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(承前)11月、総長辞任とともに選出された東大新執行部は、すでに強硬姿勢に転じていた。その中で、あらわれはじめた脱落者。法・経・教養学部では、ストライキ解除決議がとおる。医学部も、「あかつき部隊」護衛の中で理学部棟で学生大会をひらき、解除決議をおこなう。両派の乱戦が続く中で、単独では日本共産党は安田講堂を解除できない。刻々とせまるタイム・リミット。翌年1月10日、大学当局は「七学部代表団」と「10項目の確認」をとりかわして、警察力導入の準備をととのえる。この茶番劇で議長をつとめ、警察に全共闘を売り渡した人物は、なにあろう、非日共系の経済学部闘争委員会書記局、町村信孝・前外務大臣という。変節するゲスは、どこまでいってもゲスなのか。我が身可愛さに、「権力に弱い」東大生はつぎつぎと逃げ散ってゆく。しかし、決着はつけなければならない。だれかが安田講堂に赴かねばならないのだ。義に殉じた東大生、その志願兵の数80名。そのまぶしさには、おもわず言葉を失う。志願者をつのる重苦しい選出会議。そんな中、大挙押しよせた、20名の法学部自治会の連中たち。彼らのため、筆者は泣くのだ。籠城戦とは、あらかじめ義人を人生の栄達から排除するためにあったのかもしれない、と。「義」は指導的地位にたって発揮させないと意味がないではないか、と。その後の闘争指導のために講堂外に残るもの、講堂に籠城するもの、逃げ出すもの…それはその後の人生を左右する運命の分れ道でもあった、そう筆者は語る。1969年1月18日、安田講堂の攻防戦がはじまる。同じ頃、駒場キャンパスでは、日共側の全共闘バリケードに対する総攻撃が始まっていた。本郷キャンパスで激突する、学生と機動隊、双方の若者たち。極寒の1月、水に沈む講堂。電気も食べ物もない、籠城側。学生と支援者たち総勢500名の、孤立無援の2日間におよぶ戦い。死を覚悟した学生たち。学生と機動隊、火炎ビンとジェラルミン楯の戦い。降り注ぐ消防車の放水は、まるで戦いの場を清める聖水であるかのようだ。物語は劇的なクライマックスまで濃密にえがきだす。落城後も続く、はてしなき戦い。涙なくして、読むことなどできはしない。ここからは、本書をお読みになって、ぜひ落涙して欲しい。みなさんは、共産主義臭があまりしないこの紹介文を読んで、不思議に思われたかもしれない。実際、あまり感じない。むしろ、横溢しているのは、社会への熱い義憤である。かれら全共闘は、「ワルシャワ労働歌」「インターナショナル」とともに、「唐獅子牡丹」を愛唱していたという。革命の頂点において、自らを「反革命」として燃焼させんとする、『楯の会』三島由紀夫たちへむける、共感をこめた暖かいまなざし。学生と機動隊双方に死者がなかったこと喜ぶ昭和天皇への共感。愛において、「革命」は「反革命」と和解したのだ。ともに、この大地にすむ『同胞』ではないか! なぜ、腐りきった大人たちの命令のもと、若者たちが血を流さねばならないのか! その叫びに答えはない。それにしても、なんと戦慄させられる民主の実践であることか!!。渾身の力を振り絞って、徹夜でガリ版を削り討議する学生たち。彼らは、議案をつくり、ビラをくばり、最後の最後にいたるまで、投票による決着をつけることをやめようとはしない。「安田講堂占拠」「安田講堂の攻防」がデモクラシーにもとづいて実践されていることに、注意を向けてほしい。 今の国会など比較にならないくらいの討議が、毎日のようにくりかえされ、積みあげられてゆく。そこに、最初は雲間から顔をのぞかせた程度だった内ゲバが、やがて猛威をふるうようになるのだ。民主的実践も頂点に到達すると、それは暴力への道も、同時に開いてしまうものなのか。全共闘以降、我々日本人は、民主の実践に疲れてしまったのかもしれない。全共闘の突きつけた課題は、あまりにも重い。なによりも、「徹底した自己否定」が、今となっては新鮮だ。はじめて読んだ人間は、政府・大学・東大生、そして現代日本社会への批判を止めぬ姿勢に、不快感を覚えるのではないか。なにさまのつもりか、おまえと。それは違う。未来を捨て、自己の特権を否定して、生まで捨てることを覚悟しなければならなかった地平から、この批判は放たれていることを忘れてはならない。その刃は、なによりも自己に向けられているのだ。あの日、なぜ、我々は日本共産党系と共闘できなかったのだ…なぜ日大全共闘は体育会と提携できなかったのか…それが現実化できれば、今の日本はもっといい国になったはずなのだ… 後悔と激烈な糾弾の嵐。否定できるにたる何かをもっていない人間は、いったいどうすればいいのか。いささか疑問であるにしても。東大出身の権力者の歪んだ姿に、自分たちの行く末をみた東大生たち。蜂起は潰えた。バリケードの日々はすぎさり、警察国家の網の目が日本を覆いつくす。今や学生運動さえ、忘れ去られようとしている。保守的イデオロギーの洗脳によって、なぜ彼らは蜂起したのかさえ、理解できなくなる時代が訪れようとしているのだ。 君は、バリケードが三日しか続かないことをもって、国家と人民の共犯 関係を告発する。しかし、ちがう。そうではない。バリケードが三日し かもたないのは、蜂起した群集が我身可愛さで無秩序に逃げ戻るから ではない。人間がそこで、弱い眼には耐えられない真実の輝きに眼を 灼いてしまったからなのだ 希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、灼熱の太陽 を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三 秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のようにも深く味わいつく すことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、恐れを知ら ぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい (笠井潔『バイバイ・エンジェル』より)旅に出ないか。バリケードの向こうにあるという、「真実の輝き」を探す旅へ。失明と死をまぬがれた筆者による希有の書は、今、我々の眼前に差しだされているのだから。評価 ★★★★☆価格: ¥1,029 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 30, 2005
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感動で涙が止まらない。1968年1月18日~19日。東京大学安田講堂における、全共闘と機動隊の攻防戦。絶大な権威を誇った帝国大学総長の地位が、たかだか一警備課長以下の地位に転落した、あの歴史的な事件。このとき、安田講堂に立てこもった人物による、「東大紛争」の発端から終焉までを描いた新書が出版された。「本郷学生隊長」を任せられ、三派全学連(中核派、社会主義学生同盟{ブント}、社青同解放派)のひとつと関係のあった人物による、稀有の証言記録。その戦いは、涙なしには読めない、壮烈な「義」の物語になっているのだ。発端は、些細なことだった。青年医師使い捨ての「インターン制度」をまったく改善しようとしない、政府。国家試験ボイコット運動が各大学で高まり、1968年1月、東大医学部は無期限ストライキに突入する。要望書を提出する際のハプニング。それが、全学レベルの抗議運動に波及してゆく。テト攻勢による北ベトナムの反撃で、泥沼化するベトナム戦争。キング牧師暗殺。エンタープライズ佐世保入港にともなう、反基地運動。三里塚における成田空港建設反対運動。沸騰する世界情勢の中で、彼らは不可避的にかかわってゆく。そんな中で、ひとつの事件がおきた。60年安保でも、大学当局の暴力的な学生管理によって、学生運動の無かった日本唯一の大学、日本大学。そこで、5年間20億円、総額30億円もの「使途不明金」が発覚して、会計責任者はなぞの自殺をとげたのだ。「団塊の世代」で膨れあがっていた大学。私学は、定員の5倍もの学生をつめこんでいたらしい。教室に入りきれないことを前提とした、最高学府の退廃ぶり。日当千円にも満たない時代。苦学生の多い日大。そこに、1学生あたり3万円もの使途不明金は、やり場のない怒りに火をつけることになった。5月、秋田明大(あきひろ)を中心として、学生たちは「日大全学共闘会議」をたちあげる。理事の退陣、経理の公開、集会の自由を要求してデモをおこなう。何千人もの学生の追及を前に、当局はロックアウトで応戦。右翼「学生会議」は、角材を学生にふるい、催涙液をかける。6月下旬、機動隊導入に反発した日大生は、経済学部を奪還、バリケードを築いて、医学部を除いて全学ストライキに突入した。先の見えない東大医学部闘争。日大闘争に刺激されたのか、6月15日、医学部全学闘争委員会は、第一次安田講堂封鎖をおこなう。6月17日、機動隊を導入して排除をおこなった大学当局。これには東大全学が激昂。7月2日、一部学生による安田講堂再封鎖は、工学部・教養学部の「安田講堂封鎖支持」「無期限ストライキ」決議と、「東大闘争全学共闘会議」(東大全共闘:5日)結成を引き出すことに。それは、それまでの各学部・各党派代表によらない、ノンセクト組織の誕生だった。まとめ役の議長に選ばれたのは、理学部院生であった山本義隆。バリケード闘争のはじまりである。『バリケードこそ真実の大学』。そうまで、学生に思い詰めさせていた日大紛争は、1968年9月、その頂点に達した。機動隊のバリケード解除。何千・何万もの学生たちによる再奪還。くりかえされる衝突。医学部まで歩調をそろえる全学ストライキと機動隊員の死。9月30日、たまりかねた大学当局のひらいた「全学集会」は、冒頭「機動隊員の追悼の辞」から始められ、2万人もの人並みによる「大衆団交」に発展。日大の会頭は、辞職を表明。それまでの措置の撤回と自己批判がおこなわれたのだ。日大全共闘の輝かしい勝利の瞬間!!。ところが舞台はただちに暗転。10月1日、佐藤栄作首相「政治問題とする」という声明で、勝利は泡と消えてしまう。日大当局は、全学集会の取り決めを反故し、10月以降右翼・体育会系・機動隊を次々と投入、バリケードへの放火まで始める。それでも日大全共闘は戦いをやめない。その頃、東大闘争も佳境を迎えていた。「10.21国際反戦デー」では、全国各地で30万人ものデモがおこなわれ、10月31日にはジョンソン大統領が北爆を停止する。希望に燃える学生たち。法学部自治会も、学部創設以来の、無期限ストライキ権確立。全学助手共闘会議は、全共闘に合流した。11月22日夜、日大全共闘3000名が、東大安田講堂前に出現して、闘争は最高潮をむかえた。機動隊の包囲をやぶっての、日大・東大両全共闘の感動的な合流。ところが、その絶頂で、またしても暗転してゆく。すでに9月、日本共産党は東大の主導権を奪還するため、宮崎学率いる「あかつき部隊」を投入して教育学部棟を占拠していた。武道に精通したツワモノたちに武装させて、東大構内に他大学在籍者・労働者集団が進駐する。日本共産党・武装集団の出現は、東大内において暴力行為の引き金を外してしまう。以後、全共闘と日本共産党の主導権争いは、壮絶なゲパルト(実力行使)へと変質してゆくのだ。無期限ストライキと安田講堂封鎖を解除させ、東大正常化で佐藤政権に恩を売りたい日本共産党と、『全学封鎖決議』をおこないたい全共闘。双方の提出するあらゆる議案は、ことごとく否決、否決、否決、否決、また否決…。(<2>に続きます 応援をおねがいします)評価 ★★★★☆価格: ¥1,029 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 29, 2005
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日本の「保守派」の連中を見ていると、しばしばうんざりさせられてしまう。「日の丸・君が代」の押しつけ。ジェンダーの押しつけ。こうした、他者の政治的信条への「介入的」な姿勢は、まだ許そう。保守思想とは、そういうものだからだ。ところが、政治的信条に加え、経済分野においても「介入的」で、自由を認めようとしない奴が多い。それは、たんに「権威主義者」「全体主義者」の類にすぎない。見たところ、ほとんどの自称保守は、「権威主義者」「全体主義者」か、かぎりなく「権威主義」に近い「リベラル」ばかりである。国家にすがりつく自称保守。この形容矛盾をみるたびごとに、あまりの情けなさに泣き出したくなってしまう。そんなとき、「精神の平衡」を保つため見るのが、アメリカ・ハリウッドの『西部劇』なんである。『西部劇』はいい。コミュニティがある。家族がある。敬虔な男たちがいる。友情がある。なによりも、はちきれんばかりの自由がそこにはある… 本日ご紹介するのは、10月、廉価版「DVD」として販売されたばかりの、往年のジョン・フォード監督の名作中の名作、『リバティ・バランスを射った男』である。ある日、上院議員ランス・スタッダード(ジェイムス・スチュワート)は、シンボーンなる駅に降り立つ。大統領候補ともいわれる男が、何故、こんなひなびた町に来たのか。それは、忘れられた西部の男、トム・ドニファン(ジョン・ウェイン)の葬式に立ち会うためだという。まさか。納得しない新聞記者たち。そこで語られる、鉄道開通前の「西部の物語」…ランスは、西部へ目指してやってきた、若手弁護士。ところが、その途中、西部の荒くれ男、リバティ・バランスたちに襲われ、金品を巻きあげられたばかりか、瀕死の重傷を負ってしまう。かれは、牧場主にして名ガンマン、トム・ドニフォンに助けられ、彼と恋仲であった、ハリー嬢の家に連れてこられ、彼女の献身的な介抱をうけることになる。やがて、傷がいえたランスは、彼女の両親(スウェーデン系移民)が経営する食堂で皿洗いを手伝うとともに、自分を襲ったリバティ・バランスに「法の裁き」を食らわせることを誓う。ところが、トム・ドニフォンには笑われるだけだ。「西部では銃だ」と。リバティ・バランス相手では、シンボーンの保安官もおびえるだけ。まったく手が出せない。歯ぎしりするランス。その硬骨で生真面目な人間性を理解して、次第にランスに恋心をいだくようになる、ハリー。ある日、この町が属する準州で、州に昇格させようという動きがおきる。この町の人々は、準州であることによって、牧畜業者に農地を荒らされて困っていたからだ。ところが、準州の北の牧畜業者は、「州昇格」に反対して、リバティ・バランスを雇って、シンボーンの選挙人集会を襲わせることにした。選挙人集会での対決。ところが住人は一同、この集会で議長をつとめていたランスを下院議員に推薦してしまう。リバティ・バランスは敗れた。そこで、ランスにこの町から退去せよとせまり、両者は「決闘」になってしまう…なんといっても、ジョン・ウェインの枯淡の味わいが光る。これほど「壮年男の哀愁」が漂う西部劇は、見たことがない。こんな男になりたいものだ。男なら必ずそう思うだろう。なによりも、素晴らしいのが、ランスの「授業シーン」と、シンボーンの町の「選挙人集会」なのだ。ランスは弁護士で知識人。そこで彼は、字が読めないハリーと子供に塾をひらくことにする。目を輝かせてランスから学ぼうとする生徒たち。アメリカが共和国であることを、市民の国であることを誇らしげに復習する生徒たち。選挙人集会になると、もう涙ものというほかはない。何百人もあつまった集会場では、トム・ドニフォンが顔役だ。実にアメリカ人らしく、ジョークを交えながらも、みごとに議事を仕切ってすすめてゆく。みんな、まったく対等。しかも、巧みなリーダーシップもあって、言いたいことを遠慮せずいいあって、ちゃんと収まるべき所にまとまってしまう。集会当日、ハリーの父の姿の素晴らしさを見てほしい。手に入れたばかりと思われる、ピカピカの合衆国市民証を手にして、着飾って選挙人集会におもむくのだ。19世紀後半、一票を行使することは、なんと重みがあったことだろう。その姿を誇らしげに眺めて見送る家族たち。ジョン・フォードの描く「草の根民主主義」の素晴らしさ。デモクラシーを愛するものにとって、これくらい泣ける映画はないのではあるまいか。この映画は、巨匠ジョン・フォードのターニングポイントになった映画としても知られている。皆さんは、信じられるだろうか。この作品は、一人としてインディアンが出てこない西部劇であることを。映画史上に残る傑作、『駅馬車』(1939年)。それは、「ジョン・ウェイン主演の最初の西部劇」「インディアンのすさまじい追撃戦」として有名な作品だが、インディアンをバッタバッタ殺しまくった残忍な映画でもあった。それが騎兵隊三部作(1948-50)から、少しずつ消えてゆく。『捜索者』では、インディアンへの復讐にもえる残忍な一匹狼、ジョン・ウェインを描きあげ、とうとうインディアンのいない西部劇へたどり着く。この翌年、ジョン・フォード監督は『シャイアン』を送り出す。それは、インディアンを主人公として、シャイアン族の流浪の旅をえがいた作品であった。『西部劇の神様』ジョン・フォードのたどり着いた、旅路。西部劇はアメリカの恥部、なんて言わないでほしい。ぜひ皆さんも、その素晴らしさを味わってもらいたい。評価 ★★★★価格: ¥1,575 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです 追伸『リバティ・バランス』は白黒映画なんで、いまいちジョン・フォードの真価『映像美』を理解しにくい一面があります。ジョン・フォードの映像美のなんたるかを堪能したい方は、こちらの『捜索者』をごらんください。唖然とさせられるほどの、モニュメンタルバレーの素晴らしさ。必ずやノックダウンされることでしょう。 評価 ★★★★☆価格: ¥1,575 (税込)
Nov 27, 2005
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さわりをまとめてみよう。恋愛資本主義社会では「見えない存在」であり「無価値」であった「萌える男」オタクたち。萌える男は自分のために消費する存在だからである。それが、『冬のソナタ』に代表される「純愛ブーム」を媒介にして、昨今、にわかに注目されるようになり始めた。莫大なオタク系市場の存在が明らかになってきたからである。既得権益をもつ恋愛資本主義はどうやっても排除できないので、これらの取り込みをはかった。「電車男ブーム」は、恋愛資本主義のルールを「オタク」に注入するための、恋愛資本主義システムの仕掛けなのだ………参ったね。とうとう、こんな本が出ちまった。語るのが辛い本だ。立場を明かさないのはフェアではないので、あらかじめ書いておくのが礼儀かもしれない。小生は、「萌え」概念がこの世に現れる前、「腐女子な男」(要するに「やおいO.K.」の少女漫画ファン)にトラバーユしてしまった。その経緯があるので、今では「萌える男」でも「萌えない男」でもない、なかなか微妙な立ち位置にいる。とはいえ、それ以前は、彼らとは『「萌え」のプロトタイプ』のような概念を共有していたはずなのだ。その小生からして、実に読むのが辛い。もっとも、グチばっかり垂れていても仕方がない。批判はさておいて、内容を要約しておきましょう。● 「萌え」は脳内で生き延びた純愛主義の末裔である● 恋愛では美男美女でなければ結婚できない大正期輸入された西欧の恋愛は、もともと貴族階級の女性を神のように崇拝するものであって、「萌えの起源」とされる。「個人の自我の安定」と「家族の形成と維持」を保証する機能が、キリスト教「神の死」によって果たせなくなったとき、かわりに「恋愛における恋人」が<絶対者>の位置につく。ゲーテ、ダンテ、宮沢賢治は「萌え」の先駆者らしい。また「萌え」とは、「女性」にも、「宗教」にも癒されない人の信仰であるとされる。● 恋愛資本主義社会に背を向けた「オタク」「萌える男」● 「萌え」とは、想像力によって作られた「脳内恋愛」である1970年代、社会革命に絶望した若者が、逃げこむ先であったパーソナルな関係、「恋愛」。それは、1980年代バブル期の時代、資本主義にとりこまれ、「商品化された恋愛」に変容する。「恋愛ゲーム」のルールに基づいて、恋愛偏差値を競いあう「恋愛資本主義社会」においては「恋愛=セックス」の結合も同時に崩壊してしまう。その結果、セックスも商品化として「ライト風俗」「援助交際」「やらハタ」などの風潮を生む一方、「恋愛できる人」「できない人」の2極分化が進み、恋愛資本主義ピラミッド<モテる男←女←モテない男>(矢印は金の流れ)の、いわゆる「搾取の構造」が生まれてしまう。「萌える」「萌えない」の2極分化もすすみ、「恋愛できない」人特有の犯罪、「ストーカー犯罪」が「萌え」と結び付けられ気味悪がられる。その一方、狩猟社会だった影響なのか、極端な「萌えない」人特有の輪姦などの重大犯罪を甘く見逃す発言がたえない。● 萌える男は、メイド服・猫耳・しっぽなどの記号に萌えるのではない眼鏡っ子萌えのどこが、高望みか。そう語る筆者は、オタクが女性に高望みしていないことを強調する。女性こそ男性に高望みしているのだ、と。エヴァンゲリオンは、SF・ロボット・萌えキャラというサブカルの集大成であったものの、それがゆえにオタク全否定をおこなったことは、大きな傷痕をのこすことになった。サブカルでは、忍者からSF(超能力からロボット)へ行くものの、アニメ機動戦士ガンダムでさえ、恋愛に回帰してしまった歴史をもっていた。恋愛至上主義では、レゾンデートルもトラウマも癒せることになっているので、恋愛できない人は癒されることがなく、悩むほかはない。そうした中で、萌えゲーム「ONE」「KANON」「痕」では「恋愛によるレゾンデートルの再生」「トラウマの自己治癒」がおこなわれ、ルサンチマンを昇華して鬼畜化を回避する機能が果たされているという。● 萌えは恋愛や家族を復興させようとする精神運動である『恋愛→結婚→家族』の一連の流れが、「恋愛の商品化」によって、功利主義になり、各所でその流れが寸断されている。恋愛資本主義は、「生涯恋愛」を必要としているころも大きい。壊れていく家族。これをラジカルに治癒するには、一連の「妹萌え」「家族萌え」こそ参照されるべきである。恋愛できないことで自分を責め、救われないことを避けよう。萌えとは、現実逃避ではない。社会へ「萌え」を逆転送して社会をかえてゆかねばならない。家族で「脳内恋愛」=萌えあうのは本来、家族のあり方ではなかったのか…。2次元と3次元を使い分けよう。自己幻想の時代が到来するのだ。精神世界で自己救済をおこなってもいい、そんな社会にしなければならない。(まとめ終了)……小生、とんとゲームには疎い。おまけに「萌え」がさっぱり分らない。「『マリ見て』は妹萌え」「萌えは男性性からの解放を目指す(本当か?)」「岡田システム」など、教えられることも多かった。「派遣メイドさんサービス」なるものがあることも初耳である。しかし、これはひどすぎやしないか?ネタじゃないのか?本気なのか?と確認させられたくなる代物であろう。そもそも、東浩紀『動物化するポストモダン』を執拗に批判しているものの、自己幻想で充足してしまえば「コジェーヴ=東」の定義では「動物化」ではなかったか。唯脳論にしても、所詮は「女はない」などの先行理論を気をきかせて敷衍した考えにすぎまい。そもそも礼賛・批判する前提、相手の本を読んでいるのか、疑問に感じてしまう。また、「オタク資本主義」に包摂されているご自身が、「恋愛資本主義」に「萌え」が汚染されることに警鐘をならしても、まったく説得力があるまい。恋愛資本主義に背をむけたのが「萌え」。それならば、拒否すればいい話ではないか。もっとも恐ろしいことは、「萌え」が汚染されることではない。『恋愛資本主義の仕掛け』た「電車男ブーム」が、実は「オタクたちを対象としていない」こと。「オタクたちの存在を消費するために、恋愛資本主義システムの住人たちに仕掛けられたのかもしれない」ことにあるのではないか?。 社会の珍獣としてのオタク消費もまた資本主義。その冷酷な可能性が、ブームに浮かれたのか忘れさられていることは、「萌える男」論を説得力のないものに感じさせる一因になっている。さらに訳が分らないのが、「萌え」=「恋愛・家族の復興」だろう。いったい、脳内恋愛ではない「恋愛」がこの世のどこにあったのかはさておくとしても、その前段階恋愛できず結婚できない「萌える男」は、どうやって社会に逆転送して、「家族を復興」することが可能なのか。「脳内恋愛」=萌えである限り、それは恋愛ではない。「脳内恋愛」=「萌え」者同士が「結婚」「家族」を作ったとしよう。もはやそれは、「三次元の世界」であって「萌え」ではあるまい。そもそも幼少期、家族関係に問題をかかえていた筆者に、「家族に萌えよう!」などと言われても困る。あまり言いたくはないけれど、家族に萌えられなかったから、あなたの家に問題が起きていたのではないのか?なによりも許せないのは、「乙女回路」もさることながら萌えない男とは、セックスしたいのでとりあえずくどく。萌える男とは、非暴力主義、男女平等主義、純愛主義で、正しい。萌える男は、想像で充足して他人を傷つけない進化した存在である分りやすく書けば、こうなってしまう図式だろう。いくらなんでもあんまりだ。だいたい萌える男が、いつ宮沢賢治「よだかの星」の心境になったのだ(笑)。永野のりこ『GOD SAVE THEすげこまくん』こそ、かつての「オタク」のバイブルであったことを忘れてはなるまい。 「妹萌え」にしても「家族萌え」にしても、要は心の中の「M1号ロボ」を彫琢する行為ではなかったか? M1号は、「心」の中にとどめずに、「現実」化させたとき、大切な何かを失ってしまう。2次元の脳内恋愛をそのままストレートに反映させても、完璧なる「M1号」にしかならない。「完璧なM1号」と松沢先生との距離は、永遠に消滅しない。その悲喜劇は、「萌え」と「恋愛」との距離と、完全に相似形になっていることにこそ、筆者は注意を向けなければならなかったのではないか? 男性が恋愛対象にもとめるのは、「妹萌え」「家族萌え」「M1号」から、「ペット」「恋人」にいたるまで、「物」なのである。現実化したとき、M1号と違って他の「三次元」が安定するのは、「もうひとつの幻想」が男性に向けて放たれ、支えられるからにすぎまい。オタク男が嫌われるのは、女性への「物」化の欲望が、あまりにもダイレクトの形で示されてしまうからではないのか。男性の恋愛とは女性を「物」に貶め、女性の恋愛とは男性を「皇子」にかえるという。「萌える男」も「萌えない男」も、実践に移すかぎりにおいて、同じ線上に位置しない訳にはいかない。違いは、おそらく実践の有無なのだ。それが忘れ去られている点で、辛い点数をつけた。ご容赦いただきたい。評価 ★☆価格: ¥735 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 25, 2005
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豪華絢爛の副葬品の存在によって、古代エジプトだけスポットライトがあたる古代オリエント文明。現代社会の原点は、書記や法制度などを完備させ、膠着語を話していた謎の民族、シュメル人にある! 本日、皆様にご紹介するのは、そのシュメル文明の興亡について、粘土板を手がかりにいざなってくれる、すばらしい新書です。悠久とテロの大地イラクに眠る、シュメル文明に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。簡潔にご紹介しておきましょう。● 都市国家の「真の王」は都市神。王はその代理にすぎない、シュメル● 紀元前3000年から続くエラム(イラン高原)とのイラン・イラク戦争洪水の心配から「神」をもとめた、肥沃な大地。紀元前3500年頃から都市文明が成立して、都市国家間戦争がはじまる。紀元前2300年頃、南メソポタミアはアッカド人のサルゴン王(アッカド市の所在は不明)によって統一され、アッカド語が公用語となって、シュメル語はラテン語と同様の「話されない言語」になってしまう。紀元前2000年以降、ウル第三王朝の滅亡とともに、シュメル人は歴史から姿を消す。シュメル文明では、意外にも女王は確認できないらしい。またオリエントで有名な「戦車戦」も、どこまで戦場で使用に耐えられるかは微妙だという。戦車から降りて、徒歩で闘ったかもしれないと思うと、笑みがこぼれる。そんな「王」に求められることは、戦争での勝利と、豊穣な収穫。世界最初の「殉死」も、紀元前2100年頃の遺跡で確認できていて、支配-被支配関係を正当化する道徳の創出という、ある種文明的な営みも見られるという。● 円筒形印章の発達したハンコ社会、シュメル● 同害復讐法を採用していなかったシュメル「ウルナンム法典」シュメル人は、元日が春分の日で、ビールを飲んで、平たいパンを食べていた。肥沃な大地での溜池灌漑農法は、排水をせず水が蒸発してしまうと、水酸化カルシウムによる塩害が深刻になってしまう。そのため、大麦が不作でも、栄養価が高く耐塩性の強い聖樹「なつめやし」を運河・河川沿いの果樹園で栽培して、飢えをしのいでいた。条播機つきの鋤での耕作、羊の放牧には山羊が不可欠である、というのも面白い。またヨーロッパは、品質保証などのため「封蝋」したのに対して、シュメルは「封泥」という手法を用いたため、「ハンコ」社会になったという。またイスラム社会にも影響を与えた同害復讐法は、遊牧民社会の掟であって、紀元前1700年代に成立するハンムラビ法典以降に表れるらしい。戦争捕虜には、遊牧技術を応用した、去勢が待ちかまえていて、債務奴隷など身分制のきつい社会だという。中華思想などもあったらしい。● 一般的に読み書きができないメソポタミアの王● 文武両道、新アッシリア帝国アッシュル・バニパル王(前668-627年) 収集の粘土板コレクションの発掘から始まったアシッリア学文字の前段階は、記録用の粘土球(トークン)だったらしい。シュメル楔形文字は、今のアルファベットの起源、エジプト聖刻文字から生まれたフェニキア文字に敗れてしまうものの、長らくアッカド語、古代ペルシャ語、ヒッタイト語などの表音文字に転用された。法律・宗教用語としてのシュメル語は、新バビロニア王国時代(前625-539年)まで使われていたという。日本人の研究者も、『説文解字』の六書の理論を楔形文字の分類に応用するなどして、シュメル研究に大いに貢献しているようだ。粘土板は、欧米の博物館を中心に40~50万枚も残され、解読はこれからだという。専門の書記養成学校が存在していて、世界最古の謎々・学園モノ文学・学習ノートが、粘土板として発掘されているというのだから、驚くほかはない。粘土板から復元されたシュメル社会そんな感が強いためか、各章が国際関係・文字・はんこ社会…などの各領域に分かれ、時代が前後に錯綜して、いささか読みづらい。その粘土板の紹介には、はたしてどんな意味があるのか? こちらがそれを見失ってしまい、読みすすむにつれて、辛く感じられる部分も多かったのも事実なんですよね。また、時代が時代だけに、通史的俯瞰がしにくいこともあるけれど、「はて?古代オリエントって、どんな歴史だったかな??」については、年表の域を出た説明がなされていないのは、明らかなマイナス。なにせ、シュメル史なのに、アッシュル・バニパル王が出てくるんだし…。それなら、アッシリア社会も知りたいのですけど…。シュメル社会を王朝ごとの断代史にして、触れた方が分かりやすいように思えるのだが、はてさて、いかがなものだろうか。とはいえ、この本の「シュメルこぼれ話」としての面白さには、まったく影響を与えてはいません。バクダット市内を流れるティグリス川とは、古代ペルシャ語での「ティグラー」(矢)から来ているが、実はこれ、虎(タイガー)の語源らしい。戦時中、「高天原がバビロンにあった」「すめらの尊はシュメルの尊だ」という俗説に対抗するため、「シュメール」とわざわざ伸ばしたらしい。たいへんなご時世だったことに、心より同情してしまう。また、へび嫌いの西欧・ヘブライに対して、シュメルは日本とおなじく、へびを豊穣をもたらすものとして信仰していたらしい。またバビロニア神話に興味のある方には、たいへん参考になるのではないか。ウルクのイナンナ神は、アッカド語でイシュタル神となって、豊穣と性愛、戦争の女神になった。エテメナンキは、シュメル語の「天と地の基礎の家」という意味で、バベルの塔のモデル、ジグラットを指すらしい。シュメルでは、人々は神のために生きるものとされるものの、ミイラを作ったエジプトとは違い、現世利益を追求したという。「起きるべきほどのことは、すべてシュメルで起きていた」「シュメル語を読むことはシュメル人に経をあげることだ」そう語る筆者は、あくまでシュメルを現代になぞらえることをやめない。われわれ全共闘世代の時代が終ろうとしている、だからこそ、とくに全共闘の世代の人に読んでほしい。そう呼びかける物悲しいあとがきは、胸を打つ。この呼びかけに答えてあげて欲しい、と心よりそう思う。この厚さ(熱さ?)が嬉しい、そんな力作になっています。評価 ★★★☆価格: ¥987 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです 追伸 でもなにより驚いたのは、三笠宮崇仁が紹介文を書いていたことでしょう。まだ生きていたんですね…中公『世界の歴史 第一巻 古代オリエント』読んでましたよ、おいら。
Nov 23, 2005
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世界最初の国民国家同士の総力戦だった、日露戦争。今では、第0次世界大戦という学者もいるくらい、それは激烈な戦いでした。そこでは、8万名ものロシア人捕虜を暖かく迎えた、日本の紳士的な対応だけに注目が集まっていました。ところが、実は2000名もの日本人捕虜が発生していたのです。どちらも、西洋に比べると「遅れた野蛮な国家」であることを自覚するもの同士の戦い。それは、お互いに奇妙なまでの「文明」的な振る舞いを強いることにつながりました。本書は、日露戦争を「捕虜待遇」という裏面史から描きあげた、たいへん面白い作品に仕上がっています。なによりも、「シベリア抑留」で大量の日本人捕虜を殺したソ連や、膨大なBC級戦犯と戦陣訓による大量自決者を生んだ、昭和ファシズム期の日本とはまったく捕虜の扱いが違うのです。もともとロシアは、軍縮と戦時国際法整備にとても熱心だったらしい。かの国の音頭で、捕虜待遇を定めた南北戦争時のリーバー・コードを敷衍して、欧州最初の成文戦時国際法規を定めたブラッセル宣言が出されています(発効せず)。またロシアは、1899年ハーグ万国平和会議でも、ペテルスブルク大学マルテンス教授などを中心にして、国際人道法制定の取組に尽力していた。そのため、対外戦争においても、人道的対応を実践していたという。そこで、ロシアの広大さを見せつけ、ロシアを侮らせないためにも、帝国の中心がある欧州に捕虜収容施設を!ということで、モスクワ北西、ノブゴロド近くのメドヴェージ村に、捕虜収容所が建設されたという。待遇は良好。将校クラスには、外出も認められ、捕虜が撮影した写真さえ現存しているという。日本人捕虜も、意気消沈することなく、さかんに改善待遇を要求して、外国大使館に働きかけさえおこなっていた。明治政府も、捕虜になった将兵・軍属を公表していたし、捕虜になることを認め、帰還した捕虜将兵を咎めることがなかった。旅順港閉塞作戦は、捕虜になることを前提に起案されたものであったらしい。また、悲願の条約改正や有利な講和にもちこむため、明治政府も「文明国」と見られるように、細心の注意をはらっていたという。正教徒・カトリック・イスラム・ユダヤ教と多彩な民族構成をしていたロシア人捕虜。将校クラスでは、料亭から洋食をとる者やコックを雇う者、野山で昆虫採集していた者がいたというから、驚く他はない。むろん、捕虜と収容所の間では、さまざまなイザコザが生じています。それでも、ロシア人みたさの見物客が殺到したり、捕虜と地元民が水泳大会をひらいて交流をする話などには、暖かいものを感じさせてくれます。また、辺境へ逃亡した農民で編成されるコサック騎兵隊に捕虜にされたものの、勇敢な戦いぶりに免じて釈放された話。満州やシベリアではどうにもならないが、欧州部のロシアに着けばなんとかなる、と励ましたロシア人将校の話。反ロシア気運が高まる日本で、一部の日本人は、ロシア人捕虜に慰問金を送る運動をするなど、感動的な一幕もあったという。細かい話がさわやかな彩りを加えていて喜ばしい。また国際人道法には、将校に関しては「宣誓解放」というものがあって、抑留国に対して再び武器を取らないとする旨、「誓約」することによって、本国に送還される慣習があったという。この西欧の伝統は、フランス革命期に失われたものの、1864年ジュネーヴ条約で確認され、日露戦争では何千名もの捕虜が、「宣誓解放」されているらしい。かの軍事史家半藤一利が、この宣誓解放のことをまったく知らず、「乃木の大度量」と讃えていた話も紹介されていて、思わず笑みがこぼれてしまいます。とはいえ、日露戦争における日本の紳士的な戦闘ぶりは、イギリスによって誇張されたものというシニカルな見方も、やはり事実の一端であるらしい。日本人捕虜は、他の国と違って脱走者がいなかった。脱走しても生きて帰れる場所がない。故郷の冷たい待遇。日清戦争期では、すでに捕虜=恥辱とする概念が強かったものの、公式なものとなることはなかった。明治の論壇では、捕虜になることをめぐって、生きて帰って「再戦」することこそ報国という考え方も一部にはあったものの、昭和期になると完全に消えてしまう。公式の厚遇ぶりの裏には、日清戦争におきた「旅順大虐殺」の体質を連綿と引きついでいて、日露戦争でも捕虜イジメを自慢する風潮、トラブルなどを随所で引き起こし、やがてサハリンでの虐殺につながってゆくという。とはいえ、他者からの目を異様に気にしていた当時の日本の姿は、戦後の日本社会とも通じていて、なにやらたいへん微笑ましいものがあります。日本は、視線を気にして卑屈になるか、その反動で傲慢になるかの、どちらか両極端しかないような気が。なにもかも「相対化」されてしまう日本では、「他者の視線」がないかぎり、手前勝手に暴走するだけなのかもしれないな、と考えさせられる著作になっています。個人的には、こうした「世間」という感覚は好きになれないのですけど。日露戦争だけではなく、日本社会も考えさせてくれる、そんなお薦めの作品になっているといえるでしょう。評価 ★★★☆価格: ¥1,071 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 21, 2005
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田中芳樹は、小林よしのりととても良く似ているとおもう。どちらも、サブ・カル作家として、本業をこえた成功をおさめたこと。そして、いつ卒業したのか?が、常にファンに問われてしまう、たいへん厄介な存在であることが。「俺は、銀英伝でファンやめたね」「俺はアルスラーン戦記で止めたんだけど、終わんねえんだよ…」「てか、読んでいない」 「俺は、『戦争論』書いてからファンやめた」「ええ?オウム真理教騒ぎのとき、宅八郎から逃げたときにやめたぜ」「てか、おぼっちゃま君の頃から、絶対読んじゃダメだろ…」いずれも、たいてい、下に行けば行くほど、ふんぞり返られる傾向にあるようだ。その意味で、たいへん難儀な作家なのであろう。ちなみに私はいずれも「真ん中」であった。かれらとひと時を共有できたことが、私にとって幸せであったかどうかは分からない。……って止め止め!!思わず『台湾論』と同じ書き出しにしてしまった。これまで、田中芳樹のレビューを書けなかった。理由は2つ。ひとつは、彼が中国モノを書き始めて以降、田中芳樹を読まなくなった。金払ってまで、他人の堕落に付き合う趣味など、ありませんって。なによりも、今さら「アルスラーン祭り」をする年齢でもあるまい。田中芳樹に出会う以前、、小説なんか歴史小説以外では、読んでいなかった身からすれば、田中芳樹は、「小説の面白さ」を教えてくれた、足を向けて寝られない大恩人だったはずなのだが…6年ぶりの新刊。その前は7年ぶりだったから、13年で2冊しか出ていない。魔王ザッハーク様が、大復活!イルテリシュを宿木にして御光臨!!!タハミーネの遺児も、チラホラとメインストーリーに絡みはじめます。ラストスパートへ向けて、役者勢ぞろい。ますます、冴える田中芳樹のストーリーテリング!。ウソではない。不思議なほど、まったく変わっていない。サブカルには、大塚史学というのがあるらしい。1970年代、『大きな物語』が日本で消滅してしまったものの、1980年代以降、サブカルチャーの分野において、擬似的に再生され続けたというもの。<大きな物語>の題材として消費される、「設定」という名の「擬似歴史」。その嚆矢は、『機動戦士ガンダム』にあるという。これは説得力がある考えだ。なにより応用が利いて補助線が引ける。たしかに、田中芳樹『銀河英雄伝説』は<擬似的歴史物語>の最たるもの。これに、「SF→ファンタジー→ホラー」という出版ブームの流れを見てみると、『銀河英雄伝説』から『アルスラーン戦記』への流れが見えてくる。また東浩紀によれば、1995年エヴァンゲリオン以降、「大きな物語」は廃れた。<擬似歴史物語>が廃れ、ホラー以降、「大きな物語」をもとめるものは、直接、「歴史」に向かったのだとすれば、田中芳樹と小林よしのり『ゴーマニズム宣言』を連続させる冒頭のアナロジーは、あながち的外れでもないのかもしれない。2名とも、「ジャンル」枠組を広げたものの、ジャンル読者からすれば「異端」の極地。SFファンからも、ファンタジーファンからも、マンガファンからも、「あんなものは○○ではない」と眉をひそめられる存在だったのだから…。閑話休題。それで、読めば読むほど分からなくなるのが、田中芳樹の面白さ。結局のところ、『銀河英雄伝説』に尽きるわけだけど、何だったのか。なかなか、他人には説明できない。豪華絢爛スペースオペラ、宇宙艦隊、登場人物…などはさておいて。大切なものは永遠に失われ、実現できない。その飢餓感・寂寥感が良かったのかなあ。この推薦の言葉で、未読の人に読んでもらえるとも思えないけど。たとえば、皇帝ラインハルト。彼は、永遠に姉とキルヒアイスとのあの日々を取りもどすことはできない。ただ、皇帝の子を生んでいないという事実に満足するしかない。ヤンにいたっては、あれだけ愛した「民主主義」とそれをとりまく環境のハザマを埋めるため、死後、「自らの身体」が生贄にされてしまう。おそらく彼の意図とは正反対にも関わらず。『アルスラーン戦記』は、その辺、ちょっと微妙。アルスラーンは、父母の本当の子供ではないことを知る訳だけど、だから何?個人の悩みの域を出ていないというか…ラインハルトの苛烈さに比べて推進力が著しく弱い。結局、第一シリーズ(1巻~7巻)では、パルス王国の「正統」、<シャーオ>の側面と、カリスマ「解放王アルスラーン」の側面は、アルスラーンの<身体>において、矛盾なく止揚されてしまう。どちらの側面も、もう一つの側面に依存している。解放王になるには、<シャーオ>であらねばならなかった。<シャーオ>であるには、解放王としてのカリスマは不可欠であった。故に、安定が続いてしまう、幸福な状態。おそらく、これは田中芳樹とファンの理想郷に違いない。皇帝ラインハルトでは、まったく達成することができなかった境地。だからこそ、13年に2回しか出さなくても、書き続けようとしているのでしょう。そして受け入れられる土壌にもなっている。だが、ちっとも設定としては面白くない。矛盾のない、2つの幸福な結婚など、ファン以外、誰が見たいか、バカモノ!だからこそ、8巻以降の第二シリーズは、結構期待してしまう。アルスラーンの身体に止揚された「2つの顔」が、魔王ザッハークとタハミーネの子供の登場によって、乖離することが避けられない。いや、無理矢理にでも乖離させてくれないと面白くないんですけど、肝心の筆者がどこまで理解しているのか、一抹の不安がよぎるんですよね。そもそも、一部の臣下をのぞけば、アルスラーンがアンドラゴラス王の子供ではないことを知らされていない。これがどれくらい胡散臭い(都合のいい幸福な)「設定」であるか、理解しているかどうか。むろん、「解放王」をそのマンマ打ち出すのも、かなり胡散臭いというか、むしろ「芸がない」訳で、そこが田中芳樹なる<小説家の想像力>が発揮されるべき領域なんだけど…13年で2冊という歳月は、その解決のために費やされたもの、と彼を信頼していいのだろうか。まさか今度も、<シャーオ>と「解放王」を幸福に再結合させておしまい、ではありますまいね、田中芳樹先生。ボナパルティズム的解決は、1度でお腹いっぱいですよ。2度目は喜劇ですな。評価 ★★★☆価格: ¥820 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 19, 2005
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遠くにいきたい。まだ見ぬ地へ、旅立ってみたい…さわやかな読了感とともに、こんな気分に浸らせてくれる、素敵な紀行文に出会えることは少ない。そんな、希有の例外の本書。人の世に、なぜ差別があるのか。被差別部落出身者でもある著者は、世界中の差別されし者の食卓をめぐりながら、大地をさまよいます。被差別者の「ソウル・フード」の源をさがす旅は、すばらしい叙情をたたえています。公民権運動の灼熱の大地、アメリカ南部をさまよう。チトリングス(豚のモツ煮)、グリッツ(コーン粥)、フライドチキン、ナマズ料理。ザリガニ料理…。骨を気にしないで、おいしく腹持ちよく食べるための技法、「ディープ・フライド・チキン」にソウルフードの根源をみます。ムラで母親が作ってくれた菜っ葉煮そっくりの味、カラードグリーンに感激し、「母の味こそ、最高のソウルフード」であることを確信します。その大地では、KKK(クー・クラックス・クラン)の創設者フォレスト将軍の銅像と、ポリティカリー・ディスクリミネーション(政治的配慮を施した差別)に出会うのです。カラードの存在によって不可視化された人種差別国家、ブラジルをさまよう。そこにいる野生動物をデンデ油(パームやし)で調理するしかない、黒人奴隷。日本人移民は、1888年まで奴隷制廃止によって、奴隷労働力の替わりとして受け入れられたという。黒人奴隷のソウルフード、豚の内臓・足・尻尾などを入れた、料理フェジョアーダに舌鼓を打つ筆者。オクラは、黒人料理の素材として、アフリカから世界中に広まったらしい。誰も食べない部位でつくったフェジョアーダは、尻尾や足の希少性ゆえ、今では価格が高騰、貧民は食べられないという。何百年も前、逃亡黒人奴隷たちの作った漁村を訪れ、そこに漂うアフリカ文化の残滓と言語に感じ入る筆者。ハリネズミのように生きる、流浪の民、ロマ民族をたずねてさまよう。インドから西へ向かった、ジプシーのハリネズミ料理を食べにいきます。広島・長崎の被差別部落は、原子爆弾投下直後、部落民の集団蜂起を恐れた軍と憲兵に包囲されたという。まさか、イラク戦争後、被差別民ロマ民族は迫害を受けたのではないか? その筆者の予感は、悲しいかな、的中してしまう。フセインの保護を失ったロマ民族は、家と仕事をシーア派住民に奪われてしまったのだ。ゴムを食べているようなハリネズミの触感。美味しくないと、筆者は彼らに言い出せない。その繊細さが心地よい。ロマと被差別部落のルーツ、インド亜大陸ネパールをさまよう。不可蝕民を作り出したヒンズー教の思想こそ、「極東カースト問題」被差別部落を作ったという仮説をいだく筆者。1990年、カースト解放令が出たネパールで、差別されるからといって牛肉食を止めることにした、不可蝕民サルキたち。そこで筆者は、無理を言って、牛肉料理をつくってもらい、持参してきた「スキヤキ」と交換する。牛料理の共通法に驚きあう、筆者とネパール人。牛を食べることを禁止するため、見せしめにされた被差別民同士が、牛肉の煮物をつつきあう。その交歓のひとときには、なぜか涙がこぼれてしまう。纏綿と綴られたさわやかな文章。抑制のきいたその語り口は、部落差別を未だに止めない日本人社会を糾弾するような姿をとってはいない。だから、一見、肩肘張らない、そのさわやかさに、甘い読者は騙されてしまう。しかし、その奥に秘められた、煮えたぎるような怒りは、何と途方もない熱さであろうか。仕事がなくその漁村という「楽園」に戻ってしまう黒人や、日系人女性の何気ない一言に、ブラジルの深刻な人種差別の体感して、傷つく筆者。サルキの夢を哀れみ、ロマの何気ないねだりに激怒してしまう熱さこそ、この本の真骨頂なのだ。繊細な筆者は、周到にそれを隠して見せようとはしない。隠しきれず吹き出してくる、その熱さはエロチックでさえある。最後、筆者は日本に戻る。部落の食べ物、ふく(牛の内臓)の天ぷら、さいぼし(ビーフジャーキー)の秘伝をたずね、こうごり(肉ようかん)、あぶらかす(腸の輪切りを揚げたもの)をたずね歩く。母親を亡くした彼は、もはや2度とソウルフードを口にすることができない。永遠にたどり着けないものを求めてさまよう…手に入れられないことを知りながら、否、手に入れられないからこそ、かわる何かを求めてさまよい続ける。死をもって終わるしかない、不可能な旅路。それは、なにかしら、「差別のない社会」というユートピアを探す旅とオーバーラップしていて、寂寥感さえ帯びた味わいになっているのです。熱さと寂寥感が不思議と同居した、ソウルフード紀行。ぜひ、ご一読あれ。評価 ★★★☆価格: ¥714 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 17, 2005
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なかなか凄い新書が出版されています。1991年、旧ユーゴ内戦以降、戦争犯罪を侵した個人を処断するため、1993年に設置されたICTY(旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所)。かのイラクで殉職した外交官奥克彦の勧めで、東京高等検察庁から転進して、ICTY裁判官選挙で当選。2001年末から着任した、異色の経歴の持ち主。たんなる、国際刑事裁判の動向だけには留まってはいません。複雑極まるユーゴ現代史と国際関係史を丁寧に追跡した、すばらしい著作になっているのです。要約はなかなか難しいのですが、5項目にまとめることができるでしょう。● ニュルンベルク条例に沿って成立している国際裁判所、ICTY裁かれる戦争犯罪は、以下の4つ。A 1929年ならびに49年のジュネーヴ条約(国際人道法)違反。B 戦争法規・慣習法違反(1907年、ハーグ陸戦法規)C 人道に反する罪D ジェノサイドの罪ニュルンベルク裁判は、ハーグ陸戦法規に条約遵守のため国内法を整備せよ!と書いてる以上、1939年には慣習法として成立している!!として(異議もあったが)、遂行されたものだったらしい。人道の罪は、無国籍者、または犯人と同じ国籍の場合、保護の埒外のおかれてしまうため、設置されたという。また、ユーゴ戦犯裁判は、ボスニア秘密警察などの協力もあって、10年前の史料が比較的残されていて進めやすかったらしい。● ボスニアでは、都市知識人層を形成していたムスリム勢力第二次大戦期、親ナチ傀儡国家クロアチアの「ウスターシャ」VSセルビア人勢力「チェトニック」VSチトー率いる「パルチザン」の3つ巴の抗争は、民族対立を越えて独立をめざすチトーの勝利におわった。本来、ユーゴの各民族は、すべてセルヴォ・クロアチア語に属していて、諸般の歴史的経緯によって産み落とされたものにすぎない。労働者自主管理による「分権化した社会主義」をかかげたチトー政権は、ムスリムにも独立した「民族」の地位を与えた。1980年代まで、ムスリムは差別された存在で、他の民族で申請していたらしい。第二次大戦における民族間の残虐行為が、ようやく忘れ去られようとしていたとき、2度の石油ショックが到来。各共和国は、完全な「経済自主権」をもつため、内紛を重ねて対応もできない。1990年、複数政党制公認によって、「ユーゴ共産主義者同盟」独裁崩壊とともに、各地で民族政党が台頭して、バルカンの火薬庫の導火線に火をつけることになる。● 紛争の根源は、セルビア人保護を先送りにしたクロアチア独立承認と停戦● ボスニア分割案を葬り去った、アメリカとムスリム勢力1990年、民族政党率いるトゥジマンが、クロアチア大統領に就任。そのやり口に、クロアチア東部にすむセルビア人が激怒。1991年、自治権をもとめて、セルビア人とクロアチア政府の衝突が発生。ユーゴ人民軍のクロアチア侵攻をうけて、世にいう「クロアチア紛争」が勃発する。そこで行われた拙速なクロアチア停戦は、セルビア人の権利や保護について、棚上げにしたものだった。さらに致命的だったのは、ドイツのクロアチア独立承認だったらしい。クロアチアが連邦に止まらない限り、ボスニアが連邦に止まる意味など乏しい。ただちに、クロアチアから流れこんだセルビア系難民の群れを通して、ボスニアのセルビア人全体に「2級市民になるのではないか??」という不安が波及してしまう。1991年、ボスニアの主権を宣言するムスリム指導者イゼトヴェゴビッチに反発して、セルビア人勢力の指導者カラジッチは、第二議会を作って「連邦に止まる」ことを宣言する。その際、アメリカはボスニア独立でユーゴ軍の介入を防げると考える錯誤を犯してしまったという。1992年3月、ボスニア独立を問う国民投票は、アメリカの支援と31%のセルビア人住民の完全ボイコットの下でおこなわれ、99.7%の賛成で承認されてしまった。セルビア人は、各地に非常事態政権をつくって、1992年9月には「スルプスカ共和国」結成、ムスリムの粛清をはじめる。● 徴兵拒否を利用しての、合法的な社会的権利の剥奪が横行した、ボスニア● 非常事態下、横行するムスリム知識人狩りとセルビア人幹部の蓄財行動セルビア側は、非セルビア系住民を襲わせるため、無法者をを野にはなつとともに、非セルビア系住民を合法的に追放してゆく。ユーゴ人民軍ボスニア部隊は、セルビア軍に移行して、民兵集団も支配下におさめ、非セルビア系住民の刀狩・職場追放・財産剥奪をおこない、圧倒的な優位を築いた。セルビア軍からボスニア・ヘルツェゴビナを守るには、クリントン政権は「空爆&武器禁輸」しかないと考えていた。ところが、フランスとイギリスはセルビア、ドイツはクロアチアを支援していたので、足並みが乱れておこなえない。1995年7月、イゼトヴェゴビッチは、セルビア勢力の突きつけた、スレブレニツァからのムスリム住民立ち退きに関する「最後通牒」を拒否。世にいう、セルビア勢力による「スレブニツァの虐殺」が発生する。1995年、デイトン合意でボスニア紛争は終結をみるものの、その影でクロアチア軍の反撃によって、クロアチアからのセルビア人追放が、大々的におこなわれていたという。● 2001年、転機となった新ユーゴ連邦・元大統領ミロシェビッチの移送・起訴● 依然残されたままの、コソヴォとマケドニアの「アルバニア」人問題デイトン合意を導いた立役者の一人、新ユーゴ連邦大統領ミロシェビッチ。かれは、1986年にセルビア指導者となって以来、過激なセルビア民族主義を掲げてきた、本来なら戦犯の筆頭だったものの、形式的には西側と同一歩調をとっていたため、ゴルバチョフ視されていてICTYに起訴されることはなかった。ところが、デイトン合意の実行を阻害した上、コソヴォの処遇をめぐって、西側と対立して起訴されることになったという。ただ、引き渡したディンデッチ首相は、セルビア民主化の象徴とされたものの、今現在では、西側への反発と「汚職と経済悪化」による民主化への失望のため、セルビア民族主義政党には根強い支持があるらしい。また、今ボスニアでは「ムスリムとクロアチア人の連邦」は「スルプスカ共和国」に対して軍事的優位にあるという。いかがでしょうか。この本は、簡略にユーゴ現代史とクロアチア・ボスニア紛争がまとめられていて、たいへん参考になります。「ICTYは、NATO空爆を問題にしない!!」と批判する声に、激しく反発する筆者。第一次大戦直後は、「法の支配」を打ち立てられないとして、ヒトラーにせせら笑われた国際裁判所。それが、ニュルンベルク・東京両裁判から、ICTY(2010年まで)を経て、今ではICC(国際刑事裁判所)という「恒久的な組織」に発展へと発展しているという。開かれた未来への希望を語りながら、「国際刑事裁判」そのものを擁護せんとする姿勢は、非の打ち所なくすばらしい。また本書では、「非道なセルビア人」「哀れなムスリム」というイメージを批判して、一部の政治家や軍人が権力拡大や蓄財のため、一般市民の恐怖をあおり民族浄化に利用したことが繰り返し強調されています。テレビなどの映像を利用したプロパガンダで、我々の認識がいかに歪められていたか。反省させられるものがあるのではないでしょうか。ただ、ちょっと残念だったのは、記述が錯綜して読みづらかったこと。項目ごとよりも、時間順で「クロアチア・ボスニア」を並列させて記述してくれた方が、理解しやすかったのではないか。また、コソヴォ紛争は、あまりにも記述が簡単で、拍子抜けしてしまった。これでは、いくらボスニアの延長とはいえ、コソヴォでの残虐行為がどのようなものだったのか分らない。きちんと書いて欲しかったとおもう。とはいえ、そんなことは些細な欠点にすぎません。セルビア人非常事態政権の議長をつとめたブルダニンは、直接、オマルスカ強制収容所などでの殺害行為に手を下していたわけではないのに、民族浄化の罪で懲役33年もの判決を下されたという。やがて「東京裁判」「従軍慰安婦裁判」などでさえ、回顧と思い出の一コマとして語られるような、そんな国際刑事裁判所が出現するのかもしれない…ささやかながらも、感じさせてくれる、未来への「予感」と「希望」。今、一番足りないものは、未来への「希望」であるだけに、なかなか癒される作品にもなっているのです。ぜひ、ご一読ください。評価 ★★★★価格: ¥735 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 15, 2005
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長崎は、組織が都市の姿をしているにすぎない!!!本日は、近世日本唯一の外国への窓口であった長崎について、「株式会社」組織として描いてみようとする、意欲的な作品をご紹介いたしましょう。ここ30年、江戸期の「鎖国」についても研究がすすんで、これまでのイメージは様がわりしています。秋の夜長。そんな息吹を確認するためにも、ぜひご一読してみてはいかがでしょうか。内容は以下の通り。● 貿易利益に預りたい領主、キリシタン迫害からアジールがほしいイエズス会 両者の利害が一致して、イエズス会に寄進された都市、長崎布教を認めない平戸の領主、松浦氏。ポルトガル船を来航させるためには、宣教師を優遇してキリスト教布教を認めることが必要だった。松浦氏に見切りをつけたポルトガルと、大村氏の利害が一致して、1571年、長崎は寒村から生まれかわったという。1587年、秀吉のバテレン追放令で、「長崎26聖人の殉教」などを生むものの、依然として宣教師は残存。ただキリスト教は、領主改宗によって進められたため、領主の転向によって棄教が相次いだらしい。17世紀初頭の30年間、総合商社並みの組織力を必要とする、朱印船貿易が栄えた。オランダ・イギリスは海賊でしかなく、またマカオは日本への生糸輸出に依存しているため、日本とポルトガルは関係が続いたという。● 「代官と商人」が一体となった、幕府の支店都市「国策会社長崎」の誕生1580年、イエズス会寄進以後、秀吉直轄地、徳川期天領と変遷した長崎は、教会の林立する西洋風の町であったという。1620年代以降、強烈なキリシタン弾圧によって、ポルトガル・イエズス会の長崎は終焉。1636年、ポルトガル人の隔離のため作られた出島は、ポルトガル人の追放によって、オランダ人商館の平戸からの移転で埋め、以後200年、オランダ人曰く「国立の監獄」とよばれる、「暇との戦い」が続くことになるという。ただ、寛文長崎大火(1663年)で、既存の街並みは壊滅。長崎奉行は、「長崎王」とよばれるものの在任が短く、奉行所には数十名の役人しかいなかった。ほとんど地役人に市政を委託していたらしい。ただ、帯刀を認められても、武士身分にはなれなかった。● 貿易と市政の一元化で、官営貿易・総役人化を生んだ 1698年、「長崎会所」の成立「銀と生糸」の交換であった日中貿易。長崎では、唐人貿易が主役で、6万人の人口中、唐人は1万人を占めたという。当初、その取引は、船宿が中核で、委託販売と手数料を稼いでいた。生糸取引は1604年以降、「糸割符」仲間の独占下(生糸以外は、相対売買)におかれていたものの、1655年廃止。その後は、「貨物仕法」とよばれた、輸入量を決めて価格を指値式にして独占購入、購入後は国内商人たちの入札にかける方法を採用した。商人の評判も上々だったものの、これも廃止。1685年からは、オランダに銀3000貫、唐人には銀6000貫を上限に取引を認める、『御定高仕法』が採用された。この後、『長崎会所』が設立される。ただ唐船は、私人貿易で南洋各地から来航する上、当初上限に達すれば「打ち切る」方法だったため、来航船117隻中、積戻船が77隻を占めたことがあったらしい。そこで、1715年「正徳新例」を出して、来船数を30隻に制限するとともに、舶載品の「全品買い切り」制にしたという。また長崎に来た唐人の子孫「唐通事」が、唐船貿易を仕切って許可証の発給、唐人の取り締まりにあたったことも面白い。● 明清交替期、江南都市の荒廃で、唐人たちの憧れだった長崎丸山遊郭● お上から竈銀を支給・厚遇された「日雇い」長崎観光ブームがおきていた、16世紀中国。オランダ人が粗暴とされる一方で、唐人は教養あるものも多く、長崎の日本人は、詩・南画・書道などさまざまな交流がおこなわれていたという。船宿制から宿町付町制になって、町ぐるみ「輪番」で唐人接待する、官営貿易。そこでは、家主が事務、借家人が荷役をにない、幕府も長崎をショーウィンドウとするため、さかんにテコ入れをおこなっていたらしい。そんな長崎人は、同じ日本人から「外国人文化を受容して、生活に取り入れ」「奢侈的享楽的な浪費家で」「封建的因習に囚われない」「狡猾な」イメージを抱かれていたらしい。グルメの一方で、米などの食料を移入に頼るため貧しい食生活の一面もあったことは驚かされる。なによりも、江戸時代の豆知識が喜ばしい。出島付近は、意外にも浅く、オランダ船は横付け不能で港に向いていないという。「江戸の仇は長崎が討つが元の諺だった」「近代以前の日本人にとっては、外国人は悪臭をはなつものだった」というのは、多くの人には初耳ではないでしょうか。国内産銀は年7000貫前後。最高その5倍もの銀の流出に悩んで、銅代物換え、俵物代物換えで5000貫、2000貫追加して、貿易需要に対応する様は、なかなか面白い。明治以降、長崎唐通事は、中国語・中国文学の先生として全国に散っていったという。オランダ人の商品を「こぼれ物」にしてくすねる日雇いの生態など、本書では生活感が満ちあふれていて嬉しい。ただ、どうだろう。この本は、「株式会社」長崎を描くことについてだけは、完全に失敗しているのではないだろうか。株式会社の中核であるはずの『長崎会所』。それが、どのように資産を運用して収益をあげていたのか。とくに、長崎から国内へ向けて、すなわち川下の方についてが、サッパリ分からないのだ。そもそも、商品の仕入れと来航は、完全に唐船・オランダ東インド会社船任せ。国内市場向販売は、これまた三都、とくに大阪の問屋任せであろうことは、容易に想像がつくというもの。『長崎会所』は、その半官半民的な行政機関的性格からいっても、唐人貿易における「全品買い取り」制度から見ても、川下の問屋に商品を流す際、掛売するなんて考えにくい。長崎という都市をいくら整備しているとはいっても、所詮、長崎に居を構えて、右から左に「売れることが約束された」生糸という商品を流すだけの組織。販路開拓に汗水流すこともない組織の、いったいどこが株式会社なのか。『「国営企業」長崎出島』の方がピンと来るのではないか。「株式会社」長崎のマンパワーは、開港後、日本の各地に引き継がれていったとする本書。たしかに「親方日の丸」は、「国鉄」へ、「役所」へと引き継がれましたかね、と厭味の一つくらい言いたくなってしまう。売らんがための煽りの悪どさは、ほどほどにしておくべきではないか。また細かいことをいうと、唐人と称した理由は、「清国人」と称するのが嫌だった、と書いてあるものの、これは「清人」じゃないといけない。また、泉州・シ章(サンズイ。「しょう」と読む)州出身者のグループなんだから、残された史料に「泉章幇」と書いてあっても、「泉シ章幇」とした方が、読者の誤解を招かないだろう。最終章。日本の外延におかれ、衰退を続ける、長崎県や九州の離島たち。その衰退を心から憂える筆者は、「出島」を長崎県全部に拡大すること、境界性と希少性が光をはなった、かつての環東シナ海のクロスカルチュラルな世界を取り戻すことで再建を訴える。長崎が、香港に、シンガポールになれないはずがない!!。 今のグローバリズムの流れは、かつての長崎のクロスカルチュラルと、いささか二重写しにみえてしまう。中央に見捨てられた辺境は、どのような処方箋があるのか。「沸騰する」こともかなわず、緩慢に死にむかう「辺境」の茨のみち。この本の処方箋は、その背後の物語もあって、なかなか面白いのではなかろうか。ぜひ、捜しもとめいただいて、読んでもらいたい。そんな一冊になっています。評価 ★★★価格: ¥1,680 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 13, 2005
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文春と新潮が、老舗ブランドをいいことに、クズ新書を盛大に刊行するようになってからというもの、「新書=ゴミ」であることが当たり前になってしまった。新書読みとしては、残念な限り。新書ブームのかげで、「ノベルズ」分野は衰退するばかり。大谷暢順『ジャンヌダルクと蓮如』(岩波新書)がゴミ新書の「金字塔」であった時代が懐かしい…閑話休題。本日ご紹介するのは、そんな岩波新書から、装いもあらたに出版された、高山一彦著『ジャンヌ・ダルク』です。国民国家フランスの創世神話、「ジャンヌ・ダルク」伝説。その形成過程を丁寧に追跡した、いぶし銀のような作品になっています。簡単に内容をまとめいたしましょう。● 一度改悛したのち、「戻り異端」として火刑台に送られたのであって、 魔女として裁かれたのではないジャンヌイギリス・ノルマン王朝が、フランスの諸侯出身という遠い事実に起因する、フランス王位の継承戦争でもあった、「英仏百年戦争(1337~1453年)」。15世紀初頭、イギリス・ランカスター王家は、ブルゴーニュ派と手をむすんで、「英仏二元王国」を推進する。フランス・ヴァロア王家の王太子シャルルは、「フランス王」を名のりながら、7年もの間、ランス司教教会で「聖別・戴冠の儀式」を挙げられない。そんな中、イギリスがオルレアンに軍隊をすすめ、すわ、フランス大ピンチ。そこに現れた、ジャンヌ・ダルク。フランスを救うためにたちあがり、1429年5月8日、イギリスの包囲からオルレアンを解放。「オルレアンの乙女」は、7月19日、シャルルをランス教会で「シャルル7世」として戴冠させるも、国王シャルルと側近たちは煙たがり、翌年5月23日ジャンヌはイギリス陣営(ブルゴーニュ派)の捕らえられてしまう。1431年5月24日、ジャンヌは判決文朗読の際、火あぶりを恐れたためか、神の声を否認して男装をやめることを誓う(改悛事件)。ところが5月28日、前言をひるがえす。救済の余地のない「戻り異端」として、5月30日、ルーアンで処刑される。● 伝説化をかきたてた、ジャンヌのあらゆる行動原理、「神の声」そんなジャンヌの人となりは、「進んで」家事を手伝い、教会にかよう普通の、それでいて固い信念をもつ、女の子だったらしい。浩瀚な『処刑裁判記録』『復権裁判記録』が残されて、彼女の19年間の生涯は、ほぼ余すところなく明らかにされているという。処刑直後に、「偽ジャンヌ」が現れるほど、人々に惜しまれたジャンヌ。それは、1455年に開始された「復権裁判」につながって、翌年、無罪宣告をうける。「処刑裁判」は、弁護士さえいない、パリ大学神学部の「神の声を聞く小娘」への憎悪と、イギリス側のシャルル7世の戴冠式を否認する政治的要請が結びついたものらしい。● フランス絶対王政下忘れ去られ、ナポレオン帝政期に復活するジャンヌ16世紀、「聖者」の思想を否定するカルヴァン派(ユグノー)の支配下にあったオルレアン。そこでは、肖像・画像は、ジャンヌを含めて破壊されてしまったという。カトリック派の勝利後の1581年、オルレアン市の吏員たちが、画家に依頼して描いてもらった、羽飾りと美しい胴着を身にまとった美女ジャンヌ(吏員系)の肖像。それは、以後250年間、ジャンヌ像の定番となったくらい、「ジャンヌは忘れ去られてしまった存在」だったらしい。19世紀半ば、「ジャンヌ・ダルク史料集」刊行と、ジャンヌ・ダルクの復権。それは、今にいたる、史実に合致した「鎧と刀剣」のジャンヌ像にかえただけではないという。ジャンヌの魅力も、「戦場で戦う女性」から「裁判での厳しい追及にあっても、自らの内的使命を語る少女」へ、移っていったという。● ジャンヌ列聖によって、ますます騒がしくなるジャンヌ論争● フランスに危機が訪れるたびに作られる、あらたな「ジャンヌ像」並外れたキリスト教的美徳に加え、列福には2つ、列聖にはさらに2つの「奇跡」が必要な、カトリック聖者の手続き。1869年に開始されたジャンヌ列聖の手続は、証人として歴史学者が呼び出され、1909年に福者、1919年には聖者になったという。さまざまな立場の人がえがく、ジャンヌ像。ドレフュス事件の時には、社会主義的立場から、「人類と祖国の救済の祈りをこめて無償の戦いを戦おうとする」気高きジャンヌ像が。ジャンヌ列聖に危機感を抱き、聖性を徹底的に剥ぎとった<人間ジャンヌ>像を描こうとした、20世紀初頭の文学者アナトール・フランス。「傀儡」「ヒステリー患者」を読み取ろうとする、反教権派。ジャンヌは、「神の啓示」を直接受けとろうとする、プロテスタントの先駆けだ!! 否、「女傭兵」にすぎない!! あげくの果てに「ジャンヌ王女説」というのもあるのだから、侮れない。いかがでしょうか。な~に日本は、フランスのジャンヌ論争を笑えません。ジャンヌ・ダルクは明治以来、「愛国心」「キリスト教ヒューマニズム」「良妻賢母主義(ちょっと失敗)」など、笑うくらい色んな立場から、さかんに描かれていたらしい。ほかにも、ジャンヌは改悛の際の誓約文に記した「十字架」についての論争や、フランス語処刑裁判記録には書き換えがあることなど、たいへん興味深いものが多い。少女の名を借りた、現代社会批判としての性格をもつ、ジャンヌ・ダルク論。そんなインスピレーションを与える、格好の素材らしい。日本だと、ジャンヌ・ダルクに相当する伝説的人物とは、誰が該当するのだろう。案外、田中角栄あたりなんかは、後の世には、ジャンヌ的な性格を帯びるのではないか。ただ、ちょっといただけない。歴史を「生き続ける」聖女として、ジャンヌの「生き続ける」伝説を追っている割には、すさまじく他人の説に狭量なのが気にかかった。紹介しながら、さまざまなジャンヌ伝説の批判に終始する筆者。読んでいて、むしろ逆効果。興がそがれた部分が多い。「吏員系美人ジャンヌの肖像は史実に反するのに表紙カバーに使うとは何ごとか!!!」と、ジャンヌを題材に女性像の変遷を追った新書まで批判する下りには、もううんざり。いい加減にしてほしい。だいたい、女性イメージの変遷に、史実のジャンヌとやらが、なんの関係があるのか。好意的に紹介されていたのは、アナトール・フランスとドレフュス事件がらみのジャンヌ像くらいか。そもそも、筆者本人は、どのようなジャンヌを描いているんだろう? 正しいジャンヌ像とは何だと思ってるんだろう? 「人間ジャンヌ」こそ、正しいジャンヌだから、アナトール・フランスの欠陥に甘いのか??おまけに、興味を持ったら「裁判記録」を読めと連呼するだけ。この辺、筆者の態度は、まったくいだだけない。大いに減点させていただいた。とはいえ、ある研究者のジャンヌをめぐる論争を評した以下の一節は、フランスでおきた暴動をみると痛切にひびく。 これらの多くの筆者たちは、存在するはずのないジャンヌの墓にそれぞ れに墓石を建てて、ジャンヌを自己の陣営に引き寄せて自らの主張の象 徴としてきた。国王はジャンヌを見捨てたのに、その国王に連なる王党 派も。少女を処刑したのは教会だというのにカトリック派も。少女は教 会に帰依していたというのに反教権主義者も。そしてジャンヌの時代に はまだ祖国なるものは存在していなかったのに国粋主義者たちまでも。ジャンヌをもって、現代社会批判をおこなう、過去のフランス人。移民たちの暴動、否、プロテストに遭遇するフランス。今こそ、2つの「裁判記録」を精読した、21世紀のフランス共和国にふさわしい、ジャンヌ・ダルク像がもとめられているに違いあるまい。どんな、新しいジャンヌ像が生まれてくるんだろう…そんな、期待をいだかせてくれる、素敵な1冊になっています。評価 ★★★価格: ¥819 (税込) 追伸 ところで、書きながら思い出したのですが 『神風怪盗ジャンヌ』って、どんな終わり方をしたんだろう… ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 10, 2005
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(承前)● 「時代を超えた独の偉大な音楽VS軽薄な仏伊の流行音楽」の図式確立● 上記のどちらも、「労働する市民を感動させる」音楽では同じロマン派公共空間に自作をアピールする作曲家たち。そこでは、音楽を公正に判断する「批評」という営為が欠かせない。また19世紀、音楽学校が成立するようになると、徒弟間で作曲を学ぶ形式は廃れ、専攻別に分かれて器楽演奏を学ぶようになる。過去の優れたレパートリーを学ぶには、「名作」が必要。かくて18世紀、現代音楽が上演されていた演奏会は、19世紀ロマン派以降、「過去の不滅の傑作」を上演する演奏会に変容して、「不滅の音楽を書かねばならない」という強烈な歴史意識が現れるようになる。19世紀、近代市民社会の成立。巨大オーケストラによるハッタリと物量作戦、演奏技術開発、観衆のマス化、スター演奏家の出現。その果てに、19世紀「音楽の首都」パリでは、宮廷社交文化を引きついで上流ブルジョアを受容者とする、グランド・オペラとサロン音楽が大流行する。ロッシーニやマイヤベーヤなど、外人に占められたフランス音楽界。普仏戦争の敗北後、フランス人作曲家たちの印象派音楽が、小泉首相の好きなワグナー、サロン音楽、場末音楽、エキゾチズムの影響を受けつつ、「古典に帰る」を旗印にして誕生する。ところがドイツでは、概念を欠いた純粋な響きであるが故に、器楽曲(交響曲・弦楽四重奏など)を究極の詩(芸術)と見たロマン派詩人を介して、音楽とは宗教的敬虔で接すべきもの、擬似宗教的な性格をもつものになる。深さや内面性を重視して、器楽音楽を崇拝して音楽を「傾聴」する文化は、ここに由来するという。その「神なき時代」の宗教音楽は、グスタフ・マーラーで頂点に達する。「調性」(シェーンベルク)「拍子感」(ストラビンスキー)などの破壊をもって、クラシック音楽は自己崩壊する。● ロマン派的な「実験」「過去の名曲演奏」「広く受け入れられる曲作り」 の「3位一体」が分裂してしまった20世紀第一次世界大戦で、ロマン派は作曲のみならず演奏においても完全に終焉して、「新即物主義」「新古典主義」にとってかわられる。音響素材開拓の絶望から「歴史の進歩」「オリジナリティ崇拝」というロマン派的音楽観を否定して、「パロディ」(新古典主義)を作る動き。その一方では、断固として「歴史の進歩」と「未曾有の音響」を求めることを止めない「十二音技法」が登場してくる。「何の規則もない所に、独創性は存在しない」以上、いずれもクラシック音楽崩壊後の「型」を再建・回復するための回答という共通性があるという。20世紀後半以降の3つの音楽の潮流、前衛音楽、巨匠によるクラシック名演、ポピュラー音楽は、いずれも19世紀のロマン派音楽の遺産の上にある。ポピュラー音楽も、旋律構造・和音・楽器・「市民に感動を与える」点では、ロマン派の後継者、クラシックと地続きにすぎないらしい。いかがでしたでしょうか。なによりも、音楽史という素材でありながら、ここまで西洋の政治・経済・文化・思想全般に目配せする離れ業には、驚くほかはありません。サロンで弦楽四重奏曲を楽しむ姿。それは、『のだめカンタービレ』で「貴族?」呼ばわりされるような御伽噺ではなく、18-19世紀の中産階級の普通の嗜みでもあったのです。そういった中産階級の生活が、写真などをふんだんに交えながら語られる。なんという楽しさか。音楽でこそ、文学作品の最も深い<言葉を超えた理念>に肉薄できる! そのロマン主義芸術運動は、標題音楽・交響詩へとつながり、また音楽はシニフィエもシニフィアンもない絶対的なものとする絶対音楽の理念を生む。それは、フォルマリスムの先駆けにもなるというのも、「ふむふむ」感が漂っていてすばらしい。いたるところまで目配せが効いています。ただ、すこし残念なのが近代部分。おおむね『オペラの運命』(中公新書)で言い尽くされていて、あまり新鮮な感じがしない。音楽家としてはともかく、批評家としては素晴らしい吉松隆などを読んでいると、あまり斬新さが感じられない。できれば参考文献では、アドルノ以外も、目配せしておいた方がよかったのではないだろうか。さらに、20世紀後半では、「実験」「過去の名曲演奏」「広く受け入れられる曲作り」が一体となったものに、ジャズをあげて評価する部分は、ジャズ~クラシックファンである私がみても、ちょっといただけない。まるでジャズが前衛とポピュラーのミックスであるからこそ、評価されているみたいじゃない(たしかにそんな時代もあった)。しかも、その際出てくるのが、マイルス・デイビスの関係者ばっかりである上、1960年代後半には、前衛とポピュラーの分化がおきているといわれても…。ジャズ固有の前衛さ、モードについての検討がなされていないので、いささか軽薄に移ってしまう。エレクトリック・ジャズ全盛だった、1970年代はどうなるんだろう?そもそもプログレッシブ・ロックなんかは関係ないの?う~ん微妙。そんな疑問点などをすこしばかり感じるものの、そんなもの些細なものにすぎません。リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」をクラシック音楽への「決別」として描いた、この人の『「バラの騎士」の夢』(春秋社 1997年)と並んで、すばらしい作品に仕上がっています。ぜひ、お楽しみください。 評価 ★★★★☆価格: ¥819 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 8, 2005
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素晴らしい!これほどの知的興奮をもたらす新書は、なかなかお目にかかれません。あまりにも細分化が進んでしまった人文・社会科学。音楽史も、その例外ではありません。立ちふさがる分厚い専門書の壁。ピアノを弾いていて、バッハ以前の時代に、ちょっと興味をもった学生。歴史に興味をもった一般クラシックファン。美術鑑賞が好きで、そのためにも音楽史をちょっと知っておきたい人。そんな人でも軽い気持ちで読める『通史』は、今音楽史の周辺ではまったくないという。そこで、筆者は蛮勇をふるって、西洋音楽史の『通史』を書く……だけではないのが、この本の素晴らしさ。その音楽が、なぜそこに存在しているのか、それを知ってもらいたい。音楽の源流まで訪ねながらも、「ヨーロッパ観光ガイド」にも耐えうる、そんな新書を書きたい…… その意図は、本書の隅々まで行き届いていて、成功をおさめています。ちょっと、こちらが言葉を失ってしまうくらい凄い。ただちに、本屋でお求めいただいて、この感動を味わってもらいたいほどです。これを読まずして何を読む! 簡単に紹介しておきましょう。いや、簡潔な紹介ができるか、すこし自信がありませんが…。● 西洋芸術音楽とは、知的エリート(僧職・貴族)に支えられた、 主に伊・仏・独を中心とした「紙に書かれ設計される」音楽文化のことであるラテン語・単旋律のグレゴリオ聖歌にはじまる、西洋音楽。フランスを中心とした、3拍子音楽(3位一体?)。9世紀頃になって、聖歌に付随するオルガヌムという旋律が登場して、あの「垂直」構造が生まれ、12世紀になって音の長さ=音価が表記できる記譜システムがあらわれる。聖歌は、お経と同じ。自然と節回しが生まれるもの。それなのに音の長さをなぜ指定するのか。そこに「言葉」から「音楽」が独立してゆく過程があらわれているという。そんな中世音楽は、そもそも聴かれることを必要としていない。音楽は数学、数的秩序、世界の超越的秩序の表れという考えは、西洋音楽史の底流にあるという。14世紀には、「祈りの音楽」から「楽しむための音楽」が登場し始め、2拍子の登場程度で大騒ぎするのが面白い。● イタリア音楽が覇権をにぎる、ルネサンス、バロック音楽● イタリア・フランスの「王侯生活を彩る祝典のための音楽」と対照的な、 ドイツ・バッハの宗教音楽楽しむための美しい旋律、ルネサンス音楽。それは、フランドルからイタリアへと受け継がれ、世俗曲から旋律を借用して宗教曲が作られ、モンテヴェルディ、パレストリーナといった「作曲家」をうむ。名もない「職人」に止まらない「芸術家」としての自意識の出現。そんな音楽文化は、商人の国、オペラの発祥地でもある、ヨーロッパの「音楽の都」ヴェネツィアで爛熟する。ルネサンス音楽とバロック音楽の分水嶺は、1600年頃。「和音」・「不協和音」の発見と、不協和音のもつ表現力を使った作曲技法の登場こそ、そのメルクマールだという。バロック音楽は、三和音、長調・短調の区別、拍子感をもち、我々にもなじみが深い。その音楽は、大きな秩序=「通奏低音」と、音色・音量・楽想で対照的なものを「協奏(競争)」させる「対照から生じるダイナミズム」を特徴とする。その結晶は、喜怒哀楽の情動表現をフルにつかう、オペラ芸術。同じ歌詞・旋律をみんなで歌うルネサンス期までのスタイルから、たった一人の主役が伴奏楽器を従える「通奏低音と旋律」のスタイルへの転換は、絶対王政の成立とパラレルでもあるらしい。「時代遅れ」なバッハは、なぜバロックの集大成、大作曲家とされたのか。「途方もなく書けて」「演奏して面白い」バッハ評価こそ、この本のキモ。この部分、必読でしょう。● 「万人に開かれた音楽」古典派の出現● 「音楽への愛」で結ばれる、公衆と作曲家の公共空間を支えた、 楽譜出版と、交響曲をメイン・レパートリーにすえる公開演奏会の出現対位法と通奏低音が消え、旋律のみになった古典派。古典派では、バロック的な交替・対照に止まらない、ソナタ形式――――2つの対立が、「対話(展開)」をへて、やがて「和解(再現部)」に至る>――――が出現して主流になる。そんな古典派の音楽とは、交響曲と弦楽四重奏に見られるように、「公的なものと私的なもの」の絶妙な均衡、「晴れがましさ」と「親しさ」の調和にあるという。喜劇オペラを華々しい活動の場にして、数十ものキャラクターにまったく違う主題音楽をつけて、きちんと描きわけながらも「形式」を瓦解させない。それどころか、それらの主題を終幕において、自然に統合させてしまう、天才、モーツアルト。それに対して、意思と形式、「横溢する生」と自己規律の完璧な調和の下で、「言うべきことはすべて言いきった」充実感とともに、「万人に開かれた(集団へ熱狂的に没入する次元まで切り開いた)」「限りなき昂揚」の音楽を世に送りだした、ベートーヴェン。なぜベートーヴェンの音楽が、近代市民社会であれほど崇敬され、日本にまで影響を及ぼしたのか。19世紀初頭、近代市民社会における労働の成立と、ベートーヴェンの主題労作の技法の同時代性に注目する、テオドール・アドルノを援用する筆者。 「ベートーヴェン=勤労の美徳の<音の記念碑>」というイメージは、クラシックになじみのない人間には、たいへん斬新な観点ではないか。(長くなったので、分割。明日の次号を応援してください) 評価 ★★★★☆価格: ¥819 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 7, 2005
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いやあ、実にスリリングなコラム集です(でいいのかな?)。有斐閣『書斎の窓』の連載コラム「経済学史の謎」の拡充版。本にするには、ちょっと量が足りない。そこで、ペーパーのダイジェストまで入れたので、必ずしも「謎」ばかりではなくなってしまった、とお嘆きのご様子。とはいえ、大御所の理論経済学者が、経済学史の難問に現代経済理論から取り組んでみようという姿は、なかなか面白い。文章も「ふんわり」しているので、初心者が読んでみても、なかなか面白い本になっているのがありがたい。<目次>1 『経済表』は重農主義なのか2 規模の経済か、不均衡分析か3 農業では牛も働く4 リカードウの変な経済地理5 リカードウでもできる!6 困るのは機械ではなく過剰投資7 過少消費論者ではなくサプライサイダー8 敵は本能寺(均衡理論)9 いつまでも面倒はみられない10 マルクスのサービス残業論11 マルクスの国際的搾取論12 ワルラスでマルクスを解明する13 墓誌銘は何を最大化しているのか14 企業数が大事ですか?15 ワルラス先生いわく、答えだけ合っても駄目!16 方程式が余った!17 方程式が足りない!18 返す刀でベーム・バヴェルクも19 マーシャルが生産者余剰を忘れた?20 売り家と唐様で書く三代目21 不安定ではダメですか?22 アメリカは労働集約的な財を輸出している!23 輸出が伸びるとその国は窮乏化する?24 うっかり展望論文など書くものではない!なかなか秀逸な、経済学史の「エッセイ集」になっていることがわかるのではないか? たとえば、2章。外生的な国際貿易の理論は、リカードやヘクシャー・オリーンに始まるが、クルーグマンによれば、「規模の経済」による同質国間同士の内生的国際貿易の理論も、ヘクシャー・オリーンに始まるらしい。ならば、アダム・スミスの「分業は市場の広さに制約される」こそ、内生的国際貿易論の開祖ではないか?と問題を提起。そこから、なめらかにスミスの分業論の「需要増加⇒超過供給⇒市場不均衡⇒予想外の分業促進」という、予想外の「不均衡動学」の側面を切り出してゆく。スミスが示唆するのは、不均衡状態の企業間競争から、内生的に発生する比較優位にもとづく同質国間の国際貿易論なのだ… へえ、へえ、へえ、ってなもんである。なんだか、うまく言いくるめられてしまった気がしてしまう。数式モデル付きなのに、なぜだか面白い。マルサスはケインズの先駆ではなく、サプライサイドの先駆者だ!マルクスの躓きは「時間」にある!(これは、どいつも同じだろう【笑】)リカードの分業論で出された、ポルトガルとイギリスの数字は、平均生産性ではなく、資本を含めた限界生産性の数字と見なければならないらしい。(これは、初め見たときには、僕も「変だな?」と思った【笑】)。また、アメリカは労働集約的な財を輸出して、資本集約的な財を輸入している、レオンティエフ・パラドクスはなぜ起きたのか??というのも新鮮。どうでしょう、なかなか面白い内容とは思いませんか?経済学の教科書的側面も、無くなってはいません。数式証明部分は、飛ばしてもらってもかまわない。かなり読みごたえのありますが、それにふさわしい得るものも大きい、一冊になっています。貯蓄をこえる過剰投資は、消費者が強制貯蓄という形で犠牲を強いられる。ワルラス体系では、利潤率低下の法則法則は否定される。競争を不完全にするのは、企業数そのものよりも、情報・通信・交渉・組織化コストである。収穫逓増と競争均衡の両立可能性は、収穫逓増は外部経済によるもので内部経済ではないから(マーシャルの外部経済)以外にも、生産費低下(内部経済)以上の価格低下によるもの、企業の寿命なども考えられていたという。輸出窮乏化論、輸出補助金否定論は、「2財モデル」という限界性から来ている部分が大きいという。輸出財の範囲を拡大させるならば、輸出補助金は経済的厚生を改善させるというのは、我々の実感とも一致していて、たいへん刺激的でしょう。経済学なんて知らなくても、人は生きていけます。ただ、新聞の経済欄を読みこなすには必要なもの。肩肘はらずに、いつのまにか経済学的思考に親しめる本書。秋の夜長に、ぜひ皆さんもお求めになってはいかがでしょうか。評価 ★★★☆価格: ¥2,205 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです 追伸そんなことよりも、経済学的な思考の技術を磨きたい!!いう方は、これがたいへんタメになってお勧めです。↓評価 ★★★★価格: ¥2,100 (税込)
Nov 4, 2005
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なかなか目配りのいきとどいた、中国経済の概説書が出ています。本日ご紹介するのは、香港出身の著名な経済アナリスト、関志雄。1992年、南巡講話、中国共産党第14回党大会以後、「社会主義市場経済」の道をあゆんでいる、中国。「労働に応じた所得分配」「計画による資源配分」「公有制」=社会主義から、「資本を含む生産要素に応じた所得分配」「市場による資源配分」「私有財産」=資本主義への過渡期。その変遷を理解する上で、たいへん有用な本になっています。簡潔に内容を紹介しておきましょう。● 旧体制の外側に成長させた<新体制>を通じて、旧体制を改革する条件を創出することを目的とした、中国の漸進的改革金融引締・財政緊縮、政府介入の縮減、市場による価格体系、外国為替自由化・自由貿易を特徴とする、による東欧・ロシアでおこなわれたビッグバン・アプローチ(ワシントン・コンセンサス)。その対極にある中国。こうした、「実験と普及」「新体制の育成」方式のデメリットは、2つのうち片方の、旧来からの利益構造を特権的に温存することで、公平かつ競争的市場環境が、歪んでしまうことにあるという。平均でみると、経済で「小康社会」建設を達成した今、中国では、経済・教育・社会全般における「全面的な小康社会」(江沢民)を目指しているという。そのため「5つの調和」として、都市農村格差・地域格差の是正、社会・公共サービスの充実、などが目指されているという。● 「所有者不在」を改めるため進められる、国有企業「民営化」● 「不平等」の原因は、市場経済化の不徹底にあると見る新自由主義者と、市場経済化にあるとする新左派の争い求められている、所有と経営からの政府の完全撤退。国有企業改革は、インセンティブ・メカニズムを改善させるため、権限委譲と利益譲渡によって進められてきたものの、深刻なコーポレート・ガバナンス欠如と「政企不分」(行政による企業機能の代替)という難題に、直面しているという。それは、「ソフトな予算制約」問題によって助長され、国有財産の「私有化」(流出)と債務の「公有化」を生んでいるらしい。ところが、国有株・法人株・社会流通株に分けられ、会計・情報操作も横行しているため、国有株を上場させたくとも、証券市場には中小株式所有者たちの強い不信が充満。また、両派の争いは、「公有制」をめぐる議論にも及んでいるという。公平性の観点から民営化批判・公有制維持をとなえる新左派。それに対して、新自由主義者は、「独占を通した民間への侵食」「所有権の明確化されていない資産侵食」を問題視して、「国有財産の流出」さえ体制移行コストのひとつ、とみているとは知らなかった。目からウロコ賞を差しあげたい。● 1990年代に噴出するようになった、国有銀行改革1980年代まで、物不足・売手市場だったため、国有企業向貸出に貸倒リスクがなかった中国。1995年「銀行法」成立まで、融資に自主権が乏しく、経営管理・リスク管理はないがしろにされていた。さらに、「財政の役割」「経営への政府介入」もあって、不良債権は雪ダルマ的に増えていったらしい。不良債権買取は、四大国有銀行の不良債権比率を2割にまで下げ、本格的な外銀の参入を前にして株式上場準備がすすめられている。とはいえ、総資産収益率は依然低いままで、国有企業改革は進んでいない。金融リスクの解消したものの、かわって財政リスクが膨れあがっているという。● 歓迎すべき、WTO加盟と人民元改革経済改革の優先課題として温家宝首相は、農村改革(租税・教育・流通・金融・土地管理)、国有企業改革、非公有経済の支援、金融体制改革、財政・税制・投資改革、市場体制の整備をかかげている。WTO加盟は、先進国市場へのアクセスのみならず、自国市場開放を通した、「人治」から「法治」への転換として歓迎すべきことだという。事実上、資本移動が自由になっている中国。人民元改革は「金融政策の独立性維持」のためにも不可欠であり、さらなる人民元切上げは、「通貨バスケット制」による管理変動相場制でも不可避という。ただ筆者は、人民元切り上げは交易条件の改善につながるものであって、「市場より工場」としての利用側面が強い日本企業にはマイナスに作用し、アメリカには米国債購入中止によるドル下落と金利上昇圧力として作用すると見ているようです。● 「平和台頭」の実現に欠かせない、資源制約の回避平和台頭を目指す中国。その実現には、高成長持続が必要で、資源制約を回避するには、これまでの「投入量拡大」から、「生産性上昇」にもとづいた発展戦略への転換が求められているという。21世紀の前半には、「共産党一党独裁の終焉」「中台平和統一」「米中GDP逆転」の順で歴史的事件がおこる、という予言によって、本書はおわる。分析は、総じて堅実そのもの。国営企業割合と反比例して経済成長率が落ちていること。内・外資企業の法人所得税率格差(33%と15%)の大きさ。経済特区は、もはや特区ではない。なによりも、樊鋼氏の提唱する「改革原動力は民間主導」説、「漸進的改革の成功は、今必要となっているビッグバン・アプローチを難しくしている」説は、なかなか興味深いものがあるでしょう。 ただ、ちょっぴり問題もあるのも事実。結局、なにがジレンマなのか、最後までさっぱり分からないし、説明もない。たんに「トレード・オフ」関係のことを言っているのであれば、そんなことくらい、どこの経済主体でもあるだろう。題名に偽りあり、ではないか?。また、人民元切り上げコストを減らすため、短資流出入管理強化と、外貨市場の整備によるリスク削減が、「同時」に提言されるセンスも疑問。この人は、「新左派」なのか、それとも「新自由主義」なのか、最後まで判然としない。さらにいえば、どの概説書もそうであるが、中国人民銀行と四大国有銀行の金融市場における取引関係が、ブラックボックスのままにされていて、まったく分からない。ここが明らかにされないかぎり、「国有銀行改革」の当否・成否なんて、言えるはずもないんでは? また、さかんに国有「商業銀行」が唱えられるものの、なんのことはない、長期信用銀行がない以上、ユニバーサル・バンキングにすぎない。となると、株式市場ルートが頼れない以上、結局、国有企業向・私営企業向設備投資は、今のまま、4大国有銀行担当になるんでは? その場合、人民銀行は彼ら市中銀行へどのように成長通貨を供給する体制になっているのか、とてつもなく重要になるであろうに、さっぱりわからんぞ。人民銀行は、公開市場操作と割引政策の2本立てのまま? 国有株市場消化もかねて、人民銀行は国有株抵当貸付ルートを市中銀行に開く、といった予定はないのか? このへん、まったく伝わってきませんな。とりあえず、中国経済の概説書を読んだことのない人には、お薦めかも。概説書レベルには飽きた、という人には薦めない。評価 ★★★☆価格: ¥777 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
Nov 2, 2005
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