全3件 (3件中 1-3件目)
1

ロドス島 というわけで、ギリシャあるいは地中海の原風景的な匂いを求めて(?)、私たちはロードス(正しくはロドス)島に向かうのです。日にちたっぷりであれば、誰しもクルージングでミコノス島やクレタ島まで足を伸ばしたいところですが、そういうわけにもいかずアテネから一気に飛行機で移動。 それが例のオナシス家所有のオリンピック航空(当時はオリンピア航空といっていたような気がしますが、忘れました)。事故率では当時最上位という噂のあった航空会社で、離陸から一時間ほどの搭乗中は、その不可思議な揺れ方をする機内でいささか緊張。隣席の白人の年配女性など、前の背もたれにずうっと手をかけたまま離しません(あまり役に立たないと思うけど)。 ここでは北東部の中心ロドス市と東岸のリンドス村を巡るのです。この島はギリシャ最東に位置し、ペロポネソス半島よりももっと周囲の民俗、宗教、文化等の行き交いが近代に到るまで激しく、ギリシャ文明以前以後などという簡単な線引きが出来ません。言わば文明同士の沸騰的混交地点そのものであるのがこの島の歴史で、それらが時間軸の中で融和するというよりも、重層的にそのまま残っているというのが、その大きな特色でしょう。 下はリンドスの丘に残るアクロポリス柱廊跡 で、下はまさしくリンドスの丘に築かれた中世の城跡です。これらは古代以来の遺跡の上にそのまま積み重ねて造られて在る。― つづく ―
2012.08.25
コメント(0)

トラウマ(心的外傷)ブーム 「鳥」は古い映画なので、観ていない人も多いかもしれません。これをたんに元祖「動物パニック」映画と見做すなら、今さらわざわざDVD屋さんで探して観る必要など、たぶんほとんどない。やはり一連のヒチコックの作風のなかで、これをどう位置づけるかという文脈で観てみるほうが面白いと思いますよ。 この映画の結末のあるようなないような半端な終りかた、「動物パニックならしかたないじゃん」ということに当然なってしまいますが、あえて最後の弁護士一家とT・ヘドレンの脱出場面に、結論あるいは解決編を求めるとするならば、その前夜家の中にまで侵入して来た「鳥」の大群に、まさしく「ヒロイン自身が襲われて傷付く」というところにあったのではなかったか? ヒロインの抱える「高慢」とそれを抑えようとする心の葛藤が、現実の外傷となったとき「鳥」は鎮まるのです。これは一種の「自傷行為」の表現とも取れますね。 ではこれは何に対する「自傷行為」なのか?というところで、私は彼のそれこそズバリ「白い恐怖」という題名の映画を思い出すのです。白の縞模様に奇妙なトラウマ(心的外傷)を抱える主人公(G・ペック)の過去を辿る映画でしたが、心理的幻想シーンの製作に何とS・ダリが関わっていたということで、初めて観たときになんて図式的な表現をするんだろうという印象を持ったものです。 因みにこのあたりから、私はダリが嫌いになりました。もし仮にダリの描く世界がこのように薄っぺらなフロイト風トラウマ心理学の解説であるのなら、絵画としての値打ちを大いに損ねるのではないか、という気がしたからです。まあ若気の至りの感想ですが、今だ彼の絵があまり好きでないのはなぜでしょう。ロールシャッハと同じような心理テストの教材にははなはだ便利なのかもしれませんが、それは絵画を享受するという感触とはもちろんずれてますよね。 同じことはヒチコックのほぼすべての作品に通じるところがあって、例の「サイコ」なども心的外傷の典型的な症例解説みたいで、案外鼻白むという人も多いのではないか?要はダリもヒチコックも観ている側に、想像力を駆使してより積極的に作品に「関わろう」とすることを拒否しているみたいなところがある。平たくいえば裏から作者の「ドヤ顔」が、ほの見えるということです。 であるなら、「鳥」もまたそのレベルでかなり「図式的」な心理解釈が出来てしまう、ということが云いたかったのでした。何だかずいぶん偉そうにしゃべっていますが、それでなおかつ、なぜこれを取り上げるのかと言えば、もうお分かりいただけると思うのですが、「自傷行為」の対象としての「白」ということなのです。そこでやっともとの「白鯨」や「幻想の白」としてのギリシャの話に戻ってくるわけです。 例によって寄り道が長くなりました。 下は、ギリシャの典型的な田舎の風景。どこまでいってもオリーブと糸杉だけの赤茶けた岩肌の姿は、地中海周辺に共通した風景なのでしょうか?― つづく ―
2012.08.14
コメント(0)

「鳥」 しばしば平和や自由の象徴ともなる「鳥」が、突然人智にまつろわぬ「自然」そのものの姿として、我々の前に現れたらどうなるか?当然「白鯨」や「野生の呼び声」に通じる「反近代」、「自然回帰」のエコロジーなイメージを持ちますが、心理サスペンスの職人であるヒチコックのような優れて「知的」な作家からすれば、そうしたパセティックなメッセージ性など、自身の体質からいっても最も縁遠い作風であったに違いない。 彼のほかの作品には、そうした意味での無慈悲な「自然」を感じさせる映画など、一つもないのです。 とすれば、この一見エコロジカルな題材を取り上げたことじたいが、彼得意の壮大なトリックであるかもしれない。「自然」をテーマにした新しい動物パニック映画に見せながら、実際に意図したのは従来どおりの彼お得意の知的な心理サスペンスなのではないか。 何となく「そうであるかもしれない」と思わせるシーンが、はじめのほうでヒロインのT・ヘドレンが小学校が終わるのをベンチで待つシーン。彼女はせわしなくタバコを吸いながら学校の方を何度も振り返るのですが、そのしぐさが重なるたび彼女の座るベンチの後ろの柵にカラスが次々と集まってくる。で、ふと気づくとそのカラスの数が、とんでもない数になっていて、主人公が仰天するという場面なのです。 映像だけでどんどんスリルを盛り上げていく、その手際も見事ですが、見ようによっては待ち続ける主人公のイライラ感、ひいては彼女の隠された高慢な性格(確か社長令嬢という役回り)を現しているようにも見えません?もちろん彼女の心理の図式的な説明ということではなくて、本人も気付いていない自身の心の奥底を「鳥」が明示しているということなのです。詳しい筋はすっかり忘れてしまいましたが、確か彼女はこのやって来た漁村にあまり好感を持っていなかったような気がする。 それが「鳥」の漁村の住人への攻撃という形で、「現実化」しているわけで、「鳥」の不可解な振るまいと主人公の深層心理は、明らかに連動して描かれているのです。 面白いのは、それが単線的な他者への攻撃という形ではなくて、彼女自身の「心の葛藤」として現れているところなのだと私など考えてしまう。わざわざ好きでもない田舎にやって来たのは、相手役の弁護士(R・テイラー)に会うためでした。そこに何やら「下心」がなかったとは言えないでしょう。 それが如実に出たのが、先ほどの学校の教師役(S・プレシェット)への態度。一見親しさを装いつつ、深層心理的には「恋敵」としての憎悪が潜んでいたかもしれない。となるとこの教師が「鳥」に襲われて、目をくりぬかれた死体になっているのを主人公が見止めたとき、彼女に去来した「恐怖」というのは、たんなる動物パニック心理に止まらないところがあるはずなのです。言ってみれば「自身の隠れた欲望が、『鳥』によって次々と現実化している」ことに、本人が気付いてしまった「恐怖」というような。 これって、前に「カーネー」の奈津が、深層心理的には「母親憎悪」というコンプレックスがあって、戦争による「母の死」という現実によって、彼女がそれに気付いたのではないかという話をしましたが、それと似たところがあるのです(というより、「鳥」を知っていたから、そんな話をしたのでした)。 下の写真は、今の話とはまったく関係のないコリントスの田舎家。ショボ降る雨の道はどこに繋がっているのか?― つづく ―
2012.08.11
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1

![]()
