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糸子の話からずいぶん遠ざかっていますが、何だか面白いのでもう少し続けます。 禅の修行者はなぜコトバを排除するのか?それはたぶん自我を「自他未分化の状態」にまで差し戻すことによって、我が身をより「自在」にしたいということなのではないか?「自在」とは外部=自然が風のように身内を吹き抜けていく、というような状態のことです(動物は身内を風が吹き抜け、それに身体が反応することを永遠に繰り返しているわけです)。 彼らはそうしたコトバ発生以前の風景にこそ、真の「現実」が開示されていると考える。これは一種の「自我の拡張」あるいは「人為的な初期化」であって、自他が未分化のまま開いている状態に他なりません。それによってより高い「自在性」(あるいは「自由」)を我が身に招来させようということなのでしょう(私見ですよ)。 何やら小難しい話をしているのは、コトバの発生以前を考えてみることで、逆にコトバの在りようが見えて来るかもしれない、という読みがあったのでした。自他が未分化のまま開いている状態なら、他者に語りかけるコトバはそもそも必要ありません。自意識が芽生えると同時に外部が生じ、両者を架橋するためにコトバが発生したのではないか。それに不可欠な要素として、コトバには「意味」が必然的に付着してくるのだろう。で、コトバの持つ「意味作用」は外部だけでなく、我が身にも同時的に向けられているわけで、時に人は外部の他者とは関係なく、我が身内の「誰か」に向って語る場合もあるだろうということなのです。平たく言えば「内省」ということなのですが、これは「内なる他者」に向って語りかけることに他ならない。 前に記憶の蓄積と忘却について触れたことがありますが(「記憶」と「時間」 2012年02月04日)、そこでは、― 私たちの日常の「記憶」は日にちを重ねるごと、「折りたたまれて、蓄積されていく」 ―のではないか、ということなのでした。 ここでもまたネコのような動物を想定してみると、彼らでも痛い目にあった記憶は蓄積されているわけで、同じようなシチュエーションは避けようとする。しかし大事なことは彼らの記憶は、ほぼ間違いなく「日にち重ねるごと、折りたたまれて蓄積されていく」形なのではないだろうということなのです。いわばランダムな痛みの記憶の「反射」として、現在の振るまいがなされているわけで、そこにはもちろん「内省」などという働きはないでしょう(たぶん)。外部から風が吹き抜け、ほぼ自動的にそれに身体が反射している状態と言って好いのではないか? となると、人だけに生じるらしい「記憶の折りたたみ」には、やはりコトバの持つ「意味作用」が関係しているのだろう。たんなる五感の記憶のランダムな蓄積でなく、それを秩序づけているのはコトバであり、意味作用によって折りたたみという形で、記憶が「整序」されていくのだろう。で、この整序された折りたたみの在りようこそ「時間」という感覚なのではないか? というわけで、ここまで来るとコトバの意味作用には「時間」感覚もビルトインされているような気がして来ますね。我が身に向って語りかけるとは、「時間性」を抜きには考えられないわけで、すべては「終ったこと」を前提に語られる。「終ったこと=過去」の意識は、同時に「まだ招来しないこと=未来」の存在も予感させるでしょう。我が身が「時間性の中に投げ込まれている」のを認識できるのは、優れてコトバによる意味作用の結果だと私は思うのです。 と、年の瀬にもかかわらず、はなはだ晦渋な話をしてしまいました、すいません!― つづく ―
2012.12.31
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もう一度素に戻って糸子のナレを聞いていると、何も「神」のような難しい相手を想定しなくても、人はしばしばそうした仕方で「誰か」に向ってコトバを発しているのではないかという気がしますね。この場合の「誰か」とは、例えば「いつでもどこでも必ず、確かに聞いてくれているはずの相手」というようなもののことです。 それは父母とか友人といった実体的な相手では必ずしもなくて、自身がどうしてもコトバを発したい時に聴き手となるべき相手ということです。動物のような唸り声を上げる時ならいざ知らず、コトバとは本来そうした「他者」を想定しないと発し得ないものなのかもしれません。「沈思黙考」という言い方がありますが、たとえ一人の時でも人は内に「聴く者」を想定してコトバを発しているのでしょう(動物の咆哮は間違っても「内なる我」には向っていない)。 話は思い切り外れますが、ネコに鏡を見せるとしばらくは鏡に映った像に(それが動きを止めないので)、さかんにちょっかいを出しますが、取り付くシマがないとなると次第に関心をなくす。これに対して人間の乳児は簡単には鏡の前から離れないどころか、たび重ねるつどむしろ関心は強まっていくように見える。これはたぶん人間の乳児だけは鏡に映った像が「自分」であることに気付いたからだろう。J・ラカンはこれを「鏡像段階」と呼んだそうですが、「我を知る」とはまさしくこうして自分の像を外界に見る=他者の発見、という仕方で最初は意識されるのです。 この「自分の姿を知る」とは「自意識」の発生に他ならず、逆に言えば動物には自意識は発生し得ない(たぶん)、つまり彼らにおいては自他の関係が未分化(「自己」という認識がない)のままなのです。とはいえなぜそれがそうなのか、そもそも果たして本当に人間だけが「自意識」を持ち得ているのか、ゴリラなどの霊長類を見ているとたちまち不分明になって来るような気もする。 例えばネコと飼い主といっしょに鏡の前に立たせたら、ネコは鏡に映った飼い主をそれと認識するだろうか?という疑問が湧いて来ますね。これもたぶんネコは次第に関心をなくして、飼い主とともに「自己」が映っているという認識には到らないだろう。しかしゴリラやチンパンジーならどうなのか?鏡に映っているのが飼い主であると同定したなら、その傍に映っているのが何者なのか、彼らはひょっとして薄々気付いているのかもしれない。しかしネコがその前段階で停止したように、彼らの認識もここらへんでたぶんストップするでしょう。たんに頭が追いつかないということじゃなくて、うかつに「我を知る」世界に踏み込むことの危険を、人間以外の動物の遺伝子は、あらかじめビルトインされているのかもしれない。「我を知る」とは外界と自己の分裂に他ならず、同時的に精神病の発生も予感させるからです。ゴリラやチンパンジーの精神病はあまり聞かない(ヒステリーやノイローゼはあるみたいけど)。 しかしまあこれらは面白そうだけど、ここの話からは離れるいっぽうなので、これくらいにしておきましょう(それにしても誰か、こうした酔狂な実験をやる人はいませんかね?)。 私が言いたかったのは、要はコトバの発生というのは、この「自意識=他者の目覚め」と関係があるだろうということなのです。咆哮や嘆息に自意識は不用ですが、コトバは「意味」を保持しているため他者にも自己にも作用する。この場合のコトバの「意味作用」とは、分裂した外界と自己を何が何でも接着するために、たぶん編み出されたものだろうというのが、ここでのはなはだ雑駁な推論なのです。 話がどんどん飛躍しますが、例えば「不立文字」を目指す禅の修行者というのは、言わばコトバ発生以前の在り方を想定しているのではないか。「我を去る」とは、まさしくコトバによって我と外界を分ける以前の状態に、我が身を置くという事に他ならず、言い換えれば仮想的に我が身を動物の状態(自他未分化の状態)に置くということなのかもしれないのです。 ちょっと難しくなってしまいましたね。― つづく ―
2012.12.26
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という問いは、ずうっと以前に少し取り上げたことがあるのですが、ここで改めてじっくり考えてみたいのです。 ドラマのナレーションというのは不用意に多用されると、得てして観る側の想像力を奪ってしまって、少なからず白けるものですが、「カーネーション」の場合は逆にそれが増幅されるでしょう。それはたぶんこのドラマでのナレの立ち位置がハッキリしているからだと思う。 要は糸子の「一人語り」であることによって、ドラマからより多様な音階が響いてくるような仕掛けになっているでしょう。それは時に主人公とともに泣き、あるいは笑い飛ばすといった具合の「盛り立て役」なのであって、主人公から離れた神のような座にいるわけではない。 能のシテ方の「高揚」に連動して、謡の吟唱部分を地謡(じうたい)が唱和するように、糸子のナレはしつらえられているのです。 面白いのは、それでも語る糸子と演じる糸子の間には、微妙な距離感があることで、完全に一体化しているわけではないということでしょう。言ってみれば若かりし頃の自分の失敗も成功も、一切合財をいとおしむみたいな。「回想なんだから、あたりまえじゃん」と云われそうですが、そんな単純なものなのかどうか?普通ナレというのはドラマの補足や解説で使われ、出来るだけ客観的であろうとするわけですが、それが一人語りで行なわれる場合、誰に向って語られているかというのは、ドラマの構えや印象に深く関わってくるわけです。 アメリカ映画などではナレを入れる場合、主人公の身内への手紙とか遺言という形をとることが多いのですが、日本ではわりと誰宛なのかハッキリしない場合が多い。要は「たかがドラマじゃん」と、あまりこだわらずに用いられていることが多いのではないか。 一口に回想と言っても、いったい誰がいつ誰を宛先にしているのかによって、語り口は自ずから変わってくるわけです。ここの糸子の語りは、いつ誰宛に発せられたのか?子供たちなのか、将来の自分なのか、それとも今は亡き父善作や勘助なのか、しかしいずれもしっくりとは腑に落ちませんね。 では単刀直入に視聴者宛に向けられているかというと、一般社会では不特定多数に向ってこういう語りかたは普通しないものです。逆にドラマとか小説に手紙や一人語りがよく出てくるのは、まさしく一般社会の語り口では語り切れない「私的」な話が、この形式では出来るからでしょう。 私たちは通常観ることの出来ない秘密の場面に「立ち会っている」という位置に置かれるわけです。 「個人の秘密」に立ち会わせるような語り口でヒントになるのは、モデルの綾子さんがクリスチャンだったという事実でしょう。私は綾子さんが自伝などで、自身の不倫も含めた事柄をあえて記した構えに、通常の日本人とは異なるマインドを見止めてしまいます。普通私たちはこうした時、自身の告白より世間への配慮を優先するでしょう。 これはひょっとするとクリスチャニズムの「告解」に似た構えだったのではないか。全能の神の前では自身の振る舞いは、何をさておきすべて明らかにされねばならない、というのが一神教の構えでしょう。 とすれば糸子の語りの宛先もまた「神」に向いていたのでしょうか?確かにこのドラマには何がなし聖書的なイメージがあちこちに散見しますね。他に先んじて罪を引き受けた勘助とか、娼婦に落ちた奈津の救済とか、寡婦としての玉枝や糸子という具合に、創作手法の根っこで綾子さんのマインドを引き継いでいるような所があるのです。 しかし、かと言って糸子が毎度仏壇に手を合わせていたことも私たちは知っているわけで、一概にこの語りが「告解」に似た語り口とするのには無理がありますね。― つづく ―
2012.12.24
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ところで、ここの親族会議のエピソードに限らず、実際にはもっと辛いことや笑える話がコシノ家にはあったはずです。しかしそれらが何の作為もなく描かれたなら、ドラマは途端に「特異な一家の物語」という、たんなる他人事に転化してしまう。むしろ恐しく謹直に実際にあったことに作り手が想像的に関わった結果、すこぶる魅力的な人物像が生まれたのです。糸子はかつて確かにこの世にいた綾子さんと、平成の今の世を結ぶ「想像力の糸」なのだと思う。 でその目的は、たぶんそれを「望む人たち」には、ドラマをいくらでも我が事のように「内在化」出来るような、外に「開かれた作り」にしておくということだったでしょう。 というわけで、ここで描かれた他をもって変え難い糸子らしさや、勘助他の人物造形に共通して流れるこのドラマのマインドのようなものを、例の糸子的「反権力的思考」とは別の新たなものさしで考えてしまうのです。 先の「私は人間の不正直は責めるが、人間の愚かさは責めない」という神門さんの字句を手がかりにして、これを糸子ふうに言い直すとするなら、― 私は我が身も含めた人が往々にして仕出かす「愚かさ」は責めないけれども、そうした「愚かさ」の存在自体を認めないような人の「傲慢性」あるいは「不正直」は許せない ―といったことでしょうか。 神ならぬ人間がしばしば失敗を犯すのは、むしろ有限な生き物としてあたりまえ。しかしそこで人をたんなる生き物でなく人たらしめているのは、当の失敗を率直に受け入れること、きちんとそれを正直に「言明」出来るかどうか、というところにかかっているのではないか知らん。しかし、これがなかなか私たちには出来ないのですよね。「真正直」であるということは、往々にして世間との軋轢を生むものです(とくに日本では)。 逆にこのドラマの後味の清々しさというのは、「殺ってしまった」勘助は(他の日本兵と違い)それから眼をそむけることが出来なかった、「不倫した」糸子はそれに関していっさい弁解しなかった、というところから生まれているのでしょう。 さて今どき、むしろそれとは真逆の強がりや隠蔽が、世に蔓延しているような、してないような。 「男の人の商売見とったら、何でこんなことに意地張らんならんの?チャラっと頭下げとったらエエやん、て思う!」「そや、女はそこをチャラっと下げられるんや。張らんならん意地なんか、ないさかいなあ。 … これは強みやで」と糸子。 これは「親族会議」ではなく、ずうっと後の「太鼓」での糸子と女性経営者たちのちょっとした会話なのですが、何やら世間にがんじがらみにされて身動きが取れなくなっている、男社会に対する強烈な皮肉とも取れますね。目覚めた女たちが進化しつつある間、既存の権力構造に守られた男たちはテレビにしがみついているわけです。 糸子的「正直」のありようから見てみれば、男社会というのは「正直」であることから構造的にはじかれざるを得ないようなところがあるのかもしれない。早い話、弁護士のディベートなどというのは、自分のクライアントの非は絶対的に認めないという前提で話が進むのです。彼らにとって「正直」であることとは、それこそ「愚かさ」の表象以外の何物でもない。 日本の法廷物がアメリカのに比べて今一サマにならないのは、彼我の「正直」と「正義」の捉えかたにかなりな隔たりがあるからではないかしらん。― つづく ―
2012.12.05
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さて、さすがに最近は録画した「カーネー」を繰り返し観るということはなくなったのですが、お気に入りの科白や場面は今でも鮮やかに蘇ります。面白いのはそれらが今だに、ふと別の表情で観えてくることがあるということでしょう。 「親族会議」の終りに三姉妹を登場させたことで、糸子の「他を以って換え難い」キャラが薄まったんじゃないの?という疑問は当初からあったのですが、少しずらせて前後の流れも含めて考えていると、「なるほど、そうか」という発見が次々と沸いてくるわけで、それが面白くて仕方がない。 もちろんそんな私の思い付きなど取るに足らないのですが、肝心なのはそうした「多面的な観かた」がいくらでも出来るように、これがしつらえられているということでしょう。それは取りも直さず、このドラマが「開かれた構造」になっているということを意味します。かなり良く出来たドラマでも、得てして作り手の自己満足的な想念で「閉じられた」作品は案外多い。その場合、解釈は一意的で一回観れば充分。仮に謎掛けめいた結末になっていても、それがいかにもベタな演出であれば、だいいち観る側の「もっと知りたい、考えたい」という欲望は起動しようがないのです。 このドラマでは「私は、こうでした」と陳述するとき、糸子は何一つ言い訳しない。この潔さは作り手の「態度」そのものでもあるでしょう。さて、「観ているあなたは、これをどう思います?」というような。 積み上げて来た当の糸子らしさを、上から二重線を引くようにして相対化してみせる。これは何も描かれた糸子を否定するということではなくて、新たなステップに引っ張り上げるためになされた仕掛けなのでしょう。 それは例えばベートーベンの第九番「合唱付き」第4楽章の冒頭が、前3楽章すべての否定から始まるのとよく似ている。以前私はこのベタな演出的構造が全然納得できませんでした、否定するなら合唱部分だけで充分じゃないかということになりません?しかし、これは聴き手を新たな世界に導くのに不可欠な過程だったのでしょう。前3楽章で恐ろしく長大かつ斬新な音楽世界を聴かせておいて、なおかつそれに二重線を引っ張ってみせるというのは、じつはそれまでの過程の「全消去」とはまったく違う。否定形を取りつつ、それまでの音楽とそれに立ち会った人たちを、さらに新たな階梯に引っ張り上げようというのが、こうした構造を選ばせた理由なのでしょう。 こういう思考法というか、一見いかにもシンキクサイ経路を辿ってみせるというのは、何事も結論や結果だけを優先して、すぐ「分かったつもり」になる今どきの風潮とは、かなり違う構えだと思うのです。同じ結論でも、途中経路が経験されている場合と、されていない場合では、結果の相貌はまったく異なって見える。途中経過を知らない人は、結果以外の「ひょっとして、有り得た可能性」を想像するよすがは、永遠に「閉じられている」じゃないですか。 しかしご存知のとおり、この世は先の見えない世界なのであって、一意的な径路予測だけですべてが片付けられるわけではない(あたりまえです)。となると途中径路が経験されてない人たちにとっては、結論以外の結果はすべて「想定外」になってしまう。まさしく「シンキクサイは、寿命縮める」のです。 現に、ドラマでは朝帰りの糸子に「ウチは、また前に進みます」とナレで言わせていますね。成熟に到る道はまだまだ続くし、これまで経験したことが、すべて「正しかった、身になった」とはとても言えないけれど、それでも「私は、こうでした」と、それらを率直に言明しておくことは決してムダではない。 経験の経路は厳密に「個別的」に語られることによって、「普遍性の彼岸」にたどり着くことが出来る。「物語」とはそうした個別性を擬似的に体験させるよすがとしてあるのでしょう。― つづく ―
2012.12.01
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