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恐竜境に果てぬ第1章第2節その1


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恐竜境に果てぬ第1章第2節その3


恐竜境に果てぬ第1章第3節その1


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2017.10.03
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カテゴリ: 機関誌
今後、ブログネタの有る無しにかかわらず、既に回想の時期にとうに達していたと思われる、かつての特撮機関誌『大一プロブック』歴代の表紙写真を中心に、回顧の文章をしたためようと、ほぼ決めました。

テーマを絞った本格的なブログ文章は、下書き・推敲・清書をほぼ終了したものが二つあり、さらにコラム・文章の師、故・山本夏彦氏のコラムを扱った過去のブログの再録版を予定しており、これで三つとなります。

在りし日の山本夏彦氏.jpg

一つは、今年2017年三月末に精神に異常をきたして、隔離入院のはめとなった、経験談をつづったものですが、初めキーボードの運びに任せて書いていたら、かなりの病院批判となったので、文章中途で推敲に向かい、その箇所をすべて削除しました。

殊に入院中は、たとえ患者のこちら側に妥当な言い分があったとしても、それを医師・看護師などにストレートにぶつけるなどは言語道断、というより自らを不利な立場に追い込む言動でした。
中には己れの気持ちをそのままぶつける人もいましたが、忍耐を知らぬか、その限度を超えていたのかも知れません。
結果は暴言、暴挙と判断され、留置場とほぼ同じ形の隔離室に放り込まれます。

これについては、これ以上書けないので、申し訳ありませんが、身近に類似の経験者がいたら、ぜひ問うてみて下さい。まず間違いなく、本心から何から、その経験談を巨細に語ってくれるでしょう。入院は貴重な経験だったと言う人は一人もいないと察します。
なお、私は、私に限っては、現に精神に異常をきたしたと書いていますし、その点で、己れを正当化せんとの意志はありません。

ブログ推敲済みのあと一つは、退院、帰宅後まもなく、こつ然とわき起こった数学への関心からつづった積分法の話です。

これまた対人関係に問題のある私のこととて、人の悪口を早速書くかと思われても仕方ないのですが、我々素人がアマチュア有志を集めて自主製作プロダクションを作ると、たいてい代表者の名字などを呼称することも少なくありませんでした。もちろん例外はあります。

私の場合は、例外の一つなのかも知れませんが、例えば姓が「村松」だから「広瀬」だから村松プロダクション、広瀬プロダクションと命名するのには抵抗がありました。
邦画大手の一つ、「東宝」などは、創始者の名前を使っていません。その代わり「東京宝塚」という固有名詞に由来する略称を用いて、これはなかなかスマートです。

私がアマチュア・プロダクションを立ち上げたのは小学五年の時で、当時は賛同してくれる仲間がいましたが、その後中学、高校と成長するにつれて、この手の趣味から離れる人がいたし、さらに大学生活の居住地などの都合もあって、スタッフはその時々で全く別の人々となっていました。
星移って、もはや8ミリフィルムで撮影する形式は、ビデオに駆逐されて消滅しました。
現在地に腰を落ち着けた私は、特撮趣味を映画製作に託すのをあきらめ、機関誌を製作、無償配布する形にして、これに共感してくれる人々に送付し続けました。

結果はトラブルに陥って、機関誌は廃刊となりました。話を戻しますが、私はたいしたこともない己れの名字も名前も特撮組織の命名に使うのはイヤで、どちらかというと東宝のような名前をつけたいといろいろ考えました。

もちろん、名字を使った見事な例もあります。創業者・石橋氏の名字の石と橋をひっくり返して英訳した『ブリジストン』などは、これも兄に逸話を聞いた時、さすがと兄への敬意と共に、スマートな会社名にうなりました。『ブリッジ』と『ストーン』の合成語です。

それでは私はどう命名したかというと。これが、命名に至る話をつづっても、全くつまらない内容になります。
一応書きます。小学五年の時は、既に「大一プロ」でしたが、たどれる記憶はさらに過去のもので、つい数ヶ月前のことも思い出せないのに、これは別のようです。小学三年ごろとしかさすがに書けませんが、このころ既に「大一映」と呼称する文字通り私一人しかいないワンマンプロを創って、パラフィン紙に食用油を塗って透明度を高めたものを幅35mmのフィルムサイズに切り取り、これに怪獣の絵を描いて、昔の幻灯機(幻燈機とも)で、壁に張った布団の敷布に映したのが最初です。

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西岸良平(さいがん・りょうへい)氏の代表作「三丁目の夕日」のコミックス版「夕焼けの詩(うた)」第3巻から「幻燈」。ヒロインのお姉さんは、多分肺結核を患って、子供たちに幻燈を見せたりしたのち、喀血して帰らぬ人となる。

「大一映」の「大一」、このうち、「大」は大衆、大勢(おおぜい)の意で、「一」は実に祖父・村松栄一の名前の最後の一字なのです。それでは祖母に悪いではないかと思い、私はヘタな文章をつづって本を作ることもよくやったので、その本の版元、つまり出版社名として、祖母の村松民子の一字「民」をもらって、「大民(だいみん)プロ」と命名したりもしました。ただし、機関誌は大一プロのまま変えることはありませんでした。



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当時のネガフィルムを反転させて、ポジ画像に加工したもの。作品は第3作「鉄人28号」。

ただし、白黒逆なので、幻灯機にはピタリ当てはまるサイズではあったものの、白黒逆のネガフィルムのままなので、それを承知で撮影する必要があり、主に模型を撮影しました。
のちにせっせと作り続けた機関誌の名も、当然というべきかこの「大一プロ」がもとです。さらに記憶していることを書くと、当時は特技監督・円谷英二氏は憧れの的でした。あのころは、円谷監督の顔を写真で見たこともなく、あるいは見る方法を存ぜぬ世間知らずだったのかも知れませんが、昨今当たり前となったゴジラ映画の写真集や特集本など、私の見た限りでは、ほとんどお目にかかれない時代だったので、御殿場小学校の図書室で、玉川こども百科というタイトルだったか、その図鑑シリーズの「映画」という一冊だったでしょうか、それをゆっくり開いてみたとたん、昭和31年東宝の名作「空の大怪獣ラドン」の、『西海橋襲撃シーン』の鮮明なカラー写真が現われて感動し、のちにあの百科本を盗んでおけば良かったと悔やむことしきりでした。

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それで、東宝特撮映画を見るたび、憧れの円谷特技監督の必ず字幕に出る「特技」という言葉にも憧れ、大好きな言葉でもあったので、「大一プロダクション」は、一時期「大一特技プロダクション」と呼んだことがありました。あるいは今特撮ものを担う監督も、円谷氏への敬意からなのか、特撮担当の監督を特技監督とは字幕に出さないのではと、勝手に決めつけ、思っています。要するに特撮監督と字幕には出すけれども、特技監督の呼び方は、特撮の神様・円谷英二氏ただ一人との不文律があるのではないかということです。

さて、またもじょう舌になりました。今回は改めて、この文章以下に、本誌「大一プロブック」復刊号の表紙画像を紹介しておきます。さらに特集記事タイトルページの画像も載せておきます。本誌「大一プロブック」は、小学五年で創刊、のち紛失し、中学一年の時、記憶を頼りに復刻しています。

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そして、中学二年が終わるころ、母の指示により、スライド製作を終了(中二以後の作品は本当のスライドフィルムと進化していました)、機関誌も第20号を最終号として作って文字通り休刊になりました。我が家では両親いずれも「勉強しろ」とは全く言わなかったのですが、さすがにこれから中三という折に、特撮趣味は一段落(いちだんらく)という空気だったようです。

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実に大学合格後、大一プロを再建、大一プロブックも第21号を復刊、本誌を作り続けました。このあと6年かけてようやく大学を卒業、就職のため続刊不可能となり、さらにまたも神経を病んで両親の住まう富士市に帰宅、半年間、自宅療養を続けてのち、昭和53年秋に体調著しく回復、家庭教師で糊口するようになりました。一週間すべてが家庭教師の仕事で埋まり、まさしく曜日だけで言えば月月火水木金金の仕事生活となりました。

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大学時代、ただ一つ制作した8ミリ怪獣映画「海底大怪獣メガロドン」。

このまま家庭教師で通すには限界があると、つとに思って、昭和61年(1986)に学習塾を開業となりましたが、これも今や仕舞屋(しもたや)です。
それはさておき、本誌を第何号でまたも休刊したか、正確には思い出せず、仕方なく、保存しておいたものを確認して、第64号と独断、ここに至って製本サイズもB5判と決め、第65号の復刊となります。そして、これは記憶間違いと、のちにわかった時は既に遅しで、そのまま通したというお粗末。

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表紙だけ作った本誌第68号。

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復刊号特集記事「翔(と)べスーパーシップ」トップページ。





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最終更新日  2017.10.03 01:42:32
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