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白熱教室 最初に断っておかなければなりませんが、私は「共産中国」という現在の国家権力のエートス(有りよう)について触れてみたいのであって、いわゆる「反中国人」論を始めるわけではありません。世の中には、この二つをごっちゃにして、「反中マフィア」のような中国人蔑視の議論を吐く人たちが、かなりの知識人(と称される方々)にもおられますが、そうした論は結局、相手を罵倒する以上に、自身の品格を貶めることになっているわけで、私はそうした「ウサ晴らし」的な話には汲みしたくない。 早い話、同じ中華系権力体制であっても、台湾など民主主義と個人の自由が、しっかりと機能しているわけです。かと言って、何も自由と民主主義が、万古不滅で議論の余地のない最良の国家体制、というわけではありません。他と比べてまだしもマシというレベルなのですが、少なくとも「個人の自由と、自発的な向上性を拒まない」システムということは言えるかもしれません。しかし、これは後で話します。 とはいえ、これらをしっかり峻別して話するのは、じつはなかなか厄介であり、結局「反中論」の一つと誤解されるかもしれません。というわけで、こんな話はひょっとしたら永遠に不可能なのではないか、とさえ思ってしまいますが、少なくとも一般の中国の人たちを見るかぎり、そのエートスのある部分は、そんなに我々と違ってないのだろう、と私は思いたい。 要は、顔に「面子」という建前を、宿痾のように張り付けた天安門に集う面々と、村上春樹や宮崎駿を賞玩するナイーブな若者たちとの懸隔は、ほとんど異次元の世界かと見まがうほどの開きがあるということなのです。まあこれは、何も中国に限った話ではなく、権力指向型の人種というのは、世界どこでもよく似た顔と振る舞いを見せるもので、それは一般人には恥ずかしくて、たいていマネできない種類のもの、見ようによっては吹き出しそうな面表の独裁者も、あちこちにいますよね。 それを嗤ってられないのは、そうしたある種「恥ずかしさ」を捨て去った特異的なエートスを持つ権力者と権力体制が、実効的な武器や財を携えた場合、隣国だけでなく世界は大いに迷惑する、どころか世界の破滅を招く危険性さえ持ち得てしまうということなのでしょう。今回の「武漢コロナ禍」は、以前から指摘されていた独裁政権の危険性を、はしなくも一挙に世界に知らしめる事件となってしまいました。 今現在の共産独裁中国は別として、かつて学校で世界史を習っていたころ、私はよく年表を横において教科書を読みましたが、地球上に現れたあらゆる文明の中で、「古代からずうっと途切れなく存在し続けている地域は、結局中国だけじゃないか」という事実に、目がくらむような気もし、畏敬の念さえ覚えたのを思い出します。これはもちろん私だけじゃなくて、世界史を習った多くの日本人が、抱いていた感情ではなかったか?西欧文明が日本にやってくる以前、日本人にとって世界文明とは、ほぼ中華と同義であり、日本人は中華の文物や古典によって、文明化していったのです。 その影響は、ここ最近の西欧なかでもアメリカ化した現代日本にあっても、深層のところで中華的エートスに彩られているのであって、早い話、私たちは「漢字」を使う。古代日本人は中国漢籍の文字を「真名」と呼び、ひらがなを「仮名」つまり仮の文字としました。 ところで、ちょっと前少し話題になった「サンデル教授のハーバード白熱教室」。なぜかNHKは特に熱心で、日中韓の学生たちによる「日中韓の未来を考える」なるタイトルの番組を企画し、この三国の学生たちを集めた「白熱教室」をやったことがありました(2014年)。もうすでにこの企画自体からして、ある意図が働いていると思ったものですが、実際の内容は案の定、「歴史認識」に対する日本への糾弾に終始し、日本の学生たちは一言の反駁も出来ないという、まことに奇妙な討論会だったのを記憶しています。 中韓の学生諸氏が、まことしやかに「南京虐殺」や「慰安婦」問題を取り上げて、いわば「勝ち組」の余裕で、疑いようもない日本の罪を主張するのに対し、一言の異議申し立てもしない日本の学生たちに対して、私は彼らを一様に責める気にはなれませんでした。なぜなら彼らはまさしく中韓の主張する内容でしか、学校またはメディアから歴史を学んでいないから。この二つの問題にかんしては、その事実関係について、さまざまな検証が必要とされているにも関わらず、そうした疑義が出ているということすら、彼らは少なくとも学校では知らされてこなかった。 となれば、誰も彼らの卑屈なまでの「懺悔」の姿勢を非難することは出来ないでしょう。まあそれでも、この時の日本の学生たちの一人でも、例えば「では、あなたたちは十九世紀から二十世紀前半の世界史、取り分け東アジア史を、どのように認識しているのか?」というような問いを投げかける人がいれば、まだしも救われるというか、もう少しマシな議論が成立したのでしょうが、いかんせん番組の企画自体が、反日宣伝を前提に企画されているので、仮にそうした議論があったとしても、恐らくボツになったことでしょう。 この時以来、サンデル教授に対する私の評価は大いにダウンしました。 あらかじめ設えられた「何も教えられてない日本人学生」と、中韓で正史とされる「南京」「慰安婦」問題をひっさげた学生を集めれば、議論は始まる前から決まっている。私はそういう企画をしたNHKとサンデル教授のほうが、学生たちよりはるかに罪深いと考えるのです。まあ両者とも、以前から中韓の手が入っているのだから、当たり前といえば当たり前ですが。ここに集められた学生たちは、日本という国を一方的に「貶める」ためのダシに使われたに過ぎない。 しかし、思うのですよ。村上春樹の熱狂的な愛読者や、宮崎駿のアニメを賞玩するファンが、ひょっとして数百万単位で、大陸や半島にもいるのであれば、この抜き差しならぬ他者(村上)あるいは異物(宮崎)に対して、シンプルに「共感」する柔らかな感性を持った人々が、大多数ではないにしても、間違いなく「そこにいる」ことになるわけで、となると、やはりしんどくても語り続けなければならない、ということになりますね。 さて、全く異なる切り口で中国というか、日本を除く東アジアの人たちのエートスを考えるとき、以前から気になっていたことがあります。それはひょっとして、近代文明とか近代思想あるいは西欧文明一般といったものに対して、彼らは何の思い入れもないんじゃないか、どころかあるいは、もしかするとそれに対して「恨み」こそあれ、「憧憬」のような心象などみじんも抱いたことがないのじゃないか、と思ったりもするのです。少なくとも私たち日本人に映っている「西欧」と、彼らに映っている「西欧」はかなり違った姿形をしているのではないかしらん。
2020.06.05
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卜部兼好 WHOについてさんざん悪態をついた勢いで、共産党中国なる怪物国家の話をしようとしていたら、ネットその他で、すでに山のような「中国叩き」の話題があふれていて、何やら屋上屋を重ねる話題になりかねず、少し鼻白んでいます。中国だけじゃないですが、私は出来ればマッチポンプ的な「月並み」な話は避けたい。かといって、私は中国の専門家でも何でもないので、しかるべき話をしようとすると、それなりに調べも必要となり、つい億劫になって頭の回転が滞りがちとなります。 ところで、最近日本がロックダウンなしに感染爆発を避けつつ、「緊急事態宣言」を解除したことについて、「日本モデル」のようなことが言われ、当初かなり批判的だった海外メディアも、何だか手の平返しのようにして、日本のコロナ対策に注目したり、あげくは礼賛する記事が出たりしているようですが、まだまだそういう話をするのは早い。確かに欧米に比べれば、コロナによる死者数は二桁くらい少ないけれど、何もそれは日本だけに特異的に起こった話ではないでしょう。 であるにもかかわらず、この死者数の少なさだけに話を限定して、日本人の清潔好きだの、規律だの、医療システムの先進性だのをあげつらっても、あんまり生産的な話は出て来そうにない。ここで面白いのは、なぜそういう途中経過を示しているのか、例によって日本人自身が例えば台湾だの韓国だのと比べても、その中身を自信をもって「外に向かって明晰に説明出来ない」という状態のことなのです。この手の「外には明晰に説明出来ない」けれども、なぜか結果的に世界がびっくりするような復活をしてみせるというのは、過去日本には「敗戦」だの「大震災」だので何度もありました。 しかしそれら一切合切の理由を、「日本人の特異的な精神性」みたいな話に帰してしまっては、何ら世界に資するところがないどころか、裏返しの「不気味な日本人」というイメージが張り付くことになってしまう。 というわけで、こうした世界同時多発的な災厄に際して、私たちに特異的な振る舞いというものが、果たしてあったのかどうか、ということを考えてみたくて、こんな話をしているのです。世界的な同時多発的災厄というのは、戦争とか隕石落下という事態でもなかなか考えられない。同じ災厄を全世界がほぼ同時期、同時進行で被るというこのような事態が、果たしてこれまであったのかどうか。スペイン風邪が引き合いに出されますが、災厄の同時共有という点では、この「武漢ウイルス・パンデミック」は比較になりません。 少なくとも、各国の政府、市民、医療従事者たちの振る舞いが、同時進行形で毎日伝えられるという事態は、間違いなく歴史上初めてなのです。それによって見えてくるもの、見えているものは今書き止めておかないと、おそらく半年もたたないうちに、時系列さえ判然としなくなってしまうでしょう。私たちはそうした歴史的事態に、今まさに遭遇していると言うべきでしょう。 それかあらぬか、自粛自粛で引きこもりがちで、ストレスが溜まるかと思いきや、私にかぎっては怒られるかもしれませんが、歴史に立ち会っているという高揚感がずっと続いているのです。まあ、もともとコロナ以前から、実質的な引き籠り生活を意図して長く送ってきましたから、お上から「自粛要請」が出たところで、何ら普段の生活リズムに変りがあるわけではありません。それでも、さすがにマスクと手洗いは人にも迷惑をかけるので、かなり念入りに行うようになりましたが、他府県への移動にかんしては、親の介護という不要不急でない用事にかこつけて、毎週外出しています。 世界中から飛び込んでくる衝撃のニュース映像と、実際に我が身の周辺に生じている風景の変化を、「怖いけど目撃しておきたい」という衝動は、なかなか抑え切れるものではないですね(要は「野次馬根性」丸出し)。 毎年の冬なら電車の中では必ず、咳をし鼻をすする音が聞こえたものですが、今年はそれこそしわぶき一つ聞こえず、全員固唾をのんで息をひそめている感じ。マスクをしていると、不思議と咳も止まってしまうものです。 それにしても、マスクをして分かったこととは、我が身の口臭のひどさ加減でした。まいったな、これは! 兼好法師はどうも早くから我が身の行く末を予見して、おそらく半ば意図的に、我が身を「用なき者」として早々と出家し、はなはだ優雅な隠遁生活を送ったらしいのですが、人格的にはかなり「困ったチャン」であったとしても、その生きかたは「人には迷惑をかけない」という点では結構スマートでしたね。私は「徒然草」には、ちっとも共感しないけれども、「隠遁」という言葉には惹かれる。 西行や芭蕉その他もそのクチの人たちであったとするならば、何かこう娑婆から離れて、なおかつ娑婆の出来事を眺めていたい、そうした「美学」を持った「生きざま」みたいなのが、けっこう日本には継承されているのかもしれません。私の場合はもちろんそんなにスマートでも何でもない、ケシ粒みたいな人生ではありますが。
2020.06.03
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