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政治家は使い捨てでいい 武漢ウイルスに事寄せて、中国の話をしようと思っていたら、そのあまりの広大無辺さに頓挫してしまい、楽しい音楽の話に乗り換えたものの、これまた何だか重たいことになって参っています。ここは少し気分を変えるために、軽めの音楽を聴くのです。岩内佐織「Mother Tree」 なのですが、各楽器群の選択と出し入れが、例によって快調そのもので、何だかいつかどこかで(例えば昔、テレビのCMで)聞いたような懐かしさを感じてしまう。これは何も曲調が古いだのと言っているのではなくて、私たちが作り手側の「歌心」に素で触れられる瞬間というのには、そういう感じ方もあるということです。 逆に言えば、今どきの音楽や文学、あるいはその他さまざまな社会事象で、素のままスッと我が身に引き寄せるには、ちょっとためらってしまう事例が、とくにコロナ禍以後、多くなったような気がする。 今や飛ぶ鳥を落とす勢いの吉村大阪府知事、先般の「うがい薬」問題でまたまた話題沸騰ですが、どちらかというと関東の中央局メディアで、医事専門家やコメンテイターも含めて、「拙速」だの「買占めを助長した」だのといった批判的な意見が多かったように思う。では吉村知事や松井市長が、そうなるだろうことを予想しなかったかと言えば、もちろんそんなことはなくて百も承知。しかしこの「維新」のツートップには、「お行儀よい政治」をやる気は、ここから先もないらしい。「そんなこと言ってる場合か」という構えが、会見場に現れていて面白かった。 この半年間、武漢ウイルスの挙動を見るにつけ、つくづく思うのは、この病原体は「人の常識的予測と淡い願望を、常に裏切る仕方」で、感染を拡大させて来たということでしょう。当初インフルエンザより感染力も致死率も低いと言っていたWHO、社会的免疫を獲得するために、あえて防疫を行わなかったスウェーデン、勝利宣言をしようとするたびにクラスターが発生した韓国、春になればほっといても収まると公言したトランプさん、挙げていけばキリがないですが、医療従事者あるいは専門家さえも、誰も彼も手痛い打撃を受けて口をつぐむ中、明らかに有意な数字上の違いが、アジア諸国と西欧諸国の間で出て来て、「ファクターX」なるものの存在が、特に日本でささやかれるようになりました。 曰く「公衆衛生の意識の高さ」だの「自己規律」だの「医療体制の完備と、従事者のモラルの高さ」だのといったことですが、緊急事態宣言解除後の感染の増加を見ていると、事柄はそんな高尚な話ではなくて、要は人が家に引っ込めばウイルスも引っ込む、外へ出ればウイルスも一緒に顔を出してくるというシンプルな状況が、いよいよハッキリしてきたということじゃないか? 今だにウイルスという存在は、生物か無生物か判然としないようで、逆に生命の定義の仕方によって、それはいかようにも変容する、つまり人間の都合によってどちらとも取れるという態様を持っているようです。間違いないのは、この武漢ウイルスにかんしては、それは優れてヒトに付随し、ヒトの振舞いかたによって、増殖と減衰を繰り返すということでしょう。と考えれば、仮にウイルスを無生物と規定すれば、これはある意味「マネー」と酷似した様態を持っているということですね。ヒトが動かなくなれば経済は頓挫するし、ひとたび動き出せばマネーは逆方向に移動を開始するのです。 今、巷間に言われる「With Corona」とは、「マネーとウイルスのダブルクラッチで過ごしましょう」ということで、どっちが先にネを上げて退散するか、というようなチキンレースは、かなりな敏腕レーサー(青山さんみたいな)でも、なかなか難しいのではないか? 現在、日本は第二波に見舞われていると言いますが、そんな区分はどうでもよろしい。肝心なことは「心配だけれども、今は見守るしかない」。では、「じゃあ、この推移が第一波の時と同様、いつか収束するのか?」と言われたときに、それを「そうだ」と根拠を持って断言できる人は、誰一人いないということなのです。とすれば、それが逆目に出て春のニューヨークやイタリアのような惨状を呈していいのか、という話になるのですが、どうもそういう想像をする人は日本では少ないらしい。考えてもみてください。毎日数千人単位の感染者と数百人単位の死者が、バタバタ出てくる生活って想像できますか? 吉村さんは、ひょっとしてそうした事態も、少なくともこの秋以降はあり得るということを想定していたんじゃないかと思う。ただそれが秋よりもはるかに早く、梅雨明けと同時にやって来た。このウイルスは例によって人の常識的な予測と願望を見事に裏切る形で、胎動を始めているのです。そうした時に「こちらに武器がない」という春と同じ事態にはしたくない、何か一発でも撃てる弾はないかと考えたときに、「ポビドンヨード」の研究結果が出てきたということでしょう。 この人、見かけより「ケンカ好き」というか、「負けず嫌い」のようですね(藤井君もそうですが)。何だか映画「プラトーン」に出ていたW・デフォーという俳優の面構えを思い出してしまいました。それもこれも、この人がいつも言っている「政治家なんて使い捨てでいいんですよ。有権者が必要とすれば選べばいいし、いらなければ落とせばいい。それだけのことです」。こうした構えの政治家、行政マン果たしてどれぐらい日本にいるのかしらん。いっそ「維新」はこれを党是にしたら。「政治家は使い捨てでいい」
2020.08.06
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こぼれ落ちるもの エリオットは、自身の詩心の起点を「思想」に置き、現代詩の有りようを切り開いた巨人の一人ですが、当然こうした一種冷めた「詠いかた」には、情緒優先の象徴派詩人たちからは反発があったでしょう。しかし第一次大戦後の荒廃し尽くしたヨーロッパ諸国の惨状を見るとき、彼はとてもじゃないが、従来の「詩心」で詠うことは出来なかったのです。 爾来、彼の詩は難解かつ衒学的と言われ、早い話、代表作の「荒地」など、作者自身のダダ長い脚注が付いていて、素で詩を味わおうとする者の興をそぐ。しかもその注記が何を意味し、この詩が何を構想しているのか、西欧文学や哲学、宗教によほど精通した人でなければ、さっぱり分からないという代物で、この詩一編の解釈だけに、分厚い本を物した学者もおられるほどです(しかし、そもそも自身の作品を、自分の解説付きで出版するというのも、考えてみればヘンな話ですよね)。 まあ、それはさておき、私がここで申し上げたかったのは、美学の起点が感情であれ思索であれ、それを学術論文みたいな分析でなく、「バラを嗅ぐような仕方で享受する」というアプローチが、芸術分野では確かにあるだろうということなのです。 従来そうした美学教育というか、人の情操にかんしては、結局現物を当たらせるしかなく、教育現場では、現物の周辺情報を伝えるのが、精一杯だったような気がするのですが、物事を「享受する」という、人のいたって主体的な行為というものについて、もう少し論理的というか、意識した教育があってもいいのではないか?まあ今どきの受験体制教育では、そんな時間はとてもじゃないが、割けないのかもしれませんが。結局、そうした「享受」のヒントは現場の先生の器量に丸投げされているので、たまたま気の利いた先生に当たれば、大いに感性豊かな子供たちが育つのでしょうが、そうでなかった子供たちは、永遠に豊かな内面世界の涵養から外れるということになる、これって不公平ですよね。 昔は(というか、私の小中時代は)、まだ教育現場の自由度が高いというか、良い意味でも良からぬ意味でも「面白い先生」がいて、例えば左翼系ビンビンの運動家先生と、旧日本将校あがりとおぼしき、強権的先生が同じ教壇に立っていました。今や文科省の縛りがどんどんキツくなっているので、そうした名物先生に出会うことはまずないでしょう。 話は戻るのです。 それにしても、寄田さんの響きを聴いていると、邦楽と洋楽の根本的な有りようの違いに、あらためて気付かされる。「洋楽」が、いわば分節された「単位(モナド)としての音」の集積で成り立っているのに対し、「邦楽」は明らかに分節されない音、あるいは分節以前の音で成り立っているのです。 洋楽がなぜこうした「単位としての音」に、音楽をどんどん分節化することによって、西欧音楽を花開かせたのか、いろいろ説はあるのでしょうが、一つ言えるのはルネサンス以降の科学的合理主義の進展が、音楽の分野にもかなり早くから浸透していたのではないかしらん? しかし、尺八の一音は、たんなる単位ではなく、時間的にも空間的にも自由に伸び縮みしているようにみえる。となると尺八は、極端な言いかたをすれば、一音だけで人に届けられる「音楽」を構成することもあり得るわけで、そのあたりから、普化宗尺八の「一音成仏」などという言葉も生まれてくるのでしょう。 じつをいうと私は、こうした格言的な言葉は、あまり好きではありません。「一期一会」だの「即身成仏」だの、いささか権威性を持って語られる熟語は、それが発せられるとき、その言葉の意味するところが十分に嚥下されないまま、言葉だけが勝手に飛び回ってしまうからです。 とはいえ、分節されざる音なら、一音でも音楽が可能ということになれば、音楽世界が一挙に拡がるのかと言えば、そんなことはない。むしろそれは「音楽そのものの解体」という、恐ろしい地平に足を踏み入れるという、かなりな危険とも隣り合わせになっているのではないか? 考えてもみてください。リズムもハーモニーも音階も溶解していくような音から、いわゆる「音楽」というものを、改めて構成することが出来るのかどうか。 これには、一つの回答が待っているのです。それは西欧楽器も含めて、近代以前の世界の楽器というのは、多かれ少なかれ、こうした溶解した音たちによって、奏でられていたということです。このあたりは最近の民族楽器や古楽器などの研究で、明らかになって来たことでした。 尺八に似た奏法とか音声を持つ木管楽器は、けっこう世界各地で見られるし、琵琶のような弦楽器でもそうでしょう。ただそれらと尺八や琵琶が違うのは、これらは十分洗練され尽くした楽器であって、いわゆる民族楽器とか古楽器に、尺八とか琵琶をカテゴライズするのは、明らかに無理があるということです。 横山勝也や青木静夫の尺八が、すでに洋楽器に比肩し得る、洗練された響きを持っていたということは、今さら言うを待たないことですが、ただ一つ申し上げるとすれば、それらが普化宗尺八直系の海童道だの琴古流の伝承を多量に引き継いで、逆にそれらに付随した物語が、この楽器の響きが指し示している真の姿を、見え難くしていたところはあったかもしれない(別にそうであったことを、くさしているわけじゃないですよ)。 しかし寄田さんの演奏には、不思議なほどそうした付随した「物語」、あえて言い換えれば夾雑物がない。あまたある伝承をすべて引き受けつつ、発せられる音は、まさしく「今、そこで生成されつつある」という新鮮さに満ちている。音楽が真に人に届くとは、どういうことなのか?というのは、ここのおしゃべりの根本命題ですが、何だか一つの回答を聞いたような気がしました。 西欧的な分節的アプローチでなく、むしろそれによってこぼれ落ちる多量な響きのほうに注力し、それを洗練させて行くところには、何やらより自然に近しい生き物、例えば粘菌のような、私たちから見ればどうみても不合理、あるいは予測不可能な生命の有りようを感じてしまう(ちょっと、大げさですが!)。肝心なことは、それらが西欧音楽とは全く違ったアプローチでありながら、非常に堅牢な構築性を持って奏されているということでしょう。
2020.08.05
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