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さて野茂の話を大いなる敬意を持って話しようと、少しずつ語り継いできたのですが、例によって途中で夾雑物が入ってなかなか終われません。今回は仕事でも私事でもなく、他ならぬオリンピックが邪魔をしているので、いくら共産独裁大国の国威発揚イベントだといっても、それを目標に参集した世界中のアスリートには関心を持たざるを得ないので、やっぱりテレビは観てしまいますね。 こんなことを話すというのは、例の女子ソフトボール(あるいは女子サッカーも)と、星野ジャパン(あるいは男子サッカー)が、あまりにも懸け離れた対称的な結果になったからです。野茂の話とは少しずれますが、ここで話そうとしていることと、まるきり関係ないことでもないので、まだ話が熱いうちに書いておきましょう。 星野ジャパンが、日本プロ野球の云わばドリームチームで、このように無残な結果になるというのを誰が予想したでしょうか。ここしばらくは例によって週刊誌的な犯人探しが行なわれるのでしょうが、そんなことはおこりえないと思っていた結末が女子ソフトボールでは最高の結果を出し、星野ジャパンでは史上最悪の力しか出せなかったのはなぜか。 ここでやはり思い出してしまうのは、3年前のWBCのときのイチローの言動で、そのときも詳しく触れましたが、あえてマスコミやファン(とくに韓国)を挑発するような彼の発言に、みんなすっかり戸惑ってしまったのですが、今回の星野ジャパンの選手にはこのような発言をするものは一人もいませんでした。国内リーグではあれほどチームの中心選手として自他共に認めている選手たちばかりなのに、星野ジャパンであえて泥をかぶろうという選手はいなかったのです。これを選手個々の問題と捉えるか、チームを引っ張る星野監督あるいはスタッフの問題と捉えるかは、それこそ思惑も絡んでいろいろな議論が出てきそうです。 泥をかぶるというのは、一生懸命マジメにやればそれで良しということではありません。一生懸命マジメにやっていなかった選手やスタッフは一人もいなかったでしょう。むしろマジメに考えすぎているのじゃないか(日頃とうって変わって)という人のほうがはるかに多かったように思えます。イチローの「この先30年間日本とは野球をしたくない、と相手に思わせる試合をしたい」というのは、マジメにやれば事足れりとする国内リーグの選手たちの所謂プロ根性に、あえて石を放り込んで違和感を持たせる、自分が泥をかぶる代わりチームに戦う覚悟を強いる発言だったのです。これはワールドカップサッカーのときの中田の発言とよく似ています。 何もドリームチームに悪役がいなかったから、今回負けたということを言っているのではありません。ここが切所と覚悟を決めて出てきた選手が果たしていたのかということです。「俺たちの普段どおりのパフォーマンスを出せば勝てるさ」という程度の考えかたでは普段の力も出せないのです。 それを身をもって対称的な形で示したのが、女子ソフトボールじゃないですか。今どきの国内リーグのプロ根性など笑い飛ばしてしまう上野さんの3連投、彼女ほどの覚悟を誰が持っていたのか。その覚悟のうえでやっと7回最終回の奇跡のような3塁手のスーパーキャッチが起こるのです(あの瞬間に勝利の女神はアメリカから飛び去ったのです)。彼女たちのプレーはお世辞にもプロ野球に比べてカッコいいとはいえない。点の取りかたにしても泥臭いバントや流し打ち(今回驚いたのはアメリカの選手もそうしていたことでした)、国際試合で金メダルを勝ち取るということの意味を考えさせてくれるベストゲームでしたね。 もう一つ、今回の星野ジャパンで気になったことが一つ。私たちが予期した星野監督の濃いキャラが、今回何となく影が薄かったこと。濃いキャラを示すシチュエーションにさえならなかったのか、一週間前までメンバーが決まらなかったのが原因なのか、今回は彼のリーダーとしての振るまいかたにも疑問が残ります。まあこれは別の話。― つづく ―
2008.08.23
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さて、世の中は北京オリンピックで、なにやら騒がしいのですが、よくある発展途上国の国威発揚ショーをいくら観せられても、スポーツの楽しみとは縁遠く、私などこの期間はテレビを観るのもうんざりです。いったい何時からオリンピックが政治や国家の道具と化したのか、よくいわれる戦前のベルリンオリンピックが政治手段の道具とされたはじめとされますが、それはとくに開会式と閉会式に典型的に現われて、その手法は今でもあまり変わりがありません。 開会式によくある北朝鮮のマスゲームのようなイベントは、世界のアスリートの集いとはまったく無関係に国威発揚のためにあるので、主役たるべき選手たちははるか隅に霞んで、国家が前面に顔を出して国威を煽る。今どきの時代にこのような時代錯誤のイベントが通用するのは、たぶん夏のオリンピックだけで、早い話サッカーのワールドカップは、見ようによってはもっと国家どうしの模擬戦の体を成しているのにも拘わらず、こんなバカげたショーはやらないでしょう。彼らは国際スポーツ大会の本質をよく理解しているのです。 かつての東京オリンピックでも同様のイベントは行われましたが、それでもアスリートが主役であるというスタンスは守られていたと思うので、かのオリンピックが日本の経済発展や国際社会への門出となったとされるのは、あくまで後の話です。今や主催国がオリンピックの主役で、最初から経済や国際社会での存在感を目的として開催するのですから、明らかにオリンピックはスポーツイベントではなく、紛れもなくもっとも低レベルな政治経済イベントになってしまいました。 結果、とくに発展途上国の選手たちには、国家の大きな重い旗が架せられるわけで、中にはそのプレッシャーに負けて棒立ち状態の選手も出てくる。私たちとしては世界のトップアスリートが一同に会して、一流のパフォーマンスを見せてくれるのを楽しみたいのに、国家という重いお化けがのしかかって、選手だけでなく観ているこちらまで重苦しくなってくる、という仕儀に相成ります。 とにかく個人や団体の行っているパフォーマンスを、あたかも国家の栄誉であるがごとく吸い取ってしまうのだけは願い下げですね。それが証拠に負けたら国賊のごとく、原因を個人に押し付けてあとは知らんぷり。国家が栄誉を丸取りするのであれば、負けた場合の責任もすべて国家の責任でしょう。しかし個人や団体のパフォーマンスにどこまで国家が関わっていけるのかといえば、結局観客席の観衆と同じレベルで応援するか、資金や賞金を上乗せする程度で(それも今やスポンサーのほうがはるかに額が大きい)、それ以外に何もできない。 厳密に人と人の競い合いに、国家が関与できる余地などどこにもないのです。 と、ひとわたりオリンピック政治ショー論をやったというのは、敗戦後日本にも今の多くの発展途上国同様、国威発揚の機会を長く奪われていた時代があったので、何でも国家国民レベルに一般化して、ものごとを個別的分析的に考えるということを長くしなかったからです。よく言われたのが、日本人は外国人より体格が劣っているからとか、選手を育てる環境ができてないとか、ここ一番で力を出せないとか、国際大会があると必ず出てくる紋切り型の概説にはほとほと嫌気がさしたものでした。 こういう概括論は、例えば「私、女やし…」というときの女性軍の紋切り口調といっしょで、結局何も言っていないに等しい(女性の皆さんゴメンナサイ)。 野茂というのは、そういう概括論というのが無意味で、さらに云えば(多様な思考を妨げるという意味では)有害でさえあるということを、言葉数少なに身をもって示したのでした。― つづく ―
2008.08.12
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野茂のトルネードは、その意味で雲の上のメジャーを同じ野球という土俵で見るという眼を、私たちに与えたのと同時に、日本のプロ野球を相対化して見るという結果にもつながったので、これは読売を盟主とする日本プロ野球機構にとっては恐るべき脅威でありました。 たった一人の反乱が、機構全体の脅威につながるという前代未聞の事態に対して、機構側がとった姿勢というのはマスコミを通じた野茂に対するわがままバッシングで、それこそ二度と日本に戻れなくしてやると言いかねまじき言説が各新聞を賑わせましたね。この時のマスコミの立ち居振るまいというのは、できればこの事態を野茂だけのスタンドプレーで収めたい、同じことをすればこのように叩かれるという事例を再び作りあげることで、かつてのマッシーこと村上雅則さんと同じように彼をアダ花として、野球界から葬り去ることだったでしょう。 こういう事態は何も当時のマスコミや読売の策略ですべて仕立て上げられたということではなくて、当然それを指示する野球ファンや文化人や野球解説者がいたということを表わしているのです。それはそのまま戦後日本の企業倫理に直結する立ち居振るまいでもありました。以前にも触れましたが、敗戦後日本の唯一無二の倫理基準はムラ社会ではなく企業が担ってきたので、企業組織は当然個人のスタンドプレーを忌避するのです。 しかし事態がマッシーさんの時代と違ったのは、連日メジャーの試合がライブで観られるようになっていたということで、しかもそこで野茂が神話伝説に彩られたメジャーのバッターを次々に三振に討ち取っていく、私たちがメジャーに抱いていたイメージは根底的に覆されて、結局向こうでも同じ野球をやっているんじゃねえかという、これまたあたりまえの現実を目の当りにしたわけです。 大半の日本人が、野茂がんばれ(日本がんばれ!)で拍手喝采したり溜飲を下げたりしていたとき、むしろ一番冷静にこの事態を見ていたのは、日本の現役プロ野球選手たちだったでしょう。野茂という尺度ができたことで、自分たちの力をある程度測ることができる。これはとりもなおさず日本プロ野球とメジャーリーグを等価に相対化して見ることにつながっているので、ならば俺もとその後海を渡る選手が次々と現われましたね。 かつて誰もやらなかった「月面宙返り」を塚原がミュンヘンでやってのけると、たちまちそれをこなすアスリートが数多く現われたように、現役のアスリートたちにとっては誰かができるということは、自分にもできる(あるいはできるはず)と考えるのはごく自然な発想でありました。これは科学などの分野でも、よく見られる現象でiPS細胞が発見されると、たちまちその分野の新発見が次々と現われる、あちこち試行錯誤していた世界中のES細胞の研究者たちが、一つの突破口を軸にいっせいにそちらの方向へ向かって走り出すと起る、いわゆるBreakthrough現象です。 野手としてのメジャーでのパイオニアの栄光は、もちろんイチローですが、しかしこれは野茂のメジャーパイオニアとしての栄光にはまったく比較になりません。一つにはこれはイチローの意図とは関係なく、同じ年に新庄というTricksterが現われて野手としてのメジャー初物をことごとくものにしたということもあるのですが、彼の栄光はもっとはるかな彼方にあるでしょう。それが奈辺のものであるかは、これまたイチロー論の宿題となるのですが、それはまた別の話。― つづく ―
2008.08.07
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イチローフィーバーで日米が沸き立っていた2001年に、新庄がニューヨーク・メッツで、はでなパフォーマンスをやっていたとき、彼らを見ながら感心したことがありました。オリンピック日本代表のような感じはもちろんなく、はたまた日本のプロ野球代表のような雰囲気を感じさせる選手は一人としていなくて、自分が日本で行ったきたパフォーマンスを、いかにしてメジャーで同じように適用(Adjust)するか、だけに心砕いていたように思えたのです。 その意味でも、新庄というのはたいした個性で、日本でやっていたことと同じCharacterをメジャーのグラウンドで見せている。イチローも含めて他の日本人選手がメジャーのパワーやスピード、ストライクゾーンにAdjustするために、多少なりとフォームや練習法を工夫したりしているのに、彼だけは日本にいるときとまったく変わってない(ように見える)。結果的に彼は相変わらず、調子の好いときはメジャーの4番でも打てる(これも日本人初)し、足のケガも相変わらず(フルシーズン出られない)で、要は日本でやっていたときと同じであって、それ以上でも以下でもなかったのでした。 これをどう評価するのか、日本のスポーツ解説者は困ってしまうのです。イチローが打てば日本のプロ野球のレベルがどうのこうのと興奮する解説者や新聞が、こと新庄に関しては何となく冷淡な感じで、あげくの果てが最近のメジャーはレベルが落ちたとかいった話まで飛び出す。活躍する日本人選手によってメジャーのレベルを上げたり下げたりするのは、ハッキリ云ってあんまりフェアじゃないでしょう。私はむしろ日本と同じことをメジャーのグラウンドでできる新庄の個性が好きでした。ただしそれは個性への評価であっても、野球選手としての魅力とはちょっとずれる感じはあったので、結局個性だけでメジャーで通用したのは2年間だけでしたね(まあ彼としては充分だったでしょう)。 このようにみてくると、メジャーのグラウンドに特別な魔物が潜んでいるわけではなくて、いかに自分の技術を相手のボールにAdjustさせるかは、日本でもアメリカでも変わりは無いのです。ということはアスリートとしてやるべきことには変わりがないという、あたりまえの現実だけがそこにあるということで、メジャーに行ったから突然変身したとか、ダメになったということではないでしょう。日本で危うい選手はアメリカでも危ういし、日本で通用する選手は(最大限の対応努力ができる才能があるという前提で)アメリカでも通用するでしょう。最大限の対応努力の才能とは、長谷川や斉藤のように日本のときよりスピードを飛躍的にアップさせるとか、岡島のように新しい球種をメジャーでマスターするとかいった、プロのアスリートとして常に(日本であろうがアメリカであろうが)意識し努力できる才能のことです。 しかしそういう見かたが、選手もファンもごく自然にできるようになるには、やはり雲の上のメジャーという神話を覆して、ものごとを等価に判断させるスーパースターが最初に必要だったわけで、その意味で野茂というのは、たんなる天才ではなく、やはり文字通りのパイオニアという意味で偉いと思うのです。 実はご存知のとおり、日本人選手のメジャー初は、野茂ではなくマッシーこと村上雅則さんですね。これまた40年以上前の東京オリンピックの年の話で、しかも南海出身ということもあったのでしょうか、ものの見事に日本のマスコミからは無視されました。これはあきらかに日本のプロ野球機構を牛耳っていた読売の策謀で、彼は長いことアダ花扱いでしたね。彼の活躍でひょっとしたら日本のプロ野球もアメリカで通じるかもしれないという、期待はどこからも出てこず、もし通用するとすれば王、長嶋だけだという国内神話を流布するのにメジャーは利用されていたのです。この巨人軍神話は自民党の一党支配とともに、敗戦後日本のものの見かた考えかたを歪めるのにおおいに貢献したので、巨人軍不滅神話はさすがにすっかり影が失せましたが、自民党の永久政権支配という神話は、今でも生きていますね。 神話とはバケの皮を剥がさないかぎり、魔物としての威光を失わないので、事実自民党が政権を失ったら日本が危ないと思っている人は意外と多いでしょう。神話の神話たるゆえんです。― つづく ―
2008.08.02
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