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安倍晋三元官房副長官による、ETV2001「問われる戦時性暴力」の番組改変問題。NHK放送総局長への「圧力」で、もめにもめたことは記憶にあたらしい。なんのことはない。これを読了すれば、バカ騒ぎであることが、理解できちゃう。吉田首相の圧力による、「日曜娯楽版」打ち切りからはじまって、世論調査カット、ロッキード特番改変、沖縄テレビ調印式、佐藤内閣退陣、メディア対策指南書事件…おなじことのくりかえし。政治家への事前説明を「通常業務」とした橋本発言は、「ニューズウィーク」「ワシントン・ポスト」「ル・モンド」などの失笑を買った。今までNHKは、「政治家の圧力」を公式には一度も認めていない。つねに「編集権」による「自主規制」。その確認をまたやったにすぎないという。シマゲジ(島桂次・元会長)に裏舞台を暴露されておきながら。さすがにその厚顔ぶりにはあきれるほかはない。NHK。国営でも民営でもない、「公共放送」という特殊な経営形態。本書は、国家的公共性と市民的公共性のせめぎあいという視角から、NHKと政治をめぐる通史を整理して、その存在の意味を問いなおします。もっとも信頼されるメディア、NHK。しかし近年、権力を監視するジャーナリズム機能が失われていることが、元会長・ニュースキャスターなど、OBの証言などであきらかにされます。それは、予算を握られているためだけではありません。「国策協力」「産業政策への協力」によって、新「財源」獲得に奔走する、NHKと政府とのあいだにおける「ギブ&テイク」によるものらしい。それが、政界担当記者の制作現場介入にみられる管理体制強化と、制作現場の閉塞・モラルの低下をひきおこし、プロデューサーの制作費着服などがもたらされた。「NHK番組改変」と着服は、表裏一体の現象なのだという。高度な公共的機能をもつ放送は、免許制で特権的に営まれるゆえに、大きな責任をもつ。NHKは、とくに受信料という特権があるので、「ジャーナリズムと文化」の論理のみを追求することができます。しかしNHKは、「市民的公共性」の論理で書かれた放送法を、国家的公共性の論理に読みかえ、「放送の国民主権」「言論の自由市場」の理念を後退させてきた。それは、電波管理委員会の廃止によって、「放送懇談会」「許認可権」にみられるように、保守政権がメディアに絶大な影響力をふるえるようになったためらしい。「国策の徹底」「偏向報道批判」が連呼され、「編集権」という大義名分の下まかり通る、「自主規制」という名の「外圧」英BBC放送とNHKの違いも興味深い。本来なら、政府の介入をNHKより受けやすいBBC。にもかかわらずBBCは、英軍呼称問題やイラク報道など、政府との激しい戦いによって名声をかちえてきたという。NHKとBBCの違いは、地上波デジタル放送の推進方法にもあらわれる。莫大な設備投資の重圧に苦しむNHK。BBCでは、視聴者は2万円もしないアダプターでデジタル放送が見られるのです。「富裕層」と「貧困層」の情報格差をもたらしやすい、視聴者負担が大きすぎる方式を採用するNHK。「誰もが聴取できる」ユニバーサル・サービスの基幹部門を蔑ろにして、周辺分野でコンツェルン化したNHK。しかし、受信料不払いで、NHKを滅ぼしていいのか。ここで筆者は、市場原理からも権力からも自立するNHKなら、情報化社会でもその基幹情報メディアとしての機能は必要、とみています。豊かな物的・人材的力量を生かさなければならない。BBCにみられるような、視聴者参加による「民主」「公開」「説明責任」「多元主義」を目指せ。そのためには、「独立行政委員会」制度の復活、経営委員会改革と権限の強化、編集権を制作現場にとりもどさなければならない、などの改革の提言がおこなわれ、本書は締めくくられています。「権力、メディア、民衆」の三極構造において、メディアは民衆といかなる関係をとりむすぶべきなのか。手堅い(古い?)「問題系」の整理。「テレビジョンによる表現の自由があるとするならば、それは国民のもつ自由な意思が、テレビ放送の手段によって表現されるという仮説をとらないかぎり、国民の表現自由権を否定することになる」(本書173頁 戒能道孝)この視角は、たいへん示唆に富む。これは、すべてのメディアにおける表現の自由の根幹、「編集権」の所在をめぐる決定的見解といっていい。メディアは、国民の、そして従業員の自由の表現の手段でなければならないのです。「編集権は首脳」にあるとした読売社説は、自らがジャーナリズムではないことを確認した、といえるのかもしれません。NHK受信料は、「契約義務制」ではあっても「支払義務制」ではない。それは、国民の総意と総体的支援によってNHKは支えられる、という立法趣旨による。ライブドアのフジテレビ買収問題にもあらわれた、「メディアは誰のものか」。一昔前、労働組合には、放送従業者の雇用をまもることで、ジャーナリストの主体的な活動をまもり、国民的要求の探求と実現を確保する道を開くことが期待されていたという。今は、だれがそれをはたすべきなのか。放送の公共性をめぐる最終決着は、あくまで国民がつけなければならない。この筆者の確信は心地よい。メディアと権力をかんがえるには、必須の書といえるでしょう。ただ、どうしても苦言をのべたくなる部分があります。この人、日 本 共 産 党 シ ン パだったりするのですな。それもかなり古い。敗戦直後の日本には、「民主化推進勢力は、日本共産党か一部の知識人しかいなかった」というのは、まあご愛嬌ですむかもしれません。しかし、労働運動の「統一戦線論」や、日放労批判(社会党の上田哲が委員長をやっていた)をバリバリやられると、その偏狭な「社共対立」のセクト主義には、ゲンナリさせられます。元日経新聞記者とは、とてもおもえん。死ぬまでやってなさい、社会党、新左翼ともども。とくに、「市民」的公共性という視角を押しだしながら、「国民」を連呼しまくられると、少し異様に感じられてしまう。「市民的公共性」は、お題目にすぎないのですか?とたずねたくなる。岩波の担当編集者は、アカデミズムに即した議論を展開するように筆者に命じ、自立したジャーナリストとしての「編集権」を行使すべきではなかったか。もっと広い層に読んでもらう、「国民の知る権利」とやらのために。そう思わせてしまうのが、この書の最大の難点ではないか? 耐えられないことが予測できる人には、評価は★1つ分減らしてほしい。評価 ★★★☆価格: ¥735 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 31, 2005
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昨今の朝日新聞。中国・アジア報道の充実ぶりは、ちょっと驚きである。日経とならんで多い。そのうえ比較的良い。産経や読売では、相手国のニュースではない、「日本人の偏見」を読ませられた気分にさせられ食傷する。とはいえ、相手国の人が日本向けに発信すると、優越感と劣等感がゴチャまぜになって、とかく読んでいて痛々しいときも多い。肩の力がぬけていない、というのか。対象との距離がとても近いのに、なんとなく透明な「壁」がある。そんな、よそ者の「微妙さ」がとてもいい。相手国に沈潜した報道 …… いわれてみれば、朝日の文革礼賛報道も、現地の息吹を伝えたものではあったのか、とおもい直してしまう。これは社風なのか。好評を博したという、朝日新聞USA版の「ボツ 特派員メモ」相手国に沈潜する伝統か、本人の力量か。それはわからないが、たしかに面白い。マイノリティの集合体、アメリカ。マイノリティの日本人記者が、場末の酒場、田舎などをまわってネタを集める。おまけに、対象への沈潜のさじ加減。このエッセイ、面白くないわけがない。すてきな、アメリカ滞在記季節は夏と冬しかない、ニューヨークの害獣リス。恐怖の地下鉄の車両移動。見知らぬ人同士が、気に入ったらファッションを誉めあい、一刻も早い引退の実現にむけて生き急ぐ人びと。誰もが、隣人を気にしない。なのに、嫌煙はきびしく花見酒もできない。分かりやすさこそ真であり善である「反知性主義」の伝統。仲間の誰かが喧嘩をはじめたら、とりあえず加勢して飛び込まなければ、友人にはなれないアメリカ。接触は嫌がるのに、耐音レベルは高い。とてつもない善意の人の集合体なのに、世界からは嫌われもの。細かいことをとても大事にするのに、「とりあえず脇に置いておけ」。傲慢なのに繊細。イラク戦争反対派が、徴兵制復活をとなえ、自由のために自由を犠牲にする、なんとも不思議な社会。絶対的少数を引きうける、マイケル・ムーアのナイーブさと果敢さ。書名に騙されてはいけない。この本は、アメリカ人「アホやマヌケ」論ではない。アメリカ人とその社会を、アメリカ人と一緒になって、笑い、楽しみ、怒り、涙をながし、そしてあこがれる。とても素敵なアメリカ賛歌。ちょっぴり狭量な、「江戸っ子」筆者がこぼす折々のグチも、エッセイのアクセントになっていてよい。ただ、800円出して買う本かといわれると、すこし迷うのよね。最近の新書ブームだから出たものの、教養書の類ではないですし。すごい知見があるわけではない。てか、「さりげなさ」「繊細さ」が分からない人には、とても勧められない。世の中ギスギスしていると、いちばん壊れやすい大切なもの。古本屋で見つけたら、即ゲット。新刊書店本棚なら微妙、といった所でしょうか。評価 ★★☆価格: ¥840 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 30, 2005
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すごすぎます、高屋先生。ずっとファンでした。しかし、まさか、これほどとは…。少し勘がよい人なら、誰でも気づきます。「フルーツバスケット」には、「父」がどこにもいない。大文字の他者、象徴秩序の担い手の不在。いても、なんと影の薄い…主人公は本田透。とても優しい、女子高生です。草摩一族。十二支にそれぞれ1名、12人います。異性(男なら女)に抱きつかれると、その干支に変身してしまいます。「猫憑き+神様」もいて、主人公格は14名です。「十二支+猫」は、神様に逆らえません。かれら14名には、なにか特別な「絆」=「呪い」があるらしい。それをめぐる学園ドラマ。恋愛もの。おまけに、ヘタな絵です。どうして、こんな作品が熱心に読まれ、アニメにまでなってしまうのか。リアリズムに毒されたものには、理解できますまい。しかし、これが無茶苦茶凄い。さまざまな過去の傷をかかえ、生きていく登場人物。伝えたいのに伝えることができない。そんな、悲鳴のような思いをつづって、深く内面への沈潜をつづけてゆくのです。あまりにも濃密な、ドロドロした二者関係が、丁寧にえがかれてゆく。病気からの復帰後、高屋先生に訪れた「神に愛された」かのような全盛期。一読者として、その瞬間に立ちあえる、無上の幸せを噛みしめたものです。作品のつむぎだされる、そのひとときを作者とともに楽しめる。なんという贅沢な瞬間でしょう。ずっと思っていたのです。本田透は、傷つきあう二人をむすびつけては、「消えてしまう」癒しの「媒介者」貨幣・法として機能する、大文字の他者=「父」のような存在。「排除」されたシニフィアンとして、象徴界に回帰してくるもの。二人の間でつむがれた、あまりにも不安定な関係をいったん断ちきり、それから安定化させてゆく、そんな存在ではないか、と。慊人さんは、透君を憎んでいます。それは、たとえば、津田雅美『彼氏彼女の事情』では、情けない男3名に平安が訪れるために、「母」が排除されることが必要だったように。「聖性」と「穢れ」を一身にまとい、「排除」されることで出現する、そんな「玉座」をめぐって争う物語だからではないのか、と。それなのに。慊人さんが「女性」とは…すでに紅野は、十二支の「絆」、いや「呪い」から解放されていたとは…慊人は、紫呉をうばい、自分を「男」として育てた母をにくんでいたとは…紫呉が、その慊人さんを抱いてしまうとは…わたしには、もうこの作品がどうなってゆくのか分からない。それがなぜだか、とてもうれしい。十二支の「絆」それは、象徴=言語によって去勢される前の、イマジネールの喩えなのか。それとも、不可能な「物」=現実界の喩えなのか。人との差異を「絆」に見出し、ヒステリックに執着する、慊人。それは、「絆」を失うことを恐れつづけた、ひよわな女の子の姿でした。十二支をしばっていた「内なる声」=「絆」「呪い」から解放されたはずの紅野。「絆」が失われたときの、涙を流しながらの言葉が忘れられない。「……もう 飛べない…」紅野は、慊人の欠如を埋めることで、自分の「欠如」を埋める途をえらんでしまう。そして悦びとともに、慊人にとらわれてしまう。慊人も、紫呉の欠如をうめることで、己の欠如をうめてしまうのだろうか。ふとおもう。欺瞞は、どこにあったのだろう。むろん、「呪い」の側ではない。われわれ人間の「現実」の側にある。言語に住まわれてしまい、「現実」から遮蔽されてしまった人間。人はもはや、言語を通してしか接触することができない。絆は「呪い」ではない。やはり、言語をこえてふれあえる、「何ものか」の喩えだ。それを失うのは、「成長」でもなんでもない。失えば、もはや、言語で構造化された現実に、われわれとおなじように囚われるしかない。自己の欲望を相手に投影すること。決して交わることのない、誤認によってつくられる「愛」相手の欠如をうめることが、みずからの欠如を埋めることになる「愛」ただ、わたしたちは知っている。相手の欠如を埋めることで、自らの欠如を埋める。そのような「欺瞞」は、ここフルバでは、許されることはない。欺瞞は罰せられてしまう。楽羅の「つじつまあわせ」の恋のように。それは、悲しい話だった。しかし、確かな救いでもあった。ドロドロの物語のはずなのに。そして、とても悲しい物語のはずなのに。それでいて不思議と、居心地のいい、爽やかな世界。その秘密は、お互いがお互いにむけて、「欠如」を埋めあうことにある。囚われていた人は、やがて欠如をうめてくれる人にめぐりあい、その人の欠如をうめてあげられる、そんな存在になれるはずだ。二十名以上の複雑きわまる「欠如」の連立方程式が、解かれてゆくにちがいない。この先、どれほどの壮大なカタルシスと感動がまちうけているのだろう。評者には想像もつかない。まちどおしい。紫呉の、紅野の、慊人の、棟さんもまた、結び目は、紐解かれてゆくのだろう。相手の欠如を埋めてあげることで、自足する欺瞞は、放逐されるはずだ。静かな日々は、やがて、かならず、訪れる。しかし、絆を失ったことを知ったとき、涙を流した紅野のように、その「救済」が、なんだかとても悲しいことのように思えるのは、なぜだろう。それは、「欠如」を埋めあうこともまた、「囚われ」の一形態だからだろうか。それとも、フルバが終わってしまうためだろうか。評価 ★★★★☆価格: ¥410 (税込)人気ランキング
May 27, 2005
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また、書評をはみ出してしまうけど、すみません。中国副首相の突然キャンセルに、読売新聞と産経新聞がブザマにも、「無礼」「内政干渉」だと言い始めた。ここまでくると、脳軟化症なのか?としかいいようがない。■靖国参拝の意義 首相は世界に向け説明を(産経新聞) 中国の呉儀副首相が小泉純一郎首相との会談を一方的に取りやめ、帰国した非礼な行為に対する閣僚などからの批判が広がっている。 これに関連、訪中した自民党の武部勤幹事長が中国共産党の王家瑞対外連絡部長と会談した際、首相の靖国参拝への中国の批判を「内政干渉だ」と指摘しながら、その発言を「誤解があるなら」として撤回したと報じられている。王氏が強く反発し、同席した公明党の冬柴鉄三幹事長らも「(武部氏の)発言は適切でない」と応じたからだとされる。 武部氏は二十四日の自民党役員会などで、「自分の考えでなく、国民の間に内政干渉と見る考え方があると伝えた」と釈明した。釈然としない説明だが、武部氏の真意がそうだったとしても、同氏の対応には疑問が残る。 十六日の衆院予算委員会で、小泉首相は靖国参拝について「他国が干渉すべきではない」と答えた。武部氏は自民党総裁である小泉首相の考えを、中国当局にどの程度はっきり伝えたのだろうか。この会談に関して武部氏らはさらに説明責任を果たすべきだ。 小泉首相は衆院予算委で、靖国参拝の理由について「戦没者を追悼し、二度と戦争を起こさないという、ごく自然な気持ちを実践してきた」と述べている。靖国神社にいわゆる「A級戦犯」が合祀(ごうし)されていることを中国や韓国が問題視していることについては、「『罪を憎んで人を憎まず』というのは(中国の)孔子の言葉だ」と述べ、中韓の批判はあたらないとした。 そもそも、「A級戦犯」は、東京裁判で戦勝国側が認定したものに過ぎない。東条英機元首相ら日本の戦争指導者が絞首刑などの判決を受けたが、その後、南方の法廷などで裁かれた「BC級戦犯」も含め、早期釈放などを求める国民運動が起きた。…(略) ■ 中国副首相帰国 最低限の国際マナーに反する(読売新聞) どんな理由があっても、非礼な行為は詫(わ)びる。それは、国際社会でも当然のルールだ。 中国の呉儀副首相が、直前になって小泉首相との会談をキャンセルし、帰国した。町村外相が言う通り、「最低限の国際マナー」に反する行為だ。 問題は、直前のキャンセルというだけではない。そもそも中国側の希望で設定された会談だ。会談では、中国側の要請にこたえて、首相が中国人団体観光客への査証(ビザ)発給地域拡大を表明するはずだった。 中国は「礼」を重んじる国のはずではなかったのか。「もし他国の要人が中国首脳に対し今回のような行動を取ったら、中国はどう感じるだろうか。「一言の「謝罪」もなしで済む問題ではあるまい。 中国側は当初、「重要な緊急の公務」が生じたことをキャンセルの理由にしていた。だが、その後、中国外務省報道局長は、靖国神社参拝問題に関する首相の発言などに対する強い不満が原因であることを明らかにした。 小泉首相が16日の衆院予算委員会で、靖国参拝について、「どのような追悼の仕方がいいのか、他の国が干渉すべきでない」「いつ行くかは適切に判断する」と述べたことを指しているのだろう。 戦没者の追悼はそれぞれの国の文化、伝統に従って行われるものだ。首相の靖国参拝には、日本国内でも賛否両論がある。その論議はあっていい。だが、他国の干渉によって決めることではない。(略)そもそも、「無礼」という遠吠えが、笑わせてくれます。いったい日中両国は、いつ、「礼」という規範を共有していたのですか。知らなかったよ、わたしは。両紙の論調は、つねに中国は全体主義、日本は民主主義、というものであった。まったく、同感だ。そもそも政治体制がちがう国同士。規範を共有したことなど、わたしは聴いた試しがない。産経社説は、A級戦犯というものすら、受け入れていない。日本は、サンフランシスコ講和条約で東京裁判を受け入れています。その条約さえ、批判している新聞社。日本が結んだ条約さえ受け入れていないのに、共有されたことのない「礼」をうんぬんし、「非礼」呼ばわりするなど、なにか悪いものでも食べたのかと心配してしまう。所詮、チンピラ新聞社とはいえ、最低限、社論の論理的整合性くらいもたせるべきだろう。読売社説にいたっては、「自分がやられたら相手はどう感じるのか?」だそうだ。…冗談だろう。そんなことをいえば、中国・韓国の気持ちを思えば、靖国参拝など誰もできなくなってしまうではないか。このダブスタにすら気付かない社説。ここまでくると、読売のナベツネと論説委員は、知的障害なのか?と疑ってしまう。さらに、触れられないものがある。靖国参拝を「内政干渉」とした武部幹事長の発言だ。小泉靖国参拝=政治です、と世界に公言しているようなものではないか。たしかに、両紙の「欲望」が、忠実にさらけだされていて、たいへん面白い。素直でないことに比べれば良いことでしょう。ただ、ここまでくると、なんで小泉が靖国の英霊を悼む、という個人の信仰を強調しているのかを、この両紙はまったく理解できていないことになってしまう。これでマスメディアといえるのか。どうみても、小泉靖国参拝の足を引っぱっているとしか思えない。その通り。内政問題だ。だからこそ、靖国参拝は、それによってもたらされる政治状況について、結果責任をとらなければならない。日中友好を阻害して、政治に害をなすなら、追及されるのは当然のことだ。民主党が追及するのは、読売・産経の論理に照らして、正しい。ありがとう、読売・産経、、、あれ?…本気かな、この両紙。小泉にとっては、「偉大な敵より、無能な味方が憎い」心境ではないか。たぶん、右翼はだれも気付いていない。しかし、これはボディーブローのように、効いてくる。ただ、ひとつの疑問がのこってしまう。一応の知性の持ち主である社説記者にもかかわらず、読売・産経は、なぜ恥性まるだしのゴミ社説をかいたのか。「礼」などを共有できるとは、そもそもおもってもいない相手に対し、「無礼」などと言いはじめるその心理は、なにを隠蔽しようとする行為なのか。中国は、日本をいくらコケにしても問題はない。所詮日本など、アメリカの属国。アメリカと調整すれば、問題は生じない。「無礼」「内政干渉」に見られる読売・産経の恥性まるだし社説は、この厳然とした、中国にとっての「現実」にむきあうことを「隠蔽」するためにおこなわれた、反射的行動なのではないのか。そもそも、中国にコケにされ、対等のプレーヤーと思ってもらえないその一因は、残念ながら日米安保条約にあることは確かでしょう。読売・産経新聞にとって、自分たちの主張が、中国にコケにされる理由をつくっているなど、認められるはずもない。だからこそ、あたかも、「大国」であるかのような振る舞いを日本にもとめてしまう。そして、大国とは中国におもわれていない現状に、過剰な「無礼」などという反応をかえしてしまう。中国の平和的台頭を受け入れられる「覚悟」がない日本の保守。そのくせに、喧嘩だけはプライドの高さから、売ってしまう。外交をもてあそび火遊びするのは、勘弁して欲しい。いつか、おねしょするぞ。人気ランキング
May 25, 2005
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昨今話題の「暴走するインターネット」。イラク人質3人組、拉致家族会へのバッシング。「折鶴オフ」「マトリックスオフ」…現代日本は、「日常の祝祭化」を駆動原理とし始めているのではないか?ここでとりあげられた、現代社会論の射程は広い。今の20~30代の男性は、相手女性の親の年収をこえられる見こみはほとんどない。団塊の雇用を守るため、若者の賃金がおさえられ、若年失業率は1割におよぶ。かえる地元もない。これまでのように会社にも甘えられない。親も経済支援以外には何もしてやれない、「たかりあい」の構図。そのうえ、リスクの転嫁が自己責任の名の下におこなわれる。ハイ・テンションな自己啓発と、見つからない「やりたいこと」のハザマで、躁鬱をくりかえし、分断された自己を生きる若者たち。その分断は、ミシェル・フーコー流の「身体」をターゲットにするのとは異なった、「データベース」の個人情報へのアクセスによって私人同士が監視しあえる、「監視社会」の到来が可能にしているという。激しい社会的流動性によって要請された、個人とデータベースの「相互審問」。そこでは「監視国家」よりさらに激しい、「高リスク」集団の排除も、“市民の側”から欲望されはじめている。民主主義か、それともその危機か? とまれ、データベースと個人との往復運動によって、「私は私」と自足する自己が生まれ、「感性」が前面にでてくる社会が出現。コミュニケーションも、「共依存」ではなく、「ネタ」で「つながりうる」ことに重点がおかれている、とします。「反省から再帰」へ。「共同性」をもとめ、日常化する「再帰的カーニヴァル」。そこでは個人は、「脱社会化」=社会化されておらず、「知られた私」を統合する主体=確固たるアイデンティティをもちません。「反省的な自己」はそこにはない。統合する明確なものがなく、際限ない自己回転(目的化)=「再帰性」を特徴とする、「再帰的自己」へ。ここに筆者は、「合理化」「脱魔術化」の前期近代から、「再魔術化」しつつある後期近代への、駆動原理そのものの転換を見出します。消費社会も、差異の「反省的審級」=マスメディアの衰えとともに、「差異消費」から「ネタ消費」へ転換しはじめている、という。暴走するインターネットは、その一端にすぎない。「カーニヴァル化」とパラノイア的な「データベース」への問い合わせのハザマで、強迫衝動により様式化された行為=「嗜癖」を自己にむかわせて、現代人は生き続けなければならない。データベースは、自画像にも世界像にも、統一した視座を与えてくれないのだ。そのため人間は、自己と世界を否定して、社会を変革しようとした、ヘーゲル的な存在をやめて、世界を甘受して「宿命」をうけいれる、「動物化」(コジェーヴ)した存在に退いていく…革命から宿命へ。それこそがこの現代社会では、適合的だから…軽薄な帯の宣伝に、騙されてはいけない。この本では、ギデンズ、ラッシュ、そしてつい最近刊行されたばかりの北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)までとりあげられ、目くばせもいき届いています。1990年代以降、いよいよポストモダンとさえ言えなくなってきた現代社会。さまざまな理論をまとめ、見透しをよくしてくれる、意外な好著になっているのです。とはいえ、オリジナル性はあまり感じられないのも事実でしょう。躁鬱のスイッチは、前近代の「ハレとケ」のスイッチとどう違うのでしょう?「私は私」としてすませてしまう再帰的自己でさえ、周囲という「審級」は「反省」的に働いているのではないでしょうか? そもそも確固たるアイデンティティなんてあったか? データベースと大文字の他者ってどう違う? …… 「データベース」と「カーニヴァル」という単語によって、イメージこそ横溢しているものの、どうみても東浩紀『「動物化」するポストモダン』から借用している感じがぬぐえません(なにせ、あとがきで「網状言論」の話が出てくる)。感性の前景化によるバッシングは、スラヴォイ・ジジェクにも出てきましたし、すくなくとも「はじめに」を設けて、周辺の現代社会理論に関する研究状況を整理すべきだったのではないでしょうか。まあ、これを読んだ人は、章末の注釈から周辺書を狩猟すればいいのでしょう。たしかに役に立ちます。というわけで、こんな感じ↓評価 ★★★☆価格: ¥735 (税込)ランキング確認
May 24, 2005
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1989年、総和社から出版され、絶版になっていた本書。2004年、ちくま学芸文庫として、再版される運びになった。まことに喜ばしい。「東方のモスクワ」ハルピン。帝政ロシアの極東経営の拠点として、ロシアが心血を注いで建設した、美しい都市。ロシア革命による亡命ロシア人によって、上海に次ぐ国際色の豊かな都市へと発展します。その後、1920年代の日・露・中の主権争いをへて、1932年、ターニングポイントとなる、「満州国」の成立。その後満州は、日本国内では類をみないほどの、理想的な都市計画を総合的に実践する場になっていきます。景観を守るため、さまざまな規制がしかれた住宅建設。完備した緑地計画。水道事業…。ここでは、アール・ヌーボー都市ハルピンの全貌が余すところなく描かれています。欧米最先端の試みを実践する場だった、満州。この視角で整理した本書は、1930年代、朝鮮・台湾・満州など、植民地において先駆けて実施・施行され、後に本土に展開された、企画官僚主導の総力戦体制をかんがえるためにも、ふさわしいエリア・スタディーになっている、といえるでしょう。都市計画は、直接的には戦争に寄与しないので、戦時中、なにも影響をあたえなかったようにみえます。しかし、廃墟になった戦後、名古屋や仙台、広島などの「大通り」建設は、こうした満州国で都市計画に携わった人々によって、になわれたのです。むしろ、古典ともいえるものだけに、研究ではとっくにのりこえられるべき対象なのかもしれません。この書には、地域住民の匂いが、どこからも漂ってこない。喧噪でまみれた中国人たちの息吹は、日本人官僚の計画によって、どこかに消えてしまう。きれいで清潔で美しい、まるでファシズムのような居心地のよい、植民地のユートピア。どこにも存在しなかった理想郷、ハルピン。この本が隠蔽しているものは、あまりにも明らかでしょう。ほとんどが、「企画」倒れに終わった、ハルピンの都市計画。この書があきらかにしたものは、ハルピンという都市ではない。中絶を余儀なくされた、うたかたの夢に過ぎない。夢に隠された、搾取と抑圧。「極東最先端」という甘いノスタルジアもまた、所詮「模倣」にすぎなかった、近代日本の悲惨を隠蔽するために機能します。この書が満州からの引き揚げ者に読まれた理由がよくわかります。夢に破れたものたちがつむいだ、すでに存在しないものへのあこがれ。企画官僚と、地域住民はどのようにせめぎ合ったのか。その結果、どのように計画は変容していったのか。そもそも、満州という強権的支配を可能にした場でしかできなかった、企画官僚による住民支配は、戦後中国共産党によってどのように接収、改変されていったのか。この書が、未解明のままわれわれに残した課題は、あまりにも大きいものがあります。後続の人々が、のりこえていくことを期待してやみません。評価 ★★★価格: ¥1,470 (税込)人気ランキング
May 22, 2005
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この作品の主人公は、クラシック音楽なのではないのか?この前々から感じていた疑惑は、評者の中では今、確実なものとなっています。月刊コミック誌『キス』で快進撃連載中。その待望の新刊。「のだめ」は女性ピアニスト・野田恵の愛称。「カンタービレ」とは、「歌うように」というイタリア語です。2名の主人公、「のだめ」と指揮者希望の千秋真一。この2名をメインに、多彩な脇役をまじえてつむがれる、恋愛と音楽の物語。その処理も、コミカルかつシリアスな小技の連続で、読者に息をつかせません。クラシック音楽へいざなう、すばらしいコミックとして、『朝日新聞』『ダ・ヴィンチ』など、各誌で好意的にとりあげられてきました。でも、みんな、間違っていませんか?ヴァイオリンを弾けば、それはクラシック音楽になるのでしょうか?断じて、違う。クラシックという芸術運動こそが、人をとらえるのです。クラシックが、その人の内部に侵入し、意識そのものを浸潤し作りかえてゆく。クラシックにとらえられないかぎり、その音楽はクラシックになりはしない。たゆまぬ練習で、人はクラシックを完全な統制下におこうとします。その成果をみせる晴れやかな場、演奏会、録音セッション。演奏者の身体を通して、聴衆に散種されてゆく、クラシック。あたかも遺伝子やヴィールスが、人をヤドリギとして寄生し繁茂するがごとく、クラシック芸術の運動も、この自己増殖をやめない。演奏者を媒介にして。この作品の主体は、演奏者ではない。クラシックなのです。人はいかにクラシックにすまわれ、下僕となるのか。クラシックは、いかなる人にパラサイトして、ついの棲み家とするのか。高慢、自信過剰、「一緒にいて辛かった」…千秋の形容詞を思いおこしてほしい。この悲喜劇こそ、この作品のモチーフではないのか。千秋真一は王子ですらない。奴隷なのです。クラシックは、譜面通り弾く必要があります。超絶的な技巧は、至高なる作曲者に捧げられています。千秋真一は、感性で、理性で、クラシック作品を完全に征服しようとします。至高な作曲者の意思を、この世界に忠実に再現しようとする奴隷は、激烈な征服欲をやどらせて、音楽に向きあっています。リビドーにつき動かされる千秋。そもそも彼をとりまく女性は、その先にしか棲み家をあたえられていない。これが恋愛話であろうはずがない。「オリジナル(作曲者)/模倣(演奏者)」の体系、クラシック音楽。ここでは、演奏によって初めてイデアがその一端を聴衆のまえにあらわします。演奏者は、その意味では疎外された存在です。イデアにたどりつくことなど、ありえないのだから。そう。完璧にみえる千秋真一は、つねにクラシックを取り逃がし続ける。ここに、「のだめ」と千秋が、邂逅する瞬間がある。互いに「取り逃がした何か」を知るものとしてもとめあう。12巻は、まさにこのシリーズのターニング・ポイントになっています。プラトン主義から、反プラトン主義への急激な転回へ。「オリジナルと模倣」の価値体系の崩壊へ。かの大バッハは、実は教会旋律なのか、短調なのか、長調なのか、本人も分からなくなっている部分も多い、とのだめに語るリュカの祖父。大「バッハ」は、実は「のだめ」にすぎない。フーガの構造は、完全に理解することなどできない。連載開始してから3年。クラシックという芸術の自己運動がみせるほころび。「全体は虚偽である」ようやく、この地平にたどりついたのです。3つの道が、このシリーズには残されています。クラシックの亀裂に想像的修復を施して、その場にとどまりつづけるのか。クラシックは、亀裂の前に自己崩壊するのか。それともクラシック音楽は、さらなる弁証法的展開をとげるのか。まさに目が離せません。読んでいない人は、ぜひ講読して欲しいです。しかし…千秋のパリ指揮者デビュー曲。ラベルと武満徹はともかくとして、シベリウスとは…ほとんど主人公は無敵のインフレ状態になっていませんか?これだと残りはぶるっくな~、ま~ら~位しか残ってないじゃない…評価 ★★★★価格: ¥410 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 20, 2005
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他人の夢の話を聴かされるほど、苦痛なものはないという。しかし、他人の旨いものを食ったという自慢話を聴かされるのも、なかなか苦痛な話だとおもうが、いかがだろう。英文科卒、比較文学を講じる、著者の中華料理のうんちくが語られるこの書。おいしそうな食べ物の話がでてきて、なかなか楽しい。各地で多彩な東坡肉と、蘇東坡先生の食道楽。日本とちがって甘く、梨とくらべられる、中国の大根。ブタは、遊牧民の影響で、羊より下級な食べ物だったらしい。中国人は、生のナマコをたべないし、馬の肝に毒があると信じていたらしい。龍に似せて、甘酢あんかけにされる鯉は、実は北方料理らしい。李鴻章によって、アメリカに広まった、チャプスイ(雑砕)。中国・ベトナムで復活した、犬料理の数々。秦檜と始皇帝を食べている、中国人………ひとつひとつの小話に、筆者の深い愛情がそそがれています。軽いエッセイ風の文体もあいまって、なかなか楽しいお話に仕上がっています。清代の文人袁牧と、伝説の料理人王小余の話も、なかなか興味深い。ただ、難点も多々。魅惑的な中華料理と、それに彩りをそえる食通の文人たち。のお話のはずなのに、肝心の文人のお話があまり表にでてきません。大々的に出てきたのは、蘇東坡と袁牧くらいなのはいただけない。ついつい、「本人の自慢話」に流れてしまっています。食文化が消えちゃうから、今の内に残しておきたいということらしいけど、そこはキチンとしないと。中国の文人文化の一端として、中華料理を押しだして欲かったですね。琴棋書画などをひきあいに出しながら、中華料理をかたる。もっとも、中国文学の人にとっくにやられてしまっているのかもしれません。ニッチエッセイということなのかも。一読後、お腹がへったので、思わずお好み焼きをつくってしまった。そして、この書のスッポン料理との、あまりの差に愕然としてしまった。そんな妬みをこめて↓評価 ★★☆価格: ¥714 (税込)人気ランキング
May 19, 2005
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すばらしい著作です。かつて1960年代、あたらしい世界経済理解の次元を切りひらいたフランク。今度は、マルクス、ウェーバーなど、ヨーロッパ中心主義のイデオロギーに、宣戦布告します。19世紀までヨーロッパは、世界経済の周縁であった。大航海時代以降、世界の中心という自画像は、19世紀の神話にすぎない、と。従属論。第三世界は、欧米の様なコースをたどって発展するのではない。世界は、単一の経済システム(世界システム)におおわれている。どの地域であれ、低開発の決定的な要因は、その地域に内在するものでも、そこに住む人々のせいでもない。世界システムの構造の下、「低開発」という機能を担っているにすぎない…このフランクらの考え方は、1970年代、ウォーラーステインの「世界システム論」へとひきつがれました。16世紀以降、ヨーロッパに誕生した「世界システム」が、アメリカ・アジア・アフリカを周縁(=「低開発」)として包摂する過程として、近代史を再把握したのです。フランクは、この近代像さえひっくり返します。15世紀以降、アジアを中心に成立していた世界システムこそ、アメリカ大陸を包摂したのだ、と。競争力のないヨーロッパは、アメリカ大陸産銀でアジアの産品を買う以外に、この世界システムに参入する方法がなかった。世界経済は、これによってさらに拡大した。ただしアジア、とくに中国・インド・東南アジアなど、東アジア地域において。この地域は銀で潤い、需要は供給を生み、人口・経済の高成長がもたらされた。そこには、市場に敏感に反応する、生産性の高い農・商・工業があった。ヨーロッパは、諸地域の交易「カントリー・トレード」に割りこんで利益をあげたものの、ルートさえ支配できなかった。ヨーロッパでいわれた「17世紀の危機」などない。政治的ヘゲモニーはいうまでもなく、科学技術、生産性、蓄積、生産、金融は、1750年頃までアジアが圧倒していた。18世紀後半、世界システムの危機的な景気後退局面(コンドラチェフB局面)。このときヨーロッパは、NIESの一員として、この機会を利用して、アジアの背中をかけのぼったにすぎないのだ、と。ヨーロッパの勃興とアジアの衰退も、鍵はアメリカにあるとします。人口/土地資源比の低い、欧米の高賃金経済では、労働節約的な機械の発明によって、生産コストを削減する誘因が備わっていた。西インドからの資本蓄積もあった。この連続的な過程が、産業革命という予測できない事件を生みおとした。アジアでは、労働コストの低さによる比較優位があるので、その誘因が働かない。人口/土地資源悪化は、収入の2極化を生み、さらに賃金の低下を生んだ。アジアでは、資本の希少性もあって、さらに資本節約・労働集約型生産に特化しようとする合理的選択が生まれることになった。アジアの生産効率の高さという「成功」こそ、技術革新を妨げる「均衡の罠」に陥らせた。近年のアジアの勃興は、ここ150年ほど離れていた、世界経済の主役の座に戻ろうとしているにすぎない!!簡単なこの要約からも、刺激的な面白さの一端が窺がえるでしょう。彼が「ヨーロッパ例外主義」と呼んだ、従来の経済史の方法論に対する、徹底的な批判と無効宣告。ノースや、ポランニー、ウォーラーステイン、プロト工業化論も、その例外ではありません。こうした「偶像破壊」も、エルヴィン、チョウドリ、ポメランツなど、多くの先行研究に依拠して、重厚にすすめられているのです。これらを咀嚼しつつ、なおかつ未聞の問題提起におよぶとは。なかなか、余人には真似できません。一次資料にもとづいていないものの、そうした欠陥を感じさせない、仕上がりになっています。ただ、これまでの研究とおなじ限界もかかえていることは言うまでもないでしょう。産業革命と西欧の勃興の関係。これは、自明のようで、依然埋められていません。そのシンボルであった紡績業こそ、機械力で圧倒的な生産力を獲得したものの、機械が使える分野など、どれくらいあったのでしょうか。このとき、創出されつつあった中間財生産部門に機械が投入されて、それがさらなる高い生産性をもたらし、社会に波及してゆく余地は乏しいと言わざるをえません。産業革命はそもそもあったのか。労働節約と資本節約の差異は、後になっても観察できたため、 19世紀になって「産業革命」の概念が導入されることになりました。ところが、さて両者の分岐点は?となると、曖昧極まりないものとなって闇に埋もれてしまう。産業革命は、依然「外生項」としてとどまったままです。そもそも、18世紀まで周縁のヨーロッパは、「低開発」という機能を担って形成された社会であるはずなのに、せいぜいアジアはヨーロッパと「同じ」、もしくは「優越」しか、強調されていないのはいかがなものでしょう?矛盾していませんか?とはいえ、これは射程があまりにも宏遠すぎるゆえの瑕疵にすぎないのかもしれません。あとは、読者による批判的継承にまかされている、といった所でしょうか。大部な研究書だけに、細かい方法論や考え方など、勉強になる部分がたいへん多い。制度とは、経済的過程の原因ではなく、そこから派生する道具である、とか。同じような記述が、行ったり来たりして、やや分かりづらいのが難点ですが(元が悪いのか?)、お勧めの一冊といえるでしょう。評価 ★★★★価格: ¥6,090 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 17, 2005
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「国際関係論」は、学問として成立しているのか。なんとなく、一読後、そんな疑念がぬぐえませんでした。専門家。評論家。チンピラ・ジャーナリスト。市井の民。外交を語る人は、いたって多い。たいてい、メディアで報道された事実から議論を披露します。交渉事のシグナルは、たとえメディアに躍ろうと、関係者からのリークであろうと、自分に少しでも有利になるように、相手をコントロールするために発するものでしょう。発さないことも、そのコントロール方法のひとつ。外交史料館にいって、史料を読んで、文書とシグナルの違いを確認してみればいい。コメントを求められたならともかく、シグナルにわざわざ私見を披露する輩の神経を疑います。自分は、外交を知りません、とわざわざ言っているようにしかみえない。この書は、さすがにそんなレベルからは一線を画しています。ミドルパワー外交として、日本外交の選択を整理・合理化。これからも日本外交は、その先に展開されるべきではないか、という意欲的な提言がおこなわれます。日本は、グレートパワー(大国)を指向する戦前の外交観と、9条にみられる平和主義外交観、2つの政治勢力とそのアイデンティティーによって、引き裂かれ続けてきました。2つの分裂する自画像は、国内のみならず、国外に誤解させ、日本外交の足枷になりつづけたという。ニクソン「米中和解」のような、大国間勢力均衡外交という伝統的権力政治の枠内に中ソをとらえ、戦略的なスイング・ポジションを取ろうとする試みなど、日本外交の選択肢にはない。左右のナショナリズムは、「9条と安保」という捩れを「従属」として攻撃したものの、そのたびに伝統的防衛観と単独外交を放棄する、吉田ドクトリンに回帰せざるをえなかった。岸の安保条約改定、佐藤の核武装構想しかり。村山内閣しかり。現在も、その延長にあるのだと、筆者はいう。中曽根外交は、吉田ドクトリンの先に「対等な日米関係」をおくにすぎない。ガイドラインも防衛大綱も、吉田路線の捩れに由来する「日米安保の脆弱さ」への危機意識からきた、日米双方の再定義であるという。その隙間において、池田内閣の頃から展開された、大国間外交とは違った、経済協力を柱とする多彩な国際協調外交の数々。福田ドクトリン、人間の安全保障、国連PKO。これをミドルパワー外交として押し出す筆者。さらに、「自由と民主主義」に立脚した日・韓・ASEAN・オーストラリア「ミドルパワー」諸国との提携をおこない、等身大の実像を世界につたえ、「東アジア共同体」論にものぞむべきだ、とむすばれています。総じて、重厚なまとめとなっていて、適切そのものといえるでしょう。ただ、「ミドルパワー」と「大国」の違いが、最後までさっぱり分かりません。それは、「核兵器」「国家意思」と密接に絡むらしい。国連常任理事国入りは、仏英をめざす姿勢としています。たぶん、仏英はミドルパワーなのでしょう。ロシアと中国は大国みたい。インドとブラジルは大国か?否か? たとえ、ミドルと大国の区別はつけたとしても、そもそも「国際協力=ミドルパワー」外交と「単独=大国外交」の区別はつくのでしょうか。現在中国の多国間協調外交も、大国外交なの? あまり意味がある概念とはおもえません。ミドルパワー外交も大国外交も、それぞれ「連続」してはいても、「対立」する概念ではないのではないか。意義の一つは、大国外交への欲望からくる、保守の「逆噴射改憲」をふせぐことにあるらしい。こんな定義で、欲望を断念する人はいるのでしょうか。おまけに、国防や安全保障に特化しない外交は、戦後60年、とくに経済の分野で盛んにやられているのに、何ひとつ触れられていない。これほど、ミドルパワー外交の現場に立たない、「ミドルパワー外交」論というのも、珍しいのではないか。冒頭の深刻な疑念がよぎるとはいえ、一読に値する内容でしょう。とくに戦後平和主義勢力を自任される方々にはお奨めしたい。「非武装中立」という自主も、「世界民生大国」という護憲理念も、この先に再建するしかないのだから。評価 ★★☆価格: ¥756 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 15, 2005
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今、話題になっている、中国共産党の民族政策。その政策について、やや擁護するスタンスから、この書物は出版されています。そもそも、中国最初の王朝、夏・殷・周は異民族王朝であったこと。異民族は「天下」の必須構成要素として伝統的世界観にくみこまれていたこと。夷・狄・蛮・戎は狩猟・遊牧民族の生活様式・言語の特徴をあらわしたこと。華と夷とは、文化の差異にすぎず、周囲の異民族引き込みと自発的「中原化」とよって、拡大していったこと。近年、こうしたスタンダードな見解は、対中国感情の悪化によって、大マスメディアではめっきりとりあげられなくなっています。まさしく、時宜をえた出版として、大変感謝したい。内容は、なかなか興味深い。漢奸は、元々「漢族の悪者」で、アヘン戦争の頃「清朝(=漢)を転覆させる売国奴」にかわったこと。それを「漢民族の裏切り者」と読みかえた反清運動は、多民族国家の現実を掘り崩す危険性をもっていたこと。南北朝時代に出現した「中華」も、このとき漢族単一国家の象徴の概念にかわってしまった。他民族国家の現実にあわせるため、清朝倒壊後かかげられた「五族共和」は、独立容認のスローガンになってしまう。そこで、これらを1つに融合させるため、「中華民族」概念がとなえられたといいます。それに反して、一見、56もの民族を創出した中共も、その識別に政治的恣意性が介在し、存在を弱めるような政策がとられていること。 漢民族は、比率が低下しており、少数民族は政策上は、優遇されていること。少数民族居住地域は、列強の侵略など国際政治の矢面に立たされてきたこと。宗教への迫害政策は転換されたこと。他にも、チベット仏教とイスラムの影響力の大きさ。チベット亡命政府やイスラム教分離派への、中共のスタンスの説明もおもしろいです。現在、経済発展に立ち遅れており、社会の安定と経済の持続的成長のために、インフラ整備と重化学工業化の西部大開発がおこなわれているが、環境問題、民族消滅の危機をもたらしていること…などが指摘されています。史実からみると微妙な点もあるものの、なかなかの手引書になっています。それでも、問題点は多岐におよんでいて、正直きりがありません。こき下ろす中共以前と、中共以後のそれぞれの「自治」に、どんな違いがあるのか、何も示せていない。どんなに、国民党の方向性は抑圧であっても、戦前の現実は「自治」でしたしねえ。中共は、伝統的社会構造の維持を図ったといいながら、宗教弾圧・土地政策とはこりゃ如何に? そもそも、伝統を「守らせる」のは、「自治」とはいえないでしょう。だいたい、中共支部の「自治」なんて、たとえ「自決」であろうと、民主集中制の原理下、なんの意味があるのか理解に苦しみます。事実上、中国では、地方政治の分権というか、支配の弛緩がすすんでいますが、それではいっそう「民族自治」の内実には何の意味もなくなってしまう。ただ、征服王朝の多元型国家システムと漢人王朝の多重型国家システムの比喩は、話半分でも大変面白いものがあります。多元型は、「中国」を牽制する「民族」的根拠地を強化するものであるらしい。ふむふむ。国際政治が錯綜する、朝鮮・ロシア民族の二重国籍問題は、なかなか触れられることがなかったことでしょう。中国の歴史教科書問題とやらも、大変面白い。岳飛を民族英雄というのを止めよう、国内内戦でしかないからだ、というと、大反発がおきて撤回されることになったらしい。こうしたディテールの面白さにささえられた本書は、大枠はともかく、読まれるべき好著になっています。評価 ★★★価格: ¥819 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 13, 2005
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また日本人が、呪われた大地イラクで犠牲になろうとしています。イラクとは、そもそもどんな国なのか。2004年3月、1年前に出たこの書は、明らかにしてくれます。サダム・フセインは、最初の悪ではなく、最後の悪でもないことを。女性、ガートルード・ロージアン・ベルの、ロマンが生んだ国であることを。ヴィクトリア朝の女性の不幸を体現した才媛、ベル。第一次大戦のとき、アラビアのローレンスとともに、情報収集工作に従事して、戦後中東世界の再分割とイラクの占領行政に関与します。その物語は、たいへん面白い。ユーラシアをめぐる、英露のグレート・ゲーム。新参国ドイツは、第一次大戦、イスラム教徒にイギリスへの蜂起・聖戦を教唆します。ドイツに鉄道建設の費用をもたせながら、国有化を画策するトルコ。ヴァッスムスなどの暗躍に代表される、ドイツのアフガン・イラン・インド工作。押収されるドイツの暗号帳。奇奇怪怪な、アラブを舞台とした外交ゲームです。大英帝国も、アラブ局とインド省の対立をかかえてバラバラです。その橋渡しするのがベル。「アラブの反乱」の鍵を握る、イブン・サウードと、メッカのハーシム家。その工作に、かのローレンスとともに従事した彼女。アラブの反乱は成功しました。ところが、その英国はサイクス=ピコ協定、フセイン=マクマホン書簡、バルフォア宣言の3枚舌外交。ベルサイユ講和会議は、利権再分割の場となり、メソポタミアを蹂躙。人造国家イラクをどう統治すればいいのか? 仏がシリアから追い出したハーシム家。ファイサルにイラクをあてがい、彼の兄にヨルダンをあてがいます。国境を線引きしたのが、ベルでした。アルメニア人虐殺に手をかしたクルド人とシーア派にはさまれ、最初から浮いた王制。「不可能な国家」の出発点は、総選挙をへて移行政権が誕生しても、その未来に暗影を投げかけている……いささか、不思議な読了感がただよいます。ジャーナリストらしい軽やかさと、重厚さの同居とでもいいましょうか。 たとえば、シーア派の聖地、イラクのナジャフの解説。「最後の審判」の復活をまつ遺骸たちと、聖廟・マドラッサの群れ。略奪を生業とする遊牧民の改宗と、インドからの寄進によって支えられていた、「沸騰するシーア」の象徴。この街は、国外と死後の世界に開かれた水路と形容されます。「死者の都」は、不可能性の根源となって、部族社会をささえて、国家形成を制約してきたといいます。こうした、やや感傷的な理解と叙述が散見するものの、現代イラクをつくりだした冷酷な国際政治の理解を忘れません。ベルの仇敵フィルビーが、サウジ石油利権で英国にしっぺがえしを食らわせ、石油カルテル、レッドラインに風穴をあけたこと。クルド独立をめざすバルザーニとサダム・フセインの戦い。こうして、つぎつぎとイラクにまつわる小咄がかさねられていきます。まことに興味がつきません。おもわず、名著!と叫びたくなりそうです。しかし、別の疑念がもたげてくるのです。これは、伝記小説にすぎないのではないか? と。イラク、「不可能な国家」。この書では、「父性」支配=「部族制社会」=イスラムと、国民国家が対置されています。イブン・サウード、サダム・フセインなどを生んだこの原理。たしかに、アラビア半島にとどまらず、シリア~トルコ~イラン社会を理解するためにも、地域を拡張させて使われるべきキーワードでしょう。ただ、アメリカ占領行政の無知さをなげこうとも、どれほどその支配に対する手厳しい批判になっていようとも、その背景にながれる濃厚なオリエンタリズムは、やはり看過できません。「不可能」性を「部族社会=イスラム」の軸に帰因させる図式では、「不可能」性ゆえに「部族社会=イスラム」の軸が再生産され、「不可能」性をおぎなっていく、フィードバックの機制が見失われています。なぜ「不可能」なのに、それでも国家が存続しているのか? こんな素朴な疑問にどのようにこたえるのでしょう。そもそも近代化こそが、社会の亀裂を深めさせ、その亀裂を「部族社会=イスラム」で覆いつくし、その軸を再生させたのではなかったか? 国民国家とイスラムは、共犯関係にあるのではないのか? イスラム原理主義の台頭のように。かつてのレバノンがなぜ安定をみたのか。イラク=中東の安定化とは、部族・宗教と国民国家の関係を再考させてくれる、またとない素材なのかもしれません。評価 ★★★価格: ¥882 (税込)人気blogランキング
May 11, 2005
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3年間、音沙汰なし。出版されていたことさえ、知らなんだ。ごめんなさい、森岡先生。おいら、その存在そのものを忘れていました。そのブランクのためか、読んでもちっとも分かんない。3巻を読み直す羽目に。2度手間…豪華絢爛たるスペースオペラ。アーヴ種族と人類の共存は崩れた!!「アーヴの人類帝国」VS「三カ国連合」。覇権をかけた星間戦争の決着は!ラフィールの弟もちょっと活躍!!帝国は大ピンチ!!5巻を乞うご期待!!……本当にこの調子で終れるのか?永野護『F・S・S』(ファイブ・スター)化してない???これ…この作品の面白さは、SFにあるのではない、とおもう。たぶん。人間の関係性の描写。彼の他作品とくらべても、この部分が抜群にいい。最近、読んでないので断言できないけど。そもそも種族を異にしている二人。女帝の孫、王女ラフィールと、父親が故郷の惑星をアーヴに売り渡したため、アーヴ貴族に叙せられたジント。男女二人の恋? 否!ちょっと違う。たえず皇帝を目指し修練するラフィールと、その役にたちたいジント。恋に回収されることのない「敬意」からでてくる、二人の間の微妙な距離感。彼女はどこまで飛翔することができるのだろう。功績をあげ、その美しい姿のまま彼女が帝位につくとき、ジントは老いさらばえている。恋を断念していながら、なお揺れるジント。ただ上をめざしているラフィールが、庇護者のつもりで彼に振舞う好意。この2つのすれ違いの残酷さが、たまらなく心地よい。ほかにも、アーヴ種族の描写もいいとおもう。アーヴ種族は、秩序に逆らえない。上下の規律は厳しい。反逆もない。アーヴ種族は、かれらの帝国に無条件に自己を一体化させています。しかし、その毒舌は上司にむけて見まわれています。毒舌は親愛の証? こんな不思議なアーヴ種族の生態を、ソフトにせずゴツゴツとした肌触りのまま、切り出してきてくれます。スペースオペラとしては、隔絶した質をもちえている、とおもう。さまざまなSF設定など、フェイクにすぎないとおもう。アーヴ種族がどこまで活写されぬけるか。思わず、そこに関心をもってしまう。R・A・ハインライン『宇宙の戦士』は、国家と個人によこたわる不透明性を「戦士」の共同体でのりこえようとする、SF史上屈指の意欲的な作品でした。「アーヴの人類帝国」にみられた「透明」な共同体は、ただの種族の遺伝子で終ってしまうのか。その辺を楽しみにこれからも読んでみたいとかんがえています。評価 ★★★価格: ¥546 (税込)人気blogランキング
May 10, 2005
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この人は、いったい誰にむけて、こんな本を書いたのでしょう。読了後、こんな疑問がぬぐえない。この世には、相対性理論といい、南京事件といい、アカデミズムの通説に反逆したがる人がいるもんです。こんな人は、たいてい相手を曲解し、的を外してしまうことが多い。死人数しか意味しない中国側「30万人」説に(当然戦死者を含む)、「日本軍虐殺写真」とやらを検証して一体何がしたいのだろう…いや、失礼。バカは、とかく方法論を間違えやすいし、騙されやすい。音楽史は、ドイツ人に歪曲されてきた。18世紀、音楽はイタリアのものであった。ヴィヴァルディ、スカルラッティ、チマローザ、メタスタージョ、パイジェッロ…しかも音楽の中心は、イタリアにあった。音楽教育はイタリアで生まれた。そのオペラは、市民のものとしてイギリス・フランスなど欧州全域に広まった。ドイツは、音楽が教会と貴族のもので、後進国にすぎなかった。バッハ、ハイドン、モーツアルトなんて、生前は不遇といってよかった。ドイツ人は、音楽史を「形式」として叙述するため、著名な人物を低く評価して、知られていない人物を祭りあげてきた前者は、イタリア人以外にも、ハイドンより低く評価されたモーツアルト。後者はバッハであった。ソナタ形式すらドイツ人のものではない。こんな歪曲をささえたのは、19世紀の崇高と美を結合させた、ドイツ哲学による美学の創出と、ベートーヴェンの出現である。彼らは、「芸術の純粋性」と譜面の絶対性を唱え、イタリア音楽を俗なものとして貶めてきたのだ… 西洋音楽そのものを知らない人にとっては、それなりに意味があるでしょう。オペラを知らない人には、お勧めしたい。ただクラシックファンには自明すぎて、わざわざ書くほどのことか?と、そのドイツ批判には嫌気がさしてしまう。おまけに「歪曲」という扇情的文句で、ご自身が「クラシック」そのものを歪曲。犯人は、ドイツの後進国ナショナリズムだ! これを主張するため、筆者が触れなかったのは、クラシックは、形式から音楽をみた「前衛音楽」のことである、という根本的な事柄ではないでしょうか。ベートーヴェンから始まり、20世紀初、リヒャルト・シュトラウスでもって終る、ロマン派の時代。ある程度、前衛性と商売性に均衡がたもてた、この幸福な時代に、クラシック概念が確立します。当然、商売で成功した、前衛とは無縁の「人々を感動させる」音楽は、世界中のどこにでも、通時代的に存在しています。クラシック史≠西洋音楽史≠音楽史であること。そんなのクラシックファンなら、誰でも知っていることでしょう。逆をいえば、「形式」(科学)と「前衛」(進歩)の発見。これこそ、クラシック概念の成立にかかせない。それが、19世紀初、ベートーヴェンに開始されること。それが、産業、政治、哲学、芸術などの、全面的な西洋中心主義の成立と時をおなじくしていることの共時性の意味。ここを問わずしてなにを問うのか??おいらは疑問を禁じえません。「感動」に帰ることを叫ぶ筆者。かれは、ドイツ中心主義を解体することによって、別の西洋中心主義におちいっていることに気付いていない。かろうじて、ジャズが少しとりあげられるだけで、ロックや「J・POP」の歴史は、なにひとつ語られない(演歌のみ【笑】)。クラシックファン以外の、クラシック史の素養がない人間からみれば、なぜこんな議論で反「音楽史」など不遜な形容ができるのか、まるで理解できないのではないか。むろん、西洋音楽史だから触れない、という言い訳はなりたつ。ならばドイツ人が、クラシック音楽史として「十二音音楽」をとりあげ、イタリア・オペラを無視しても、何の問題もないはずでしょう。2004年の山本七平賞受賞らしいけど、なにかの間違いでしょう。イタリア・オペラは、素材が抜群に面白いだけに、残念。評価は、「イタリア・オペラ」史としてのみにしてあります。評価 ★★☆価格: ¥1,995 (税込)人気blogランキング
May 9, 2005
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元・外資系銀行のデリバティブ・ディーラーから、法曹界にトラバーユ。そんな人が、ふとしたことから、衆議院議員・川田えつこ(HIV患者川田龍平くんの母)の政策秘書になり、永田町の内幕をのぞいてみました…たいへん素敵な政界エッセイになっています。「秘書」の生態についても、なかなか勉強になります。代理出席。通訳、カメラマン、速記者、ゴーストライター…議員秘書の肩書で金を集め、マージンを政治家に上納する、与党の秘書たち。多様な秘書の生態とくらべて、あまりにも硬直的な公設秘書制度。改善のための私案は、なかなか興味深い。政治はどのようにおこなわれているのか。「多すぎる!」と最近与党が問題にした、「質問主意書」の重要性。与党・野党の駆け引きにつかわれる、法案の「のりしろ」とは?特別委員会委員長の回り持ち。官僚との出会いの場、国会連絡室…また、無所属候補の選挙戦模様をえがいた最終章もいい。原則自由な政治活動は、選挙期間だけ制限される。届け出順はくじ引き。「たきだし」の下りなどは、市民の政治参加の原点を考えさせてくれます。現場からの報告は、光彩をはなっています。なにより、ジメジメした人間関係を嫌う、著者ならではの軽快な語り口が、ここちよい。できれば、墓場にもってゆくことなく、ジメジメした無所属候補の裏話をいつか書いて欲しいと思いますが…とりあえず、お勧め。評価 ★★★価格: ¥777 (税込)人気blogランキング
May 8, 2005
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フジタは影~♪サラの影~♪…し、失礼。ファンから悪評プンプンのアニメ版放映中。それなのに、ギャラリーフェイクの連載はなぜか終了。おまけに最終巻。13年ものロングラン。さすがに有終の美でしたね。モナリザあり、香本あり、ラモスありと役者が勢揃い。ただ、まあ、なんといいますか、後半は芸術版「美味しんぼ」というのか、「芸術で人とのイザコザも仲直り」というのが続いてしまい、かなり惰性で読んでいましたね。小技がきいていて面白いのはたしかだったけど。ラスター陶器とか、「ガウディの影武者」ホセ・マリア・ジュジョールとか、初期の頃は芸術面でみても、純粋に面白い作品が多かった。いや、所詮『ゼロ』ファンの戯れ言かもしれませんが。まあ、サラとフジタがむすびつく、お決まりのラスト。となると、『ニーベルングの指輪』よろしく、愛か世界かを両天秤にかけて、なおかつ主体的に愛をえらびとる、という決断のシーンが、物語をすすめていくためにも必要とされるでしょう。感動のカラクリは、なんといってもまさにここ。しかし、相手がサラじゃねえ……いや、サラがいくない、といってるのではありません。所詮、何枚もこの世にあるモナリザとサラとではさあ。サラ、美人だし、気だていいし、おまけにQ首長国の石油富豪の娘だし…。誰だって、迷うなんて、あるはずがないじゃありませんか。このラストは失敗なのではありませんこと、細野さん。オホホホホ。「さすがの猿飛」の魔子と肉丸のラストの方が、よほど感動的ではありません?操られてる魔子に萌えていただけなのかもしれませんが、、、「魔動王グランゾード」のラビよろしく、、、追伸 そういや、「愛しのバットマン」の最終話ってどうなったんだろう。 長島茂雄を卑劣にしたようなキャラが出てたので、 ずいぶん好きだったのに。。。評価 ★★★価格: ¥530 (税込)人気blogランキング
May 7, 2005
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(承前 昨日の日記)つかのま、1927年の武漢に出現した労働者・農民(プロレタリアート)を主体とした政治体制に、「民主主義的独裁」なる概念をあたえて「人民中国」の起源、「毛沢東革命」の原点をみてきた、従来の中共の公式史観。それに対して筆者たちは、決して軍事的にも優勢とはいえなかった右派・蒋介石陣営と、右派の予想できた政変に対処できなかった左派・武漢政府陣営、という2勢力のヘゲモニー争いを詳細にあきらかにしていきます。過熱化する革命運動。それによって、商工業の破滅的惨状と、ナショナリズムで連携していた武漢政府陣営内で資産階級と無産階級の内部分裂がひきおこされてゆく。やがて「労働者の工場管理」「土地均分」「資産没収」にまでいきついた階級闘争と民主化、この2つの課題の「調整の失敗」に武漢政府崩壊の原因をみようとする筆者。そこから、旧来否定的にとらえられていた反革命の蒋介石・南京政府や、分裂させないため武漢政府に妥協しつづけ「民主主義的独裁」の芽をつんだとされた、陳独秀・コミンテルン路線への、中共の一方的な評価に疑義をとなえてゆきます。蒋介石らの南京国民政府は、資産階級の利害を吸収したナショナリストの政権であること。国民革命は、「未完の革命」に終ったこと。なぜ、汪兆銘ら国民党左派は、1937年以後の日中戦争のとき、日本の傀儡(かいらい)政権に参画してしまったのか。なぜ中共は、その後、都市・農村蜂起路線に走ったのか。その淵源に筆者は、武漢時代の大衆運動にこりごりさせられた国民党左派の大衆不信をみるとともに、階級闘争の不徹底をよぎなくされた中共とコミンテルンの武漢期の自己「否定」をみようとします。そうじて、やや古さがめだつ理解といえるかもしれません。しかし、1920年代の「国民革命」の成果や課題の継続として、1930年代~1940年代の中国史をとらえようとするのは、現在ではスタンダードな見解といってよいものです。それは、1949年の「中国革命」=中華人民共和国の成立についてまで、それを「国民革命」として把握しなおそう、という試みとさえいえるでしょう。ここでは、建国初期の「社会主義」「人民中国」でさえ、中国ナショナリズムの変奏にすぎないのです。いささか、突拍子もないような議論のように、感じられるかもしれない。とはいえ、今もなお中国には、「民主化」の達成という課題が残されているという筆者たちの理解に、疑義をとなえるものはいないでしょう。 ただ本書の白眉は、こうした中国ナショナリズムの通史的理解そのものにあるのではありません。国共合作。国民革命。熱い、変革をめざした人々の肉声が再現されているのです。中国のナショナリストの熱い思いを再現するために、1925年3月12日、肝臓ガンのため北京で倒れた、孫文のソ連の指導部宛遺書から、煩瑣をいとうことなく引用してみたい。 ソビエト社会主義共和国大連合中央執行委員会の同志へ 私は不治の病に伏しておりますが、わが心は今あなたがたのこと、わが国 の将来のことに絶えず馳せ巡っております。あなたがたは、自由な共和国 連邦の指導者です。その自由な連邦は、不滅のレーニンが被圧迫民族に残 した世界的な遺産です。帝国主義下の難民はそれを頼りとしてみずからの 自由を保衛し、古来からの人を奴隷となす道理なき国際制度からの解放を めざしています。私は残していく国民党に、帝国主義制度より中国および 被侵略国を解放する事業を完成するにあたり、あなたがたと一致協力する よう希望しております。(中略) 親愛なる同志のみなさん。あなたがたとの訣別にあたり、わたしは強い 期待を禁じえません。まもなく中国に夜明けが訪れるでありましょうが、 その暁にはソ連邦は良き友として、同盟国として強盛なる中国を歓迎して くれるでありましょうし、中ソ両国は世界の被圧迫民族の自由への偉大 な戦いに手をとって馳せ参じ、勝利を収めるでありましょうことを希望 してやみません。 心から兄弟としての友誼を表します。あなたがたの平安をお祈りします。 (同書333頁)われわれはすでに知っています。中国に「夜明け」がこなかったことを。各国の共産党は、ソ連の国益の道具にすぎなかったことを。ソ連は、被支配民族に残した遺産ではなかったことを。共産主義は、あらたなる圧迫にすぎなかったことを。コミンテルンが孫文にもとに派遣したヨッフェは、その幻影に殉じるかのごとく、スターリンによるトロツキー派の粛清をおそれ自殺。それは、中国人や活動家がコミュニズムにいだいた、あまりにも美しい誤解への、冷酷な現実からくわえられた復讐なのかもしれません。否、日本が共産主義にいだいた誤解も、また然り。最後、本書はこのように語ります。 戦後日本の民主化過程で、不戦と非軍備、国民一人一人の基本的人権と 民主的権利などの高遠な理想を掲げるがゆえに、自主解放と人間的生存 と自由を達成したかにみえた新中国に熱き思いを託してきた立場の人々 からすれば、…(中略)なぜ人々は、日本人をふくめて、新中国へ、人民中国へ、といざなわれていったのか。これほど、的確にまとめたものは、みたことがありません。そして以下の展望がしめされ、締めくくられています。 植民地支配と家父長的支配に規定された後進性克服の課題、政治権力の 獲得が先行したことによって残された課題、つまり生産力などの経済的 解放と「民主と人権」などの政治的人間的解放との緊張関係の課題を 「社会主義」「国民国家」の変容と再編過程として動態的に把握しなおす ことが、われわれに求められている。 あくまで、中国の「社会主義」が「解放」として、この書ではとらえていることがわかるでしょう。かつて「人民中国」に惹かれた人にとっては、現代中国とは苦々しい存在であることを言外に滲ませつつ、筆者たちはギリギリまで今の中国を「社会主義」「解放」の枠内で把握しようとする営為を止めようとはしないのです。だからこそ、この書は不滅の意味をもつ。なぜなら1942年、43年に生まれた筆者は、中共による社会主義の「解放」と「民主」を、肌で体感できた時に青春をおくった、最後の世代だからです。彼ら以後の研究者からは、体感できた「解放」「民主」の「社会主義」から、現代中国を問いなおそうとする動機は、生まれてくるはずがありません。あったとしても、それはアカデミズムとは無縁な、政治・ジャーナリスティックな言説でしか、ありえないでしょう。本書は、おそらく新研究によって、実証レベルでは、今後乗りこえられてゆくかもしれません。だからこそ、「解放」と「民主」の同時代的共感から、極限まで「解放」の先に現代中国をみすえようとする行為は、あまりにも尊い。なぜなら、中共は国民党が解決できなかった課題の克服という輿望をになって大陸を制覇したように、現代中国の行き先は、中共が解決しえなかった「解放」「民主」の彼方にしかありえないことは、あまりにも自明のことだからです。われわれは、中共が「解放」と「民主」であることを理解できない。理解できている人には、やや古さの目立つ「国民革命」の通史にしかすぎません。そういう方には、星一つ分、減らした評価にしてほしい。しかし、理解できていない人には、現代中国のナショナリズムの淵源として、または中共支配の終焉の先になにがあるのか、その一つの有力な回答として読まれるべき、アカデミズムの側からわれわれに届けられた、屈指の著作のひとつだとかんがえています。評価 ★★★★☆価格: ¥4,935 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 5, 2005
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中国共産党は、民主と解放を人民にもたらした、輝ける政党である。こんなあたりまえのことが、我々はもはや理解できない。文革前は、皮膚感覚で体感できた。日本で礼賛されたのはそのためです。文革後は、理解が必要な概念になった。1991年ソ連邦が崩壊してしまうと、もはや理解すら容易でなくなってしまう。これはまことに憂慮すべきことだ。中国各地でおこなわれる中共の「独裁」と「抑圧」の側面のみに着目し、かれらのスローガン、「民主」と「解放」をただのお題目としちゃう思考法。そうなると我々は、そのスローガンと実態の乖離をうめるための何かを、ついつい中国国内にもとめがちになるでしょう。それは、一昔前なら毛沢東など指導者のカリスマ。昨今では、はやりの「反日教育」「愛国主義教育」とやらになってしまう。こうした思考法には、民衆の思いがスッポリぬけおちてしまうだけではすまない。中国共産党支配がつづく理由は、ただの「強権」になってしまう。チベット、公安、エトセトラ。マスメディアをにぎわす強権支配の報道。「官製デモ」などの表現は、その代表でしょう。これでは、今もなお中共に民主と解放の夢を託し、その支配に正統性をみとめる人々が、我々の視界から消えうせてしまう。人民は、被支配者になってしまい、主体的参与者としての地位が奪われてしまう。中国共産党は、どこまで「民主」「解放」を人々にもたらし、なにをなしえていないのか。現在ほど、その見極めがもとめられている時はないというのに。この書はいささか古い。1997年に出版されています。五四運動とその挫折からはじまった、1920年代「国民革命」の通史。中国ナショナリズムの勃興とそのバックグラウンドについて、その現代的意味について、あますところなく描かれています。国民と国民国家の創造を課題とした、近代中国。ざっと、この時期のおさらいをしておきましょう。1911年辛亥革命、1919年五四運動の挫折の後、「連省自治」「国民会議」など、さまざまな改革の流れがあらわれました。しかし、直隷派、奉天派、安徽派などの軍閥のまえに敗退してしまいます。1923年、国会議員買収事件がもちあがり、中華民国の憲法体制そのものに失望させられ、人々は国家体制そのものの変革をもとめるようになります。1921年の創設時、わずか100名未満にすぎなかった中国共産党は、「上海-広州」のラインを軸に、国民党を結節環とした広範な「国民連合戦線」という変革戦略をさぐりあて、20年代に飛翔のときをむかえました。今年4月、連戦主席の訪中で脚光をあびた国民党は、そもそもソ連共産党に見習って、1923年に「改組」された政党であること。孫文・ヨッフェ共同声明の衝撃。コミンテルンの積極的な関与によって、共産党員の国民党への加入という形で、1924年「国共合作」(第一次)が発足したこと。孫文は、全国的統一への傾斜とともに、広東地方の指導的階層の支持を失いつつあったこと。1925年、五三〇事件と省港ストライキによって、空前の労働運動・農民運動の高まりと、上海・広東における共産党勢力の急激な拡大がみられたこと。この後、左右両派の「国民革命」をめぐる、激烈なヘゲモニー争いがはじまったことが、この書ではわかりやすく解説されています。1926年7月、北伐開始。労働者と農民が各地で蜂起して、快進撃をつづける蒋介石率いる国民革命軍。1927年1月、漢口・九江租界の実力回収。3月、南京事件。その運動の頂点で、1927年4月12日蒋介石クーデターと同4月、南京国民政府成立。「容共」から「分共・反共」への転換。この後、国共合作は崩壊をむかえてゆきます。国民党左派・中共は、なお武漢国民政府において合作を維持するものの、運動の急進化によって国民革命そのものが掘りくずされてゆく。27年7月、国共合作の消滅。8月、蒋介石の下野をきっかけとした、9月の武漢・南京国民政府の統一。それにともない、1928年2月の北伐再開。28年5月、日本の山東出兵による済南事件。6月、関東軍の張作霖爆殺。7月6日、孫文の墓前へ、北伐完成報告がおこなわれ、12月張学良の「易幟」によって、「統一」が達成されます。そのあいだ、27年8月1日、後に人民解放軍の建軍記念日になる、南昌蜂起が決行されます。中国共産党は、あらたなる戦いへ入ってゆくのです。8月7日、陳独秀は欠席裁判で指導権を剥奪され、中共は都市と農村で武装闘争路線に入っていく。それは、コミンテルン側が蒋介石クーデターを防げなかった責任を陳独秀になすりつけたものでした。(2へ続く) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 4, 2005
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1999年2月、読売新聞社が中央公論を買収したとき、だれしも自由な社風でしられた中央公論社のゆくすえを危ぶんだものだ。たしかにその危惧は、現実のものになりつつあるようです。買収された直後に、ヨーロッパ中世史家(!!)に書かせたクソ本、鯖田豊之『金(ゴールド)が語る20世紀―金本位制が揺らいでも 』(1999年3月)がその前触れだったのでしょうか。あとは、可もなく不可もない、クソ本がでるわでるわ。20年間、愛し続けてきた中公新書、、、『南京事件』『謀略の伝記』『アヘン戦争』『ラジカルヒストリー』『渡来銭の社会史』『黄金太閤』『テクノヘゲモニー』『物語 イタリアの歴史』…中堅の専門家が、全力で世に問うた、往年の魅惑の力作たち。もはや今の中公新書には、このような著作は望むべくもないのか。それとも私の目が肥えて贅沢になってしまったのか。あのころは、毎月、中公新書が店頭にならぶ日を楽しみにしていたものです、、、昨年は、『言論統制』、一昨年は『教養主義の没落』がかろうじて評価できるくらい。今では期待するのは、ちくま新書のくらいです。ともあれ本作も、ゴミ売新聞に汚された中公新書、という期待にこたえてくれます。読売新聞は日露戦争の勝利を顕彰したいだから「日露戦争100周年記念」にまにあわせなければならない。それは、株主の意向なんだから、仕方がない。あわただしく、日本海海戦の5月28日にあわせるかのように出されたのは許す。しかし結局、なにが言いたかったんでしょう。冒頭にはこうある。どうして開戦したのか、その原因がわからない。なぜロシアが負け日本が勝利したかがわからない。日露戦争はどのような帰結を生んだのかがわからない。だから、3つについて考察してみようという。まともな日露戦争史の本なら、この3つのクエスチョンにはたいてい答えている。たんに、筆者が知らなかっただけだろう。たとえば、帰結。日本では、日比谷焼き討ちをへて普選運動につながるという。そんなのとっくに知られたことじゃないか。むしろ、常識すぎて、こんな恥ずかしい回答など出せやしない。最初の2つの疑問にいたっては、結局決定版といえる答えは、しめされてすらいない。いいたいことがないなら書かないで欲しい。こんなもので印税もらうとは…読売新聞はお金がありあまってしょうがないらしい。ナベツネ新聞不買運動で締めあげねばなるまい。ともあれ途中は、なかなか興味深かった。地図作成の競争。韓国・中国をめぐる日・ロシアの角遂過程。ウィッテと全権大使との間のいきづまる外交交渉の紹介。日本側の考えは、荒いながらも復元されてゆく。ところが、肝心のロシア帝国の意志決定過程が、この本からはさっぱりわからない。たんにウィッテ退場くらいでお茶をにごしてしまう。この書は、1937年スターリン治下にかかれた、戦史研究家アレクサンドル・スヴェーチンの日露戦争史に触発されて構想したらしい。ならば、どうして、ロシア側史料を駆使して議論することをしないのか。もし、ロシア側の資料公開・資料残存に限界があるというならば、むしろソ連側からみた日露戦争史、にでもしたほうが、意表をついていてはるかに面白かったであろうに。全面的に先行研究に依存しておいて、何を論じたのだろうか。おそらく、読売の命令に答えてくれる、中堅の歴史家がいなかったので、横手氏にでも白羽の矢が立ったのであろう。憐憫を禁じえない。読売に振りまわされ、汚されてゆく中公新書。つつしんでお悔やみもうしあげたい。評価: ★★価格: ¥777 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
May 1, 2005
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