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「何や、~ 何か用け?」 と、江波さんの奈津が登場した時、誰しも子供時代からの糸子とのユニークな関係を一挙に想い起してしまう。今だ気位高い立ち居振まいに、彼女のちっとも変わってない気息が鮮やかに蘇るのです。 イケメン院長にご機嫌だった奈津が、振り返って糸子を見止めた途端の豹変振り。笑ってしまいますね。 それにしても科白も出番も極端に少ない江波さんの奈津は、かえって「その後の奈津」を何やら想像させる。戦中戦後、糸子よりもはるかに惨烈な経験をした奈津が、あのように玉枝や桜井から差し伸べられた「手」で、果たして本当に「救われた」のか釈然としなかった気分が、この病室の奈津を観ていて再び強く立ち昇って来るのです。 前に触れましたが、奈津には無意識の「母親憎悪」という心理的「囚われ」があって、戦時中にそれが現実化したかもしれないというトラウマがあるわけです。 となると、その解決は簡単に済むわけがない。江波奈津を観ているとどうしてもそう思えてしまう。 「何や、~ 何か用け?」 奈津の母の死の真相は、他の死者の場合と同様に決して語られないのですが、むしろ語られないことによって、かえってそのおぞましさが増幅する。奈津がよう語れないように、糸子も聞くのをためらう種類のものであったということです。 で、同じような心的外傷が当時の玉枝にはあっただろう。その現れ方は「夫のみならず息子二人も、戦争で死なせた」というトラウマだったのではないか?奈津が簡単に「戦争で母を失った」と自身の気持ちを割り切れないように、玉枝もひょっとして一意的に「戦争が悪い」と決め付けることが出来ない、何やら得体の知れない心理的抑圧があったかもしれないのです。その中味はそれこそ闇の中ですが、あるいは妻として母としての「我が身を呪う」心理であったかもしれない。 玉枝の夫は確か第一次大戦の「青島の戦い」で病死したとなっていましたが、この戦争における日本兵の死者数は、その前の日露その後の第二次大戦に比べて、ほぼ取るに足らない数であり、彼女はその希なるケースに属していたことを示しているのです。 我が身が誰にも代替出来ない「悲運のもとに(呪われて)生まれ付いてある」のかもしれないというトラウマは、時に周囲への破裂となって現れる。内心に潜む「悪魔」を見まいして手近な外部に対象を見出す、その結果が糸子や八重子への半ば理不尽な攻撃となって現れたのでしょう。 奈津もまた得体の知れない「内なる悪魔」を見まいとする結果、居丈高な振るまいと「救いようのない面食い(二枚目で我が身を飾る)こと」によって周囲に巨大なバリアを築いている。その奈津が玉枝にだけ「心を許した」というのは、同じような「恐ろしい空虚」を彼女も抱えていると感覚的に嗅ぎ取っていたからでしょう。 このあたり、このドラマで「創作された人物たち」には、あの勘助も含めて共通したトーンがありますね。言わば「内なる悪魔」を背負った人物たちの、それぞれの救済の物語のような。となれば、これはおそらく綾子さんの語った「与うるは受くるよりも幸いなり」という聖書の聖句に、強く共感した作者がそれをこのドラマの基本トーンの一つに据えようと考えた結果なのかもしれません。 聖句はそのままでは単なるお題目に過ぎない。具体的な「物語」があって初めて力を持つのです。 とはいえ、それが同じ「巨大な空虚」を抱えた玉枝から差し出された「手」によって、奈津が「救われる」という展開はいかにも甘い。彼らの背負った傷はそんな簡単に癒えないだろうとは誰しも思うでしょう。 まあしかし、そのあたりは朝ドラと言わずテレビで取り上げるには、あまりにも深刻過ぎるのかもしれない。糸子のヴァイタルな生き様がメインのドラマにあって、それと拮抗するほどの重い課題をこれは突きつけてしまうのです。 勘助は「彼のやったこと」の中味を明さないことによって、戦後の日本人が直面するのを集団的に避けて来た「内心の悪魔」を、「他に先んじて引き受ける」役柄に昇華して行ったのですが、奈津や玉枝の「救済」はそのようなわけには行かない。 この難関を回避するには、奈津には玉枝との出会いのあと、いったん表から姿を消す他なかったのではないか?主人公ではなく糸子の心像風景の写し絵として、時々顔を出すというような形であれば、かろうじて軽重のバランスを保てたかもしれないのです。 その上での江波奈津の登場ということであれば、どれほどドラマティックな邂逅場面になったか? パンパンといった敗戦後の日本の最底辺を彷徨しながら、なお得体の知れない「怒りの炎」だけを糧に、いつの間にかキタの「夜の女王」にのし上がって行く、というシナリオはかなり蓋然性があるのです(相似したエピがサエという人物で、はなはだ軽い形で描かれていたのは残念でした)。 奈津の独特な魅力は、ひとえに糸子との「完全な対等性」によって保たれているので、糸子が保証人になった瞬間から彼女たちの特異的な関係性は損なわれてしまいました。いくら「これでチャラなんやから礼言わんでええ」と糸子が言い募ろうと、互いの「ことさらな引け目と気遣い」という形で心理的にはすでに非対称になっている。 その後の奈津が何やら丸く小さく見えてしまうのは、先の甘い「救い」の結果なのです。 繰り事ですが、やはり奈津には「シャキッとしいよ!」と、正面から糸子を面罵する姿が相応しい。江波奈津にかつての面影を見てしまうのは私だけではないでしょう。 で、それはひょっとすると糸子自身の希望でもあったかもしれない。もし創作された人物たちが主人公の心象の写すものであるなら、奈津と糸子の何やら独特な「同志」的関係も見えて来るのですが。 老残の奈津との邂逅で見落とせないのは、奈津のほうは「一方的に今の糸子を知っていた」ということでしょう。雑誌その他で世に顔を出していたのが糸子で、奈津はそれを密かにウォッチしていただろうということです。 これに気付いた糸子に去来するものは何であったか? この物語は糸子が我が身一つの心にしまっておくことが出来ずに、「いつでもどこでも、確かに聞いてくれているはずの誰か」を措定して、それに向かって語るような形で進行するのですが、その中には奈津も入っていたでしょう。で、この時糸子は予期以上に奈津が近場にいて「いつも見ていてくれたのだ」と確信したに違いない。 病院でのファッションショーを夢想する中で、着飾った糸子と奈津が並んで出て来ますね。確か奈津は純白のドレスだったと思いますが、これは何やら彼女の「内心の炎」を鎮めるための配色であったようにも思える。で、それが糸子の夢想であったということは、奈津が蔵する得体の知れない「炎」を、別の形で糸子もまた宿していたということではなかったか? 糸子がどないしても奈津を探し回ろうとするのは、我が身の「内なる炎」の在り処を見止めておきたかったからかもしれないのです。― 長い長い記憶を持ってる … それが年寄りの醍醐味とも言える守り続けて闇のうちに葬るはずやったもんが、うっかり開いてまう事もある ― 不評頻々だった周防の娘と会った後の糸子のナレですが、私はむしろそこに唐突に挿入された花火の意味が分りませんでした。 しかし、今となって思うのは、「内なる炎」がうっかり開いてまうのが、例えば糸子だけでなく玉枝や奈津も含んでいるのだとすれば、この花火の破裂は何となく納得出来るのです。彼女たちの蔵する「怒り」や「絶望」は、糸子よりはるかに激しくて深い。八重子が玉枝の死に「ホッとした」のは、その「内なる炎」が再び燃え盛って玉枝を苦しめることなく静謐に消えていったからでしょう。 さて大事なのは、続くナレで、― 老いぼれた体に、とどろく事打ちのめす事、容赦のうて、ほんでも … これを見るために生きて来たような気もする ― 渡辺さんらしい詩的な語りでいろいろ解釈出来そうですが、要は「内なる火」とは「生」そのもののことであって、それは善にも邪悪にもいかようにも変容する。「生きて在る」とは、この両義的な「火そのもの」といった意味でしょうか。 しかしここまで人の心に入ってしまうと、実在の綾子さんの印象とはかけ離れた人物像、あるいは通常人が見まいとしているような「得体の知れない炎」が現れてくるわけで、三姉妹ならずとも「一言云いたくなる」気持は分る。それが生き物全般にあるらしい善にも悪にも両義的に作用をする「炎」だからです。 したがって奈津=炎との和解編はなくて(そんなものは永遠にありません)、最後は病院での記念写真だけとなりましたね。 と、いささか本編から逸脱した妄想話を長々としてしまいましたが、要は「外に開かれた物語」というのは、どのようにして観る側の想像力を飛翔させるのかしらん、ということを江波さんのはなはだインパクトのある奈津の表情に刺激されて見てみたのでした。 「観る側が試される」というのは、何も「上から目線」で見下ろされているわけではない。出来上がった作品にどういう印象を持ちどんなふうに語るかは、それこそ観る側の自由で作品とは完全に対等な関係にあるのです。 そこから何を読み何が掘り出せるか?は観る側に「丸投げ」されている。でもそういう気分を可能にしたのは、一見賑やかに設えられているこのドラマの、実はあえて「語らない」「見せない」姿勢であって、つまり「外に開いておこう」とする作り手側の潔さが、これを保障しているのでしょう。― 「何や、~ 何か用け?」 おわり ―
2012.09.25
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消費マインドと、心の糧 番組は終わったのに、ここの書き込みが一向に止まないのは、なぜなのでしょう?半年も経てばとっくに賞味期限切れ、横並びの「記憶」として片付けられてしまう所、何やらそれを拒むようなところがこのドラマにはあるらしい。 要は多くの視聴者がこのドラマを消費すべき対象と考えず、いわば「心の糧」のように捉えているからでしょう。 それはこの「朝ドラ」が、言わば「共通記憶」を呼び起こすモノとして映っているからかもしれない。で、実はその「共通記憶」に根拠は何もない。確かにあると言えるのは、このドラマを「もっと知りたい」という願望だけでしょう。 「もっと知りたい」とは、カタログ的なデータを貯め込むということではなくて、自身の「視界」を引き上げて、新たな眺望を観てみたいということなのではないか。 モノを「もっと知る(楽しむ)」には「我が身が変容する」しかないのです。 そうした「欲望」が起動する時、人は何ら根拠のない「共通記憶」のようなものを予め措定して、何とかしてそれに近づきたいと願うのではないかしらん。 「何や知らんけど、皆そう言うから、『だんじり』担がなアカン」みたいな。コワい大人 起源とか根拠とかが判然としないにもかかわらず、「そういうことに昔からなっている」という仕方で、大勢の大人が何やら怪しげな「共通記憶」を必死で担いでいる時、その理由を聞くことは禁じられている。木岡のオッチャンにもし「何で『だんじリ』担がなアカンの?」と子供が聞いたなら、間違いなくその場でド突かれたでしょう。 安っぽい「対価主義」が教室の中まで蔓延している今日この頃、「何で学校行かなアカンの」「勉強して何か得するの」と聞くのと同じ仕方で、大人を平然と試す子供は少からずいそうです。 こういう時キチンと叱りつけられる親や先生は、どれくらいいるのかしらん。「お前はそんなこと聞く立場ちゃう。子供のくせに生意気言うな」と。 それが分る時とはそういう聞き方をしなくなった時、つまり「自分のほうが変わるしかない=大人になるしかない」と気付いた時ということなのですが、どうもこういうのは今どき流行らないようですね。言い換えれば社会全体が子供染みた「対価至上主義」に陥っているという事でしょうか。 まさか善作や糸子のような「コワい大人」には、こんなバカな質問は誰もしないと思うのですが。「我が事のみ」 一見我の張った自己主張が目立つ彼女ですが、私がつくづく感心するのは、糸子の振るまいの基点には「我が事のみ」の発想が皆無なことなのです。― ウチという人間が信用でけへんという理由で、離れて行くお客もあるやろうと思います。けど、ウチはホンマにしょうもない人間かもしれへんけど、…「ウチの店」「こさえてる洋服」「働いてる者ら」には、何があっても(私は)自信を持って、これからもやっていくつもりです ―と言い放つ糸子のパワーはどこから備給されてくるものなのか。絶対的な自信があって言っているのではなく、店とか客とか家族、従業員を引っ張っていくという彼女の「立場」が、それを言わせてしまうのだと思う。 例えば「孤食」の人はコンビニで買ったおかずをいちいち皿に盛り付けませんが、そこに恋人や家族がいればなぜか「料理」をしてしまうでしょう。「他者」は「自己」に対置する阻害物としてあるのではなく、「自己」をひとりでに拡張させてしまうものとして在るのです。 糸子はそのあたりの人の関係性が、よく分かっていたに違いない。「昭和」という過去、「平成」という今 「我が事」に囚われるのではなく「他者との関わり」においてこそ、デッカイ「自己」が実現出来てしまう、糸子はそういう人の心のからくりを、ややこしい理屈でなく皮膚感覚として若い時から人一倍持っていたような気がする。 それは同時に確かにあるはずと思って守ろうとする「自己」の中味が、じつははなはだ曖昧な信憑に基いていることも示しています。 昭和というのは戦前戦後を通じて、そうした皮膚感覚がまだ気分として世間に共有されていた最後の時代であったかもしれず、オノマチ糸子はそうした「昭和」を体現する人格として描かれていたのでしょう。 しかし、― へタレはへタレて泣いとれ。 … ウチは(岸和田のここで)、宝抱えて、生きて行くよって。 ―と、言い放つオノマチ糸子最後の強がりには、平成の今を生きるナツキ糸子へのメッセージが込められていたのかもしれません。 なぜならその後の糸子は、明らかに独居老人の人生を歩んだはずだからです。彼女の夜にはかつてのような濃密な人(家族)との関わりは失われている。シンド物語 描かれない十二年間というのが、まさしく北村が予言した「失くすばっかり」の期間であったわけで、七十二歳のナツキ糸子は六十歳のオノマチ糸子のシグナルをまともに受けている。失われたのは人だけではなく、例の(人が何度も来たり去って行った)角っこのある昭和の街並みも含めたかつての岸和田の空気感全体なのです。 昼仕事でしゃべる相手はともかく、糸子の夜の相手はことごとく鬼籍に入った人ばかり。 インタビューによると渡辺さんはよほど北村(ほっしゃん。)だけは残そうかと思われたそうですが、そこをバッサリやってまうところがこの人らしい。作り手自身もとことん追い込まないと、平成の糸子の気分を共有出来ないと思われたのでしょう。 で、そこに登場するのが、他者を拒む姿を全身で露わにしている里香。この寒々とバラけた人たちの在りようこそ、今どきの世の空気感に他ならない。 私はそれでも平成の世を糸子目線で見ようとした作り手側の勇気(蛮行?)には舌を巻くのです。大団円で括るのは簡単、それを敢えて壊して素から作り直すというのは、そうそう出来るものじゃないでしょう。 まあだから、観る側も大抵シンドいのですが。オモロないから「しょうもない」と一刀両断するのは簡単。しかし私は三月期のシンドさのありかを一意的に一人の役者に帰するのには抵抗を感じてしまう。私たちが受けるシンドさは作り手側全体の四苦八苦に他ならない。砂利を噛むような「笑えない、怒れない、泣けない」シーンの連続は、そのまんま今どきの気分を表わしているのではないか?昭和の「糸子的在りよう」は、平成の世にはもう絶対に通じないみたいな。 というわけで三面記事的な「陰謀論」で片付けてしまうよりは、面倒臭くても物語に即してその「呻吟の中味」にこだわった方がたぶん面白いと思うのです。 表向きの豊かさとは裏腹に、とっくに濃密な家族関係が失われた人間たちが、どうやって「他者」との関係性を取り結ぶかというような点では、あるいはC.イーストウッドが描く人物像ともはるかに通じているかもしれません。「ミリオンダラーベイビーズ」や「グラントリノ」で示される崩壊家庭の人間たちが、まったくの他者と「人の関係性」を取り結ぼうとする振るまいには、家族観の差は明らかにあるにせよ、底流には似たような「孤絶した人間観」が今の世にはあるからなのではないかしらん?それこそ「タカが朝ドラ」!?なので、ことさら深刻ぶる必要など少しもないのですが、かといって出来れば「三月期を無かったことにしてしまいたい」という自身の心ばえに問いを立てる、という構えもあったほうが好いのではないか?というのが私の考えです(ドラマの出来云々の話じゃないですよ。こちらの受け止め方の話)。 孤絶した人間同士の関係再構築の難しさはイーストウッドの場合、片一方の主人公の死という形で示されているでしょう。簡単に答など出せるわけがない、それでも「自己責任」「新自由主義」といった「完全自立主義的な個人」が世界標準とされる今どきの風潮にあって、それに常に「問い」を立て続けて行く姿勢というのは大事だと思うのです。 「里香よりウチらの方が、よっぽど放ったからしやったのに」と電話口で呟く優子の事務所が、ずいぶん寒々としているでしょう。親子や家族の関係性が明らかに変質していて、より多く「孤絶感」を抱えているのはむしろ優子の方かもしれないのです。 さて、こうなって来るとモデルの三姉妹が「黙ってられなくなった」本当の中味が何となく分る。稀代の成功者たちに敢えてごく今日的課題を背負わせようとしているからでしょう。失われた「昭和のレジェンド」 そもそも「昭和の伝説」として残そうとするなら、渡辺さんの言われるとおり七十三歳での自己ブランド立ち上げで締め括る手もあったはずなのです。しかしその場合、主役を代える必然性は何もない。 となると彼女は主役交代の件をいつ頃知ったのだろう、という疑問がよぎりますね。Web出版での尾野さんとの対話の雰囲気を見るかぎり、案外遅くに知らされたのではないかという疑いが出て来るのです。 いささか立ち入った話になるのを恐れつつ、実際の綾子さんの映像を見ていると、その存在感は三姉妹を圧倒するに充分で、世界のコシノもそのデッカイ風呂敷の上で踊っている感じ。 しかしそのまさしく「お母ちゃんは晩年に花開いた」と三姉妹が口を揃える当の中味が、華やかさとは懸け離れた「老い」だの「病」だの「孤独死」といった、はなはだ今日的でごく個人的な課題と直面させられている糸子として描かれれば、誰しもすっかり面食らってしまうのは無理もないところでしょう。 最晩年まで描くことになって、渡辺さんは糸子像の再構築を迫られた。新聞記者のインタビューが繰り返し出て来るでしょう。これはたぶん作者が主人公と直接対話しているのです。 「これで、いいのですか?」と。「神話伝説」であることを拒否する 本来楽しかるべきここの「感想欄」をオモロなくするのは本意ではないので、三月期の話は今回までにしたいのですが、要は完璧な「昭和のレジェンド」としての整合性を崩してまでこのドラマが伝えたかったのは、いったい何だったのだろうということなのです。 出来映えとして不完全なのは、ここでの山のような指摘を待つまでもなく明らか。それでもなお「しょうもない」と片付けたくなる自身の心映えを、お手軽な陰謀論ではなく、なぜそういう思考に陥ってしまうのかを考えたくて書いて来ました。 もちろん簡単に結論など出せるわけがなく、むしろ様々に視点を変えて「問い続けて行く」べき課題として、「折り合って行く」ほかないのでしょう。 それこそ「タカが朝ドラに!」と笑われそうですが、ここで私たちが安易な結論を下してそれ以上「問い」を立てないとすれば、それはそのまま震災後の日本の現状を追認する思考構造に等しい。シビアな現実は「永遠の問いかけ」によってのみ、初めて開示され見詰めることが出来る。「なぜ政府と東電は、真実を言わないのか?」ではなく「なぜ私たちは、政府東電から真実を語らせられないのか?」という構えが必要なのでしょう。 糸子は我が身が畏れ祀り上げられるより、むしろ永遠に「問われ続ける」べき存在であることを望んだのです。― つづく ―
2012.09.24
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ここをずうっと休んでいる間、飽きもせずに「感想欄」に投稿していた中味を、少しだけ手を加えてまとめて再褐しておくことにしました。ほとんどの中味はこれまでのここのおしゃべりと重複するのですが、書いているうちに新たな射程が出て来たりもする。ハッキリ言ってキリが無いのですが(ホンマに!)、多少はオモロイ話もあるかもしれない。 修正点は「投稿」が、一日一回五百字以内という制限から来るもので、ここではそれを読みやすいようにまとめてあります。「ホッと、 … した」 玉枝の遺骸を前にした八重子のつぶやきは、よくある説明的な言辞を厳しく抑制することによって、観る側にむしろ強い感情を呼び起こす。玉枝、糸子、八重子夫々のエピソードを観て来た私たちは、ここで一言では表し切れない「感情」を一挙に呼び起されるわけです。 大事なのは、ここで喚起される感情は観る側夫々に、厳密に「個別的」であって「自由」に開かれている。作り手は観る側「夫々の感情の在りように対して、充分なリスペクトを払っている」ということなのです。で、それは同時に登場人物たちに対する作り手側の態度にそのまま繋がっている。 過剰な解釈や説明的演出を避けることによって、逆に登場人物たちが確かにこの世に存在したかもしれない「個別的なかけがえのない生身の人間」として立ち上がってくるわけです。 「現実の人間」というのが、弁護士の言明のような「情報開示」の仕方で、簡単に括れるわけがない。今どき「新自由主義」の名の下に恐ろしく子供じみた「決めつけ」が、個人単位国家単位で横行していますが、「カーネー」の構えは「他者をリスペクトしている」という意味で、優れて「大人の成熟した」態度だと言えるでしょう。 観る側や登場人物に「敬意を払う」というのは、何もことさら他者に気を使い、慮るということではありません。むしろ「自身の品格を維持するため」にそうするのです。下卑た感情が湧き上がった時、取り合えず「自身の思考経路を保留して、別の回路を設定してみる」というのは、優れて大人の態度でしょう。 「カーネー」が過剰な情報開示を抑制して、様々な感想の自由を許す状態で「外に開いてある」のは、相手(他者)に敬意を払うと同時に、作る側の品格を保つためでもあるのです。「間違っても一意的な決め付けはするまい、させまい」というような。 周防との別れの回の中で、さり気に糸子が「店は繁盛してました」と言うくだりがありました。これは前後のエピからいって少しおかしい。本来なら「ウチは必死のパッチで、店を繁盛させました」と言うべきところでしょう。現に昌ちゃんや恵への鼻高々な態度を観れば、このナレとの矛盾は明らかで、糸子がこの部分に出来れば触れたくなかったことが分かる。「店は繁盛してました」というナレを、どう見ても糸子が「力ずくで繁盛させた」場面で言わせているのは、この部分が彼女の内心の「疚しさ」を含んでいるからでしょう。で「疚しさ」の本源は何かと言えば、それはおそらく糸子が抱く営業感覚とは相反する「振るまい」が、ここにはあったからに違いない。 「命短し、恋せよ~」と自身のスキャンダルもネタにして営業する、それを見守る昌ちゃんの「そこまでやるか」という顔。 ここでのターゲットは明らかに客ではなく、昌ちゃんと恵に向いているのです。周防との不倫が露見して店の経営が危機に瀕した時、糸子がなりふり構わず抑えにかかったのは、客ではなく現場と経理の要でした。客や縫い子がある程度去っていくのは、これはどうしようもない、しかし経営の両輪を失っては店自体が立ち行かなくなるのです。 こうした時糸子が選んだのは、「敢えて自身の営業の信条を曲げてでも、まず店を守る」という方法だったのではないか。言葉少ななナレには、そうした糸子の気分が現れているような気がするのです。 例の親族会議で、― 店を守る。お客の期待に応える。従業員の稼ぎを守る。…偉そうな言い方になるけど、周防さんとご家族の生活かて、ウチが守らせていただきます。許してくれとは言いません。…許されんかてかまいません。 ―と大見得を切った後、周防には別の店を持たせる。次に自分の「店をどう守るか」ということですが、その時自分が出来ることとどうにもならないことを峻別して、まず店の要を何が何でも抑えることに注力した。 その結果はご覧の通りで、つい八重子に自慢してしまう。鼻白む彼女に画面の糸子は気付いていないようですが、回想する糸子は自身のいやらしさが分かっているのです。それが「店は繁盛してました」というナレになっていると思う。 このあたり本人のナレがたんなる回想に止まらず、「複数の視座」を観る側に与えることになって、それ自体が別のドラマ性を生み出しているのです。こうした画面と語りの「ズレた感じ」というのは他の所でもあったでしょう。 このようにナレが物語に「介入」して、画面と語りを互いに相対化させてしまうドラマって、あまりなかったのじゃないかしらん。観る力、語る力 「カーネー」はとっくに終わったんだから、もうここの感想もいいんじゃないのという意見も散見しますが、私はそうは思わない。自分自身も含めて「まだまだ語り足りない、聞き足りない」と思っている人は多いんじゃないかしらん。 要は観終わって様々な感想が溢れて来るのは当然としても、その気分を本当に充分「言い当てている」という感じが今だにしない。通り一遍の言葉ではとても尽くせない感触が常に残るのです。これは何も三月期が消化不良だったからということでは、もちろんないでしょう。 それは例えば「古典」を読むのと同じような味なのではないか。思い出すたび「新しい地平」が次々と現れて、向こうから何やらささやきかけて来る、「本当にそれで充分なのか?すべて明らかになったのか?」 試されているのは、たぶんこちら側の「観る力」「語る力」なので、薄っぺらな「言葉」が中空に飛び交う今どきの風潮にあって、こんなことはめったと無い機会なのでしょう。 だから私のお喋りも、まだまだ続くのです、何ちゃって!3・11の衝撃 「カーネー」のスピンアウト・ドラマを希望する書き込みも、これまた多いのですが、私はどちらかというとこれには否定的です。本編の出来映えがどのような経緯で達成されたものなのかを想像するにつけ、それと同じ状況を新たに再現することはまず不可能だろうから。 ここの現場がはなはだ「スリリングなセッション」に満ちていたらしいことは前にも触れましたが、まさしくジャズの優れたセッションがそうであるように、こういう事況は本質的に「二度と繰り返し得ない」一回性の出来事なのでしょう。 構想に八年だの奇跡のようなヒロインの登場や大胆な脇役の抜擢があったにせよ、準備と配役が完璧だったらすべてうまく行く(再現出来る)とはかぎらない。何かそれらを「超えた力」が作り手全員を奔らせないと、こうしたことは起こらないと思うのです。 で、それが何であったかといえば、やはり私は「3・11の衝撃」だっただろうと思うのです。昨年の「なでしこ」がそうであったように、誰からも指示されない「召命感」が作り手全体を駆り立てて行ったということがあったのではないか。 このドラマはそういう意味で、強く「時代」を刻印されている。「震災直後の今」でのみ在りえた作品だったと思うのです。昇華作用 渡辺さんのインタビュー記事によれば、東日本大震災が起こったのが「カーネー」の脚本第三週めを書き上げた頃、「自身の足場が揺れる感覚の中で、これをどう受け止めるべきか迷った末、敢えて直接的には取り上げないことにした」。 私がこの人の見識に舌を巻くのは、充分に「今」を意識しつつもベタなメッセージをドラマに持ち込むことは避けたという点で、もしそうしたなら「カーネー」はたちまち陳腐な中味になったでしょう。 逆に「今」を後景に退けることによって、むしろはるかに根底的な呼びかけを被災地に強く発信していたように思う。ナマな現実の「不条理な死」とか「理不尽」とかは、しばしば人に「怒り」とか「絶望」を残し、「救い」だの「希望」を見出すことを難しくするものですが、芸術はなぜかそれを可能にするのです。 それが「真摯な態度の虚構」であることによって、我々はそこに描かれた仮借なき不条理や理不尽と「想像的に対面」し、腹の底から「怒ったり笑ったり泣いたりする」ことが出来る。 こうした「心の昇華作用」こそ、震災直後の日本が一番必要としたものだったでしょう。「生き延びや」 巨大な「喪失」とか「忍耐」を強いられる現実にあって、傷ついたおびただしい「心」を鎮められるのは、たぶんまったく別の仕方での「感情の放出」だったのでしょう。 それが少しでも現実とベタに絡んで来る時、人は真の意味で「腹蔵なく」怒り笑い泣くことが出来ない。なぜなら実際には遅々として動かない「現実」とのズレを検知すれば、たちまち得体の知れない「わだかまり」や「怨み」が生じ、悪意はなくてもそこに上滑りな「言葉だけの善意」を見とめてしまうから(これはあるいは阪神淡路大震災を経験した関西の記憶から来ているのかもしれません)。 戦前編の後半で異様なくらい「仮借なき死」が重ねてあるのは、現実の震災の苛烈さに相対していった結果なのでしょう。当初のプランがどうであったのか、震災後の今となっては想像も出来ませんね。 という意味で貞子の「生き延びや」とか、「だんじり」の前で号泣する糸子の姿は、そのまま被災地への強いメッセージなのです。 ここでは、何はばかることなく「思いっ切り泣いていいんだ、怒っていいんだ、笑っていいんだ」よと。― つづく ―
2012.09.23
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これまたまったくの推断ですが、こうした内容や形式の文面を不快に思う人たちが、現実にはかなりいるのかもしれない。で、これも推測なのですが、おそらく「違反報告」を行なった人たちは「カーネー」、及び「オノマチ」の相当コアなファンだろうということなのです。 ひょっとしたら「侮辱された」あるいは「傷つけられた」と、かなり本気で怒っているのかもしれない。で、もしそうだとしたら、この人たちはこのドラマで何を観てきたのだろう、何に拍手喝采していたのだろう、と差し出がましい話と思いつつ逆に空恐ろしくなって来るのです。 何もそれぞれの「楽しみ方」にいちいち(いかにも上から目線で)イチャモンつけるつもりはないし、ことさら話を難しくしようとしているわけでもない。それでもなお、いわゆる「糸子的な在り方」つまり自身も含めた世界に対して、いつも反「権力的」姿勢で臨んで来た彼女の姿に、もし本当に「共感」し声援して来たのだとするなら、こうした「狭量な構え」というのは本来馴染まないところがあるでしょう。 まあ、NETの感想欄などというところは、「タカが朝ドラ」でも不特定多数の身元不明人が集うわけですから、ちょっとしたきっかけで荒れる危険はもともとあるわけです。以前にも触れましたが、特に「周防との不倫問題(!?)」の時には、明らかに組織的な罵倒の書き込みが大量にありましたし、今になってもまたぞろ例のフライデー事件で再燃しかかっているのです。「ドラマを地で行く」とか「ほっしゃん。の家族が可哀想」とかね。 結局、皆さんこうした下世話で他人事のプライベートな話題が大好きなのでしょう(「勝の浮気問題」が、同列の騒ぎにいっこうになる気配がないのは、下世話だけども他人事じゃないからか?)。 「ほっしゃん。の家族が可哀想」というごく表面的な倫理的無謬性の構えの底には、「こうした言い方であれば、誰も反論出来まい」という無意識の権力思考性が働いている。 これは「反日無罪」を掲げれば何をしても誰も文句を言えまい、というどこかの国の人たちの思考性と同じ立ち位置にいるわけです。その結果が我が身の「人としての尊厳」をどれだけ傷つけているか、彼らはまったく気づいていない。 清朝時代に民衆の蜂起を時の政府が裏で支援した結果、どういう事態に立ち至ったか、今の彼の国の政府が知らないはずがないのですが、政治権力が流動化している中にあっては、権力者はどうしても衆を煽って権力思考に奔らせるという魔力に勝てないようです(これ、実は毛沢東の大きな「負の遺産」あるいは「呪い」なのですが、誰も気づいていないようですね。別にことさら彼の国を貶めているわけじゃないですよ)。 問題なのは「誰も反論出来まい」という安全地帯からの構えで言い募るごと、逆にそれが現実の当事者たちをより多く傷つけることになるということに、誰も思い至らないという点なのです。このことに関しては、別の項目でまた取り上げようと思っていたのですが、例の「大津中二生自殺事件」の後の報道を見ていると、「いじめらた側のケア」ばかりが強調されて「いじめの構造」自体の分析がほとんどなされてない。 このことに関してハッキリと「これは大人社会の、いじめ構造の問題」と指摘していたのは、朝日の連載記事を見るかぎり金子勝さんだけでした(他のほとんどで、私はこの人の言説には同意出来ないにもかかわらずです)。 いじめられる側はそのパーソナリティー(人格)や行動について、本来何ら「改変」する理由は無いわけです。「とにかく逃げろ」だの「学校に行かなくてよい」だの、「いじめられている側」が自身の振るまい方をあれこれアドバイスされるいわれは無いはずでしょう。 自身がまともに学校に行けないような状況になっていること自体が異常なのであって、普通の学校生活が送れることを学校・教育委員会に求めるというのが、まず基本の筋として置かれるべきなのです(この場合、改変すべきは外部にある)。 それがそうでなく、いじめられる側のあたかも「サヴァイバル指南」のような景況を示していること自体が、「いじめの構造解析」ではなく「いじめられる側」の差別化に繋がりかねない(現実の当事者たちを、結果的により多く傷つける)ということになる。 と、また少し興奮して話が大きく逸れてしまいました。すいません。 自身の遊びネタを使って言いたい放題でしたが、今回ここにUPするために自分の投稿内容を改めて見ていたら、いかにも下品で赤面するのを禁じ得ないですね。これはテレビ感想欄に投稿する時の私と、このブログにUPする時の自分が、微妙に「異なった人格を、我が身に想定している」ことを表わしているのです。 なので、あっちへの投稿文として我ながら「結構イケてるじゃない」と思っていた中味が、こっちに置いてみると恥ずかしくて「穴があったら入りたい」。ホンマに笑ってしまうのですが、人というのは周囲の状況によって、いかようにも姿かたちを居心地の好いように「変容」させてしまうものなのかもしれません。それを首尾一貫性に欠けると目くじら立てても仕方がない。人と言わず生き物というのは、首尾一貫しないことによって多様に生き延びて来たし、「生物」という態様じたい「変容し続ける」という振るまいそのものだったかもしれないのです。 となれば、下らない投稿内容でネット社会を、あれこれあげつらってもあんまり意味がないかもしれない。私がいかにも都合好く我が身を「変容」させているように、他の投稿者も普段よりはよほど「過激」に変容しているだろうからです。― 「オモロイこと」? おわり ―
2012.09.19
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私がこんなどうでもいい事柄に、今回に限って(?)ことさらこだわったというのは、我ながらこの記事の出来映えを面白がっているという所があったからです。投稿記事なんて普通ハンドルネームであっても、一人称でするものじゃないですか。それを手近な複数の口に仮託して語らせると、少しずつずれた感じが立ち昇ってきて、これは結構「オモロイ」。この先しばらくはこの手で投稿しようか、と目論んでいたしょっぱなをへし折られたので、いささか頭に血が上ったわけです。 テレビのGガイドという運営側の立場からすると、確かに他番組の批判はまずいかもしれない。しかし他の書き込みを見ていると、特に現在やっている朝ドラなどへの罵詈雑言はすごいですよ。私がいつも思うのは「他への罵倒が、身内への応援になる」と信じて疑わない、まあかなり子供じみた思考回路というか、他所への批判によってしか自己表明が出来ないその「表現形式の貧しさ」のことなのです。 それが証拠に今回のようにちょっとした「ゴシップ・ネタ」が週刊誌に出て、批判的な感想が書き込まれたとたん、かえって「待ってました」とばかりサイトが盛り上がる。こういう盛り上がり方というのは、他国批判によって自国のアイデンティティーを確かめようとする(言い換えれば、それ以外に統治正統性を表明する術を知らない)、どこぞの周辺諸国の政府・国民の思考回路と似通ったところがあるのではないかしらん。 さて、となると当該記事は「公序良俗」に反するのかということになるのですが、何度も言うように上の記事はドラマの科白をそのまま「剽窃(ひょうせつ、他人の詩歌・文章・論説などを盗みとって、自分の作として発表すること)」したに過ぎない。もしこれを「公序良俗」に反すると言うなら、それはそのまんま応援しているはずの「カーネー」を、けなしていることになりはしませんか? と、かなり「意地の悪い」ものの言い方をしていて、我ながら自身の人品骨相の下品さに赤面してしまいますが、かつて反「権力思考」的な指向性の在りようというのは、例えば「プラハの春」の時におけるチェコのように、統治正統性を主張する時の権力者たちが、政府批判をする人たちに一意的に弾圧を加えるのを躊躇わざるを得ないという、そうしたかなり「気の利いた言論」が一方にあって、しかもそうした言説の在りようを正確に理解し指示する(頭の好い)国民が現にいたということがあったわけです。 今どきの東アジアの情勢は、そうした「柔らかく」て見ようによっては「ずる賢い」強靭な「智恵ある思考」からは程遠く、むしろ前近代的な事大主義(物事を上下関係でしか見つめられない硬直的な思考性)に引っ張り込もう、あるいは我から落ち込んでしまいたいと、皆願っているかのようです。閑話休題 さて、話を戻すのですが、再投稿の記事が削除されるまで二時間ほどあったということは、まあたまたまだったのかもしれませんが、何やら別の観測も生じさせますね。早い話どうでもいいような「感想欄」の運営に、管理側がそんなに手間をかけているはずがなかろう、ということなのです。 間違いないのは、運営側にとって肝心なのは投稿数や内容ではなく訪問件数であって、記事内容などいちいちチェックするわけがない。おそらく「違反報告」のあったぶん、それもある「一定の報告数に達した段階で、ほぼ自動的に削除」しているのではないか、再投稿の削除までに二時間あったというのには、何やらそうした推測を生じさせます。 記事内容を吟味し当該者に応対するのは、先に触れたクレーム係への本人からのメールがあって、初めて取りかかるということなのでしょう。 で、もし上のような推断が当たらずとも遠からずということであれば(たぶん当たっていると思いますよ、IT業界は無益な時間の浪費は絶対許しません)、ではどういう人たちがこの記事に対して「違反報告」をしたのだろう?ということになって来ますね。― つづく ―
2012.09.18
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もしこの投稿が「利用規約」に抵触しているとすれば、明らかに個人情報の漏洩ではないので、後半の「公序良俗に反する内容を記載しているなど、~」の項目にあたると考えるほかないのですが、「公序良俗」を言うなら「感想欄」の他の投稿などもっとえげつない。となると末尾に示された「~など、」の部分に抵触しているのだろう、ということになります。 中味の明示されない付帯的な「但し書き」というのは、法律でも規約でも必ずあるものですが、規約の場合その理由を開示しないまま条項を行使するということは、例えば保険契約の規約のようによくあるものです。現にここの「利用規約」にも、― 連絡内容をもとに、違反と思われる投稿は運営側が削除します。また、運営側で利用規約に違反していると判断した場合は、お客様からのご連絡なしでも削除する場合があります。なおご連絡に運営側から個別にお答えすることはありません。 ―とあって、要は削除が運営側の専権事項であることを明らかにしています。 で、それに納得出来ない場合は「メールで問い合わせよ」とありますが、これは要はクレーム処理対策でしょう。まあそこに食ってかかるのも一法ですが、相手が身構えてしまうとかえって実態が見えなくなるということもあるし、だいいちタカが感想欄の投稿中味で青筋立てるのは「大人気ない」。 要は「遊び」の一環として上の投稿内容を使ってみよう、というわけなのでした。で、この中味を分析すると、1. タイトルが、過激に過ぎる2. 他番組(からくりテレビ)を、名指しでこき下ろしている3.「泉州弁もどき」のしゃべりかたが、えげつないの3点ほどがすぐ指摘出来るのですが、、ではそれらを勘案した中味に変えたらどうなるか、ということで再投稿したのが下記です。 「内輪の話」というタイトルに変えて、糸子 : フライデーに負けた。フライデーに負けたぁ!あのボケがウチの「カーネー」の看板より、今の「我がの方」が大事やって言いよった。八重子 : そんなことないで。ひょっとしたら何かの前振りかもしれへんし、いろいろ「大人の事情」あるかもしれんしなぁ。糸子 : 何言うてんや、だいたいがタダで前振りやらかすやなんて、そのさもしい根性が入らんのや。そもそも二人ともエエ歳してからに脇が甘いんじょ。ええかげんにせえ。オノマチのボケェ!ほっしゃん。のアホゥ!。玉枝 : まあまあ糸ちゃん、そないコーフンせんと、落ち着きな。前だけ見て行こ。な、ウチもそうするし。糸子 : アカーン!女一人で役者張るんやったら、これくらい言わなアカンで。八重子 : そらせやけどなあ。玉枝 : やっぱりなあ。なぜか奈津 : アンタらに関係ないやろ。ホンマにみんなシャキッとしいよ!シャキッと!ついでに周防 : おいもそうたい。 変えてないのは「泉州弁もどき」の語り口だけ、というより、ご存知のとおりこれはドラマの科白の換骨奪胎。どのあたりから剽窃したか、熱心なファンの皆さんならすぐ分かるでしょう。 で、これはさすがに十数分ということはなかったのですが、結局二時間ほどしてやはり削除になってしまったのです。― つづく ―
2012.09.17
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「オモロイこと」? 1. 長いことUPを休んでいるというのは、別にここでしゃべるのに倦んだわけではなく、さまざま私事がずうっと重なっているからです。 ごく無責任に話するなら、いくらでもしてしまえるのでしょうが、出来ればここのブログは自分で勝手に科している「こだわり」だけは保っておきたい、そういう気がするのです。My Blogだからこそ保持しておきたいことというのは、何度も言うように、 1.自分自身が、本当に楽しめているか? 2.他人に分る言葉で、語れているか? 3.出来るかぎり、出典を明らかに出来ているか?の三点です。 しゃべろうとした時に、本当に自身が「オモロイ」と感じたことでなければ、絶対長くはもたない。ここまで千件以上のおしゃべりをして来ましたが、その多くが中途半端で終わっているというのは、最初心底「オモロイ」と思っていたことが、だんだんその気分に自信がなくなって止めちゃったというのがほとんどなのです。 それでも、こうしたブログに面白味というのを見出すとするなら、たぶん「しゃべり続ける」という点にあるのだと思う。時々の気分を「確かにその時、そう思った。こう感じた」というふうに、他人(この場合、未来の自分も含めて)にも分るように言明しておくというのは、得てして自己満足的で意味不明な言明に陥りがちな個人日記よりは、よほど生産的でしょう。 まあ出来れば消してしまいたい、という中味がほとんどであるにしても、その時感じたこと思っていたことを、出来るだけ正確に記しておくというのは、とても大事なような気がする。閑話休題 じつはここにはUPしてないのですが、ネットのテレビ感想欄にはしつこく投稿していて、「カーネー」の話はいまだに続いているのです(好きですね!)。 コアなファンというのは、どの世界にもいるものですが、投稿の中味や流れを見ていると、多少「世間の構え」というか、「気分の様態」のようなものが観察出来て面白い。私もイッチョカミして時々投稿しては反応を見る。で、時には投稿内容がUPされたあと、ボツにされたりもするわけです。 このボツの基準には大きく二つあるようで、基本的はUP前の「禁止用語」項目で自動的に拒否される場合(この基準も、よく分らないことが多い)と、いったんUPされたあと、しばらくして閲覧者からの「違反報告」があってボツになる場合とがあるようです。 さて、その「違反報告」の中味ですが、運営サイトの説明によれば、― 利用規約に違反している感想を見つけたら ― 「個人情報や公序良俗に反する内容を記載しているなど、利用規約に違反している感想を見つけた場合は、その感想の下に表示されている『この感想を違反報告する』をクリックして、違反の内容をお知らせください。 連絡内容をもとに、違反と思われる投稿は運営者が削除します。また、運営側で利用規約に違反していると判断した場合は、お客様からのご連絡なしでも削除する場合があります」となっています。 そこで私の今までボツになった投稿内容を、全部ここにUPして(そんなに多くないですよ)ウサバラシするというのは、何となく大人気なくて気分的に不細工なので、もう少し気の利いたことをやってみたいのですが、最近投稿して即ボツになったのは下のような内容でした。「オノマチのボケェ!ほっしゃん。のアホゥ!」というタイトルで投稿したのですが、中味は、糸子 : フライデーに負けた。フライデーに負けたぁ!あのボケが「カーネー」の看板より、今の「我がの方」が大事やって言いよった。八重子 : そんなことないで。ひょっとしたら今度の「からくりテレビ」の前振りかも知れへんしなぁ。糸子 : 何言うてんや、あんなしょうもない番組。だいたいがタダで前振りやらかすやなんて、そのさもしい根性がいらんのや。そもそも二人とも脇が甘いんじょ。ええかげんにせえ。オノマチのボケェ!ほっしゃん。のアホゥ!。玉枝 : まあまあ糸ちゃん、そないコーフンせんと、前だけ見て行こ。な、ウチもそうするし。ヨチヨチ。糸子 : ちゃう!女一人で役者張るんやったら、これくらい言うたらなアカンでェ!八重子 : せやけどなあ。玉枝 : やっぱりなあ。なぜか奈津 : 関係ないやろ。みんなシャキッとしいよ!シャキッと。ホンマに!ついでに周防 : おいもそうたい。 これがUP十数分でボツになったのですが、さて?― つづく ―
2012.09.16
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