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開けられた「パンドラの箱」 泣きじゃくる三姉妹とは裏腹に、それを観ている側はウェットな感興など少しも沸かない。糸子がそれを望んでいないからです(ナツキ糸子の最後の就寝場面でも、回想シーンは一切出しませんでしたね)。私はこの「カラリとした死生観」を押し出した作りは、とても斬新だと思うのです。 ましてオノマチ糸子や玉枝の見事な終幕とそれが対照されているので、同じようなフィナーレを期待した向きには「何や、これ?」という事になってしまいますが、それこそ糸子の狙いだったでしょう。 予定調和的な感傷を拒否したまま、決して取り去ることの出来ない「異和」を置いて物語を終える。「三月期はダメ」とか「三月三日までは大傑作」といった受け止めは、ドラマを無思慮に(権力的に)「切り刻む」という仕方で、そのまま糸子の「謎賭け」にハマっているのです。 私たちに出来るのは、「異和」を無理やり飲み下すのではなく(さしあたって、そんなこと出来ないでしょう)、何とかなだめつつ、それと付き合って行くという仕方しか無いのではないかしらん。 開けられたパンドラの箱は、決して閉じることが出来ないのです。これがドラマだから気楽に話していますが、例えば「フクシマ」は論外としても、放射性廃棄物の始末はたぶん現生人類がとっくに滅びた後も、ずうっと続けなくてはならない種類のものです。「異和」と付き合うとは、シリアスな現実ではそうした事況を指すのでしょう。 それに比べたら「カーネー」の異和など、それこそ「茶番!茶番!」ということになりますが。 もうすっかり昔になりましたが、四十年ほど前に「2001年宇宙の旅」という映画が公開されて、観客も批評家もほぼ全員すっかり面食らってしまったということがありました。その黙示録的な近未来とファーストコンタクトの描き方が、難解かつ退屈で私と一緒にロードショーを観に行った友達は、後半居眠りしていたのを覚えています。 ところが十年二十年経つうちに、後発のSF映画と引き比べても、ますますその先見性や斬新さが露わになって来るというわけで、それは今でもそうなのです(早い話、後から作られた「エイリアン」など、ブラウン管のモニターとかキーボード入力のコンピュータが平然と出て来るのですが、この映画はすでに平面モニターや音声入力を予見していましたね)。 まあ「カーネー」がそこまでの斬新性を持っているとは思いませんが、少なくとも朝ドラの予定概念を打ち破り、通例のドラマ的な整合性を壊した意義は大きいのです。 とはいえ、糸子が終幕に感じたと同じような「面白味」を、私たちが感じることが出来るのは、いつ頃の事になるのでしょう。 最後に面食らったこのドラマを何とか「通し」で腑に落とすことは出来ないか?ということで、あれこれ最適な「物指し」を探してみたのですが、結局尾野さんでも渡辺さんでも夏木さんでもなく、「虚構の糸子」に寄り添うしかないのでした。 で、例えば反「権力思考」というような物指しで測ってみれば、多少は風通しが良くなるかと思ったのですが、正直なところ充分納得とはいきませんね(と、またちゃぶ台を、ひっくり返す)。 「そんな簡単に見通しつけられて、たまるかいな!」と糸子に笑われてしまいそうです。 では、こんな話をするのはムダだったのか、と言えばそうでもない。あれこれ考えさせるドラマ(に限らず、事柄)って、今どきそうそうそうないわけで、あるいは十年二十年経って、平成の世もセピア色に変わったら、新たに見えて来るものがあるのかもしれません。 要はこの物語は一筋縄ではいかない。多様な「問いかけ」を観る側に残してあるという意味で、それは取りも直さず「カーネー」のドラマを越えた「底深さ」を表わしています。 それにしても、もっと気の利いた物指しを「糸子」に当てられないか。「多様な声」を響かせることこそ、「カーネー」を称える証しなのですが。― 「糸子的在りよう」とは? おわり ―
2012.05.12
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ちょっと「横にずらす」 蒸し返しになりますが糸子の「不倫」をこれだけ話題にするなら、なぜ勝の「浮気」も同様にもっと取り上げないのか? 彼女が一番腹を立てていたのが、浮気には一向「疑いを抱かない(振りをする)」男たちや、時勢に迎合して何の疑問も抱かず、むしろそれに高揚し扇動していた澤田女史のような「権力思考」のありようだったでしょう。時の大勢に唱和することぐらい「楽」なものはない。なぜなら「自ら決定する(問いを立てる)不安」に向き合わずに済むからです。 思い出してみると、糸子が勝の浮気に対する怒りの持って行き場を奈津にしたのには、何やら彼女の無意識の指向が働いているような気がする。八重子ならいざ知らず、奈津ならばそうした糸子の憤懣に「同情」などするはずが無い(現にそうでしたね)。 反対に「シャキッと、しいや!」と面罵されて、「そや!これでええんや」と納得する。糸子はこうした事柄で人の同情や味方を得たいはここから先も思ってない。奈津は憎たらしいけれど、勝への怒りの捌け口としては、ちょうど好かったのではないか。 要は糸子は失敗も成功も全部自分の「決定」で「引き受けてきた」のであって、事柄を他のせいにしない(弁解しない)でしょう。そうした彼女の振るまいに関して、「自己中心的」とか「自慢話」と謗れば、それはそのままこちらに返って来るのです。 「そういう判断を無前提に下してしまう、あなたの倫理基準は何に基づいているのか?」と。 考えてみれば、この物語は平成の世に漠然と共有されている「通念」に、ほとんどそののっけから「異」を唱えて来たのではないかしらん。 例えば、1 DVはどこまで許されるのか(何を以ってDVと見做すのか)2 「父性」性とは何か(善作は失敗者なのに、なぜ周囲から愛されたのか)3 泉州弁はえげつないのか(では東京語は何を以って是認されるのか)4 岸和田は「特殊」なのか(では何を以って「標準」なのか、そもそも「世界標準」とは何なのか)5 糸子はいわゆる「反戦主義者」だったのか(彼女は「~主義者」か)6 糸子の不倫を非難するなら、ココ・シャネルの生き様をどう評価するのか(日本と世界は「別」か)7 糸子は「自己中心的」か(「自己」を中心に考えることは「悪」か)等々数え切れませんが、ことほどさように今の世で何気に是認されている「あたりまえ」に、ことごとく「?」を立てているでしょう。で、その判断はすべて観る側に「丸投げ」されている。 大事なのはそれらを「全否定」型の軽薄な反骨ドラマにせず、ちょっとずつ横にずらせてみせる。例の卓越した「笑いの力」で、今の価値観をそっくり「相対化」してみせていることでしょう。 「反権力」などと言うと、つい現状否定だの反体制といった、すっかり古びた政治臭を感じさせますが、ここでいう反「権力思考」というのは、繰り返しになりますが、通念の全否定ではなく「思考の枠組の変更」のことなのです。普段何気に事柄を判断している我が身を、ちょっとだけ「横にずらせて」みる構えは、物事を「対自化・相対化」する第一歩でしょう。 となれば糸子が、これまでドラマの中で充溢させていた反「権力思考」振りで、その当の「糸子的在りよう」自体をカッコに入れてみせるということがあっても、ちっとも不思議でない。 ドラマ全体の通常の整合感が崩れてしまうだろうことは、たぶん平成の糸子まで描こうと製作側が決めた時点で予測されたに違いない。何度も言うように懐かしの「昭和オールウェイズ」で平成の「今」を語ることは出来ません。「これまでの『泣き・笑い』は何やったのやろ?」と、カーネーに深入りし過ぎた私たちに否応なく「?」を抱かせるように仕向けてある。 私はそういう意味で三月三日の見事な、したがってはなはだウェットなオノマチ糸子の大団円と、対照するように描かれた「カラリ」としたナツキ糸子の終焉は、よく練られたものだったと最近になって思っているのです。― つづく ―
2012.05.10
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「今を語る」ということ したがって周防の娘との邂逅も、「断舎利」で威勢よく消したはずの思い出が、ヒュッと顔を出すという形で「糸子の美学」を脅かして来たということであれば、例の「前言撤回」パターンということでちっとも不思議でない。 そもそも周防との不倫エピソードというのが、糸子的美学を「絶対的背理」に追い込むための伏線でもあったわけで、それが「家族会議」と「周防との別れ」での、強がりだけど「潔すぎる糸子らしさ」の見事な造形に繋がっていたわけでした。― 長い長い記憶を持ってる … それが年寄りの醍醐味とも言える守り続けて闇のうちに葬るはずやったもんが ウッカリ開いてまう事もある老いぼれた体に とどろく事 打ちのめす事、容赦のうてほんでも … これを見るために 生きて来たような気もする ― このあたり「渡辺あや節」とも言うべき名科白ですが、結局生きている限り記憶など消せるわけがない、「背負い続けたままなのが、生きている証」みたいな話になっていますね。 しかしドラマ自体は何やら「こんな解決で、好いんですか?」と、私たちを追い込んでいるようにも見える。「前言撤回」の構えが、今や観ている側にまではみ出して来ているというような。 実を言うと三月期のカーネーは、単体のドラマとして観れば決して出来は悪くない。私は三、四週目のナツキ糸子は秀逸で、特に最終週に体現された糸子の言わば「カラリとした死生観」は、見事だったと思っているのです。 肝心なのはここが朝ドラ的に丸く収まるほど、全体の印象がズレてスッキリしなくなるということなのでしょう。「それこそ、前のオノマチの凄味じゃん!」とさっそく言われそうですが、もしそれが仕組まれたものだったとしたらどうなるのか? どないしても観る側に対して三月期のカーネーに「二重線を引け」と迫る。しかしいくら引いたところで元の映像が消えて無くなるわけではない。まさしく「先に言うたもん勝ち」の状態に私たちは置かれるわけです。 となるとやはり私には、周防の娘の話だけでなく三月期全体を覆うズレた「異和」の感触というのが、わざと仕組まれたのだとしか思えなくなって来るのです。 で、そう仕掛けたのは誰か?私は糸子だと思う。この物語を思い出すたび、観る側が「永遠の『問い』を立てざるを得ない」ように、糸子はあえて「傷口を開けて、そのままにして置く」ことを望んだのではないか? 「何をバカな!」と言われそうですが、私たちが画面から受ける「異和」は、そのまま糸子の感じる「異和」なのであって、彼女には平成の世が「そのように見えた」のです。 昭和の時代と同じようには平成の世は振る舞えないとうことを、彼女は少なくとも「隠すことはしなかった」。 糸子的に振る舞うごと「上滑り」して「笑えない、泣けない」状態であることこそ、平成の糸子の在りようであって、観る側は勘助のエピソードがそうであったように「想像的に、それに関与せよ」と迫られているのです。 糸子がドラマで振る舞ってみせた「裸眼の心で、何物にも囚われない」仕方を、彼女はまさしく観ている私たちに求めているのです。収まりのいい締め括りで祭り上げられるぐらいなら、いっそドラマ的な整合性を崩してでも「語っておきたい」ことがあったに違いない。 平成の世は確かに「不分明」な世界なのかもしれないけれど、先が見えないことこそが生きている証、糸子もまた同じ「見えない事況」を生きて来たのでした。先を見通すことなど神ならぬ人間には誰にも出来っこないけれど、少なくとも見えない事況への「構え」だけは示すことが出来る。 「権力的思考に陥らないように(囚われないために)、絶えず『問い』を立てよ」と。― つづく ―
2012.05.04
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前言撤回と二重線 「タカが朝ドラに、何を大げさな!」と笑われそうですが(ホンマに)、「三月期はそっくりパス」という仕方で腑に落とそうとするよりは、「なぜ私たちは、このドラマをそのようにバラバラに解体する仕方でしか、感想を述べることが出来ないのか?」という仕方で、いったん我が身に疑問を立ててみたほうがたぶん面白い。 「そりゃ、作り手がそうしちゃったんだから、しかたないじゃん」というのが、まあ一般なのでしょうが、それで始末してしまったのでは、アッという間にしゃべる中味が枯渇してしまいそうです。しかしこのドラマはもっと「多様な声」を、響かせられる「力」を持っているような気がする。 要は我が身を「埒外」に置いた「主語無し」の物言いが、知らず相手の口を封じる(対象から目を塞ぐ)ことになっているのでしょう。主語(引き受け手)を隠した立ち位置から言い募るごと、「本当のこと」はますます見えて来なくなるのです。 糸子はいつも我が身を「前に差し出す」形で、相手に(観る側にも)問おうとする。自身の晩年をなぜあのような形で提示しようとしたのか?その答は厳密に糸子に寄り添う形でしか、永遠に見えて来ないのではないかしらん? そういう意味でも先にも触れた、最終週に描かれた糸子の「断舎利」は暗示的ですね。言わば九十年分の溜まりに溜まった人生の滓のようなものを、「エイヤッ!」とばかりに振り捨ててしまう。これぞ何事も大ナタでブッタ切って、いつも走り続けて来た「糸子的美学」の極致で、人生の店仕舞いに際して彼女はあえて「宝の跡」を死後に遺すことを拒んだのです。 映像もその意図をよく汲んでいて、壁を剥がした時のもうもうたる土ぼこり、もちろんそれは「あだし野の煙」となって消える現世の我が身を重ねているのです。その前の畳に寝そべるシーンと合わせて、久しぶりに糸子を観た気がしました。 しかし、ここには「それまでの糸子像を、全部カッコに入れてしまおう」という底意も隠れているのではないか?一人語りで進められて来た物語に付着した「宝」は、語る人がいなくなればたんなる「遺物」に過ぎない。糸子は自身の遺物がその後を生きる人たちを拘束することはしたくなかったのでしょう。 「九十過ぎたら思い出なんぞ もうどうでもエエで。それより 今とこれからや」と、はなはだ元気な糸子ですが、ここの「今」とは、今日の昼ご飯のことなのです。笑っちゃいますね。 例の『与うるは受くるより幸いなり』という聖句に「それや!」と同意した糸子が、その後すぐに、「こんなん 人一倍欲深い人間やないと言わんでェ。初めから欲無いような人は こんな事考えんでエエんや … 」という調子で、ことほど左様にこの物語は(ということは糸子は)、常に「前言撤回」という形で、何事も話を「相対化」しながら進めるのです。大事なのは言った事を「全否定」するのではなくて、言った中味はそのままに「上から二重線を引く」ようにして、なおかつ「先言うたもん勝ち」にして残して置くということ。 あるいはちょっと目線を横にズラして自分自身を「笑い飛ばす」といった構えで、これって大阪的「笑い」の原点のような気もする(ズラすあまり何が本旨だったか、途中から分らなくなって来ることも多い)。 そう言えばオノマチ糸子でも前言どころか、彼女のナレーションと劇中で演じている(言っている)ことが、ほとんど重なるようにして出て来て、しかもナレーションと演じている中味が「ズレている」というような場面が何回かあったでしょう。面白いのは、それによってナレーション自体も相対化されて、「語り」が出所不明の「天の声」ではなく、生々しい(しかし別目線の)糸子の声として聞えて来るということなのです。― つづく ―
2012.05.03
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