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悉有仏性(しつうぶっしょう)の解釈について、どんな人にも仏になる可能性がある、というものとどんな人もそのままで仏である、というものがあります。 どちらの解釈が正しいのでしょうか?それとも別の解釈があるのでしょうか? ひとつの意味として、仏とは、ブッダであり、苦しみを超えた境地を体験した人だと言えます。その意味では、凡夫は未だに苦しみに振り回されているのですから、それでは仏でないわけで、「すべての人に仏になる可能性がある」という解釈が正しいことになるでしょう。 でも、私は苦しみを超える境地に至る過程で、自分の中の「こうあるべき」という観念を手放し続けていたとき、怒りを感じている自分(の意識)とそれを穏やかに見つめるもう一人の自分(の意識)が同時に存在する体験をしたことがあります。 機能不全家族の中で共依存となるという共依存の概念から考えると、怒りや悲しみの感情に振り回される自分というのは、心理学的に言う「他者の期待に応えようとする偽りの自分」だという解釈もできます。 その偽りの自分というのは、単に他者から刷り込まれた「こうあるべき(という正しさ)」によって生じている仮の性質に過ぎないのです。 つまり私の本質はいつも存在しているのに、その偽りの自分のせいで、気づかれずにいるのです。 それはちょうどいつも丸い月であるのに、光の加減で三日月であったり半月であったりするようなものです。 どんなときも完璧な円であるのに、三日月という偽りの自分を自分であると思うから、苦しみを超えた完璧な円の自分に気がつかないのです。 そのような怒りの中でも穏やかな意識を体験した今の私には、「どんな人もそのままで仏である」という解釈も正しいということがわかります。 それは、たとえば「2が4つでいくつになる?」という問いに、2×4=8 という答え方をしたら、足し算しかわからない人にはそのことが理解できないのと同じなのです。 『自分はダメな人間だ』と自信を失っている人もいます。自信とは自分を信じることですが、誰もが仏になる可能性を秘めているのだし、誰もがそのままで仏ですらあるのです。 どの本に載っていたか覚えていないのですが、(ご存知の方がいらっしゃったら、教えてください)前世療法などで知られた退行催眠でわかったこんな話があります。 弁護士だか何かで成功し、名士になった男がパーティーを開いていると、そこにかつての友人が落ちぶれてみすぼらしい姿で現れました。こんな男が友人だと知られるのを恥じた男は友人を早々に追い払います。 ところが後に退行催眠を行ったとき、ソウルメイトであったその友人となって生まれている魂との約束を思い出したのです。今生で落ちぶれた友人に生まれた魂は、既に物質世界での修行を終えて、生まれ変わる必要がないのに、ソウルメイトである今生で名士の男として生まれた魂が、やさしさや思いやりを学ぶのに協力するために、苦しい人生を送るのを承知の上で敢えて落ちぶれる運命を持った友人として生まれ変わっていたのです。 そのような状況があることを知ると、この落ちぶれた友人の男を物質世界の価値観で、一概に「ダメな男だ」と判断できないことがわかります。 だからこそ、どんな状況もあるがままに受け容れることが大切なのです。(あるがままに受け容れるということは、何もしないこととは違います。受け入れまいと抵抗するのを止めて受け入れた上で、自分がしたいことをするということです) この例のような極端な状況は少ないと思いますが、すべての人は、その人間関係の中で相手の人に成長の機会を与えているのです。それは、生まれ変わりの考えに関わらず、人間的に成長したいと願い、そのような目的を持てば、相手から受けるやさしさは、自分がまねをすべき機会であるし、ひどい仕打ちを受けたときは、それにどう対応をすべきか問われる機会であり、反面教師とすべき機会だということになります。 そのような見方を持つと、すべての人は、自分に成長の機会を与えてくれている慈悲の心を持った仏として見えてくるのです。 そういう意味でも、すべての人はそのままで仏だといえるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Oct 2, 2011
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仏教の理解で気になるのは、「中道」の概念です。 中道を、「何事も両極端はいけない、ほどほどがよい」と理解している人が多いようです。しかし、釈尊の考え、行動に照らして考えると、その理解は間違っているとわかるはずです。 もし、中道がそのような意味であるなら、釈尊は「お酒は、ほとほどなら飲んでもよい」というはずですが、お酒も殺生も妻帯もきっぱり禁じていますよね。 「中」の字は、弓矢の的のど真ん中に矢が刺さったところです。中の字は、「あたり」とも読みます。ほどほどではなく、自分の目的にピッタリと適っていることが中道なのです。あれが正しい、これが正しいという他の人の意見に振り回され、その間をとるのではなく、自分の目的に論理的に適っていると自分が判断した道を進むのが中道なのです。以下のサイトに正しいと思われる理解が載っています。http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081031スマナサーラ長老(http://www.j-theravada.net/5-chourou.html)の新刊『ライバルのいない世界』(国書刊行会)からの引用です。引用開始仏教の「道」 世の中の生き方がまちがっているからこそ、お釈迦さまが「道」というものを教えたのですね。人間の「道」というものはなんなのかと。それは「中道」と呼ばれている道なのです。 突然、「中道」と申しあげても、どういう意味かわかりにくいのですが、「中道」はことばを換えれば「超越道」「疑問や疑いなどがない道」「智慧の道」でもよいと思います。 「中」はパーリ語のマッジャ(majjha)です。あらゆる固定観念、偏見、主観、主義などにふりまわされないで、客観的にものごとを観察して、至るべき結論に達する道として理解できます。 あいまいでない生き方を選ぶ方法です。引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Oct 1, 2011
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