関本洋司のblog

2004年10月24日
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テーマ: 戦争反対(1190)
カテゴリ: カテゴリ未分類
 日本の神道は基本的に死者の鎮魂を目的としている。そして簡単に言えば、その鎮魂は浄めるという行為によってはじめて可能となる。

 以前、中国の留学生と会話していたとき、彼らから近代以降の国家神道と伝統神道は違うという話を聞かされて驚いたことがある。彼らの方が日本人よりも日本を知っているのだ。靖国などには、坂本龍馬も祀られているはずだが、坂本龍馬のお参り行きたいと思う人は、靖国などには行きはしない。有名無名含めて英霊がすべて同じ神社に祀られるなどというのは冒涜である。少なくとも彼らの魂は靖国には存在しない(ちなみに日本の近代化を見直す上では坂本龍馬にまで遡った方がいいと筆者は考えているが、それは海軍の祖としてではなく、アジア各国をはじめ世界との友好貿易をはじめた人間としてだ)。
 小泉現首相などは、その人柄が人気を得ている原因だろうが、そうした本来の伝統神道の特質について間違った教育を受けているために、神道の教えとは正反対のことをしているのだ。第二次世界大戦の自国の死者を弔う気持ちがあるのなら、新施設の建設を急ぐべきだし、冥福を祈りたいのなら特定の個人のお墓参りか、どこかお寺(基本的に仏教は世界宗教だからどこのお寺でもよい)に行くべきだろう。   
 ただし、折口信夫(*)がかつて神道を世界宗教化しようとしたように神道を普遍的に再建した上で、靖国神社に第二次世界大戦で犠牲になったアジアや世界の人々の魂も一緒に祀ることができれば話は別だが・・・。どちらにせよ筆者は憲法第九条を世界憲法にすることでしか彼らを追悼できないし、彼らの死を無駄死ににしてしまうと考えている。

お皿

 ところで、最近度重なる台風を原因とする食糧難から、最近各地で熊が出没しその被害が相次いで起こっている。熊という言葉の語源はアイヌ語で神を表す「カムイ」だという。正確な因果関係は解らないが、日本語には様々な文化の多様性が潜在しており、神道はそうした多様性をのせる受け皿とでも言うべきものだ。
 南方熊楠(*)もかつてそうした多様性な生態系を重視する立場から、神社の必要性を訴えた。
 死者、というよりも他者の魂の鎮魂に思いを馳せた神道の原点を今日の我々も確認し直すべきだろう。


*神道の鎮魂という側面を重視した折口信夫に関しては、その思考法を表す興味深い図があるのでいずれ紹介したいです。

*神道はそのア二ミムズム、多元的性格からヒンズー教と近いと筆者は考えているがこれには別の論考を必要とするだろう。
*さんざん迷った挙げ句、画像はお皿の上に載った饅頭とパンとケーキにしました。これは司馬遼太郎さんが語っていた神道を表す比喩(「神道は浄められたお皿で、その上に何でも載ってしまう」)に対応するものです。





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最終更新日  2004年10月24日 01時06分02秒


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