
2008.07.05
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今日の休憩中、ふとした思いつきで、ターシャの部屋(正確にはスペース)の写真を撮ってみました。今まで、papa, mama にさえ見せたことなかったねえ。いつか、記念になるかな?:いざ、公開(別にしなくていい?) 開けゴマ1.ターシャがかじりついている机 :机の上にあるのは、知る人ぞ知る・・・。 ここで勉強し、chant し、時々、白昼夢。(笑) となりにベッド。2.机と論文資料を置いている棚:うぅん。机の上が散らかっております。名づけて、「牛の歩み」。隣の壁に、my mentor ご夫妻。この机の下に、よく愛猫ミネコが安らぎにやってきます。3.窓際のテーブル:この色白ビューティーが、ターシャの新しいパソコンですよ。この席でいつもブログを書き、家族からのメール返信を待ちつつ、youtube で音楽を聴き、外の食堂で買ってきたご飯を食しています。4.となりのトトロ、じゃない、本棚:私に読まれるのを日焼けしながら待っている・・・(汗)5.窓から見える「鬱蒼」とした・・・:みどり。これは裏庭。その向こうが、キャンパスとその外を結ぶ通り。いつもジープがガンガン通る。今日は朝から雨。6.家族の写真:これは去年のものですね。机のシートに挟んでます。7.夏目漱石、と、魚:昨年11月、papa と行った漱石展のチラシ。この展覧会で、留学中の漱石の苦労と猛勉強に勇気をもらったんだった。ターシャがここに来てからずっと励まされてきた、漱石の言葉。漱石が、弟子の芥川龍之介に送った激励の手紙の一節。 「この手紙を、もう1本君等に上げます。(略)牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。(略) あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬ迄押すのです。それだけです。決して相手をこしらえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」 :だから、私も「牛の歩み」・・・うんしょ、うんしょ、と。小手先の技術ではなく、「人間」そのものを磨け、深めていけと、漱石は言いたかったのかな。:あ、以上ですpo。ターシャが生息する、およそ6畳(?)のスペースでした。
2008.07.03
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先月の discussion meeting の帰り、1人の後輩からある話を聞いた。はたから見たら、それほど目くじら立てることではないのかもしれない。でもどうしても引っかかった。数週間経った今も、こんなふうに気になっている。My alma mater が今年より、就職活動に備えた一環として始めたこと。全学部より選抜された30名の新1年生に対し、一流企業に就職した卒業生を講師として招き、その企業で行われている人材育成のトレーニングを隔週で行っているとのこと。それは彼らの学年があがってもずっと行われるものだ。しかも無料の講座。つまり、タダで、一流企業が新入社員に対して行っている研修を1年生のときから受けられるということだ。仕事の上で必要とされる論理的思考の方法、and so on...(ほかに何があったか忘れた)、教えてもらえるのだ。:選抜されれば。彼女は実はその講座の受講者だった。正直に言ってしまえば、話した瞬間に、とてもしっかりした子だなと思った。今回の留学生組で一番しっかりしている。本来ならばすでに就職活動真っ只中の4年生より、しっかりした雰囲気をしている。:それ、例えば、2年生になってからでも新たに参加できる人いるのかな?:どうだろう・・・たぶん無いと思います・・・ほとんど1年次に選抜された子達だけだと思います。:ということは、入りたくても入れない子も出てくるんだねえ。:そうですねぇ・・・話はそこで終わった。電車の中、ターシャの斜め向かいに、少しぽぉっとした雰囲気をかもしながら座っていたもう一人の後輩が一瞬、犠牲者にさえ思えた。私の母校は、一流企業に就職できるエリートを作るつもりだろうか。そうやって大学の名前をあげたいんだろうか。その講座を受講している彼女が悪いというのではない。彼女のように物言いもはきはきして、しっかりしていたら、文句はない。でも、それでは一体、大学教育って何なのだろう? 企業が求める人材像を生産する場か? もしくは生産できないから、そうやって特別枠を設けて講座をしているのか? それならどうして、希望者全員に開かないんだろう。人数的に無理が出るのは予測できる。でも、たったの30名。1学年、何人だっけ? ともあれ、ものすごい倍率であることは確かだ。ある意味、「特権」だ。そして、受けたくても受けられない学生には「差別」以外の何物でもない。そんな「おいしい講座」を受ける機会を与えてもらえないのだから。講座を受けられる学生は見事に成長するだろう。彼女のように。そして中には、心のどこかに「特権意識」を持つ「勘違い」学生も出てくるだろう。そして万が一、一流企業に就職できなかった場合、その学生はどう思うだろう?今の母校の大学教育を全肯定するつもりはまったくない。改善点はいっぱいある。でもこの講座のあり方は「社会のための教育」になっている。いや、「企業のための教育」「就職活動のための教育」といったほうがいい。日本は今、どんどん就職活動の時期が早まっている。フィリピンでは、学生は学生時代は就職活動は一切しない。企業も学生に内定など出さない。学生は卒業してから1年ほど休憩をとりつつ、就職活動を行う。どちらにも利点・欠点があるだろう。日本の「きちきち」したこのサイクルが、その経済を支えているというのも事実かもしれない。でも、学業と同時に就職活動・・・しかも長い。学生は精神的に疲れてしまうだろう。学問の深さを味わう心の余裕も持ち得ないのではないだろうか。就職という目前のターゲットが、プレッシャーと共に常にチラチラしていたら?以上のように書いたら、少しまずいかもしれないことを承知で、あえて書く。my alma mater の精神って、もっと高潔なものではなかったっけ? その精神に応える学問を提供するのが、私の大学ではなかったっけ?こんな講座のやり方を考えたのは、一体、誰だろう? あまりにも「目先の利益」に走っているんじゃないだろうか。「就活至上主義」だ。
2008.07.02
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論文執筆といっても、関連文献をすべて読み終えた後は、ひたすら自分の思考を紙に書きつけ、うんうん考えては、また書いて書いて考える。:1日中、それ。こんなんでいいのだろうか、と思うほど、それ。文献を読むのも大変だが、筋の通った「自分」の論展開を創り上げる作業も、本当に、「予想以上」に時間がかかる。ここ2ヶ月の表をエクセルで作成し、毎日、chant の時間、勉強時間、勉強内容、書いたページ数を書き付けているのだけど、1人の作家につき3週間目に突入しているのを見ると、いやでも、ちょっと自己嫌悪に沈む・・・きっと、こういうことを繰り返しながらやっていくんだろう。一方で、今まで見てきた研究論文では言っていなかったことも、自分のアプローチでたくさん見つけて、ちょっと驚いている。昨今の欧米発の理論を応用した日本の文学研究者の論考に時々見られるように、「新しいこと」を言おう言おうとして、「自分中心」になったらいけないんだと思う。私は「相手を理解しよう、理解しよう」という思いで、作品に向かい合っている。自分のアプローチから、「言葉」を原点にして、人間の真実(生命境涯)に迫っていく思いで。気晴らしに、英語の brushup を始めた。英語ってやっぱり楽しいな、と再発見。 でも、以前のように「英語>日本語」という意識はない。でも学部時代は、「英語」「英語」で、そうだったな・・・ 今は、「英語至上主義」になって母国語を大事にできないのは、一種のコロニアルメンタリティーだと思うようになった。言葉は「文化の器」であり、その「文化の世界観」であり、「心」そのものだから。藤村が言っていた。血につながるふるさと心につながるふるさと言葉につながるふるさとと。そういえば、Mr.Gentleman の師匠が言われていた。私たちはみんな、8,9割は同じなんです。残りの1,2割を知っていくのが大事なんですぞ。と。違いを知ること。人間理解、文化理解においても、また言語学習においても、本当に大切なことだと思う。今は、英語と日本語の表現の違いを考えながら、楽しんでいまする。今、寮に4匹の子猫ちゃんがいる。可愛すぎるので、ミルクを飲ませる彼らのお母さん猫も一緒に、ターシャの朝食であるクラッカーをあげている。彼らを含めて現在、わが愛猫ミネコをはじめ、8匹の猫にエサをあげていることになる・・・(多すぎ)ターシャが廊下を歩いていると、この子猫ちゃんたち、ちっちゃな体を走らせて、ちょこちょこ後をつけてくるようになった。:かっわいい~!!
2008.07.01
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おょょ、papa からメールの返信が来ない。どうしたのかしら?ターシャのブログを携帯から見すぎたために通信料が半端なく高くなって、mamaに携帯、止められた?いつも、メールを送って数時間の内には返信が返ってくるのに。どうしたのかしら?なんとなぁく、物足りないターシャである。我が家で、両親に頻繁に連絡を取るのは、一番上のターシャと一番下の Halim. 逆に、真ん中の Pagasa と Talino はあまり(ほとんど)しない。 このブログもひとつには、私の状況を知らせることで両親が安心するので書いているというのもある。:純粋に書くことで自分を表現するのが好きだから書いているのもあるけどね。6月も今日で最後。なんと、1年の半分が過ぎたのか。ついさっき、今年1月1日の日記を振り返ってみた。あれから随分と、自分も変わった・・・(気がする)。実は一時帰国を終えてフィリピンに戻ってから、まだ1ヶ月経っていない。でも、随分と中身の濃い月だった。最後にはターシャに6年連れ添ったパソコンが壊れるし。机の前に座っていても、時々、自分は本当の馬鹿になったのであろうかと思うほど、脳みそが回転しない時がある。頑張れ、頑張れ、自分。The spirit of always moving forward from this moment on―常に、今、この瞬間から前進していく精神―これが、「まことの道心者」、求道者が持つ精神こんなことを、1月1日の日記に書いていた。「いよいよ」「なおなお」と。papa, mama はよく、私たちが小さかった頃、「人の心が分かる人間になってほしい」と言っていた。これは、本当はとても難しいことなのだと思う。作品を読んでいてもそうだ。「どうしてこう言ったんだろう」、「このときどう思ったんだろう」、と、考えても「分からない」部分がある。反対に、「分かった」瞬間、これまで自分の意識に浮かび上がってこなかった部分、無意識のうちに切り捨てていた部分が、意味を持つ有機体として迫ってくる。そのとき、今まで見えなかった新しい視野が広がる。「分かる」ことはこんなにも嬉しいんだと発見する。 逆に、自分の現時点での意識で、物の見方が確実に規定されていることも痛感する。 自分の境涯を高めなければ、「読めない」部分があるのだと、つくづく思う。自分の境涯で作品を決め付けるのではなくて・・・ でも現実には、そういう研究が多いのかもしれない、と最近思い始めた。あぁ、傲慢にはなりたくない。研究者が常に自分を高めないと、本当の意味で作品も救われていかないのだ。
2008.06.30
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ご心配をおかけしました。昨日、ついに「オニュー」(古い?)のパソコンを買いました!今朝、寮のインターネットテクニシャンにお願いしてインターネットも繋げてもらい、またメールも変わりなく使えるようになります。論文に関しては・・・何があろうと、はたから見れば「邪魔」にしか映らないようなことが起ころうと、己の心は粉動されず変わらずに、「私の使命を果たさせてください」と、それだけを必死に祈っている。そうそう、今朝から新しい祈りを足した。最近、寮で、「幽霊」の目撃者が増えている。中には、幽霊と気づかず、本人(?)と実際に話した子もいる(汗)"Hi! Where are you from?""Spain."振り返ると、相方の机にいつの間にか座っていた、見知らぬ人間(幽霊)。彼はスペインから来たらしい・・・その後、異様なスピードで、「しゃかしゃか」変な歩き方をしながら、部屋から出て行ったそうだ・・・ほかにも、色々ある。まあ、harmless ではあるが、遭わないに越したことはない。:だって、「超」こわぁぁぁああああいもんちなみに私のいる塔は一番古い。ゆえに、幽霊の目撃者も一番多い。:見たことないけどね。きっとターシャがいつも祈っているし、私も神に祈っているからよ!とルームメイトは言う。私も実はそうだと思う。それから、また盗難事件が発生した。外部から侵入者が入ったのだ。これまで、寮全体のために祈ったことなんて、なかったな。いったい、この寮に何人の学生がいるのかもわからない。でも、100人弱はいるんじゃないかな。みんなが怖い思いをしないように、あらゆる危害から護られるように、祈ろうと思った。今朝は、昨日のパソコン探しで体力を使ったために、遅く起きてしまった。天気もいい。気持ちを切り替えて、:さあ、はじめるぞ!そして、いつもブログを読んで下さり、応援して下さる皆様へ・・・:いつも、本当にありがとうございます。
2008.06.30
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つい先ほど、私のノートパソコンが壊れてしまいました。(泣)今、同部屋の後輩のパソコンをかりて打っております。ですので、今後1~2週間ほどパソコンにての連絡が取り合えないかと思われます。日記の更新も同じく。申し訳ありませんが、ご了承くださいませ。m(_ _)m
2008.06.24
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my mentor の言葉:人生は挑戦です。努力です。勉強です。工夫です。その積み重ねのなかに勝利があります。昨日の朝、新聞でマニラに台風が直撃したという記事をご覧になった Mr. Gentleman が、心配のメールを下さった。Tarsha's mama 曰く、:いつも祈って下さっているから、こうやってすぐ反応して下さるんだね。その通りだと思う。本当に有難い・・・その後のメールのやり取りの中で、先生より、同期の仲間の様子を伺った。一人、現実離れした夢想を抱き、先生を困らせている男子学生がいた。先生はお優しい。絶対に否定しない。その先生が、彼の自己中心的な物の考え方をつき、「ちょっと重症ですね」と言われていた。どんなにお疲れになったろう。内心、どんなにがっかりされ、また呆れていらっしゃるだろうと先生の心中を思い計った・・・ 先生より聞いた限りで彼について自分が思うところを、厳しく書いてしまった。彼の言動に「感謝」が見えないことが嫌だった。一度、泥まみれになったら吐かないような発言をまだしていた。でも私の書き方も随分、生意気だったかもしれない・・・同期なのに。私はちょっと、同期の仲間から浮いているのかもしれないと、時折、そんな思いが浮かび、少し寂しく感じることがある・・・本当にお互いの心をさらけ出せるのは、似たような苦労を共にした友との間だけだ。それは決して多くはない。すべての人と同じようには仲良くできない。これは別に、何でもないことなのかもしれない。でもやはり、感じる寂しさを否定はできない。それは、同じところから出て来たからこそで・・・歩く道は違っても、温かな思いやりと共感を持っていたい。:午後も頑張ります。台風の後だからかな、空にはシスレーの描いたような色が見える。少し優しく透明なブルー。
2008.06.24
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:・・・・眠い。論文の進みは遅々。計画より遅れている。でもやっと一つ、こんがらがっていたことが解けた。一時帰国中、papa が教えてくれた「図解」の技術が役に立った。雨は、時々、勢いを増したり落としたりしながら、ずっと降り続いている。今日、マニラからセブ行きのフェリーが台風で沈没、700人以上が行方不明だそうだ。なんということだろう・・・ 台風のさなか、なんで出航したんだろうか?今日の夜、フィリピンで働く母校の先輩(ターシャの1歳年上)が、寮に立ち寄られた。ターシャをからかいつつ気遣ってくれる、とても良い先輩だ。緊張せずに心置きなく話せる、数少ない?先輩でもある。今回、母校からフィリピン・マニラへは、全部で9名の学生が来ている。全島を入れれば、全部で12人。先輩は、彼らと会い一緒に食事をするため、雨(というか、台風!)の中はるばるやってこられた。私はもちろん、寮のロビーで久々にその先輩と話す程度だったが、そのときに初めて会った学生も数名いた。正直に言って、見た瞬間、彼らの「雰囲気」にひいた・・・「危ない」と思った。:なぜ、雰囲気が、こんなにも「ぽーっ」としているんだろう。そして、その異様な「ちゃらけ」はなんだ? その「無防備」なほどの「安心感」は? 彼らの雰囲気に、一種の「だらしなさ」を感じてしまった。・・・たぶん、いつも仲間と一緒だからだ。そして、彼らが外国まで来ても、いや、来る前から、様々な準備を経験者に頼ってきたことを、少しは聞いている。「思うとおりにいかない」という葛藤を、今までどれだけ体験してきたろう?先輩も彼らの、これまでにない雰囲気に気づいていた。彼らと別れた後、猛烈に chant した。今までも欠かさずに、全員の健康と安全無事故を祈っていたけれど、彼らに実際に会ってみて、いっそう危機感がつのった。私にもう少し時間があったら、一人一人と直接関わってあげることができる。特に、女の子にはよく関わってあげたい。けれど今だけは、これまでのようにはいかない。だからその分、真剣な祈りを送る。彼らが育ってきた「枠」の中ではできない苦労をフィリピンで体験してほしい。そして、たった一つのことをやり遂げること、道を切り開くことが、どれだけ大変なことかも。そうやって一つ一つの重さを味わいながら、「人材」へと成長してほしい。これが、ターシャの一つの切な思いだ。さて、寝ましょう。
2008.06.22
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午前6時。激しい風にあおられて、木々の葉っぱが激しく鳴っている。締め切った窓から聞こえてくるその音で目が覚めた。:でも二度寝。 7時起床。 朝起きると、すぐ祈りを始めるけれど、部屋が真っ暗。台風のせいで停電だ。ろうそくをつけて祈りを済まし、その後、鍋でお湯を沸かして、コーヒーをいれる。電気がないのでポットも使えない。ガスがまだあって良かったと思う。朝食のクラッカーをつまみながら、昨夜の続き。『破戒』を読み進める。ろうそくの光は赤い。窓の近くにすわり、ろうそくと共に外光にも頼りながら読むけれど、やっぱり少々、暗かった。ちょっと目が痛くなった。午後1時過ぎ、ようやく電気がついた。電気がないと、こんなに困るんだな。これまで台風のために二晩ほど電気がつかなかったこともあったし、もうこういう経験は慣れているけれど。昼の祈りをしたら、最後まで一気に読むぞ。:やっぱり再読して良かった。なんだか、自分が考えていたことと、違う部分が出てきた。雨はまだ降っている。
2008.06.22
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今、フィリピンは台風が来ている。1日中、細かな間隔をおいて雨がしのつくせいだろう、窓から入ってくる風も冷たい。今日は水シャワーは浴びれそうにないな。今日は、our Halim の誕生日。昨夜、日本時間に合わせて「おめでとうメール」を送ったけれど、いまだ何の音沙汰もないので、少し心配している。・・・万が一、Halim の天敵に携帯を取り上げられたりしていたら、なんて考えてしまう。心配で、papa にさっき問い合わせのメールを送ったところ。島崎藤村の『破戒』を再読中。一時帰国する前にも、ノートを取りながら読み込んだけれど、やっぱり忘れている部分もあるので、もう一度読み直している。作品に関する研究論文はすでに読んだ。でも、それらを読んだあとで自分の論を練ると、ふと、「作品」を忘れてしまうことがある。だから、もう一度、作品に返る。それに、研究論文を読んでいて一つ思うことがあったのは、「作品を少しぞんざいに読んでいる部分がなきにしもあらず」ということだ。それは、昔のものよりも最近のものの方に多い印象を受けた。また読み直すのは時間がかかるけれど、自分の論に自信を持つため、作品にないことを書かないようにするために、もう一度。作品に対して誠実でありたいから。『破戒』が書かれたのは、1906年。すでに100年以上経っている。けれど、古さを感じない。すごいことだと思う。100年経っても残る作品。再読しながら、つくづく思う。:名作だ!!!やっぱり、尊敬のおもいが湧きおこる。時を越えて残る作品とは、人間の「真実」をどれだけ深く、濃く、描き切れているかどうかなんだろうな。時代の複雑性、織り成される人間関係、心の動き、すべて混ぜ合わせて・・・ 考えてみれば、これを見事に描き切るというのは、「超」至難の業だ。作品から受ける感動は、読む人の境涯によって変わる。作品が読まれ続けていくためには、それが持つ「価値」を「今」に甦えらせ、示し、伝えていく人が必要なのだと思う。そうでなければ、作品は沈黙したまま、時の中に埋もれてしまう。その点で、研究者は「文化の守り人」であり、「文化のために闘う人」ではないだろうか。その静かな遅々とした歩みの中に、人類史的に重大な役割と責任を担っているのではないだろうか。では、その「新しい価値」とは何だろう?・・・それは、人間のこれまで見えなかった新しい面や姿を描くことだと思う。だから、研究者自身が常に学び、常に己を新しくしていくことが、本当に大事なんだ。人間は、実は、自分のことが一番よく分かっていないのかもしれないと思う昨今。己の心の動き、他者の心。共感するということ。理解することの難しさ。心は誰でもが持っていて、「当たり前」すぎて、「見えない」から。自分を取り囲むほかのことは、精緻を尽くして知っていたとしても。だから、文学を読み、深く心と考えを巡らす価値があるんだと思う。複雑かつ単純きわまりない矛盾だらけの人間を、より知るため、理解するために。:「言葉」を媒介とした、人間の総合的な研究。そして、人に感動という楽しみを与える「言葉」の芸術。・・・今の私が考える「文学とは何か」。my mentor の言葉:人間の「心」を知らないでいては、どんな分野のものでも、本当にはわからない。奥義はわからない。人間の文化はすべて、人間の「心」から生まれたものだからです。「精神」という「目に見えない価値」に、どれだけ敏感でありえるか。どれだけ「見えないもの」に目を凝らし、「聞こえないもの」に耳をそばだてることができるか。そこに人間としての「証」があり、文明を導いていく羅針盤がある。:もっと、もっと勉強したい。学ぶことが無限にある・・・って、ついつい、長くなってしまいました。
2008.06.21
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「いやしくもなんらかの道にたずさわる人は、最高のものをめざして努力すべきである」 ゲーテ何事も、志にこそ、成否のカギがある。最近、「高潔な生き方」を、「人の道」を教えてくれる my mentor を持てたということを、心から有難いと思うようになった。姿は人間であっても、その内面は決して人間らしくない生を送っている人もいる。自分の心を「中心」にしていたら、いつしか浅い、惨めな生き方になってしまうんだろう。そこに、常に立ち返るべき「師」という存在の必要性があるんだと思った。人間はこういう風に尊く、深い充実感と喜びを味わいながら生きることもできるのだと。論文執筆を、今の自分における「弟子の戦い」と捉えるようになった。弟子の戦いは、弟子がそうと決めなければ始まらない。原理を教えるのが師匠なら、それを自分のいる場所や分野で具体的に展開していくのが弟子だ。また師匠が教える生き方に、自身の生活の中で挑戦・実践していくことだ。:いつだって「普通」でありたいし、自分の中の「普通」の感覚を失いたくない。たぶん、「普通」が一番難しいし、一番「幸せ」なんだと思う。何より、人の心が分かる人、人のために役立てる人になりたい。
2008.06.20
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フィリピンに到着した当初、決めていた1日のタイムスケジュール―「朝4時起床の夜10時就寝」・・・:とっくに崩壊・・・笑今は、「ふつうぅぅ」のタイムスケジュールに戻った。朝6時~7時の間に起きて、夜12時半には寝ている。:やっぱり、私は「極端」は無理なようです。以前、ゼミ合宿で赴いた長野で出合い、心ときめいた言葉がある。島崎藤村だ。誰でもが太陽であり得る。わたし達の急務は、ただただ眼前の太陽を追ひかけることではなくて、自らのうちに高く太陽をかかげることだ。以前にも、ちらりと書いたことがあっただろうか。藤村は文壇では嫌われているそうだ。でも私は、彼の生き様と作品をわずかでも少しずつ知るにつれて、藤村が好きになった。研究者の書いた論考が、作品に対して「誠実」でないと、怒りを感じる。「理論」で作品を「裁断」すると、みんな似たような解釈になってくる気がする。作品に沿っているように見せて、実は理論が提供する「論理」「図式」に照合するところだけを作品から捨象して、「執筆者が言いたい」ひとつの物語にしている。これが、作品を「捻じ曲げる」ということに違いない。そんな場合、どんなに執筆者の言っていることに正しい部分があろうとも、不思議なのは、そこに作品の面白さの深みが現れていないことだ。作品を論じる研究者は、第一に、作家と作品に対する「尊敬」を忘れてはいけないのだと思う。そうでないと、結局は嫌な傲慢さが鼻につく論展開になってしまう気がする。そして、どうしたら、理論を応用するやり方に往々にして見られるこのような傾向に陥らずに済むだろう?Tarsha's papa は、私が一時帰国中、こんな言葉を教えてくれた。:「理論を事実で洗え」。理論は「捨象」し「抽象化」するけれど、その理論が提示する視点からものを見るとき、「事実」や「作品」の持つ「複雑性」をないがしろにしてはいけないのだと思う。理論の提供する分析視点から見えてくるものを、その場から「切り取る」のではなく、さらにもう一歩深めて、「全体との関係において」考えていくことが大事なのかな。それにしても、ものを書く人には大きな責任がある。それが作家であれ、研究者であれ。いや、書く人だけでなくて、言葉を用いるという行為それ自体に、責任があると言ったほうがいい。「言葉」の持つ力の大きさ。4月のディフェンスの折、ウェン先生より、私が扱う作品が、当時と現在の「批評家」と「一般の読者」にどう評価されているかを調べるよう言われた。しかし、批評家のは分かるけれど、一般の読者はどうしたら分かるんだろうか?売り上げ部数? 学校でどう扱われているか? 読書感想文? Amazon に書き込まれている感想? それに、当時の一般読者って・・・ 日本で集めた資料には、一般読者の反応など載っていないのだ。:これは対策を練らなければいけないなり。でも、このことを指摘してくださったウェン先生に、心から感謝している。それは、この「評価」について調べていく中で、「今」の視点・評価軸を「絶対視」し、「不動化」してはいけないということを学んだから。作品の評価も批評も、時代とともに変わる。だからこそ、文化や文学の向上に果たす研究者や批評家の責任も重大なんだ。:常に「自分の立ち位置」を、「自明と思われているもの」を「相対化」することが大事なんだな。
2008.06.18
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