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イタリア ところで、前回取り上げたヤマザキ・マリさん、同じトーク番組で「少なくとも北イタリアの私の周辺で、中国人を恨むとか非難する人はいない」。どころか、例の中国の医療支援隊がやって来たとき、彼女の親戚たちは異口同音に感謝していたという、部外者から見ればちょっと意外な発言をされてました。イタリアの人はいたって素直なのか、あるいはまた別の哲学があるのか? 中国人移民労働者の歴史は、改革開放を唱えた鄧小平の時代からと古く、イタリアの経済は構造的に中国に絡め取られて、にっちもさっちも行かなくなっている。迂闊な発言で北イタリアの経済的没落が始まっては、ただでさえ不振な彼の国の経済にとってはたまらない、ということでしょうか。 とはいえ、ソーシャル・ディスタンスを守りマスクをつけて、押し黙ってスーパーの入り口に並んでいる本国人の映像を見て、在日イタリア人のある人が「こんなのイタリア人じゃねえ!」と吐き捨てるように言っていたのには参りました。この人からすれば、これはある種文化的な屈服に見えたのではないか?しかし、命と文化のどちらを取るかと言われれば、別にイタリア人でなくても「命」を優先せざるを得ない。この人の発言は、別に本国人をくさして言っているのじゃない。現実の不条理に対する、「怒り」とでもいうほかないものだったのでしょう。 と考えてくると、もっと過激な形でのマスク拒否や、ほとんど偽悪的としか思えない「三密」の大騒ぎをやらかしているアメリカの景況も、何となく「こりゃ、しょうがないかな」という気もしてくるのです。これを簡単に「民度」の差みたいな話にしてはいけない。「三密」のないアメリカなど「アメリカじゃねえ!」と思うアメリカ人は多いのではないか?マスクをするかしないか、というのが公衆衛生の話ではなく、政治的態度の表明にすり替えられている、といった指摘もありますが、それも少し違うような気もする。 要は、口元を隠しハイタッチもハグも拒否する人間は、万事カジュアルであることが自由平等と民主的態度の根幹的エートスであるような文化から見れば、これらは「気持ちが悪くて、しかたがない」ということなのではないか?で、それでもって、数多くの犠牲が出るのであれば、それは自国の文化的エートスを守った結果なのだから、「これは、しかたがない」という筋になってしまう。 「そんなバカな!」という話になりそうですが、ここで少しだけ想像力を拡げてみるのも一興でしょう。今回の武漢ウイルスと真逆の性質を持つ病原体が、仮に日本で蔓延したとして、「公衆衛生のために、明日から土足で家に入りなさい」と時の政府から言われた場合に、私たちはどう振る舞うだろうか?相当数の人たちが「それは文化の破壊だ!」と言って拒否し、場合によっては犠牲者も出るかも分からない。諸外国からいろいろ言われても、おそらく大半の日本人は、「これは、しかたがないわい」と思うのではないかしらん。 私がここで申し上げたいのは、世界のさまざまな文化的エートスがたまたま「凶」と出たからと言って、その原因を「民度」のような話で概括してしまうのは、乱暴な考えかただということです。お上の言うことには、いろいろ文句はあっても、取りあえずは従っておくというエートスは、今回はたまたま「吉」と出たけど、高度な自律性が求められる民主社会において、はたしてそれが理想のエートスなのかと言われれば、そんな有頂天になるような話ではないでしょう。 ところで、話はまたイタリアに戻るのですが(好きですね)、同じような感染爆発と多大な犠牲者を出しながら、イタリアではマスク拒否のような話は、それほど先鋭化してないような気がする。私はこれもたぶん、それぞれの国が背負った歴史文化伝統のなせるエートスなのだと思うです。一つは教会があらゆるパニック的事態の受け皿になってるのかもしれないし、あるいはまたひょっとすると、イタリア人に特有の屈折した感情が、どこかにあるのかもしれない。 考えてもみてください。古代ローマ帝国とまでは言わないけれど、西欧諸国のなかで真っ先にルネッサンスを先導し、ヨーロッパの繁栄を導いた輝かしい歴史と伝統を持ちながら、近代においては大航海時代においても、帝国主義の時代においても、イタリアはついに一回も、その主役に躍り出ることはなかった。今どきギリシャ・ローマのような世界文明の栄光を継承しているのは俺様だとばかり、イギリスやフランスやドイツが次々名乗り出たのですが、イタリアは一回もそうした表舞台に立つことがなかった。今やギリシャやスペインと並んで、EUの「お荷物」扱いされる現状で、それでも偉大過ぎる文化遺産に寄り掛かって生活していかざるを得ない国民なんて、やっぱり屈折せざるを得ないんじゃないか。余計なお世話かもしれないけれど。 コロナに対しても中国に対しても、これは他所さんのことなので言いにくいことなんだけど、一種「諦め」の気分が漂っているような気がして仕方がないのです。 しかし、中国への絡め取られぐあいでいうなら、日本なんかイタリアの比ではないわけで、そのわりには現在の共産中国には、ほとんどの日本人は非好意的と言っていい。少なくとも、恩着せがましく空港に降り立った医療救援隊と称する宣伝部隊を、諸手で歓迎する日本人はいないでしょう。 では、なぜそうしたエートスの違いが、出てくるのかと言えば、それもやはりそれぞれの民族や国家が経て来た歴史の結果としか言いようがない。近現代において日本は、西欧列強の帝国主義的覇権の圧力に正面から立ち向かい、唯一独立を守ったアジアの国という歴史的経緯があるのです。 日本の立憲主義と民主主義は、あたかも敗戦後アメリカから、初めて付与されたかのような通念が、今だにオールドメディアを中心とした、いわゆる知識人たちから何の疑問もなく呈せられることが多いですが、中学校の教科書でもそんなことは教えてない。江戸幕末から明治維新にかけて、西欧近代主義の有りようを必死で研究し、国力とは何か、民意を汲むにはどういう制度が日本にはふさわしいか、あれこれ試行錯誤を重ねながら、日本は自力で統一近代国家を形成してきたわけでしょう。 このあたり、イタリアは同じ幕末の時期(1861年)に統一国家を形成しながらも、小国分立と王国、さらには教皇支配という入り組んだ歴史が長く、実質的な共和制に移行したのは、なんと第二次大戦後(1946年)のことなのです。イタリア人が自国を語るとき、古代ローマやルネッサンスの輝かしい文化遺産と歴史は声高らかに語れても、現代のイタリア共和国という民主政体について、必ずしも声高に語らないというのには、その短すぎる歴史から見て、無理からぬ理由があるのでしょう。 と、ずいぶん遠くの話になってしまいました。私はそれでもイタリア人の持つ、「豊かさ」の有りようというものが好きでたまらない。生まれた時から同じ村で育ち、一歩も外に立たこともないのに、「私たちは幸せです」と気張らずに言える国民性が。
2020.09.30
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クレモナ 話が変わりますが、私は民放のBSでやっている「イタリアの小さな村」という番組が好きで、ときどき見ています。もっぱらイタリアの片田舎の村を次々まわって、そこの住人にインタビューするというだけのドキュメンタリーなのですが、これがなぜか無類に面白い。その中には例えば、生まれてこのかた、村からほとんど一歩も外に出たことがないという老夫婦もいて、なぜか口をそろえて「私たちは幸せだ」と言う。 江戸時代ならともかく、今どきの日本ではどんな片田舎の住人であっても、一生その村から一歩も出たことがない、というような人生はちょっと想像しにくい。というか日本では小中から、修学旅行という集団外出訓練を行っているでしょう。 牧畜や果樹園を代々営む農民が隣村の娘さんを見染めて結婚し、子供も育て上げて今や悠々自適、自家製のワインやチーズで毎週やって来る子や孫と会食するのが、何よりの楽しみという生活。もちろん長い人生の間に、さまざまな困難があったろうことは、(戦争とか事故とか死別とか)容易に想像できるし、げんに離婚だの就職難だのいろいろな問題を抱えて、会食にやってくる子や孫もいる。とはいえ、それらを見つめる老夫婦の目やしぐさや話しかたは、年相応に優しく落ち着いているのです。 私は思うのですよ。似たような風景は(まあ、毎週は無理でも、年二回ぐらいは)確かに日本にもあるのかもしれないけれど、そうした己の人生を淡々と語る語り口、しぐさや表情というのには、明らかにイタリアの歴史とか文化が色濃く反映していて、決して日本では見られない光景なのです(何も日本人の表現ベタをくさしているわけじゃないですよ)。彼らの表現は言葉もしぐさも、地中海風にとても豊かで、さすがペトラルカやダンテを生んだ国という気が、ついしてしまう。 この老人たちが自国の歴史文化について、学者のように知悉しているとは思わないけれど、彼らの表現の豊かさには明らかに、そうした誇り高い伝統文化の反映があるのです。同じように日本には、日本人の歴史に刻まれた伝統文化の反映が、今どきの若者の表現やしぐさにも現れているでしょう。 今般のコロナ禍で、イタリアに帰れなくなったヤマザキ・マリさんが、テレビでおっしゃってましたが、イタリア人の家族パーティーというのは、食べるよりしゃべるのが主のようで、スパゲッティを食べる以上に、親戚縁者の唾のシャワーを浴びに行くようなものだとか。それにハグだのキスが加われば、絵に描いたような「三密」が発生するのは当たりまえで、だからこそ悲劇も起こった。 しかしだからといって、彼らの生活習慣がなってない、対して日本人の伝統的な生活作法は、今般のコロナ禍を低減させている、などという短絡的な話には、もちろんならないわけで、それはいわば「偶然の結果」に過ぎない。真逆の結果を招来する病原体その他のパンデミックは、地球上どこにでも等価に起こり得るということです。 迂闊にも私は全然知らなかったのですが、北イタリアで欧州最初の感染爆発が起きたとき、「なぜ北イタリアなの?」と疑問に思われた方は多かったのではないか?北イタリアの繊維アパレル業界が、二代三代と続く中国系移民の労働者によって、長く支えられていたなどという話は、今回初めて知りました。さらにはイタリア観光産業の多くが、中国資本の軍門に下っているなどという話も、これまでついぞ報道されたことはなかったですね。 感染爆発で北イタリアの医療機関が崩壊し、医療トリアージによって老人が見捨てられて行くのを見るにつけ、「これはイタリア独特の生活習慣のせい」だの「医療体制が予算削減で脆弱になっていた」だの、さまざま論評されていましたが、この国の医療体制が遅れていたなどということはないだろう、どころかイタリアは医療先進国の一つであって、それは報道される映像を見ていても、例えば武漢の病院の映像と比べても明らかでした。であるにもかかわらず、医療崩壊が起こり多数の犠牲者が患者だけでなく、医療従事者や聖職者にも出るという凄惨な状況を呈したというのは、どういうことだったのか?よその国の話で想像するしかないのですが、あるいは日本にも共通するかもしれない医療先進国特有の、医療資源の偏りがあったのかもしれないのです。 それは高齢化社会と現代的な疾病への対策に、もっぱら医療資源の重点が置かれて、医療後進地域で警戒すべき感染症対策などは、必ずしも十分ではなかったのかもしれない。先進医療国であるがゆえの弱点を、「武漢ウイルス」は精確かつ無慈悲に突いて来たということではなかったか? 私が残念でならず、かつ持って生きようのない憤りを覚えるのは、今般の武漢ウイルス・パンデミックは、たんに夥しい犠牲者を出したというだけでなく、それぞれの国の伝統文化習慣をも、こなごなに破壊しているという点です。イタリアの場合、とくに聖職者の死亡例が目を引きますが、要は重篤患者の臨終に際して、聖職者が最後の「祝福」を行うのが、カソリックの生活儀礼であったため、多くの感染者を出した結果だというのです。 臨終にも火葬にも立ち会えないという不条理な悲劇は日本でもありましたが、重大な危険が分かっていて、なお使命を遂行していったこうした人たちの振る舞いは、私たち(カソリックでもクリスチャンでもないけれど)にも刺さるところがありますね。歴史や伝統はこういう仕方で、人々を「無私」の行動に駆り立てるのです。 それにしても同じような悲劇は、世界各国であるいはもっと深刻に発生しているというのに、なぜイタリアを取り上げたのかというと、要は彼の国には「歌」がある、この場合の「歌」とは、中世イタリア・ルネサンス以来の長い伝統に裏付けられた「物語」が、この国にはあるからと言い換えてもいい。 と、ずいぶん深刻な話になってしまいました。やはりここは音楽が必要ですね。四月ごろテレビでも話題になった、クレモナの病院屋上における横山令奈さんのヴァイオリンソロ。 黙祷。
2020.09.26
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平成の終わり 4. 「賛成」「反対」という対論の設定は、弁証法じゃないけど、必ず両者のより高い次元での和合が前提にされていなければ、すべては不毛な議論に落ちます。またもや「甘い」と言われそうですが、議論というのは、究極的には全員の「合意」(むつかしいけど)を目指さなければ、実りある結果は生まないだろう。その前提なしに繰り広げられる議論で蕩尽される知力からは、何の新たな叡智も生み出さないだろう、というのが私の観測です。 「それって、妥協ということか」と返されそうですが、もちろん違う。「妥協」とは「勝ち」「負け」の議論を前提にした、例のディベートの発想であって、弁護士の弁論と同じく、「取り引き」と「売り買い」の対象となるのです。トランプさんの話がまさしくビジネスマンの「ディール」の発想だと言われるのは、この政権の(言うたらなんやけど)安っぽい性格をよく表しているじゃないですか。 「合意形成」というのはそうではない。かぎりなく難しくめんどくさいけれども、全員が納得できる結論を、全員が知恵を振り絞って生み出すプロセスを前提とする、ということです。もちろん現実には限界があるわけで、だから最終的に多数決という処決を下すわけですが、この場合肝心なのはプロセスですよね。同じ「決」を出すにしても、互いが議論の前よりも、多少賢くなったと思えれば、それはそれで(いろいろ不満不平はあるにせよ)実りがあったと考えるべきではないか。 議論をディベートと捉えるかぎり、勝っても負けてもその当事者全体は一歩も前進しない。以前から「朝ナマ」は見ないというのは、そこでの議論が相手を論破することだけに終始して、互いの意見から新たな知見を見出そうなどという契機など、ここから先も伺えないからです。こうした議論をおこなって、仮に言い勝ったとして、果たして勝ち組は賢くなったと言えるのか?むしろ勝つことによって、おのれの知恵は退行したと考えたほうがいいんじゃないかしらん。なぜなら始まる前と終ったあとで、ここでの当事者たちは、全員「何一つ変わっていない」からです。 話が、安倍さんでも武漢ウイルスでもなく、とんでもないところに行ってしまって、我ながら笑ってしまいます。地球儀俯瞰外交などと言って、文字どおり世界中を飛び回った安倍さんですが、こうした雄大綿密な戦略眼に基づいたフットワークの「首脳外交」は、もちろんその相当部分が、安倍さん個人のパーソナリティーに由るところが多いとはいえ、やはり幾分かは「平成的エートス」のようなものが、働いていたのではないかと私は思う。 それは昭和でも大正でも明治でもなく、平成に至って日本の憲政史上に初めて現れたタイプの政治家像であり、これと同じような人物像を探すとなると、例えば新井白石や坂本龍馬のいた江戸時代の知性まで遡らないといけないでしょう。これは何も安倍さんを礼賛して言っているのではなく、世界俯瞰的な戦略眼と異国異人に対する率直な物怖じしない態度、そして何より「無私」な行動力という点において、似ているということです。こうした人物は時間を超越して特異的に現れるのではなく、ときどきの歴史的経緯や要請によって生み出される。私はそういう仕方で、「平成」という時代を見つめておきたい。 あるいはひょっとして、今般のコロナ禍における最大の痛手は、日本にとっても世界にとっても、安倍さんの辞任だったのではないか?安倍さんのいない世界政治の風景を見るとき、ふとそうした想念に駆られます。まあコロナが直接の原因ではなかったかもしれないけれど。 彼が世界を飛び回って構築しようとしてきた「世界戦略」は常に一貫していて、それは言うまでもなく「対中政策」でした。それは何も「対中国敵視政策」ではなく、この取り返しのつかなくなったバケモノ国家を、何としてでも現在の世界秩序に止め置こうとする戦略であったでしょう。安倍さんの打ってきたさまざまな布石は、この武漢ウイルスというコロナ禍を契機に、もしかして、かなりな進展を見せていたかもしれないのです。なぜなら世界中が、一党独裁という共産中国の危うさに、コロナという痛い代償と引き換えに、ようやくハッキリと気付いたからでしょう。 これまで潤沢なチャイナマネーの恩恵だけに関心を示して、この怪物国家の具体的な脅威には、ほとんど見て見ぬふりをして来たEUですが、コロナ禍の間に「香港問題」に端を発した中国警戒感はかなり強い。旧宗主国の英国は別として、ドイツやフランスといったEUの主要国が、中国の香港に対する「国家安全維持法」への懸念表明を出したことは、北京にとってもかなりな誤算だったのではないか?今回のこうした懸念表明の裏には、明らかに武漢ウイルス・パンデミックに対する北京政府の、一連の対応の傲岸さと不誠実さがあったはずです。 かたやで、大ナタを振り回しつつあるアメリカ、大いなる疑念を抱きつつあるEU、東南アジア諸国、さらにはインド、オーストラリアまで含めて、孤立感を深める中国政府という世界の構図において、日本の立ち位置は驚くほど重要になっている。それは何も深謀遠慮、権謀術数が利くタイミングなどという安っぽい話ではなくて、結果的に世界が日本の動向に注目せざるを得ない、という構図になっているからでしょう。 表向き傲岸な態度に終始する北京ですが、このコロナ禍における、あからさまな強権的振る舞いは、裏を返せばきわめて脆弱な統治力を表しているからです。こういうとき権力というのは、自らを変えるということが出来ない。何らかの外部からの働きかけがないと、どうしようもないのではないか? となると、間違いなく中国は日本にさまざまな外交的手管をかけて来るでしょう。さしあたっては、棚上げになっている「公賓としての来日」というカードですが、日本としては当然かなり高い対価を乗せるということになる。さしあたって中国には、世界復帰へのカードは、これしか見当たらなさそうです。この場合、日米同盟基軸という基本は揺るがないにせよ、まったくの対米追従では、この米中対立という世界史的な危機は回避できない。綿密な連携を取りつつ、こん棒を振り上げているアメリカとは別の仕方で、中国に自ら変わってもらう道筋を示すのが条件となるでしょう。 このあたりのパワーバランスや、それぞれの国家の機微を十分に読み込んで、新たな世界秩序を構築するというのは、途方もない話ではあるけれど、安倍さんとすれば、ある意味ドキドキするようなシチュエーションだったのではないかしらん。 しかし、これは平成の終わりとともに、見果てぬ夢になってしまいました。とはいえ長い間の当番、お疲れさまでした。まあ再々登板というのは、なんぼ何でもないでしょうが、むしろさらにもっと軽いフットワークで、世界を駆け巡る日は案外早く来そうな気もします。たぶんそれを世界が必要とする時期が来るでしょうから。
2020.09.18
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平成の終わり 3. しかし、そうした出自であるからと言って、安倍さんが最初から軽々とした国際感覚を持っていたというわけではないでしょう。繰り返しになりますが、第一次安倍政権の時は、第二次以降よりはるかに狭量な保守政治家のイメージが濃かったのです。 ところで安倍さんご自身は、いつぞや「民主党政権の暗黒の3年間」という言いかたをされていましたが、それはそうではないだろう、ご自身も含めたその前の自民党政権3年間も含めて、「日本憲政史上の暗黒の6年間」と言うべきではないか。肝心なのは、その暗黒部分から目を逸らさずに、何がダメで何が生かせるのか、しっかりとした検証をそれぞれがどこまでやったかということだと思う。旧民主党はそこでの読みを完全に間違えた、末期的醜態を繰り返す自民党にうんざりして、国民がなぜ民主党に政権を附託する気になったのかといえば、時の民主党が多少なりと現実的な路線を示したからでしょう。しかし政権を奪取したとたん、急速に元の教条主義的な左に戻ろうとしたので、完全に信頼を失ったのです。 自民党はそのあたり、やはりしたたかというか、よく世間の空気の移り行きを心得ている。なかんずく安倍さんは自身の失敗から逃げずに、ずいぶん反省したのではないか。第二次以降の安倍政権は、先ほども言ったように元々安倍さんが把持していた、いわば原理主義的党派性をコモにくるんで、より現実主義的な政権のイメージを打ち出したことで成功したのです。結果として、彼の元からの岩盤の支持者からは、欲求不満の声が常に立ち上がってくるし、さりとて、いわゆるオールドリベラルな層からも、微温的かつ不毛な意義申し立てはあったのですが、国民全体としてはこのバランスの取れた政権のありようを長く支持したのでしょう。 株高と雇用安定をベースにした民心の安定と、いかにも軽いフットワークによる外交政策は、国民にたんに安心感を与えるだけでなく、一種の晴れがましさを感じさせたのではないか?こうした晴れがましい気分というのは、今までの日本の政治家にはなかったものなのです。 外交の各論において、「拉致問題」や「北方領土」、はたまた尖閣や竹島問題などなど、具体的な成果は何一つ達成されてないどころか、課題山積じゃないかという声が当然出て来ますが、肝心なのは、であるにもかかわらず、この政権ほどこうした問題に真正面から取り組み、具体的な行動を起こした政権は今までなかった。文句をつけるのは簡単ですが、言っている当の本人たちが、具体的な行動や施策を打ち出しているかと言えば、もちろん何も行っていないし持っていない。オールドメディアやオールドリベラルな人たちは、この未解決の課題の一つでいいから、具体的な解決案を持って物を言ってもらいたい。衆目はすべてそれらを見て、比較考慮しているのです。 喫緊の課題を数多く残しているとはいえ、それでもなお評価すべき具体的な成果として「平和安全法制」の整備や、日米印豪にインドネシアなどを加えた「インド太平洋戦略構想」、一度流産しかかったTTPの日本主導による再構築とTPP11の発効、さらにはEUとのEPA締結などは、将来的な経済安全保障を見据えた、壮大な外交的達成であったというべきでしょう。 しかし、そうした専門分野における評価は、政治経済の評論家諸氏に任せるとして、一番肝心なことは、戦後の日本の政治家において、安倍さんははじめて「日本人としての範たる事例」を、示し得た点にあるのだと私は思う。ひらたく言えば「親が子供に堂々と話すことが出来る政治家」ということです(岸さんも佐藤さんも立派な政治家でしたが、やはりちょっと怯むところがあるじゃないですか)。 青山さんがしきりとおっしゃってましたが、国会における議員さんたちの立ち位振る舞いは、およそ社会人としての則を逸脱し、妙な業界用語と阿吽の空気が全体を領する、ごく特殊的な世界のようです。とうてい子供には聞かせられない罵詈雑言(早い話、当の本人が家で、同様の言葉づかいをしているとは思えない)が飛び交い、不毛な議論の応酬と選挙目当てとしか思えない、揚げ足取りの発言ばかり。この様子を見て、若者に政治に興味を持てだの、選挙は国民の重大な権利と言っても、誰も聞く耳を持たないし、教育熱心な親御さんも、わが子をこういう世界に送り出そうとは思わないでしょう。 結果、全員とはもちろん言わないけれど、そうした特殊業界内の専門用語や振舞いに慣れ親しんだ二世三世議員や、一発逆転を狙う山師的エートスの持ち主が幅を利かせる世界となって行くのです。こうした特殊業界的空気というのは、外部の人間を拒む代わり、その内側にいる者にとっては、(与野党問わず)よほど居心地のいいものであるらしい。これは何も国会議員の世界だけじゃなく、オールドメディアをはじめ他の業界においても、多かれ少なかれ見られる様態なのでしょうが。 「何を幼稚なことを、今どき言うてんねん」と蹴飛ばされそうですが、私は思うのですよ。議論というのにはディベートとディスカッションの二通りがあって、今どきの風潮はディベートこそがすべてという雰囲気なのですが、それはそうじゃないだろうという気がするのです。 ディベートが賛成側反対側に分かれて行われる討論なのだとすれば、その目的は結局「勝ち負け」に帰せられる。極論すれば中味の正誤より、結果に価値が置かれる議論だということです。この場合、議論によってお互いが以前より少しでも賢くなり得る、という機会は想定されていません。これの典型的な例と言えば、弁護士の弁論というのがそれに当たりますね。「すべては依頼人の利益のため」という前提に立てば、「勝つ」ことだけが目的化して、その弁論の中味自体が当事者たちの価値を高めるということには、もちろんつながらないでしょう(まあ、スキルの強化にはなるかもしれないけれども)。 爾来、日本人はディベートが苦手で、ディスカッションが好きと言われますが、それはだから「日本人は話下手なのだ」などという話ではもちろんなくて、「勝ち負け」だけが目的化した議論が、しばしば不毛を呈し、ややもすれば勝っても負けても、お互い「品下がる」気分になるのが嫌だからなのではないか? 「品下がる」とは、要は自身の容儀が何やら卑しく見えて、「気色悪い」ということでしょう。日本の議会制民主主義はとっくに百年以上の歴史を経たにもかかわらず、いっこうに人の心に届く議論や弁論というのが出てくる気配がしないのは、それらによって互いが少しでも賢くなった、叡智が付加されたという気分に到底なり得なかったからでしょう。 安倍総理の米国議会における歴史的な演説、例によって日本ではオールドメディアによって過少評価されていますが、その決して上手いとは言えない英語の発語でも、アメリカ人の琴線に届くところが大いにあったらしく、背後に並んでいる席にいる議員の中には、ハンカチで目をぬぐっている人もいましたね。スタンディングオベーションは、儀礼的でよくあることとしても、あの「泣いてはいけないアメリカ文化」の議会人が泣くというのは、よほどの事態と言うべきですよ。 それはたんに不幸な過去の反省と和解といったフレーズの中にあるのではなく、新たな「歴史の叡智」をここに記しつつあるという、その演説の趣旨に共感したからではないか?
2020.09.13
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平成の終わり 2. すでに終わりを迎えつつある安倍政権について、十分な総括をしておくというのは、何もそれが歴代最長政権だったからではありません。この政権を見直すということは、同時にそれと共に過ごしてきた七年八ヶ月の自身や日本、あるいは世界を見直すという作業でもあるからです。 既存のメディアは総括は出来るだけ簡単に、そしてさっさと新政権の話に話題を移そうと必死ですが、そこに見え隠れする底意には、いかにも安っぽい意図が感じられる。意地悪い見かたですが、さんざんモリカケや桜その他でこき下ろし続けてきたにもかかわらず、安倍政権は計六回の選挙を勝ち続け、一回も負けなしでビクともしなかったうえに、辞任表明と同時に支持率がハネ上がる、という事実に直面しているからでしょう。つまり安倍政権を総括をするということは、そのまんまオールドメディアの連敗の事例を検証することに他ならない。 ところで、この退任直後の支持率急上昇という朝日新聞の世論調査データかんして、似たような数字の不自然な変動を、私は今年まったく別のところで見たような気がしました。他ならぬ中国政府発表の、武漢および中国全体における感染者データの推移なのです。はじめ発表していた感染者数について、取り方の基準を変更すると称して、途中から数字がうなぎ上りに上がった、それも基準の変更を二回やってです。これってデータの座標軸をずらすようなものだから、疫学的数字としてはまったく意味をなさない、というか、事実を前提とした議論の対象にももちろんなりえません。 ではこの政府発表の数字は何かといえば、要はそれは、中国政府が求めて止まない「であるべき数字」だということが分かる。ただ残念なことに「であるべき数字」が、実体とあまりに乖離してしまったので、座標軸のほうを変更したのではないか?さらに言えば地方政府が、北京が考えている「であるべき数字」を忖度して、まともな数字を上げない、事実を報告したら何をされるか分からないということなると、はじめから実体などどこにも存在しない数字が、ただ中空で踊っているということになってしまいます。 あまり言いたくはないけど、今回の支持率急上昇というのも、それまで朝日新聞が発表してきた安倍政権の支持率低下傾向という世論調査が、あまりに実体とかけ離れていたので、辞任表明をこれ幸いに一気に修正しただけなのではないか?考えてみれば、去っていく政権の支持率調査って、なんだかヘンですね。自分たちが作り出した事案を執拗に繰り返し、何とか「であるべき数字」に持って行こうとして来たが、ビクともしない実体に、どうしようもなくなって座標軸を変更して取り繕うという、およそ知的媒体としてあるまじき実体が顔を出したということではあるまいか? こうした「ゴールポストを動かす」とか「ハードルを下げる」といった、厳しい事実から目を背け、「であるべき空想世界」を次々繰り出すという児戯めいた行為は、先ほどの共産中国だけでなく、隣の国でもよその国でも往々ありますが、朝日もどうやらそのクチらしい。クオリティーペーパーとはよく言ったもので、オールドメディアの知的劣化をこれほど明瞭に示した数字もないのではないかしらん。 とはいえ、その評価の中味を見ると「外交・安全保障」と「経済」が過半で、これはごく常識的。で、ここで話は「外交」のほうに移るのです。よく言われる「安倍トランプの蜜月関係」ですが、これはもちろんたんに相性が良かったなどというものではなく、安倍さんのほうからかなり戦略的に動いた結果だと言うべきでしょう。早い話が、相性が悪いと言われたオバマさんについても、「広島訪問」という大統領としてのレガシーを演出して、いささかなりと「貸し」を作っているのです。 ではトランプさんに戦略的に近づいたわけはというと、それはたんに日米同盟の強化ということではなしに、大統領になる前から彼が繰り返し訴えていた「アメリカ・ファースト」という孤立主義を、何が何でも阻止するという意図があったからではないか?世界の警察からアメリカが手を引けば、世界秩序の不安定化、中でも東アジアでの共産中国の伸長激化を招くのが明らかだったからです。そうしたごく常識的な判断を進言する自国の国務省や国防省の言うことを、まったく聞かないトランプさんが、安倍さんの言うことなら聞くというのは、なんだかヘンな話ですが、これはトランプさんのかなり固有な性格によるものであるらしい。少なくとも「歴代のアメリカ大統領という退屈な規格に、俺様は絶対入らないぞ」と思っていたことは間違いないので、なぜなら、それが彼の岩盤の支持層の根源でもあったからです。 そうした彼の性格を早々に見抜き、友誼を交わすのに成功した安倍さんという人は、やはり昭和の人ではなく純正の平成の宰相と言うべきでしょうね。中曽根さんでも小泉さんでも無理だったでしょう(小泉さんは平成の宰相ですが、手法は旧来のものでした。彼は自身の政治的レガシーのために、拉致被害者を利用したのです)。旧来の政治家としての権威性を、多少でも意識した政治家ではこれは無理。それが証拠にEU各国の首脳もトランプさんを嫌っているというか、手をつかねて安倍さんに聞きに来るという始末。これってやっぱり日本の憲政史上あり得なかった事態だと思いますよ。 では歴代総理大臣(戦前も戦後も)がなしえなかった、各国首脳との自然体の付き合いが、なぜ安倍さんの場合出来たのか?それはおそらく、政治家一族としての安倍さんの出自が、この場合「吉」となって出たということだと思う。叔父の岸さん以来、外国人との交流が普通に行われてきた一族の中で、安倍さんは自然と国際交流の雰囲気や呼吸を身に着けたに違いない。 G7や中国ロシアの首脳と立ち混じって、まったく「臆する雰囲気がない」日本の首相というのは、安倍さんが初めてでした。中曽根さんも小泉さんも、その面にかんしては相当「気張った」首相でしたが、いかんせんその「気張った感」が丸見えで、自然体と言うにはほど遠い。安倍さんがそれをごく自然体に出来たというのは、大成した名門一族のサラブレッドとして、政治家によくある「権威や権力指向性」を、あえて表に出す必要がなかったからでしょう。 同じような雰囲気を醸し出していた人として、私は緒方貞子氏を思い出します。この人も犬養毅のひ孫であり、外交官の家に育ってごく自然に国際感覚を身につけた人でした。大事なのは「名門には名門としての責務と役割がある」ということを、本人たちがどれだけ意識しているかということでしょう。両者に共通するのは、一言でいえば「私欲がない」ということです。政治家の世襲化が問題視されたりもするし、青山さんのようなフツーの人で、国際社会と丁々発止渡り合える人ももちろんいるでしょうが、日本の政治家の中で、そうした器量を自然と保持している人がどれほどいるのかしらん。
2020.09.08
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平成の終わり 1. 「さまよえるオランダ人(Flying dutchman)」に引っかけて、「武漢ウイルス・クライシスとフライング・プリンセス」なる表題で、現下のコロナ禍のようすを、私が感じるかぎりの範囲で話しておこうとしていたところが、情勢の変化はまことに早く、安倍政権の終焉という想像もしない状況に至っています。 別に安倍さんに肩入れして言っているというわけではなく、よく考えてみれば2020年の9月と言えば、青山さんが以前言っていた安倍さんが勇退すべきという時期でもありましたね。その心はと言えば、確かオリンピック開催を経て、「任期を待たず余力を残して引く」というのが、政治家としてベストだというようなことだったと思います。コロナ禍はそうしたすべての期待値を吹き飛ばして、ただし勇退時期だけは外してくれなかったということでしょう。 さて世の中の関心は、すでに次期政権の行方のほうに焦点が移っていますが、私はやはり歴代最長の政権を維持し続けた安倍政権の評価を、もう少ししっかり見定めるべきだと思う。これについては以前もこのブログで触れたことがありますが、第一次政権の失敗をしっかり踏まえて、ニューカラーで押し通したことが長期政権誕生の根本にあったように思う。で、そのニューカラーとは第一次政権で前面に押し出した「戦後レジームからの脱却」というフレーズを引っ込めて、第二次以降はこの文言を注意深く封印したということでしょう。 「戦後レジーム」とは言ってみれば昭和の遺物であり、それからの脱却ということは昭和からの決別ということを意味するわけですが、逆に言えばそれをたかだかと掲げれば掲げるほど、安倍さんの立脚点が昭和にあるという印象もまた強くしたわけです。で、その昭和のイメージとは、いわゆる岩盤の保守層、誇り高き日本の復活を希求する層を連想させるところがあったわけで、一次政権発足時はほとんど右翼の政治家のような書かれ方をしていましたね。 第二次政権ではそうした古びた保守性を封印し、「三本の矢」という経済再生を表看板にすることによって、イメージの転換に成功したのではないか?いろいろな書かれ方をずうっとされているけれども、アベノミクスの効果は株価の上昇だけでなく、戦後最低水準の失業率という形になって現れていたわけで、これが果たした社会的安定というのは計り知れない。平成の世が昭和に比べて暴動とかストライキ、はたまた学生運動のような社会不安をもたらす事件がはるかに少なく、自然災害を別にすれば、きわめて穏やかな時代であったことを指摘する人はあまりいませんね。 現上皇陛下が、ご譲位の折りに平成の世を振り返って、「戦争がなくて、良かった」と、しみじみおっしゃったことが、私には非常に印象に残っています。共産中国の台頭、テロ国家北朝鮮の核実験やミサイル発射など、疎開を経験された陛下からみれば、現下の日常の平穏は、いつ破られてもおかしくないということを、常に覚悟しておられたのでしょう。 これは全くの私見で、前にも言ったことがありますが、「クールジャパン」といった、いわば居心地のいい日本見直しのような風潮は、平成のいわゆる「失われた20年」の間に生まれて来たものであり、その長期にわたるデフレの社会にあって、なぜか民心は荒れることなく、むしろ日本的エートスは洗練の方向に向かって行ったのです。昭和懐古的な映画がヒットしたりしますが、実際生きてきた戦後40年ほどの昭和の時代というのは、けっこう人心は荒れていたし、社会不安も多かったですよ。「バブルもあったじゃないか」という声が返って来そうですが、この時期、都市部の私学に通う学生なんか、BMBで通学してディスコに通うのが、「ナウい」と言われたりしていて、では、そうした振る舞いが洗練されたエートスであったのかどうか。 今どき、外国人観光客が口をそろえていう「日本人の清潔好き」というのも、平成のそれも後半になってから顕著に現れてきた日本人の行動様式であって、それ以前の私たちの生活や都市空間は、お世辞にも「清潔」とは言えなかった。他ならぬ私自身も、くわえタバコで街を闊歩するのは普通にやっていましたよ。今では街中どころか田舎でさえ、公衆のゴミ箱が姿を消し、自分の出したゴミは(悪いけどコンビニか)家に持って帰って始末するのが、当たり前になってしまいました。 肝心なことは、こうした「清潔好き」というイメージが、あたかも元々日本人が持っていたエートスのような(例えば神道の「禊」の伝統に通じるような)文脈で、しばしば語られているということです。そうじゃないだろう、こうした日本人の行動様式や都市景観は、ここ20年ほどで醸成されたものだろう、というのが私の観測なのです。 今はコロナ禍で止まっていますが、日本へのインバウンドの需要は上昇することはあっても、当分下がることはないでしょう。世界は平成の洗練を経た日本を、今発見している最中だと言っていいのではないか。それを生み出したのが、低失業率に裏打ちされた民心の安定という平成の世であったことは、もう一度確認しておいたほうがいいように思う。 話が少し飛びますが、先日高橋洋一さんの出ていたNewsチャンネルが面白かった。黒田日銀のインフレ・ターゲット2%とは、単なる物価上昇目標でも金融緩和でもなく、雇用安定策としてとられていたというのです。 このマクロ経済におけるフィリップス曲線の理論を本当に分かって「アベノミクス」を論じたジャーナリストや学者、政治家が日本には一人もいないというか、どうしても「分かりたくない」層が、オールドメディアを筆頭に、日本の知識層の大半を占めているということでしょう。 政治的思惑や妙な同調圧力のようなものが入り込むとき、冷静な分析や議論が封じられ、知的不調を招くという不幸がここにも現れている気がしました。雇用政策に関するかぎり「アベノミクス」は歴代政権と比べても、飛び抜けて高い実績を残したという事実は揺るがないのです。
2020.09.04
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