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森友、加計問題について 7. 何だか「モリ・カケ問題」からだんだん離れていって、青山流に言えば「モリソバ、カケソバ」みたいな話に転移してしまっていますが、まあいいでしょう。 私が言いたいのは、保守でもリベラルの話でもない。そんな薄っぺらな主義主張や理念など、どうでもよろしい。要は目線を一段階引き揚げて、賛成反対はともかく、「人をして感嘆せしめる」高度にタフで、知的な視点がほしい。 私が青山繁晴氏のことを取り上げるのは、思想信条が同じだからではない(断じて、同じではありません)。であるにもかかわらず、氏の話を聞こうと思うのは、言葉に「確かな力」があると感じるからです。その「力」のなすところ、それが何かを知りたい。 同じような眼差しで、かつては内田樹さんの本をよく読みました。ここ最近は、唐突に過ぎる左翼リベラルへの転回で、いささか困惑しています。しかしそれは、フランス構造主義哲学の思想的枠組みを、初めて本当の意味で、私たちのところに届けてくれた偉業を損ねるものではない(少なくとも私にとっては)。 面白いのはこの両氏、思考の立脚点となるべき、敗戦後日本の現状認識については、ほとんど同じに見えるということです。いわく「日本は敗戦後、半独立国家のまま今日に到っている」「日本は通常の戦争とはまったく次元の違う、それまでの世界史にない『負け方』をした」。 普通の戦争では勝っても負けても(まあ負けたら、賠償とか領土割譲ということはありますが)、国家の主権とか国民国家としての統合の背骨は維持されますが、日本はそうはならなかった。同じ枢軸側で戦ったドイツが分割統治されたとはいえ、ドイツ国家としての主権を失わなかったのとは対称的です。ドイツは今次大戦の基本原因をすべてナチスに追いやって、道義的責任だけを引き受けた。そうすれば、これまでの自国自民族の歴史を「連続的に語る」ことが出来るからです。というか、そういう仕方で語らなければ、今ここにいる自分たちを「定位」することが出来なくなってしまう。人によっては気が狂うしかないかもしれない、と考えたからでしょう。 同じような決して表では語られない事例を、内田さんはヴィシー政権の官僚組織(ナチスの傀儡として、フランスのユダヤ人を、大量にアウシュビッツに送り込んだ)を丸ごと引き継いだ、ド・ゴールの戦後フランス共和制の有りようで指摘されていますが、日本はそれのいずれにも該当しない「負け方」をした、と言うのです。 歴史にifは禁物と言うけれど、「あり得た歴史」を考えてみることは、一つの思考方法として有効だとする。それは例えば、ミッドウェーとは言わずともガダルカナル失陥の折りとか、少なくともサイパン陥落の時点で、停戦とか降伏という選択を行っていれば、あるいは敗戦後日本は自国自民族を「連続的に語る」ことが出来たかもしれない、ということです(どういう語り方をしただろうかは、それこそパラレルワールドの世界で、私たちは知りようがありません)。 戦争の様相が一変し、通常の戦争ではなく無差別の大量殺戮が始まったのは、本土空襲のしばらく後から、そして死者の数が爆発的に増えたのは、敗戦の半年ほど前からでしょう。私たちの父母、祖父母はたぶんこの半年間で、世界史にないものを見てしまったに違いない。まさに「言葉で語ることが出来ないもの」を、ということです。 要はこの時以来、日本人は自国あるいは自分のことを、「連続的に語る」ということが出来なくなってしまった。自身を「定位」することが出来ない状態で、敗戦後70年を過ごして来たわけです。まあ、その後のマッカーサーの占領政策が大きいという見方も出来ますが、私はどちらかと言うと、あまりそうした他責的なものの言い方はしたくない。だって占領政策が終って後も、ずうっと同じマインドを維持して来たわけですから。 恐ろしいのは70年間もそうした状態でいると、「定位」出来ないでいる我が身というのを、何とも思わなくなってしまっているということでしょう。先の弁護士さんの事例を出すまでもなく、自身を規律する背骨がそもそもないということにも気付かないので、その場の空気で平然と「二枚舌」を口にしても、何とも思わない。 自分たちが我が身を「定位」出来ない境遇にいることは、じつは国内にいるかぎり、ほとんど意識することはありません。なぜなら全員が同じ空気を共有しているからです。しかし国外に出た時、日本人は「己が何者であり、どこから来、どこへ向かおうとしているのか」外国人に言明することが出来ない。ハタと口ごもってしまう人が多いんじゃないかしらん。 また余談ですが、日本人が英語をしゃべれないのは、語学がヘタだからではないと思うのです。英語のヘタさ加減で言うなら、他のアジア人だってアフリカ人だって、たいていヘタでしょう(たぶん)。しかし彼らはヘタであることを何とも思っていない(外国語なんだから当然じゃないか、と思っているのではないか?)。なぜなら彼らは「語るべき自分たちの物語」を持っているからです。 私はしかし、先の弁護士のような人たちを、「アホか!」と非難する気にはなれません。なぜならほとんどの日本人は、同じような内心の「疚しさ」を隠し持っているからです。新たな日本人を「定位」する試みは、右左問わずいろいろ試みられていますが、残念ながら自分たちの「過去を全面的に引き受けて、未来の鳥瞰図を示す」ようなビッグピクチャーを描いてみせた人はまだいません。大なり小なり党派的な「思考の檻」に阻まれて、本当に全国民の心に届くような「物語」は描けてないのです。 さて「モリ・カケ問題」に始まった、長い長い話ももう終わりです。選挙という機会がなかったら、おそらくこんな話はしなかったでしょう。 おしまいに、あるいはヒントになるかもしれない、近江商人の格言を紹介したいのです。たぶん皆さんもご存知かと思いますが、― 三方好し ―という言葉です。 この場合の三方(さんぽう)とは、「先方好し、自分好し、世間好し」という意味です。江戸期、何も産まないのに「物の移動だけで金を稼ぐ」商人という生業(なりわい)は、武士階級だけでなく農民層からも大いに蔑まれたものでした(西洋でも、そうでしたね)。そうした中にあって、近江の商人たちは自分たちの生業を、何とか「定位」して堂々と我が身に物語るために、必死になっていろいろ考えたのでしょう。 私はこの格言の肝は、「世間好し」という文言だと思う。 自分と商売相手が良かったら、それで「好し」ではなく、その商談はさらに「世間好し」であって、はじめて成立すべし。でなければ、我が身を堂々と名乗ることが出来ない(売春婦のような生業がこれにあたる?)。今どき、グローバル企業でも、勝者総取り(Winner-take-all)というマインドが当りまえの世の中、世間どころか相手方さえだましても、勝てば官軍というのは、やはり商売倫理としても人の生き方としても、いかがなものか。 「世間」という第三の目(これを実社会の目と取るか、中空のどこかから見詰める目と取るかは別として)を常に意識する、とはすなわち、我が身をいったん「立ち止まって、見よ」、「疑いを立ててみよ」ということを言っているのでしょう。面白いのは、彼らはこの格言を世の中に開陳して、「自分たちの存在を認めよ」と主張したわけではなく、自身を規律する「倫理規範」として胸に抱懐して、全国を天秤棒を担いで歩き回っていた、ということでしょう。自身に規律する背骨があるならば、実社会から何を言われても揺らぐことはないのです。 私はこうした高度にタフな叡智を、例の複式簿記と並んで、実地を踏まえながら編み出した近江の先人たちを、すごいなと思うと同時に、多少の「希望」をもって語りたかったのでした。以上
2017.10.19
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森友、加計問題について 6. 二回目の加戸証言で、非常に印象に残ったところがありました。これも青山さんの質問に対してですが、 「私も霞が関で三十数年生活し、私の知るかぎり、今までメディア批判をして勝った官僚、政治家は誰一人いないだろうと思っているし、ここで何を申し上げても、せんないことかな、と感じている」という部分です。 二十数年前(1993年)、司馬さんが文化勲章授与の前の記者会見で、 「日本人は、いつからこんなバカな国民になったのか。日本は今、二回目の敗戦を迎えようとしている」と発言して、記者団が鼻白んだときの場面を思い出してしまう。晩年の司馬さん、バブル崩壊後の「住専問題」をめぐる政府と銀行の「棒を飲んだような」無策ぶりに、大変怒っていたという話ですが、ここでの加戸さんの「せんないことかな、と感じている」という言葉にも、何やら共通した「悲しいもの」を感じてしまいますね。 「なかば呆れ、なかば諦めた」かのような、お二人の発言はしかし、これからを生きて行く若い人たちには、あまりお勧め出来ないというか、意地でも認めてほしくない(と、何だかずいぶん年寄りめいた、偉そうなものの言い方をしていますが)。「メディア批判をして勝った官僚、政治家は誰一人いない」かもしれないけれど、直接の当事者でない一般人が、数は少なくても刻苦して、自身の「知見」を磨くことを怠らなければ、要は「容易にまつろわない」嗅覚を維持し続けるかぎりは、「勝つ」ことは出来ないにしても、勝負は常にイーブン、「千日手」に持ち込むことは出来るかもしれない。 それにしても、「特定機密保護法」が出来たら「表現の自由が侵される」だの、「安保法制は『戦争法』だ」だの、一体今どきのマスコミのエリート(と思っている)人たち、自身の超優秀な知的資源を、なぜこのような仕方で蕩尽してしまうのか、私は理解に苦しむ。 早い話、「表現の自由」「報道の自由」を呼号される方々、「表現の自由」を求めるということは、「何を言っても構わない自由」と思っているのかしらん。であるなら「自身にとって『耐えられない表現や主義主張』も、あえて認容しなければならない」という、「不都合な現実」もまた受け入れなければならないはずですが、おそらくこの人たちの頭には、ここから先もそんな発想はないでしょう。 それが証拠に安倍さんの演説を団体で封殺し、それをテレビカメラで執拗に追いかけたマスコミ関係者は、自分たちの主義主張の非寛容さにまったく気付いてないのです。一つの主義主張を無理無体に押し通すという、かつての労働者運動のようなデモンストレーションは、21世紀の今どきにはなじまない。はしなくも小池都政が「情報開示」を求めて始めた「都民ファーストの会」は、専横的な秘密のベールに閉ざされて、まるで「小池王朝」をなしていることを露呈してしまいました。 小池さんについては、もう一つ言わざるを得ないことがあります。青山さんは「希望の党」という命名に噛み付いて、「わが国から『希望』という言葉を奪うな!」とお怒りでしたが、同じような話で、私は彼女が使った「アウフヘーベン」という言葉に引っ掛かりました。前原さんとの電撃的な密約を、野合ではなく高次な合体という意味で表現したつもりなのでしょうが、まあもう、いつものことですから、いちいち目くじら立ててもしょうがないとはいえ、何て言葉を手軽に弄ぶ人だろうと思ってしまうのです。 この言葉、ご存知のとおり、ヘーゲルというドイツの哲学者が、自身の哲学的思考をより深下させるために、思考の新しい枠組みとして作り出した概念で、そもそもきわめて「個人的な営為」に属するものです。それをマルクス以下が、社会科学的に大幅に拡張して「集団の営為」として理論化した結果、共産主義運動というものが生まれたのでした。小池さんはどう見ても「個人的営為」としてこの言葉を使っているとは思えず、となれば彼女はこれをマルクシズムの用語として使っていることになります。しかしこの人をマルキストとは誰も思いますまい。 「そんなことは知らなかった。マルクス用語で使ったんじゃない」と言われるでしょうが、軽々に言葉をこのように弄ぶ人は、他者に対しても同じ振る舞いをするのではないか? 要は、右も左も「自分の都合」だけで言明を繰り返し、仮にそれを実際に行使した場合に生じる、「全体の現実」を見通すリアルな視点がまったく欠けている。 何やら一番ヘタな営業マンのトークを聴いているような気がしません。彼らはいつも「自分の都合」だけを言い募ろうとするでしょう。その人たちのトークを聞いて、誰か心惹かれますか?優秀な営業マンは決して「自分の都合」で話はしません。全体を見渡し相手の様子を観察しながら、その中での自分の位置をマッピング(定位)しつつ、最適な言葉を捜すのです。なぜそうするかといえば、商談を成立させるのが、彼のミッションだからです。商談とは他者との和合に他ならない。「勝った負けた」の話では商売は成立しません。
2017.10.18
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森友、加計問題について 5. この閉会中審査、二回目は当初NHKは中継しない予定だったらしい。一回目いわば鳴り物入りで隅から隅まで生中継して、「そら見たか」とばかり「やはり『初めから加計ありき』だったじゃないか」と噛みつこうとしていたところが、思わぬ墓穴を掘って「これはマズいんじゃない」ということになった。したがって、直前まで中継については大いに渋っていたのでしょう。 加戸守行元愛媛県知事の証言について、「まったく報じてないじゃないか」という抗議がNHK他各民放メディアにも寄せられたらしいですが、じつは一回目の中継当日、直後のNHK解説委員と夜七時のニュース、そして夜半のニュース解説では取り上げていたような気がする。で、どこを取り上げたかというと、加戸さんの「愛媛県にとっては、十二年間加計ありきだった」という文言だったと記憶しています。解説委員など「そら、やっぱり『初めから加計ありき』だったじゃないか」と言わんばかりのコメントをしていました。 加戸さんという人、文部官僚から出身の愛媛県知事に転進して、かなりご高齢ですが(84歳)、ユーモアというかブラックジョークをかますことが出来る人らしい。マスコミの様態や官僚の生態を充分知悉した氏にとって、こう言えば必ずマスコミは食いつくというところまで読んで、「愛媛県にとっては、十二年間加計ありきだった」と発言されたのではないか? よく考えてください。十二年前には、安倍政権などこの世に存在しなかったのです。マスコミは安倍政権は「最初から加計ありき」だったと、世論を誘導しようとしたのですが、安倍政権がこの世に存在しない時から「加計ありき」だったら、論理の土台が根底的に崩れてしまうじゃないですか。NHKもさすがにそのあたりの理路に気付いたのか、翌日以降この話は無かったことにしてしまいました。 そもそもこの加戸さんの取り扱い、NHKも含め各メディアのスタンスは、あたかも安倍さんシンパの御用学者と同じような扱いをしていたのではないか?お追従発言であるなら「軽く扱ってもしかたがない」というようなエスケープが成り立つのです。しかし中継を観た報道各社は困ってしまったでしょう。前川氏も含めて各証言者の中で、「生身の声で語っている人」は加戸さん以外になかったのです(で、そうした人と成りの違いを冷静に引き出してみせた、青山さんの質問力もたいしたものです。マスコミは意地でも報じませんが!)。 じつは私も含めて一般の人は、よほどのことでも国会中継を隅から隅まで観る、あるいは証言内容の全文に眼を通すなどということはしない(そこまでガマン強くない)。まず間違いなく、切り取られたニュース映像と文言、そしてニュース解説者かその筋の専門家のコメントで、全体を把握しようとするでしょう。 今回面白かったのは、各社「『初めから加計ありき』で、安倍政権は獣医学部新設を図った」のだろう」あるいは「したに違いない」という推論を一貫させるため、加戸証言はその映像ともども「この世に存在しない」ことにしてしまったということです(もちろん質問者の青山さんも含めて)。 私は今さら公平な報道とか、客観的な解説などという、学級会並みのきれい事など言うつもりはありません。もとより神ならぬ人間の世界で、絶対公平とか客観性などというものは、論理的にも存在しない。しかし、より公平、客観であろうとする姿勢は、獣ならぬ人間としての「最低限の営み」ではあるまいか? 目の前にまぎれもない「証言」があり「人」がいる、それらをすべて無いことにしてしまう、という姿勢には、何やらウソ寒い気分がしてゾッとします。報道側は「報道しない自由」という理屈を盾に、加戸さんの件を収めようとしていますが、これもおかしい。じゃあ中国の「人民日報」や北朝鮮の「労働新聞」が、世界一の報道機関ということになってしまう。だって、「報道しない自由」をいちばん行使しているのは、これらじゃないですか! まあこれらは機関紙だから、「不都合な真実」を報道しないというのは、当たり前といえば当りまえですが、じゃあNHK他各報道機関は、どこかの機関紙なのでしょうか?少なくともNHKは、全国民から「視聴料」を召し上げて運営している報道機関だと思いますが。 それにしても、解説はおろかニュース映像においても、ほぼ完全に加戸さんを二グレクトしたのはなぜか?それはその部分においては、報道各社はさすがにプロ、「映像と肉声の力」をよく知っていたからです。一枚の写真映像、一本の肉声テープが世論や政治を動かす、というのは世界中でよくある。加戸さんの映像と肉声は、そこまでの迫力ではないにせよ、繰り返し登場させないに越したことはない。したがって、二回目の閉会中審査の生中継には、渋りが生じたのでしょう。 私は今回の「報道しない自由」を扇動、もしくは「お墨付き」を与えたのはNHKだったと思っています。民放各社は生中継をしませんから、中継後のNHKの出方を固唾を呑んで見ていたに違いない。で「あ、それでいいんや。それで行こう」とばかり、野党の質問と前川証言の映像だけを集中豪雨的に流し、それに関するコメントだけをしかるべき専門家諸氏に求めたのでした。一回だけ青山さんを呼んだ局がありましたが、MCの女性アナを含め見苦しい対応を見せましたね。 私はこのあたりのマスメディアの様態が、何やらいつぞやの「スタップ細胞騒ぎ」とパラレルに見えてしまう。かの女性研究者(名前忘れました、皆さん覚えてます?)が、厳しい事実検証を忘れ自身の信念の表明として「スタップ細胞は、あります!」と叫んだことを(ここで胸キュンと来る男性諸氏が多いそうですな)、今どきのマスメディアは、かつてのように哂うことも叩くことも出来ないのです。 それでも各社は事実の取捨選択をしてでも、「信念の表明」として、こう叫びたいらしい。「『森友、加計問題』は、あります!」と(全然胸キュンと来ないけど)。 事実に目を塞ぐ、とはこういうことを言うのでしょう。
2017.10.17
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森友、加計問題について 4. さすがにメディアも、このあたりのみっともなさに気づいたのか、はたまたうまい具合に「加計問題」が出て来たからか(残念ながら後者の可能性が高い)、少しずつ籠池氏をフェイドアウトして行って、話をうやむやに済まそうとしています。これもずるい。 今回の選挙戦で驚きは、今だに「森友、加計問題は終ってないと思う」と答える有権者が少なからずいるということです。それを糧にしている野党議員諸氏は別として、メディアは「森友問題」に対する立ち位置をハッキリさせて、有権者に正確な状況を伝えるべきなのではないか。自分たちも加担した騒ぎに始末をつけず、「後は勝手に判断して」というのでは、受け手は混乱するばかりで、正常な選択が出来なくなってしまう。で、その結果責任を取るのかと言えば、もちろん知らん振りでしょう。これまた敗戦直後のマスメディアの、はなはだ無責任な豹変振りとまったく同じ。 そもそも今回の選挙は政権選択選挙などではなく、現政権の政策「信任選挙」であって、先に挙げた経済政策、外交政策、構造改革、規制緩和、消費増税等々、これまでの安部政権四年の実績を検証し、新たに掲げた公約の是非、あるいは実現可能性について議論を戦わせて、その結果を有権者の審判にゆだねるというプロセスをたどるべきところ、まあ「小池問題(!?)」が出て混乱したこともありますが、有権者にとってはなはだ分りにくい選挙戦になっていると思いませんか。 上に挙げたテーマこそ、この国の行く末を決める根幹の課題のはずですが、ここのところで、話が沸騰しているとはとても思えません。 話がだんだん、よくある「メディア批判」に傾いて行っています。まあ、出来るだけ「月並み」を避けて、私のような一介の一般人で知り得た情報、あるいはタカが知れた経験知だけで、この問題についてどれぐらいの判断が下せるのか、それが試したくてながながとしゃべっています。 それにしても「森友」の取り扱いも酷かったですが、「加計」のケースはもっと醜いというか、期せずして大手メディアが、そろってメディアスクラムを組んだという意味で、ほとんど犯罪的というか、報道規範とか倫理を自ら放棄したのかとさえ思えて、背筋が寒くなって来ますね。 「加計問題は、前川問題だ」と前に言いましたが、要は「初めから加計ありき」だったのでは、と前川氏が取り出して来る事案に飛びつく前に、「問いを立ててみる」ということをなぜしなかったのか。「出会い系バー」に入り浸っていた、というスキャンダラスな報道に対して、「女性の貧困調査(?)に行っていた」とシレッと言ってのける、あるいは「これは官邸のリークだ」と巻き返す、そういう人物の信憑性に「疑問符」を投げる姿勢が、ここから先もなかったでしょう。どころか、「出会い系バーに通うことじたいは違法ではない」と擁護するコメンテイターまで現れては、開いた口が閉まらない。 「じゃあ、あなたの子供が通う学校の校長が、出会い系バーに通っていて『これは『女性の貧困調査』です』と答えたら、あなたは黙っているのか」と聞きたくなるし、「これを擁護するなら、先の森友100万円問題は、なぜ追及できるのか。あれだって違法じゃないじゃん」という論理矛盾になってしまう。 こういうのを二枚舌(Double standard)と言うのです。嘆かわしいのは、おそらくそれを言っているご本人が、その自己矛盾にまったく気付いていないということでしょう(確か、弁護士さんだったと思いますよ)。自分を規律せず、周囲の空気や放送局の意向にに調子を合わせてしゃべれば、必ずこうした矛盾が起る。そもそもご自身に規範がないのだから、我が子の事となったら、さっきのお説などいっぺんに忘れて、学校に飛んで行くんじゃないか、と私は恐れるのです。まあ、どうでもいい話ですが。 閉会中審査における、青山さんの前川氏、加戸氏への質問は、とても興味深く拝見しました。細目に触れるのは、煩雑に過ぎて手に余るし、他でもいろいろ議論されているので、ここではしません。私の目はやはり、誰の証言が「本当に、胸に届いたか」という一点に傾きます。今回の二度にわたる加戸証言、木で鼻を括ったような「当たり障りのない」証言が多い中、あるいは唯一「肉声でしゃべっている」証言だったのではないか? 対するに前川氏の証言は、その中味以前に語るときの物腰、意図的に表情を消して、なおかつ皮肉な微笑を含んだ余裕を演出してみせる。この自信満々の態度はどこから出て来るのだろう、と不思議に思ったものでした。私は思うのですよ。あるいはひょっとして、この人は「出会い系バー」では、本当にコトは起こさなかったのではないか、と。もっと言えば、この人はこの種の遊びには何の興味もないか、本当に「遊ぶ」なら別のもっと安全なところで、上手に遊んだだろうという気がするのです。 では、なぜあえて新宿歌舞伎町という、まあいわば「危ない」一帯の店にあえて通ったのか?これについては、「虎ノ門ニュース」での青山さんのコメントが参考になります。要はこれは、しかるべき筋へのシグナルというか、パフォーマンスだったのだろう。「私は既得権益の側ですよ」「あなた方についているのだから、よろしく」みたいな。この人の冷笑を含んだ表情は、たんなる個人的なパーソナリティーというより、大きなバックグラウンドを背にした余裕が生み出したもの、という気がする。「それは何なんだ」というのは、素人の推測を重ねるだけなので、ここではしません。 ポイントは、なぜマスコミは「加戸証言」を、ほぼ全面的に二グレクトしたのか、ということです。
2017.10.16
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森友、加計問題について 3. さて籠池氏の話に戻すと、こういう人に特有の「話好き」の性癖は、国会喚問だけでなくメディアのインタビューのときでも明らかでした。奈良市役所に勤めていたという話ですが、いわば行政の裏表を知り尽くし、役人根性の弱点を熟知した人物が、ある詐術的意図を以って政治家や公務員に接触して来た場合、どういう顛末が起こるかは大体想像がつきます。こういう人、やっぱり世の中にいるのですよ。 それにしても、彼が自信満々で取り出してみせた100万円の振込書。そもそも仮にそれが事実だったとしても、法律にも抵触しない事案を、なぜ賑々しく取り出したのか?もちろん目的は明白で、安倍さんを貶め汚すためです。この人のずるいのは、一般人同士の間なら「名誉毀損」になりかねない事案も、首相という「公人」ならたぶんやりにくいだろう、まして「安倍さんという人は(トランプさんと違って)、個人的にも絶対しないだろう」という確信を持って、これをやっていることです。 相手の口をあらかじめ封じる、あるいはくぐもらせておいて、懸案の主導権を握ってみせるというのは、かつての企業ゴロとかその筋の団体が、よく使う手ではありました。超一流の大企業でも、この種のクレーマーもどきの手口には、手を焼いているのですから、政府官邸が時に踊らされるということも、ある程度仕方のないことかもしれません。 私が情けないのは、そういう籠池氏の風態や姿勢など、とっくに知り切っているはずの、野党議員や大手メディアがこぞって彼の言い分を、一方的に(ほとんどヒーロー扱いで)取り上げたことです。この途中、誰か「これはちょっとマズいぞ」と指摘する人は、いなかったのかどうか?「挙証責任は指摘された側にある」と、当時野党もメディアも政府側にさかんに言い立てていましたが、巧妙に「密室事案」を構成した籠池氏の言い分に、なぜ「これはおかしい」あるいは「これではアンフェアだ」と疑問を呈することをしなかったのか? 極論ですが、彼の密室論法でいけば、何でも言えてしまうことになる。ひらたく言えば、例えば「一億円もらった」「昭恵夫人にハグされた」と言っても、「挙証責任は相手側にある」ということになってしまうのです。籠池氏もさすがにそこまでの度胸はなかったのか、中途半端な「100万円」ということにしてしまいました。 私、思うのですよ。よほどお目出度い野党議員や、無能な取材記者は別として、ほとんどの人は彼の人物風態を、最初から見切っていたのではないか?と。それを分っていて、なおかつ盛んに取り上げたというのは、「安倍降ろし」の風を吹かしたほうが、議員やメディアにとっては、「面白い」と判断したからです。こういう時、「この手の人を、祀り上げたらヤバい」とか、「結局、指摘している自分を貶めることになる」と異を唱え、自身を規律するようなエートスは、不思議なくらいこの国では消えてなくなる。 相手にしてはいけない人物を、無反省に取り扱うことで、結局取り上げたほうが、我が身を貶めることになるという点で、これは先の「保守派論客」の方々と、まったく同じエートスを宿しているわけです。 いずれこの人たちも、必ず言い出すのですよ。「この人物がどういう人なのかって、そんなことは初めから分っていた」と。じゃあ「アメリカと戦って勝てるかって、そんなこと最初から誰も思っていなかったよ」と、敗戦後、平然と答えた戦前の政府首脳のエートスと変わりないじゃないですか!私たちは何回同じ失敗を繰り返せば、気が済むのでしょう。
2017.10.15
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森友、加計問題について 2. それが証拠に、籠池氏にとって「愛国教育」というのは、学園運営上の「必要」によって、編み出された「手段」に過ぎず、理念でも信念でもない。それは事が大きくなってからの、彼の行動を見れば明らかです。あまり言いたくはないですが、氏の唱導する「愛国教育」の目指すところが、もし氏自身のような人格なのであるとするなら、日本の未来は悲観的にならざるを得ませんね。私は現在の公教育に不安を感じ、「正しい教育」「まともな歴史観」を設えてくれる受け皿を必要と感じるご家族がいることを、大阪ではなく沖縄で知っています。小学校の公教育が、あまりにひん曲がっているので、ガマンできなくて無理して私学に通わせていらっしゃいました。 籠池氏の罪の重さは、詐欺罪のような刑事ではなく、自身の経営的な「必要」によって、一般家族の「必要」を籠絡(ろうらく、うまくまるめこんで、自分の思う通りにあやつる)したという、倫理的な部面において本当は問われるべきでしょう。 倫理を法律で裁くことは、もちろん出来ません。となれば、私たちは人を見る目を養って、日々鍛えつつ、前もって身を守っていくしかない。というと何だか大げさですが、要は「こうだ」と判断した我が身に、とりあえず「?」を立ててみる。自分の目とか判断の枠組みに、いったん「疑い」を立てて、より信憑を高めていくしかないんじゃないか。これまた言うたら何ですが、大阪のオバちゃんたち、この手の判断はまことに早い(近所に籠池的風態の人物が多いぶん、慣れてるということかしらん。「どの口が言うてんや!」とはよく言ったものです)。 それにしても、関西人でなくても、すぐ見抜けそうな人物と、立派なディグニティを保持していたように見える安倍政権が、どのような経緯で関わりを持ったのか、という疑問はまだ残る。私はタダの一般人なので、つぶさに報道を調べたわけではないのですが、一連のマスメディア報道で、伝えていない疑問が一つあるのです。 それは誰が、「昭恵夫人と森友をつないだだか」ということです。いくらカッ飛びの夫人といえども、ネットサーフィンしていきなり大阪の一幼稚園に舞い降りるとは考えにくい。とすればすぐ思い浮かぶのは、それに前後して森友に顔を出していたしかるべき人たち、そして官邸もしくは昭恵夫人とごく近いであろう人たちの姿です。 森友の前理事長(籠池氏夫人の父)が大阪の府議や国会議員、役所と深いつながりがあったことは、すでに報道されていますが、これは学園経営が役所の許認可事業である以上しようがない、というか自然の成り行きであったでしょう。問題は「愛国教育」を唱導し始めた籠池氏の理事長時代に、森友に足を運んだ方々ということになって来ます。 非常に残念なのですが、その中には鴻池参議員や櫻井氏、竹田氏そして他ならぬ青山さんなど、いわば在京メディアからはほぼニグレクトされつつ、ネットその他ではおなじみの「保守派論客」も入っていたということでした。だから「昭恵夫人とつないだのは、お前たちの誰かだろう」などという、文春バズーカのような話をしたいわけじゃありません。 肝心なことは、官邸や昭恵夫人だけでなく、主要メディアから締め出されても、的確な識見を保持していると信ずべき人たちまでが、そろって籠池氏の詐術に乗っかってしまったということです。それほどまでに、このいわゆる「保守派論客」の面々は、「お目出度い人たち」の集まりなのか?であれば、私はこの人たちの言説に、本当の「信」を置くことは出来ない、ということになってしまう。 断っておきますが、私はこうしたいわゆる「保守系論客」の人たちと、理念とか信条とかを何もかも共有している、というわけではありません。と言うか、どちらかというと全体が「右だ」と言い出したら、衝動的に左に避けるタイプです。大きい小さいを問わず、ある集団が一つのことを棒を飲んだように言い出した場合、生理的に「ホンマかいな?」と引いてしまう。だから、いわゆるサポーターにはなれません。むしろ「意地でもなるか」と突っ張るほうです。 逆に識見品格とも信じるに足ると見なした人の話には、仮に理念や信条が真反対の場合であっても、充分敬意を払いたいと思っているクチです。 人は顔かたちや腹の虫の居所が、それぞれ別個であるように、意見や考えかたが違って当り前。であるにもかかわらず、人と話が出来るのは、相手が自身の「識見品格」を刻苦して常に磨いている、と感じられる場合だけです。教条的な議論しかしてこない人たちは、何かそれよりはるか以前に、肝心なものを置き忘れているんじゃないか、とさえ思う。一回でいいから、真に「人の胸に届く」話をしてみたら、とも思ってしまいます。 と、やっぱり何やら、うっとうしい話になってしまいました。
2017.10.14
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森友、加計問題について 1. 不愉快な話はしたくないのですが、選挙戦が始まっても相変わらず野党と主要マスコミは、まだ「森友・加計問題」にしがみつこうとするので、やむを得ずまた話するのです。 「森友問題」にかんしては、大騒ぎになる今年2月より少し前、関西の民放テレビに籠池さんが顔を出し始めた時点で、「厄介な人物が出て来たな」と思ったものでした。この場合の「厄介な」というのは、当人が語っている中味のことでなく、その風態から受ける感じのことを言っているのです。あたかも善意の被害者のような顔をして、ペラペラ弁舌を垂れまくる人というのは、世の中には必ずいるものですが、早い話こういう人と「取引相手」として対面した場合、私の経験では一番注意しなければならないタイプだったからです。 私の経験など取るに足らないものですが、はじめ善良な顧客面をしていた人が、ある日豹変して妙な話を持ちかける、あげくはややこしい人を同伴して来て、「なるほど、こいつの目的は最初からそういうことだったのか」というようなことがありました。 その後の安倍政権の「森友」にかんする取り扱いの経緯は、まさしく世間一般の「だまされ役」を演じて、見ていて歯がゆく思ったものでした。残念でしかたがないのは、何があったではなく、その騒動の期間中を通じて、安倍政権の「意外な脆弱性」を見せつけられる、ということであったと思います。その「脆弱性」とは、第一次安倍政権の末期にみられたあっけなさに通じるもので、この四年間築いて来た政府のディグニティdignity(尊厳、品位、矜持など)は、「いったい、どこに行ってもたんやねん」と思ったものです。 要は、なぜ籠池氏のような人物に、時の政権が振り回されなければならないのか?それを見切る識見を持った人物が、官邸及びその周辺に、なぜ一人もいなかったのかということなのです。 私は公平に見て、この四年間の安倍政権の実績は、「平成の宰相」と呼ぶに相応しいものだったと思っています。具体的には、失われた二十数年間、頑として動かなかった金融が、やっと少し回り出したこと。中味は別として雇用を最高水準まで押し上げたこと。そしてこれも賛否拮抗する課題ですが、困難な「消費増税」を再びやろうとしていること。 外交面ではその華やかさほどには、実績はまだだと私は思っていますが、大事なことは「日本の顔」として、名実ともに日本の首相が世界に知られるようになったということです。これは戦後史に(あるいは、ひょっとして戦前も)かつてなかったことで、トランプさんやプーチンさんについて、他の国の首脳が安倍さんの見解を聞きたがる、あるいは仲介を持ち込んで来る(?)などということは、それまでの首相諸氏にはなかったことでしょう。フィリピンのあの「困ったチャン大統領」が来日した折、何だか借りて来たネコのように萎縮して、明らかに安倍さんを畏敬の眼差しで見詰めている。安倍さんはどこぞの首領様のように、居丈高に上から目線で偉ぶる人(日本にもいました)では、ここから先もありませんが、品格識見で明らかにその場をリードしていたのです。 ではなぜ、そのようなディグニティが、簡単に壊されていくのか?言いにくいですが、私は、それはたぶん「愛国保守」という、古い立て看板のせいだったのだと思う。戦後、主要メディアからほぼ全面的に二グレクトされ続けて来た、いわゆる「愛国保守」とされる人たち、それがあまり長きにわたったせいか、独特のエートスに染まってしまっているような気がするのです。 一言でいえば、「私たちは少数派だ」、「何を言っても、結局無視される」といった一種の「ひがみ性」あるいは「諦め感」。で、その裏返しとしての「強面」な素振り(安倍さんはそうじゃありません。しかし靖国を参拝される、議員諸氏他の皆さんの多く)。「他の誰に何と言われようと、俺は行くんじゃ」というような「硬直した立ち居振る舞い」は、決してご自身の意志の強固さを体現してはいない。むしろ「話の分らん奴は、ここには来るな」とばかり、明らかに「排除の素振り」を前面に押し出しているのです。 こうした一種の「受難者」的エートスは、しばしば人を見る目を誤らせる。似たような「愛国教育」の立て看板を引っさげた人物が現れたとき、その人物の風態を見抜くことを、自身のエートスが邪魔するのです。これは神ならぬ人間である以上、致し方のないところではありますが、それでも早い話、いわゆる左翼リベラルにも「過激派・急進派」から「穏健・中道派」まで、さまざま流派があるように、「愛国主義」を標榜する人たちにも、それと同じような有象無象があるということでしょう。同じ「愛国主義」だからと言って、無批判に仲間に取り込んでいったら、とんでもないことになる。
2017.10.13
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呼吸、ストレス 「生き生きとしたリズム」とは、もちろん時計のようなリズムとは違う。とはいえ精確で安定したリズムは、音楽に発止とした推力を発生させるらしい。G・ショルティというハンガリー生まれの指揮者。ワーグナーの演奏を見ていると、ダイナミックでキレのある指揮振りがよく分かる。オケは手勢のシカゴ交響楽団。ボストン響やニューヨークフィルに比べて、ランク下と言われたアメリカの地方楽団を、一躍世界有数の実力楽団に育てた指揮者です。 彼もまたカラヤンと同様、トスカニーニ直系の楽譜に忠実な指揮者でしたが、後年のスタイルはカラヤンとは大いに異なる。「音楽はリズムだ」と生前ずいぶん熱心に語っていましたが、余計な振りをつけない即物的な演奏という点では、彼のほうが師匠に近いスタイルだったかもしれません。 とはいえ、私にとってショルティと言えば、やはりウィーンフィルとのワーグナーの楽劇全曲録音。相性がよかったとは言えないオケと真っ向対峙して、ビックリするような響きを引き出す。先のウィンナワルツを優雅に奏でていたオケが、まるでケンカ腰で「分ったか!」と、指揮者を見返しているような演奏で、笑ってしまいますね。 大事なことは相性が悪くても(かの楽団はカラヤンともトスカニーニとも、よくなかったらしいですね)、互いがその持ち味を発揮し弱点を消し去る、という奇跡が起こり得るということでしょう。ショルティらしいダイナミックなサウンドを繰り出しながら、ときにウィーンフィル独特の「表情」が顔を出すのです。Youtubeを見ていたら、何と「ニーベルンクの指輪」も全部UPされていて、しかも対訳字幕つき。LPの時代は別冊の対訳を読みながら聴くのが、おおいにわずらわしかったのですが、今はそんな手間も要らないのですね。「ワルキューレ」の第三幕(それだけで1時間10分!)、例の「ワルキューレの騎行」から始まる部分ですが、むしろフィナーレ(55分くらいから)の神々の王ヴォータンが、愛娘ブリュンヒルデと決別し、去って行くラストが聴かせます。録音はかなり古いけど、私はやっぱり、シカゴよりこちらのほうがいいなあ。 それはさておき、じゃあ「生きたリズム」とは一体何なのだろうと、あらためて思ってしまう。M、ジャクソンのところで、彼らはリズムを「ずらす」あるいは「裏を取る」というしかたで「自在に操っている」ようにみえ、それはウィンナワルツの一拍めのストレスを、自在に操っているかのようにみえるウィーンフィルの呼吸と、じつは同根のものなのではないか、という話なのでした。 そこで気づくのです。リズムが躍動して聴こえる時とは、結局「呼吸が同期している」時なのではないかと。生き物の心拍数は平均すればそれぞれ一定ですが、興奮するとたちまち跳ね上がるし、呼吸数も上がるでしょう。要するに、あらゆる生体は刻々変異する周囲の環境に対し、心拍数を上げたり発汗したり呼吸数を上げたりと、、我が身の「恒常性維持」のために、さまざま調整機能を持っているのです。これって「ずれ」とか「ストレス」そのものじゃないですか。 基本、平均すれば一定のリズムを刻んでいるにしても、適度な「ずれ」とか「ストレス」があることが、「生き生きしたリズム」を生み出している、ということになるのではないかしらん。 そこで思い当たるのが、前に取り上げた826asukaさんの「ミッション・インポッシブルⅢ」です。オリジナルサウンドトラックに比べて、一拍めわずかにストレスが、かかっているように聴こえません? 彼女の動画にかつて以下のようなコメントをしたことがあります。― この曲の編曲は、ほぼ原曲を正確にトレースしているので、オリジナル・サントラ盤とこの演奏を聴き比べると面白い。優劣の話ではなくて、ハッキリしているのは繰り出されるサウンドの洗練度ということでしょう。一人オーケストラの電子音は、それほどにすべての音をスッキリと整序してしまうのです。 このあたり好みの分かれるところ(TRUTHもそうですね)だと思いますが、私が言いたいのは、Asukaさんの演奏はサントラ盤あるいは原曲の再現ではなくて、譜面の厳格な再現だろうということです。大事なことはそれが機械的なトレースに終ってなくって、結果的に譜面に託された「歌心」を再生させている。 聴くほうは「まさしく今そこで、音楽が生成されている」というような、新鮮な音をそこに聴くんじゃないかしらん。だから何回でも聴くことが出来るのでしょう。― ここの「歌心」の中には、どうやら適度な「ずれ」と「ストレス」も入っているらしい。
2017.10.10
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またぞろやって来たハロウィーンのゾンビたち 政治向きの話はしないと決めているのに、またまた黙っているわけにはいかない騒ぎが始まってしまいましたね。 すっかり古びた劇場型政治手法に、骨の髄まで染まった方々が、またぞろいやに元気になって表に飛び出して来ました。話題だけ振りまいて十年ほど経ったら、「あれは一体何やったんやねん」というのは、小泉「郵政解散」ですでに明らかになっていることです。当時マスコミも有権者も何に興奮していたのかと言えば、要は自分に関係のない出来事、絶対我が身に降りかかる恐れのない災厄を、観客席から見物するのが面白くて騒いでいたのでした。 小泉さんが大儀として持ち出した「郵政改革」は、大半の国民にとっては他人事、消費税などと違って直接生活に響くわけではない。であるにもかかわらずフィーバーしたのは、いわゆる既得権益層(郵政族)と言われる人たちが敵に想定されて、小泉さんの炙るフライパンの上で飛び跳ねているのを、見物するのが面白かったからです。 いつぞや曽野綾子さんが、教育問題をテーマにしたBSの報道番組で、キャスターから「イジメはなくせますか?」と聞かれたところが、「いいえ、なくなりません」。「なくなりませんか?」「なくなりません」「なぜですか?」「当りまえです。面白いからですよ」「!?…」。 この時のキャスターの顔が面白かった。 曽野さんの話はいつもズバリとしていて、しかも補足がない(落語家がオチの説明をしないように)。「なぜ面白いかくらいは、自分で考えなさい」ということでしょうか。 ここからは想像ですが、曽野さんは人間というか、生き物がそもそも蔵している「暗部(悪魔性)」のようなことを言っているのでしょう。ネコだってネズミを捕まえたら、すぐ殺すようなことはしない。動かなくなるまでいたぶってから殺す(最近はそのまま食べずに、放って行ってしまう)。 そうした「暗部はヒト=生き物には、初めからインプットされている」、逆にそもそも「暗部を蔵していることこそ、ヒト=生き物の在りよう」そのものかもしれない、ということから「目を逸らしなさんな」ということでしょう。ヒトは安全地帯から他人の不幸を観るのが、面白くてやめられない性根を隠し持っているのです。すべての議論はそこから出発し、そのうえで「どうして行くのか」という筋道をたどらないと、話は建て前論のきれい事ばかりで終始してしまう。 曽野さんはもちろん「イジメはしょうがない」と言っているわけではない。それはなくならない(ヒトの本質だから)という前提で、そうした「暗部から上がろうとして行く営み」こそ、人の人たる品格を支える根源だろうと言っているのでしょう。 小泉さんのような劇場型政治手法には、逆にこのヒトの暗部(悪魔性)に擦り寄る気配が、ゾンビが脚に喰らいついて仲間に引き入れようとするかのように、濃厚にあるのです。本人が意識するしないにかかわらず(たぶん夢にも思ってないでしょう)、多くの政治家はここ最近のお笑い芸人と同様、ヒトの品格を貶める仕方でしか、衆目を集めることが出来ないと信じ込んでいるのではないか?自分の品格を刻苦して高める努力より、他人を貶めフライパンで炙る仕組み作りのほうに、自身の「知的資源」を投じたほうが、よほど楽で効率が良いらしいのです。 民進党の議員諸氏は、今まさしく小池さんの遡上に載せられて飛び跳ねている。私はここから先も民進党を指示しないけれど、そのプライドのかけらもない浅ましい立ち居振る舞いを、面白おかしく書き立てるマスコミ評論家諸氏は、それを煽らずにいられない自身たちの心魂を、「恥ずかしい」とはまったく思わないらしい。 まあ今さら「森友・加計問題」(これどうやら「森友・前川問題」らしいのですが)をあげつらってもしょうがないのですが、野党議員もマスコミもこれを取り上げるごと、自分たちの品位を貶めているということに、まるっきり気づいていませんでした。仮にも「公選で選ばれた代表者」に対して、それを糾弾する事案が出て来た場合、その取り扱いはよほど慎重であるべきはずなのです(贈収賄とか殺人などは別として)。 詐欺罪が疑われる人物、あるいは「私怨」をかなり蔵しているらしい人物が出してくる事案を、一方的に流し続ける姿勢には、マスコミや野党政治家としての知性とかプライドなどどこにも見出せません。「公選で選ばれた」ということは、「国民が附託している」ということです。「附託された人物」はたんなる一個人とは違う。何か事があれば、誰よりも先んじて「命を捨ててもらわなければならない」立場にある人です。 なぜなら「国民から附託された人間」として、「国民に犠牲や忍従を強いる要請」を行う場合もあり得るからです。その信任を担保するのは、結局その「公人」の人格識見に帰するのではないですか。 多少、大げさな言いかたをしていますが、要はこうした素性動機の相当怪しからん人たちの事案が「公人」に向けられた時、それらはそれを選んだ「国民」に向けられ、結局「国民を貶めようとしている」ものである、ということになぜ気付かないのだろう、と思ってしまうのは私だけでしょうか。 これは何も安倍さんのことを擁護するために言っているのではなく、一般論として話しているのです。民主党政権の折り、私は尖閣ビデオ漏洩事件に関して、かなり政権側に擁護的な書き込みをしましたが、後から考えればずいぶん拙劣な政権であったとしても、だから「どんな手法を使ってでも、貶めて良い」ということにはならない。 どうも日本のマスコミやある種の有権者には、妙な因習として政治家をそこらのオッちゃん(ゾンビ!?)と同等のレベルに押し下げたい、という願望があるのではないか。しかし誰より先んじて「命を捨ててもらわなければならない」人たち、つまり「公人」はそういう扱いにはなじまない、逆に「公人」は市井のオッちゃんであっては困る。絶えず刻苦して「公人」足るべく、品格識見を磨いていくことを要請されるのです。 さて、そういうふうに考えてくると、小池さんという人物が、どのように見えるかというと、私はやはり小沢さんの顔を思い描いてしまう。一言でいえば、「権力欲に取り憑かれた人物」ということです。「権力欲」というのもまた、人間という生き物が蔵した「暗部(悪魔性)」の一種だと私は思いますが、政治家諸氏は世の東西を問わず、たいてい「それの何が悪い」「権力を志向するのは当然じゃないか」と思っているらしい。 では「権力欲」はそもそもヒトの属性なのだから、それを志向するのは当りまえ、というのは本当にア・プリオリ(疑いの余地なく、先見的)に正しいと言えるのか?私はそうではないと思う。「権力」というのは取りも直さず「他者」を前提としているでしょう。「他者」に行使されることを以って「権力」と言えるわけでしょう。となれば、それは良き方向にも悪しき方向にも、「等しく作用し得る」ということを意味してはいないか。ことと次第によっては、相手の人生を変え、場合によっては命を奪うこともある、ということに思い至らないのかと思ってしまう。 これは何も政治家諸氏のことを言っているわけじゃなくて、一般社会に通有する話ではあります。残念ですが、私自身もそういう場面に何度か遭遇しました。 「しかし、そんなこと言ってたんじゃ、何も出来ないじゃん。そうなったら、もう引きこもっているしかないんじゃないの」と言われてしまいそうです。しかしそうではない。自身が「暗部(悪魔性)」を隠し持っていることを分って「権力」を行使するのと、分ってないのとでは、まさしく天地の差がある。民間企業の社長さんは、自身の一言、ハンコの一つが従業員の人生を決めてしまう、ということを日々思い知らされる。大企業ならそれは何万人というオーダーの人生ということになりますから、時に手が震えるということもあるらしい。 選挙で選ばれた政治家というのは、その点あるいは個人商店、または一匹狼的な心魂を持つ人が多いのかもしれない。当選したからといって、選んでくれた有権者の運命を握っているなどとは、もちろん考えもしないでしょう。とはいえ、「国会の議決が一億三千万人の運命を変え得る」という想念に到った時、権力行使がもともと蔵する「暗部(悪魔性)」というものを、充分理解していてもらわないと困る。 それにしても「権力」というのは、ある種の人たちにとって抗いがたい魅力があるものらしい。「権力」を握って何をするかではなく、「権力」奪取そのものが目的化してしまった場合、政見とか理念というのは「権力」奪取のための手段と化してしまう。小沢さんに「あなたの政策はとか、政治理念は」とか聞いても、何だか愚問というか、吹き出してしまうところがあるじゃないですか。民主党時代「国際平和維持部隊に、自衛隊を派遣するのは当たり前じゃないか」と言っていた人が、滋賀県知事の嘉田さんのスカートに隠れたときには「国民の生活が第一」と言って、誰はばかるところがありませんでした。 小池さんは政治家駆け出しのころ、小沢さんの一挙手一投足をつぶさに見ていたでしょう。同様に小泉政権下、防衛庁長官環境大臣として彼の手法に親しく接したに違いない。近いところでは、橋本さんの手法もかなり見ているはずです。 何やらかつてのゾンビたちの「闇への誘い方」を、いかにも彼女らしくスマートにやってのけたいと思っているようで、その在りよう自体ずいぶん醜悪な感じがする。しかも現時点(10月4日)で、今だご本人の去就はお茶を濁したまま(どうも出ないほうに傾いているようですが)。出ないなら出ないで、じゃああなたのフライパンで炙られて、外に飛び出した議員たちのことはどう思っているのか。間違いなく「そんなことは知りません。政治家は個人商店、自分で決めたらよろしい」という返答が返ってくるでしょう。 私の背筋が寒くなるのは、同じ論法をそれを選んだ選挙民にも言い放って、この人、憚るところがないんじゃないか(現に東京都民にそれを仕掛けようとしています)、ということでしょう。理念に「改革保守」という立て看板を掲げているとしても、私はこういう政治的振る舞いをする人物に、「信」を置くことは出来ない。早い話、こういう人に見送られて「戦地に赴くことは出来ない」ということです。見送られるほうこそ、いい面の皮でしょう。何しろ「後のことは知りません」と言いかねないのですから。 古びたゾンビの風体は、もうハロウィーンの季節だけにしてもらいたい。好きなだけ「緑のかぶり物」して、都内を咆哮すればよろしい。 と、はなはだ品下がる話をしてしまいました。こういう話は、しだすと切りが無くなるうえに、しゃべればしゃべるほど、余計不愉快になって過激になる。そういう下降していく自分の容態こそ、ゾンビの術中にはまっていると分っているから、やっぱり政治向きの話はいけませんね。あ~あ!
2017.10.04
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M・ジャクソン、日舞、ウィンナワルツ グルーヴという単語は知らないけれど、グルーヴィー(groovy)という形容詞はどこかで見た記憶がある。もとはアナログレコード盤に彫られた、うねるような溝の意味から転じて、カッコイイとか、イカシてるとか、シビレるといった俗語として、主としてブラックミュージックの世界で用いられていたようです。とすれば、私はあるいはLPの書評雑誌などで、この単語を見ていたのかもしれませんが、それが音楽の評価の形容に使われているとは、まったく知りませんでした。 ブラックミュージック(黒人音楽)といえば、1960年代の後半から80年代にかけて、既存の価値観や体制に対するプロテストソングとして一世を風靡したもので、例えばジャズならM・ディビス、ソウルならO・レディングなどの名前がすぐ並びますが、残念ながら私はそれほど心酔したわけではないので、多くを語ることができません。 またぞろwikipediaを見てみると、「ブラックミュージック(黒人音楽)」とは、―アメリカの黒人発祥の音楽の総称を表す言葉。強いビート感・グルーヴ感を特徴とする。ブルース、ゴスペル、ソウル、R&B、ヒップホップ、ジャズ、ギャングスタラップといった現在世界的に様々な形で展開されているジャンルを生み、またポップスやロック、カントリー等にも影響を与え、20世紀に生まれた多くのポピュラー音楽の源泉となった―とありますが、肝心なことは「アメリカの黒人発祥の音楽」ということでしょう。で、この場合の「黒人(アフロアメリカン)」とは、主として中央アフリカ西海岸から、奴隷として新大陸に運ばれた人たちの子孫を指し、北アフリカ地中海沿岸の人たちは含みません。早い話、黒人音楽特有の「強いビート感、グルーブ感」というのは、例えばエジプトとかモロッコの人たちでは、ちょっと想像しにくいじゃないですか。 要は、私たちが漠然と感じる、彼ら特有のビート感グルーヴ感というのは、かなりエスニックに限定された人たちに特有の振りを指すのでしょう。たんに強烈なビート感というなら、アフリカに限らず世界のどこでも太鼓の連打は聴くことが出来ますが、もちろんそういうことじゃなくて、たとえばM・ジャクソンに代表されるような、正確なリズムを掌中にしたうえで、さらにそれを自在に「ずらして」みせる。ヒップホップとはよく言ったもので、彼らは全身で表のリズムを刻みながら、お尻だけは裏を取るという芸当が出来るのです。これは白人や、少なくともアジア人には絶対真似できない。 新大陸のショービズによって、すっかり芸としてリファインされた振りだとはいえ、かぎりなく異質で妖しい臭気を放ちながらも、それらが私たちを惹きつけて止まないというのは、やはりそれの始原が人類発祥の地とされる中央アフリカから来ているらしいという「物語」を、そこから感じ取るからでしょう。リズムはヒトに限らず、生き物それぞれに固有なものとしてあるわけですが、アフロアメリカンの発するリズムは、それが人類の始原に直結している(のかもしれない)という「神話性」によって、世界のポピュラーミュージックシーンを征したのです。 大事なことは、かといってアフロアメリカン全員が、特異的なグルーヴ感を保持している、と考えてはいけないということでしょう。早い話「日舞」のリズムは、今どきほとんどの日本人がよう取れないと思いますが、外国から見ればたぶん日本人全員が、自分たちとは明らかに異なるリズムを有していると感じる。玉三郎の「京鹿子娘道成寺」を観ていると、その特異的な根源をそこに見立てたとしても、ちっとも不思議ではない。 要は、このグルーヴ感なるもの、ある限られた民族、あるいはエスノに「特異的に共有されたもの」というより、「共有されたかのように物語り、物語られる」ことによって、初めて成り立つ用語なのでしょう。とすれば、これはアフロアメリカンの話ではなくて、先ほどの「日舞」やあるいは「ウィンナワルツ」にも適用できる概念となるのではないか知らん。 一拍めにわずかなストレスを感じさせる「ウィンナワルツ」の3拍子は、「ドナウ川の産湯に浸かった者でなければ出せない」と言われるほど、独特なのです。まことに古いモノーラル盤ですが、C・クラウスの「美しく青きドナウ」を聞いてみてください。他の楽団がやったら絶対コケそうな3拍子を、悠然と優雅にやってのける。M・ジャクソンが日舞をやったら絶対コケるように、これもまた他所では表現不可能なリズムの刻み方でしょう。であるにもかかわらずというか、むしろであるからこそ、古色蒼然としたウィーンの生気を、私たちは生き生きと感じ取ってしまう。 とみてくると「グルーヴ感」とは、結局「生きたリズム」の刻み方、というところに帰着してしまうのではないか?
2017.10.03
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