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さて途中で農業農政の話が出てきたりして、だいぶ遠回りしてしまいましたが、この話はどうやら終わりにできそうです。 自分=人間がひょっとすると外界に対して有害な存在かもしれない、という観念は、前にもあちこちで触れましたが、2600年前にシャーカ・ムニが喝破したことがらでもありました。物質生産も消費もたかがしれている古代インドにおいても、すでにしてこういう考え方が存在したというのは、人間が他の生物と違って、その欲望を無限大に拡張しうる存在であるということに、古代人の生活レベルでも気づいていたということで、科学的知識や証明がなくても、モノや周囲の環境に対する畏怖というのは、強く意識されていたのでした。 これは何も「人間は本来的に周囲の環境に対して有害だから、肉食はダメ、モノ作りもダメ」ということではありません。実際インドでは、だから虫も殺してはダメ、ということで、これを吸い込まないようにマスクをしたままのバラモン僧や断食を繰り返す苦行僧がいますね。論理的に詰めていった場合の片方の帰結はこうならざるを得ないのです。 結局モノを食べ、モノを作る――自身が存在するためにある種の行為を行ったときには、常に周囲の自然(外界)を意識せよ、というしかないと思うのです。今とりあえず自身の生命秩序維持のために、周囲の自然に負荷をかけるけれど、結果として周囲のモノを消費し排出した行為を我々は忘れません、という意識が必要なのでしょう。今流行りのダイエットでも、毎日体重計を見つめるだけでメタボ抑制になるというじゃないですか。 このあたり、だいぶ前に湯川秀樹さんが「精肉工場の隅に祠があって、解体した牛を弔っている。一見不合理に思えるこの行為は、しかし失くさないほうが良い」とか、おっしゃってましたが、今や祠は人間に供された動物だけでなく、人間がその生活習慣ゆえに周囲にかけ続けている負荷すべての魂を鎮めるために、必要なのかもしれません。 しかしこれもよく考えてみれば、八百万の神々を信仰していた古代日本人にとっては、ごくあたりまえの感覚でしたね。八百万とは人間を取りまく生き物も山も坂も、すべてをあまねく含んだ自然全体を指していたので、日本の多神教とは、本来外界にたいする畏怖とともに、自己以外のモノ(他者・異物)を認める寛容な原始宗教でもありました。従来、多神教は一神教以前の未開の宗教という位置づけが成されてきましたが、古代ギリシャ・ローマが多神教の世界文明であったことを忘れてはいけません(日本の多神教とギリシャ・ローマとの違いは、日本のがより汎神論に近い性格を持っていることで、むしろ古代ケルトのドルイド教などに近しいものを感じます、これは改めます)。いずれにしても、一神教的産業資本主義の堂々巡りの悪魔から逃れるには、どうも小手先の省エネとかECOマークでは不十分で、もっとはるかに根底的な意識の変革が必要なのかもしれません。 反エコ派の具体的な処方せんはいい加減だ、と言っておきながら、おまえの提示している話もずいぶん浮世離れしてナイーブじゃねェか!と言われてしまいそうです。私はこの種の話題(神学論争?)に具体的な処方せんなどありえないと思っています。 ちゃぶ台をひっくり返すような話で申し訳ないのですが、もし示せるとしたら、こういう考え方もある、そういう見方もある、という程度の黙示録でしかありえないので、この長たらしい話を(もし読まれたとして)、どう理解し明日から何をどうするか、などということは、それぞれ皆さんが考えれば好いのです。いずれにしても、巷間やかましいECOマークのついたキャンペーン(布教活動)には、絶対乗るまい、自身の周囲を注意深く見渡し、自身が納得できたぶんだけで始末する、それで充分なんじゃないですか。 世の中には教えたがり屋さん、教えたられがり屋さんが多すぎます。というわけで、私はやっぱりEco Purge!― おわり ―
2008.12.27
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前にも何度か触れましたが、わずか0.2mmの表皮で、外部と内部を厳密に隔てている人間の身体というのは、見ようによってはガス交換や栄養摂取あるいは老廃物の排出というかたちで、四六時中外部と交わり、また始終身体組織を分子レベルで更新しつづけることによって、自然界のエントロピー拡散(無秩序化)の脅威から、生命秩序を守っているにもかかわらず、人間は自己を外界から個別的独立的な存在と意識したがる生き物のようです。 この過剰なまでの個別の意識というのは、どうやら我が身体の隅々まで張りめぐらされた末梢神経と、それを統合し意識させる脳のしわざであるようで、それが証拠に今のIT技術はインターネットで地球の裏側で行われる手術や、宇宙ステーションのロボットアームの感触まで、リアルタイムで直接脳に伝えようとしています。身体の感覚を地球規模にも拡張しうる、という脳および神経組織(情報系)のしくみというのは、容易に自己意識の肥大化をまねくので、ややもすると今まさに我が身が引き起こしている、周囲の環境への負荷を忘れようとしてしまいがちです。 個別的なヒトの身体が加える周囲の環境への負荷など、しれてるじゃないかと云われそうですが、現代人の一日の生活でどれほどの負荷がかかっているのかといえば、ものの本に確か、世界中が今の日本人と同じ生活をしだしたら、地球が3個いる、とかいう話がありましたね(アメリカ人の生活習慣だったら10個以上!)。今どき世界中のマネーの2/3が、仮想の金融商品の運用で動いているといわれるように、現在の私たちの生活習慣はすでに、この生活を世界中に拡張しうるという仮想の世界に足を踏み入れているので、もちろん地球は一個しかありませんから、その場合人類はエネルギー枯渇で、間違いなく滅びるでしょう。 先日のコメントにもありましたが、今回の金融恐慌から発した世界同時不況は、当面のCO2排出には多少の抑制効果が見込めます。養老さんも本書でおっしゃってましたが、人の出すCO2排出量と、人が作り出すGDPは完全にパラレルで、省エネ最先進国の日本でさえGDPが拡大したここ5年ほどは、CO2 は増え続けました。まことに皮肉な話ですが、不況は環境に優しいのです。 しかし、ひとたび景気が底を打ち上昇に転じれば、環境負荷が一気に急上昇することも、これまた自明のことなので、人類の無自覚な自己意識の拡大(脳化社会の拡大)というのは、地球にとっては有害以外の何者でもないのかもしれません。 というわけで、省エネ産業の創出や振興がささやかれたりもしていますが、それによって拡大した産業資本が、結局マネーの形で自由市場に還流してくるのであれば、またまたそれがばく大な環境負荷の要因になりうる。マネーというのはモノと交換できなければ何の値打ちもないからです。かぎりなく自由放任主義に基づいた野放図な産業資本主義というのは、今やこの堂々巡りの悪魔に囚われているといっていいのかもしれません。― つづく ―
2008.12.26
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話がだんだん、いつもの妄想話に近くなっていきそうな気がしたので、しばらく休んでしまいました。 世の中は、70年代の石油ショック以来の急速な景気下降ということで、連日騒がしいのですが、そんななかで、何を今さらECOイジメという感じもしないわけではありません。 とくに景気調整弁としての非正規労働者にたいする大メーカーの首切りは、世界に冠たる超優良企業の名誉とモラルを根底的にくつがえした振るまいということで、長く日本の歴史に記憶されることがらになるのかもしれません。 何が問題かといえば、要はトヨタやSHARPといった日本の看板企業が、率先垂範して非正規労働者の人員整理を行なったので、これは後につづくその他中小メーカーの人員整理に、格好の口実を与えることになるのです。であるなら去年といわず、半年前までの空前の営業利益はどこへ云ってしまったのだ、ということになるのですが、それにまともに応える経営者は今のところどこにもいません。失業が即、居住不安を引き起こすというような事態は、日本の出来事とも思えず、何だか中国か東南アジアの騒ぎをみているようです。 経営者は「これがグローバル化であって、扱いはヨーロッパでもアメリカでもいっしょ」というのでしょうが、労働市場が開かれてない日本で、非正規労働者だけがグローバルの論理を貫徹されるのであれば、そんなグローバル化はやめてしまえ、そんな企業はつぶしてしまえという話になりかねません。今や非正規労働人口は、日本の労働者全体の1/3とも云われます(さらにその後ろには大量のフリーターやニートの皆さんが控えています)が、この労働者市場の創出をおおいに後押しした経団連や労働組合は、今回の事態に対してよほどの覚悟と気配りをもって対処しないと、戦前の日本並みの社会不安が起きますよ。 雇用不安が即、居住や食料不安に結びついた戦前とは、こうした不満若年層の男子を軍隊が引き受けて、一部独占資本家と富裕層に対向していたので、いったん不満を吸い上げる組織が肥大化すると、容易に解体できないというのは、今の官僚組織とよく似ています。戦前の陸軍を軍隊ではなく、今につながる官僚組織そのものだという意見もありますが、おおいに異なるのは、紛れもなく戦前の陸軍は、官僚組織であると同時に武器を持った実力集団だったので、わずかな実力行使で手もなく国家国民を壟断し、滅ぼしたのでした。 同じことがらが今の日本に起るとは思いませんが、時代や社会のモラルがグローバル化という名のもとに退行している(逆行ではありません)ように見えるのは私だけでしょうか。 と、おおいに毒づいたところで、それにしても私が心配するのは、若い非正規労働者ではなくて中高年のそれなのです。20代~30代の人たちは、今後の政策によっては(もし覚悟をもって臨む政治家がいるのならば)、まだ挽回のチャンスはあるのですが、バブル崩壊後に30代~40代でPurgeされた中高年の非正規労働者の人たちは今や40代~50代の後半(私の年代層です)で、再びPurgeにあうことになります。 この層に日本の企業や労働組合は、はたして再起のチャンスを与える気があるのか(こちらも相当の覚悟がいるのですが)、これがなければ大量の国内難民が発生して、その救済のためにもっとも採算の合わない福祉予算が必要になってきます。 と、この手の話をしだすと、興奮するだけではなくて気が滅入ってくるばかりなので、これくらいで切り上げることにしましょう、やはりこんな日本でも、希望と面白味だけは見出していきたいので。
2008.12.16
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一見口あたりのよいECOや緑マークの環境派の話には、簡単には絶対に乗るまいぞ、と思って始めたこの話ですが、実は反エコ派の言いぶんもECO運動のうさんくささや、CO2削減のまやかしに対する指摘は鮮やかでも、実質的な提案というか、「環境、食料、エネルギー」にかんする具体的な処方せんとなると、とたんにトーンダウンしてしまうのです。 「反エコもの」の武田邦彦氏も、ペットボトル回収のムダは指摘できても、その対策が「できるだけペットボトルを使わないようにする、使う場合は2、3回は使い回しする、それだけでもずいぶん違います」というレベルの答えでは、「何やねん、それ」ということになってしまいます。 はじめにも触れましたが、これは科学的な論理で皆が納得できるような筋道を見つけようとしても、もともと地球が温暖化したら大変とか、化石燃料は必ずなくなるといった、いわば教義を信じるか信じないかの神学論争のようなものですから、もとより数学のようにスッキリした解というのはないのです。 ほなら、どないせェちゅうねん!ということになってしまいますが、はじめにあげた、「今どきの環境教ECO派の論議は、日本人古来のECO感覚とは馴染まない」という話に、もう一度戻る必要があると思うのです。 実は白状しますと、「自分の存在自体が、環境破壊とエネルギー枯渇の源泉」という考えかたは、公害と列島改造論と石油ショックで、日本がゆれていた70年代に学生だった私が、就職難のヒマにまかせて漠然と考えていたことがらで、「だから僕たちはキンギョやタンポポと同じように、考えるのを止めてアホになって生きていくしかしょうがない」などとずいぶんネガな気分で、世の中をながめていたものでした(別に先見の明を自慢しているわけではありません、学生時代はヒマですし何を考えてもタダですから。したがって、この間の論理的な整合性も説明しません)。 しかし今になってみると、この命題には意外と積極的な面も含まれているのではないか、とも思えてくるのです。 今どきの環境教ECO派と、日本人古来のECO感覚を分かつ分岐点はどこか。それは一口に云ってしまえば自然(=他者)と自分を別のものと捉えるか、ひとつながりの一体と捉えるかの違いだと思うのです。ECOマークのいやらしさとは、― そんなこと言うて、人間てホンマにそこまで偉いんかいな ―という一点に尽きます。そこには自然や地球の壊れやすさや危うさを強調する反面、それはあくまで人間の生存環境にとっての壊れやすさや危うさであって、自然や地球環境は人間がいなくても、かってに存在し続ける(身体を構成している元素だって、我々が死んで分解しても、ずうっと存在し続けるでしょうが)、という視点がないのです。 早い話、CO2 濃度を元に戻せといったって、いったいどこの時点を元というのでしょう。山が荒廃しつくした江戸末期でしょうか、日本全土が焦土と化した敗戦直後でしょうか、はたまた恐竜の跋扈したジュラ紀でしょうか。ご存知のとおり地球出来はじめのころは、今よりずうっとCO2 濃度は高かったのです。 何だかまたまた興奮してきました、熱を冷ますためにもいったん休止。― つづく ―
2008.12.06
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農地が投機の手段と化し、農家の退廃と農地の荒廃が急速に進みだしたのを、神門さんは90年代のバブル崩壊以降とされますが、実はそれをさかのぼる20年前に、司馬さんが「土地と日本人」というエッセイで、田中角栄の「日本列島改造論」を強く批判して、投機が土地を対象として行なわれるとき、人間の精神をも蝕み卑しくさせると強く指摘したところでした。 例の、司馬さんの自宅近所で、転売すれば坪単価数百万の畑に、1本数10円のネギボウズを作る農家の話です。「坪単価がさらに上がるのを当て込んで、たんに課税逃れのためだけにネギボウズを栽培している、これでは労働の意味も作る意欲も沸いてくるわけがない」というのは、現在の日本の米農地所有者全般にも言えるのかもしれません。 しかしこれは何度もいうように、だから日本の農政はダメだとか、米農家は堕落している、といった犯人探しの論議ではありません。司馬さんも指摘されていたように、ネギボウズを作っている農家の卑しさというのは、日本全体をブルドーザーで錬金術の場としてしまった時の首相と、それに拍手喝さいした多くの日本人の卑しさそのものだったのです。70年当時も90年バブルのときも、都市近郊からまず土地成金があらわれ、その土地を担保に新たな不動産投機を繰り返すという、きわめて退屈な失敗の歴史を日本は繰り返していたのでした。 それにワル乗りして、ディスコで踊り狂っていた都市住民が、農家を哂ったり非難することはできないのです。司馬さんが「土地と日本人」以降、「街道を行く」シリーズなどの一連のエッセイで、繰り返しおっしゃっていたのは、今どきの日本人における「公」の精神の欠如であり、晩年はほとんど怒りと絶望に近い話しかたをされていたのは、よく知られています。 神門さんの激しさも司馬さんと共通したところがあるのですが、食料、農業農政問題の専門家としての内側からの指摘は、より辛らつであり当事者に対して厳しい。これにキチンと向き合い、合理的に議論できあえる人たちが、はたして日本に何人いるのか。竹村さんによれば、農水省の役人の顔がどこに向いているかは、その天下り先をみれば分かる、農家に天下る役人などいるわけがないので、ねらい目のトップは、今ちょっと話題の日本最大の機関投資団体、農林中金でしょう。― 閑話休題 ― 環境だの食料だのエネルギーについて、さかんにECOというキーワードでくくられる世情のムードについて、もう一度自分なりに捉えなおしてみようと思って、このテーマを始めたのですが、例によってすっかり話が拡散して収拾のめどがないまま、やたら話が長くなっています。 しかし今回については、私のせいばかりでなく、この「本質を見抜く力 : 環境・食料・エネルギー」の内容にも原因があるので、地球環境に優しいだの、地産地消で食料自給率UP だの、何となくソフトなイメージで善意を強要するようなECO運動というのが、ひとたび日本の食糧生産、あるいは農業農政といった現実につきあたると、何一つ具体的な議論どころか、議論のためのまともなデータさえ共有されてないということが分かるのです。 しかし私などは、この農業農政にかんする鼎談が挿入されていることで、とりあえずECOの話をさしおいても、新たなものの見かたを明示されたような気がして、それだけでも買った値打ちがあったと思ったものでした。― つづく ―
2008.12.03
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神門さんの指摘とは、ちょっと長くなりますが1. 日本の農業戸数、農水省の公称285万戸は農地所有者の数で、営農を主たる生業としている農家は実質30万戸程度である(そのほとんどが畜産や施設園芸などの米以外の生産農家である)。2. 米作農家のほとんどは片手間であって、主たる収入は農業外収入である(現在の米生産は手間がかからない、したがって概して日本の米農家は都市労働者より豊かである)。3. さらにこれ以外に120万戸ほどの「土地持ち非農家」が存在し、営農に適した平場の農地でも急速に耕作放棄が進んでいる(「土地持ち非農家」とは、高齢のため耕作を放棄した農地、および農地を相続しても営農する気がなく、都会に出て行って耕作放棄地になっているもの)。4. 「土地持ち非農家」を含む農地所有者の主たる関心は、営農ではなく圃場整備等の区画整理によって生じる、土地価格の値上がりと転売であり、概して営農希望者などへの農地の貸与には消極的である(これは大都市近郊だけでなく、地方においても郊外型大店舗やパチンコ店、産業廃棄物の投棄場として転売の対象となっている)。5. 市町村に置かれている農業委員会とは、農地所有者の利益調整を行なう機関で、営農を促進する機関ではない(むしろ営農のための圃場整備や区画整理を希望する農家には圧力をかけている)。6. JAは輸入肥料、種子、農薬、農耕機器を農家に売買したり、融資する商社兼金融機関であり(したがって無農薬農法や有機栽培といった営農自体の努力には消極的である)、また農地所有者の利益団体として団結し、政治や行政に圧力をかけている。7. 日本の農業技術は世界トップクラスであるが、上のような営農意欲とは無関係のシステムの中で、まったく生かされていない(営農意欲のある米農家に圃場整備や区画整理を集約すれば、日本の米は品質価格とも、自由化しても輸入米に充分対抗できる)。8. 本気で農業を生業として経営していくためには、覚悟と希望が必要である(そのためにむしろ中国、東南アジアの農業労働者の受け入れを行なうべきである。彼らの営農意欲は、現在の日本農家よりはるかに高い)。などなど、私なりに理解しえた範囲での上のような要約だけでも、どこかの番組じゃないですが、「おいおい、そこまで言って委員会」という内容でしょう。 早い話、これを養老さんや竹村さんが言ったとしたら、大変なバッシングがしかるべき団体から、巻き起こるはずで、部落問題ややくざの話を部外者がする場合とよく似ています。 これは神門さんが、食料、農業農政問題の専門家である以上に、農家出身だから言えたことがらなので、不労所得による農家の倫理的退廃と、それと連動した農地の荒廃は、この人にとって国や郷里を破壊する身内の行為と捉えているのです。 とはいえ、この鼎談は衝撃的な内容でありながら、あまりにも紙数が少なすぎ、部外者の私たちが完全に納得するには結論までが性急過ぎる。もっと言えば誤った理解に導きかねない内容(私自身、上の理解で正しいのかどうか自信がありません)となっているので、ここはこの人の本編である『日本の食と農 危機の本質』を、ぜひ読むべきでしょう。 大事なのは、この人が、だから日本農家はダメ、JAはけしからん、農水省をつぶせ、と叫んでいるのではなく、正確な事実に基づいた現実は、しんどい内容でもとにかくまず見つめる必要がある、と言っていることで、養老さんはかろうじてこの部分だけは共感できたようです。 というわけで、京都の主要な本屋さんを周ったのですが、どこにもありません。ネットで注文すればいいじゃないかと言われそうですが、本屋さんの品揃えはおのずと時々の社会を表わしているような気がしていて、私は手間がかかっても本屋さんに足を運ぶのが好きです。 余談ですが、最近これと同じような状況を、青山繁晴さんの「日中の興亡」という新刊でも経験したので、お手軽な「中国バッシング」ものの本は所狭しと並んでいるのにもかかわらず、青山さんの本は容易に見つかりません。 どうもこのあたり、私の深読みかもしれませんが、日本人は本当の現実を扱った本や言説は、最初から無かったことにしたいのかもしれません。それが証拠に神門さんは『日本の食と農 危機の本質』で、2年前サントリー学芸賞他を受賞したにもかかわらず、マスコミの取材や講演の依頼という機会はほとんどなかったそうです。 さらには、農水関係の審議会などで、上のような趣旨を発言すると、どこでも一様にしらけるか、無視して別の話題にしようとする。 上のような根本的な問題を閑却したら、絶対話し合いできないような各論を平然としてやっているということで、完全にNeglect(捨像、無視)の状態だそうです。― つづく ―
2008.12.01
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