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ここで訂正があります。 記憶の中にしかない「日記帳」ですから勘違いや思い違いが随所にあるようです。 思い違いの一つが、カレオ教授の期末試験であったインクラス試験で「制限時間は3時間で、英語を母国語としない学生には4時間くれました。」と先のブログ(12月20日のブログ「カレオとリンカーン」)に書いていたことです。 どうして間違いであると気づいたかというと、ちゃんとその時の試験問題が出てきたからです。 それがこちら。 「PLEASE ANSWER FOUR QUESTIONS IN FOUR HOURS.」 次の7問の質問のうち4問について4時間で答えを書けと書かれていますね。 英語が母国語ではない学生が大目に見てもらえるのはハーバード大学ケネディ行政大学院。SAISでは英語が母国語であろうとなかろうと、変な英語を書くと容赦しなかったということになります。それを特に徹底していたマンデルバウム教授のエッセイで緊張するわけです。 このカレオ教授の期末試験では、私は1(1920~30年代のアメリカの政策の功罪),2(1990年代以前のアメリカの地政学的な役割),3(ケネディの減税政策の効果),5(石油危機下の欧米の政策の分析)を選んで、制限時間内に答え(結構な分量)を書いて提出。4時間にわたる論文形式のインクラスの試験でA-を取ったので自信になったという話でした。かなり欧米の外交史を知らないと書けませんからね。 テニスや観劇ばかりしていたのではないということをわかっていただけたでしょうか(笑)。 この試験問題と一緒に、先に紹介した東アジア史の論文(ナショナリズム史観)の「解説」の続きも出てきました。 20年近く前に書いたものです。 (解説)このエッセイに対する評価は「A-」であった。担当教授の指摘では、前半部分は非常に説得力があったが、後半部分、とりわけ冷戦の終結に至るまでの分析が弱いとのコメントが書かれていた。 ご指摘の通りである。後半部分の手抜きが見透かされてしまった。では、具体的にどのように書けばAを取れたのか。前述したように、1970年代後半から80年代にかけての大きな東アジアの動きについて、ナショナリズム的な歴史観で詳しく分析を加えればよかったのではないだろうか。まあ、「A-」というのは、かなり立派なエッセイであると評価されたわけであるから、努力は報われたということだろうか。 ◆ポイント◆意外性のあるトピック(この場合はブルース・リー)を初めにもってくるなど、インパクトのある書き出しにする。あるポジションを取ったら、最後までそのポジションを変えずに書き通す。自分の主張に沿って、具体的な例を挙げながら議論を展開していく。手抜きをせずに、最後まで丁寧に分析をしていくのが理想。各パラグラフの最初と最後の文章を読んで、論旨がわかるか確認する方法もある。結論部分で再びイントロのトピックに戻る手法も効果的である。 ★★★アメリカの大学院で論文を書く際のご参考にしてください。 (続く)
2024.12.31
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ミラー准教授とセイヤ―教授のその後についても触れておきましょう。 セイヤ―教授は2020年11月7日に亡くなっています。奥様は日系人のマーガレット・ヒサコ・セイヤー(旧姓はタカハシ)さんで、奥様も2021年5月に亡くなっていますね。奥様は、戦時中は日本で過ごし、戦後は米軍の通訳を務めたと書かれています。詳しくは、こちらをお読みください。 セイヤ―教授の履歴はこちら。 一方、ミラー准教授の人生は、かなり劇的です。 1974年から1990年までの16年間、CIAで中国を中心とする東アジア担当の分析官として働いた後、1990年から2000年までSAISで中国問題の専門家として教鞭をとっていたのですが、1996年ごろ、彼が52歳のときに、性転換についてのテレビ番組を見ていた時に、自分の性別が実は女性だと気が付いたというんですね。つまりトランスジェンダー(心の性と体の性が一致していない人)ということです。 私がミラー准教授のクラスを取ったのは1998年の春学期ですから、その時はすでに自分が女性だと気づいていたわけです。確かに私も、「ミラー先生は優しい感じがするな」とは思っていましたが、まさかその後、女性になるとは当時は想像もできませんでした。 そのいきさつについては、こちらのサイトで紹介されています。 若い時は「男らしくならなければいけない」と強く見せるためにバスケをやるなど、いろいろ努力して、人生においても二度結婚、CIAの同僚でもある二度目の奥様との間では、二人の子供(息子と娘)まで儲けています。 自分がトランスジェンダーであることを妻に話すと、妻も受け入れてくれて、60歳になるころ、名実ともに女性になることを決断。2007年には性転換手術も受けて、ハロルド・ライマン・ミラーからアリス・ライマン・ミラーへと“生まれ変わった”ということです。 ミラー准教授はSAISを辞めた後、男性として保守系シンクタンクであるスタンフォード大学のフーバー研究所と、米海軍大学院で教職を得ていたのですが、首になることを覚悟して性転換の事実を伝えたら、意外にも「あなたが最初じゃないから」といってあっさりと認めて、同じ職を続けさせてくれたのだと語っていました。 2015年にはスタンフォード大学の講演イベントで性転換についての自分の体験を公表、話題となったようです。アリス・ミラーの履歴はこちら。今回、このブログを書かなければ、彼女のことは知らないままでした。本当に人生いろいろですね。(続く)
2024.12.30
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最後のほうは端折った感がありましたが、ようやく結論にたどり着きました。それでは結論部分です。Conclusion: A New East Asian Order Nationalism has proved stronger than either communism or capitalism. In other words, in the face of nationalism, in a real sense ideology does not matter. With the end of the Cold War, the newly freed East European nations elected non-Communist governments while the US military superpower proved less than almighty against Asian nationalism. But what separated the winner and the loser in the Cold War was their understanding of legitimate movements in Asia and other parts of the world. (対訳、一部意訳)結論:新しい東アジアの秩序 ナショナリズムは、共産主義や資本主義よりも強いことが証明された。言い換えると、本当のナショナリズムの前では、イデオロギーは重要でなくなるということだ。冷戦が終結して、米軍のスーパーパワーもアジアのナショナリズムの前では万能ではなかったことがわかる一方、新しく自由になった東ヨーロッパの国々では、共産主義ではない政権が誕生していった。しかし、冷戦の勝敗を分けたものは、アジアや他の地域における正統な運動を理解していたかどうかであった。 (解説)ここからが結論部分である。当然、ナショナリズム的歴史観でエッセイを締めることになる。Having contravened its own ideals in which all nations and peoples are treated equally, the US failed in its policy toward Vietnam. But it soon corrected its policy, recognizing it as excessive interventionism. On the other hand, the Soviet Union kept on extending its power by force in the Third World in the 1970s and the first half of the 1980s. It also came to realize, perhaps by 1985, its overextension and excessive interventionism, but it was too late. By 1989, the Soviet Union found itself mired in contradiction: it finally collapsed from within. (対訳、一部意訳)すべての国と国民を対等に扱うというアメリカの理想的な価値観と矛盾したため、アメリカはヴェトナムに対する政策を失敗した。だがアメリカは、すぐに政策を訂正し、過度な介入であったことを認めた。これに対してソ連は、1970年代から80年代初めにかけて、第三世界に対する力による影響を広げ続けた。ソ連もおそらく1985年までには過度に介入したことに気がついたが、時はすでに遅かった。1989年までにはソ連は矛盾の泥沼に陥り、それゆえに最後には内部から崩壊したのだ。 (解説)このパラグラフまでは、これまでの議論を総括する内容になっている。総括を入れるのは問題ないが、議論のまとめだけで終わってはならないのが英語論文である。 In the 19th century, East Asian countries were greatly shocked by the West in terms of civilization, technology, and military power. Without exception, they experienced a huge Western impact. The gap in military and economic power between the West and the East put Asian countries in a subordinate position to the West. The West began to oppress the Asian peoples by using its military and industrial powers. Only Japan resisted the West in a real sense, defeating Russia in 1905. But later Japan in the second half of the 19th century and up until the end of World War II turned out to only imitate Western imperialism―Japan was not a savior fighting for Asian independence. Asian countries learned that they would have to gain independence by making their own efforts and paying their own costs. (対訳、一部意訳)19世紀、東アジアの国々は、西洋の文明、技術、軍事力にショックを受けた。例外なく、彼らは西洋文明の衝撃を味わった。東洋と西洋の間の軍事、経済力の差は、アジアの国々を西洋に対する従属的な関係へと導いた。西洋は軍事と産業の力を使って、アジアの人々を抑圧し始めた。実質的には日本だけが西洋に対抗し、1905年にはロシアを打ち破った。しかし、日本が19世紀後半から第二次世界大戦の終結までにやったことは、西洋帝国主義の真似に過ぎなかったことが後に判明した。日本は、アジア独立の救世主ではなかったのだ。アジアの国々は、自分たちの努力とコストで独立を勝ち取らなければならないことを学んだ。 (解説)ここでは、より長いスパンの歴史的な意義付けをしている。19世紀まで遡り、現在における東アジアのナショナリズムのルーツを見出そうとしている。歴史的には日本と他の東アジアのナショナリズムのルーツははっきりと異なる。前者は圧政者であり、後者は被抑圧者であるからだ。敗戦により自尊心を大いに傷つけられた日本は、ナショナリズム的なパワーを弱め、むしろ東アジアの国々のほうが、パワーがあるように感じられるのは、そのせいではないかと思われる。 Asian liberation from outside aggressors required a long and hard struggle after World War II. The Cold War order hindered Asian nationalistic movements. However, the American ignorance of Asian feelings having culminated in the Vietnam War, Asian nationalism gradually began to overtake that Cold War order. Japan’s high economic growth, North Vietnam’s victory, China’s emergence as an international political power, and the rise of the Asian Newly-Industrializing Economies (NIES) proved that East Asia, having pushed aside Western oppression as Bruce Lee did, is now in turn having an impact on the West. And it will be through such impact and through mutual understanding that East and West will be able to create a new world order which will benefit all of us in the coming century.(対訳、一部意訳)外部の侵入者からアジアが解放されるためには、第二次世界大戦後も長く、厳しい闘争が必要であった。冷戦構造がアジアのナショナリズム運動を妨げた。しかしながら、ヴェトナム戦争でアメリカがアジアの人々の感情に無関心であることがわかると、アジアのナショナリズムは次第に、冷戦構造を凌駕し始めた。日本の高度成長、北ヴェトナムの勝利、国際的な政治大国としての中国の台頭、アジアの新興産業国・地域の隆盛は、ブルース・リーのように西洋の圧政を押しやりながら東アジアが、今度は西洋に多種多様な衝撃を与えていることを示していた。そして、この衝撃と相互理解を通じて初めて、西洋と東洋が次の世紀にはすべての国々が恩恵を受けるような新しい世界秩序を築くことができるのである。 (解説)最後のパラグラフでは、再びブルース・リーを引き合いに出しながら、アジアのナショナリズムが今度は西洋に衝撃を与えているのだと結んだ。そしてその衝撃の中で、新たな世界秩序が構築できるはずであると、未来を展望する形で締めている。イントロで触れたトピック(この場合はブルース・リー)に結論部分で再び言及するというテクニックは新聞の特集記事でもよく使う方法。エッセイ全体が締まるので効果的である。 ただし、今から思うと、全体的にずい分強引な議論の展開であるとは思う。評価できる点は第二次世界大戦後の東アジアの歴史を米ソの思惑を絡めながら、終始一貫して各国のナショナリズムの潮流で説明しようと試みている点であろう。視点がぶれていないので、読みやすくはなっている。そういう論文では、英文速読法が威力を発揮する。イントロを読み、次に結論を読む。次に目次に相当する大見出し(このエッセイの場合は、「朝鮮戦争」「ヴェトナム戦争」「冷戦の終結」などの見出し)を読む。各パラグラフにおいては、最初の文章を読み、最後の文章を読む。それだけで、要旨は十分に理解できるだろう。★★★さて、以上が戦後の東アジアの歴史をナショナリズムの観点から読み解いた論文の一部始終です。もちろん各節の下に、どこからの引用であるかを示すフットノート(脚注)がついているのですが、それは省きました。欠点も多々見受けられましたが、評価はA-でした。これぐらいでA-が取れるということですね。自分でいうのもおこがましいですが、英語はまあまあ洗練されていました。これも夏期講習で受けたダイアン・ウェイリー(Diane Whaley)講師の「上級英語」のおかげです。その際購入させられたFowler & Aaronの共著『The Little, Brown Hnadbook』(Longman社刊)にはずいぶん助けられました。コロンやセミコロンの使い方と例文、ウェイリー講師が言うところのカッコいい「Absolute phrases」の使い方などが詳細に説明されています。英語で論文を書く際に必要な文法的な知識は、そこにすべて書かれていました。(続く)
2024.12.29
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本論の最終節となる「冷戦の終わり」です。The End of the Cold War The end of the Cold War was also profoundly related to nationalism. As the Americans had learned through their experience in the Vietnam War, the Soviets came to realize, in the late 1980s, that it would be impossible to suppress nationalism in Eastern Europe or other parts of the world any longer, having recognized the intervention in Afghanistan as poor policy. This time, the Soviets had learned their lesson. Communism was not stronger than nationalism any more. Therefore, the Soviet Union resumed normal relations with China after a long rift and did not intervene in Eastern Europe when reform and independence movements ousted Communist governments in Poland, Hungary, and Czechoslovakia from 1989 to 1991. The newly freed East European nations elected non-Communist governments, and East Germany also dissolved, becoming part of West Germany. Nationalist and independence movements having been active in the other republics, the Soviet Union also recognized the full independence of Estonia, Latvia, and Lithuania. Because of these nationalist movements, and perhaps because of the Soviet delay in realizing the importance of nationalism in these countries, the Soviet Union itself ceased to exist on December 21, 1991. (対訳、一部意訳)冷戦の終結 冷戦の終結も、深くナショナリズムと関連していた。アメリカがヴェトナム戦争を通じて学んだように、ソ連も1980年代には、アフガニスタンへの介入が適切な政策ではなかったと気づき、東ヨーロッパや他の国々でナショナリズムを抑圧するのは不可能であると考えるに至った。今回は、ソ連が教訓を学んだのである。共産主義はナショナリズムよりも強いとはもはや言えなくなった。それゆえにソ連は、長期間にわたる対立の果てに中国との正常な関係を始めた。そして、1989年から1991年にかけてポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアで改革や独立運動が共産党政権を打倒したときも、東ヨーロッパへの介入をしなかったのだ。新しく誕生した東欧諸国は共産主義ではない政府を選んだ。東ドイツも解体され、西ドイツに統合された。ナショナリズムや独立運動はほかの共和国でも活発になったため、ソ連はエストニア、ラトビア、リトアニアの完全な独立も認めた。このナショナリズムの運動と、おそらくはソ連がナショナリズムの重要性を気づくのが遅れたせいで、ソ連自体が1991年12月21日に存在しなくなったのだ。 (解説)いきなり冷戦の終結に飛んでしまうのは、いかにも拙速であった。1980年代の東アジア情勢の分析が抜け落ちているとの感は否めない。それでも最後まで、ナショナリズムの歴史観で冷戦の終結を説明しようと努力している。ソ連が崩壊し、アメリカが生き残ったのも、ナショナリズムに対する認識の差であったと断じている。 Despite the Soviet collapse, China remains a Communist country. This is probably because China had more genuine support from its people than the Soviet Union did, and perhaps because, for the Chinese, the revolutionary war in the 1940s was a legitimate war for independence. On the other hand, the Soviet Union had simply suppressed not only its satellite nations but also its own people. (対訳、一部意訳)ソ連の崩壊にもかかわらず、中国は共産主義国家として残った。これはおそらく、中国がソ連よりも自国民の支持を得ていたからであり、そしておそらくは、中国人にとって1940年代の革命戦争は正統な独立戦争であったからであろう。それに対してソ連は、衛星諸国を弾圧しただけでなく、ソ連国民をも弾圧したのである。 (解説)共産主義国家として残った中国と崩壊したソ連を対比させた。これもナショナリズムの観点から解釈が可能であろう。 The end of the Cold War also brought about a temporary lull in the Cambodian civil war, which had been a sort of proxy war between China and Soviet-supported Vietnam. Since China was no longer an enemy of the Soviet Union, this proxy war was unnecessary as well. Almost all the Vietnamese troops having been pulled out of Cambodia, the warring parties signed a peace treaty in October 1991. They agreed that the UN and a Supreme National Council would govern Cambodia until a constituent assembly could be elected. Prospects for peace improved at least for a while. (対訳、一部意訳)冷戦の終結はまた、中国とソ連の代理戦争の様相を呈していたカンボジアの内戦にも一時的な小康状態をもたらした。中国はもはや、ソ連の敵国ではなくなったのであるから、代理戦争も必要がなくなった。ほとんどすべてのヴェトナム軍はカンボジアから撤退し、1991年10月に戦争当事者は和平条約を締結した。彼らは、憲法制定会議が選ばれるまで、国連と最高国民会議がカンボジアを統治することで合意した。少なくともしばらくの間は、平和の機運が高まった。 (解説)冷戦がもたらした東アジア情勢の変化を分析している。対立から和平へと前進したように見えたと解説している。「平和の機運が高まった」の「高まった」に相当する英語は当初、expandedにしたが、improvedが正しいとのことであった。 ここまでが本論ですね。ちなみにワシントンDCにあるSAISの小さなキャンパスには、ベルリンの壁崩壊当時の壁の一部が展示されています。次回は論文の最後の「結論」を紹介します。(続く)
2024.12.28
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本論の第三節です。Strategic RealignmentThe US failure in the Vietnam War wiped out the notion that communism had to be contained at all costs. Therefore, the US came to interpret China in a different way. Before the Vietnam War, as Jian Chen describes it, the US had generally regarded China as an “aggressive, violent, and irrational” communist country. The US had not paid as much attention to Chinese nationalism as it did to the Sino-Soviet ideological relationship: China was nothing but a Soviet ally. But as the US got bogged down in the Vietnam War, it realized that Asian nationalism played a much more important role than it had imagined. As a result, American foreign policy toward Asia became more sensitive than before to Asian nationalism. In particular, the US turned its eyes to the historical boundary dispute between the Soviet Union and China.(対訳、一部意訳)戦略の再構築ヴェトナム戦争におけるアメリカの失敗は、共産主義はどのようなコストを払っても封じ込めなければならないという考えを一掃した。それゆえにアメリカは、中国をこれまでとは別の考えで解釈するに至った。ヴェトナム戦争前は、ジアン・チェンが述べているように、アメリカは概して中国を「好戦的で、暴力的で、非合理的な」共産主義国家とみなしていた。アメリカはそれまで、中ソのイデオロギー的関係には注視していたが、中国のナショナリズムに大して注意を払っていなかった。中国はソ連の同盟国でしかなかった。しかし、アメリカがヴェトナム戦争でヘマをしたとき、アメリカは対アジア外交では想像以上にアジアのナショナリズムの力が重要な役割を演じることに気づき、以前にも増して、アジアのナショナリズムに敏感になったのである。とりわけアメリカは、ソ連と中国の間の歴史的な領土紛争に着目した。(解説)ヴェトナム戦争後の国際情勢の動きを、戦略の再構築というテーマでまとめてみた。アメリカの対アジア戦略で最初に変わったのは、中国に対する見方であったと論じている。アメリカはこれまでの失敗から学び、中国のナショナリズムに着目を置いた。ナショナリズム的な歴史の見方をすると、イデオロギー的に結びついていたように見えた中ソの関係が異なって見えてくるのである。Up until the end of the 1950s, relations between the two communist countries had seemed close due to their expanding trade. But relations gradually deteriorated in the 1960s. On the surface, the deterioration came from an ideological disagreement over the interpretation of Marxism. However, the real reason derived from the historical rivalry and mutual fear of the two former empires.(対訳、一部意訳)1950年代の終わりごろまでには、中ソという2つの共産主義国は、拡大する両国間の貿易のおかげで緊密な関係を保っていた。しかし1960年代には、その関係は次第に悪化した。表面的には、その関係の悪化はマルクス主義の解釈というイデオロギー的な相違から来ていた。しかしながら、本当の理由は、かつての2つの帝国の相互不安や歴史的なライバル関係から発生していた。(解説)前のパラグラフを受けて、中ソの関係を論じている。ナショナリズム的観点から、中ソは同盟国というより歴史的にもライバルであることがわかると述べている。次のパラグラフではそれを詳述した。For the Soviet Union, Communist China was a myth from its birth since it had assumed that the Nationalists would reassert control over China in the wake of the Japanese surrender. After China became a communist country in 1949, Soviet leaders still felt China was different from its other European satellites (except Yugoslavia). Joseph Stalin felt Mao was not very loyal to the Soviet Union. On the other hand, Mao himself became very cautious about Stalin after having realized Stalin’s cold attitude in providing promised military aid to the Chinese in the Korean War. Moreover, Mao disliked the Soviet imperialistic policy and felt that the Soviet Union would never understand Chinese nationalism. Both Mao and the Soviet leaders were extremely nationalistic in terms of their vast territories, and they did not really trust each other. Thus the Sino-Soviet dispute went beyond ideology.(対訳、一部意訳)ソ連にとっては、中国共産党は誕生当初から謎に満ちていた。というのもソ連は、日本が降伏した後、国民党が中国の支配を再び主張するであろうと踏んでいた。中国が1949年に共産主義国家を建国した後も、ソ連の指導者は依然として中国は東欧の衛星諸国(ユーゴスラビアを除く)とは異なると感じていた。ジョゼフ・スターリンは、毛沢東はソ連に忠実とはいえないと感じていた。反対に毛沢東は、朝鮮戦争のときに、約束した援軍を派遣する際スターリンが冷たい態度を取ったことから、スターリンに対して非常に用心するようになった。さらに毛沢東は、ソ連の帝国主義的政策に反感を覚え、ソ連は中国のナショナリズムを理解できないと感じたのだ。毛沢東もソ連の指導者も、彼らの広大な領土については非常にナショナリスティックであった。そして両者とも、お互いを信じてはいなかった。こうして中ソの争いは、イデオロギーを超えたものになったのである。(解説)ここではソ連と中国は当初からすれ違いがあり、お互いにわかりえない間柄であったと論じている。スターリンの冷たい態度に対して中国は警戒を強めるようになる。やがてそのナショナリズム的対立は、国境紛争へと発展するのである。As a result of this dispute, the Soviet Union first refused to assist the Chinese in developing nuclear power and then withdrew its economic assistance and technical advice from China in 1960. China, in turn, demanded that the Soviet Union return territories that had been considered Chinese in the 19th century. The Chinese also accused Soviet leaders of imperialism after the Soviet-led invasion of Czechoslovakia in 1968. And in 1969, the Chinese attacked Soviet border guards in Manchuria, making Sino-Soviet conflict inevitable.(対訳、一部意訳)この争いの結果として、ソ連は当初、中国が核開発を支援することを拒み、1960年には中国から経済援助と技術協力スタッフを引き上げさせた。中国はソ連に、19世紀に中国の国土であるとされた領土を返還するよう要求した。中国はまた、ソ連が1968年にチェコスロバキアを侵攻した後、ソ連の指導者を帝国主義者であると非難した。そして1969年、中国は満州にあるソ連の国境警備隊を攻撃、中ソ紛争は不可避になった。(解説)本来なら冷戦構造の中にあって、東側陣営であるはずの中国とソ連が共産主義というイデオロギーを超えて争うようになるのも、ナショナリズムのなせる業であるのだろう。中ソの関係が次第に悪化していく具体例を挙げている。On the other hand, the Americans, who had realized through their Vietnam War experience that the Cold War paradigm alone was insufficient to explain Asian trends, saw the possibility of a realignment of power in the Sino-Soviet border dispute. In July 1971 Henry Kissinger, Nixon’s national security adviser, flew to China to arrange a meeting between Nixon and Chinese leaders. This visit changed China’s foreign relations dramatically. With China admitted to the United Nations in 1971, replacing the Republic of China (Taiwan), the Chinese felt that the Americans had finally recognized China’s revolutionary movement. For the Chinese, it was another nationalist victory. In February 1972, Nixon went to China and officially opened diplomatic relations.(対訳、一部意訳)一方、ヴェトナム戦争を通じて冷戦構造だけではアジアの運動を説明できないことに気づいたアメリカは、中ソ国境紛争を見て、権力構造を再構築する可能性があることを見出した。1971年7月、ニクソン大統領の国家安全保障担当補佐官であるヘンリー・キシンジャーは中国に飛び、ニクソンと中国指導者の首脳会談を開くことを決めた。この訪問は、中国の外交関係を劇的に変えた。1971年に台湾に替わって国連への加盟を認められた中国は、アメリカがとうとう中国の革命運動の正当性を認識したのであると感じたのである。中国にとっては、ナショナリズムのもう一つの勝利であった。1972年2月、ニクソンは訪中し、公式に外交関係を構築した。(解説)中ソのナショナリズム的な対立を見てとったアメリカの動きを説明している。ここでも逆三角形的な構造になっていることを注目してほしい。アメリカは「中ソ国境紛争を見て、権力構造を再構築する可能性があることを見出した」と重要な主張を最初に持ってきて、次に具体的に何をしたかを書いていく。そしてパラグラフの最後は、米中外交の劇的な変化の帰結としてニクソン訪中に触れている。速読法でも最初のパラグラフと最後のパラグラフを読むだけで、主旨がわかるようになっている。This realignment greatly damaged Soviet foreign policy. This time, the Soviets lost China; it was a Soviet failure in East Asia. Like the Americans in the 1950s and 1960s, the Soviets had not realized the importance of Asian nationalism. Nationalism was proving mightier than communism. This weakened position of the Soviet Union and the American failure in the Vietnam War combined to bring about a policy of détente in the 1970s.(対訳、一部意訳)この再構築は、ソ連の外交政策に多大なダメージを与えた。今度はソ連が中国を失ったのである。それは、東アジアにおけるソ連の失敗であった。1950年代、60年代のアメリカと同様、ソ連はアジアのナショナリズムの重要性を気づいていなかった。ナショナリズムは共産主義よりも強いことの証明でもあった。ソ連の立場が弱くなったことと、ヴェトナム戦争でのアメリカの失敗は、1970年代のデタント政策をもたらした。(解説)アメリカの外交と対比する形でソ連の外交を論じたのが、このパラグラフである。米ソの変化はデタントをもたらした。ここでも最初と最後のパラグラフを読めば、主旨がわかるようになっている。途中の文章は、最初の主張を補うものが多い構造になっていることがわかるはずだ。パラグラフの最後の文章は、次のパラグラフへと発展する移行(transition)の意味合いが強いこともわかる。 赤字のセミコロンは、直前の文章の説明のための接続として使っている。Détente was characterized by Soviet-US cooperation on environmental protection, science and technology, space ventures, and arms limitation. Nevertheless, détente did not last long. In December 1979, the Soviet Union invaded Afghanistan to save a Marxist regime. In the end, the Soviet Union had not learned a lesson from its failure in Asia because this invasion cost the Soviet Union dearly. Amid condemnation from the rest of the world, it expended much energy and time fighting a nationalist resistance. Finally, it was obliged to withdraw all Soviet troops from Afghanistan by February 1989, acknowledging that the intervention in Afghanistan had been a mistake.(対訳、一部意訳)デタントは、環境保護、科学、技術、宇宙開発、武器制限といった分野で協力するという米ソ合意などに現われた。しかしながら、デタントは長くは続かなかった。1979年12月、ソ連が共産主義政権を救うためにアフガニスタンに侵攻したのだ。ソ連は結局、アジアの失敗から教訓を学んでいなかったことになる。というのも、ソ連のアフガン侵攻のコストは多大なものとなったからである。世界中から非難を浴びる中、ソ連はアフガンのナショナリズム的な抵抗と戦うため、多大なエネルギーと時間を費やさざるをえなかった。最後にはソ連は、1989年2月までにアフガニスタンからすべてのソ連軍の撤退を余儀なくされた。そして、アフガン侵攻は適切ではなかったと認めたのだ。(解説)デタントの説明と、それに続くソ連のアフガニスタン侵攻がここで語られている。ソ連のアフガン侵攻は、アメリカのヴェトナム戦争と同じぐらい冷戦構造を大きく変える出来事であったといえるので、本当はもっと詳しく説明を加えたかった。だが、論文があくまでも東アジアに焦点を当てるテーマであるため、省略したのである。Meanwhile, Cambodia and its nationalism fell prey to the power game. In 1970, the US had masterminded a coup against King Sihanouk, in which American-supported General Lon Nol seized power and sent his army to fight the Vietcong in the border areas between Vietnam and Cambodia. The Khmer Rouge, Communist party guerrillas, aided by North Vietnam and Sihanouk, resisted Lon Nol, starting a guerrilla war. This liberation movement expanded in the early 1970s. In April 1975, the Khmer Rouge seized Phnom Penh, forcing Lon Nol to flee the country. However, since the Khmer Rouge headed by Pol Pot soon became notorious for massacring an estimated two million people, the now reunited Vietnam intervened in Cambodia in 1978, resulting in a Cambodian civil war between the Vietnamese-backed regime led by Heng Samrin, and later by Hun Sen, and the Khmer Rouge remnants.(対訳、一部意訳)一方、カンボジアとそのナショナリズムは、大国のゲームに翻弄された。1970年には、アメリカはシアヌークに対するクーデターを画策。アメリカが支持するロン・ノル将軍が権力を掌握し、ヴェトコンと戦うため、軍隊をヴェトナムとカンボジアの国境付近に集結させた。北ヴェトナムとシアヌークに支援された共産主義ゲリラであるクメール・ルージュがゲリラ戦を開始、ロン・ノルに抵抗した。この解放運動は、1970年代初めに拡大していった。1975年4月、クメール・ルージュはプノンペンを掌握、ロン・ノルは国外へ逃亡した。しかしながら、ポル・ポト率いるクメール・ルージュはすぐに、推定で200万人の人々を虐殺して、悪名を馳せるようになった。南北統一したヴェトナムは1978年にカンボジアに介入、ヴェトナムが糸を引くヘン・サムリン(後にはフン・セン)に率いられた政権とクメール・ルージュとの間の内戦へと発展した。(解説)急いでまとめようとしていることが、このパラグラフから伝わってくる。実はすでにかなりの労力と時間を費やしているので、他のコースのファイナル試験との兼ね合いもあり強引に話を先に進めている。冷戦の後半部分を端折ってしまったが、案の定担当教授からは後半部分の議論が十分ではないとのコメントがついていた。次節は「冷戦の終焉」です。(続く)
2024.12.26
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The Vietnam War When Eisenhower was urged by Dulles and Nixon to intervene in Vietnam in 1954, he refused, explaining that “the presence of ever more numbers of white men in uniform would aggravate rather than assuage Asiatic resentments.” He understood well Asian feelings. He still advocated a “nation building” strategy; he still believed that the American spirit would never wane. However, as the severity of the Cold War increased, idealism languished. Containing communism became far more important than Asian sentiment or independence movements. As Frances Fitzgerald asserts, the US was not interested in the form of the Vietnamese government, rather it was concerned about “containing the expansion of the Communist bloc” and “preventing future wars of national liberation” around the world. (対訳、一部意訳)ヴェトナム戦争 1954年にダレスとニクソンにヴェトナムに介入するように促されたアイゼンハワーは「今よりも多くの軍服を着た白人が現われることはアジア人の怒りを和らげるどころか火に油を注ぐことになる」と説明して、彼らの進言を拒絶した。アイゼンハワーはアジア人の感情をよく理解していた。彼はまだ、「国家建設」戦略に望みを託していたのだ。彼はまだ、アメリカの精神が弱まることはないと信じてもいた。しかしながら、冷戦の緊張が高まると、理想主義は影を潜める。共産主義に対する封じ込め戦略は、アジア人の感情や独立運動よりもはるかに重要になったのだ。フランシス・フィッツジェラルドが主張しているように、アメリカはヴェトナム政府の形態には興味をもっていなかった。アメリカに関心があったのは、「共産圏の拡大を封じ込め」、世界中に広がりつつあった「国民解放のための将来の戦争を回避する」ことであった。 (解説)アイゼンハワーが本当に高邁な精神からアジアの独立運動を支持していたかどうかは議論の分かれるところだが、少なくとも露骨にアジアのナショナリズムを弾圧することはなかった。しかし、それも冷戦初期の話。1950年代前半ころから、アメリカ外交の価値観は反共一色に染まっていく。むしろ国民の解放といった思想は共産主義と結びつきやすいと考え、ナショナリズムを敵視するような外交を展開するのだ。 赤字の部分は、本当は2つの文章にしていたが、2つの独立した文章が対照、比較できるなど密接に関連がある場合はセミコロンでつなぐことができる。セミコロンはちょうどピリオドとコンマの中間の句読点である。セミコロンの後は当然、小文字となる。It is fair to say that the origins of the Vietnam War go back to the First Indochina War from 1946 to 1954. This war was fought mainly between the French, who were the rulers of Indochina before World War II, and the Vietminh led by the revolutionary leader Ho Chi Minh. The Vietminh was the strongest of the nationalist groups that had fought the Japanese occupation of French Indochina during World War II. Since the Vietminh had been fighting for independence, it was quite natural for them to resist the reestablishment of French colonial rule after the war. (対訳、一部意訳)ヴェトナム戦争の直接の原因は、1946年から1954年にかけて起こった第一次インドシナ戦争にまで遡るべきであろう。その戦争は、第二次世界大戦前のインドシナ半島の支配者であったフランス人と、革命のリーダーであるホー・チ・ミンに率いられたヴェトナム人の間で戦われた。そのヴェトナム人たちは、太平洋戦争中に仏領インドシナを支配した日本に抵抗して戦った、最もナショナリズムの強いグループであった。ヴェトナム人たちはずっと独立のために戦っていたのであるから、太平洋戦争の終結とともにフランスによる再度の植民地支配に抵抗するのは、まったく当然のことであった。 (解説)ヴェトナム戦争の背景には、ヴェトナムにおけるナショナリズムの台頭があったことは疑いのない事実であろう。ここでは戦争の発端とも言えるインドシナ戦争まで遡って説明した。底流にあるのは、植民地支配に対する反感であり、独立して自分たちの国を持ちたいというナショナリズムである。 The Vietminh seized the capital city of Hanoi immediately after the surrender of Japan in August 1945, and, on September 2, declared Vietnam to be independent and established the Democratic Republic of Vietnam (North Vietnam). Similar independence movements simultaneously occurred in Laos and in Cambodia. But the French, who returned in September, could not accept these independence movements. As Marilyn Young explains, the French feared that “an independent Vietnam would threaten French interests in the economically far more significant colonies of Algeria, Morocco, and Tunisia.” So they first captured the Saigon administration and then cut the southern part of Vietnam off from North Vietnam, establishing Cochin China (southern Vietnam). Naturally, North Vietnam resisted. It insisted that Vietnam be unified, but France refused. This lack of agreement led to armed conflict beginning in December 1946. (対訳、一部意訳)1945年8月に日本が降伏するやいなや、ヴェトナム人は首都ハノイを掌握、9月2日にはヴェトナムの独立を宣言した。そして、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)を建国した。同様の独立運動はラオスとカンボジアでも同時に起きた。しかし9月に戻ってきたフランスは、こうした独立運動を好ましいとは思わなかった。メリリン・ヤングが説明しているように、フランスは「ヴェトナムの独立は、それよりもはるかに経済的に重要な植民地であるアルジェリアやモロッコ、チュニジアでフランスの国益を脅かしかねないこと」を危惧したのである。そこでフランスは、最初にサイゴン支庁を掌中に収め、その次にヴェトナムの南部を北ヴェトナムから切り離し、コーチン・チャイナ(南ヴェトナム)を建国した。当然、北ヴェトナムはこれに抵抗した。北ヴェトナムは、ヴェトナムは統一されるべきであると主張した。しかしフランスは、統一を決して認めなかった。この決裂が、1946年12月に始まる武力衝突へと発展したのである。 (解説)ここでは、あくまでも植民地支配を続け権益を守ろうとするフランスの悪あがきが描かれている。ヴェトナムを南北に分断しても、なおも自国の利益を守ろうとした醜い姿がある。それはヴェトナムのナショナリズムに対する挑戦であった。Interestingly, Ho Chi Minh wrote a couple of letters before the war began to Truman in which he insisted that it was North Vietnam which was the legitimate government of the Vietnamese people and that French “aggression on a peace-loving people is a direct menace to world security.” But the letters were never answered. (対訳、一部意訳)面白いことにホー・チ・ミンは、戦争が始まる前に何通かの手紙をトルーマン米大統領宛に送っている。その中で彼は、ヴェトナムの人々を代表するのは北ヴェトナムであり、フランスによる「平和を愛する人々に対する攻撃は、世界の安全保障の直接の脅威である」と主張した。しかし、返信の手紙が来ることはなかった。 (解説)ホー・チ・ミンの手紙は、アメリカが高邁な理想を持っていた時代には有効だったかもしれないが、すでに反共に傾きはじめたアメリカには、「ヴェトナムの人々の代表」などどうでもいいことになりつつあった。この手紙の話は象徴的で、面白いエピソードである。 The war between France and the Vietminh escalated when the Vietminh shook hands with China’s Red Army in December 1949 and when the French, with US support, let former Vietnamese Emperor Bao Dai set up the state of Vietnam (South Vietnam) on July 1, 1949. As the Vietminh steadily built up its forces and strengthened its political base, accompanied by the success of land reform, France rapidly came to need US military assistance. Eisenhower, however, declined to intervene in Vietnam. The decisive battle of the war came in the spring of 1954 when the Vietminh attacked the French fortress of Dienbienphu in northern Vietnam. On May 8, France surrendered. In Cambodia, Norodom Sihanouk regained military and diplomatic autonomy from France and achieved full independence for his country in March 1954. In Laos, the Pathet Lao was still fighting for independence from France. (対訳、一部意訳)フランスとヴェトナムの戦争は、1949年12月に北ヴェトナムが中国共産軍と手を組むことにより、そしてフランスが米国の支持を得て、ヴェトナムの元皇帝バオ・ダイにヴェトナム国家(南ヴェトナム)を建国させたことにより、激しくなった。ヴェトナム人は着実に軍隊を整備し、政治的基盤を強化し、さらには土地改革で成果を上げていった。一方フランスは、急速にアメリカの軍事支援を当てにするようになっていった。ただしアイゼンハワーは、ヴェトナムへの介入は拒否した。決定的な戦闘は1954年の春に訪れた。ヴェトナム人が、北ヴェトナムにあるディエンビエンフーのフランス軍の要塞を攻撃したのだ。5月8日、フランスは降伏した。カンボジアでは、ノロドム・シアヌークが軍事的、外交的自治権をフランスから取り戻し、1954年3月までには完全な独立を勝ち取った。ラオスでは、パセット・ラオが依然としてフランスと独立を争っていた。 (解説)このパラグラフでも引き続き、ヴェトナム人のナショナリズムの立場からヴェトナム戦争へと発展していく歴史を紐解いている。 フランスはヴェトナムのナショナリズムに屈し、アメリカに後を任せて尻尾を巻いて退散を始めたのだ。ナショナリズムが勝利しつつあった。だが、北ヴェトナムを中国が、南ヴェトナムをアメリカがそれぞれバックアップすることにより、本来ならヴェトナム民族独立運動のはずが、冷戦構造へと組み込まれていく。In order to discuss the future of all of Indochina, delegates of France, Great Britain, the Soviet Union, the US, and Communist China met with those of North and South Vietnam, Laos, and Cambodia in Geneva in 1954. Under the Geneva armistice agreement that ended the First Indochinese War, France and North Vietnam agreed to divide Vietnam temporarily along the 17th parallel, with the north going to the Vietminh and the south going to the Saigon government controlled by American-supported Ngo Dinh Diem. The agreement also stipulated that elections for the unification of Vietnam would be held in 1956, but neither the US nor the Saigon government agreed to the Geneva Accords. Regarding North Vietnam as a satellite country of Communist China and the Soviet Union, Diem rejected reunification elections and asked the US for military and economic assistance. (対訳、一部意訳)インドシナの将来を話し合うため、フランス、イギリス、ソ連、アメリカ、中国は1954年、南北両ヴェトナム、ラオス、カンボジアの代表との会談をジュネーブで開いた。ジュネーブでの合意により第一次インドシナ戦争は終結となり、フランスと北ヴェトナムはヴェトナムを暫定的に北緯17度線で北と南に分けることで合意した。北はヴェトナム人の統治となり、南はアメリカが支援するディエムが支配するサイゴン政府が統治することになった。合意では、ヴェトナム統一のための選挙を1956年までに開くことも決められた。しかし、アメリカもサイゴン政府もそのジュネーブ合意を守らなかった。北ヴェトナムを中国共産党とソ連の衛星国であると見なしたディエムは、統一のための選挙を拒否、アメリカに軍事、経済面の支援を仰いだ。 (解説)ジュネーブ合意によりヴェトナムは完全に分断された。アメリカと南ヴェトナムが合意を守っていれば、ヴェトナム統一のための選挙が開かれたはずだが、アメリカ側には勝ち目がないと判断したのだろう。朝鮮半島同様、インドシナ半島で展開されていたヴェトナム民族独立の運動は、米ソ冷戦を反映する代理戦争の様相を呈していった。 赤字は当初helpとしていたが、assistanceのほうがフォーマル。 But there were serious problems in the Diem government. Like the Nationalist Party in China, the Diem government was not able to maintain its popularity, especially when it failed in land reform efforts in the Mekong Delta. Diem himself was corrupt, forcing his people to accept his family’s dictatorship. Thus Diem’s policies provoked the antipathy of Vietnamese farmers and urban intellectuals alike. Communist sympathizers in the south, later called the Vietcong, took advantage of this antipathy. They began guerrilla attacks on the Diem government and formed the National Front for the Liberation of South Vietnam (NLF) on December 20, 1960. For the Americans, formation of the NLF was a serious challenge not only to the Diem government but also to the US itself because the US had created South Vietnam and its leader Diem. The Americans and Diem had no doubt that North Vietnam directed the NLF from Hanoi since North Vietnam proclaimed that it intended to liberate South Vietnam from the yoke of the American imperialists and the US-supported dictator. Hostility increasing, the Vietnam War began. (対訳、一部意訳)しかしディエム政権には、深刻な問題が存在していた。中国の国民党のようにディエム政権も、特にメコンデルタ地帯の土地改革に失敗すると、人気を得ることができなくなったのだ。ディエム自身腐敗しており、彼の親族による独裁を人々に強要していた。このようにディエムの政策は、ヴェトナムの農民や都会の知識人の反感を買うようになった。後にヴェトコンと呼ばれる、南ヴェトナムの共産主義シンパは、南の人々の反感を利用した。ディエム政府に対するゲリラ攻撃を開始しながら、1960年12月20日には南ヴェトナム解放国民戦線(NLF)を結成した。アメリカにとってNLFの結成は、ディエム政府だけでなくアメリカにとっても重大な挑戦であった。というのも、南ヴェトナムとディエムはアメリカが作ったものだからだ。アメリカとディエムは、北ヴェトナムがハノイからNLFに指令を出していると確信していた。北ヴェトナムも、アメリカ帝国主義とアメリカが支持する独裁者から南ヴェトナムを解放するつもりであると公言してはばからなかった。敵愾心は強まり、ヴェトナム戦争が勃発した。 (解説)ここでも、ナショナリズムが政争の具にされていく過程と実態が描かれている。 南ヴェトナムのディエム政権がアメリカの傀儡であり、ヴェトナム人民の代表とはいえないことが次第に明らかになってくる。既に述べたように、アメリカにとってヴェトナム国民の解放運動よりも冷戦でソ連に勝利することのほうがはるかに重要であった。歪められたヴェトナムのナショナリズムが帰結するところは戦争であったと論じている。 最後のセンテンスでは、独立分詞構文を使っている。American participation in the Vietnam War was far from its postwar idealist goal of strengthening freedom-loving nations. While North Vietnam won the hearts of the people to a certain degree by its land reform policies and its intention to free Vietnam from foreign oppressors, the Diem government not only failed in land reform but also soon proved unable to cope with growing unrest among South Vietnamese Buddhists and other religious groups. It was obvious that Diem would not be able to win the hearts of the Vietnamese. Diem was a tactical failure for the US. Therefore, he was assassinated, probably with John F. Kennedy’s permission in 1963. Ironically, Kennedy himself was also soon dead, assassinated three weeks later. (対訳、一部意訳)ヴェトナム戦争へのアメリカの参戦は、アメリカが自由を愛する国を推進するという戦後アメリカの理想からはかけ離れたものであった。圧政者から人々を解放するという当初の目的と土地改革の成功によって、ある程度人々の心をつかんだ北ヴェトナムに対し、ディエム政権は土地改革に失敗しただけでなく、南ヴェトナムの仏教徒と他の宗教グループの間に生じた騒動を治める能力もないことが判明した。ディエムがヴェトナムの人々の心をつかむことができないであろうことは明白であった。ディエムは、アメリカの戦術的失敗であった。それゆえにディエムは、1963年に暗殺された。それにはおそらく、ジョン・F・ケネディの許可が出ていたとみられる。皮肉なことにケネディ自身、その3週間後に暗殺された。 (解説)アメリカが裏で操っていたディエム政権が馬脚を露わし、崩壊状態となったのも、ヴェトナムのナショナリズムから見れば当然であった。このパラグラフではその有様を淡々と説明している。アメリカの大誤算である。アジアのナショナリズムを理解しなかったツケが回ってきたわけだ。ケネディ暗殺のくだりは蛇足ではあるが、象徴的だ。 Consequently, since the intervention itself had not been pure, the US explanations for escalating the war were also far from pure. President Lyndon B. Johnson ordered the retaliatory bombing of military targets in North Vietnam on the pretext of the Tonkin Gulf Resolution which was based on false information. Even though the NLF controlled the majority of villages in the South, the American government never referred to members of the NFL as South Vietnamese. America’s basic rationale for the war was also doubtful. Emphasizing that the war was a battle between communists and non-communists, the US insisted that if Vietnam fell into the hands of the communists, all of southeast Asia would fall as well and that therefore the US had to defend South Vietnam at any cost. However, the logic of this domino theory was flawed because even if the US lost Vietnam, collective security organizations such as the Southeast Asia Treaty Organization (SEATO) would have avoided the loss of all of southeast Asia. (対訳、一部意訳)当然のことながら、アメリカの介入自体が不純な動機であったため、戦争拡大を説明するアメリカの理由も正当とはいえないものであった。リンドン・ジョンソン大統領は、偽情報に基づいたトンキン湾決議を口実に北ヴェトナムの軍事拠点を報復空爆するよう命じた。NLFは南ヴェトナムの大半の村々を支配下に置いていたが、アメリカ政府は決して、NLFのメンバーを南ヴェトナム人と認めようとはしなかった。アメリカの基本的な説明も疑わしいものであった。この戦争を共産主義と反共産主義との戦いであると強調しながらアメリカは、もしヴェトナムが共産主義者の手に落ちたら、すべての東南アジアの国々も共産主義になってしまう、だからどのようなコストを払ってでも南ヴェトナムを守らなくてはならないのだと主張した。しかしながら、このいわゆるドミノ論理は、必ずしも真実ではなかった。アメリカがヴェトナムを失っても、東南アジア条約機構(SEATO)のような安全保障上の機関が東南アジアを喪失することを妨げたであろう。 (解説)ウソの上塗りをしながら、アメリカがヴェトナム戦争の泥沼に入り込んでいった様子を描いている。日本語の論文であれば、トンキン湾決議を詳述すべきだと思うが、ヴェトナム戦争においてあまりにも有名な出来事なので説明を省いている。一応説明すると、1964年8月4日に米海軍の駆逐艦がトンキン湾公海上で魚雷攻撃を受けたと主張するアメリカは、これを口実に北ヴェトナムを“報復攻撃”。7日には米連邦議会で事実上の北ヴェトナムに対する宣戦布告となる「トンキン湾決議」が採択され、ヴェトナム戦争拡大のきっかけとなった。後に8月4日には北ヴェトナムから魚雷攻撃はなかったことが明らかになっている。戦争に駆り立てる“事実”を都合よくでっち上げ、実際に攻撃を開始してしまうやり方はイラク戦争でも見受けられる手口だ。 Despite the major American offensive which started in 1964, military operations were not successful. On the contrary, the offensive provoked anti-American feeling and the Vietnamese resisted the US attacks even more strenuously. The Americans responded to the resistance with even crueler retaliation. The Vietnam War turned into genocide against the Vietnamese by the Americans. (対訳、一部意訳)1964年に始まったアメリカの大攻勢にもかかわらず、軍事作戦は効果的ではなかった。大攻勢は反アメリカ感情を引き起こし、ヴェトナム人たちは、アメリカの攻撃に対してより激しく抵抗した。アメリカはその抵抗に対して、より冷酷な報復で応えた。ヴェトナム戦争はアメリカ人の手によって、ヴェトナム人に対する大量殺戮へと発展した。 (解説)戦況の説明である。アメリカが攻勢をかければかけるほど、ヴェトナム人のナショナリズムの炎は燃え上る。アメリカはそれをさらに強大な力で押さえ込もうとする。およそ正義とはほど遠い、殺戮と化したのだ。 By then, not only did the Vietnamese regard the war as unfair but also much of the American public had come to think that the war was unjustifiable. The US was beginning to lose support both internationally and domestically. As Eisenhower had predicted, “the presence of ever more numbers of white men in uniform” had aggravated “rather than” assuaged “Asiatic resentments.” But the realization of the accuracy of his prediction came too late. Repenting, Senator William Fullbright actively argued, “Vietnam is their country. We do not even have the right the French did. We have no historical right. We are obviously intruders from their point of view. We represent the old Western imperialism in their eyes.” (対訳、一部意訳)そのころまでに、ヴェトナム人がこの戦争を不公平であるとみなすだけでなく、多くのアメリカの民衆も戦争は正当化できないと考えるようになった。アメリカは国内外で支持を失い始めていた。アイゼンハワーが予想したように、「今よりも多くの軍服を着た白人が現われることはアジア人の怒りを和らげるどころか火に油を注ぐことに」なったのである。しかし、その予想が正しかったことに気づくのが遅すぎた。後悔しながら、ウィリアム・フルブライト上院議員は積極的にこう主張した。「ヴェトナムは彼らの国である。われわれはフランス人が持っている権利すら持っていない。われわれには歴史的にも権利がない。われわれは明らかに、彼らから見て侵略者である。われわれは彼らの目には、古い西洋の帝国主義者に映っているのだ」 (解説)フルブライトの言葉が、アメリカの敗北をよく表わしている。そこには、ヴェトナムの真の代表がフランスでもアメリカの傀儡政権でもないことがはっきりと述べられている。非常に効果的な引用であると思う。 This antiwar movement forced Johnso to announce a halt in US bombings over North Vietnam in March 1968 despite the US victory in the Tet offensive which North Vietnam had launched to decide the war. With this as a turning point, the US began its retreat from Vietnam. In July 1969, President Richard Nixon announced the Nixon Doctrine for US troop withdrawal from Vietnam and additional responsibilities of the South Vietnamese, the program known as Vietnamization of the war. And finally, in April 1975, South Vietnam having unconditionally surrendered to the NLF, the US experienced its first “defeat” against a foreign country. (対訳、一部意訳)この反戦運動ゆえに、北ヴェトナムが決定的な戦闘と位置づけて始めたテト攻勢にアメリカが勝利しておきながら、ジョンソンは1968年3月、北ヴェトナムへの空爆を停止すると発表しなければならなかった。これがターニングポイントとなり、アメリカはヴェトナムからの退却を始めた。リチャード・ニクソン大統領は1969年7月、米軍のヴェトナムから撤退と、戦争のヴェトナム化として知られるプログラムである南ヴェトナムの追加的な責任を含むニクソン・ドクトリンを発表した。そしてとうとう、1975年4月、南ヴェトナムはNLFに対して無条件降伏。アメリカは外国に対する初めての“敗北”を喫するのだった。 (解説)アメリカがヴェトナム戦争に“敗北”するまでの経過を説明している。前述したが、最後のセンテンスのように独立分詞構文を時々使うと、文章が締まってくる。 This defeat was a US policy defeat in Southeast Asia. As Fitzgerald indicates, the Vietnam War was a revolutionary war—a struggle against foreign domination and an assertion of the principle of national unity by the Vietnamese. The US mistook it for a US war for freedom. While the Vietnamese fought for liberation from oppressors―first the Japanese, then the French, and finally the Americans―the Americans were fighting for South Vietnam, which bore no relation to a free state. However, the US learned a very important lesson from the Vietnam War: the West, especially the US, must understand Asian political movements and Asian popular feelings. Partly because of this lesson, the US was able to carry out a strategic realignment. (対訳、一部意訳)この敗北は、アメリカの対東アジア外交の失敗であった。フィッツジェラルドが指摘しているように、ヴェトナム戦争は革命戦争、すなわち外国の支配に対する闘争であり、ヴェトナム人による国家統一という原則の主張であったのだ。アメリカはそれを自由のための戦争であると勘違いした。ヴェトナム人が圧政者(最初は日本人でその次にフランス、最後にはアメリカ)からの解放のために戦っていた一方、アメリカは自由な国というにはほど遠い南ヴェトナムのために戦わなければならなかった。しかしながらアメリカは、ヴェトナム戦争から大変に重要な教訓を学んだ。その教訓とは、西洋、とくにアメリカは、アジア人の運動や感情を理解しなければならないということであった。この教訓のおかげもあり、アメリカは戦略の再構築をすることが可能になったのだ。 (解説)ヴェトナム戦争は東アジアでは冷戦における最大の歴史的事件であったので、私のエッセイでも最もページ数を割いた。最後のパラグラフでは、ヴェトナム戦争の意義と、それによって学んだアメリカの教訓について触れ、最後にヴェトナム後のアメリカ外交の展望を示して終わっている。これにより、次の話題(次節の「戦略の再構築」)へとスムーズに移行することができるのである。それはいかなる結論においても同じである。議論のまとめで終わるのではなく、展望で終わるのだ。 赤字のコロン(:)の部分は、当初2つの文章で後の文章はThe lesson was that the West, especially the US…となっていたが、コロンでつなげばはるかにすっきりする。コロンは「すなわち」というような意味で、直前の文章の例を挙げるときに使う。この場合は「教訓」の具体的内容を説明している。(続く)
2024.12.26
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American and Soviet Attitudes Toward Asian NationalismAs we have seen, nationalistic independence movements emerged throughout Asia immediately after World War II. However, neither the US nor the Soviet Union correctly understood the essence of Asian nationalism. For example, Stalin at first acknowledged the Chinese Nationalist Party’s legitimacy simply because he did not want conflict with the US in East Asia and perhaps because he did not care which party was the true representative of Chinese nationalism. He also gave Kim Il-sung the green light to invade South Korea without grasping the real situation of nationalistic forces on the Korean Peninsula. The US, as I have already mentioned, failed to perceive the Chinese Communist Party’s legitimacy as the standard-bearer for Chinese nationalism. Neither the US nor the Soviet Union was able to foresee that the Communists would win support among the Chinese people. Both were interested in maintaining the Cold War balance. In particular, Stalin seemed to be interested only in the expansion of his communist territory and the defense of his own communist regime rather than the liberation of long-suppressed Asian countries. Maybe that is because Stalin was so involved in Europe that he simply could not pay attention to such Far Eastern countries.(対訳、一部意訳)アジアのナショナリズムに対する米ソの態度 第二次世界大戦終結直後に、ナショナリズム的な独立運動がアジア中で起きたのは、見てきた通りである。しかしながら、米ソ両国ともアジアのナショナリズムの本質を正しく理解していなかった。たとえば、スターリンは最初、東アジアでアメリカと対立したくないという単純な理由から、そしておそらくは、中国のナショナリズムを本当に代表するのがどちらの党なのか気にしていなかったことから、国民党の正当性を認めていた。スターリンはまた、朝鮮半島のナショナリズム的な運動の真の状況を把握することなく、金日成に韓国を侵略するゴーサインを与えた。既に述べたようにアメリカは、中国のナショナリズムを代表する共産党の正当性を認識することに失敗した。米ソ両国とも、共産主義者が中国人民の支持を勝ち取るだろうとは思っていなかった。米ソ両国は、どうやって冷戦のバランスを保つかに関心があった。とりわけスターリンは、長い間抑圧されてきたアジアの人々を解放することよりも、共産圏の領土拡大や自分の共産主義政権の防衛のみに興味があったようだ。あるいはスターリンは、ヨーロッパばかりに執心していたので、東の果ての国々のことなどに構っていられなかっただけかもしれない。(解説)第二次世界大戦後の米ソ両国の対アジア政策を、アジアのナショナリズム的な視点から解説を試みている。米ソともにアジアのナショナリズムの動きをよく理解していなかった。とくにスターリンのアジア軽視は顕著であった。Generally speaking, unlike the Soviet Union, the US was initially sympathetic toward these independence movements in Asia and other parts of the world. On January 20, 1949, Truman, in his inaugural address, declared that all nations and all peoples were free to govern themselves. Next, President Eisenhower basically concurred with Truman and strengthened this ideal by, in effect, supporting other countries in Africa and Asia as they struggled to win their independence. When the French, Israelis, and British invaded Egypt to take back the Suez Canal in 1956 expecting American support, Eisenhower instead rescued Egyptian leader Gamal Abdel Nasser, forcing the invaders to withdraw by means of a trade ban. He refused to intervene in Vietnam when Secretary of State John Foster Dulles and Vice President Nixon urged him to do so, and he also declined to support the French in their war to keep their colony of Algeria.(対訳、一部意訳)一般的に言って、ソ連とは異なりアメリカは当初、アジアやその他の地域での独立運動に同情的であった。トルーマンは1949年1月20日の大統領就任演説で、すべての国と国民は自分たちで国を統治する自由があると宣言した。次の大統領であるアイゼンハワーも基本的にトルーマンと同意見で、独立を勝ち取ろうと奮闘しているアフリカとアジアの国々を実際に支援することにより、その精神を具現化したのである。フランス、イスラエル、英国は1956年、スエズ運河を奪還するためにエジプトに侵略したときに、アメリカの支援を期待した。しかし時の大統領アイゼンハワーは、エジプトのリーダーであるナセルを助け、禁輸などの手段で侵略者たちを撤退させたのだ。アイゼンハワーは、ダレス国務長官とニクソン副大統領がヴェトナムに介入すべきだと進言したときも、それを拒絶した。彼はまた、アルジェリアの植民地を維持しようとするフランスの戦争を支持することも拒否した。(解説)前のパラグラフでは、ソ連の対アジア政策について分析したが、それを受けてアメリカの対アジア政策の問題点を上げた。当初アメリカは、アジアなどのナショナリズムの機運を支持していたと主張している。However, this lofty American idealism did not last long. The first sign of a change in policy came after the establishment of communist China and the outbreak of the Korean War. Despite American idealism, the Cold War forced the US to adopt a more realistic policy. Japan was a good example. As soon as the Korean War broke out in 1950, the GHQ strongly urged Japan to rearm. Japanese demilitarization, which the US, from its idealistic stance, had forced on Japan immediately after World War II, no longer mattered to the US. While Asian countries still wanted real independence, the Americans came to be more concerned with creating Cold War allies. The American preoccupation was with opposing communism, not with helping all nations and all peoples to achieve self-government. Thus American idealism gradually faded away. By 1960, anti-Communism had the highest priority. The result was, as we all know, the Vietnam War.(対訳、一部意訳)しかしながら、このアメリカの崇高な精神も長くは続かなかった。最初の政策の変化は、共産主義国家中国の誕生と朝鮮戦争の勃発により現われた。アメリカの理想主義的な精神にもかかわらず、冷戦の緊急性は、アメリカを理想主義的な政策よりも現実主義的な政策を採用するよう追い詰めたのである。日本はいい例であった。朝鮮戦争が1950年に勃発するやいなや、GHQは日本に再軍備するよう強く促した。理想主義的な政策からアメリカが第二次世界大戦後すぐに日本に対して強いた非軍事化も、もはやアメリカにとってはどうでもいいことだった。アジアの国々が依然として真の独立を模索しているときも、アメリカは冷戦の同盟国を作ることに血眼になっていた。アメリカ最大の関心事は、共産主義に対抗することであった。あらゆる国と国民が自分たちで自分の国を統治することではなかった。こうしてアメリカの理想主義は次第に消え去っていった。1960年までには、反共産主義政策は最優先事項となった。その結果が、ご存知のヴェトナム戦争であった。(解説)このパラグラフでは、アメリカの対アジア政策の変化を取り上げた。ナショナリズムに根ざした独立運動の機運を支持してきたアメリカも、ソ連との冷戦の激化に伴いアジアのナショナリズムになど構っていられなくなったようだ。ソ連に対抗するため、なりふり構わず反共産主義の政策を推し進めたのだ。その最たる例がヴェトナム戦争であるとして、次のパラグラフ、そしてテーマにつなげている。このようにスムーズに次のパラグラフに移行していくのがコツである。次回は次の節である「ヴェトナム戦争」に続きます。(続く)
2024.12.25
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ここからが本論です。The Beginning of the Asian Wars for IndependenceAs we have discussed in class, for many Asian peoples except the Japanese, World War II was fundamentally a forerunner to their wars for independence. So the end of World War II meant liberation from oppressors. In Japan, according to Fumito Kanda, immediately after the war 37,000 Koreans and 3,000 Chinese who had been forced to work mainly as mine workers in Hokkaido rose up for liberation, starting riots. The riots lasted from August to November, 1945, until finally the General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ SCAP) intervened. In French Indochina, Vietnam, Laos, and Cambodia revolted against France. These anti-French nationalist movements soon expanded into the First Indochina War in 1946. In China, the civil war between the Chinese Communist Party and the Nationalist Party, which rekindled immediately after the end of World War II, was also closely related to such independence movements. (対訳、一部意訳)アジアにおける独立戦争の夜明け 授業で議論したように、日本人以外の多くのアジアの人々にとって第二次世界大戦は、本質的に独立戦争の前哨戦であった。そのため第二次世界大戦の終わりは、圧政からの解放を意味した。神田文人によると、日本では戦後直ちに、主に北海道などの炭鉱で強制労働をさせられていた37000人の朝鮮人と3000人の中国人が解放のために立ち上がり、暴動を起こしたという。暴動は1945年の8月から11月まで続き、最後にはGHQが暴動に介入するに至った。仏領インドシナでは、ヴェトナム、ラオス、カンボジアの人々は、フランスに対抗して立ち上がった。このフランスに対するナショナリズム的な運動は間もなく、1946年の第一次インドシナ戦争へと発展した。中国では、共産党と国民党の間の内戦が第二次世界大戦終結後すぐに再燃した。これもまた、解放運動と深く関係していた。 (解説)とにかく、すべてアジアのナショナリズムで第二次世界大戦後の東アジアの歴史を解釈しなければならない。第二次世界大戦後のナショナリズムに関連した事件や出来事を可能なかぎり集めて、議論を展開していくわけだ。キャッチフレーズがあるとしたら、それは「抑圧からの解放」であろう。中国人や朝鮮人のナショナリズムの高揚は、日本でも暴動という形で起きた。ベトナム、ラオス、カンボジアの人々も、フランスの植民地支配を打破しようと立ち上がった。 Anti-colonialism spread from Northeast Asia to the Middle East. Ironically, it was Japan’s occupation during the war that awoke feelings of nationalism among the Asian people. In consequence, independent states appeared one by one in Asia after the end of the war. (対訳、一部意訳)ヨーロッパの列強による植民地支配を打破しようという運動は北東アジアから中東へと広がった。皮肉なことに、アジアの人々の間にナショナリズム感情を呼び起こしたのは大戦中の日本による支配であった。しかしながら、こうした運動ゆえに、独立した国家が一つ一つ、アジアに誕生していったのである。 (解説)「独立運動の夜明け」についての筆者の見解を示したものだ。アジアには、ヨーロッパ列強の支配に対する反感と日本の支配に対する反感という2つの流れがあった。 「ヨーロッパの列強による植民地支配を打破しようという運動」はthe movements to destroy the structure of European dominated colonial empiresとしたが、こうした回りくどい表現はあまり好まれないようで、添削では簡単にanti-colonialismと直された。確かにこのほうが、はるかにすっきりする。 The Chinese Civil War In 1945, as soon as Japan surrendered, fighting broke out between the Chinese Communist Party and the Nationalist Party. Despite American efforts at mediation, hostilities continued, and the conflict soon led to full-scale civil war. By the end of 1948, the Communists had taken the offensive, finally winning the war and driving the Nationalist Party off the mainland. (対訳、一部意訳)中国の内戦 1945年、日本が降伏するや否や、中国共産党と国民党の戦いが勃発した。アメリカが仲裁しようとしたにもかかわらず、両者の間の敵愾心は続き、戦闘はいつしか全面的な内戦へと拡大した。1948年末までには、共産党は軍事的な主導権を取り、最終的に戦争に勝利、国民党を大陸から追い出した。 (解説)次は大国の中国である。ほかの東アジア諸国とは実情が異なるので、別立てにした。共産党と国民党による内戦に発展してしまったからだ。どちらも圧政からの解放を掲げていたが、最終的に勝利したのは共産党であった。In a sense, the communist victory in the Chinese civil war was the beginning of a series of nationalistic victories in East Asia. This was definitely related to the wider liberation movement because, as Professor Miller explained in class, Mao Zedong succeeded in “harnessing peasant nationalism” to win the war. Calling the war “the great War of Liberation,” he “spoke for Chinese nationalism—especially peasant nationalism—which was aroused by the Japanese invasion and occupation” in the 1930s and 1940s, and he made every effort to make Chinese communists “the legitimate spokesman for Chinese nationalism.” (対訳、一部意訳)ある意味で、中国の内戦における共産党の勝利は、東アジアのナショナリズム的な一連の勝利の幕開けでもあった。中国共産党の勝利は明確に、解放運動と結びついていた。というのも、ミラー教授が授業で説明したように、毛沢東は内戦に勝つために「農民のナショナリズムを利用」することに成功したからだ。毛沢東は内戦を「偉大な解放戦争」と呼び、「中国人の、とりわけ農民のナショナリズムに訴えかけた。農民の間のナショナリズム運動の機運は、1930年代と40年代の日本の侵略と占領によって高まったもの」であった。毛沢東は中国共産党を「中国のナショナリズムを代表する合法的な政党」にするためには、あらゆる努力を惜しまなかった。 (解説)共産党の勝利は、農民ナショナリズムの勝利であった。毛沢東の言葉を引用しながら、毛沢東がいかにナショナリズムの鼓舞を重視していたかを論じている。授業中での議論も踏まえて、このパラグラフをまとめている。 On the other hand, the Nationalist Party, led by Chiang Kai-shek, was not able to win the hearts of the civilian populace. It suffered from official corruption, loss of morale in the armed forces, and economic collapse. In contrast to the communist land reform policy to save the Chinese peasants, Chiang’s inflationary policy paralyzed the economy. It was only natural that Chiang, who had not vigorously fought the Japanese during the 1930s, failed to be seen as representing Chinese nationalism. (対訳、一部意訳)一方、蒋介石に率いられた国民党は、民衆の人気を集めることができなかった。国民党は汚職や軍隊内の士気の低下、経済の失敗に悩まされていた。多くの農民を救った共産党の土地改良政策と異なり、蒋介石のインフレ的な政策は経済を麻痺させた。1930年代に必ずしも日本と戦おうとしなかった蒋介石が中国のナショナリズムを代表できなかったのは、至極当然のことであった。 (解説)共産党が中国のナショナリズムの代表となりえた状況を説明している。共産党が土地改良を進めて農民を救おうとしたのに対し、国民党はおそらくは一部の受益者を利するインフレ政策を推進した。国民党はどちらかというと共産党との権力闘争に重きを置いていたように思われる。 The US did not fully realize which side appealed more to the Chinese people. In other words, the US failed to perceive the Chinese Communist Party’s legitimacy as standard-bearer for Chinese nationalism. This was the first American failure in its foreign policy toward Asia. The US did not correctly perceive the independence movements spreading across Asia. By contrast, Mao’s strategy was a great success. He initially aroused Chinese nationalism by targeting the Japanese invasion and occupation and later by taking advantage of Chiang’s failure in economic policy and the American ignorance of Asian popular feelings and Asian nationalism. This nationalistic strategy was particularly evident in the Korean War. (対訳、一部意訳)アメリカはどちらの党がより民衆の心を捉えていたか、よくわかっていなかった。言い換えるとアメリカは、中国共産党が中国ナショナリズムの正当な代表であることに気づくことができなかったのである。これは、対アジア外交政策におけるアメリカの1つ目の失敗であった。アメリカは、アジアに広がる独立の機運というものを正しく認識していなかった。対照的に、毛沢東の戦略は成功であった。彼はまず、日本の侵略と占領を標的にすることによって、後には蒋介石の経済政策の失敗や、アジアの人々の感情やナショナリズムについてアメリカが無知であることに付け入ることによって、中国の人々のナショナリズムを鼓舞したのだ。この戦略は朝鮮戦争でもっと顕著になった。 (解説)このパラグラフも、共産党の成功と国民党の失敗を対比させているが、アメリカの外交政策の失敗にも言及している。アジアのナショナリズムを理解しないアメリカの態度は、この後も続く。逆に中国はアジアのナショナリズムをうまく利用していった。その一例が朝鮮戦争であるとして、次のパラグラフにつなげている。 「正当な代表」を表現するのにrepresentativeを使ったが、standard-bearerのほうが意味に合っているというので直してある。The Korean War The Korean independence movement had emerged as early as the March First Movement in 1919, but Japan, which had been dominating Korea since the Protectorate Treaty in 1905, severely suppressed nationalist movements in the following years until its defeat in World War II. Unfortunately, shortly before the end of World War II, the Soviet Union and the United States agreed to divide the Korean peninsula at the 38th parallel despite Korean hopes to avoid such a fate. This division greatly affected the nationalistic movement on the Korean peninsula because, while in the south right-wing nationalists attacked a well-developed leftist movement, in the north the Soviet Union suppressed moderate nationalists. Nobody was able to bring these different independence movements together. By 1947, both the US and the Soviet Union began arranging separate governments. The Republic of Korea was born in August 1948, supported by the US; the Democratic People’s Republic of Korea was established in September 1948, supported by the Soviet Union. (対訳、一部意訳)朝鮮戦争 朝鮮の独立運動は既に、1919年の3月1日運動に見受けられた。しかし1905年のポーツマス条約以来、朝鮮を支配していた日本は、太平洋戦争で日本が負けるまで、朝鮮のナショナリズム運動を厳しく弾圧した。不幸なことに、第二次世界大戦が終わる直前に、朝鮮民族の統一の願いもむなしく、ソ連とアメリカが朝鮮半島を北緯38度線で分断することで合意してしまった。この分断は、朝鮮半島のナショナリズム的な運動に大きな影響を与えた。というのも、南では右翼のナショナリストが左翼の運動を攻撃する一方、北ではソ連が穏健派のナショナリストたちを抑圧していたからだ。この二つの異なる独立運動を一つにまとめることは、不可能であった。1947年までには、米ソ両大国ともそれぞれの政府を樹立させるべく準備を始めていた。アメリカに支持された韓国は1948年8月に誕生。ソ連に支持された北朝鮮は1948年9月に制定された。 (解説)戦後東アジアでもっとも米ソ両大国の犠牲になったのは、朝鮮半島であった。ここでは、朝鮮戦争に至るまでの半島の歴史を概観した。強国によりナショナリズムが捻じ曲げられ、分断されたのである。However, this north-south separation was not at all a good situation for Korean nationalism. It made the issue more complicated. Which was the legitimate leader of Korean nationalism? Kim Il-sung would definitely have said that it was the north. And to prove his Korean nationalism, North Korean troops attacked across the 38th parallel in 1950, starting the Korean War. (対訳、一部意訳)しかしながら、この南北分断は朝鮮のナショナリズムにとっては、好ましい状況とはとてもいえなかった。むしろ問題をもっと複雑にした。どちらの国がより朝鮮民族のナショナリズムを正当に代表することができるのか? 金日成も同じ疑問を持っていた。そして彼の意見では北朝鮮こそ、朝鮮ナショナリズムの代表であった。金が言う朝鮮ナショナリズムと革命を正当化するため、北朝鮮の軍隊は1950年に38度線を越えて南を攻撃、朝鮮戦争が始まったのだ。 (解説)ナショナリズムが捻じ曲げられたがゆえに、それを正常な状態へ戻そうとする動きが出ることは当然の流れであった。このねじれが南北の対立を激化させ、やがては戦争へと突入したのであると議論を展開した。 China’s initial feelings about the war were mixed. It was tempted to intervene for the sake of its self-defense. But if it entered the war, Mao feared, the US might also. Mao did not want a war with the US. However, he finally decided to enter the war because he believed that his strategy to push Chinese revolutionary nationalism was far more important than the risk he took by entering the war. As Jian Chen emphasizes in his book China’s Road to the Korean War, China’s decision to enter the Korean War was “based on the belief that the outcome of the Korean crisis was closely related to the new China’s vital domestic and international interests.” Mao made use of the war as a leverage to advance his revolutionary nationalism, to push forward “[his] perceived revolutionary transformation of Chinese society,” and to “signal revolutionary China’s reemergence as a prominent world power” or to revitalize China. (対訳、一部意訳)この戦争に対する中国の反応は、最初は困惑したものであった。中国は防衛上の理由から戦争に介入したいと考えた。しかし参戦すれば、アメリカも参戦しかねないと毛沢東は危惧した。彼はアメリカとの戦争は望んでいなかった。しかしながら、毛沢東は最終的には戦争に介入すると決めた。中国の革命的なナショナリズムを強化するという毛沢東の戦略は、参戦することによって彼が取るリスクよりもはるかに重要であったからだ。ジャン・ツェンが彼の著書『中国の朝鮮戦争への道』で強調しているように、中国の参戦の決定は、「朝鮮半島の危機の結果は、新しい中国の国内外の利益に緊密に関係するという信念に基づいて」いた。毛沢東は朝鮮戦争をテコとして利用したのだ。それにより毛沢東は、革命的なナショナリズムを推進し、「(彼が)考えた中国社会の革命的な変貌」を前進させ、そして「革命中国が世界有数の大国として再び台頭したことを示し」、あるいは中国の偉大な力を再び蘇らせた。 (解説)このパラグラフは中国の参戦についての考察である。ナショナリズム史観であるため、参戦の背景には中国の革命的ナショナリズムがあったのだと論じている。その論点を強調するために、ここでも効果的にコース必読書から引用をしている。 引用部分で筆者が補ったり変えたりする場合には、赤字の部分のように[]を使う。元々はhisではなくて、Mao’sであったが、このセンテンスの最初にMaoを使っているのでhisに変えたのである。クォーテンションマーク(“”)の前にhisを持ってくる方法もある。その場合、his “perceived revolutionary transformation…”となる。 China’s intervention in the war significantly changed the situation. When a unified United Nations forces commanded by the American Commander-in-Chief in the Far East, General Douglas MacArthur, fought back against North Korea, crossed the 38th parallel, and threatened China with units reaching the Yalu in October 1950, the Chinese struck back, helping North Korea and forcing the UN forces to retreat back to South Korea. The war seesawed back and forth after the Chinese involvement, but ultimately China proved that Asia could beat the West. (対訳、一部意訳)中国の朝鮮戦争介入は状況を一変させた。アメリカの極東司令官マッカーサーが指揮する国連の統一部隊が北朝鮮軍を撃退、38度線を越えて押し返し、1950年10月には鴨緑江(おうりょっこう)に達し、中国を脅かしたとき、中国は北朝鮮を支援して反撃を開始、国連部隊を韓国へと退却させた。中国の介入後、戦況は一進一退を繰り返した。しかし究極的に中国は、アジアは西洋を打ち破ることができることを証明して見せたのである。 (解説)戦況の説明である。最後の文章で、中国側から見た戦争の意義に言及している。このパラグラフは、先述した英文のパラグラフの典型的な例といえる。イントロで明確な主張を打ち出し、その後の文章でその主張を補強する事実を挙げる。最後は結論としてその意義を明示して終わっている。速読でも最初のパラグラフと最後のパラグラフを読めば、書き手の主張がわかる構成になっている。 Mao’s decision was right from the viewpoint of advancing his revolutionary nationalism. For the first time in its modern history, China had not given in to Western powers. Moreover, through participation in the war, Mao eliminated reactionary resistance to his new regime, educated his people to strike against the arrogance of US imperialist aggression, and succeeded in creating a revolutionary momentum in the Chinese people. And, more than anything else, Mao was able to enhance the image of China as a leader in the revolutionary struggle against Western domination in Asia and Africa. (対訳、一部意訳)革命的なナショナリズムを推進するという観点から、毛沢東の決定は正しかった。近現代史では初めて、中国は西洋の列強に屈しなかった。さらに、朝鮮戦争に参加することによって毛沢東は、新政権に対する反動的な抵抗を排除し、アメリカの帝国主義的な侵略という傲慢に反撃するよう国民を教育し、中国の人々に革命の弾みをつけることに成功したのである。そして何よりも毛沢東は、アジアとアフリカでの西洋支配に対して革命的に争うリーダーとしての中国のイメージを強めることができたのだ。 (解説)中国側から見た朝鮮戦争の意義を詳述したのが、このパラグラフである。近現代史において初めて中国が西洋の列強に屈しなかったことの意味は大きい。毛沢東の戦略的勝利であった。 This is why Mao and the Beijing leaders called China’s involvement in the Korean War a great victory. Ironically, because of this confidence, later Mao would proceed with cruel experiments such as the Great Leap Forward and the Great Proletarian Cultural Revolution. (対訳、一部意訳)毛沢東と北京政府のリーダーたちが朝鮮戦争への中国の介入を偉大なる勝利であるとするのは、こうした理由からであった。皮肉なことに、この自信ゆえに、後に毛沢東は大躍進や文化大革命といった冷酷な実験を推進するのであった。(解説)朝鮮戦争についての最後のパラグラフとなるが、まとめではなく、展望で終わっていることに注目してほしい。結論的な部分はなるべく、発展する形で終わるようにしたい。本論はまだまだ続きます。「アジアにおける独立戦争の夜明け」の次の節は「American and Soviet Attitudes Toward Asian Nationalism(アジアのナショナリズムに対する米ソの態度)」です。(続く)
2024.12.24
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以下は、私が書いたエッセイです。ずいぶん昔に書いた私の解説付き。対訳も付けてあります。長いですので、心してお読みください。The international relations of East Asia since World War II are best understood as: the triumph of Asian nationalism. (Nationalism interpretation) Not many people in the West correctly understand why Bruce Lee, the famous Hong Kong action star, gained such popularity in East Asia in the early 1970s. The Vietnam War had been a quagmire for more than ten years, the old system of American reign over Asia had begun to collapse, and the long-believed myth that the white race was superior to the yellow race was about to come to an end at last. Bruce Lee definitely grasped the mood of the times in Asia. Asian people saw, in Bruce Lee’s films, an Asian overpowering white domination. On the other hand, Western people, to my surprise, even many of the Westernized Japanese, tended to regard his movies simply as good defeating bad. They did not understand that his popularity in Asia originated in the Asian desire to be free from Western rules or, to a certain degree, from westernized Japan’s domination. (対訳、一部意訳)西洋の人々の多くは、東アジアの人々が1970年代初め、なぜあれほど香港の有名なアクションスター、ブルース・リーに熱狂したかを正確に理解していない。ヴェトナム戦争は10年間も泥沼化し、アメリカの古いシステムによるアジア支配は崩壊を始めていた。白色人種が黄色人種よりも優れていると長年信じられてきた作り話も、とうとう終わろうとしていた。ブルース・リーは間違いなく、そのようなアジアの雰囲気を掴み取っていた。アジアの人々はブルース・リーの映画の中に、アジアが白人支配を克服しようとしている姿を見た。一方西洋の人々は、驚くべきことに多くの日本人でさえも、彼の映画を善が悪をやっつけるという単純な物語だと思い込む傾向があった。アジアでの彼の人気が、西洋の支配、あるいは、ある意味で西洋化された日本の支配からから自由になりたいという願望に根ざしていることを彼らは理解していなかった。 (解説)書き出しは意表を突いてブルース・リーにした。分類するなら比ゆ的な書き出しである。西洋人にとって白人は英雄として描かれることが多いが、東洋人にとって白人は悪党であることが多い。西洋にとっての英雄は東洋にとっての悪党である。ブルース・リー現象は、西洋と東洋ではまったく立場が逆になりうるということをよく表していると思う。 In the first three films of Bruce Lee, white fighters and Japanese fighters are the villains, and Bruce Lee, representing the suppressed Asian people, beats them all. According to the Asahi-Shinbun, a leading Japanese newspaper, his first martial arts film, “The Big Boss,” earned box-office profits of 3.20 million Hong Kong dollars in Hong Kong. His second work, “Fists of Fury,” in which Bruce Lee completely defeated Japanese Karate fighters, earned HK$4.43 million, and the box-office returns for his third work, “Return of the Dragon,” in which Bruce Lee beats white fighters, reached HK$5.31 million. But interestingly, his fourth movie, “Enter the Dragon,” which was American-produced in order to make inroads into the Hollywood market, and in which Chinese are the villains, was not as popular in Hong Kong as his previous two works. It earned only HK$3.31 million. Westernized culture, as in Japan, is not necessarily becoming more popular in Asia. Many Chinese were disappointed in the westernized Bruce Lee, who, in effect, wore a suit and tie in the film, but ironically, it was the fourth movie that made him a world-famous action star. (対訳、一部意訳)ブルース・リーの最初の3本のカンフー映画は、白人と日本人の武道家が悪党であった。アジアの抑圧された人々の代表であるブルース・リーが、悪党を退治したわけだ。日本の代表的日刊紙である朝日新聞によると、その第一作『ドラゴン危機一発』320万香港ドルを売り上げた。ブルース・リーが日本の空手家を徹底的に打ちのめす第二作『ドラゴン怒りの鉄拳』は、443万香港ドルの興行成績であった。ブルース・リーが白人武道家を倒す第三作『ドラゴンへの道』の興行収入は、531万香港ドルに達した。しかし面白いことに、ハリウッド映画界に入り込むため、アメリカの制作で、なおかつストーリーの中で中国系が悪人となる第四作『燃えよドラゴン』は、香港では前二作よりも人気がなかった。興行収入は331万香港ドルであった。多くの中国人は西洋化されたブルース・リーに失望した可能性はある。事実、映画の中でブルース・リーは、スーツを着て、ネクタイをしている。皮肉なことに、彼を世界的に有名なアクションスターにした英語も、この第四作であった。 (解説)このイントロの中の第二パラグラフでは、第一パラグラフで主張した主題を、具体的に興行成績を挙げるなどして補強した形になっている。数字から人気の背景が浮かび上がってくる。抑圧者である白人や日本人をやってけるからこそ、あれほどブルース・リー映画の人気が爆発したのだ。英語のタイトルと日本語のタイトルが必ずしも一致しないのは、アメリカ映画界の事情によるものである。In Hong Kong, December 25, the day when Japan occupied Hong Kong in 1941, is called Black Christmas. As seen in Bruce Lee’s films, in order to understand East Asian history, including the Korean War and the Vietnam War, it is necessary to comprehend Asian feelings against the West and “westernized” Japan, which colonized much of East Asia in the 1930s and 1940s. The “failure” of the United States, especially in the Vietnam War, partially derives from this lack of understanding of Asian values. The Western interpretation of the Cold War order cannot alone explain all Asian struggles after World War II. These were struggles against Western imperialism, struggles to regain an Asian national identity, and struggles to free Asian peoples who had been suppressed under Western dominance and Japanese occupation since long before World War II. Such Asian struggles became particularly prominent immediately after the war.(対訳、一部意訳)香港で12月25日と言えば、1941年に日本が香港を占領した日であることから、ブラック・クリスマスと呼ばれる。朝鮮戦争やヴェトナム戦争といった東アジアの歴史を知るためには、ブルース・リー映画と同様に、東アジアの人々の西洋に対する感情や、1930年代と40年代に東アジアの多くを事実上植民地支配した、“西洋化した”日本に対する感情を理解する必要がある。アメリカが、とりわけヴェトナム戦争で“失敗”した背景には、部分的には、アジアのこの種の価値観に対する無理解があった。第二次世界大戦後のアジアの闘争の歴史を説明する場合、冷戦構造という西洋的な解釈だけでは不十分である。それは西洋の帝国主義に対する闘争であり、アジアの国々のアイデンティティーを取り戻す闘いであり、第二次世界大戦のはるか前から西洋と日本により支配、抑圧されてきた自国民を自由にするための戦いであった。そのようなアジアの闘争は大戦直後から顕著になった。 (解説)このブルース・リーの比ゆは、いかに東アジアのナショナリズムのパワーが歴史を動かしているかを示す例として挙げたものだ。イントロに強烈なインパクトをもたらし、本文への議論へとつなげた。 particularlyは口語的表現であるreallyの言い換え。ここまでがイントロですね。次回はようやく本論に入ります。(続く)
2024.12.23
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二人の元CIA情報官と分析官がなぜあのように膨大な論文のリーディングアサインメントを与え、分析させたか――そのすべての答えは、ファイナル試験の問題を読むことによって判明しました。第二次世界大戦後の東アジアの国際関係を説明するに当たって、あるポジション(議論の軸となる主張)を取って論ぜよという問題だったんですね。 つまり右だろうと左だろうと自分の主義主張とは関係なく、一つの立場に立って、説得力のある歴史的解釈を論じろというわけです。私が受けたファイナル試験の中で一番面白い試験の一つでした。 そのポジションの例として、次の11の例が挙げられていました。The international relations of East Asia since World War II are best understood as: 1)-the successful effort of the U.S.-led West to contain Soviet expansionism in Asia. (Orthodox Cold War interpretation) 2)-the unsuccessful effort of the former USSR and the Third World states of East Asia to deter American domination of Asia. (Revisionist Cold War interpretation) 3)-the failure of the United States and the Soviet Union to work out a stable accommodation in Asia and elsewhere. (Post-revisionist interpretation) 4)-the fall and rise again of Japan as the dominating East Asian power. (Japan-centered interpretation) 5)-the return of China as the hegemonic power of East Asia. (Sinocentric interpretation) 6)-the rise and decline of the United States as the dominating Asian power. (American hegemony interpretation) 7)-the rise and decline of a bipolar global structure of power and transition to multipolarity. (Realistic interpretation)8)-(Missing)9)-the triumph of Asian nationalism. (Nationalism interpretation) 10)-the completion of the creation and consolidation of the nation-state system in East Asia. (International society interpretation) 11)-an emergent clash of civilizations. (Huntington/cultural interpretation) (訳) 第二次世界大戦後の東アジアの国際関係は次の解釈によって、いちばんわかりやすく説明できる: (1)アジアにおけるソ連の拡張主義を封じ込めようとするアメリカを中心とする西洋諸国の努力が報われた。(オーソドックスな冷戦の解釈) (2)旧ソ連諸国とアジアの第三世界諸国が、アメリカのアジア支配を食い止めることができなかった。(修正主義者的な冷戦の解釈) (3)米ソ両国がアジアやその他の地域で安定した環境を達成することに失敗した。(修正主義者による後の解釈) (4)東アジアの支配勢力としての日本が衰退し、再び盛り返した。(日本中心の解釈) (5)東アジアの覇権勢力としての中国が戻ってきた。(中国中心の解釈) (6)アジアの支配勢力としてのアメリカが盛衰した。(アメリカ覇権主義的な解釈) (7)大国の二極構造が衰退し、多極構造へと移行した。(現実主義的解釈) (8)アメリカが推し進めたグローバル経済と安全保障秩序が東アジアで広まった。(汎アメリカ的解釈) (9)アジアのナショナリズムが勝利した。(ナショナリズム的解釈) (10)東アジアにおける国家システムの創生と地固めが完成した。(国際社会的解釈) (11)文明の衝突が顕著になった。(ハンティントン的、文化的解釈) このうちのどれが正解ということはなく、このほかにも、自分で解釈を作り出してもいいことになっていました。ただし、一度ポジションを決めたら、最後までその解釈を貫かなければなりません。東アジアで起きた事件や出来事をすべて最初に決めたポジションで解釈していくわけです。 この中で、私は(9)のナショナリズム的解釈を選びました。別にいつもこのような歴史解釈をしているわけではありません。ただ、この立場をとって歴史を解釈すると、どう見えてくるか、興味を覚えたからです。 次回は、私が書いたそのエッセイを紹介しましょう。 (続く)
2024.12.22
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紹介が最後になりましたが、セイヤ―教授とミラー准教授という二人のCIAコンビによるクラス「A Survey of International Relations in East Asia after World War Ⅱ(第二次大戦後の東アジアにおける国際関係の概論)」も面白かったです。 セイヤ―教授(Nathaniel Bowman Thayer)は超保守派の論客で、ミラー准教授(H. Lyman Miller)は保守的でありながらもバランスの取れた議論をする中国問題の専門家でした。セイヤ―教授は1978年から1980年にかけて、中央情報局(CIA)の東アジア専門国家情報官(national intelligent officer for East Asia)を務めた経験があり、ミラー准教授は1974年から1990年にかけて中国を中心とする東アジア問題を担当したCIAの上級分析官(Senior Analyst)でしたから、まさに元CIAコンビというわけです。 コースでは、東アジアに関する様々な興味深い論文を読まされました。学生はそれらの中からそれぞれ好きな論文を選んでクラスで論評を加えることを求められました。私はヴェトナム戦争についてのある論文を選んで、それをクラスで発表したのですが、私がその論文を比較するうえである人の書いた論文を取り上げて「非常にフェアに論じていた」と評したら、セイヤ―教授が顔を真っ赤にして「○○(その論文の著者の名前。記憶では“We Now Know”を書いた John Gaddis)は超、超左翼だ」と半ばののしり始めたんですね。私が「そう言われても、ほかの人の書いたヴェトナム戦争の論文はあまりにも一方的で、詭弁に満ちており、とても賛同できなかった」と言うと、それ以上は何も言われませんでした。 私にとってのフェアな議論が、セイヤ―教授にとっては極左の理論なら私もどうしようもない「極左の学生」に思われたにちがいありません。 セイヤ―教授だけのコースだったら、私はきっとひどい点を取ったでしょうが、きっとミラー准教授がこのコースのバランスをとっていたんでしょうね。私が書いたファイナル試験のエッセイはちゃんと評価されて、総合でもA-でした。 あとでわかるのですが、このコースはそれが狙いだったんですね。 政治的立場がどうあれ、どのように議論を展開したら説得力をもつ論文になるかを学ぶ場でもあったのです。それはファイナル試験の問題を読むことによって判明しました。 それを次回、説明いたしましょう。 (続く) 付録:当時私が書いた論文分析リポート Jian, Chen. China’s Road to the Korean War: the Making of the Sino-American Confrontation. New York: Columbia University Press, 1994 THESIS: Beijing’s management of the Korean crisis has to be understood in the context of the escalating confrontation between the People’s Republic of China and the United States in East Asia in 1949 and 1950: by the summer of 1950, each country had firmly perceived the other as a dangerous rival. Because of the motive of defending China’s territorial safety, as well as safeguarding a neighboring country belonging to China’s traditional sphere of influence, and Mao and his fellow Beijing leaders’ eagerness to revitalize China’s great power status through the revolutions following the Chinese model in East Asia and in the world, there was little possibility that China’s entrance into the Korean War could have been averted. Main Argument: Shortly after the Korean War, scholars in the West widely believed that Beijing’s policy was aggressive, violent, and irrational. In 1960, Allen S. Whiting published his landmark study, China Crosses the Yalu, in which he argued that unlike the Soviet Union, Communist China had not directly participated in the planning for the North Korean invasion of the South. According to his study using Western intelligence sources and Chinese journal and newspaper information, Beijing entered the war only after all warnings had been ignored by Washington and General MacArthur and in the Beijing leadership’s view, the safety of the Chinese-Korean border was severely menaced. Many scholars followed his thesis. They generally argued that Beijing did not welcome the Korean War because China faced difficult tasks of economic reconstruction and political consolidation at home and gave priority to liberating Nationalist-controlled Taiwan. However, Chen Jian, criticizing Whiting for lacking access to Chinese archival materials, points out that recent Chinese sources indicates that early in August 1950, more than one month before the Inchon landing, Mao Zedong and the Beijing leadership had been inclined to send troops to Korea, and China’s military and political preparations had begun even a month earlier. Jian also finds that the concerns behind the decision to enter the Korean War went far beyond the defense of the safety of the Chinese-Korean border. Such concerns include (1)enhancing the Chinese Communist Party’s ruling position at home, (2)pushing forward Mao’s perceived revolutionary transformation of Chinese society, and (3)signaling revolutionary China’s reemergence as a prominent world power or revitalizing China’s great power status. In other word, China had three rationales. #1 CCP’s revolutionary nationalism #2 its sense of responsibility toward a Asian-wide or a world-wide revolution #3 its determination to maintain the inner dynamics of the Chinese revolution. The author also emphasizes the importance of Mao’s role in decision making at that time. Describing Mao’s personality as challenge oriented, the author explains that despite the physical loss, gain was considerable for Mao, because through the participation of the war, #1 the reactionary resistance to the new regime had been destroyed. #2 Land had been distributed widely and the landlord class disappeared. #3 Communist cardres reeducated. #4 China’s rise became prominent in the international arena. #5 Mao was able to develop his personal cult. CONTENT: The first part (chapter 1) begins with an analysis of Communist China as an emerging revolutionary power. Focusing on the pre-1949 period, the author discusses the domestic sources of the Chinese Communist Party (CCP)’s foreign policy, the party leadership’s perception of the outside world and China’s position in it, and Mao’s central role in the CCP’s policy-making structure. The second part (chapter 2-4) explains how the conflict between the CCP and the US escalated and the strategic cooperation between Beijing and Moscow developed in 1949 and the first half of 1950—on the eve of the Korean War, Beijing and Washington had perceived each other as a dangerous enemy, and a stage for Sino-American confrontation had been set up. The third part (chapter 5-7) examines Beijing’s management of the Korean crisis from late June to mid-October 1950, focusing on how the decision to enter the war was made and how it withstood both internal and external tests. Emphasizing that Beijing’s decision to enter the war was based on the belief that the outcome of the Korean crisis was closely related to the new China’s vital domestic and international interests, the author argues that there was little possibility that China’s entrance into the Korean War could have been averted. COMMENT & CRITICISM: The book explains mainly the author’s belief that China’s road to the Korean War was inevitable. However, since the explanation focuses much on the China’s motives and ideological rationales to confront the US, the author seems to put little emphasis on strategic failures of China, the US, and the Soviet Union. John Gaddis’s We Now Know, on the other hand, explains well those nations’ miscalculations. For example, in page 74, Gaddis emphasizes that Mao had to intervene the war because he wanted the Soviet Union to support the projected attack on Taiwan. So the combination of this book and Gaddis’s book might shed more light to the origin of the Korean War. The author made four research trips to China respectively in 1987, 1991, 1992, and 1993. During these trips he established and updated his research databases, and interviewed those who were involved in Beijing’s policy-making during the late 1940s and early 1950s, and those who have access to classified Chinese documents. These attempts should be highly appreciated.
2024.12.21
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ピロッグの「企業財務」以外の春学期の履修科目を見て行きましょう。 デイヴィッド・カレオ(David P. Calleo)教授の「The United States in the World Political Economy(世界の政治経済における米国)」は、なかなか知的で面白かったです。ちょっとハスキーで物静かな声の響き。私はそのカレオ教授の独特の語り口が好きでした。10人ほどの少人数のクラスで、学期期間中に一度、ユニオン駅のそばの自宅に学生全員をディナーに呼んでくれて、楽しく会話をしたことをよく覚えています。ヨーロッパ風の家具が置いてある趣のある家で、食事を作ってくれるお手伝いさんとみられる人がいたのにはびっくりしました。 ファイナル試験はテイクホームではなく、インクラスでエッセイの試験を受けました。使っていいのは英語の辞書だけ。制限時間は3時間で、英語を母国語としない学生には4時間くれました。私は4時間目一杯使ってエッセイを書き上げて、提出。A-をもらったのは、非常に大きな自信となりました。 カレオ教授の履歴は こちら 。そしてこちらも。2023年6月15日に88歳で亡くなられていますね。まさに学者という感じの先生でした。 日本経済や日米関係の専門家で当時、シンクタンクのブルッキングス研究所の上級研究員だったエドワード・リンカーン(Edward J. Lincoln)のクラス「Advanced Seminar on Japanese Economy」も面白かったです。これも10人ほどの少人数のクラスで、和気あいあいとした雰囲気の中で楽しく勉強したように記憶しています。このセミナーのエッセイも余裕でA-でした。総合でもA-を取りました。 当時は知りませんでしたが、リンカーン上級研究員がどうして日本のことを勉強するようになったかが書かれている記事を発見しました。 こちらです。新幹線に対する興味や、日本人の奥様との出会いが日本研究につながったことなどが書かれています。 彼の履歴はこちらです。米国のウォルター・モンデール駐日大使時代の特別経済顧問でしたね。 (続く)
2024.12.20
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しかしながら、財務省も共同通信社も、そうした激務の部署・担当の後は、比較的楽な部署や担当に配置換えになります。 私の場合は首相官邸でした。 首相官邸などというと激務だろうと想像されるかもしれませんが、激務となるのは政治部の記者。経済部の記者は結構、経済政策に絞って取材しますから余裕があるんですね。取材先が会議室から出てくるのを廊下で待つなど待ち時間は長いですが、かなり自由な時間を持つことができました。それに大蔵省を担当していたころから政策通のキーとなる政治家をたくさん知っていましたから、取材するのも比較的楽でした。 実はこのとき、一身上の都合で翌年にはどうしてもアメリカの東海岸に行く必要が生じて、1995年の官邸担当のときに米国の大学院留学の準備を始めました。願書用の英文エッセイを書いたり、TOEFLで600点以上取ったり、GMATやGREを受けたり、英文の推薦状をもらったりしたのもこのときです。GMATの点数を上げるために、週末を利用して生まれて初めて予備校にも通いました(ただし、GMATは1st Tierのビジネススクールであるジョージタウン大学などから合格通知を受け取るほどまでスコアが上がりましたが、ビジネスは性に合わないと思って結局行きませんでした)。 吉沢さんも1995年5月に「主計局総務課」から「主計局主計企画官付」に異動したことになっていますから、私と同時期に留学の準備をしていたに違いありません。 それから約2年後に、同じ時期に同じ場所で日本の予算でヘトヘトになった経験のある二人が、遠く離れたワシントンDCの同じ大学院に通いながら、朝のテニスコートでテニスをして汗をかくというのは不思議な縁ではありました。それにおそらく、吉沢さんの奥様になられた方も私が知っている方だと思います。 さて、早朝テニスの効果で、授業が始まる時間にはすでに頭が冴えわたっていましたから、次の学期(春学期)の勉学は絶好調でした。しかし履修した4科目(中国語を入れると5科目)の中でロバート・ピロッグ(Robert Pirog)講師の「企業財務(Corporate Finance)」だけは中間テストでB+を取ってしまい、苦戦していました。 それを聞いた吉沢さんが「ピロッグの企業財務なら取ったから、ノートを貸しましょうか」といってくれたので、そのノートを参考にして勉強しなおしたら、どんどんわかるようになったんですね。 やはり勉強のできる人のノートは違います。正確にはわかりませんが、期末試験ではたぶんAを取ったのだと思います。というのも、B+だった成績が期末試験の結果A-に変わったからです。 かくして魔法の「吉沢ノート」によって、私にとって最終学期となる1998年の春学期は、「オールA-以上」を達成しました。持つべきものはテニス友達ですね。 吉沢さんはその後、主に日本の税制を担う主税畑を歩んでいるようです。 (続く)
2024.12.19
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テニス仲間の吉沢さんが入省した94年当時の大蔵省について語りましょう。 彼が配属された大蔵省主計局はとにかく激務で知られる部署です。 その一端がわかる文章を、吉沢さん自身が財務省のサイトに書いているので、ご紹介しましょう。財務省のサイト リクルート用のパンフレットだと思われますが、その第二部「財務省職員からのメッセージ」の四番目に掲載されているのが、吉沢さんです。<霞が関での仕事始め>に、「財務省の仕事は体力勝負だという話は聞いていたが、初日にしてこんなに忙しいのかと実感したものだった」と感想を述べています。まあ、それほど大変な部署だということです。 ですから当時、昼間に主計局総務課を訪ねると入省一年目の吉沢さんが入り口のドアに一番近い席に座って、その椅子に座ったまま天井を向いて完璧に寝ている姿を時々見かけたものです。これは吉沢さんが別にさぼっているわけではなくて、多忙で睡眠不足となり、とにかく時間があれば寝ておかないと体がもたいないからなんですね。 実は予算編成の時期になると、大蔵省担当の記者も同様でした。 当時の勤務時間が私の日記帳に刻んでありますので、ご紹介しましょう。1994年の月別超過勤務時間 1月 102 2月 179・5(予算編成月) 3月 89・5 4月 142(行財政改革) 5月 109 6月 148・5(政局) 7月 139(サミット) 8月 91・5 9月 115 10月 92・5(世銀・IMF総会でマドリード出張)11月114・5 12月174(予算編成月) 120時間までなら何とか耐えられますが、超過勤務が月120時間を超える月が続くと、気が狂いそうになります。 当然、昼間寝る時間があれば、記者会見室のソファで他社の記者たちと並んで、一見すると築地市場に並べられたマグロのように、昏々と眠って体力と気力の回復を図っておりました。そのような激務が続いていたあるとき、大蔵省の役人が会見室でレクをしているのを聴いている最中に、不覚にも突然の睡魔に襲われて意識が飛んだことがありました。そして夢の中で叫び声を上げて目を覚ましたのですが、幸いなことに、叫んだのは夢の中で実際は叫んでいなかったということがありました。あのとき、もし実際に叫んでいたら、「あいつはとうとうおかしくなった」といわれたに違いありません。辛うじてセーフでした。 だから吉沢さんが天井に顔を向け、椅子に座ったまま爆睡していても、われわれの世界では少しも不思議なことではありません。修羅場の合間のつかの間の休息というわけです。 (続く)
2024.12.18
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中国語のクラスで知り合ったのは、二年間の修士号コースで来ていた村上さんでした。 同じクラスだったのは、中国語だけだったと思います。 彼女は多分、二年間中国語を勉強したはずですから、かなり上手に話せるようになったのではないでしょうか。 こちらが彼女の履歴。こちらも。村上 博美 | GRIPS Research Center 村上 博美 - 日本医療政策機構(Health and Global Policy Institute)村上さんはその後、SAISで国際関係論の博士号まで取り、ブレジンスキーのオフィスで研究助手を務めたと書かれています。さらに米国経済戦略研究所(ESI)上席研究員やSAIS専任講師、米国経済戦略研究所(ESI)シニア・フェローを歴任、日本でも政策研究大学院大学で講師をされていたようです。特に環境経営や医療政策に関する国際関係論の専門家として活躍されていますね。 2015年にはJSIE(Japan Institute for Social Innovation and Entrepreneurship)を立ち上げたようです。「社会の閉塞感を打ち破る大きな原動力となりうる女性や若者の活躍の場を広げ、一人ひとりがリーダーシップをとり、力を発揮し行動することによって、誰もが自分らしく多様な生き方のできる社会の実現を目指す」と書かれています。 SAISでは、中国語仲間のほかにテニス仲間もできました。 多分日米関係のクラスで一緒になった二人の米国人の若い学生(名前は失念)と、SAIS二年目の大蔵省から来ていた吉沢さんです。名は浩二郎で、「コージ(Koji)」と呼ばれていました。ちなみに私は「ヤス(Yasu)」です。レーガン・中曽根の「ロン・ヤス」の「ヤス」と同じですね。 テニスが上手いという話しを聞きつけて、朝の授業前テニスに何回も誘われて、近くの公営テニスコートでダブルスの試合をしょっちゅうやりました。皆さん、ソコソコうまいので結構楽しかったです。私だけが30代でほかの三人は多分20代だったと思います。 実は、吉沢さんとは浅からぬ縁があります。 私はSAISに来る前にハーバードで一年修士のコースを取ったので、一年遅れの入学となりましたが、本来なら吉沢さんと同じ2年の修士コースを取る予定でした。同じ年に入学し、同じ年に卒業するクラスメイトになりえたわけですね。先に話したように、SAISには入学を一年延期してもらったうえに、コースも2年ではなく1年のミッドキャリアコースに変えてもらいました。つまり、SAISでは卒業は一緒です。そして面白いのは、本人は覚えていなかったようですが、大蔵省で何度も会っていることです。私は1993年7月の東京サミットから95年の1月まで財研担当、すなわち大蔵省(現財務省)担当となり、94年はサブキャップとして予算をメインで取材しておりました。 で、私が予算担当になった94年4月に大蔵省に入省したのが吉沢さんなんですね。 しかも最初の配属先は主計局総務課。私がしょっちゅう出入りしていた取材先でもあったわけです。 (続く)
2024.12.17
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夏期講習のコースで仲良くなったのが、通産省から派遣されて、同じミッドキャリアコースを取っていた能登さんです。ローウェンクロンの授業や、中国語、それにパッカードやコーヘンのクラスでも一緒だったと思います。タイから来ていたジャーナリストのノポーンと能登さんと私の3人で、よく宿題となっている本を図書館で借りて近くのKINKOなどで一緒にコピーした記憶があります。 実はハーバードとSAISの違いはここにもあります。ハーバードでは宿題となった論文はすべて学生課みたいなところに行くと、コピーして揃えてあります。学生はただそのコピーを買えばいいだけです。ところがSAISでは図書館で該当する本を探し出し、当該ページを自分でコピーしなければならないんですね。 ただし、ハーバードではコピー代(たぶん手数料と著作権料込みの価格)がすごくかかったのに対して、SAISでは安いコピー屋でコピーするので手間はかかりましたが、安く済みました。 そのコピー仲間が、能登さんとノポーンだったというわけです。 能登さんとは気が合って、一緒にウェスト・ヴァージニアまで日帰りでスキーに行ったことを覚えています。とても穏やかで紳士的な方でした。 結構ワシントンDCから遠いスキー場だったので、帰りは途中から能登さんに運転してもらいました。 能登さんとノポーンも仲が良く、卒業前だったか後に、二人でレンタカーを借りてアメリカ大陸を横断したと卒業式で再会したときに話していたように記憶しています。何か青春していて、いいですよね。私も青春時代にジュネーブからボルドーまでヒッチハイクしたことを思い出しました。 能登さんはSAIS卒業後、通産省(現在の経済産業省)に戻り、内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室審議官や産業技術環境政策統括調整官を経て、2021年に日本アルミニウム協会の専務理事になられたようです。日本に戻ってからは一度も会っておりません。能登さんの紹介はこちら。 懐かしいですね。昔と変わらず、若々しいです。 ノポーン(Nopporn Wong-Anan)は、気さくで明るい若者でした。タイに帰ってからも、ロイター通信やBBCのワールドサービス、バンコク・ポストなどでジャーナリストとして活躍したようです。こちらのサイトに履歴が載っています。こちら2お二人とも元気そうで何よりです。(続く)
2024.12.16
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1979年から1993年までのSAISの学院長を務めたジョージ・パッカード(George R. Packard)教授のクラスでも苦戦しました。パッカード教授の履歴はこちら。ライシャワー駐日大使時代の駐日アメリカ合衆国大使特別補佐官を務めていますね。 こんな本も出しています。 英語はわかりやすく、公平に議論しているようなのですが、最後にキリスト教的になるのがちょっと私には苦手でした。それを除けば、思慮深い、いい先生でしたよ。1932年生まれですから、私とはちょうど親子くらいの年の差になります。 コース名は「Seminar on U.S.-Japan Relations: Origins and Case Studies」。 8~10人ほどのセミナーで、毎回必ず発言するようにしました。 ただし、私の発言はお気に召さなかったようです。まあ、相性もありますからね。 太平洋戦争直前の日米関係を取り上げたファイナル・エッセイはA-でしたが、普段のクラスでの議論内容が物足りないということで、総合ではB+の成績でした。 二学期にわたりAを取った中国語についても紹介しておきましょう。実はSAISの中国語授業の評判がとてもよかったので、取っただけです。それに何科目とっても同じ授業料ですからね。ただで中国語を習ったようなものです。 確かに中国語の授業は教え方もうまく、面白かったです。1クラス10人くらいの学生がいて、日本人留学生も4人ほどいたと思います。ちょっとした息抜きになりました。 一年間でちょっと複雑な構文も話せるようになったので、あともう一年勉強すれば中国語もかなり話せるようになったかもしれません。しかし、卒業してしまったので、時間切れでしたね。A-と取った上級英語は、夏期講習で取ったコースで、忘れていた英文法を思い出すなど、「洗練された英語」のエッセイを書くときに結構役に立ちました。 (続く)
2024.12.15
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最難関のマンデルバウムをAで乗り切った一方、ほかの教科では苦戦続きでした。バリー・ローウェンクロン(Barry Lowenkron)講師の「アメリカ外交についての知的議論(The Intellectual Debates on American Foreign Policy)」も履修しましたが、あまり私のエッセイは評価されず、B+でした。ローウェンクロンは後に、結構著名な外交問題の専門家になったようです。教え方はまずまずでした。 経歴等はこちらをご覧ください。 こちらその次のエリオット・コーヘン(Eliot A. Cohen)教授の「戦略と政策」は、私の周りにいた米海兵隊員や各国の外交官、それに日本の自衛隊員、防衛庁関係者に勧められて、「物は試し」という気持ちで取りました。私が歩んできた分野とはまったく異なる分野の教科です。軍事関係者にとっては「必修科目」のようでした。 簡単に説明すると、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』や孫子の『兵法』などにはじまり現代にいたるまでの戦争の形態と戦術・戦略の変化を学ぶというのが目的でした。まさに軍人や外交官向けの授業です。 こちらがコーヘン教授の紹介サイトです。 アメリカの大学で戦争史や戦略論を専門として教えるのはコーヘンくらいしかいないというようなことが書かれていますね。彼は後にSAISの第9代学院長になりました。ライス国務長官の下で国務省の顧問を務めていたとも書かれています。 コーヘン教授の授業に関連して、米海兵隊の招待で、ヴァージニア州にあるクアンティコ海兵隊基地を訪れて、実際に訓練を受けるという日帰り体験オプション・ツアーがあり、参加しました。 説明する現地の海兵隊員が「我々はここに友達を作るためにいるのではない(not to make friends)。ここではいかに(敵に)死を生じさせるかを学ぶのである(to learn how to cause death)」と言っていたのが印象的でした。つまり殺しのプロになる訓練をするところということになりますね。網の下をくぐっての匍匐前進や、ロープ登り、実射訓練などを一通り体験、最後は瞬間的に加熱される兵隊食を食べて解散したように思います。 クラスメイトで同じミッドキャリアコースの海兵隊員リチャード・トライオン(Richard T. Tryon)は、「この一食で1日活動することができる。そのような訓練を受ける」と話していました。彼の履歴はこちら。おそらくこのツアーを企画したのも彼です。彼は入学時にはすでに大佐(Colonel)で、SAISを卒業した後、指揮官(Commanding Officer)、イラク戦争時には准将(Brigadier general)、最後は海兵隊の中将(Lieutenant general )となって2014年に退官したと書かれています。 コーヘン教授のクラスでは、エッセイのほかに軍事用語をたくさん覚えなければならない試験があって、結局B+を取るのがやっとでした。かなりヘビーなコースでした。 このコースを取って、外交官や政治軍人が何をどのように考えているのかが、少しわかったように思われました。 (続く)
2024.12.14
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それでは私が履修したコースを一つ一つ見て行きましょう。 97年の秋学期の成績ですが、なんといっても著名な政治学者マイケル・マンデルバウム(Michael Mandelbaum)教授のアメリカ外交史でAを取ったのが光っていますね。正式名称は「第二次世界大戦後のアメリカ外交(Ameriacn Foreign Policy Since World WarⅡ)」です。 二年制コースの必修(Core)科目なのですが、グレードが厳しくてよく落とされると聞いていました。洗練された英語で書かないと厳しく減点するというんですね 英語を母国語としない留学生にも容赦しないとか。 実際、B-(不可に相当)を取ってしまい、再履修しなければならなくなった留学生を知っています。 確かにグレードは厳しかったです。「グレードに関係しない」というので、私も腕試しとして中間試験のエッセイを書いて提出したのですが、B(可に相当)を取ってしまいました。グレードには関係がないといっても、私が英語のエッセイでBを取るのは、後にも先にもこれ一つだけです。逆に中間試験のエッセイでBを取ってしまったので、期末試験では奮起したのも事実です。 グレードが決まる期末試験は、それこそ一発勝負のテイクホーム試験のエッセイで、問題をもらって3日目くらいに提出する方式でした。確か5問中3問を選んで、それぞれについてエッセイを書けばいいという問題でした。 ここで不思議なことが起こりました。「さあ、書くぞ」と家に持ち帰った問題に目を通したときに、どの3問を選べばよくて、どのように書けばいいかが瞬時に(多分、2~3分で)わかってしまったんですね。 そのとき、「あっ、できた」と思ったのがとても奇妙で不思議でした。 もう頭の中では瞬時にできていますから、あとは時間をかけてそれを原稿(この場合はエッセイ)にしていけばいいだけです。 「洗練された英語」を心掛けながら、シャシャッと時間通りに書き上げて、提出したらAだったわけです。皆からは「マンデルバウムからよくAを取ったな」と驚かれました。 どこで聞きつけたのか、知り合いの韓国の留学生が私のところにやってきて、Aを取ったエッセイをコピーさせてくれというので渡した記憶がありますから、しばらくの間、模範解答エッセイとして学生間に出回っていた可能性があります。でも、独自の表現力や言い回しを駆使して書いていますから、誰も真似できないと思います。そのエッセイはどこかにあるはずですから、今度見つけたらお見せしましょう。 ちなみにマンデルバウム教授のことは、こちらのサイトをご覧ください。ハーバード大学で政治科学の博士号を取得、エール大学や英ケンブリッジ大学のキングス・カレッジ(マーシャル奨学生として)でも学んだと書かれています。 語り口はうまく、非常に明確に、時にユーモアを交えて面白く話す教授でした。 (続く)
2024.12.13
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ハーバード大学ケネディ行政大学院からジョンズホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)に場所を移動してきたわけですが、残念なことに、SAIS時代の日常を記した記録は、まったく存在しません。いつ何をしたかの手掛かりがほとんどないわけです。あるのは、私のおぼろげな記憶だけ。あと、当然のことながらSAISの卒業証書です。幸いなことに、SAISの卒業証書と一緒に成績証明書のようなものが入っていました。これは大きな手掛かりです。こちらがその卒業証書。1998年5月21日に卒業。国際公共政策修士号を授与したと書かれています。で、その成績表がこちら。3教科がB+だっただけで、あとは全部A-以上の成績だったことがわかります。A-を勝ち、B+を負けとすると、8勝3敗。しかもAも3つありますから、完封勝利が3つといったところでしょうか。でも本当は、中国語のA2つと英語のA-は卒業に必要な単位とは認められていませんから、5勝3敗(1完封)がこのシーズンの成績でした。秋学期は1勝3敗(語学を入れると3勝3敗)でしたが、後半の春学期は無傷の4勝(同5勝)だったことになります。ブルージェイズからアストロズに移籍した今シーズン(24年)の菊池の成績にちょっと似ています。(続く)
2024.12.12
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卒業証書に記してあったように、卒業式は1997年の6月5日。 みなレンタルで卒業式用の角帽をかぶり、ガウンを着て、先導するバグパイプ奏者の演奏に合わせて、ケネディスクールからキャンパスの中心部にある会場のヤード(校庭)まで街中を行進させられます。観光客には写真を撮られますから、結構恥ずかしいものがありました。 この卒業式の前か後か忘れましたが、卒業記念パーティーが洋上の船の上であったのをおぼろげながら覚えています。月が出ており、船から高層ビルが並ぶボストンの夜景を見た記憶があります。そのパーティーの前には、どこか海沿いのグラウンドで久しぶりにサッカーを楽しみました。何点取っても、3対3の引き分けというルールで、私も2得点くらい取ったと思います。妙に記憶に残る、面白い卒業記念企画でした。 こうして私はアカデミズムのリベラルの牙城とも呼べるハーバード大学のケネディ行政大学院を卒業しました。で、次に待ち受けていたのが、今度はアカデミズムの保守の牙城と称されることもあるジョンズホプキンス大学高等国際問題研究大学院(通称SAIS)です。両方から合格通知をもらっていたのですが、ハーバード大学が面白そうだったので、SAISには「deferral petition」という入学延期願いを出してハーバードを卒業するまで一年待ってもらって、SAISに入学することにしたのです。 6月はやり残したことや引っ越しの準備に追われました。有名なレガッタバーに友達と行って、ジャズを聴いたのもこのころです。引っ越しの準備のほうでは、幸いそれほど荷物は多くなかったので、業者に頼まずに自力で引っ越すことにしました。業者に頼むと20万円近くかかりますからね。 ハーバード大学の寮を追い出される6月末を以って部屋を引き払い、それまでに食卓用テーブルや椅子、大きいマット(布団)など売れるものは売り払い、コンピュータや勉強机は車に詰め込んで、トランクや後ろの席は引っ越し荷物で満杯にして、6月30日。丸一年過ごしたボストンを後にして、SAISの所在地であるアメリカの首都ワシントンDCに自分の車で向かいました。 (終わり)
2024.12.11
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日記にはほとんど記されておりませんでしたが、私が一年間かけて鑑賞してきたコンサートや劇のチケットも出てきました。チケットも日記の代わりになりますね。 それを書き出しておきましょう。 1996年 7/20(土)21:00 The 3 Tenors in Concert ジャイアンツ・スタジアム $500 7/27(土)all day Nauset Beach and Skaket Beach 駐車場代 $8 8/24(土)14:00 Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat コロニアル劇場 $50 8/30(金)19:30 Betty Carter タングルウッド/小澤征爾ホール $21 9/21(土)20:00 The Phantom of the Opera ワン・センター $65 9/22(日)18:20 Fly Away Home コプリイ・プレイス(映画館) $7.50 10/18(金)20:00 Boston Ballet: Bodgie, Brass & Blueワン・センター $57 11/24(日)19:00 Rent シューベルト劇場 $68.50 11/26(火)20:00 Boston Symphony Orchestra ボストンシンフォニーホール $30 12/18(水)20:00 Master Class ウィルバー劇場 $62.50 12/19(木)19:30 The Nutcracker by Boston Ballet ワン・センター $59 12/28(土)19:30 A Christmas Carol フォード劇場 $29.00 1997年 2/22(土)16:30 David Copperfield Dreams&Nightmares ワン・センター $54.50 3/9(日)14:00 The Cabinet/Dr.Caligari アメリカン・レパートリー劇場 $12(学生割)3/20(木)14:15 Leonardo Davinch チャールズ・ヘイドン・プラネタリウム $10.003/27(木)20:00 West Side Storyコロニアル劇場 $20.00 3/28(金)all day Skywalk View & Exhibit プルデンシャル・タワー $4 3/28(金)20:00 Rent シューベルト劇場 $68.50 3/29(土)21:00 Forever Tnago ウィルバー劇場 $45 4/6(日)15:00 Ayano Ninomiya ジョーダン・ホール $15.00 4/7(月)19:30 Celine Dion フリート・センター $22.50 4/11(金)15:50 John Hancock Observatory $3.75 4/11(金)19:30 The Elixir of Love エマーソン・マジェスティック劇場 $95.00 5/28(水)20:00 Man&Superman アメリカン・レパートリー劇場 $12.00(学生割) 6/3(火)20:00 Company ハンティントン劇場 $10 6/8(日)14:00 Showboat ワン・センター $55 6/17(火)20:00 Candide ガーシュイン劇場 $706/18(水)14:00 Titanic ラント・フォンタン劇場 $65 6/20(金)20;00 The Music Man ネザーランダー劇場 $17.50 6/21(土)19:00 Orfeo by Boston Symphony Orchestra タングルウッド $40 6/25(水)11:00 Whale Watch ボストン湾クルージング $22 6/27(金)19:00 Amayra Flamenco ボストン・パーク・プラザホテル $32.50 まったく記憶に残っていなかった演目もあり、よくもまあ、これだけ観劇やコンサートに出かけていたものだと自分でも感心するばかり。そして、それぞれに思い出があります。この中でベスト3を上げるとしたら、第一位が「オペラ座の怪人」、第二位が「レント」、第三位が「キャンディード」でしょうか。タングルウッドは場所が素晴らしかったです。テニスに勉強に観劇に名所めぐり――。本当にいろいろな経験をさせてもらいました。(続く)
2024.12.10
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昨日(8日午後7時20分)は土星の食がありましたね。肉眼ではほとんど見えませんが、双眼鏡を使って、かろうじて見えました。食になる直前の土星と月を撮影してみました。月の真上に点で見えているのが土星。この後、月の後ろに隠れて見えなくなり、約40分後の午後8時00分まで食となっておりました。
2024.12.09
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さて、「空白だらけの日記帳」のまとめに入りましょう。空白が多かったということは、それだけ忙しかったということです、多分。少なくともテニスをしに行っているかどうかで、私の場合は、その忙しさがわかりますね。成績に関して言えば、秋学期のミクロ経済(API-101)に続き、その継続コース(API-102)ともいえる経済のBGP-201でもA-を取り逃がしました。A-を勝ち、B+を負けと考えると、この学期(春学期)の成績はなんと1勝3敗の負け越し。秋学期は4勝1敗でしたから通算では5勝4敗とかろうじて勝ち越した計算です。もちろん卒業するには十分の成績でした。卒業した証拠です。卒業日は1997年6月5日。ハーバード大学の第361期生だそうです。1636年に創設されたという米国最古の大学だけあります。ちなみに361は素数ではありませんよ。19の二乗が361です。数学的には、記念すべき年次でありました。それはそれで、映画『オズの魔法使い』に出てくる案山子にとってそうであったように、ある種の名誉ある“思考学博士の賞状”ではあるのでしょう。しかし、この一年間のハーバード大学やペンシルバニア大学、それにコロンビア大学の動きを見ると、本当にただの紙切れに見えてきてしまうのも事実です。ご参考までにこちらのサイト(ガザ戦争とハーバードと私①|雨のち晴れ晴れ - ハーバード留学記 -)をご紹介しておきましょう。ユダヤ系大口献金者におもねって、金の力によって自由を奪われ、言論や思考さえゆがめられていく様子がそれとなくわかりますね。さらにその続き(ガザ戦争とハーバードと私②|雨のち晴れ晴れ - ハーバード留学記 -)を読むと、大学と学生の間でしのぎの削り合いがあったことも記されています。完全なる敗北の中に、かすかな希望があったことが救いでした。(続く)
2024.12.08
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カルト(Joseph Kalt)教授の「産業界の分析と政府(Industry Analysis and Government)」BGP-201では、新しい友達もできました。NTTドコモに務めていた日高さんです。 会社から派遣されたのか、会社を辞めて来られたのかは忘れてしまいました。 クラス分けが同じAグループで、博士課程に在籍中のメリーノさんが担当する少人数グループのメンバーだったので、知り合いました。 寮が同じソルジャース・フィールド・パークだったので、時々買い物や観光などに一緒に出掛けた仲でもあります。 英語のニックネームを持っていて、Complicated Beauty。 確かに、そのように解釈することもできます。 ミッドキャリアのコースを取っている日本人留学生なら、夏期講習で一緒だったので、みんなよく知っています。 でもほかのコースでこちらに来ている留学生とは、クラスが一緒にならない限り、なかなか知り合いになれないんですね。 もちろんカフェテリアやラウンジで知り合うこともあります。きっかけが何だったか忘れましたが、上杉志朗さんとも知り合いになりました。 彼は東京銀行から派遣されていた留学生で、日高さんと同じ2年間の行政学修士コースの一年目の学生でした。私は日本に帰ってからハーバードの同窓会に出たことがなかったのですが、5年ほど前に一度だけ東京で開かれた「学長主催のパーティー」に出席したことがあります。 その同窓会パーティーには人気者のパックンがいたことは話したと思いますが、私がハーバードにいた当時の同窓生でその会に出席していたのは上杉さんただ一人でした。 彼はハーバード卒業後、東京銀行を辞めて、大阪大学で国際公共政策の博士号を取得、松山大学経営学部の教授として経営情報論などを教えているとのことでした。 あまり話をしたことはありませんが、クーニーの国際関係論ISP-335を一緒に取っていた通産省の村瀬さんも、当時は2年間の行政学修士コースの初年度の学生でした。 昨年、資源エネルギー庁長官になった方です。 私と同じミッドキャリアの行政学修士コースの仲間には、後に独立行政法人自動車事故対策機構審議役や関東運輸局次長を務めた、運輸省から派遣された野田雅夫さんがおりました。 API-101やBGP-201でクラスメイトでしたが、教授からも一目を置かれるほどの優秀な学生だったことを覚えています。 このように紹介していくときりがないので、この辺にしておきましょう。 (続く)
2024.12.07
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手元にBGP-201のテイクホーム試験問題の実物があるのでお見せしましょう。問題に出された経済記事を含めて7ページありました。これがテイクホーム試験の問題のトップページです。試験を受けるにあたっての注意事項が書かれています。本やクラスノートは見てもいいが、講師およびコースアシスタント以外の誰とも相談してはならないと書かれています。5月13日(火)の午前9時にこの問題を受け取り、2日後の15日(木)の午後5時までに解答を提出するようにとのことです。そして2ページ目から4ページ目までは次のような設問が続きます。試験は3つに分かれていて、最初の分析問題では出題された8問のうち6問を選んで、その答えと理由を説明しろ、と指示されています。点数配分は40%。続く小論文の問題は、2問のうち1問を選んでそれぞれの設問に答えながらエッセイを書きます。配分は20%。そして最後は下のような経済記事(全部で3ページ)を読んで、質問に答える「具体的なケース」を論述する試験で、選択肢はありません。配分は40%。それに対する私の解答がこちら。ちゃんと表紙を付けていて、表紙を入れて全部で10ページ(うちグラフのページが4ページ)書いています。点数の書いてあるページだけ紹介しましょう。そして、これが解答に付けたグラフのページ。フットノートを付けながら、わかりやすいように書いたつもりです。それを受け取ってから56時間で仕上げなければなりませんでした。まあ、普通のテイクホーム試験ですね。で、72点、84点、86点を加重平均するとちょうど80点となり、A-とB+のちょうどボーダーにいたということになるわけです。(続く)
2024.12.06
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デニス・エンカーネーション(Dennis Encarnation)の「世界経済の中のアジア(Asia in the World Economy)」ITF-460は、私にとってはちょっと楽なクラスでした。 それほど厳しい宿題などなく、確か期末までに比較的大きな研究論文を書けばいいだけ。 A-を取りました。 エンカーネーションは、当時は公共政策担当の非常勤講師でしたが、後にハーバード大学ビジネススクールの准教授になったようです。 これに対して、ジョゼフ・カルト(Joseph Kalt)教授の「産業界の分析と政府(Industry Analysis and Government)」BGP-201はかなり手ごわかったです。 公正な競争と政府規制の在り方についてのケーススタディが主な内容で、多くのケースが宿題として出され、論述を展開しなければなりませんでした。しかもクラス内で企業側と政府の規制側に分かれて論戦をする討論会もあるなど英語の弁論力も要求され、結構しんどかったです。グループ同士で論戦するのですが、同じグループの学生が事前に取り決めた計画を無視して暴走、収拾がつかなくなる事態に陥るなど散々でした。 それでも学期中に出された宿題のペーパーはAやA-をもらい、ファイナルのテイクホーム試験(決められた日時に試験問題が出されてそれを家に持ち帰り、決められた期間内=通常は質問が出された日を含めて三日以内=に解答を書いて提出する)もかろうじて100点満点で80点を超えました。 これなら何とかA-を維持できたと思ったのですが、実は同じような点数の学生が多く、このままだと大半がA-以上になる事態に。その背景には、学生の宿題の点数をつけていたのは、助手をしていた博士課程の学生であったことがありました。甘い採点でA-が増えてしまったというわけです。 そこでカルト教授曰く「あまりにも多くの学生がA-以上を取るのは好ましくない」との配慮から、教授が再度見直して採点し直した結果、私の宿題の二つのA-はB+に降格(ただしAの一枚はAのままでした)。それによって私のコースの成績もあえなくB+に格下げとなってしまいました。 (続く)
2024.12.05
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ハーバード大学で尾上さん、池松さん、市川さんと一緒だったことは、実は大学の公式出版物に証拠写真として掲載されています。 掲載されているのは、1997―98年度のケネディスクールの公式カタログで、大学が提供する各種プログラムや研究センターの紹介や、学生が大学での生活や卒業するのに必要な情報が書かれています。 こちらがそのカタログです。 その66ページに・・・ 私の名札付きで大きく紹介されています。 隣の名札には尾上さんの名前が書かれていますから、クーニーの国際関係論の授業であることがわかります。後ろに座っている女性のミーア(Meer)さんのことはよくわかりません。ケネディスクールの名簿には載っていませんでしたから、多分ハーバードの他学部か、タフツ、MITから来ている学生ではないかと思われます。 異なる大学間や学部間では、専攻テーマに関係する科目であれば、結構自由に授業を受講し、単位を取ることができるシステムになっています。 ミーアさんの左後ろに座っているのが、防衛庁(現防衛省)から二年のコースで来ていた池松英浩さんですね。調べてみたら、今年(2024年)7月19日付けの人事で防衛省東北防衛局長になったと書かれていました。 そのクーニーの授業風景は、国際学生プログラム(International Student Programs)を紹介している23ページにも掲載されています。 右奥で手ぶりを交えて話しているのが、講師のクーニーさん。 手前左に座っているのが尾上さん。その右に立っているのは通産省から来ている村瀬さん。 で、実は私も一部だけ写っていて、尾上さんの左隣の奥に頭と背中の一部が写っています。いつものように、後ろ髪が飛び跳ねているのですぐにわかります。さらに私の左隣の奥に座ってこちらを向いて写っているのが、朝日の市川さんです。 クーニーの授業では、いろいろなテーマについて提言するメモの宿題がよく出ました。 ある時、当時の日本の橋本首相に対して政治経済の政策についての提言を書けという得意分野での宿題が出たので、ササッと知っていることを思いつくままに書いたら、10点満点の9点をもらったことがあります。クーニーは採点が厳しくて通常8点が最高点なのですが、「まったく我々が気づかなかったことが書かれていた」として9点をもらいました。 ただし、ほかの政策メモの出来は悪く、いつも6~7点を取るのがやっと。EU発足に当たっての政策提言メモでは、クライテリア(基準)について言及せずに抽象的な提言しかしていなかったとして大きく減点。このコースも結局、B+しかもらえませんでした。 (続く)
2024.12.04
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「国際貿易政策の経済学(The Economics of International Trade Policy)」ITF-210を教えていたロバート・ローレンス教授の略歴は次のサイトに記されています。 Robert Lawrence | Author | PBS NewsRobert Z. Lawrence - The Globalist国際経済や貿易問題の専門家としてクリントン政権後期の経済顧問団の一員であったと書かれていますね。その後も長くハーバード大学で終身教授として教鞭を取っているようです。論文をたくさん書いていますね。 彼からは貿易論のイロハを教えてもらいました。非常にわかりやすかったです。ただし、私は試験では76点くらいしか取れなかったので、B+に甘んじています。 ジェームズ・クーニーの「国際関係の政策決定における比較政治的側面(Comparative Political Dimensions of International relations Policymaking)」ISP-335は、同じミッドキャリアの行政学コースの仲間で航空自衛隊から派遣されてきていた尾上さんと一緒に取りました。ほかに防衛庁の池松さんや、学位コースではなく聴講生として来ていた朝日新聞の市川誠一さん、そして確か通産省の村瀬さんらと一緒だったと思います。 クーニー講師のクラスは、日本人だけではなく、外国から来た学生が多かったです。というのも、クーニーは国際性豊かな学生を集めるプログラム(International Student Programs)の学長補佐(Assistant Dean)で、海外からの留学生はみな夏期講習中から顔見知りだったからです。 彼の説明によると、日本から来る留学生は官公庁から派遣されてくる人が多いので、最近はジャーナリストや民間企業からも積極的に受け入れるようにしているのだとのことでした。私たちはその「成果」というわけです。 日本からのジャーナリストは、聴講生の市川さんのほかに、関西放送のアナウンサーだった藤岡さんという方もケネディスクールの別の修士号コースで来ておられました。面白いことに、クーニーのクラスを一緒に取った市川さんは、私が浦和支局でサツ回りの記者をやっていた時に一緒でした。同じ年生まれですが、記者としては彼のほうが3年後輩です。1985年に青山学院大学で法学士(知的所有権法を専攻)取得したと書かれています。米国で再会したときには、調査報道で新聞協会賞を取るほどの敏腕記者になっておりました。帰国後しばらくたってから、東京本社社会部長(2010年)、調査報道を専門とする特別報道部長(2012年)を歴任(「吉田調書報道」(なぜ朝日新聞は「部数減」に悩んでいるのか? 元朝日スクープ記者が明かす(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4))では大変な目に遭ったようですが、詳しくは知りません)。2018年には取締役企画本部長兼広報室長になっています(9979 大庄 | 役員の状況 - 市川誠一)。 私と仲の良かった航空自衛隊の尾上さんは、本当に英語が上手かったです。履歴書を読むと、1988年から90年まで米空軍の技術訓練センターで米軍の指導をした経験があり、かつ92年から94年まで外務省に出向、北アメリカ事務所で日米安全保障条約担当であったと書かれています。英語が達者なわけです。 その後、航空幕僚長一歩手前まで出世して、航空自衛隊補給本部長を最後に2017年に退官されたようです。 尾上さんの履歴は次のサイトに詳しいです。 日本戦略研究フォーラム(JFSS) 尾上定正 (おうえ・さだまさ)|第26期・航空自衛隊 | 日本国自衛隊データベース(続く)
2024.12.03
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肝心の勉強についても触れておきましょう。最終学期(春学期)に履修した授業は次の4教科です。 (1)ロバート・ローレンス(Robert Lawrence)の「国際貿易政策の経済学(The Economics of International Trade Policy)」ITF-210(2)ジェームズ・クーニー(James Cooney)の「国際関係の政策決定における比較政治的側面(Comparative Political Dimensions of International relations Policymaking)」ISP-335 (3)デニス・エンカーネーション(Dennis Encarnation)の「世界経済の中のアジア(Asia in the World Economy)」ITF-460(4)ジョゼフ・カルト(Joseph Kalt)の「産業界の分析と政府(Industry Analysis and Government)」 BGP-201 (1)はドミンゲスの国際金融論の続きとして、ドミンゲスが推奨したので取りました。貿易論です。 (2)はクーパーのマクロ経済の続きの意味で、国際関係論を取ってみました。 (3)は経済記者時代の得意分野でもあったので取りました。強いて言えば、カルブのメディア論の続きですね。 (4)ハインズのミクロ経済の続きの意味で取りました。ミクロ経済の応用編ですね。次回はそれぞれについて、駆け足で簡単に説明しましょう。 (続く)
2024.12.02
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確かに2月から5月までの最終学期は、最初の学期に比べてがむしゃらに勉強したという感じではなかったと思います。 何しろ3教科でB-を取っても卒業できるわけですから、まず落第することはありません。 この学期は、余裕があったことから、ほどほどに勉強して、むしろボストンやニューイングランドの生活を楽しんだように記憶しています。 よく行ったのは、ボストンの劇場街です。新しい催し物や、評判の劇やコンサートがあれば必ず観に行きました。ラグビー部の先輩でもある小澤征爾のボストン・シンフォニーはタングルウッドを含めて2回、ボストン・ポップスは野外コンサートを含めて2回それぞれ鑑賞しています。 「レント」などミュージカルはほとんど観て、当時売り出したばかりのアンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli)のコンサートやセリーヌ・ディオーンのコンサートにも出かけています。チケットが余ってしまったので、あまりにも部屋の中で勉強ばかりしているクラスメイトを、気分転換に行こうと連れ出したこともあります。バレー『くるみ割り人形』も観ています。 ただし野球観戦は96年夏の一回きり。グリーン・モンスターのあるフェンウェイ・パークでロジャー・クレメンスが完投して、確か2-1でボストン・レッドソックスが勝ったように記憶しています。クレメンスは直球でぐいぐい押すピッチャーでした。この年は10勝止まりで、翌年はトロントに移籍して21勝し、4度目のサイ・ヤング賞を取っています。日本選手では、当時は野茂がドジャースで投げており、その夏、コロラドの高地でノーヒットノーランを成し遂げています(1996年9月17日)。当時、PPP―100の最初のころの授業で今週のトップニュースを選ぶ作業中に、この野茂の試合を冗談で取り上げたことがありました。 学生割引があるボストン美術館や、近くにある国立公園にも足を延ばしています。 歴史的な名所・観光地にも行きました。 戦後の資本主義諸国の経済的協調と発展を支える体制(ブレトンウッズ体制)を決める会議が開かれたニューハンプシャー州のブレトンウッズのホテル、魔女裁判のあったセイラム、メイフラワー号が上陸したプリマス、『サウンド・オブ・ミュージック』で有名なトラップ一家が移住したバーモント州の「トラップ・ファミリー・ロッジ」、『若草物語』の著者オルコットが住んでいた「オーチャード・ハウス」、JFKの生家、『森の生活』を著した思想家ソローが暮らしたウォールデン湖、ボストン茶会事件の現場などおよそ観光客が考え得る場所には足を運んだつもりです。 勉強も忙しかったですが、観光もかなり忙しかったです。 時間が少しでもあれば、チャールズ川沿いを自転車やローラーブレードで疾走し、街中で買い物をしていました。 自然の中では思索の時間を楽しみました。 つまり、なにもしない時間などない充実した毎日がずっと続いていたわけです。 (続く)
2024.12.01
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