2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
全2件 (2件中 1-2件目)
1
その昔、寺がマスコミの役割を果し、教会が商社のようだったことを考えれば、宗教が庶民にとって、必要不可欠な存在だったことには納得がいくかもしれない。重要な情報を伝達するとか、貴重な商品を流通させるとかして、その恩恵を消費者たる門徒にもたらすことにより人気を確保し、ブランドの価値を高められたればこそ、ありがたいものとして君臨できた。ところが今や、既成の宗教が伝える道徳や哲学のみの有り様だけでその人気を維持することはできず、古い宗教がかかえる信仰もろとも、廃れていってしまった。我々、今に生きる者にとって、そういった寺や宗教が送り出す宗教はまったくもって必要ない。日本人が宗教に対して無関心になって久しい。果たして我々は、本当に宗教を必要としていないのだろうか。冒頭にも述べたように、現代におけるマスコミや商社は、巨大や資本や物量や、ソフィスティケイトされたハイブリッドなストラテジーでもって、庶民の心をつかもうとしている。ゴミのような情報をありがたがり、ガラクタのような商品を争うようにして手に入れようとしている民衆たる我々の様子を、俯瞰してみたらひょっとすると「狂信的」だとはいえないだろうか。ひとつ冷静になって、まわりを見渡したほうがいいんじゃないですかね。多事総論でした、というような説教じみたことをいいたいわけじゃない。オレはわりとこのごろ、「ソニー信者」になってきたんじゃないかな、と思ったところから、そのことを書こうとして、上のようになってしまった。携帯ゲーム機のPSPをものすごく気に入ってしまい、こないだ新型が出たので、必要ないのに2機目を買ってしまった。そういえば携帯電話もソニーのプレミニだし、こだわって買ったわけではないが、テレビもDVDレコーダーもソニーだ。小さい頃、家にあったステレオがソニー製だった。巨人ファンの父親を持つ子どもが大人になったときに、父親の機嫌が巨人戦の勝ち負けに左右される思い出が刷り込まれてそのまま巨人ファンになってしまうように、父親があこがれたブランドをそのままあこがれてしまうのだろうか。昔のステレオに刻まれていたSONYの字体は、今の製品に書かれているのと変わらない。初代プレイステーションが出たときは衝撃的だった。立体的な人型ポリゴン同士が格闘するゲームには夢中になった。当然ながらPS2も持っていて、なぜか2台ある。残念ながらパソコンはソニー製ではない。パソコンは消耗品であるという考え方が強いからかもしれない。いかなる新製品であろうとも、急速に古ぼけてゆく宿命を持ったパソコンを通じて、ソニー製品の衰退をみるようで嫌なのだろうか。そんなことは今までこれっぽっちも考えたことはないけれど。で、PS3を買った。本当はこれだけをいいたかった。爆発的に売れてるわけでもなさそうだし、ソフトの種類もまだまだ少ないみたいではあるけれども、1年後か2年後かにどうせ買うなら今買っても同じと思い、ほとんど衝動的に、先週買った。20万のパソコンを買うより、こっちのほうが断然うれしい感じがする。感じとしては、ものすごくいい。
2007.10.24
コメント(2)
「俄」である。「にわか」と読む。このたび講談社から続々と、司馬遼太郎作品が新装版として出されている。従来版より文字が大きくなったり、表紙のデザインが刷新されたりしている程度の代わり映えである。新しい本が本屋で平積みされているとつい手にとってみたくなる。司馬遼太郎の作品となればなおさらだ。「俄」の主人公は、明石屋万吉という。知らない。聞いたこともない。たいがい、歴史に名を馳せた人のことをもっと知りたいと思うから歴史小説を読む。明石屋万吉なる人物は、他のどのメディアにもでてきていないから、本当なら知りたい欲求もわかないし、時間をかけて本を読もうという気にもさらさらならない。ただ、本の裏にこう書いてあったから買って読むことにした。「”どつかれ屋”として身を起こす。やだて生来の勘とど根性と愛嬌を元手に、堂島の米相場破りを成功させ、度胸一の極道屋・明石屋万吉として知らぬ者のない存在となった。」やがて読み終えたわけだけれども、途中からというかほとんど最初のほうから、明石屋万吉がこすりつけさんに見えてきて仕方がなかった。こすりつけさんとは、単なる友人で、しばしオレの日記にも登場する非常に愛すべき人物なのだけれども、そのことはそう多くの人は知らないし、なかなか伝わらなさそうな感じの人でもある。たとえば万吉のように、なにか相場破り的なことを成功させでもすれば、名も売れてそれなりに人から愛されることもできようと思うのだけれども、そんな単純なご時世でもない。これ以上こすりつけさんの評価をするとあとで何をいわれるか怖いのでやめておくけれども、とにかく小説の中の明石屋万吉なる人物に、こすりつけさんを当てはめてずっと読んでいた。較べるとやっぱり小説のほうがカッコ良すぎたり、時代としての思考が単純すぎたりする面はあったものの、勝手に配役してみた割には、最初から最後までこすりつけさんは演じきってくれた感じがする。彼を抽象化して再構築したイメージとか、あとは勝手な期待だとかがそう見えたのかもしれないけれども、だとしても想像するのは勝手だし、歴史上の人物を、今いる人にあてはめてみたりすると世の中の仕組みがわかったような気になることもある。ただこれがオレ一人の妄想なら誰にも迷惑をかけずにすむのだけれども、なんとなく妄想を発表したくなる癖がオレにはあるようで、この本をこすりつけさんに送りつけてしまった。小説の中の万吉は、ひとことでいうとおそらく「男らしい」。根性があって人に愛されて、痛快に生きた主人公に似ているからといって本を送りつけてしまうのは、なんとなくおしつけがましいようでもあるし、媚びているようにもとられるかもしれない。でもどう思われようとも、読書中に育んだ妄想の着地点はそこしかないとも思われた。本は苦手といっていたわりには、なんとなく全部読んではくれたみたいだ。まんざらつまらないというわけでもなさそうだったし。それはよかった。
2007.10.04
コメント(1)
全2件 (2件中 1-2件目)
1