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何だか妄想に近い話になってしまいました。こうしたエネルギー覇権争いの構図の中で、なぜ私たちの日常生活や考えかたにまで、こまごまとチョッカイを出されねばならないのか、もっとオリジナルな生活スタイルというのはありえないのか、というのが今回の私の関心事です。竹村さんは、日本人はすでに前記のとおり、江戸時代にエネルギー枯渇を経験している、と言われます。 しかし私には、この日本人の省資源的生活スタイルというのは、もっと根深い歴史を負っていると思えるので、もう少し深く分析してみたいのです。 しかし結論を急ぐまえに、この本のもう一つの重要なテーマである、食料、農政問題と、もう1人の鼎談者である神門善久氏のことに、ぜひ触れねばなりません。 まず竹村さんは、現在一般に流布されている日本の食料自給率40%という数字には、歴代農水省の作為があると指摘します。ご存知のとおり、この食料自給率というのはカロリーベースにもとづく数値で、輸入飼料に頼りきった高カロリー食品(牛肉、鶏肉、乳製品、粉もん他)の摂取が増えれば、自給率が下がるのはあたりまえ、今日の日本の食料自給率というのは、敗戦後の高カロリー食品の嗜好に慣らされた日本人の生活習慣を示すのであって、自給率の低さは逆に飽食の指標なのだとされます。ちなみにアフリカやアジアの最貧国では、金がないので輸入ができず、のきなみ食料自給率は100%に近くなると(それゆえ栄養失調がはびこる)。 生産額ベースでいえば、日本の食料自給率は今でも70%前後で、80年代ごろからカロリーベース表記に徐々に切り替えていったというのは、農水省の政策的な判断があったであろうと、つまり勃興する日本の産業全般のなかで、とかくお荷物的な不採算分野に見られがちだった、第一次産業を主管する農水省の存在感を際立たせたかったのではないかと指摘されます。 これまた、ここ最近食料自給率40%をさかんに流布するマスコミ、政治家を見ていて、ああやっぱりなと、おおいに首肯する部分があったのですが、さすがにもう少し多面的な論議がないと、たんなる評論家的な指摘かな(それなら毎日テレビでやっている)と思っていたところが、神門さんの登場で、他の鼎談者もおそらく予測しなかったような展開をします。 神門善久(ごうど よしひさ)という名前、もちろんこの本ではじめて知ったのですが(ほとんどの皆さんもご存知ないでしょう)、2年ほどまえに『日本の食と農 危機の本質』(NTT出版、2006年)という本で、サントリー学芸賞を受けた由で、食料、農業農政問題の専門家であることが分かります。 この人の論議、ご自身が農家出身ということもあって、いわば身内の暗部を暴くような、一種の緊張と激しさがあって、他の鼎談者が一瞬鼻白んだり、黙り込んだりという場面さえ想像させるのですが、それほどまでに日本の農政というのは外からは分からないのです。 これは逆に日本の農家について、一般の日本人がずうっと一種の贖罪感のような感覚を引きずっていることにあるようで、江戸時代以来、農民というのは名目上の階層は別として、常に社会の最下層に位置して、一方的に収奪されてきた人達だというスリコミが、お互いに日本にはあるのです(敗戦後ずうっと中国や朝鮮半島に贖罪感を持たされていて、互いに正常な議論が出来ないというのと良く似た状況です)。 正常なつきあいが出来ないというのは、現在の共産中国や韓国、北朝鮮政府の日本に対する振るまいかたを見ていれば一目瞭然ですが、これは日本の農業農政においても同じで、農民団体や自称農民派議員が怒鳴れば、まともな議論がたちまち沈黙させられる、という状態が長いあいだ続いた結果、よりややこしくなって農水省側も、うっかり本当のデータさえ出せないという景況を呈しているようです。 というわけで、神門さんが農業農政について本当のことを指摘すると誰も反論できない、というより反論できる資料を持ってないという仕儀になります。― つづく ―
2008.11.28
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竹村さんの歴史観というのは、一言でいえば人類史とはエネルギー争奪の歴史であって、その時その時代の主たるエネルギー源を制したものが、覇権を握ってきたというのです。その見かたからすると、20世紀がアメリカの世紀といわれたのは、ひとえに1901年にテキサスで大油田が発見されたことに始まるので、19世紀の英国を中心とした石炭エネルギーからの大転換は、新興国アメリカの覇権を保障するものでした。 ために旧大陸や日本で主たる産業基盤であった鉄道事業を、アメリカは自動車企業が買収によって次々潰していったというのは、H・フォードの伝記などでも有名な話です(このあたりMicrosoftのB・ゲイツの手法は、社会の産業基盤を一企業によって独占するという意味で、手法や発想が似ているのは注目すべきです)。きわめて効率的な化石燃料の市場を制し、さらに石油依存型の社会インフラを徹底することで、アメリカは世界の覇権を握ったのでした。ところでこの覇権(自由資本主義)を維持するためには、限りある石油資源の価格を、できるかぎり一定に維持する必要があります。養老さんふうにいうと原油価格維持という大規制に基いた自由資本主義ということで、彼らの唱導する自由と規制緩和とは、この大規制という前提の部分で論理的にウソということになります。 それはさておき価格維持の手段としては、経済論理的には供給を増やすか需要を減らすかの2つしかなく、1960年代あたりまでは新たな大油田の開発による供給増で価格維持をはかったのに対し、枯渇が見えてきた70年以降は省エネルギーや代替エネルギーの必要性を唱導することで石油需要の低減と資源の延命を企図したのです。このあたりのキャンペーンを心底真に受けて省エネに走ったのが日本で、今や世界に冠たる省エネ大国であることははじめに言ったとおりです。 しかしその結果が石油価格維持(ということはアメリカ式の自由資本主義の維持)に、おおいに貢献したことはあまり触れられません。どちらにころんでも莫大な富が石油メジャーに流れ込んでいく、というからくりが見え隠れしているわけで、これまた養老さんですが、オランダなど石油メジャーを抱えながらCO2削減とは何事だ、ということに相成ります。 とはいえ、だから石油資本が悪い、これが犯人などといまさらいうつもりはありません。実際の世界の覇権の構図は、おそらくもっと輻輳したものでしょう。私に云わせると、70年代の石油パニックを経験しながら、その根っこのところをきちっと分析しないで、またまたCO2削減だのECOだのの、安手のキャンペーンにワル乗りするのはもう勘弁してぇや、ということです。原油資源が有限であることは当たりまえであるにしても、その結果として石油メジャーやそれに絡む資本投資家に富を一方的に収奪されるために、なぜ我々はECOマークを貼りつけて、高い燃料代を払って生活せねばならないのか。 もし本当にエネルギー危機が差し迫っているのなら、なぜ日本近海に眠るメタンハイドレートの開発に本腰にならないのか、青山繁晴さんによればこれは世界に冠たる埋蔵量で、日本は資源大国になり得るとまでおっしゃってます。まあこの人のいうことだけを信用するのはフェアじゃないし、採算性やCO2 コントロールなど難しい一面はあるにしても、政府が何となく腰が引けたような予算しか組まないところをみると、現在の世界の大資本やその代弁者たる大国の政府がそれを望まないからでしょう。 彼らにとっていちばん好ましくないのは、化石燃料に基づいた現在の世界のエネルギー覇権の構図が、新たな資源の登場で脅かされることでしょう。省エネ技術やECOマークは自分たちのコントロール下にある化石燃料資源の延命につながるので少しも困らない、しかしエネルギー覇権の構図全体を揺るがすような、自分たちのコントロール下にない新たなエネルギー資源の登場は望ましくないのです。― つづく ―
2008.11.26
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この「本質を見抜く力 : 環境・食料・エネルギー」(PHP新書 2008)は、もちろんそんなキワモノ的な犯人探しはしていませんが、前半で語られる養老さんと竹村公太郎氏の環境とエネルギー論は、そんなことを考えさせるよすがとなる刺激的な話題が相当な説得力で語られます。 河川工学が専門の竹村さんが繰り出すデータに対して、例によって強面で突っ込むのかと思えば、はじめにも言ったように意外なくらい養老さんは冷静に応対していて、むしろ畑違いの分野をずいぶん勉強したらしくみえる。 そのなかでも面白かったのは明治初期と今の日本の国土利用分析図の比較で、これを見れば一目瞭然、明治初期より今のほうがはるかに日本列島は緑が多い。当時の六甲山や滋賀県の田上山の写真も添付されていて、ひどい禿山だったことが分かります。六甲山の当時の荒れかたは他でも聞いたことがあり、必死の植林で今でこそ豊かな山林を成しているように見えますが、時々本来の自然性を取り戻して、いくつかの河川が暴れますね。滋賀県の田上山地も奈良時代以来、都造営のために多量の山林が刈りだされて、宇治川から木津川を遡行して奈良に運ばれたり、京都に運ばれたりしていたというのは、他でも聞いたことがありますが、実際今でも田上山地は表土が薄くて、石山寺のほうから見ると、カルスト地形のようなやせた印象があります。 竹村さんはこうした自然地史のデータから、独自の歴史論を展開するわけで、江戸幕府が滅びたのは黒船でも経済社会的矛盾でもなく、要するに木材中心のエネルギー枯渇が原因とされます。江戸中期以降人口が3000万人前後で推移したというのは、木材エネルギーの需給体制がそのあたりで限界だったことを示し、19世紀以降の社会的矛盾は、決定的な木材枯渇が原因なのではないか、必死の植林事業にもかかわらず、天竜川沿いの木材産出量データは18世紀半ばから激減している、明治初期の日本列島の荒廃した国土利用図はにっちもさっちも行かなくなって、滅びるべくして滅びた江戸幕府の残骸なので、ある意味日本の諸都市が焦土と化した敗戦直後の日本と似ています。 こういう見かたを正しいとするかどうかは別として、判断の根拠として事実的なデータを積み重ねていくというのは、とても説得性があるのです。しかし竹村さんの立論の大事なポイントは、自身の論に固執する態度というのがないということで、それはこの人が土木工学の専門家でありながら、河川行政の現場で地域住民と差しで交渉や話し合いを持たれたという経験が大きいでしょう。 これは別の本で松井孝典さんが、科学的に理解するということと、ヒト同士が納得するというのは別次元の事柄で、ヒトは結局納得できない限り、事実をいくら並べられても動かない(逆にいうと科学的でなくても、説得性があれば納得してしまう)。 竹村さんによればダム建設事業の地元との折衝などでは、どちらが正しいとか正しくないかのレベルではなく、ヒトとして相手を裏切っていないか(信頼されているか)どうかが、ポイントだったと話されます。実際のところ防災対策などそのスパンを50年にとるか100年にとるかで、まるきり対策は変わってくるでしょうし、絶対的な真実というのはついにどこにもないでしょう。ということはどこで折れ合うかという話になるので、これは科学とは別の話になってきますね。 さてこんな話をながながとしたというのは、環境問題や地球温暖化論もどうやら何が真実という話でなく、何が説得性があるかという議論なので、いくら科学的な相貌をまとっていたとしても、もとより科学論とは別の話と考えるべき、ということなのです。 問題なのはこの環境教ECO派の論拠が、科学的にははなはだ雑駁な論理のまま、伝家の宝刀のごとく教育の現場や、ゴミ出しの分別に具体化されていることで、これは教育にかんしては、子供の科学的な思考態度を致命的に損なうばかりでなく、判断停止状態で説得されてしまう脆弱な人間を生み出しかねません。分別ゴミについては云うもがなで、ある種利権団体の影が見え隠れしてますね。― つづく ―
2008.11.22
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と、おおいに大上段に振りかぶってしまいましたが、それにしても地球温暖化だのCO2削減だの、ひとくちにECOというキーワードでくくられる今どきの環境論議の何がうさんくさいかと云えば、1.地球温暖化というのがはたして本当にヒトの営みによって排出されたCO2によるものなのか、2.環境破壊と地球温暖化は本当に直接的に結び合っているのか、3.そもそも本当に地球は温暖化しているのか(地球規模の歴史スケールでいえば、過去に地球全体がもっと暑かった時代は何回もありました)、4.よし仮りに急速に温暖化が進んでいるとして、それは本当に地球にとって危機なのか、などなど誰もがすぐ抱く、このようなごく素朴な疑問をきれいにすっ飛ばして、反論の余地のない命題としてECOを持ち出すところにあるのでしょう。 そしてたんにキャンペーンの題目として掲げるだけならともかく、今や電気製品からごみ処理までECOのマークのつかないところはなく、ましてやこのところ日本でもささやかれいる排出権取引など、ああやっぱりなと、これはひょっとすると地球規模の振りこめ詐欺なんじゃないかとさえ思ってしまいます。 要するにビジネスツールとしてあまりにもECOが顔を出しすぎるからで、これは「自分の存在自体が環境破壊とエネルギー枯渇の源泉」という日本人古来のECOの感覚とは馴染まないところがあるのです。 上にあげた4つの素朴な疑問のうち3と4は地球史から人間中心の視点をはずしてしまえば、答はすぐにも出てくる疑問で、もちろん地球は人間がいなくても間違いなく存在しつづけるのです。1と2については複雑系の極みといってもいいようなBioSphere(地球生命圏)の変動の原因を、CO2増大だけに起因すると合理的にきちんと説明できる自然科学者が本当にいるのかどうか、もしいたとしたら相当乱暴な議論をしている人でしょう(例えば金星の高温乾燥は高濃度のCO2雲による温室効果という程度のレベルの)。 とすればここ最近さかんに周囲を賑わすECOマークの拠って立つ根拠は、科学ではなく相当政治的意図を含んだ国や団体あるいは企業のキャンペーンと言えなくもないのです。困ったことにこれらのキャンペーンは、ナイーブに日本古来のリサイクル生活に感情移入してしまう、多くの日本人には正面切って反論しづらい部分があるわけで、それこそ環境圧力団体の思うツボにはまることになってしまいます。天変地異などの反駁しづらい現象をとりあげて危機を煽り、恭順を迫るという手法は、古来一神教でよく見られた布教の強力な手段でした。つまりECOとは環境教ECO派の布教活動ということになってしまいます。 では手を変え品を変えて現れては消える環境教の元祖は誰(何)なのか?― つづく ―
2008.11.20
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先日、例によって本屋をブラブラして、ふと買ってしまった本に、日ごろ何となく頭にモヤモヤとあって消化不良気味の疑問に、少しだけ風穴を開けてくれたような内容だったので、気分がスッとしたのでした。 その本というのが、今はときめく養老さんと竹村公太郎氏、神門善久(ごうど よしひさ)氏との対談(鼎談)集で、PHP新書「本質を見抜く力 : 環境・食料・エネルギー」といいます。いわゆる養老モノの本は「バカの壁」以来、それこそバカ売れ状態で、養老さんがボヤけば、そのままベストセラーみたいな感じでいささか食傷していたのでした。「唯脳論」や「涼しい脳味噌」のころの、解剖学者としての眼から社会を論じる切り口が、当時はとても新鮮で繰り返し読んだものですが、最近の養老本は一回読めばだいたい終わり、ほとんど記憶にも残らない、ということは一丁上がりの安っぽい編集になっていたのでしょう。 ところがこの本は対談ということもあって、いちだんと警戒しつつ立ち読みで済まそうとしたのですが、意外なくらい日ごろの養老節(もちろんそれもありますが)と違う語り口が見え、思わず買ってしまったのでした。意外なというのは、いつものシニックな視点というのを、おそらく意図的にできるだけ封印して、社会を皮肉っぽく笑い飛ばして解答は読者に丸投げという態度ではなく、めずらしくマジメに議論に入っていっているように見えるところがあったのです。 これは逆にいうと例の痛快な養老節を期待する向きには、がっかりさせられるところもあるということで、それだけテーマが重くてシビアだということなのかもしれません。ひょっとすると養老さん自身に多少心境の変化があるのかもしれません。司馬さんが晩年小説を離れて、よりメッセージ性の強いエッセイに傾いていったように。 さて、私の日ごろのモヤモヤというのは、他ならぬこの本のテーマである、近ごろの環境、食料、エネルギーなどにかんする世情のムードです。 今どきの環境論議、なかばヒステリー状態といってもいい議論がマスコミをにぎわせていますが、世間の議論がある事柄でひとつの方向に向かって、大合唱をともなって収斂されていくとき、私などはどうしてもちょっと引いてしまうところがあり、何か抜けていないか、どこか欠けていないか、議論の中味より議論の状態をシラッと眺めていることが多いのです。 そもそも考えてみれば、環境問題とかエネルギー問題とかは、何も今世紀に到って急に沸いて出てきた問題ではなくて、私が学生時代の1970年代にもさんざん取り上げられ、また石油危機にともなう省エネ運動は今よりはるかに切実で、例えばテレビの深夜放送が電気のムダということで時間制限されたり、阪急梅田のコンコースの照明が半分以上落とされたり、ハッキリと目に見える形でエネルギー不安というものが世の中に現れていたものでした(堺屋太一さんの「油断!」という近未来小説もこのころ話題になっていました)。 そのころと今と何か変わったのかと言えば、じつは化石燃料の絶対的枯渇という問題はずうっと持続しているわけで、あまりにも切実でなおかつ持続的な問題というのは、できれば触れないでおこうというのは普通の人間にはあたりまえの性癖なのかもしれません。何が切実かと言われれば、化石燃料はいずれ間違いなく無くなるのであって、今生きている自分の存在自体が環境破壊とエネルギー枯渇を招いている、という感覚が無意識にも日本人には共有されていたのかもしれません。 というわけで、その後の日本は公害対策と省エネルギーに大きく傾斜していったわけで、気づいてみれば日本は世界に冠たる省エネルギー大国になっていたのでした。しかしよく考えてみると、日本というのは有史以来ずうっと資源と食料の枯渇に(水と安全は別として)常にさらされてきたので、省資源的生活スタイル(質素倹約)というのは、日本人にとっては甲斐性みたいなものでした。それにダメを押したのが太平洋戦争で、アメリカに負けたのは石油不足のせいだと、なぜか今でもほとんどの日本人は思っているでしょう。 私に云わせると、今どきの地球温暖化だのCO2削減だのの論議は、少し古びかけた環境論議のリフォームであり、それが不自然に叫ばれ、また疑問の余地のない問題として議論されるときは、たいてい怪しいと思ってしまうほうです。こういう議論が異様に沸きあがってくるときは、たいてい何かの作為があるんじゃないかと思ってしまうのは私だけじゃなくて意外におられるようで、武田邦彦氏の「反エコもの」の本がよく売れているらしいのは、このあたりのうさんくささを皆が多少なりと感じているからでしょう。― つづく ―
2008.11.18
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