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ほとんどの観客はリズムに合わせて手拍子をしたり、リフレインのたびに人差し指を突き上げたりしている。興奮しているように見える客は、本当に興奮しているようにはオレには見えない。周囲につられて立ち上がり、右に習えで踊ってる。取り残されたくない一心だ。手拍子のリズムが最低だ。挙げる手がくにゃくにゃ折れ曲がっている。戸惑いがちだ。どちらかというとステージよりむ自分自身に陶酔している女が、声高に「布袋」と叫んでいる。顕かに浮いているが、誰もいぶかしげな顔を女に向けていない。アリーナは規則正しく同じところで全員が手を挙げたりするから全体がひとかたまりの生き物のようにも見える。オレには盆踊りにしか見えない。全ての客は演奏者に媚びている。演奏者が機嫌を悪くして帰ってしまわないように、熱狂を伝えつづけている。チケットの対価としてサービスを受けるためにわざわざやって来たオレは、他の客につられて踊ったりはしない。ハードな演奏や美しい照明が織り成すステージにつられて自動的に身体が揺れ始めるまで待っている。コストと等価以上のサービスを受けたと実感したときに、強く歪んだギターリフに興奮し、めまぐるしく鮮やかな照明に翻弄されてトランスし、意識とは無関係に身体は揺れ出すだろう。開始から立て続けに演奏された数曲は全て知らない曲だった。「失敗や挫折や、これまでいろんなことがありましたけれども、やっとこのアルバムにたどり着いたって感じ?えー色々あったけど、最近ホテイ最近丸くなったんじゃねえの?っていわれちゃったりよくするんだけれども、丸くなったっていいじゃない!?」といった内容のMCの後、「GLORIOUS DAYS」の演奏が始まった。この曲は布袋がソロになって初めて出した「GUITARHYTHM」というアルバムの中に収められていて、オレもCDを持っている。買ったのは高校生のころだから、かれこれ15年も前に書かれた曲なのに、全く色あせていないように感じる。2つぐらい隣の席には親子連れがいる。娘は中学生ぐらいでまだ幼さが残っている。母親は40を超えたぐらいの身なりや顔つきをしていて上品そうだった。どちらかというと母親の方がもとからの布袋ファンで、娘は母親の影響で布袋を好きになってしまった、というような印象をその親子から受けた。オレが高校生のころに撒き散らしていた精液がヒットしてもし子どもが生まれていたら、オレにも中学生の娘がいることになる。確かに昔よりは角がとれて丸くはなったと思うし、生きるためのスキルを身に付けてきたことででっぷりと肥えてしまってはいるが、信条や理念をつかさどる土台となる部分は高校生ぐらいからまるで変わっていない。記憶は連続しているから、高校生だった昔のことも割と鮮明に思い出せる。「GLORIOUS DAYS」のようにオレの記憶はまるで色あせていないし、信条も精神構造も古ぼけてはいないはずだ。しかしそこには、赤ん坊が中学生になるほどの時間の流れがある。この15年、充実していたような気もするし、無駄に時間を浪費していただけだったような気もする。子どもが子どもの親になって過ごす15年もアリだったかな、とアタマの中で過去を造り替えて苦笑いする。隣の親子連れを見てふとそんなことを思った。次に演奏された2枚目のアルバム「GUITARHYTHMⅡ」の中の「さよならアンディーウォーホル」は布袋の曲の中でも特に好きな曲だ。何がいいかというと森雪之丞作による歌詞が独特の世界観をかもし出しているし、You gotta run found a new time a tide (?)のところがめちゃめちゃかっこいいし気持ちいい。ここでは演奏されなかったが「MERRY-GO-ROUND」も同じ理由で好きな曲の一つ。「さらば青春の光」では大合唱が起こり、「ロシアンルーレット」では今日一番の盛り上がりを記録した。フルインストのギターソロでライブは終わってしまった。この静かな終わり方はアリなのか、とも思ったが、結果としてとても充実した時間を過ごすことができた。布袋の新しいCDを買おうとは思わないが、ライブならあと何度か行ってもいい。
2003.10.31
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球場のコンサートに慣れていたせいか武道館は狭く感じる。アリーナ、1階、2階の中の2階席それもステージを斜めから仰ぐかなり端のほうの席だったにもかかわらず、ステージの動きがよく見える。「ドーベルマンツアー2003」というようなアナウンスが流れるとライブ会場と化した武道館には期待の歓声がこだましている。まだ照明が落とされていないにもかかわらず、アリーナ中央の客から立ち上がり、連鎖するようにして1階、2階の客も徐々に立ち上がっていった。天井には日の丸が掲げられている。オレはまだ座ったままだ。ファンファーレが終わると幕が開き、大音量の演奏が始まった。強いディストーションのかかった速いテンポのギターリフにあわせて、ステージは赤や黄色や緑に彩られる。バスドラムの重低音と、歪んだギターの音にあわせて、たいまつが燃え上がる。アリーナはたいまつの炎と同じタイミングで波うつ。ほとんどの客がこぶしをつきあげている。前の客が立ち上がり視界をふさがれたため、仕方なく立ち上がった。腕組みをしたまま静かに、ステージを見下ろす。幕の裏側には半透明のスクリーンがあり、前後のライトに照らされて布袋の姿が現われた。特殊技術のスクリーンかもしれないと思ったのは、布袋の姿が拡大されて、大写しになっているような気がしたからだった。やがて半透明のスクリーンも開き、ステージの色が鮮明になった。マイクスタンドに近寄るため前列に出てきた布袋を見たオレは驚いた。でかい。スクリーンに透過していたのは照明で拡大されたシルエットではなく、実物の布袋だったのだ。両サイドのプレイヤーと比較して見ても、布袋だけあきらかに倍率が違っている。ベーシスト・松井の顔は全く認識できいが、布袋はその表情さえ伝わってくるほどだ。布袋、でかい。でかすぎ。大笑いしてしまった。しかし笑い声はすぐに、大音量と歓声にかき消された。黒い革のロングコートの裾を翻している。前面に4台ぐらいの扇風機があってそれでコートに風を送っている。両手を広げ上体だけ揺らしたり、片膝だけ高く上げてリズムをとったりする独特の動作しながら、コートというよりもマントに近いその裾を扇風機の風により翻している。ギターは激しく歪んでいて、機械のように正確なリズムでリフが刻まれている。照明は鮮やかにステージを彩っている。大音量のライブ会場は、刺激や陶酔や興奮や、快楽のためのあらゆる要素を包括している。初めて聴く曲ばかりだったが、オレは腕組みしながら、静かにトランスしかかっている。やばい、カッコいいかもしれない。~つづく~
2003.10.30
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カタチのあるものに金を使うか、それともカタチのないものに金を使うかという話のカタチのあるものとは、例えば家電やオーディオやパソコンや洋服や家具やクルマなどのハードウェアのことを指す。カタチのないものといえば、食事や交通・宿泊のサービス、書籍や音楽、あるいは能力や技術といったハードウェアにたいしてのソフトウェアなどだ。どちらかというとカタチのあるものにはあまり金をかけない。家電は安くて必要な機能だけ備わっていれば満足で、デザインは多少気にするがブランドには全く興味がない。モノとしてのクルマやオートバイや自転車にも興味がない。パーツを交換して快適さを追求したりワックスをかけて自分よりぴかぴかにしたりしてまるで乗り物を愛してるように接する人間の精神構造がよくわからない。ちゃんと走りさえすればいい。汚れは走りに影響しない。擬人化され、モノが泣いている、自転車がかわいそうだ。などといわれるが、モノに心はない。ただの道具だ。洋服は、デパートなどへ買いに行くのが面倒だ。吊るされた服を見ていると店員が声をかけてくる。小奇麗な格好をした馴れ馴れしい店員だ。こちらはよく出てるタイプですね、面白い柄になってます、さっきよりもちょっと落ち着いた感じに見えますね、こちらなんかいかがですか、いやよく似合いますよ。やかましい。どれも一緒だ。家電や服や家具などを買うときには必ず1点につき30分以上は迷う。まず機能やデザインを確認する。この商品がある生活を想像する。コストは利便性と等価かどうか。しかし最も時間をかけて悩むのは、この商品を本当に買うかどうするかという点だ。居酒屋で5千円使うのはなんとも思わないが、5千円の服は高い気がする。1万あれば缶ビール50本は買える。2万あれば女を連れて食事ができる。3万あれば旅行に行けるかもしれない。どう考えても、カタチのあるモノを新しく買うよりも、カタチのないものに金を使ったほうが気持ちよさそうだ。今日は日本武道館で布袋寅泰のライブを観てくる。7千円のチケットはただの紙っぺらだが、熱狂や感動や陶酔といったサービスを受けるための契約書であり、これもカタチのない商品といえる。こどものころボウイを好きでよく聴いていた名残で、ソロになった後も少し気になっていたりした。なんとなくテレビに出ていると見てしまうが、2作目以降のアルバムは買ったことがない。今はそれほど熱狂的な布袋ファンということでもない。最近の布袋はなにか「アニキ」とか「ロックスター」とか呼ばれたがっているように見えて近寄りがたい。新しいアルバムをひっさげてのツアーだそうだが、新しいCDを持っていないオレは会場のノリについていけなさそうだ。ライブビデオに写るファンの姿は、熱狂的というよりもむしろ宗教的だ。しかも男が多く、歓声は非常に低音だ。また取り残されたような気持ちになって帰ってくるかもしれない。
2003.10.29
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女児誘拐連れ去り事件がこのごろ頻発しており、紙面やワイドショーを賑わせている。凶器を使って非力な少女を脅し、圧倒的な力の差でもってクルマに引きずり込み、自宅アパートに監禁し陵辱するといったような卑劣極まりない行為が各地で頻繁に起こっているにもかかわらず、世間の反応は思ったほど大きくない。未遂に終わるなどして発覚するような事件では、捜査員もそれほど動員されないのかもしれない。不審な人物を見た、という目撃証言だけ残り、誰かが逮捕されたという報道を耳にすることなくいつか忘れてしまう。特に根拠はないけれども、表沙汰になっていないケースも多いような気がする。通学路での不審なワゴン車の目撃証言などは昔からよくあったし、被害にあっても泣き寝入りしがちな性質の事件でもある。発覚したケースは全体の標本でしかないはずだ。卑劣な男は今日もどこかで少女を探しているに違いない。不審者は案外、身近なところにいるかもしれない。ロリコンではないし犯罪者に間違われそうだから小学生に声をかけたいとは全く思わないが、大人びた中学生ぐらいだとちょっと自信がない。女子高生はもう大人だが、援助交際が目的だと思われ値踏みされそうで少し恐い。池袋西口の東武メトロポリタンプラザ前の1階のエスカレーター横のフェンスにもたれながら地下ターミナルを見下ろす。半円状の白い噴水設備周辺には待ち合わせのために待機している人の数を数え切れない。オレも待ち合わせのためにここにいて、まさしく噴水の前で人と会う約束をしていたのだが、人ごみの中にまぎれるのが嫌でエスカレーターを昇って水の出ていない噴水を見下ろしながら待ち人を待つことにしたのだった。午後7時、待ち合わせ時刻のラッシュといっていいだろう。華やかに着飾った若い女や、必要以上に足を露出させた派手な女、かばんを持たずにスーツを着ている中高年のサラリーマンや、貧しそうな身なりの小男。全員が一定の距離を保ちながらバラバラの方向を向いて歩いていたり不定期に立ち止まったりしている。半数は女だ。女の90%は必ずケータイを覗き込んでいるか話すかしている。女がここにいる男に関心を示すことは永遠になさそうだ。あとの半数は男だが、男の90%は、着飾った女たちの腰つきや髪の毛などを盗み見ているに違いない。誰にも気付かれないようにだ。街にはこれだけたくさんの女がいるにもかかわらず、男は一人として女に声をかけようとはしていない。着飾った女が放つ色彩や色香は男の目を奪い心をひきつけて止まないのに、奮い立ってアタックしようとする男は皆無だ。ヒットする確率が1%以下である上にヒットしたところで全てが徒労に終わってしまうという非常にリスキーなハンティングが割りに合わないことを知っているからだ。それに女は警戒している。街で無作為に女を誘っている男は詐欺師かスカウトマンしかいない。彼らの真似をすれば、おいしい話がそこら中にころがっていると思っている女は立ち止まってくれるかもしれない。しかしそういったタイプの女の目的は金だ。我々が必要としてるのは、タダでやらせてくれる女だ。女を買う金を今日は持ち合わせていない。消費者同士のニーズは全くかみあわない。女を惹きつける魅力も、女を買う経済力もなにも持たない男が自爆的に追い詰められると、略取や監禁や強姦を企てたくなる。弱い男の標的になるのは、足を露出した威嚇的なファッションの派手な女ではなく、こどもだ。こどもを犯しそうな男が池袋駅メトロポリタンプラザの噴水のあたりだけでいれかわりたちかわり100人はいた。緊急事態だ。
2003.10.28
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いまさらながらだが昨日、「マトリックス・リローデッド」を観た。ツタヤでもビックカメラでも、店頭の一番目立つ場所にリリースされたばかりのDVDパッケージが置かれていた。商品レイアウトによって購買意欲をかきたてられ、買わなければならないような気になっていた。公開当初も、日本国民は必ずこの映画を観ていなければならないというような執拗な宣伝に煽られて、どれだけ映画館に足を運ぼうと思ったかわからない。結局行かなかったがそれは、巨大な宣伝網と影響力を振りかざすメディアの権力に屈することよりも、メディアに踊らされていることに気付かずただひたすら行列を作ることしか出来ないバカな大衆の最後尾に並ぶのがたまらなく嫌だったからだ。巨額の広告料を市場という溶鉱炉に投じてメディアは大衆を燃やし続ける。観客の加熱で精製され、批評で研磨されて、といった工程を経てはじめて映画は製品としての品質を持つようになる。しかし観客の熱狂や新しさや話題性を差し引いて冷静になって見た場合、例えば1年前の流行歌がそうであるように本体は非常につまらないということが多い。自分の判断力だけで物の良し悪しを見極められないから大衆は広告や評判だけを頼りにしていて、その体質から逃れられない。映画館やラーメン屋をとりまいている行列は、恥ずかしげもなく無知をさらけだしている大衆の象徴のようにみえる。観客動員数が頭打ちとなったマトリックスの熱が納まってきたころ、今度は「踊る大捜査線」の宣伝が始まって、マトリックスはわりとどうでもよくなったのだったが、いつかレンタルで見ることにはなるだろうな、とはなんとなく思っていた。日曜に買ったDVDを開封して見始めたのは昨日10月27日、福岡ダイエーホークスが日本シリーズで優勝を決め、その後に行われていたインタビューや表彰式をなんの感動も感慨もなくながめることにも飽きた時刻だった。マトリックスが打ち出す世界観や伝えようとしているメッセージには全く興味はなかったが、純粋にアクション映画として楽しめた。
2003.10.27
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コーヒーミルを買いに行くため、まずヨドバシカメラのwebサイトで、どんな製品があるかリサーチし、それからビックカメラへ行くことにした。ヨドバシの方がwebサイトにおける製品のラインナップが充実していたし池袋にはビックカメラしかないから、電化製品を買うときには必ずそういった変則的な手順になってしまう。「コーヒーグラインダー」のタイトルをクリックしたが、トップページには「ミル付コーヒーメーカーが載っていたから、家にはコーヒーメーカーがすでにあったにもかかわらず、「ミル付コーヒーメーカー」をクリックしてしまった。昨今はコーヒーメーカーもだいぶ多機能化しているらしく、マイコン制御の全自動で「こいめ」か「ふつう」かを選べる機種もあったし、「沸騰したお湯で瞬間的にドリップ」など書かれていて、どんな効果があるのか予想つかなかったが、なんとなくおいしそうなコーヒーが飲めるかもしれない気持ちになってきて、ミルだけ買うか、ミル付コーヒーメーカーに買い替えるか、かなり悩んだ。悩みはしたものの、今家にある古いコーヒーメーカーを廃棄する手間のことを考えると非常に面倒だろうという結論に達し、ミル単独で買うことに決定した。時計付扇風機とか、ツインファミコンとか、2つ以上の機能が複合していて今風にいうとハイブリッドな製品を非常に好む反面、テレビデオの、ビデオではなくテレビのほうが先に壊れてしまった苦い経験を持つオレは、一つの機能に特化したシンプルな製品をも好むという二面性を持っている。例えば最近の例でいうと、「CDラジカセ」や「DVDコンポ」などは嫌いで、「CDプレイヤー」、「DVDプレイヤー」として買うほうが好きだ。ケータイとデジカメが一緒になっている必然性はまるでないとも思っている。逆に「加湿機能付セラミックヒーター」とか、「ラジオ付懐中電灯」などにはものすごく心ひかれる。コーヒーミルは単独で買うことにしたのだったが、この場合ミル付コーヒーメーカーのほうにどちらかというと気持ちが傾いていた。しかし廃棄する必要の無い製品を廃棄したくはないので、ミルだけ買うことに決めたのだ。電動ミルはどれも必要以上に大きく、デザインが最悪だった。コーヒー豆を挽く部分に対して、電動モーターを擁しその部分を隠すためと、駆動時に安定させるための台座の部分が大きすぎて美しくなかった。いつくかの製品を見たがどれも同じデザインだった。そこでオレは電動ミルをやめて手動を探すことにした。手動ミルは家電量販店では売られておらず、オレはビックカメラから東急ハンズへと場所を移動した。東急ハンズには、鋳造による業務用の重いグラインダーから、アンティークなカタチをした木工による家庭用ミルにいたるまで、手動だけで20以上の製品が並んでいた。ビックカメラに置いてあったのは、電動ミル3製品だけだった。ビックカメラはコストを出来る限り切り詰めて、それをユーザーに還元している。だから売れないものはすぐに撤去される。かたや東急ハンズはというと、絶対に値引きをしないかわりに、あらゆる製品が置かれていて、比較的客の要求に出来る限り応えるというサービスが充実している。そのため全く売れない製品でも店頭に置いておかなければならないのだろう、オレが30分かけて悩んだ挙句手にとったアンティーク調のミルの箱には、薄く埃がかぶっていた。ミルを買って東急ハンズから帰宅する途中、ドトールに立ち寄ってコーヒー豆を買った。銘柄は、レギュラーブレンドである。先日買っておいたスタバと、ドトール、どっちが美味いか明日、戦わせてみることにした。オレの舌は公正を規しているが、どちらかというとドトールを応援している。果たしてこのコーヒー対決、どちらに軍配があがるのか、明日のお楽しみである。というのもこの日はすでに午後5時をまわっていて、コーヒーではなくビールを飲む時間だったのだ。さて翌朝。コーヒーを飲むためにフィルターと粉と水をセットする前に今度は、手動でコーヒーを挽くという作業がオレに課せられた。朝これは辛い。よくよく考えてみるとなぜ今までミルを買わずにいたかというと、朝に豆を挽いてまでコーヒーを飲むのが面倒だったからだ。コーヒーを飲むのは朝だけだ。昼以降はビールだからだ。しかしおいしいコーヒーを飲みたい。おいしいコーヒーを飲むためには手間がかかる。香りを出すには淹れる直前に豆を挽かなければならない。人をリラックスに導く成分であるアロマを損なわないようにするためには電動ミルではなく手動でなければならない。先行はドトール、マイルドブレンド。アンティーク調ミル上部の受け皿にコーヒー豆を落とす。カラカラカランというような聞きなれない音がする。どれだけ挽いたらいいのかよくわからない。挽かれて粉になった豆の荒さを見ながら荒さを調節した。目指すは「中挽き」。キッチンにはコーヒーの香りが充満している。粉がトレイ一杯になった。おそらくこれが40g。5杯分。そうマニュアルに書いてあった。古いコーヒーメーカーが挽きたての豆を落とす時間、5分。タバコを取り出す。キッチンにはコーヒーのいい香りが充満している。タバコに火を付け、その煙も同時に立ちこめる。スタバいわく、タバコはコーヒーの香りを損なうというが、コーヒーの香りを嗅ぐとタバコを吸いたくなる。コーヒーとタバコ、あるいは酒とタバコ。この2つの香りは混ざり合わなければ本当のリラックスや高揚はないし、複雑な臭いが混ざり合う場所で我々は快楽を享受してきたからこそ、その臭いの記憶を呼び起こすことで気持ちよくなれる。5杯分のポットになみなみと溜まった黒い液体を小さなカップに注ぎ飲んだ。あれ、ドトール薄い?
2003.10.26
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地下鉄日本橋駅と京橋駅のちょうど中間地点にブリジストン美術館があって、その隣りの八重洲ビルディングという古いビルのテナントの一つが客先のオフィスだ。中央通りと八重洲通りの交差店に八重洲地下街への入口があり、地下街には飲食店が建ち並んでいて、我々のランチはその中から選ばれることが多い。牛タンの「ねぎし」や豚カツの「和幸」をはじめとし、中華、うどん・そば、寿司、ラーメンと、味の程度はともかくとしてバリエーションに富んだラインナップになっている。この「八重洲地下街」は省略して「ヤエチカ」と呼ばれていて、オレが最初にそう呼びはじめた。この付近には女子高生のような人種は全くおらず、逆に銀行員とか証券マンとか、日本橋三越だとか高島屋あたりに買い物にくるようなブルジョアな女性たちによって人の群れが形成されていて、街一体が上品にコーティングされいるから、誰も女子高生のように、地名や建物の名前を省略して呼んだりはしない。そのことにいち早く気づいたオレは「八重洲地下街」を「ヤエチカ」と呼ぶことに決めた。当初こそ周囲の戸惑いはあったものの、今ではすっかり「昼メシどうする?面倒だからヤエチカにしようか」というように短縮形が定着している。この呼び方は今後、流行するかもしれない。その八重地下ランチのときに困るのが、食後にコーヒーを飲む場所だ。八重地下にはマクドナルドとスターバックスしかなく、マックのコーヒーは非常にまずいことで有名であり、スタバでタバコは吸えない。喫煙者にとって食後コーヒーを飲みながら、タバコを吸えない状況というのは拷問に等しいから、オレは仕方なくマックのまずいコーヒーを選ぶ。喫煙者はまず間違いなくオレに追従する。タバコを吸わなくてもいい人間は当然のごとくスタバの落ち着いたムードたっぷりの店内に入って、優雅にこだわりのコーヒーを飲んでいることだろう。マックはコーヒーショップではないから、食事をするための客や、子どもを連れた母親2人組なども当然いて、禁煙スペースは一応設定されてはいるものの、店内には煙が充満していてほとんど機能していない。カウンターで3人ぐらい横並びになって、まずいマックのコーヒーを「まずいね」といいながら飲み、タバコを3本か4本ぐらい吸って店を出る。マックが満席なのに対して向かいのスタバには空席がかなり目立つ。タバコを吸わなければ生きてゆかれない体質な自分を呪いつつ、喫煙者を迫害するシステムの代表格であるスタバにも苛立つ。オレはまだスタバのコーヒーを飲んだことがない。それは全席禁煙を売りにしているコーヒーショップへの反発だ。しかし美味いコーヒーを出すと評判のスタバのコーヒーの味が気になっていることも確かだ。mimiと行った水色の看板が示す建物にオレはライターを忘れてしまっていた。オレの誕生日プレゼントとしてmimiからは携帯灰皿を貰った。灰皿貰った替わりにライターなくしちゃったよ、というメールをmimiに送ってしばらくすると、「今さっきのとこ電話したら、ライターあったって。とっておいてもらうように言っといたから、後でとりにいきな」という返事が返ってきた。金属アレルギーだから鉄製のジッポーは使えず、革コーティングの特製ジッポーを大切にオレは使っていたのだった。機転を利かせて早急に電話してくれたmimiに感謝したオレは翌日少し後ろめたい気持ちでライターを引き取りに行った。その近くにスタバを発見した。屋外に設置された2つのテーブルのうち一つは、ぬいぐるみのようなプードルを連れた女2人組が座っていたが、残る一つの席は空いていた。灰皿も設置されていた。スターバックスコーヒーを初めて飲むチャンスかもしれないと思い、ついさっき取り戻したライターとマイルドセブンスーパーライトをその屋外テラスのテーブルに置き、席を確保した。店内に入った。生まれて初めてのスターバックスである。もっともオレが生まれたころスターバックスはない。実は以前からインターネットなどで、スタバコーヒーの種類をリサーチはしていた。酸味の強いコーヒーが好きだから、そういったタイプの豆の名前も調べて覚えていた。ところが店内のメニューでは、豆の銘柄は選ばせてもらえなかった。仕方なくオレが注文したのは、「本日のコーヒー」。本日のコーヒーがどんな銘柄で、どんな特徴があるのかといった説明は一切なかった。紙コップを塞ぐプラスティックの白いキャップに空いた穴から飲むものだと聞いていたから、その通りにしたら口腔に入るコーヒーの量をうまくコントロールできず上あごを少し火傷してしまって、薄皮が1枚ぺろんとはがれて、その時点でもう帰ろうかと思ったが、プラケースを外して飲むことにした。コーヒーは、香りも同時に楽しむべきだ。悪くない。スタバコーヒーにオレが抱いた感想は、「悪くない」。特に、残量が少なくなって液体の温度が下がったとき、コーヒーとしての味や香りがあまり損なわれず、苦味や酸味が急に増すということがないところが、評価のポイントだった。不本意ながら、スタバコーヒーをオレは気に入ってしまったのだった。スタバのコーヒーをオレの生活に摂り込むためには、店頭ではなく自宅でなければならない。禁煙をうたう店では落ち着けないし、不愉快になるだけだからだ。嫌煙活動家は、動物愛護団体と同じような貧乏な弱者の臭いがする。隣でタバコを吸っている人間には何もいわず、全て体制が悪いことにしてしまうのが彼らの特徴だ。「お挽きしますか?」いや、いいです。「今日のコーヒー」の銘柄だけ聞き、同じ銘柄の豆を買いスタバを後にした。家には挽き機がない。
2003.10.25
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日本シリーズでダイエーと阪神のどっちが勝つかとか、ワールドシリーズの松井がいかに活躍するかとかそういったことで今世間は盛り上がっているが、仕事仲間や友人など周囲の誰も野球の話題を口にする人間はいないから、テレビやインターネットから流れてくる情報を自分なりに処理することでしか、その盛り上がりは実感できない。テレビの画面ではどちらかというと阪神ファンが熱狂的になっていて、大写しになったスタンドでは黄色と黒の縦じまが規則正しく動いている。この観客の盛り上がりはまるで日本中を象徴しているかのようなコメントをアナウンサーはしていて、たいして面白くなさそうにテレビを見ているオレは一人だけ取り残されているような印象を刷り込まれている。インターネットの画面を開いてみても、ヤンキースにおける松井の打席だけが克明に記されていて、別に知らなくてもいいがゲーム全体の流れは掴ませてもらえない。祭りに取り残されたくないし、野球という娯楽を放棄するつもりもないから、日本シリーズではダイエーを応援し、ワールドシリーズでは松井の動向をいつも気にすることにしている。ダイエーを応援する理由は特にない。しいていえば阪神や星野監督がちょびっとだけ嫌いだということだ。そもそも野球にはあまり興味はないほうだが、公式にはオレは巨人ファンということになっている。スポーツとしての野球に全く興味がなくても、娯楽としてのプロ野球観戦という、日本の伝統的な文化は無視できない。子どもの頃から「巨人戦」というテレビ番組によってその存在を刷り込まれてきた。大人は巨人が勝つと大喜びし、負けると機嫌が悪くなったりしていた。機嫌の悪い大人が発する不快な波長は、「巨人が負けると危険だ」というシグナルとしてオレに届いた。いつのまにか巨人を応援する体質にオレはなっていた。親の機嫌がよくなるためには、まず巨人が勝たなければならなかった。幼いオレは平穏を願うために巨人を応援し、優勝を願っていた。それがトラウマになっていて、今でも巨人戦を見ると、無条件に応援してしまうのだ。今より娯楽に乏しかった時代の日本人は野球にものすごく熱狂した。戦後行き場のなくなった戦闘意欲とか闘争心とかあるいはナショナリズムの代替として野球は格好の娯楽だった。親が子に与える影響力によって、日本のプロ野球観戦という伝統文化は代々受け継がれてゆく。巨人ファンの子どもには選択権はない。親の意向に従って巨人ファンになるか、反発してアンチ巨人になるかのどちからかだ。これはとても不幸な構造だ。我々は即刻、野球観戦をやめるべきかもしれない。オレはなんとなく自由意思でダイエーを応援しているが、それは阪神がちょっぴり嫌いだからであって、なんとなく巨人ファンだから阪神が嫌いだということは説明がつく。しかし巨人ファンであるという体質は、血が関係してくるから拒みたくても拒みきれない。ダイエーがんばれ、となんとなく叫んでみるけれども、実利も実害もないから勝っても負けてもそれほど嬉しいとか悲しいといったことはない。ダイエーがんばれ、ということでなんとなく祭りに関与した気になっている。不健全だ。
2003.10.24
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ちりめんじゃことほうれん草のサラダかさっぱり大根サラダか選ぶときにmimiは迷いに迷っていた。mimiがメニューを考えている間にオレは生ビール1杯目空にしていて、結局ちりめんじゃこが選ばれたと同時に2杯目のビールが運ばれてきた。ネットで知り合ったmimiとの共通で最大の話題はやはりネットに関することで、京都で知り合った連中や、楽天日記の仲間として交流のあるメンバーが話題の中心になった。昨年京都で盛大に開かれた自転車板のオフの模様をオレは2ちゃんねるに連載したが、後にそのログを読んでmimiは、フランスやカラコやこすりつけやコビックといった連中に興味を持ち、やがて、東京から京都までわざわざ行って実物の彼らに会うことになった。おはなしの中の人に会いに行くような気持ちだと語っていたmimiは、実際に彼らと会ったときの印象と、おはなしを読んで抱いたイメージとのギャップに戸惑ったという。イメージと現実の間に最も隔たりがあった人物は「こすりつけ」だったと彼女は言った。確かに京都嵐山における狂気をはらんだこすりつけと、さる四条河原での平穏な態度や落ち着きぶりとを較べると、同一人物とは思えないほどの差があるようにも見える。しかし意外に思慮深いかもしれないこすりつけの一面をオレは知っていたから、挑発の意味も込めて「普段と違う」というようなことも言ったかもしれないが、その落ち着きからくる沈黙は、不穏の兆候というわけではなく、別段恐怖の対象にはならなかった。初対面であるmimiは、ネット上での彼の立ち振る舞いや「おはなし」と、実物とのギャップに戸惑い不安を抱いた。我々に積み残された課題としては、客の不安を解消するための説明不足を補完することと、客の要求通りの人物像をいかにして演じきるかということかもしれない。余談だが、mimiにとって最もイメージ通りだった人物はコビックだったという。彼が客の期待を裏切らないということが、mimiの証言によって裏付けられたわけだった。「思ったことをあんなに素直に書けない、絶対無理。」つなみ嬢の日記を評してmimiはそう感想を漏らした。好きな人への想いに耽ったときのつなみ嬢の日記は非常にストレートで、例えば「会いたい」とか「会えなくて辛い」といったような感情が隠されることなく切々と書き綴られている。「読んでてすごいな、と思う。あんなに素直に自分の気持ちが書けるなんてすごくない?わたし?わたしは絶対無理。好きだと思った人がいても絶対誰にも言わないかもしれない」酒でリラックスしたせいか話が盛り上がってきたからなのか、あるいはお互いに関するもっと詳細な情報を必要といていたのか理由はよくわからないが、オレとmimiとの距離は最初より5センチは縮まっていて、カウンターの下の靴を脱いだ足のつま先同士が軽く触れ合ってもそのままになっていてその接触はまるで不快ではなかった。左隣に座っているこの女が最もストレートで直情的になったらどうなるのか興味が湧いてきて、そのときの姿や表情を見てみたいという欲求を抑えられなくなってきていた。足を組み替えるときにあと3センチだけ距離を縮めてグラスを飲み干して急速に酔いを充填させた。この座のスピードをコントロールしハイペースの要求を刷り込んで、mimiの無意識に働きかけて迅速なドリンクオーダーを促した。「不思議さ、11月でもう楽天やめるって言ってたじゃない?つなみじゃないけれども、生活の中にあったものが無くなるわけでしょ、日記を読むことでいつも身近に感じられてたものが急になくなるっていうのはちょっと考えられないし、やっぱり少し寂しい気がする」楽天日記をやめるのは、書き始める前から決めていた。刺激はやがて刺激でなくなる。そうなったら続けることの意味が完全になくなる。この期間をオレは1年とみていた。刺激だったものが刺激としてオレの中に作用しなくなったら、もっと強い刺激が必要になる。本当は11月末で辞めるということを宣言した9月あたりで既に刺激ではなくなっていた。今は次への期待を高めるためだけに使われている。飢えや喉の渇きをわざと自分に課している。苦痛を伴わない刺激は刺激ではない。膨大なストレスや果てしない不安を抱え、一つ一つ取り除いて全てがなくなった瞬間のカタルシスはきっと最高なはずだ。もうすぐ1年経つしね、もういいかなって。それにmimiが言った通り、いなくなることで存在感を生む、みたいな逆説を演出しているというのもあって、そのためにオレの作文は広くいろんな人にじゃなく、狭くてもいいから深く浸透させる必要があるんだ。ちょっと姑息だけどね、でもそれぐらいの作為を潜ませておいてもいいと思うんだ。「ふうん、わたしはもう1年経ったよ、そうだ10月でちょうど1年だったんだ、よく書いたよ、最初はメールマガジンも書いててね、並行するようなカタチでやってたんだけど、最近はもっぱら楽天だけだね。それも今サボりがちだけどね、あそうそう、わたしが今ハマってるのはチャットなんだけど、誰かがお題出して、30秒とか時間が決められててその中でみんなでボケてくの、一人ごっつみたいに。誰かと被らないようにしなきゃいけないとか、色々考えるし、結構緊張感あって楽しいんだ、今はそんなことをやってる」彼女もまた、日記に刺激を見出せなくなり、新しくて強い刺激を探していた一人だったのだ。新しい飲み物を注文しようとしてメニューを広げたmimiを制した。今日の酒はもう充分に我々の中に浸透していて刺激として効率的に作用してくれた。このまま閉店か終電までこの店に居続けたところでこれ以上酒による刺激は期待できそうにもなかった。アタマや身体が完全に麻痺してしまう前に、次いつ会えるのかわからないこの女と、新しい刺激を共有しておきたかった。時計は21時を少し回っていた。この時点で2人は酒よりももっと強い刺激を必要としていた。メーンストリートから路地裏へ入り込んだときmimiとオレとの距離はほとんどゼロで、腕や肘が彼女の腕や胸のあたりに何度も触れたが、2人とも間を空けようとはしなかった。闇の中に水色の派手な看板が浮いていた。看板が示す建物の中に入ろうとしたとき、彼女は少し躊躇したように速度を緩めてやがて止まってしまった。かまわずフロントで手続きをしていると、うつむきながらゆっくりと近づいてきた。緊張の色を隠し切れずにいた。エレベータが閉じると真っ暗になって、ブラックライトで照らされた内部の壁から深海の模様が白く鮮やかに浮かび上がった。ロマンチックだね。「うん、きれいかも」ちゅ。
2003.10.23
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「テーブル席と座敷席とカウンター席がございますがどういった席になさいますか」創作料理を出す和風ダイニングバーが並ぶ一角のビルの3階の店は、月曜のまだ早い時間帯ということもありかなり空いていて、中央にある調理場を取り囲むカウンター席にも、立て板で区切られた両サイドの座敷席にもまばらに人がいる程度だった。店のかなり奥の方からやってきた店員は我々に好きな席を選ばせてくれたが、できることならオレはカウンター席に座りたいと思っていた。2人でテーブル席に座る場合、横に並ぶ光景は不自然だから、必ず向かい合わせに座ることになる。常に相手の目や表情を見ながら話さなければならない環境下に置かれるというのは、ちょっとした恐怖だ。どちらか一方が食事をしているときに話し掛けたり、話題に困って相手の顔から視線を外したり、あるいは話の途中で酒や料理を口に運ぶための動作に移ったりするためのタイミングは非常にシビアだ。相手の話を聞いていないかもしれないことや、つまらないと思っていることがちょっとした動作に現われる。だからといって常に相手の目を見つづけているのも照れくさい。そういった通常の会話に関係のない不安な要素が2人きりのテーブル席にはある。だから例えば調理場にいる板前の包丁の動きを見ながらでも話せるカウンターのほうが気は紛れるし、沈黙もそれほど怖くはない。カウンターでいい?伺いを立てることによってカウンター席を選んだ責任を分散させられるし、もし万が一彼女がテーブル席に座りたいと思っていた場合のリスクヘッジにもなる。「うん、どこでもいい」mimiはきっと断わらないだろうという予測はしていたがその通りだった。我々は靴を脱いでカウンターに上がり座椅子に座った。足元は通路から一段下がっている所に足が伸ばせる掘りごたつのようになっていて、板前と我々間には目と同じぐらいの高さにガラスケースがあって串焼きのための材料が置かれていた。会話に干渉されることはなさそうだった。「落ち付いた感じのお店だね」白熱灯によるほの暗い照明に照らされたシックな色合いの室内を見渡しながら、店内があまり騒々しくないことなどを指してmimiはそういった。「後ろから失礼します」といわれてなんのことかわからず振り向くと店員が飲み物を運んできて差し出すところだった。生ビールとカンパリオレンジがカウンターに並び、二つに切られたオレンジと搾り器を置いた店員は一礼し去っていった。オレンジを手分けして一つずつ絞りグラスを触れ合わせて、お互いの誕生日到来を祝う言葉を言った。自分の誕生日がそれほど特別な日だとは思っていない。祝いの言葉をもらうのは悪い気はしないが、なにがめでたいのかよくわかっていない。毎日賑わっていて楽しければきっと、誕生日に特別大騒ぎしなくてもいいんじゃないかとも思う。紺色の制服を来た女性の店員がうしろから慇懃に「お食事はいかがなさいますか?」というときにはちゃんとかがみこんで、客である我々より目の高さを下にしてから注文を聞き始めた。串焼きにしようか、うずら食いたいし。「うずらの串焼きなんてあるの?食べたことないよ、それ頼もう!」うずらの玉子でこれほど大喜びされるとは思ってもみなかった。オレも少し嬉しくなってしまった。誰かが喜んでいる顔を見るのはそれだけで気持ちいいのかもしれない。「わたし和食屋でバイトしてるでしょ、もう全然ノリが違うって感じ」慇懃な店員や、あまり騒がしくない店内の雰囲気をmimiは自分のバイト先とリンクさせていたりした。最近だいぶ日記サボってるみたいだけどどうなのよ。「うーん、夏休み休みだった頃はだいぶ書けてたんだけど、学校始まっちゃったでしょ?学校行ってバイト行って家帰って、日記書こうと思ったら何時間もかかるじゃない?わたし平気で5000文字とか行っちゃうからね。そうするともう寝る時間ないじゃない、で朝起きられなくなって、ついつい学校いかなくなっちゃうんだよね、やばいちゃんと行かないと、あー飲んだのってあれ以来かもしれないほら、京都のとき、あれから全然飲んでないよあ、飲んだわ、飲んだでも2杯だけだよ、あとはビール買って公園で飲むとかね、飲みきれなかったけどね、不思議知ってるでしょ?バカなことしてるよねもう」mimiと初めて会ったのは夏の暑さがまだ冷めきらぬ9月で、3日前まで南国にいたという彼女の肌は健康的に焼けていたが、1ヶ月以上経ったこの日のmimiの頬はアースカラーではなく、ホットピンクのメイクで彩られていた。少なくとも夏が終わり時間が過ぎたということをオレはmimiの肌の色から感じとったが、まるで緊張感のかけらもなくまた永遠に続くかと思わせるようなmimiの話し方はあのときとちっとも変わっておらず、時の流れを全く感じさせてはもらえなかった。mimiはいつも自信に満ちている。自信があふれ出ているような話し方をする。なんなんだよその自信はどこから来るんだよ、その裏付けのない根拠のない自信はいったいなんなんだよ、とオレは彼女に対して言うのだが、「なんだろうね、よくいわれる、自信ありげだって」と彼女はいっていつも根拠を明かさない。その理由なき自信に押されてオレがつぶされてしまわないようにここでは酔うまでの間、虚勢を張らなければならないかもしれなかった。ルーズなファッションは反体制的な気持ちを表現するための方法であるとか、女性のタイトで挑発的なファッションは戦闘服だとかそういった理屈を展開して負けずに喋り続けようとオレはしたがmimiはあまり興味のなさそうな顔をしていたからますます自信がなくなってきたのだった。
2003.10.22
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「最高にめかしこんでこいよ」当日着てくるファッションについてmimiには事前にそう注文をつけておいたがこれは、mimiのめかしこんだ姿を見てオレが純粋に楽しむという目的だけのための言葉ではなかった。これはオレとmimiとの関係性を裏付けるためのメソッドであり、つまりオレの要求通りにオシャレして会いに来るかどうかという選択肢を彼女に課すための呪いの言葉だった。要するにメイクやファッションをキメて来るということは、オレへの迎合を示していて、例えば女は男が出来たタイミングでファッションのスタイルを変えるというが、それは着飾ることによって男の気を惹こうという意思表示であり、mimiがもし「mimi的」らしからぬタイトでキュートで挑発的なオレの要求通りのファッションで登場した場合、それはオレに従属するということを意味している。従属か支配か友好か疎遠か親密か絶交か、これは信長の野望で国同士の関係を表す6つのステップでもあるが、とりわけオレは「従属」かあるいは「友好」か、この2つの選択を、「最高にめかしこんでこいよ」という言葉でもってmimiに課したのだった。ケータイを折りたたみながら駅前の路上にいるオレに接近してきた女のシルエットしか認識できなかったのは、駅構内の照明がバックライトになっていたためだった。しかしオレはその黒いシルエットだけで、忘れていたmimiの顔や、話し方や動作といったそのほとんどの特徴を思い出していたのだった。京都へ行ったときに彼女が着ていた洋服や、京都の景色、タクシーの運転手の顔、祭りの賑わい、二の腕や距離感、そういったものをほとんど思い出すことができた。オレの記憶の中からmimiに関する記憶を引き出すインデックスは、彼女のシルエットだけで十分だったのだ。これから彼女と話さなければならないことは、恐ろしくたくさんあるような気がオレはしてした。自転車を移動させるための作業をしていたオレに近づいてきたmimiの気配を感じて振り向くと彼女は、オレの間合いのかなり深い位置、距離にすると30センチも離れていない場所に立っていた。我々の関係でこの最初の立ち位置の距離は、どう考えても近すぎるとオレは思った。この距離ではまるで恋人同士だ。シルエットが示していた通り、彼女はルーズなファッションで現れた。上には茶とこげ茶の横縞の丈の長いカーディガンのような形のニットをざっくりと羽織っていて、下は足に沿ってスリムなカタチのアースカラーのジーンズだった。埼玉じゃそういうカッコ、流行ってんの?「いや流行ってるってわけじゃないよ、どちらかというとmimiオリジナル系?」なんていったらいいかわからないけど、ヤンキーみたいだぜそれ。「えーまじで?ヤンキーじゃないでしょ?mimiヤンキー嫌いだし」耳元でぶら下がっているピアスは鎖状になっていて、その長さは裕に20cmを超えていた。ピアスじゃらじゃらしすぎじゃねえの?それが最高にめかしこんできた格好?「ううん、だって学校帰りだし、いつもと同じ格好。」どうやら彼女は、「従属」ではなく「友好」を選んだようだった。誕生日のプレゼントを買うのを忘れたことを告げるとmimiは本当にがっかりしたような声で「まじで?」を連発した。これの前日カラコと話していて、オレは彼女に本を贈る約束を一方的にしていた。それは司馬遼太郎の「国盗り物語」だったが、なぜカラコにこれを贈ろうとしたのかその理由は少し複雑なので省略するとして、とにかく「国盗り物語」を買うために本屋へ行かなければならなかった。プレゼント、本でいい?2つの用事を同時に済ませられるという効率的な考え方を思いついたオレは内心小躍りし、自動的にmimiへのプレゼントは本に決定した。「えー、本ってなんだよ本て。クルマくれるんじゃなかったのかよ」なにか誕生日のプレゼントを買ってやると話したときにmimiはクルマか家を要求していた。オレはその要求も、そのジョークから派生するであろう会話も完全に無視し、池袋ジュンク堂書店へmimiを連れて向かったのだった。「っこれ全部、本屋?」ビックリガードへ向かう五叉路の中央分離帯の切れ目に立ってジュンク堂に臨んだmimiは首を上に向けて感嘆の声を吐いたのだった。ジュンク堂7階建てのビルは前面ガラス張りになっていて、内部の照明が外に向かって拡散していた。窓に面したエスカレーターが半透明のエメラルドグリーンになっていて、ビル全体がネオンサインを発光しているようにも見える。「こんなにおっきい本屋、初めて見た。どんな本置いてんの?図鑑とか?大辞典とか?」巨大な本屋を目の当たりにして驚きを隠そうとしないmimiにつられてオレも改めてジュンク堂を眺めた。幻想的な近未来のメトロポリスを象徴しているようにもこの建造物は見えた。これほど存在感のある本屋のたたずまいをオレは他に知らないかもしれないとも思った。「へぇ、なんか高級そうな感じ」横断歩道を渡り自転車を停めてジュンク堂店内へ入った。常にオレの後ろ50センチの距離を保ちながら歩いているmimiは店内に入ると少し声のボリュームを下げてそういった。1階にある15メートルもの長さを持つフロントには、会計をするためだけのスタッフが20名以上並んでいる。20台以上のレジの前にはいつも会計を待つ客が列を作っている。7階もあるフロアの書籍の全ての会計が1階で行われているのだった。レジを打つ若いおねいちゃんはみな一様に黒髪だった。たとえばカラオケ屋のバイトによくいるような日本語の不自由そうなおねいちゃんは一人もいなかった。ワゴンには新刊が平積みになっていて、飾り棚には注目本コーナーがある。無駄なスペースを使って本が並べられている。立ち読みならぬ座り読みするためのサロンが端のほうにあって、そのほとんどの席が難しい顔をした読者で占められている。確かに高級そうかもしれなかった。金やダイヤや高性能なクルマなどよりも、無駄を無駄と思わないゆとりとかそういったものが、本当の高級さかもしれないと思った。「カゴで本買うの?」「国盗り物語」は全部で4巻あるし、mimiにもなんとなく2冊ぐらいは買ってやるつもりでいたから、人に贈る本を汗や手垢で汚さないためと、多くの本を持ち歩くための利便性を考えてカゴを手に取ったのだが、mimiはそのことについても「カゴで本買う人初めてみた」というふうにいちいち驚いた。100坪もあろうかという3階の「日本文学」のためのフロアに並ぶ本棚は出版社・作者順にソートされていて、オレはまず新潮文庫の「し」の棚を探したがそのときもmimiはオレの後ろ50センチのところをぴったりとついて離れなかった。人に本を贈るときに一番困るのは、本にはいつも生々しく値段が刻まれていて、商品としての価値を贈る相手にはっきり知られてしまうことだった。出来れば価格やバーコードやナンバーは本の外観を損なうし、見えないところに書いて欲しいと常々思っている。国盗り物語を全巻とってカゴにいれた。1、2巻には斎藤道三、3、4巻には織田信長のことが書かれている。どちらかというと斎藤道三編の方が面白い。これはカラコだけではなく、こすりつけにもぜひ読んで欲しい。mimiも読むか?というと「えー、国盗り物語?読まないよそんんなの、だって国盗りだぜ?ダサくない?」いやこれが面白いんだって、歴史エンターテイメントの最高峰だぜ?「いや、やめとく。国盗りに興味ないもん」実はmimiに贈る本は最初から決めていた。正確には、贈る本の作家だけ最初から決まっていた。次にオレが向かったところは村上龍の本棚だった。ジュンク堂における村上龍コーナー、ハードカバーの本棚の場所も、出版社毎に分散して置かれている本棚の場所も熟知していたから、オレは迷わなかった。先ごろmimiは、偶然手にした村上龍著による本に挟まっていた名刺に書かれていたメールアドレスにアクセスして、その顛末をこの楽天日記で克明に報告していた。平行世界ゼロ、という奇妙な名前の名刺が生んだmimiの物語を、オレは楽しみにしていた反面、リスクを省みない彼女の鋭角な行動力に、内心はらはらしてもいたりした。しかし平行世界ゼロの件があったからmimiのために村上龍を選んだというわけではなかった。この日記サイト「リバース」の冒頭で引用している文は全て村上龍の名前が書かれた書籍からのものであることが示しているように、村上龍はオレが尊敬している作家の一人であり、だいぶその影響をオレは受けていると思う。mimiに贈ろうと思いオレが手にした村上龍の本のタイトルは「希望の国のエクソダス」と、そして「愛と幻想のファシズム」だった。「愛と幻想のファシズム」を最初に読んだのは、夏休みの読書感想文コンクールで入賞した記憶があるから、中学か高校かそれぐらいの頃だったと思う。「愛と幻想のファシズム」というタイトルだけに惹かれて読み始めたものだった。CDのジャケ買いと同じような感覚かもしれない。以来、オレな幾度となくこのファシズムを読み、もはやオレにとってのバイブルといっていいだろう。1年かそれぐらい前にフランスにこの本を薦めたが、彼は買ってもなかなか読み始めず、読み始めてもなかなか進まず、しかしやがてついに、先日読み終えたらしく、「俺なりに楽しめたぞ!!」というメッセージが届いた。次に彼が挑戦するのは「姑獲鳥の夏」という分厚い本だがそんなことはどうでもいい。オレはmimiに、フランスとファシズム談義ができるかもしれないぜ?という触れこみでこの本をアッピールした。贈り物としての体裁を整えるためにサービスカウンターで包装してもらう時間と、これからmimiと話すべき時間の重さを考えた場合、どちらかというと重要なのは後者のほうだったから、ビニール袋のまま彼女にプレゼントとして差し出した。包装されていない緑色のビニール袋を見てmimiは少し不服そうな顔になったがオレはあまり気にならなかった。キミといる時間のほうが大切だと思ったんだよ。そういうとmimiは納得したように「確かにね、包装紙は破られて捨てられる運命だけど、時間はいつまでも思い出になって消えないもんね」mimiはまれに、はっとするような言葉を使うことがある。オレの言葉を補完するようなセリフをこのときmimiは言って、一瞬オレを驚かせたのだったが、そのことをすぐに伝えなかったのは、次に食事をする店をどこにするか考えていたからだった。ジュンク堂から駅前に引き返すための道のりの途中に、コ洒落た店が建ち並ぶ一角がある。そこを目指してオレは歩いたが、mimiは今自分がどこにいるのかわからないような顔になりながら、やはりオレの50センチ後ろをぴったりと歩いているのだった。
2003.10.21
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この日はmimiと会う約束があった。どういったいきさつで会うことになったのかはよく覚えていない。おそらくメッセンジャーか何かで彼女と話していたときに口説いたとかそういうことだろうが、オレがメッセンジャーを使って誰かと話すときはまず間違いなく酔っ払っているからその記憶は極めて曖昧だ。本当は10月10日とか、もっと早い段階で会う段取りになっていたがその頃オレは仕事が最高潮に忙しく、不本意ながら直前でキャンセルしてしまった。ちょうど10日後の10月20日に約束をスライドし、この日までになんとか仕事も片付いていたからなんの問題もなくmimiに会えるはずだった。ところが月曜の朝に出社するとすぐに、客先での作業を命じられた。トラブルが発生しその影響調査を依頼されたのだった。状況や対応の方針などの説明を受けて午前10時半、客先に到着した。この調査にかかる時間をオレは3時間と踏んでいた。ところがこのトラブルは思った以上に根が深く、客と対策を協議したり、説明資料を用意するため予想以上に時間がとられた。mimiと待ち合わせした18時20分に池袋へ到着するためには、八重洲を少なくと17時半に出なければならない。自転車をフルスピードで走らせたとして40分、予備の時間を10分みておくとして、17時半の定時退社はギリギリのラインということになる。人を待たせることをオレは必要以上に嫌っているかもしれない。自分が待つことは割と平気なほうで、それは自分で待つ時間を再構築できるからだ。それでも待っている間、相手が本当に来るのかどうか不安になることがある。それに時間を再構築する作業にはエネルギーが必要だ。「待つ」ことで生ずる不安はないほうがいいに決まっている。エネルギーを使わず、リラックスして会ったほうが楽しいに決まっている。だから極力、他人を待たせるということはしたくないと思っている。全ての作業が終わる見積もりをしたのは15時半で、この作業にかかる時間は90分は必要だった。17時半のリミットまで30分残すことになるが、ここでまた何かイレギュラーな事態が発生したらまた作業時間をイチから計算しなければならない。つまりミスは当然許されないし、2次的なトラブルも絶対に起こってはならないのだ。17時半リミット1回勝負、完璧な仕事が要求される。緊張した。この緊張はmimiに会うためのものなのか、仕事によるプレッシャーなのかよくわからなかった。やがて全ての作業が終了したのが17時10分。一息ついて帰り仕度を始めていると、キュートな銀行員が嬉しそうな顔をしながら寄ってきって、「今日はそんなに慌ててどこへいくんですか?なにか楽しいことが待ってるんですか?」というようなことを言った。ふいをつかれたオレは気の利いたジョークも返せず、「い、いやそんなことないですよ」と返すのが精一杯だった。「だって”定ピタ”(定時きっかり)であがるなんて珍しいじゃないですか!デートですか、いいですね」確かにデートではあるがmimiとの関係をどう説明していいかわからない。なんとなく茶を濁して17時半、不審そうな顔で客や同僚たちに見送られながら客先のオフィスを後にした。自転車で八重洲から日本橋へ、竹橋から後楽園にさしかかったあたりで、数日前がmimiの誕生日だったということを思い出し、そういえば何かプレゼントを買ってやるということを酔った勢いで言ったことも同時に思い出してしまった。まだ買っておらず、何にしようか考えながら護国寺を通過し、東池袋あたりで時計を見るとちょうど18時だった。あと5分もすれば池袋西武口に到着することだろう。mimiと会うのは京都へ行った以来2回目となる。初めて会った時の待ち合わせ場所と同じところで待ち合わせていた。混雑した横断歩道を自転車を引いて渡り、必要以上の人が集まってきている駅前の待ち合わせスポットでmimiの姿を探した。mimiがどんな顔をしていたのかよく思い出せない。しかし見たらすぐにわかるはずだ。ケータイが鳴った。いまどこ?宝くじ売り場の横。わたしもそこにいるんだけど。違う外の宝くじ売り場。外なの?わかった、あ、いたいた。ケータイをしまいながら女が近づいてきた。
2003.10.20
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19日午前8時半ごろ、広島の県道を横断中の会社役員(63)が、「しまなみ海道を走ろう会~ツール・ド・しまなみサイクリング2003~」(実行委員会主催)に出場中の会社員(34)の自転車にはねられ転倒、頭を強く打って間もなく死亡した。http://sports.2ch.net/test/read.cgi/bicycle/1066556081/ この「事故」について2ちゃんねる自転車板では盛んに議論が交わされているように見えるが、議論とは到底呼べないようなお粗末な進行になっているのはこれは2ちゃんねるの特性だ。議論らしい議論が行われず永久に纏まらないかわりに、議論するスキルのないものが大衆として率直に思ったことを発言できて、発言力がなくても比較的無視されないことでよく弱者にありがたがられているという長所も併せ持っている。その2ちゃんねる自転車板において、この自転車が老人を轢いて死なせたという「事故」は格好の議題になっている。論点は主に「誰が悪いか」、ということだけに集中していて、事故の再発を防ぐための対策や、システムへの警鐘といったような前向きなことは一切論じられていないが、それも2ちゃんの特性である。実行委員会は自転車集団をオートバイかなにかで先導するべきだったがしなかったし、加害者の自転車には危険を予測する能力が欠けていて、頭を打って死んでしまった老人は不運だった。誰が悪いということではなく、事故になるための要素が偶然重なって事故が起こり、その結果として、人が一人死んだ。人が死ぬことは悲しいから、この場合加害者やイベントの主催者に遺族の悲しみによる怒りはぶつけられるのだろう。交通事故で1日に何人もの人間が死んでいるけれどもそのほとんどのはクルマによる。あまりにも事故を起こしすぎるクルマをこれ以上規制しようといった動きは見られない。この事故を受けて、議論したつもりになっている2ちゃんねる自転車板の人間は、自転車の将来を危ぶんでいるだけだ。誰も前を向いて走っていない。
2003.10.19
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「またテレビでコントやってくれ、っていうのは言われるんですけ、あの~、もうレギュラーでコントをやるということは、たぶんないと思います。あれはちょっと不健全というか、一週間に一回コントをやらないといけないというのは、ちょっと違うんですよ。ドラマみたいに1クールやったら休むとか、特番でやるとか、そういうやり方じゃないとダメですね。コントって毎週一回絶対やらないといけないっていうもんじゃないんです」「定本・一人ごっつ」で松本人志がコントについて語った中の一節で、松本のこの言葉にオレは楽天日記を一日一回書きつづけていることをかぶせて読んで、確かにそうだよな、と思った。一日一回、必ず日記を書かなければならないのは非常に辛いことだ。「今日は何も変わったことの無い一日でした」と書けたらどれだけ楽になるのだろうかとも思う。2日にいっぺんだけ書けばいいことにするのもいいかもしれない。ところが書きたいことがありすぎて1日1回じゃ足りないこともある。文字で埋め尽くされている完成形としてのリバースを眺められるという自己満足に浸ることが楽しみだ。自己満足でいい。自分だけが楽しければいい。今日はまたCDを買いに行った。本でもビデオでもCDでも、一度買い始めると連続して買いに行ったりすることがよくある。昨日買ったCDがよほど気持ちよかったらしく、もっと新しい刺激が欲しくなってしまったようだ。今日は4枚。リンキンパークの2nd、マリリンマンソン、レッチリ、レニクラ。このうちレッチリは同じCDが家に存在していて、レニクラはやはり肌に合わなかった。キワモノの類であるマリリンマンソンは割と心地よく、リンキンに至ってはすっかり気に入ってしまった。日本人にたとえるとラルクとかドラゴンズアッシュとかあのへんの子どもっぽい音であることは認識しているのだけれども、演奏者がガイジンだから、カッコイイのである。千趣会から届いた本棚を組み立てて、夕飯を食い終わって、そろそろ今日の日記でも書こうかとパソコンを見ると、こすりつけから「なんかいえ」という暴力的なメッセージが入っていた。すぐに「どうした?」と返信したが、彼がいつもと少し違うかもしれないという観測をオレが抱いたのは、次のメッセージを受信するもっと前だったような気がする。「しまなみ街道の自転車ツーリングイベントで、死人が出たの知ってるか?」知らない。ふと、指が動かなくなった。「なんかいえ」という冒頭のこすりつけの暴力的な言葉から、緊急さを感じとっていたオレはすぐに、仲間の誰かが落車かあるいは崖から転落して死んだことを想像した。こすりつけが緊張感を伴ってわざわざオレに連絡してくるということは、オレに近しい関係の誰かの死を暗示している。仲間が企画したイベントか?誰だ。19日午前8時半ごろ、広島県因島市大浜町の県道を横断中の同市重井町、会社役員岡田信三さん(63)が、「しまなみ海道を走ろう会~ツール・ド・しまなみサイクリング2003~」(実行委員会主催)に出場中の岡山県倉敷市堀南、会社員谷本和弘さん(34)の自転車にはねられ転倒、頭を強く打って約2時間40分後に死亡した。大会は事故後も続行し、午後3時現在で参加者約200人の約8割がゴールしたという。現場は片側1車線の直線道路で、信号機や横断歩道はなく、因島署などの調べでは、岡田さんは付近で犬を散歩させていたという。 岡田という名前にも谷本という名前にも聞き覚えがなかった。どうやら仲間が死んだというわけではなかった。こすりつけは、この事故の報を聞いたオレがどういう態度をするのかということに興味があったらしい。テーブルを叩いて、「ゆるせん!」と猛り狂う姿を想像していたかもしれないこすりつけには申し訳なかったが、死んでしまった人間は気の毒だけれども、ありふれた事故だ、という見解しか示せなかった。でもそれだとあまりにも味気ないから、もう少しこの事故を、オレなりに検証してみようと思う。
2003.10.18
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「定本・一人ごっつ」を買って一人で焼鳥屋に入って飲みながら読んでいて、これほど可笑しいとは想定しておらず、こみ上げてくる笑いを抑えるのに苦労していたが、酔いが進んでゆくうちに抑制がきかなくなって、それでも声をあげて笑うわけにはゆかず、顔を緩ませながら「一人ごっつ」と格闘した。その中でこの「一人ごっつ」のDVDが発売されているということを知り、急に見たくなって近くのツタヤへ自転車で出かけた。高くても1万円ぐらいだろうと思っていたが、1本4500円だったかわりにシリーズになっていて全部で5本あり、つまり4500×5で全部揃えると22500円もするから躊躇った。買ってもおそらく一度しか見ないだろう。90分×5として450分、7.5時間を楽しむための金額22500円は妥当であるのかどうかということを考えるための時間が必要だと判断したオレは、今日は買わず、明日以降へ決断を先送りにすることにした。せっかくツタヤにきたから店内を徘徊した。昨日から風呂に入っておらず髪の毛は左側に大きく傾いており皮脂によってきらきらと輝いていて、昨日飲んだ酒が抜けきれていないからおそらく口からはアルコールのにおいを発散させているような状態だったがあまり気にならなかった。寝巻きにしているジャージを着たまま顔はひどく浮腫み、目の下は深い隈が出来ていることだろう。紺色のジャージに付着している白い染みは3日前の朝に歯磨き粉の泡がたれて出来たものであり、決して精液によるものではないということを周囲の客に説明したかったが、誰もこの薄汚い姿のオレには注目はしていなかったからその必要はなかった。今メタリカの「メタリカ」というタイトルのCDを聴きながらこれを書いているが、なぜ今ごろになってオレがメタリカを聴くことになったのか、それには少し複雑な理由がある。ツタヤのDVDコーナーの隣にはCD販売のコーナーがあったが、DVDとCDは同じぐらいの大きさなので正確には、どこからCDコーナーが始まったのかその境目がはっきりしない。邦楽ランキング、洋楽ランキングなどと盛大に銘打ち、贅沢なスペースの使い方で並べられていたタイトルはどれもこれもオレの知らない演奏者の名前が書かれていたが、「女子十二楽坊」だけはかろうじて知っていた。最近よくテレビなどで「ブレイク」という言葉で紹介されていて、中国人女性が胡弓などの伝統的な楽器でスタンダードや日本のヒット歌謡をカバーしている集団だという知識はおそらく間違いではないだろう。CDとDVDがセットになって3000円は割安だと思った。マトリックスリローデッドも店内の一番目立つ場所に平積みになっていてそれも3000円ぐらいだったからどちらかは買うべきではないだろうかとオレは当然のように思っていた。しかし寝巻きのジャージで汚れた顔のままツタヤにいるオレは荒んだ気分だったため、アクション映画を観る気分でも、癒し系の音楽に浸る気分でもなかった。マトリックスリローデッドと女子十二楽坊、どちらも買い得感をかきたてる価格設定だったにもかかわらず購入を見送った。その2つの商品をオレは必要としていなかった、それだけのことだった。ふと、「Rock温故知新」というタイトルの、企画コーナーが目についた。「ハード」、「ガレージ」、「パンク」などと大雑把にジャンル分けされていたコーナーのとりわけ「ハード」にオレは注目した。中学とかそれぐらいの頃オレはハードロックこそ最高の音楽と信じて疑わなかった。。ボンジョビやモトリークルーにはじまり、ヘヴィメタルとしてのメタリカやドッケンというような名前がすぐに浮かんだ。とりわけヴァンヘイレンやガンズアンドローゼスは我々子どもにとって神のような存在だったことを思い出した。コーナーの最上段にはメタリカの「メタリカ」というCDが置かれていた。黒いジャケットに薄くMETALLICAという文字と蛇の絵が書かれている通称「黒アルバム」だ。買うかどうするか迷った。というのもこのCDを買ったかどうか忘れていたからだ。黒アルバムについて考えるのはやめて、他のCDジャケットに目をやった。オレのロックシーンは1993年とかそれぐらいで完全に停止している。ガンズアンドローゼスが来日し東京ドームで公演を行ったのが確か1991年とかで、ガンズを頂点としたピラミッドをオレは完全にイメージした。以降オレはガンズのニューアルバムを待望するとともにガンズを超越するバンドの出現も期待していたが叶うことはなかった。どのような名前のバンドが現在のロックシーンで活躍しているのかよくわからない。CDジャケットにはマリリン・マンソン、レッドホットチリペッパーズ、リンキンパークといった名前が書かれている。名前だけはきいたことがある、ここ何年か継続して耳にしている名前だから、そこそこの人気はあるのだろう。今のロックにはほとんど興味はないが、今の子どもたちがどんなロックを聴いて育っているのかということには少し興味がある。ニルバーナの隣に飾られていた「リンキンパーク」というCDが気になった。リンキンパークという公園はどんな景観をしているのか想像がつかなかった。公園の名称をグループの名前にしてロックを演奏しているということは、反抗とか反逆のイメージがリンキン公園にあるからなのだろうか。リンキンパーク、語感は悪くない。隣にあったニルバーナのCDと、リンキンパークと2枚を手にとって、レジへ向かった。ニルバーナについても、すでに購入していたかどうか自信がなかったが、赤ん坊が1ドル札に釣られそうになっているというシュールなデザインのジャケットに見覚えがなかったから買うことにしたのだった。オレはほぼ衝動的に、2枚のCDそれも「rock温故知新」というコーナーに飾られていてロックの代表と誰かが決めたCDを買った。ロックを聴きたくなったから買ったわけだが、昔から大切に持っていて、聴きなれたCDではなく新しいCDでなくてはならなかった理由はオレが「刺激」を必要としていたからだろう。酒でもポルノでもオレの苛立ちは解消されず、次に選択した刺激がロックだった。それだけのことだ。家にはメタリカの黒アルバムがあった。リンキンパークとメタリカとニルバーナ、この3枚のCDを今日はサイクリックに聴こうと思った。リンキンパーク、悪くない。ボーカルの声がカートコバーンに似ているような気がする。メタリカにも似ているかもしれない。意外と心地いいかもしれない。もうすぐ31になる。この歳になって子どもが聴くような音楽が心地いいと思うことを素直には受け入れるわけにはいかないが、心地いい、悪くない。温故知新とは、昔の事を調べてそこから新しい知識や見解を得ることだ。リンキン、ニルバーナ、メタリカ、の順で聴いてまた今リンキンに戻ったところだ。リンキンパークという知識を得、悪くないという見解を持った。まだ朝起きたままの、汚れた格好でいることにはもう慣れた。さらなる刺激を求めて明日は、「一人ごっつ」のDVDを買いに行くかもしれないとも思っている。
2003.10.17
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先週末から今週アタマにかけてクライマックスな忙しさを迎えていた新システムの構築という仕事は本日午前10時をもって全ての検証作業が終了し静かに幕が下ろされた。途中いくつかのきりのいいタイミングで何度も打ち上げと称して凝り固まったカラダと数値にまみれたアタマと崩壊しそうな精神を酒でもって弛緩せしめていたから我々の疲労が仕事のためなのか飲み疲れなのかよくわからない状態になっていた。数値との格闘、トラブル対応の緊張と苛立ち、全てを忘れ去り明日への糧とするための飲酒、これらが我々に示したカタルシスは、喜びでも達成感でも解放感でもなく、ただの「消耗」だった。B4の紙に1ミリ単位のフォントで刻み込まれた帳票に書かれた数値は80×24ヶ月分。これが286枚だから、実に54万9千120個もの数値が目の前に置かれたときには絶望が我々を支配した。しかし誰もがそのことを口にはしなかった。ただ黙々と、目の前にある数値を一つ一つチェックしていくのだった。予定は大幅に遅れた。当然だった。50万もの数値を検証するための時間を見積もったことのある人間など1人もいなかった。そのため我々の仲間は昼夜問わず連続して数字にあけくれることになった。先週が終わった時点でようやく先が見え、急激にペースダウンした。その後の予定が繰り上げられたことによって、なんとか帳尻はあった。そして今日、客のシステム担当フォワードであるキュートな銀行員に全ての検証が終わったことを報告し、我々は解散した。「プチ打ち上げ」と称されたランチは、銀座の「つばめグリル」へ行ってハンバーグを食っただけだった。我々にはタバコを吸う人間がいるからスタバには入れない。ドトールで食後のコーヒーを飲もうとしたら禁煙席はがらがらなのにもかかわらず喫煙席には残りの席がわずかしかなかった。タバコを吸わない人間はスタバへ行け。そしてドトールは全席喫煙者に解放せよ。オレはこのいびつなルールで区切られた店内を大声を出しながらスキップして全ての椅子をひっくり返したくなった。「消耗」はオレの苛立ちや無気力感を増幅させた。小さい丸いテーブルに隣の席などから余った椅子を無理矢理運び込んで4つ席を作った。3人で2つのテーブルを使っているのに4人の我々にはテーブルが一つしかない。指先にチカラが入らない。コーヒーを持つ手が危うい。先に2階へ行って席を確保しようと女の同僚に200円渡してブレンドを頼んだ。結局2つ分の席しか確保できなかった。ようやく椅子を並べて仕事を果たした。最低の仕事だ。10時半より前に絶対出社しない男がなぜかここにいる。プライベートなら絶対誘わないが、1人だけ仲間はずれにするのも不自然だからということで仕方なく一緒にいる男だ。この男は鳴り物入りで入ってきたにもかかわらず全く仕事が出来ないということで有名だ。口だけは達者だが面白いことや感心させることを一つもいわない。アレルギーを抑える薬を飲んでいるキュートな銀行員の肌は透き通るように白い。胸元の甘いワンピースを襟の閉まったニットで塞いでいるが、デザイン的なニットのフックが成す3cmの隙間から白い地肌それも胸元に近い深い場所の肌が見えて少し汗ばんでいる。黒い格子模様の網タイツが白い足を際立たせている。膝が交わりそうだ。酒が欲しい。自社に戻り書類の整理と事務的な処理をこなし、やがて時間が余ったが、ほとんど何もする気が起こらず、ただぼーっとインターネットでニュースを検索していた。誰か人に会いたくなってきている。
2003.10.16
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関東地方で今日、震度4の地震があった。震源は千葉北西部、マグニチュードは5.0だそうだ。震度とマグニチュードの違いがよくわからない。日経平均とTOPIXの違いのようなものだろうか。その違いすらよくわからない。八重洲にある古いビルの5階の、内装だけ新しいオフィスにいたオレは最初、目眩がしたのかと思った。または150kg級のデブがトラブルの知らせを聞き走っているのかもしれないとも思った。誰よりも早く「地震だ」という言葉を口にしたかったが、もし間違えていたらはずかしいから少し様子を見るために天井を眺めた。ふと地震が起こると人間には天井を見てしまう習性があることに気づき、オフィスにいる人間を観察するとやはりかなりの割合でまず固まって、天井のほうに視線を向けていた。そこでオレはようやく、この揺れが地震によるものだということを確信した。地震は急に振幅を強めた。天井裏の配管が軋んでキュキュッと音を立てた。古い建築物だから耐震構造にはなっておらず、リズミカルな振幅ではなく、不安定で不快な揺れ方をこのビルはした。この不安定な揺れが延々と続きやがて破滅的な数値の震度に変わってしまうことを想像した。あまねく家屋やオフィスビルは倒壊し、コンクリに押しつぶされてほとんどの人間はぺしゃんこになる。いつも10時半に出社してくるおっさんはアタマが割れて脳みそが飛び出ている。朝約束通り起きられない人間は死んでもいいと思っているということはオレは運良く逃れられている。このビルで生き残ったのはオレだけかもしれない。割れた5階の窓はビル全体がひしゃげているから2階ぐらいの高さになっていて、ビルのコンクリからはみ出している鉄筋をつたってなんとか地上へ降りることができる。中央通りでは何台ものクルマやクルマから出てきたドライバーが炎上している。都会には川が無いから炎上したドライバーたちはコーヒーショップを襲う。ゴールドコーストのアイスが出てくる機材のノズルをシャワーにして炎上したドライバーは自分の身体についた火を消そうとしている。アイスのノズルにありつけない客はエスプレッソ用の小さなカップにいちいちエスプレッソを注ぎ指先から肘にかけてゆっくりと注いでいる。アメリカンにしろよとオレはいいたくなるが、燃えたくないから近づかない。スターバックスは焼け焦げた皮膚の香りが充満してコーヒー本来の香りを楽しめなくなっている。スターバックスのコーヒーの香りのことを気にしている自分に気づいて思わず苦笑した。するとオレの苦笑をたまたま見ていた視線の定まらない男がオレの方にやってきて「何笑ってるんだよ笑ってるヒマがあったら助けたらどうだ」というようなことを言ったがオレは聞いていなかった。ぐにょぐにょした脂肪を身につけたこの男はものすごく燃えそうだ。オレに説教してるぐらいならおまえがやったらいいだろうということ言おうと思ったがやめた。それは、おまえみたいなやつが燃えるべきなんだよ、という違うセリフを思いついたからだったが、そのことを伝える前に彼は爆発しまった。咥えていたタバコをオレが火を消さず彼の足もとにそっと置いておいたため、彼の衣類についたガソリンが揮発してそれに引火したのだった。都会には川がないから、彼も皆と同じように、スターバックスへと駆け込んでいった。おいおい、スタバは禁煙だぜ?このごろエゴ・ラッピンにハマっている。正確にいうと「満ち汐のロマンス」というCDにハマっている。最近よくJ-POPを聴いていて、誰をよく聴いているかというと、桑田佳佑やサザンや、サザンと桑田は同じかもしれないけれども、あとは井上陽水とちょっと気取って坂本龍一、そしてエゴ・ラッピンである。「満ち汐のロマンス」がものすごくカッコイイ。ちょっと前にも熱狂してよくきいていたが、忘れたころに改めて引っ張り出して聴いてみたけれども最高。アルバムとしての完成度が他とは違うし、何度も繰り返して聴いてもなかなか飽きない。そういった意味ではサザンの「さくら」というCDも同じタイプで、「あやしい夜をまって」は、井上陽水の中でも最高傑作だと思っている。
2003.10.15
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今日はあまり家に帰りたくなかったから大勢を誘って飲むことにした。きりよく仕事が終わったのは19時。客先のオフィスがあるビルの地下に最近オープンした「咲くら」という店で飲むことにした。途中どういうわけか、四国にある4つの県の名前と位置を正確にいえるかどうかという話題になった。四国はわりと簡単で、仲間のひとりがすぐにいいあてた。次に九州はということになり、だれかが九州に属する県の名前を列挙しはじめた。オレは指折り数えていたが、七つしか挙がらなかった。福岡、長崎、佐賀、大分、宮崎、熊本、鹿児島。あれ、九州って9つあるんじゃなかったっけ?ないよ、ないない。今までオレは九州には、9つの県があると思っていたがどうやら違ったようだ。そのことが契機となり47都道府県を言い当てるゲームが行われた。思いつきで抜かされるのは、岐阜や滋賀や福井などだった。東京23区を言おうということになったときには、中野区や大田区、荒川区などが忘れられた。調子に乗ってアメリカ50州を言おうということになったが、ほとんど壊滅状態だった。アメリカの州を言えなかった男たちは、南米の国々を列挙して大喜びしていた。ペルー、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ボリビア(!)、パラグアイ、ウルグアイ、男の子はサッカーで有名な国の名前はよく覚えていた。閉店が告げられ外へ出ると雨が降っていたから自転車を放置して電車で帰ることにした。ブリジストン美術館のところの交差点からすぐに八重洲地下街へ入れるから、雨に濡れたくなかったオレは山手線で帰ることにした。そういえば山手線全駅をあてるゲームをやっていなかったことを思い出した。
2003.10.14
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「HEAT」というマンガの続きを読みたくなってマンガ喫茶へ行くことにした。以前使っていた池袋東口のマンガ喫茶は潰れてしまったから、新しいところを探す必要があったが、探す間もなく見つかった。西口のマルイの前の交差点の「自遊空間」という名前のマンガ喫茶に入った。マンガ喫茶とはいえ、パソコンが設置されているブースもあるから「インターネットカフェ」と呼んでもいい。フロアはやや暗がりの照明で照らされていてオレは少しエッチな気分になったが、とりあえず「HEAT」というマンガを探した。目当てのマンガはなかなか見つからなかった。途中、女の客とすれ違った。祝日なのに制服を着た派手な女子高生もいた。ケータイが禁止されているにもかかわらず仕事の面接を受けるための段取りをいつまでもやめない女の声がどこかの個室から聞こえてきたりしていた。カップルで楽しめるソファーシートという席はカップルで生め尽くされていた。カップルが場所を間違って乳くりあわないように、ソファーシートは個室ではなかった。ところがどのカップルも入口のところを毛布で塞ぎ、外から中を覗き見られないようにしていた。実質個室と化したカップルのためのソファーシート内で、何が繰り広げられているのかはわからなかった。すれ違う客は女が多かった。もともと男には目がいかないから、女が多いと感じてしまったのかもしれない。最近女はよく腰を露出している。スカートとかパンツなどの下に履くものと、上に着ているものの境目から露出された肌色を見るたびもっと見たいと思ってしまう。彼女らの陽動作戦にオレはまんまとはまっているのだろうか。かがんだりしたときにパンツが見えてしまうこともよくある。それは階段の下から短いスカートの中の暗がりを覗きこむ気持ちとは違ってやけにすがすがしい。知り合いなら、パンツ見えてるよ、とも言うが、言ったところで、ちょっと見ないでくれる、と底抜けに明るく返されてオレはどうしようもなくなる。とにかくこのごろ女は腰を露出している。そのメカニズムを早急に解き明かさなければ我々はならない。マンガはすぐに読み終わってしまった。女と話をしたくなって、店内だけのチャットに参加しようと試みたが、目の前で繰り広げられていたのはおそろしくつまらなく意味不明な挨拶だけの会話だったため、参加するのをやめた。話が盛り上がったらあわよくば店外に連れ出してデート、というプランも一瞬よぎったのだが、このアタマの悪い会話しかできない奴らと対等になるのは嫌だったし、どちらかというと女と2人で話をしたかった。全く関係のない男から監視されながら女を口説くという労働をする気にはなれなかったから、他のチャットサイトを探した。幸い、女が1人でチャットルームに待機してる場面に遭遇した。迷わずオレは「入室する」ボタンをクリックした。「こんにちは」オレより先に、女の方が挨拶をくれた。女はこのサイトで、かなりの経験値を積んでいた。「アバター」というシステムで女が着飾っていたのは西部劇風のコスチュームで、背景にはハリウッドの看板が躍っていた。かたやオレのアバターはというと、衣類はTシャツしか持っておらず、背景は白いままだった。派手だね。「そうお?ピンクは昔嫌いだったけど、今は好きになってきた」自己紹介のかわりにこのサイト「リバース」のURLを送った。このサイトでは初心者だし、たしかにハリウッドの看板は後ろにはないし衣装も持っていないけれども、オレにだって蓄積してきたものがある、というようなことを伝えたかった。「それで、女を抱きにいったの?」彼女はすぐにオレの日記を読んでくれたようだった。それから1時間だかそれぐらい話をして、途中で突然切れてしまった。嫌われてしまったのだろうか。オレはまた新しいマンガを読み始めた。またどこかで遭遇しないだろうか。「ティ」というものすごく発音し辛い名前の女だった。
2003.10.13
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自転車は車道を走ることになっている。オレがそう決めたというわけでなく、確か法律かなにかそれもちゃんとした道路交通法とかに、「自転車は軽車両だから、車道を走りましょう」なような条文が載っているらしい。ところがそのことは案外知られていない。なぜ知られていないかというと、アナウンスされていないからだ。アナウンスされていないのはなぜかというと、子どもも年寄りもアホな大人も、本当にみんなが自転車で車道に繰り出してしまうと、都内は大パニックになってしまうからだ。「自転車で車道を走っていい。」走っていい、という言い方はさておきこれは事実だ。2車線だろうが3車線だろうがいくら交通量が激しかろうが、自転車は車道を走っていい。歩道を捨て車道に出よ、さてこれを一億の国民が一斉実施したらものすごいことになる。まず前を塞がれたクルマは自転車以上のスピードを出せなくなる。クルマはストレスを貯める。なにしろ小学生とか、道交法を知らなくてもいい年齢の人間や、80とかを超えた道交法を忘れているとしか考えられない老人が車道へ一斉に繰り出すのである。道は無秩序状態と化す。クルマはクラクションを鳴らすに鳴らせない。自転車が、車道を走るべきだということがメディアによりアナウンスされてしまっているからだ。朝のワイドショーではレポーターがスーツを着て車道中央を走っている姿をカメラが追い、予定通りクラクションが鳴らされる。ああ、今ならされてしまいました、後ろから、ものすごいスピードで迫ってきた乗用車がクラクションを鳴らしています、テレビ朝日のものですが、なぜ今鳴らしたんですか?《クリティカル・マス》という市民運動があって、それはどういう趣旨の運動かというと、クルマ中心の交通システムに不満を持った自転車乗りたちが、もっと我々にも快適に走らせろよ、という事を訴えるための運動だ。オレの解釈だけだと肩よっていて誤解を招くかもしれないから公式(?)サイトを紹介しておくが、その内容に触れると反吐が出そうだ。http://kobe.cool.ne.jp/green728/ 少なくともオレはこういった偽善者の集まりの言葉にはアレルギー反応を起こしてしまう。が、理想とする交通システムのビジョンは似ているから、この集まりにオレは一度参加したことがある。結論から言うと、最低だった。時間通り集まったにもかかわらず集団はなかなか走り出そうとはしなかった。それはなぜかというと、「主要メンバーがまだ来ていない」という理由からだった。その時点でオレは帰ろうと思ったが、仲間も一緒にいたし、どう言う風にクルマ社会への憤懣をこの集団が表現するのか興味があった。1時間近く遅れて《クリティカル・マス》は渋谷NHKホール前から青山通りを原宿方面へ向かってスタートした。50台近い自転車と20名のインラインスケートが、道路の左端の車線を占領してゆっくりと走った。しかしただ、それだけだった。街を歩く着飾った女には奇異のまなざしを向けられ、本来車道を走ってはいけないことになっているインラインスケートは警官に怒鳴られながら、警官の視界の範囲内だけ歩道を走行するといったような情けないことになっていた。先頭の貧乏くさくて細い男は黄色いTシャツを着ていて全く尊敬できなかった。彼は手信号で嬉しそうに後続を誘導し信号ではきっちり止まり《ジェントル・メン》を気取っていたが、身なりや顔つきがみすぼらしくて全く説得力がなかった。オレはこの集団の一員として走り出して10分もしないうちに全身が痒くなってきていた。いつものアレルギー反応かもしれなかった。《クリティカル・マス》は、集団の中で集団と同じトーンでしか自己主張できない小市民の集まりだった。残念ながらオレは彼らを、軽蔑することしか出来ないまま、途中で別れた。《クリティカル・マス》は、弱い人間同士が束になって市民運動をしたところで、嘲笑されるか無視されて結局自己満足で終わってしまうということを実証しているだけの集団でしかなかった。オレがこの集団の一員として数えられることが嫌で嫌でたまらなかった。間違ったことをしていてそれに気づかない、気づこうともしない集団のために働きたくはなかった。自転車が車道を走るべきだということ、このアナウンスは1人でもできる。
2003.10.12
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昼の12時ごろに目が覚めてこれ以上寝ているのも苦痛だから仕方なく起きてコーヒーを飲んで朝飯を食う。朝飯を食ってから夕方になってビールを飲み始めるまでに腹を空かせるため、つまりは酒を美味くのむために腹をすかせなければならないわけだがそのために、外へ出て日の光を浴びて、朝と夜の境目をはっきりとさせておかなければならず、だからなにも用事がなくとも街へ出かけることにしている。この場合の「街」とは地方公共団体を表す単位の「町」とは違っていて、店が集まっていて人が集まる場所という意味の「街」であり、説明なしにオレが「街」という場合はおおむね池袋のことを指す。東京に出てきたときの最初のターミナル駅が池袋だった。オレは18だか19だかそれぐらいのころ埼玉の朝霞市というところに住んでいたが朝霞から東武東上線の準急で池袋までは20分だった。その当時池袋はとてつもなく巨大な街だという印象しかなかった。フットワークのいい棲家を求め、やがて池袋に限りなく近い土地に移り住んでからは巨大な街であるという印象は無くなったが、歩きづらいし不愉快であるということにはかわりなかった。ある日自転車を手に入れた。歩道には無秩序に歩く人がひしめいていて自転車での走行は困難を極めた。ところが人ごみからはじき出されるようにして車道に出た瞬間、恐ろしくスムーズにオレの自転車は進行した。渋滞で停止しているクルマの流れの左端の路肩をバランスを保ちながら細くつたうようにして走った。他者による障害はほとんどなかった。進路を塞ぐのはオートバイだけだったが、そういうときは苛立ったように対向車線に飛び出たり、歩道へ入りこんだりしてクルマ2,3台をショートカットするのだった。自転車を手に入れて、フットワークのよさを実感するようになった。街はまだオレやオレの自転車を受け入れてはくれない。その証拠にオレやオレの自転車はクラクションを鳴らされる。ホーンの長さやトーンやリズムや音量で、クルマの中にいる人間の苛立ちや表情が伝わってくる。クルマの中の人間はクルマの中が完全に安全だと思っている。だからクルマの中からしかクラクションを鳴らさない。路上を歩いていて前を無秩序に横切ったりふいに立ち止まったりするカップルがいたとしてもクラクションを鳴らせない人間がクルマの中でだけクラクションを鳴らしている。路上だとトラブルに鳴るかもしれないからだ、クルマの中にいれば安全だと思っているからだ。速く走れるのはクルマではなく自分だ、おれは鉄のボディを持っているから強いのだ、人や自転車のせいでスムーズに走れない、無秩序な歩行者や自転車は視界から去れ。そういった苛立ちが伝わってくると自転車のオレはわざと車道中央に寄り速度を緩めて後ろの苛立ったクルマの前に立ちふさがる。それでも鳴らされたときには、スタンドを立てて車道中央に自転車を停め、後方の進路を完全に塞ぎ停車させ、運転席側に詰め寄るか、酔っ払っていたらボンネットの上に飛び乗って、もしキレてみさかいがなくっていたらフロントガラスをバットで叩き割るかもしれない。運転席の男が弱々しく出てきて、決まって口にする言葉はこうだ、「警察いこうか」ふざけるな。トラブルを自分で収束する覚悟のないやつに、クラクションを鳴らす資格はない。
2003.10.11
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そういったわけで今週は非常に忙しくしていた。忙しいからといって日記をさぼりたくはなかったが、平均して一日のうち仕事にかかる時間が16時間とかそれぐらいだったため、残り8時間を何に使うかというと、酒を飲む時間と、睡眠のための時間と、日記を書く時間の3つの快楽に優先順位をつけたときに、1.酒、2.睡眠、3.日記、となってしまい、だいぶさぼることになってしまった。幸い週末は休めるので、なんとか今この遅れを取り戻そうとしている。今週どんなことがあったかとか、社会的ななにか誰かに伝えたいことを考えていたはずだったなとか、必死に思い起こそうとしているけれどもなかなか仕事以外のテーマで書くことが浮かんでこない。金曜に仕事が終わって、疲れ果てて仲間と飲みに繰り出したが八重洲あたりの居酒屋は満員でどの店に行ってもなかなか入れなかった。あまり人がいないような所へ行こうということになって、客先のオフィスがあるビルの裏手の、新潟の地酒を飲ませてくれる小さな小料理屋へ入った。徹夜明けの火曜に行った性風俗店の女のコの出身地が新潟だったことを思い出した。「最近寒くなったよね」細いカラダに巻かれていた極彩色の布を外しながら女はいった。寒くなったね、もう冬だね、スキーとかスノボの季節だね。「スキーとか行くのって時間とお金かかるでしょ?わたし新潟だからさ、スキーなんか簡単に行けるもんだと思ってたのね、東京来てから何度かスキー行ったんだけど、疲れちゃうからもう行くのやめた」背中には色の入っていない刺青が彫られていた。いいね刺青、カッコイイよ。女は下着をつけておらず、すぐに裸の身体が現れたがオレはそのことには触れなかった。どうせ裸になるのだから、いちいち下着を着脱することがこのコは面倒だと思っているかもしれないと思っただけだった。服を脱いで並んで立ったときに女の目線が意外と高いことに気づいた。あれ、背でかいね。もっと肉感のある女を抱きたいと思っていたのだが、案内された2階に現れた女はとてもスリムな体つきをしていてオレは少しがっかりした。背の高い細い女の胸は美しいカタチをしていたが、深い胸に顔をうずめたいというオレの欲求をみたしてくれそうにはなかった。服を脱いで身体を洗ってもらって、オレが風呂に浸かっている間に女は自分の身体を洗ったりバスタオルを畳んだりしていて、オレはその裸の女の胸や腰つきではなく、色の入っていない刺青に視線を注いでいた。刺青、まだ彫ってる途中なの?「少しずつ彫ってもらってるんだけどね、痛いからさ、あんまりいかなくなっちゃって、もういいかな、って。」こういった類の店に行くと刺青を彫っている女によくあたる。身体中にピアスをつけた女もいる。女のピアスや刺青は嫌いではない。むしろ憧れている。身体に傷をつけるということには、血族の流れを断ち切りたい、自立したい、強くなりたい、といった願望が含まれているという。細くて白くて曲線的な身体の美しい女が横になったオレの上に乗ってきた。刺青で武装した身体と鍛えぬかれた性器と、強い精神と、日々のトレーニングで磨かれた技術でもってオレにサービスをしてくれている新潟で育ったこの女が、痛烈に愛しくなった。
2003.10.10
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ミスを犯した人間の責任を問う行為にはなんの生産性もないし、責任を問うために時間を使うなら、どうやって修復したらいいかとかミスが起こらないようにするにはどうしたらいいかというような体質改善のための協議をしたほうがずっと合理的だ。しかし「ミスをするのがあたりまえ」という考え方が蔓延し定着してしまうのは大問題だ。ミスをすると必ず誰かに迷惑がかかる。プライベートな時間を削られるとか、同じ作業を何度も繰り返さなければならないストレスを与えるとかいったことが「迷惑」にあたる。オレの周囲の人間はあまり他人のミスに対して怒ったりすることはない。怒ったところでミスがなくなるわけでもないし、以降の作業がスムーズになるというわけでもない、つまり「怒る」ということが合理的ではないことを知っているから、怒るということをしないのだ。我々の客は銀行だ。我々システム屋が比較的個人を尊重していて上下関係があまりない体質であるのに対して、銀行は完全な封建主義だ。下位のものは上位のものに対して絶対服従なのが封建主義だ。銀行の上位者がなんという肩書きで呼ばれているかというと、「代理」や「調査役」である。代理は何の代理かわからないし、調査役といっても何かを調査し続けてるというわけではない。彼らは「シマ」と呼ばれる同じ仕事をする単位事の席の集合の上座に鎮座ましましている。そのシマの集合の上座の位置は「役席」と呼ばれている。役席に座っている肩書き付の男は、「役付」と呼ばれ形式的に敬われている。役付は常に怒号や罵声によって下位の者を支配し仕事を管理している。彼らは他人のミスには寛大ではない。ミスに対してというよりも、ミスを犯した人間に対して、呪いや罵りの言葉を吐き続けて責めたてる。人格の尊厳を完全に無視し、ときには感情のおもむくまま書類や文房具が投げつけられ、デスクは激しい音を立てる。そのとき周囲は静まり返っている。オレはその代理だか調査役だかわからない人物を不愉快に思っているが、キレるわけにはゆかず、じっとしている。じっとしていることにはもう慣れた。銀行という組織の身内ではない我々が彼らの標的になることはないが、客である銀行から金をもらって仕事をしている立場上、役付には絶対服従かもしれない。前回我々が構築したシステムで障害が起こったときに、我々の責任者は役付に散々しぼられていた。そのことが契機になり、システム全体として今回は絶対にミスを犯すまいと誓った。そのため、徹底した検査や検証を行った。何万通りもの数値が、膨大な時間により手作業で検証された。やがて天文学的な全ての数値は0コンマ1の単位でもぴったり一致した。地球の危機を救った英雄の活躍を喜ぶ管制室のような喜びに満ちた雰囲気に我々のシマはなった。「怒られるかもしれない」という恐怖は、仕事の精度を上げるために有効に機能しているかもしれない。銀行が、あまりミスを犯さないということも、封建主義的体質が関係しているのかもしれない。
2003.10.09
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この日記は10月8日水曜の日記となっているが書いているのは10日金曜が土曜に変わろうとしている深夜だ。今週は仕事が忙しかった。1人でするフェーズの仕事なら計画通り進められるから忙しくなることはほとんどないが、最初から最後まで1人でするような仕事は存在しないから、他人のせいで計画が遅れたり、他人のミスでプライベートな時間が削られたりすることはよくある。オレのミスが他人に影響を与えることもある。オレのミスの修復を待つためだけに仲間は深夜まで残ってくれていたりする。ミスをしたオレは当然彼らに申し訳ないなと思っているが彼らはオレを責めたてたりはしない。オレでなく他の誰がミスをしても責めたてたりしない。しかし誰もがミスを犯したくないと思っているし、ミスを犯したら最悪な気持ちになる。仲間の時間や全体の計画や客への信頼が失われるということを感じているからだ。誰でも必ずミスは犯すが、だからといってミスしていいということではない。ミスが起こったら迅速に修復するべきだし、組織的なリスクマネージメントとして体質を改善してゆくことも必要だ。ミスが起こった原因について考えることは重要だが、ミスの責任を問うことはばかげている。いや、本当にそうだろうか。
2003.10.08
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眠くて仕方なかったのは徹夜明けの朝と、昼飯の前のわずかな時間だけだった。朝と昼にそれぞれ30分ずつ仮眠をとると、それだけでもう眠らなくてもいい身体になった。やがて時間の感覚や、恋人や家族を思う気持ちからまず薄れていって、金銭面の不安、将来のことや友人や体調のこととかそういったことは全く考えられない。ただ目の前にある仕事を機械的にこなしている。この仕事が嫌だとか楽しいかとか考えられない。もっと効率的なやり方があるかもしれなくてそのことを考えるよりも、まず目の前の仕事を片付けることのほうが重要だ。目の前の仕事が片付いたときには、効率的なやり方を考えようとしていたことも忘れている。次の仕事のことを考える。次にやるべき仕事をはやく思い出さないと、次にやるべき仕事のことを忘れて時間をロスする。あとどれだけの仕事量をこなしたらタバコを吸いにいけるだろうか。さっき飲んだコーヒーはあまり効いてくれない。視界が白く濁るから目をこする。充血しているのはそのためだ。誰かが話している声や足音や物音も気にならない。顔を見るだけでたまに殺意を抱かせる男は今日もガキのように喚きたてているがイライラしない。眠くないんですか?近くの席の女の同僚が声をかけてきた。あうんなぜか眠くないねもう通り過ぎたみたい。中村さん酔っ払ってるときの顔になってますよ?確かに酔っ払っているときみたいだ。同時に一つ以上のことを考えられない。この女の胸元から少しだけ見えるブラのヒモだけが気になる。ちょっと胸元あまいんだけどさ、挑発してんの?なにちょっと居酒屋の会話じゃないですかそれ。裸の女を抱きたい。この女でもいいが抱くまでの面倒なやり取りを省略したい。しかしこの女のような肉感の豊かな身体がいい。豊かな胸の丘陵から性器の匂いのするような女がいいがこの女ではなくもっと知性のない女がいい。女を抱きたい。仕事が終わったら、女を抱きにいこう。
2003.10.07
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昨日からずっと仕事をしていて朝になってしまった。夜の間中会社にいて朝を向かえるのと、ちゃんと家から出勤してきたのとでは風景が違う。酒を飲まない夜を過ごしたのは何ヶ月ぶりだろうか。たまに徹夜をしたほうが、酒が抜けて身体にはいいのかもしれない。30分だけ寝た。歯を磨き顔を洗った。すっきりするわけではない。朝の儀式だ。「昨日徹夜しちゃってさ」とかなんとかいってどういうわけか徹夜は自慢のネタになる。仲間6人とそろって徹夜して、まだ他に誰も出社してきていないから自慢する相手がいない。だからここに書いている。「すごい」とか、「きゃーすてき」とかいわれないだろうか。「徹夜なんてめずらしいことじゃないよおれなんかしょっちゅうだよ」といいたい奴の得意げな顔が浮かぶが、しょっちゅう徹夜をする仕事をなんの疑問を持たず嬉しそうにこなしている奴はどうにかしている。スキルや計画性の無さをみせびらかしているようなものだからだ。徹夜はけして自慢できる仕事のスタイルではないが、どういうわけか自慢したくなる。なぜだろう。
2003.10.06
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休日の朝に目覚める時刻が遅くなっている。必ず8時には一度起きてトイレへ行ってから冷蔵庫のミネラルウォーターをコップ半分だけ飲んで喉の乾きを解消する。まだ寝足りないし、体調を整えてから寝ることでものすごく気持ちのいい睡眠が出来そうな気がする。寝室は3階でトイレや冷蔵庫は2階にあるから移動には階段の上り下りが発生する。このことで睡眠に影響を及ぼさないか心配だ。此の頃朝夕は冷えるが寝室の窓は10センチだけ開けている。密閉されたところにいると空気が澱むから息苦しいしこの部屋の酸素を全て使いきってしまったら苦しそうだから窓はいつも10センチだけ開けて寝る。「CDラジカセ、黒色カラーテレビ、お引取りいたしております、CDラジカセは、鳴らなくても結構です、カラーテレビは、映らなくても結構です、無料にて、無料にてお引取りいたしております」軽トラがスピーカーでアナウンスしながら、家の周辺を何度も行き来している。今日はその間の抜けたアナウンスで起こされた。昔で言うところの廃品回収車の類だろうが、オーディオ製品の廃品を集めているこの軽トラのおじさんがどうやって収入を得ているのか気になって寝ていられなくなった。同じ町にそれほどいらない電化製品があるはずもなく、一日1個か2個回収したとして、それを買い取る業者は1点につき500円といったところだろう。軽トラの維持費やおじさんの労働力を計算に入れた場合、得な商売だとはどうしても考えられない。そんなことを考えていたら目が覚めた、もうアッコにおまかせが始まっていた。2階のリビングに下りてきてタバコに火をつける。このごろ偽物の煙草が出回っているらしい。包装紙の折り目が微妙に違うらしい。そういえばタバコを売っている店はどこから製品を仕入れてくるのだろう。タバコを売る店はタバコを売ることで利益が出るのだろうか。仕入れ値は一箱いくらなのか気になった。スーパーライトは270円だが120円ぐらいは税金だろうし、流通にかかるコストや自販機の維持費、原価やJTの利益分などを差し引いたとき、小売店の利益はいくらになるのだろう。そういえば金持ちそうなタバコ屋を見たことがない。裕福そうなタバコ屋を見た奴が、タバコを売れば儲けられるに違いないと思ったりすることを防ぐために、タバコ屋には「貧乏そうにしていろ」という通達が国家様から下されているのかもしれない。コーヒーをいれた。フィルターのセットに失敗して、豆が少しポットの中に入ってしまい苦味の強いコーヒーになっていた。今日は特になにもする予定がないから、まず今日何をして過ごすかということを考えるために、コーヒーには砂糖をたっぷりと入れる必要がある。
2003.10.05
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「サボテン枯らしてるっていってたから心配なんだけどさ、ちゃんと育ててね」ハイビスカスの苗木をmimiからもらったのは9月7日。京都旅行から帰る新幹線の中で、垢抜けないディズニーランド柄のボストンバッグからmimiは土産袋を取り出して、まるで食べていた菓子を取り分けるようにオレに差し出したのだった。1週間後。思い出したようにオレはその袋を開けた。長さ10センチ直径1センチほどの、汚らしい木のきれっぱしが入っていて、上下の切り口には蝋が塗られていた。この蝋を削って、水に挿して育てるのだとmimiがいっていたはずだった。四川風豆板醤が入っていた空き瓶があったのできれいに洗い、ラベルをはがした。そこに水道水を入れて、蝋を削った苗木を入れた。半月後。一向に育つ気配はない。「なんにも育たないぞ、金返せ。」mimiにメールした。「こっちこそ金返せ!水はちゃんと替えてる?直射日光にあててる?ぷつぷつした根がでたら、液体肥料与えるってかいてある。mimiのはもう根が生えてる」育て方を間違っていたようだった。1ヶ月後。まだ根も生えてきていない。「まだ根も生えてないよ、金返せ。」mimiにメールした。「こっちこそ金返せ。わたしのはもう芽が出てるよ?」ケータイで写真が送られてきた。mimiの苗木だったが、どこに芽が出てるのかよくわからなかった。「ちっさいぽつぽつあんじゃん?それが芽。白いぽつぽつが、根っこ」下からどっしりとした根が生えてきて、上から三つ葉のような芽が出てくるのかと思ったら違ったようだった。木の表面から、コケのように根や芽が生えてきていた。だまされた。金返せ。今日。東急ハンズで液体肥料を買ってきた。豆板醤のビンに、数滴垂らした。より日のあたる場所に、ビンを移した。贈り物としての、植物の効果を考えた。ハイビスカスを育てるたびに、mimiのことを思い出していることに気づいた。
2003.10.04
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いつまでもだらだらと続いて終わらない仕事は泥酔したときにするセックスとよく感じが似ている。もう1時間ぐらい腰を振りつづけているが快楽に到達するためにはあと2時間は必要かもしれない。腰を振り続けて疲れているが休んだらもう永遠に働きたくなくなりそうだ。仕事をしながら今日のランチをなににするのか同時に考えられるように、セックスしながら全く関係のない話を女と交わすことも可能で、酔ってるからなかなかいかないよ、というと今まで苦しそうな声を出していた女は苦しむ表情をやめて、どうするもうやめとく?それとも口でしてあげようか、といった。そこからまたしばらく腰を振って射精を試みて、女も元の苦しそうな表情に戻ったが飽きてきて長くは続かず、諦めて女から身体を抜いて身を翻してベッドに横になり仕方なく女の肩を抱いてオレは肩で呼吸を整えた。ちょっと調べて欲しいことがあるという連絡を受けて客先から会社へ戻ると、定時を過ぎているにもかかわらずオレの席の周辺のシマは賑やかになっていて、誰一人として帰り仕度をしようとはしていなかった。オレは自社に戻るなり頼まれた調査を行って報告をまとめてリーダーに提出し、リーダーは納得したようだった。この時点で帰れるかもしれないと期待していたが、6名ぐらいの仲間が残って仕事をしていたからその見こみは薄いかもしれないという観測もしていた。観測していた通り、依頼された調査以外の仕事をオレは次に与えられ、この時点で夜の8時だったから全て終わるのが11時ぐらいになると見積もったから、金曜の夜に酒を飲んで大騒ぎしたいという計画は断念せざるをえなくなった。仕事をしていて気持ちいいと思ったことは一度もないけれども、仕事はセックスによく似ている。終わらせるべきことはセックスに例えるなら射精だけれども、仕事にも必ず終わらせなければならないことがある。終わらせたところでそれほど達成感があるというわけではないが、終わらせないままやめて帰ってしまった時の無念さを味わいたくはないから、ぜひ最後までやってから帰りたいと痛烈に思う。作業中にイレギュラーな調査依頼を2件ほど受け、結局11時半になった時点でグループ全体が撤収する方向に方針がかたまった。まだオレの作業は4分の3しか進んでいなかった。つまり仕事を残して帰らなければならないことになった。射精しそこねたセックスみたいだった。
2003.10.03
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YahooBBがすこぶる快調だ。前に契約していたプロバイダであるとしまネットの、トラブル対応における危機管理能力の無さに失望したオレが新しいプロバイダとして選んだのはYahooBBだった。料金やサービス内容を比較して最も優れているから選んだというわけではなく、インターネットエクスプローラを立ち上げると開かれるYahooのサイトに掲げられているバナー広告によって、オレが自動的にYahooBBを選ぶように刷り込まれてしまったからだろう。オレがバナー広告をクリックしてしまうことはポルノサイト以外ではまずありえないが、あのチカチカ点滅するデザインの広告が、絶大な宣伝効果を持っているということをオレは、YahooBBを選んでしまったことで実証することになったわけだった。スピードアップはあまり実感できないが、無線LANの電源を入り切りする必要がなくなり、全くストレスのないインターネットライフを送っている。としまネットのケーブルモデムから、Yahooのモデムに切り替えてかなり安定してきていたから、としまネットを解約する必要が出てきた。ところがこのとしまネット、解約の工事に費用がかかる。オレはこの解約の費用を払うことにどうしても納得がいかない。満足なサービスを受けられないと判断して契約解除を決断したからだ。具体的には、ウイルスMSブラスターでパケットが大量発生して、CATV内の回線全体がトラフィックになり、ネットに接続出来ない状態が5日も続いた。これはプロバイダの責任であるとオレは判断した。ところがプロバイダには、そのことに対するペナルティーを引き受けようとする姿勢は一切無かった。解約にかかる費用を支払わないこと、これは、オレがとしまネットに課すペナルティという意味も含まれている。水曜のランチ後、解約の申請のためにとしまネットに電話をした。平日の昼間ということもあってか、電話にはおねいちゃんが出て対応してくれた。名前や電話番号を告げ、解約申請の手続きはスムーズに進行した。「さしつかえないようでしたら、解約の理由を教えていただけないでしょうか」「MSブラスターのとき、だいぶ止まってたじゃない?あれで。」「かしこまりました。」「解約の費用ってなんかかかるんでしたっけ?」最後に付け加えるようにオレはいった。「撤去作業にかかる工事費用はお客さまの負担とさせていただいております。」「その費用、払うつもりないんだけど」「それは、どういったことでしょうか?」「事故を起こしたわけでしょ?ウイルスのときに。それで解約しようと思ったわけで、こちらの都合ではないということですよ。」しばらくしてまたとしまネットから電話がかかってきた。オレが費用を払わないといった件で、責任者がじきじきに出てきたのだった。「今回のMSブラスターの件に関しましての当社の見解といたしましては、あくまでお客さまのパソコンから発生したウイルスがトラブルの原因となっておりまして、原因は当社にあるものではございませんで、借款をごらんになっていただいてもですね、そういったことになっている次第でして、なのでお客さまには、払っていただくようこうやってお願いしているわけでしてその、何人の方々にも、納得していただいておりますので、中村さまだけ特例にするというわけにはいかないんですよ・・・」見解とか借款とかそんなのはどうでもよくてね、こちらとしては支払うつもりは一切ないわけ。その意思は伝わってる?「はあ、ともうされましても・・」解約費用は自動的に口座から引き落とされるようになってるんだっけ?じゃそれをやめる手続きをお願いできるかな?「そうしましたらあの、引き落としには承諾していただけないということで、未納というカタチにさせていただいて、引き続き支払いをお願いするというカタチでよろしいでしょうか。」ああ、いいよ。一切払うつもりないけどね。「かしこまりました、それでは解約書を送付させていただきます」
2003.10.02
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「中村さんは、浮気ってするんですか?」昨日キュートな銀行員と飲んだ。銀座一丁目のガード下に「魚や一丁」という居酒屋があって、宴会を企画しようとするたびに彼女はいつもその店に予約を入れようとするのだったけれどもいつも満席になっていた。なぜそんなチェーン店の居酒屋に固執するのかオレには理解できなかったけれども彼女は「ラーメンサラダがおいしいんですよ、オススメです」などといって我々を連れていきたがっていた。彼女と知り合ったのは今年の3月だから約半年間、キュートな銀行員から「魚や一丁」という店がいいと薦められたままになっていて、でもタイミングが悪くて1度も行けずにいたのだった。「じゃあ今度はこじんまりでにしますか」こじんまりでに、ってなんだよ。キュートな銀行員は日本語が少しおかしい。電話対応やビジネス会話では完璧な日本語を使いこなすのに、普段の会話では独自のスタイルを貫きとおしている。こじんまりと、ならわかるけど。「えー、いいません?こじんまりで。フツーにいいますよ、こじんまりでに、で区切るんじゃなくて、こじんまりで、で区切るんですよ。いいますよねぇ?」いわない。こじんまりとした人数で、魚や一丁へ行くことになった。3人。オレとキュートな銀行員と、オレの同僚の女。同僚は、スカートとかは全くはいて来ないし、網タイツとか7分袖とか、女のコらしいファッションを全くしない。その割には男が大好きだと豪語していて、好きなタイプを芸能人にたとえるとガクトなのに、なぜかヒゲの生えた男性が好みの、あの先週の木曜に、オレにヒゲを生やしてみろといった女だ。髪型もファッションも笑い方も男のような女と、キュートな銀行員と、そしてオレと、女2人に男1人、つまり「両手に花」という状態でオレは昨日、魚や一丁で飲んだ。オレはこの前日の夜、楽天日記に「恋愛謳歌」というテーマのコラボ日記を書いていた。男と女は恋愛を謳歌するタイミングが違うとかいうようなこと書いた。翌日のこの宴会でも彼女たちにも同じような内容の恋愛に関することをつらつらと語っていたのだった。「中村さんって、浮気ってしないんですか?」それはどういう回答を期待して質問してるの?浮気したことがあって浮気の体験を聞きたいのかそれとも、したことないし今後一切するつもりもない、というような偽善的な言葉を聞きたいのか、あるいはオレと浮気したいというシグナルなのかいまいち判断できないから、ちょっと説明してくれるかな?「あんまり考えずに質問してしまいましたすみません。」そもそもどこからが浮気なの、キャバクラ言っておねいちゃんと話すのは?風俗行って裸の女を抱いて口の中で射精したりするのはこれは浮気といえるの?「お金払って行ってるんだから別に浮気じゃないと思うけど」嫁じゃない女をたまらなく好きになることはあるけれども、それが浮気だとするならばそういうことはまれにあるかもしれない。女の倫理観から言えばそれはとても許しがたいことかもしれないけれども、オレとしてはものすごく切実だったりしてね。それよりも紺野さんは、浮気とかは、しないんですか?「どうでしょう、するかもしれません!」
2003.10.01
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