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生まれ変わりが本当にあるかどうかについて考えるときに、注意しなければならないことがあります。 それは、省略です。たとえば、「今日は天気がいい」という言い方でも日常会話に支障はほとんどありません。 ここにどんな省略があるかわかりますか? まず、どの地域の話なのかが抜けていますね。ほかにも、良い天気とはどんな天候のことか説明されていません。さらに言えば、今日とは、何時ころのことかも説明されていません。通常は、今、ここで、晴れの天候であると共通に前提されているからです。 生まれ変わりについて、「そんなことは科学的ではない」という人がいますが、そもそも科学とは、物質世界を現実だと仮定して物質世界を説明した理論に過ぎません。意識の世界を想定してないのです。ニュートン物理学で量子の世界を説明できないのと同じです。 生まれ変わりの考えにおいては、意識の世界が現実で、物質世界は幻想であるといわれています。 つまり、そもそもの基準となる前提が違います。 それをふまえたうえで、私という世界を認識する意識が存在することが事実だとすると数々の状況証拠が生まれ変わりがあることを証明しています。 生まれ変わりの途中で中間世(中間生)に行きますが、これは「意識が物質世界という意識状態から中間生という意識状態に移行する」と表現する方が正確だと思います。 生まれ変わりの考え方によれば、物質世界を感じている意識状態より、夢のほうがより現実に近い状態だということです。 また、何のために生まれ変わりをしているのかというと、本来のひとつの意識状態に戻るためだといわれています。 このことは、現実世界が幻想であるどころか、私という分離した意識を認識していることも幻想であることを物語っています。 その意味では生まれ変わりは本当ではないことになります。 つまり、現実の基準をどこにとるかで、本当かどうかの判断結果が変わってしまうのです。 隈本確やオコツトは、生まれ変わりはないといっています。オコツトは、人間が意識を変えると、ムーの人々同じように、生きる目的が新しい宇宙の創造になると言っています。輪廻とは、個人に起こることではなく、宇宙に起きることである、それは最後の審判であり、天地創造であり、ビックバンである、といっています。「生まれ変わりがあるのならば人口が増えているのはおかしい」という人がいますが、ふたつの間違いがあります。ひとつは魂という意識の世界の概念を物質的な概念で捉えようとしていることと、もうひとつ、意識の世界も物質世界と同じ時間軸で進んでいると考えていることによります。 ワンネスのひとつの意識と個としての意識とは、たとえれば、小説家の頭脳と登場人物のようなものです。小説家が登場人物を想像し創造すれば、時間を越えていくらでも分離した意識を創れるようなものだと考えればわかりやすいと思います。 さて、あなたはどこを基準にするのでしょうか。物質世界を現実だと信じようが、生まれ変わりが現実だと信じようが、宇宙の輪廻を人間の意識が行うことを現実だと信じようがワンネスを現実だと信じようが、共通していることがあります。 それは、無条件の愛、すべての受容、対化の等化というような状態に意識を持っていくことです。 物質世界を現実としてみた場合に、それは二極化を越えた幸せを感じることと同じことです。 何かが不足しているから、何かが思い通りでないから、満足できない、不幸だと感じ、その反対に何かが満ち足りている、思い通りであるから満足して幸せである、というような二極化の幸せは意識の分離を強めるだけですし、幸せを外側に依存してしまうことになります。 今ここのあるがままを受け容れる意識になることは、どのレベルにも共通する正しさであり、物質世界においても、穏やかさという外側に依存しない幸せを得られるのです。引用開始-------------------------- 人生最大の幸福が、外部世界での経験-つまり、外側にある物質的な世界-によってのみ、得られるのだとしたら、あなた方は人間として、あるいは国として、幸福になるために積み上げたものを、一欠けらも手放すまいとするだろう。そして、「もたざる者」が自分の不幸を物質的な欠乏のせいにしていたら、彼らもまた、罠に落ちるだろう。つねにあなたが持っているものを欲しがり、あなたのほうはつねに分かち合うことを拒みつづけるだろう。(「神との対話2」P198)すべての紛争は、間違った欲望から生じる。世界中で持続しうる唯一の平和は、内的な平和だ。(「神との対話2」P198)引用終了-------------------------- ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪ 外側に
Apr 24, 2011
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日曜劇場「JIN-仁」の完結編が始まりました。 第一話にも印象深い言葉がいくつがでてきました。そのひとつが、「心のままに」です。これは以前に、私のサイトでよく使っていた言葉です。もうひとつは、「私のためにあなたを助けさせてください」という言葉です。この言葉というより、この言葉を語る意識がすばらしいのです。 これまでの考え(パラダイム)では、人を助けるというのは、相手のためだと思われています。相手のためにしていると思っていると、知らず知らずに相手からの感謝や周りの人の賞賛を期待をしてしまうのです。 しかし、仁は「私のためにあなたを助けさせてください」と言いました。これは、自分のために自分がしたいことをしているということです。つまり、前のブログでご紹介した「心のままに」と同じことなのです。 ふつう、相手を助けたら、相手からお礼を言われたり、周りの人から賞賛されるものです。そして、共依存という自己肯定感が少ない状態の場合、自分の価値が上がる感謝や賞賛を期待してしまいます。 しかし、自分は、相手から助ける機会を与えていただいているのだ、自分がしたいことをさせていただいているのだと思っていたら、助けた自分が相手に「(助ける機会を与えてくださって)ありがとう」というでしょう。もちろん、相手からのお礼など期待しません。 ですから、相手が拒んでも文句を言っても受け容れることができます。ところが、相手のためにやってあげている(与えてやっている)というおごりの気持ちがあると、たとえば、相手が文句を言ったら、『あなたのためにこんなにしてあげているのになんて無礼なんだ』というような不満の気持ちが沸き起こります。このことを和尚ラジニーシはよくわかっていました。引用開始--------------------------ティロパは分かち合うなと言っているんじゃない彼は取ることにも与えることにもこだわるなと言っているのだもしあなたに手持ちがありそれが自然に起こって、あなたが与える感じになったら与えなさいただし、それは分かち合いであるべきだ贈り物---これが贈り物(Gift)と与えること(Giving)との違いだ贈り物というのは取り引きじゃない何ひとつ期待されはしない絶対に何ひとつ---ただの認知さえもいらない感謝のうなずきすら---違う何ひとつ期待されてはいないもしあなたがそのことを取り上げなくてもその贈り物をくれた人物の中にはなんの動揺もない実際には、もしそのことに触れたりするとかえって彼は少しとまどうくらいだそんなことは決して期待していなかったのだから反対に彼のほうがあなたにその贈り物を受け取ってくれたことを感謝するだろう<中略>あなたはそれを拒否することだってできたのだからそれで充分だ(和尚(OSHO)著、スワミ・プレム・プラブッタ(星川淳)訳「存在の詩」めるくまーるP509P510)引用終了-------------------------- ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 18, 2011
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日曜劇場「JIN-仁」の完結編が始まりました。 第一話にも印象深い言葉がいくつがでてきました。そのひとつが、「心のままに」です。これは以前に、私のサイトでもよく使っていた言葉です。 心のままに生きるということは、自分を100%生きることなのです。 自分が自分らしく生きることは、私たちがこの世に生まれてきたひとつめの目的です。 自分の心のままに生きるなんて、自分勝手だと思う人もいるはずです。私がサイトで使っていたときによく言われました。 みんなが自分勝手に生きたら、世の中がめちゃくちゃになってしまう、と思ってしまう人もいます。 そう思ってしまうのは、これまでの考え方(パラダイム)とヒカリズムでは自分の概念が違うからです。 これまでのパラダイムの中で、私たちが自分だと思っている自分には、本当の自分と偽りの自分があるのです。これは心理学でもいわれていることです。、 偽りの自分とは、他者の期待を生きようとしてしまう自分のことです。自分だと思って、この偽りの自分の心のままに生きてしまうことは、自分を生きることになりません。 本当の自分の心のままに生きることが大切なのです。本当の自分とは、無条件の愛の自分です。 無条件の愛とは、今ここをあるがままに受け容れることですから、満たされた自分です。無条件の愛になること、これがふたつめの目的です。 満たされて心穏やかで優しさにあふれた人が集まっている世界がめちゃくちゃになるでしょうか?そんなことはないと思います。 きっと、周りの人に自分がされたらうれしいと思うことをしてあげることでしょう。これが三つ目の目的です。 そして、この三つの目的は、すべて同じことを視点を変えて説明しているに過ぎません。ですから、たったひとつの目的のためにこの世に生まれてきたのです。引用開始--------------------------「政府や宗教に頼るのではなく、自分の精神そのものに頼る方法をみんなに教えてやりなさい」と光の存在の一人は言った。「宗教もけっこうですが、自分の精神をすべてゆだねてしまってはいけません。あなたがたはとてつもない技術と能力をもった力のある霊的存在であるということを忘れてはいけません。愛の強さを認識すればいいのです。相手がして欲しいと思うことをしてやればいいのです」(続 未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著◇鴨志田千枝子訳◇同朋舎p.32より)そこで彼(光の存在)は、地上における私の目的を告げた。「精神主義的資本主義をつくり上げるのです」と彼は言った。「人々の考え方を変え、その未来の思想を推し進めるのです。政府や宗教ではなく、自分の精神そのものに頼る方法を、教えてあげるのです。宗教は結構なことですが、なにからなにまで宗教に左右されるようではいけません。人間は、力のある霊的存在です。愛とは、自分がされたら喜ぶような方法で他人に接することだということさえわかってくれればよいのです」(「未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳◇株式会社同朋舎p.71より)引用終了-------------------------- ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 17, 2011
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日曜劇場「JIN-仁」の完結編が17日日曜日から始まります。ぜひ、お楽しみいただきたい思います。25%オフで一番安かった!【25%OFF】[DVD] JIN - 仁 - DVD-BOX価格:17,955円(税込、送料別)【送料無料】【新品】【漫画】JIN -仁- [1~20巻 全巻] (著)村上もとか-全巻読破.COM漫画全巻大...価格:10,810円(税込、送料込) 前作では「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が何度かできました。原作にない言葉を脚本の森下佳子さんが加えたようです。おそらく元は聖書の言葉だと思います。 多くの人は、この言葉を「あきらめなければ必ず目的を達成できる」という意味で解釈しているように思います。 しかし、そのように捉えるのはおそらく間違っているでしょう。たとえば、オリンピックの金メダルは一人しかもらえません。(ほとんどの場合) 一人の人のことだけ考えていると「あきらめなければ必ず目的を達成できる」ということは可能なような気がしますが、全体から見たら、同時に同じ排他的な目的を持つ人がいた場合、不可能だということがわかります。 この場合の神が与える試練というのは、「人生を送っていくうえでぶつかる苦難によって精神的に鍛えること」ですから、選択肢はその苦難を拒絶するか、向かい合って受け容れるか、ということなのです。試練を乗り越えるとは、その苦難の状況を受け容れることなのです。言い換えると、無条件の愛を選べるかどうかなのです。 臨死体験研究の第一人者である故エリザベス・キューブラー・ロス博士は、私たち人間は、それぞれに学びの課題を設定して生まれてくる。その中でもすべての人が最後に身につける必要があるのが無条件の愛だといっています。そして、人生における苦難を受け容れるまでの過程を「死に至る五段階」として教えてくれています。どんな苦難も受け容れることができるのです。 また、ナチスの強制収容所での体験を本に著したフランクルは、人生が苦難によって私たちに問いかけてくる「これでもお前はこの人生を受け容れることができるか」という問いに「それでも人生にイエスという」という言葉でその苦難を受け容れることを表明しています。 ナチスの強制収容所のことを知らなければ、フランクルのこの言葉がどれほど力強いものかわからないでしょう。 強制収容所のようなまったく人間性を認められない中でも人生にイエスと答えるためには、人生の目的を変える必要があります。 世の中において、何かを得ようとか、何か成し遂げようという目的であれば、必ず目的を達成できないことに出会うはずです。 しかし、必ず達成できる方法があります。それは、フランクルがいう「態度価値」を目的にすることです。それができるのは、私たちがすべての人が神によって「自由意志」を与えられているからです。 態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値です。「態度価値」の具体的なフランクルのお話を引用でご紹介しておきます。引用開始-------------------------- それは重い脊髄腫瘍で入院している青年で、麻痺のためもう「創造価値」を実現するチャンスはなかった。しかし彼は、他の患者たちと精神的に深い会話を交わし、それどころか彼らを勇気づけ慰め、良書をたくさん読み、ラジオでいい音楽を聞くという、豊かな「体験価値」のチャンスを生かした。ところが病状が進み、ついにレシーバーを耳にすることも、本を手にもつこともできないほどになった。にもかかわらず、彼は絶望するどころか、それをも「態度価値」を実現するチャンスに変えたのである。 死の前日、彼はすでに死を予知していた。当直の医師が適当なときに彼に痛みどめのモルヒネ注射をすることになっているのを知って、午後の回診に来た医師に注射を夕方に済ませてくれるよう頼んだ。 それは医師が彼のために夜起こされなくてもすむようにという思いやりだったのだ。自分についての悲しみや恐れでいっぱいになっていてもおかしくないのに、死の直前まで他者を思いやるという態度決定は、まさに高貴というほかない。これに意味がないと誰がいうだろうか。」引用終了-------------------------- 今回の大震災で大切な人を亡くされた方も大勢いらっしゃるでしょう。その中で、大切な人に先立たれた悲しみに打ちひしがれ、生きる意欲を失っている方もいらっしゃるかもしれません。でも、ちょっと見方を変えてみてください。もし、あなたが先に亡くなって、魂となって、あなたの死に打ちひしがれて生きる意欲を失ったあなたの大切な人を見ていたとしたら、どうしたいでしょう?もし、それが私なら「私は大丈夫だから、あなたはあなたらしく、自分を100%生きて、幸せになってください」と伝えたいと思うことでしょう。 もしそうであるのなら、私にできることは、先に亡くなった人が笑顔になってくれるように、今生きている自分を100%生きることだと思うのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 16, 2011
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はるさんのレスにお答えして>まさに私は親に「こうあるべき」と言われ、親の前では自分の心に、ふたをしてしまいました。>そして、だんだんと友達や他の人に対しても自分の感情をだせなくなってしまったと思います。>いつもこの場では何が正しいのか、どのような態度、言動が正しいのかと>相手にとっての正解を探してしまいます。相手の評価で自分の存在価値を確かめてしまうのが、広い意味での共依存の根本的な状態です。人間関係依存とかギャンブル依存症、アルコール依存症、ワーカホリックなど、すべては、この状態が原因となって発生しているのですから、依存状態は、原因ではなく結果に過ぎませんから、依存をやめさせようとするのは、対症療法にすぎないということです。真の原因に対策することが根本的な解決になります。>自分のこうあるべきを一度立ち止まってみてみる。私にできるかな…。論理的に考え、真の原因を見つけ、そこに対策を立てるから、誰にでもできますよ。(^^)>それから、あるがままの自分を肯定する、ですが>自分のなかにある、妬みや、嫉妬、そういった事実を受け入れる、まず認める>ということから始めていいのでしょうか?現状を認めないということは、対策すべき点がないと主張することですから、先へ進めません。だからこそ、AAなどの12のステップなども現状を認めるところからなのですから、それでいいですよ。>私はこのことでいつも自分を卑下してしまうのですが。あるがままを受け容れられなくて、否定してしまう自分を認めたら、次は自分を本当に愛することです。あるがままの自分という場合、否定してしまう今の自分も今のあるがままの自分ですが、本来の自分という意味でのあるがままの自分(自然な自分)ではありません。社会的な正しさによって歪められています。こうあるべきだ、こうあらねばならないという社会的な正しさを絶対視してしまうことによって、歪められているのです。否定的な感情を感じたら、そこに自分の観念の中の『こうあるべき、こうあらねばならない』があるはずです。こうあるべきから外れているから、そのことを否定しているわけですからね。否定的な感情を『こうあるべきセンサー』として利用して、自分の観念の中の『こうあるべき』を洗い出すことです。見つけたその都度、『どうしてこんな観念を持っているか』と、考えてみてください。そして、自分にとって必要かどうか考えてください。不要なら手放す、必要ならそれを使う前提(目的)をしっかり確認することです。それから、目的に優先順位をつけることです。目的によって正しさが決まりますから、複数の目的が同列に存在したら、どちらの正しさに従うべきか決められません。自分で選んだ正しさならば、その状況に応じて自分で順位を変更できますが、親など周りから刷り込まれた正しさは、絶対視され、自分では勝手に順位を変更できないのです。ヒカリズムでの目的の優先順位の第一は、自分が幸せであるかどうかです。これは決定です。次は、たとえば、第二に相手のためになることする第三に相手にやさしくするだとしましょう。相手の期待に応えることは、たとえば、相手の望むことをしてあげるというやさしさですから、必要ですが、最優先は、自分が幸せであること。相手の望むことをしてあげるのが自分の幸せであれば、してあげることを検討します。次に相手の望みどおりにしてあげることは、過保護になることもあります。それをすることが相手の成長を阻害するようなら、第三目的より、第二目的の方が優先ですから、しないことになります。実際は、事前に第二目的以降を設定することはできないと思いますので、その都度、そうすること、しないことの目的を自分で考え、優先順位を確認してください。>どうしても、基準というか、物事のよりどころ、正解をもとめてしまうようです。それは、今は自分に存在価値がないと思っているのですから、当然、自分より価値がある人の基準、正しさを選ぼうとするはずです。しかし、あなたの選択の結果は、いずれにしろあなたが引き受ける(責任を取る)のですから、誰かの意見を参考にしたとしても、最終的に自分が正しいと思うものを選ぶべきです。最初は間違った選択をすることもあるでしょうが、その体験が自分を成長させるのですから、失敗思えることを恐れないことです。赤ちゃんが這い這いから、ヨチヨチ歩きになるとき、必ず転びますよね。あなたは、それを失敗だといいますか?成長するという目的に対して考えれば、それは失敗ではなく体験なのです。また、お釈迦様は最期のときに、「師が亡くなったら、私はどのようにしたらいいのでしょうか」という弟子の質問に「自灯明、法灯明」とお答えになりました。これは、一般に「自分をよりどころとし、真理をよりどころとしなさい」と訳されていますが、ヒカリズム的には、単に「本当の自分を基準にして判断、選択しなさい」ということになります。真理(無条件の愛)にしたがって生きているのが、本当の自分ですからね。偽りの自分は、真理ではなく、エゴです。真理ではなく、自分の評価が高くなるかどうかで判断しているのです。 最初は、エゴがでることもありますが、この選択は愛だろうかと自分に問うことで、だんだんと正しい選択ができるようになりますよ。大切なのは、まず自分を本当に愛すること。あるがままの自分を愛することです。がんばってください。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 7, 2011
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テレビ朝日の「バーテンダー」の最終回の佐々倉溜(ささくら りゅう)(相葉雅紀)の言葉をご紹介します。 そのまえに、溜の言葉に関係するあらすじ。 26歳という若さでヨーロッパカクテルコンテストで優勝した天才バーテンダー佐々倉溜は、尊敬する師匠の加瀬(竹中直人)の店で働いていたが、ある日突然「お前は本物のバーテンダーではない」とクビを言い渡され、バーテンダーをやめていた。 来島財閥の会長、来島泰三(津川雅彦)は、幼いときに両親を亡くしている孫娘美和にこう言う。「バーテンダーはカウンター越しに向き合った客を決して裏切らない。そして、その中でも選ばれし者だけが、道に迷い、孤独に傷つき、行き場のない魂を救う究極の一杯『神のグラス』を作り上げることができる」 泰三は、ホテルカーディナルにオープン予定のメインバーのチーフバーテンダーにそんな「神のグラス」を作るバーテンダーを選びたいと思い、美和も祖父のために神のグラスを作れるバーテンダーを探していた。 溜は美和と知り合い、再び、BAR「ラパン」で本物のバーテンダーを目指す。 泰三は、溜と"ミスター・パーフェクト"の異名をとる天才バーテンダー・葛原隆一(金子ノブアキ)のどちらかにメインバーを任せたいと考えていたが、溜は自分には“本物のバーテンダー”に必要な何かが足りないからと辞退していた。 そんなとき、病に倒れた泰三を見舞ったときに、泰三の「苦労しギリギリの生活をしていた時代に、月に一度なけなしのお金をはたいてBAR「ラパン」で飲む一杯のうまさ、幸せだった。カーディナルに最高のメインバーをオープンする理由は、あのころの幸せな夢をもう一度この世によみがえらせたいからさ」という夢を聞き、その夢の達成をお手伝いをするためにチーフバーテンダーへ立候補した。 しかし、チーフバーテンダーを決める前に泰三は亡くなってしまい、たった一人の肉親を失った美和は連日深い悲しみに暮れていた。そんな美和を溜は見かける。 泰三の墓の前で偶然、加瀬と出会った溜の「どうしたら神のグラスを作ることができるのかわからない」という言葉に、泰三から密かに「二人が神のグラスを作れるように導いて欲しい」と頼まれていた加瀬は「目の前の絶望している誰かを心の底から救いたいと思うことだ。その強い心が無ければ、本物のバーテンダーとはいえない。お前はその心を持ち続けことができるか」とアドバイスする。 泰三(津川雅彦)の葬儀が終わり、美和に示された遺言書には、筆頭株主になって「カーディナル」に役員待遇で入ることを条件に「カーディナル」の莫大な株を美和に譲ることが書かれていた。それを受けるかどうかの返事の期限は、チーフバーテンダーの審査の日でもあった。 審査の日、加瀬は「カーディナルの未来を決めことができるのはあなたしかいない」と美和に審査を依頼し、美和はそれを引き受けた。 審査のテーマは、「ファーストゲストに出す一杯」。メインバーがオープンし、初めてのゲスト美和に出す一杯であった。 溜は、予定していた、うまく作れるのは100人に一人といわれる難しいカクテル「アメリカン・ビューティー」ではなく、傷ついている美和のために別の一杯XYZを作る。「XYZ(エックスワイズィー)というカクテルです。ご存知のとおりアルファベットの最後の三文字です。これ以上無い究極のカクテルという意味で名づけられたそうです。でも、僕は思います。XYZは終わりなんかじゃない。終わりがあるから、人はまた新しい気持ちで前を向ける。だから、終わりは始まりなんです。深い悲しみに暮れる人にかけてあげられる言葉はありません。本当の悲しみの前で同情の言葉はあまりにも無力です。でも、グラスは語ります。『あなたの苦しみは知っている。あなたの孤独はわかっている。あなたは決して一人なんかじゃない。積み重ねてきた思い出を胸にあなたは必ず前を向ける』その始まりのグラスXYZです」 その一杯を飲んだ美和の目から涙がこぼれる。チーフバーテンダーの座を捨ててまでも、本物のバーテンダーを選んだ溜の選択に加瀬も微笑む。溜のグラスに、美和は、前を向いてホテルの経営という新しい道に進む決心をする。 生前、泰三は溜に本物のバーテンダーについて聞かれ、こう答えていた。「バーテンダーとは、職業じゃない。バーテンダーとは、生き方だ」 生き方とは、生きる姿勢です。生きる姿勢は、『どう生きるか』というその人の意志によって創られます。それは生きる目的でもあります。『目の前の絶望している誰かを心の底から救いたい』という意志、その意志を持ち続けることから生まれる生きる姿勢、今、溜はその意志を確かに持ったのです。 悲しみの声も涙も出ないほど、深い悲しみにくれている人がたくさんいらっしゃることでしょう。そんな方に溜のこの言葉を贈りたいと思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 3, 2011
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今日のフジテレビの番組「ボクらの時代」で、実際に震災のときに気仙沼にいたサンドウィッチマンの伊達みきおさんの話がテレビの報道より臨場感と説得力がありました。 また、震災後の行動のすばらしさに海外から賞賛の声が上がっていた日本ですが、テレビでは報道されてませんが現場では盗難などがあるようです。 被災していない新潟でも、一人暮らしの若い女性の部屋に空き巣が入って、下着から洋服まで、衣類を根こそぎ盗まれてしまったとのことでした。 避難していて留守の商店の金庫からお金を盗むとき、もしかしたら『俺は家ごとすべて失った、家が残っているここからお金を少しもらっても、悪くない』とか『ここの人はきっと亡くなっているだろうから、誰も使わないお金を俺が有効に使ってやる』とか、自分をごまかす理由をつけて正当化しているかもしれません。 人は亡くなったとき、あの世で『人生回顧』という反省会をするようです。そのとき、愛を選ばなかった人は大いに悔やむそうです。 自分の困難を言い訳にして、愛を選ばないことを正当化するのか、今ここの困難をあるがままに受け容れて、愛を選ぶのか、それはきっとあの世で自分で設定していた大きなお試しです。 それは被災地の人だけでなく、買占めしてしまうことや義援金にも言えます。 「ユニクロ」の柳井正会長兼社長は大金持ちかもしれませんが、個人としての10億円の義援金は半端な気持ちではできないと思います。 毎日新聞によれば、マレーシアのある孤児院では、孤児が修道女らに働きかけて被災地への募金活動を始め、自分らと卒業生の分も含む義援金と激励の言葉を日本大使館に寄せたそうです。 娘が幼稚園のとき、白梅学園の元園長だったかのお話を聞いたことがあります。 プレゼントをするとき、自分の要らないものをあげるのではなく、自分にとって大切なものをあげるべきだ、というようなことを教えてくださいました。これは、プレゼントをするときの気持ちを教えてくださっているのだと思います。 心を込めていない贈り物は、どんなに高価であったり、相手が望むものであったとしても、あなたにとって、愛があふれるプレゼントにはなりえないということです。(蛇足ですが、相手が望むものを贈ることにも意味はあります) ご馳走という言葉は、相手を思いやる心で、おいしいものを探すために走り回るというところから来ているそうです。 困難とは、出来事や状況に本質的に存在するものではありません。ただ、あなたが中立な出来事・状況に「困難」という意味を与えているに過ぎません。あなたが与えた意味ならば、あなた自身の手で取り去ることも、変えることもできます。あらゆる困難から解放される道があります。フランクル流にいえば、人生にイエスと答え、態度価値を示すことです。ヒカリズム的にいえば、外側を無条件に受け容れ、その状況に感応した内側から湧く自然な気持ちに素直に従うことです。 聖書のお話の精神部分を直感体験した飛鳥さんの「イエス、5000人にパンを分ける」をご紹介します。自分をごまかすこと、愛を選ぶこととは、どういうことなのか。素直な心、自然な生き方とはどういうものなのか。分かりやすく語られていますので、どうぞ参考にしてください。引用開始--------------------------【イエス、5000人にパンを分ける】 太陽は西に傾いていた。イエスのパワーと言葉に感動した人々が、彼と彼の弟子たちに従い、大きな群衆を形づくっていた。 彼らは一様にイエスの説く真理に感銘を受けていたが、心の一部には疑念が残っていた。なぜならば、イエスの説く真理は、あまりにも革新的であり、現在のところ信じられている教義に対してはあまりにも挑戦的だったからだ。 そこで彼らは、イエスによる「証」をもっと見たいという一念で、集まっていたのだった。 もっとも素直に感動していたのは女性、子供たちだった。彼女等の心は燃えていた。 だが身体には、疲労と空腹感が次第に大きくのしかかってきていた。一行は、小高い丘にたどりつくと、へたりこむように座り込んだ。 弟子たちが心配そうにたずねた。 「主よ、食事をしなければなりませんが、この者たちはいかがしたら良いでしょうか」 弟子たちが携えていた食料はわずかであり、まずイエスに与えた後、自分たちは残ったわずかな量を分け合って我慢しようと考えていた。 だが、周囲の群衆には、明らかに一片のパンも持たない者たちがいる。その前で、自分たちが食事をしたら、どう思われるだろうか、わずかな自分たちのパンさえも取り上げられてしまうのではないか。取り上げられなくとも、「口では立派なことを言いながら、われわれにパンの一切れも与えてくれないのか」という批判を浴びることは間違いない。 そうならないためには、この群衆と離れ、誰もいないところでイエスを取り囲んで、ささやかな夕食をすますべきではないか。弟子たちは、こうした現実主義の考えに陥っていた。 イエスは迷いのない澄んだ眼を上げて弟子たちに答えた。「この人々は、私の言葉を聞き、真実の神に目覚めようとしている。いま、ともに神を体験しようではないか」 弟子たちは、そのあまりに屈託のないイエスの言葉に、即座に反応することはできなかった。「いま食物は、どれくらいあるのか」「・・・・」 周りの、疲れ切った女性たちの耳を気にして、弟子たちは答えることができない。「何を考えている。正直に言いなさい」「はい、パンが五つと、魚が二匹です」「では、それを捧げ、私についてきなさい」 イエスは、こう言って丘のいちばん高いところに昇っていった。 イエスが群衆の方にふり向くと、その全身が夕日に照らされて、黄金色に輝いて見えた。かすかな風がイエスの衣をなびかせ、髭をくすぐっていった。 その姿を見ただけで、両手を組合せ、嗚咽しながら、伏して拝む人も少なくなかった。 いったい何を語ろうとしているのか、人々の胸には期待と緊張がみなぎった。 イエスは指を開いた両手を高くかざし、ゆっくりと人々の頭の上をなでるように腕を動かした。 天のエネルギーと大地のエネルギーを集め、人々に分け与えたのだった。目には見えなかったが、神の愛のベール、愛の波動がイエスの手を通じて、人々を温かく包んでいった。「あなた方は神の言葉を聞こうとしている。 それは、あなた方にとって幸いである。いま私たちは、神のもとに出会い、ともに神の栄光をあらわそうとしているのだ。 神は、私たちに、あらゆる苦しみ、あらゆる困難から解放される道を教え給うた。神の言葉を信ずる者に幸いあれ」 イエスの言葉は前方の200人位にしか届かなかった。しかし、その波動は5000人とも数えられる、すべての人々に届いていた。 後の方にいた人々は、イエスが何を語り始めたか、その発声音は聞き取れなかったが、イエスが限りなく尊い真理を語り始めたことを、はっきりと認識した。「私はいま、神の大いなる祝福のもとに、皆とともに夕べの食事をしようと思う。ここに五つのパンと二匹の魚がある。これは天からの授かりものであり、神の祝福である。この授かりものに対して、天に感謝し、大地に感謝したとき、大いなる力をいただくことができるのである」「よくよく聞きなさい。空腹感は、単なる肉体の感覚でしかない。飢えを満たすことは肉体を喜ばすに過ぎないことである。それよりも、心の渇きを癒すことを第一にしなさい。 神と一つになることを祈りなさい。隣人を愛すること、互いに分け合うこと、このことを食事の時に、いつも心がけなさい。 私がいま、皆に示してみせよう。私と私の弟子は、ここにパンと魚を持っていた。 これを神に感謝し、女たちと子供たちに分け与える。与えることによって、私と弟子たちの肉体は飢えたままであるが、心が潤うのである。この潤いが私たちの食事である。「いま、ここには一片のパンを持たない多くの隣人がいる。この隣人たちを見捨てて、自分たちの欲にかられて、自分の持てるパンを誰にも分け与えず、隣人に愛の手を差し伸べなかったならば、肉体は満足しても、その瞬間に魂は死ぬのである。 あなた方は、肉体のみを喜ばせ、魂が死ぬことを望むのか。それとも、神の御心のままに、魂の永遠を望むのか。あなたの内なる魂によくよく聞きなさい」 イエスは、こう語ると一つひとつのパンと魚を、恭しく夕日に向かって捧げ、感謝の祈りを捧げた後、パンを割き、魚を割いて、近くにいた、とりわけ疲れた様子の女性と子供たちに与えていった。誰もみじろぎもしなかった。 イエスからパンを差し伸べられ、号泣する女たちが相次いだ。「主よ、あなたのパンを奪ったら、私は煉獄に行かなければなりません」 一人の女性が、両頬を涙に濡らしながらイエスに言った。 イエスはにっこりと微笑んだ。「大丈夫。あなたのその純粋な心は神に聞きとどけられた。私の供え物を受け取り、私の愛の行為を成就させるのです」 イエスが女性の眼を見た。 女性は、イエスの瞳のなかに永遠の真理を発見し、パンを受け取った。そして、それをさらに小さく割いては、周囲の人々に分け与えた。 人々の輪をかきわけて、一人の大きな男がころがるように出てくると、イエスの前に跪(ひざまず)いた。「主よ、私はパンを懐に隠し持っていました。誰にも知られないように一人で食べようと思っていました。私の罪をお許し下さい。この、・・・このパンを皆の人に分け与えて下さい!」 おおっというどよめきが起こった。イエスは男の肩に手を置いて言った。「ありがとう。あなたはいま神を見、神の言葉を聞いた。真実の道を発見したのだ」「主よ、お許し下さいますか」「私が許すのではない。あなたはすでに永遠の昔から許されている」 男の歓喜の叫びが丘にこだました。 あとは堰を切った大河の流れようなものだった。イエスの前に次々とパンや干肉や葡萄酒が差し出されてきた。 はじめ、一人ひとりに言葉をかけ、夕日に向かって感謝を捧げていたイエスは、次々と押し寄せる人々の波で、その祈りを中断した。「あなた方の気持ちはよくわかった。この祝福は誰でもが行なうことができる。ここは弟子たちにまかせ、私は後の人たちに、同じ道を説いてこようと思う」 群衆は道を開けた。 後の集団に対しては、もっと説明が簡単だった。前方から感動の嵐が、すばらしい速さで伝播していたからである。「与えよ、さらば与えられん!」 「みんな兄弟だ!」 イエスの教訓を叫ぶ声が、方々でこだました。数千の人々の心から、自我欲がふきとんだ。数千の人々が神の愛を実感した。 みんなが十分に食べることができた。感動があまりにも強く、肉体の欲求も最小限に抑えられていたので、皆、少量でも満たされた気持ちになっていた。 パンは残った。そのパンの篭を数えると十二あった。 飛鳥守引用終了-------------------------- ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 3, 2011
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4月1日のブログ「質問にお答えして」にウサギさんからコメントにこのブログでお答えします。>私の今の理解力では分からないところもあった ヒカリズムは、基本的な考えがこれまでの考えと全く違います。理解力のせいではなく、今の思考の延長線上にないので、わかりにくいのです。 これまでの基本観念には絶対的な正しさがあるというような思い込みがあります。絶対ということはあり得ないのに、「こちらが絶対に正しい」と思うので争いになるのです。>ずっとエスカレーターに乗ってたけどたまには階段も使いたいみたいな感じて生まれ変わってくる場合もあるのかな。 あの世では、魂としての自分の目的を思い出しているので、挑戦しようと思うのです。引用開始--------------------------「あなた方人間は、真の勇者です」と光の存在は言った。「地球に向かうのは皆、勇気ある者たちなのです。ほかの霊的存在には、とてもやる勇気のないことを、あなたたちはやってのけているのですから。あなたたちは、神とともに創造するために、地球へ向かっているのです」「未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳◇株式会社同朋舎(P68)未来からの生還臨死体験者が見た重大事件【中古】afb価格:1,250円(税込、送料別)引用終了-------------------------->まだ成長したいのに亡くなってしまった方々は何のために生まれてきたのでしょうか?>亡くなられた方々本人はまだ生きたかった人がほとんどだったと思います。 私たちは、肉体と精神と魂の三位一体の存在です。『ラクな方がいい』というのは、肉体の思いで「まだ生きたかった」というのも、肉体の意志です。 亡くなったのは、魂としての今生の課題をクリアしたか、そういう計画だったからです。引用開始--------------------------「どうしてこんなに幼くてかわいい子供たちが死ななくてはならないの?」と聞く人がありますが、答えは至って簡単です。それは彼らは学ぶべきことをごく短期間に身につけたからです。エリザベス・キューブラー・ロス著「死後の真実」日本教文社刊【送料無料】死後の真実価格:1,500円(税込、送料別) 彼(スティーヴ・ローガン)は若いころ父を極端に毛嫌いしており、父の病が重いというのにめったにマイアミの老人ホームを訪問してやらなかった。だがあるとき、何となく父のことが気になって父を訪ねていった。老人ホームに着くと、父は重体で各種の生命維持装置につながれていた。まくらもとに立ったスティーヴが見たのは、人工呼吸装置のチューブが外れて息ができず苦しんでいる父の姿だった。この状況に置かれて、スティーヴはジレンマにおちいった。命を助けるために看護婦を呼ぶこともできるが、見て見ぬふりをして父を死なせることもできる。一瞬思案したが、彼は大声で看護婦を呼びながら部屋をとびだし、看護婦は無事チューブをもとの位置にもどしたのだった。何年かのち29歳になったスティーブは、オレゴン州の小さな町で、自転車に乗っていて、ひどい事故にあった。横からトラックにはねられたのだが、好運にも大腿骨骨折はまぬがれた。 彼は40歳のはじめに超意識に連れられていって初めて、これらの二つの出来事が自分の中間世で計画されたものだと知った。彼はこう報告している。「父の生死を決めたあの事件は、あきらかに私が自分で計画した重要な試練で、その事は私のカルマの台本にはっきりと書かれていました。もし私に対して父が犯した罪---何回もの人生にわたるものらしい---を許してやれたら、私は自転車事故で死なずにすむ事になっていたのです。計画では、私の過去の行為のために、父を死なせようとする事になっていました。でも私はテストにパスし、事故の後、その計画は終了したのです。来世にわたる未完成の計画が繰り上げられて今生で起こった事がわかりました」J・L・ホイットン、他著 片桐すみ子訳『輪廻転生』人文書院(P69~P70)【送料無料】輪廻転生価格:1,890円(税込、送料別)「人間はこの3次元の世界にいつやって来て、いつそこを離れるのか自分で選ぶのだ。こちらの世界へ送られてきた目的を達成した時、我々は自分でそれを知る。自分の時間が終わったのを知り、死を受け入れるのだ。これ以上この人生では何も得ることができないと知るからだ」ブライアン・L・ワイス著 山川紘矢・亜希子訳 「前世療法」(PHP研究所刊)【送料無料】前世療法価格:590円(税込、送料別)引用終了-------------------------- 死ぬタイミングは、必ず何らかの形で自分で同意したときなのです。 生まれ変わりについては、いくつもの状況証拠で証明されています。ご紹介した本などを読んでみてください。さんたのはっぴーわーるどの本棚でもいろいろ紹介しています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 2, 2011
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3月28日のブログ「東北関東大震災報道によるPTSD問題」に対する質問に対する4月1日のブログ「質問にお答えして」にはるさんからコメントをいただきました。ありがとうございました。このブログでお答えします。はるさん>おはうございます。>はると申します。>私も質問させていただきたいのですが。>私は本当にやりたいことや、生きる目的がよくわかりません。>私はコミュニケーションが苦手で、相手の反応ばかり気にしてしまいます。カウンセリングを受けたりして、もっと楽にコミュニケーションを取りたい思ってもいつも相手の期待に応えようとして自分を偽ることばかり。本当の私は無理に他の人と仲良くしたいと思ってないのかな…自分に無理をしているのかなとも思ったりさます。>本当に自分のしたいことはどうしたら感じることができるのでしょうか?>まとまりがなくなってしまいましたが、お答えしていただけたら嬉しいです。 まず、自分の本当にやりたいことがわからないということと、相手の反応ばかり気にしてしまう、相手の期待に応えようとして自分を偽ってしまう、ということは、同じことが原因です。 それは共依存という言葉で知られる状態です。共依存は人間関係依存と言われていますが、ヒカリズム的にみると、あるがままの自分に対する肯定感が不足した状態なのです。 どんな出来事も状況も本質的に意味を持っているものはありません。意味というものは、目的に対して相対的に生じます。正しさというものも意味のひとつですから、正しさは、目的に対して決まってきます。 私たちは、親から躾(しつけ)をされて育ちますが、しつけとは、正しさを学ぶことです。その正しさは、社会の構成員になるために、社会の維持という目的に適う正しさなのです。社会の正しさには、社会で勝ち抜いていくために必要な能力を持つことも含まれます。 しつけの段階で、そのような能力から外れていると叱られ、認めてもらえません。子供にとって親は絶対の神のような存在ですから、親からダメ出しされたことは、自分の絶対的な欠点だと思い込むようになり、親から「こうあるべきだ」と言われたことは、絶対の正しさとして自分を縛るようになります。 そのような正しさは、心理学的には偽りの自分といい、それに対し、あるがままの自分が本当の自分です。 コミュニケーションが苦手、他の人と仲良くしたくない、と感じるのは、過去に何度も体験した「自分の存在を否定される」ことを怖れているからです。 本当にやりたいことがわからないのは、幼いときにあるがままの自分のまま振舞ったときに、「こうあるべきだ」と親から否定されることを繰り替えすことで、だんだんと本当の自分、本当の自分の思いを抑え込んでしまい、相手が期待することを推測して、相手に応えるようになる癖がついたのです。それは、社会的に順応しているという意味では正常な反応ですが、本当の自分を生きる、本当の幸せを生きるという意味では、目的に沿わない癖がついたといえます。 人間の成長は、あるがままの自分 → 社会に対応する自分 → 社会に適応しつつ、本当の自分を生きるのようになることなのです。 さて、問題の否定されるのを怖れるのは、相手が否定するからではなく、無意識のうちに親から刷り込まれた「こうあるべき(正しさ)」を未だに無批判に信じ込んでいるからです。つまり、他人の批判に傷つくのは、自分がその意見に潜在的に賛成しているからなのです。 本当の自分のしたいことに気づくためには、今の相手に期待される仮面をかぶった偽りの自分から、あるがままの本当の自分に戻ることが必要です。あるがままの自分でいていいんだと信じられるとき、本当の自分がしたいことが自然に沸きあがってくるようになってきます。 ですから、自分の信じている「こうあるべき(絶対視された正しさ)」を絶対ではないと気づくことです。 そして、自分の中の正しさをひとつひとつ吟味して、自分がいらないと思うものは手放していき、自分も納得するものは、絶対ではないとわかった上で、取り入れることです。 詳しくは、私のブログやサイト(さんたのはっぴーわーるど)、メルマガを参考にしてください。 ネットで、共依存やアサーティブ、防衛機制を検索して調べることも役に立ちます。 また、根本 橘夫 著 「人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学」 (文春新書) がお薦めです。【送料無料】人と接するのがつらい価格:714円(税込、送料別) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 2, 2011
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3月28日のブログ「東北関東大震災報道によるPTSD問題」にウサギさんからコメントをいただきました。ありがとうございました。このブログでお答えします。ウサギさん>捉えようによっては「死んだ方が幸せになれる」って言われてるような気になります。>もちろんそんなことはないと思うのですが。>差し支えなければこんな私たちの考えを改めさせてくれる返答をお願いします。 確かにそのように感じられる方もいらっしゃるでしょうね。 こんなたとえ話でご説明しましょう。 Aさんは、エスカレーターがあるビルで、階段を昇っている人を見かけ、不思議に思って「なぜラクなエスカレーターを使わないのですか?」と訊ねました。するとその人は「健康のためにできるだけ自分の身体を使うようにしているんです」と答えました。 そう言われて初めてAさんは『その人にとってはエスカレーターより階段の方が良いのだ』『良いこと、正しいことは人によって違うのだ』ということを納得したのです。 実はAさんは『誰にとってもラクな方が良いに決まっている』と思い込んでいたのですね。それが思い込み、固定観念です。 ヒカリズムでは、論理的に思索をすることで「意味や正しさや価値というものは、目的によって初めて生じるものであり、その人が持つ目的によって相対的に決まってくるものだ」ということを明確にしています。 さて、ウサギさんは>捉えようによっては「死んだ方が幸せになれる」って言われてるような気になります。とコメントをくださいましたが、何が幸せかも人によって違いますよね。ですから、あの世に居続けることが幸せだとは限りません。臨死体験をした人はあの世を体験した後にまたこの世に戻ってきたわけですが、実際に、自殺してあの世に戻ろうと思う人はいません。むしろ、死を恐れず自分らしく生きがいを持って生きるようになるのです。本当の自分を生きている人は生きがいを感じるので、死にたいとは思いません。 それはなぜでしょう。生まれ変わりの考えによれば、この世に戻ってくるのもためらわれるほど素晴らしいあの世から、苦しいこの世に生まれてくるわけが説明されています。 魂(意識)としての私たちは、体験を通して、私たちの本来の姿である無条件の愛に戻るという目的のために、あえて毎回今生達成したい課題を決めてこの世に生まれてきているのです。無条件の愛とは、無条件の受容であり、幸せそのものなのです。 それに今生達成できなかった課題は、いずれにせよ、いつかこの世に再び生まれてきて達成しなければならないのです。 葛藤することの無いあの世で霊的に成長するのはとても難しいからです。引用開始-------------------------- 人が人生で直面するありとあらゆる困難、試練、苦難、悪夢、喪失などを、多くの人はいまだに呪いだとか神の下した罰だとか、何か否定的なものと考えています。でも、ほんとうは自分の身に起こることで否定的なことはひとつもありません。どうしてみんなはそれに気がつかないのでしょう。あなたが経験する試練、苦難、喪失など、あなたが「もしこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生きる気になれなかっただろう」と言うようなことはすべて、あなたへの贈り物なのです。すべての苦難は、あなたにあたえられた成長のための機会です。成長こそ、地球というこの惑星に生きることの唯一の目的です。あなたが美しい庭にすわっているだけで、銀の皿にのった豪華な食事を誰かが運んできてくれるのだとしたら、あなたは成長しないでしょう。でも、もし病気だったり、どこかが痛かったり、喪失を体験したときに、それに立ち向かえば、あなたはかならず成長するでしょう。痛みを、呪いとか罰としてではなく、とても特別な目的をもった贈り物として受け入れることが大切です。『「死ぬ瞬間」と臨死体験』読売新聞社刊からみなさんはこの地上での人生を振り返る際、自分の運命を神のせいにしたりはしません。むしろ、自分自身を成長させるためのたくさんの機会を見過ごしてきたことで自分を責め、自分自身が最強の敵であったことに気づくでしょう。何年も昔に家が全焼したことや、子供が死んだこと、あるいはご主人がけがをしたこと、自分自身が心臓発作で苦しんだことなど、致命的なショックのすべては、単に自分自身を成長させる可能性の一つに過ぎなかったのです。理解すること、愛することなど、私たちがまだまだ学ばなくてならないことで成長するためです。エリザベス・キューブラー・ロス著「死後の真実」日本教文社刊から引用終了-------------------------- 大切なのは、広い意味の共依存から脱して、本当の自分を生きることなのです。(広い意味での共依存とは、簡単に言えば、自分の思いよりも他人の期待に応えようとしてしまうことです)引用開始--------------------------人生は短いのですから、結局のところは、自分が本当にやりたいことをやったらいいのです。<中略> やりたいことだけをやる、というのは本当にたいせつです。そんなことをしたら貧乏になってしまうかもしれない、車を手放すことになるかもしれない。狭い家に引っ越さなくてはならないかもしれない。 でもその代わり、全身全霊で生きることができるのです。世を去るときが近づいたとき、自分の人生を祝福することができるでしょう。人生の目的を達成したのですから。そうでないと、娼婦のような人生を送るはめになります。つまり、なにかある理由のために生きる、ほかの人のご機嫌をとるために生きるはめになります。それでは生きたことになりません。したがって、こころよい死を迎えることはできないでしょう。(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』読売新聞社刊P84)引用終了-------------------------- 自分の夢、目標の達成を目指して、今ここを精一杯生きること。自分を100%生きること。そのとき、今ここは充実し、幸せなものになります。それが、このブログのタイトルにもなっているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 1, 2011
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