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グルーヴ感 かつて私がLPに見出していた「何回でも聴ける」という価値の内には、じつは「聴ける回数には限界がある、きれいな音で聴けるのは、ひょっとして今のうちだけかもしれない」という不安を隠し持っていたのだとすると、それはあんがい生身の演奏を聴くのに近いところがあったのかもしれない。生演奏はまぎれもなく「一回かぎり」ですが、LPもベストで聴ける回数は(機器の調子や予算の関係で)「有限」なのです。 しかし、この「有限であることの焦慮感」こそ、まさしく「聴いている」ことの証し=充実感だったかもしれない。逆にオーディオにかぎらずテクノロジーの大飛躍は、なべて「無限性」へかぎりなく近づこうとするものであったのでしょう。「無限性」への指向とはこの場合、「時間」と「場所」を超越するという意味です。ヴァーチャルリアリティだのAIだの、近ごろの技術はどうしても現実の生身を超越して、それにどこまでも「近似した仮想世界」を提供しようとするもののようです。私たちはそれに触れるとき、仮想現実の迫真性と面白味にたまげ、大笑いしてしまいますが、この感覚はじつはCDが登場したときの面白味と似かよったところがあるように私は思う。 つまり、かなり早期にそれら全般に「飽きてしまう」、そして「どうでもよくなってしまう」ということが起るのではないかしらん。あるいは現実にかぎりなく近似した非現実に対して、カジュアルで雑駁な接しかたしかしないようになるのではないか? 先にマーラーのところで、「『声』が闇の表現の邪魔をする」という、はなはだ逆説めいた話をしたのですが、ここでもう一回ちゃぶ台をひっくり返すとすれば、「すべての器楽器は『人声』を指向する」という逆理があるのです。ヴァイオリンとかサックスとかが典型的な例ですが、純音に近い音を出すと思われるピアノとかフルートのような楽器でさえ、私たちが切迫性を帯びた音楽を感じ取る瞬間というのは、かぎりなくきれいな純音というわけではないらしい。 M・ポリーニの「ショパンのエチュード」とか、H・シェリングの「バッハのシャコンヌ」を聴いていると、当の楽器の音を越えた、ほとばしり出る「生身の音」が聴こえるでしょう。楽器にまるで「身体性」が宿り、演奏者の手指がそれらを奏でているというより、楽器がかってに「そのように鳴りたがっている」ような音がしている、と思ってしまうのは私だけでしょうか?こういう時、私たちは楽器から「生身(人)の声」を聴き取っているのではないかしらん。 「超一流の奏者が、超一級の楽器を弾いているのだから、当たり前じゃん」と言われてしまいそうですが、もちろんそんな簡単に概括できる話ではありません。しかしこれも話が難しそうだし、しかもこの「エレクトーンの日」というカテゴリー全体のテーマに及んでいるような気もするので、あわてずに後で(もし触れることが出来れば)することにしましょう。 先に「何で高い金払って、一回こっきりの(しかも失敗するかもしれない)生演奏なんか聴かなあかんねん」という若気の到りの言葉をあげましたが、ここまで来れば、話はだいぶ明晰になって来ましたね。 考えてみれば話は逆で、一回こっきりで、残念な演奏もあるかもしれないから、「ライブ」には大枚を払う値打ちがあるのでしょう。なぜならその演奏は、「二度と返ってこない」からです。 二度と出会えない瞬間を「共有」出来るかもしれないという期待は、言い換えれば自身が「有限」な存在、時間性のただ中に逃れがたく投げ込まれている身であるために、逆にまさしく「よく聴く」ことが出来る。つまり「充実した時間を生きている」と感じられるからでしょう。周囲に対して万事カジュアルで雑駁な接しかたが、本流となりつつあるデジタル時代の今日この頃、間違いなく「かけがえのない感触」を味わえる機会というのは、こういう時しかなくなってしまったのかもしれませんね。 ところで、CDやDVDどころかスマートフォンでハイレゾの音楽を、いつでもどこでも取り出せるような今どきの時代となっては、「音割れ」だの「抜け」といったマニアックなオーディオ用語は、ほとんど死語になったと言っていいでしょう。 826Asukaさんの動画に寄せられる、さまざまな人たちのコメントを見ていると、なかなか面白い。中に専門用語というか業界内符丁のような単語もあり、時には私の耳朶を刺激する言葉も出て来ます。その一つが「グルーヴ(groove)感」という用語なのですが、例によってwikipediaによれば―ある種の高揚感を指す言葉であるが、具体的な定義は決まっていないーとあるように、言葉の意味は必ずしも明確ではない。今世紀に入ってから使われ出した新語らしく、なるほどそれなら私が知っているわけがないのです。もっぱらジャズやレゲエ、ソウルのような音楽の、ノリの良さを示すマニアックな形容として何となく使われているようです。 で、そのノリの良さのカギはリズムにあるようです(もともとドラムやパーカッションのような、打楽器の演奏の評価に使われたらしい)。
2017.09.19
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なんちゃってデジタル 以前は「何で高い金払って、一回こっきりの(しかも失敗するかもしれない)生演奏なんか聴かなあかんねん。LPやったら(演奏会チケットに比べて)安うて、しかもいつでも何度でも聴けるやないか」と絶対LP至上主義だったのが、私の場合、いつしかライブの方に惹かれるようになっていきました。かつて日本の音楽評論は、ほとんどオーディオ評論と一体で(一つのLP盤について、演奏と録音の評価が必ず別々に付されるというように)、それ専門の雑誌も数多く出ていましたね。これは何度も言いましたが、私が急速にオーディオ系の音楽に興味を失ったのは、CDが登場してからなのです。 それまで音の抜けがどうの奥行きがどうのと、良くも悪くもレコード会社ごとにずいぶん個性があって、ロンドンデッカのドスンとした量感とドイツグラモフォンの重厚で透明な音質の違いは、同じ楽団の録音でも別のオーケストラに聴こえるほど。さらにはレコード特有のアナログ的なクセとか弱点、音割れがするからトレース力に優れたカートリッジが必要だとか、抜けがいいスピーカーならどこそこのメーカーとか、ホントに話題にキリがなかったのを思い出します。 しかしそっちの熱い話題はCDの登場によって、驚くほどあっさりと断ち切られてしまいました。なぜならそれは、レコードなら神経質にならざるを得ないアナログ的弱点を、ほとんど解決していたからです。はじめこそ「これで静電気を気にしなくてよい」とか「いちいちレコードをひっくり返す必要がない」とか、その簡便さに呆れたものでしたが、しばらくするとオーディオ機器自体が「どうでもよくなってしまった」。なぜなら、どの音源をどの機器で聴いても、一定レベルで「均質化された音になってしまった(と思った)」からです。 しかしCDが出始めたころは、音源は従来のマスターテープを、デジタル信号化して置き換えただけで、考えてみれば同じ音楽を聴いていたはずなのです。であるにもかかわらず、「どうでもよくなってしまった」のは、逆にそれまでの関心が、思いのほかオーディオ機器そのものに向いていたことを示しています(たいしたマニアでもなかったのに)。 それじゃあ、それまでの私の音楽体験はフェイクだったのかと言われれば、もちろんそんなことはない。しかし音楽の聴き方、あるいは関心の方向が変質したのは確かです。あまりに手軽なゆえに、かえってオーディオそのものに興味がなくなってしまったのでした。しばらくCDも何枚か買い揃えましたが、LPを買うときのような「ときめき感」が感じられなくなって止めてしまい、同時にオーディオ雑誌類を読むこと(立ち読みですが)もしなくなりました。 これは一体なんだったのだろう、と思うのです。 今考えてみると、LPというのが「上質の音源を、いつでも何度でも聴ける」ところに、その価値があったのだとすれば、CDはその特質を大幅に更新したのであって、私たちはさらに至福の時間を得たはずなのです。結果としてそういうことにならなかったのには、おそらく別の理由があるに違いない。 で、それはたぶん「上質の音源を、いつでも何度でも聴ける」はずにもかかわらず、LPとそれに関連するオーディオ機器には、「有限」な感触をうすうす感じ取っていたからだろう、というのが今の私の観測です。確かに「何度でも聴ける」けれども、LPはいずれ必ず磨り減り、高価なレコード針も交換しなければならない。スピーカーやアンプだって調子の好い時とそうでない時がある(ホントですよ)。 と、こう神経質な再生機器を相手にする場合、私はかなり「かけがえのない時間」を意識していたのかもしれない。まるで「最後まで音割れせずに、ガンバレ!」みたいな。カラヤンのシベリウス交響曲第二番のフィナーレ、45分くらいからのコーダ、金管の咆哮をLPでは支えきれず、音割れするうえに量感も乏しくやせ細って、無念を覚えたのを思い出しますね(皮肉ですが、今聴くとそれがむしろ、ものすごい迫力になっている)。 と言うわけで、かなりおおげさですが、いったんレコードに針を落としたら、それこそ「一音も聞き逃すまい」という聴き方をしていた気がする。これって音楽そのものを聴くというよりは、オーディオを試聴するというスタンスに、知らず傾いていたということではなかったか。なぜならそれらは「繰り返し聴ける」けれども、その回数は「有限」であることを意識していたからではないかしらん。 それが証拠に、CDになってから音楽を聴くのに、回数や磨耗を気にすることはなくなったでしょう。どのスピーカーやアンプでも、LPよりはるかにクリアで迫力ある音が、まずまず一律に出て来るのが、あたりまえなのであれば、オーディオ機器類への関心は薄れざるを得ないわけです。再生装置が「無限性」を獲得したように見えたとき、「一音も聞き逃すまい」という聴き方もしなくなり、もっとカジュアルに「流し聴き」してしまうということに、私の場合なってしまいました。 何だか大げさな話になってしまいました。しかし私の「記憶の彼方」にある音楽は、もうほとんどLP時代のものばかりなのです(今まで取り上げたYoutubeの音源をみれば一目瞭然でしょう)。
2017.09.13
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小澤征爾 前回の話、いささか補足の必要を感じます。「『声』が闇の表現の邪魔をする」というのは、人声とはすなわち「言葉」に他ならず、言葉はそれが発せられた瞬間に「意識界」に登場することになる。19世紀末のウィーンで認知されたことというのは、意識界の奥には広大な「無意識界」が広がっており、それらは人の行動や人格形成に大きな影響を与えているらしい、ということでした。「無意識界」を扱うということは、必然的に「言葉」が発せられる以前の世界に目を向けるということになるでしょう。 面白いのはマーラーというのが、歌曲というか声楽の分野でも特筆すべきユニークな作品を、交響楽と同じ比重で残していることで、しかもそれらが彼の音楽においては、初期のころからごく自然に相互乗り入れしていたということです。歌曲の一部が、そっくり交響曲に使われたり、先の「大地の歌」のように、歌曲とも交響曲とも判然としない作品も残しているでしょう。 言わば「声楽を知り尽くした」マーラーが、器楽だけを使った後期の交響曲において、自分の内面というか、言葉にはなり得ない深い深い暗部を、神経的な軋み音として書いているように見えるのは、私だけでしょうか?ちょっと難しい話になってしまいましたね。 話がコロッと変わります。826asukaさんの動画UPに刺激されて、「エレクトーンの日」という意味不明の音楽カテゴリーを作って、いろいろしゃべっているのですが、そのかんじんのエレクトーンの話には、いっこう戻る気配もなく、「一体どこに連れて行くつもりやねん」と言われてしまいそうです。 ここ最近、彼女の取り上げる音楽は(相変わらず好調ですが)、私が取り上げるべきテーマとは少しずれるような気がし、それに余計なコメントを加えるよりは、そういうジャンルを語るにふさわしい人たちが、話されるほうが好かろうということで、少し引いているのです(なんちゃって)。 それにしても高校生になって、生演奏の機会が大幅に増え、ファンの人たちからのyoutubeへの投稿も大賑わいですが、当面はこうしたライヴ演奏を主体に活動されるようですね。 じつは室内(スタジオ)での収録とライブでは、音楽のありようは少し異なるような気もする。音響的には室内収録のほうが、明らかに優れているし、何よりも本人が納得がいくまで、演奏を煮詰めることが出来ますが、ライヴはそういう訳にはいかない。一発勝負で繰り返しが利かないというのが、生の大きな特徴でしょう。 それはデメリットを意味するのでは決してなくて、おそらくスタジオ収録とは違った感性の涵養となるでしょう。一言でいえば「そこに聴衆がいる」こと、そしてその中には「その場かぎりで、二度とその音楽を聴くことのない人」も必ずいるということです。 クラシックの演奏家には「聴衆なんて関係ない。ひたすら演奏に没頭するのみ」という人も結構多いのですが(まあいろいろ考え方はあるのでしょうが)、何となくそれではもったいない感じがしないでもない。指揮者というのはオーケストラの方に向いていて、聴衆には背を向けている形になるわけですが、人によっては明らかに聴衆の空気感を意識しているというか、反映してしまうタイプの人がいます。先ほどの小澤征爾などその代表格と言っていいかと思うのですが、今のように大御所になる前、オーケストラや聴衆のノリが悪いと、気の毒なくらいに、しぼんで見えるということがあったそうです。 彼の若かりしころの名演が記録映画として残っていて、これまたyoutube(!?)で簡単に観ることが出来るのですが、たぶんボストンシンフォニーのタングルウッドでの夏の野外演奏会。今や彼の十八番の一つでもあるマーラーの交響曲第二番「復活」のフィナーレ部分なのですが、小澤の後ろの聴衆の表情が面白い。まあこういう合唱付きの音楽は、ベートーヴェンの第九をあげるまでもなく、勝手に盛り上がるというか、劇的な感興を与えるものですが、それにしてもアメリカの聴衆というのは率直で、中には一緒に歌っている人もいるでしょう。 振っている小澤さんも、おそらくそれに気付いているに違いない。クラシックといえば、ややもすると謹聴する、要は黙って聴くというのがエチケットですが、それでも聴衆の風圧というのは明らかに感じられる。その風圧がオーケストラの演奏に反映し、そこから繰り出されるサウンドに、今度は指揮者が半ば驚愕しつつ(たぶん)、予期しなかったような次元へ音楽を引っぱり上げて行くのです。 こういうのを観ていると、クラシックでも生演奏では、明らかに聴衆も「演奏に参加している」「一緒に音楽を生成している」という印象が強い。アメリカ人が劇場や球場で「生身」というものに求めているものが、よく分りますね。「二度と起りえない、出会えない瞬間」に立ち会いたい。出来れば参加したい。為し得るならば(演奏はしないけれど)我からも作り出したい、という願望が満たされるとき、彼らは「生きた」と思うのではないか知らん。 なぜならそれは演奏者の体験ではなく、「我の体験」として意識されるからでしょう。
2017.09.06
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マーラー「交響曲第九番」 前回「大地の歌」を、オペラのようにドラマティックと言いましたが、じつはそれ以上に感じさせられるのが、100人前後というフルスペックのオーケストラとしては、オーケストレーションが驚くほど細密かつ微妙で、ほとんど室内楽のような機微を楽員全員が共有していないと、演奏不能に陥りそうな曲であるということでしょう。 さきほどのエンディング1時間2分40秒くらいからのコーダ、F-ディースカウの絶唱に絡みつく絹のような弦と木管他のハーモニーは、歌曲にもオペラにもシンフォニーにもない響きで、これは指揮者があれこれ指示して出来るというものじゃなく、演奏家自身がお互いのインスピレーションをじゅうぶんに共有しあい、例の「拡張された身体性」を意識して、初めて生まれるものなのでしょう。 それにしてもこの部分、鉄琴やマンドリン(!)らしき楽器まで加えて、まことに玄妙このうえない響きを聴かせます。マーラーは従来のオーケストレーションにおいても、ホルンやトライアングルなどで、独特の響きを聴かせましたが、どこから鉄琴やマンドリンの音色を混ぜることを思いついたのかしらん? とはいえ、「大地の歌」の印象は確かに恐ろしく暗いけれども、かぎりなく「深刻」という感じとは少し異なる。マーラー自身「この曲を聴いたら、自殺する人が出るんじゃないか」と心配したそうですが、これはいささか考え過ぎ。この曲全体を支配する寂寥感は、東洋的な「虚無感」に置き換えられているというか、エキゾティックな風合いで緩和されているのです。じつは「虚無」そのものは人間の価値観とは必ずしも関係ない。釈迦の説く「無」の概念は、そうした人間界をはるかに飛び越えた、「宇宙」そのものを扱っているでしょう。 マーラーがそうしたエキゾチズムに緩和された響きでなく、真正面から己の闇に立ち向かったのは、その前の純粋器楽の交響曲第六番や第七番、そしてこの「大地」の後に書かれた第九番でしょう。彼の音楽が後期ロマン派という西欧音楽史のカテゴリーを飛び越えて、現代の私たちに語りかけて来るのは、音楽技術的な斬新さではなく(それならウェーベルンやシェーンベルクなどは、もっと過激にやっていました)、ロマン派が大きく指し示しているヨーロッパ的情緒あるいは秩序というものを突き崩し、その精神の奥に潜む統御不能な深層にまで、音楽で踏み込んだことにあるでしょう。当時ウィーンではフロイトの深層心理学が流行し、マーラー自身彼に受診したこともある由ですが、理性では統御不能な深層心理の認知は、少なからずこのころのウィーンの芸術家に影響を与えたでしょう。 これは別のところでも少し触れましたが、もし制御不能な闇の世界にまで深掘りしようとするなら、それは精神の表現というより「神経的な痙攣の表明」とならざるを得ない。第九番の第一楽章18分20秒くらいから始まるティンパニのゆったりとした連打に絡む、金管と弦楽木管の繰り出すハーモニーは、抗いようなく流れていく「運命」を表わしているかのようで、それは同時に死への階段を踏みしめる葬送行進曲でもあるのです。死への怖れと安寧が交錯する人間的情緒と、それら一切とまったく関係なく進行していく「時間」のありようを、このように表現した音楽というのはあまりないのではないかしらん? はじめに「大地の歌」は東洋的エキゾチズムが、暗さを緩和していると言いましたが、じつはもっと大事な点がありました。「声」が闇の表現を邪魔しているのです。言葉は人間の精神の表明に他ならず、もし当時のマーラーがそうした精神のさらに奥、制御不能な闇の世界に踏み込もうとするなら、人の声は排除せざるを得ないということになったのではないか。 しかしここはマーラーがテーマではないので、これ以上は止めておきましょう。昔が懐かしくて、つい長話になってしまいました。この第九番にかんして、私の記憶は非常にハッキリしています。京都のレコード店に買いに行ったのが大学二年のとき、そして当日友人の家で徹夜マージャンをし、待ちきれなくて翌朝その家のオーディオで大音量で聴いていたら、大不興をかったのを覚えているからです。 ここで追いかけているのは、「記憶の彼方」からよみがえって来るような音色とは、どこからどのように生み出されるものなのか、ということでした。
2017.09.05
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