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ソフトバンクの和田投手が、9月13日、なんと、お父さんになりました。妻でタレントの、仲根かすみさんに、女児が生まれたそうです。母子共に健康だそうで!何よりです。たははっ・・・おめっ・・・おめめっ・・・おめでとうございます!!!orzちょっと今からバッティングセンター行ってきます。和田バリのスライダーをバットの芯でとらえて、和田(西武)バリのホームランを打ってきます。(今日のテーマ曲・・・『この切なさはなんだろう?』ザ・ブロークンハーツ)
2006/09/14
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もーだめだ限界だ。って何度おもったかわかりません。いや、恋愛の事です。恋愛で振り回される事の莫迦莫迦しさを、そしてその恥ずかしさを、ずっとわかっていて平気の振りをずっとしてきたんですがやっぱり言ってもいいですか?苦しいです。正直、苦しいです。じゃ、やめてしまえばいいじゃない。やめられるのか?ねぇ、こころちゃん。私は今日、貴方と同じ事おもってるよ。やめられるのか?やめられるんなら、なんでこんなに苦しんでるんだろね?私は貴方に言った。自分にも言い聞かせるように。「期待しているから、苦しいんだよ。」本当に、そのとおりだと思う。貴方も、私も。私も、期待をほとんど、捨てた。諦観にも似た気持ちで。そうして、ずっとやってきた。そんなことに振り回されている自分が嫌だから、他の事に一生懸命、目を向けた。お仕事を頑張ってみたり、大好きな音に埋もれる為にライブにいってみたり、友人とただ楽しく飲んでみたり。それって、少しでも忘れる時間が欲しかったのかも。あの人の事を考える時間がいやだったのかも。でもね、夜中に、うっかりひとり目を覚ましちゃった時とかに、ぎゅっと目を瞑ってもう一度寝ようとしても、どんどん目が冴えちゃったりした時に。思い出しちゃうんだよねあの人の夢とか、見ちゃった時は本当に最悪だよ。だって、夢の中のあの人も、優しかった事なんてないからね。まるで、本当にあの人に冷たくされたみたいに、そんな気持ちになって、本当に最悪の目覚めなんだ。こんなんなら夢に出てくるなよ、ってね。あの人に心の中でつぶやいた言葉は、いままでたくさんある。宛名の無い手紙、崩れる程、重なった。っていうか、もうむしろ崩れて、ドサドサーって。そんで自分がそれに埋もれて、惨めな泣き声をもらすだけなんだよね。でも、でもね。あの人に言いたい事って、実際に自分が言葉であの人にぶつけるまえに、必ずそのまま、自分に返ってくるんだよね。「こんなの、付き合ってるって言えない!」(それはタブーだったでしょ?)「普通の、恋人同士になりたいだけ。」(覚悟して、始めた恋でしょ?)「なんで、会いたい時に会えないの?」(あの人が会いたいと思わないからでしょう。)「花火行ったり、お祭りに行ったり、したかった。」(相手の仕事を理解して、付き合ったんでしょう?)「本当は、一緒にいれたら、それでいいんだよ。」(始めから、あの人の気持ちはわかっていたくせに。)あのね、相手にあんまり私への気持ちがないって時は、もうやめた方がいいのでしょうか。苦しいなら、やめた方がいいのでしょうか。でも気持ちが無いのは、私の魅力が足りないだけなんじゃないでしょうか。そんなこと言っているなら、自分を磨けってことでしょうか。っていうかもうとにかく自分を磨けってことでしょうか。何も考えずに自分を磨けってことでしょうか。そしたら、自信もついてきて、あの人の事なんてどーでもいい日がくるのでしょうか。わかりません。本当は、あの人と会って、直接話したい。色色を、全部、話したい。でもわかってるのは、私がギブ、って言った時点で、この恋は終わる、っていうこと。だから、もう少しだけ、頑張ってみよう。諦めるのは、いつでもできる。そんなことをおもって、やってきたんですが。苦しさは、ずっとなくならないですね。だってすでに、一度、こんな私の気持ちを、相手にもぶつけてみたんです。そしたら、「僕は、好きでいてくれるのは、嬉しい事で」「でも、現状を変えるのは、始めに言った通り、無理で」「それで苦しいんだったら、やめた方がいいかも知れない」そんな答でした。そうですよねーあの人の言っている事は、付き合う当初から変わっていません。それをわかっていて、それでも付き合いたかった私ってなんて情けないんだろう人の気持ちって変わっていく事ってあるのかないや、それって期待しすぎなんじゃないだろうか私だって、どんなに相手が自分を好いてくれようとも自分が好きじゃなかったら、心は動かないわけで。それが変わっていく事って、あるんだろうか少しづつでも、このまま私が続けていって、ずっとずっと続けていって、そしたら変わっていく事って、あるんだろうか確か、去年の終わりごろも、私は同じ事で悩んでいて、苦しくて、でもそのまま、続けていく事を選んで、他の事に没頭して、あの人には、月、何回かメールして、そうして続けていったら、なかなかメールを返してくれなかったあの人が、ちょっとづつ、メールを返すようになってきて、自分からは滅多に電話をしてこなかったあの人が、たまに、用も無いのに電話してきたりして、そして夏には、自分から、会いたいって言ってきたりして、会ったら会ったで、とても久し振りとは思えないほど、普通だし、普通の恋人にあるような、ドキドキもお互い、いっぱいあって、私はそれで納得して、少しばかり安心して、ああ、これがきっと、この人のペースなんだろうな私は何を疑っていたんだろうかそんなことを思ったりしたんだよねなのに2ヶ月も経ってないのにこれだもんよだって人の気持ちなんて、2ヶ月あれば簡単に変わるもんじゃない?私はあの人が見えないよあの人の今が全く、見えないよぎゃーもう頭が狂いそうだよこの暇人めあの人は、めまぐるしい毎日を送っているとても充実してるみたいだそれに比べて、私のしている事はなんだまったく、情けないよすいませんね・・・へへへ・・・気持ち悪いですよねぇ、私許してくだせぇあの人が、幸せに、楽しく毎日を送っていくのなら例え、私が隣にいなくったって、それはそれでいいのじゃないだろうか。っていうかそれがむしろ、一番じゃないだろうか。私に願える事は、ただそれひとつじゃないだろうか。あとは、絶対に、自分のエゴだとおもう。まぁ、恋愛なんてエゴとの戦いか。なんなんだろうね自分の気持ちが、届かないだけ、ただそれだけなのに。あの人は、なんにも、変わっていないのに。なんでこんなに苦しいんだろうねいやんなっちゃうよ、まったくというわけで、なんか今からバッティングセンターでも行って松井バリのホームランを打って来たいとおもいます。嘘です。私の今、すべきことは、こんな恋愛ごとに振り回されることでは、絶対にないとおもう私は今、そんな場合じゃないだろうだから、自分が嫌になるんです。やっぱりバッティングセンターに行ってきます。嘘です。
2006/09/13
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フリッパーズ・ギターが1stアルバムを出してからちょうど17年経った、今年の8月25日、フリッパーズが2年間の活動の間に発表した、3枚のアルバムのうちの2枚が、リマスタリングされて、再リリースされた。17年経った、と今、書いていて、改めて驚いてしまった。私にとってのフリッパーズは、いまだに、その時とまったく変わらない、鈍らない光で、輝いているままだからである。初めてフリッパーズと出逢った中学生の頃から、5年後も、10年後も、やっぱりフリッパーズの音楽に、ちっとも時代遅れだとか古さだとかを感じないのである。私がフリッパーズ・ギターに出逢った事は、そのまま私の音楽人生の大きな転機となった。それほど衝撃の出逢いだったのだ。中学一年生、13歳、93年。当時、フリッパーズが解散してしまってすでに2年が経とうとしていた。つまり、出逢った頃にはもう、フリッパーズはいなかった。なぜもっと早くフリッパーズに出逢えなかったと悔やむ一方、(とはいえ、フリッパーズがデビューした89年には私はまだ9歳であった。)それを取り戻すかのように、遡って、フリッパーズの発表作品を次々見つけてきては、それこそ狂ったように聴いていた。その頃、クラスメイトにルミちゃんという女の子がいた。帰国子女で、アメリカから帰ってきてまだ日の浅かったルミちゃんは、ちょっと変わっていて、耳にはピアスの穴が無数に空いていて、例えばバレンタインだというと、スニッカーズ・チョコの小さいパックをクラスに持ってきて、みんなにこっそり配ったりしていた。私達はものめずらしさに、行った事のない異国の話を聞いたり、英語を話してもらっては、すげーすげーと騒いだりした。ルミちゃんは音楽の趣味も私たちとは少し違っていて、私たちが当時流行っていたチャゲ&アスカやB’Zを聴いている時に、よくわからない国の言葉の洋楽やロックを聴いていた。ルミちゃんと私は、同じ部活に入部したこともありどんどんと仲良くなっていた。ルミちゃんの言動も、行動も、私にとってはいちいち新鮮であり、興味深いものだった。そんなルミちゃんがある日、日本ですごい音楽に出逢った、と私にカセット・テープを持ってきたのが、フリッパーズ・ギターだったのである。当時の私たちの興奮といったら、すごかった。不思議なルミちゃんが持ってきた、この不思議なカセット・テープに、そしてそこに詰められた、フリッパーズ・ギターというバンドの衝撃の音楽の数々に、私はとても興奮した。どれも、今まで私が聴いてきた、チャゲ&アスカや当時流行の歌謡曲にはないものだった。「イカ天バンド」と呼ばれる、バンドブームに則った音楽にもないものだった。とにかく、聴いた事がない音楽だったのだ。中学生にやっとなったばかりの私には、ネオアコやギター・ポップも、またイギリスのインディシーンもアズテック・カメラ、オレンジ・ジュースももちろん、知らなかった。だから、目がチカチカするほどの衝撃だったのである。音源だけでなく、そのビデオ・クリップやインタビュー、形や服装、全てが刺激的でたまらなかった。『それゆけフリッパーズ!!名画危機一髪』(映像)のPV、映像のお洒落さ。べレー帽、アニエス,bに身を包んだ、小生意気な2人組。どこか冷めきった目で、大人を見下すような目で、おどけた動きをする2人。ひらりとかわす2人。美術館の近く。名画を持って、腰を低くして逃げる2人。小山田が先にささっと歩いてきて、後ろにいる小沢に、GO合図を送る。この演技が滑稽で、とても好きだった記憶がある。初期のフリッパーズの唄は英詩だったので、この2人が日本語を話す姿が映像として見れず、本当に日本人なんだろうか、でも同じ日本人の身近さなんて微塵もなくって。そこがクールで格好よかったのだ。その他の映像集も、大好きな「Camera!Camera!Camera!」のPVや、お遊び感覚の架空のCM(これが本当に素敵。大好きだった。コーンフレークのCMなど)何度見てもトリップできる「スライド」の綺麗な青色のPVはまるで海中を浮遊している気分にさせてくれたし、「Groove Tube」のサイケデリックな赤色の映像、マネキンにキスする小沢、まだ10代だった私をドキドキさせてくれた。(ちなみに「Groove Tube」の意味のヤバさはやっぱり帰国子女のルミちゃんが 教えてくれたのだが、その曲のあまりのセクシーさには 授業の合間に聴いた私の胸を、必要以上にドキドキさせ、 とても衝撃で、頭に流れて止まらなかった。嗚呼10代のうら若きことよ)こうして、もう15年前ぐらいに見た映像を、いまだにはっきりと覚えているのは記憶力の乏しい私にとっては奇跡のようなものだ。それだけ、衝撃は鮮明に残っている。ルミちゃんが一番最初にくれたテープは、シングルばかりが12曲つまった92年発表の『SINGLES』だったが、私はその音源を一番良く聴いていて、それこそテープが伸びてボロボロになるまで、聴いた。だから、いまでも、あのCDの始まりから終わりまで、はっきりと唄う事が出来る。曲順もしっかり頭に入っている。そればかりか、いまだに、脳内でそのままそっくり、音源を流す事もできる。まさにCDいらずだ。フリッパーズが僅か2年間の活動期間に出した、3枚のアルバムは、そのどれもが素晴らしいもので、1枚目の、ネオアコ・ギターポップの影響を色濃く出した初期の感じはやっぱりフリッパーズの魅力を語る上で欠かせないものだし、2枚目の、フレンチポップ、ソフトロック色が出てきた感じもまた、よい。そして日本語の曲が増えてきたのもこの頃の曲の最大の特徴であり、魅力だ。3枚目の、当時のイギリス・マンチェスター・ムーヴメントの影響を受けた、サイケデリックな感じ、独特の終末感は、この1枚でフリッパーズが終了することの予感を漂わせていて、なんとも言えなかった。私は、初期の頃の、いとこの来る日曜日を唄った『Hello』、まるで言葉遊びのような『Exotic Lolliopop』、授業を抜け出してピクニックに行く『Happy Like a Honeybee』、サンバパレード、狂ってやがるぜ!と唄う『SAMBA PARADE』、そして中期の、やっぱり名曲だと思う『恋とマシンガン』、カメラの中で3秒間だけ恋をする!の『カメラ!カメラ!カメラ!』、インストの格好良さを最高に引き出した『クールなスパイでぶっとばせ』、その歌詞が大好きな『午前3時のオプ』、後期に至っては、フリッパーズにとって明確な転機となった『ラブ・トレイン』、私が人生で最も好きな曲のひとつなんじゃないかの『スライド』、セクシーとサイケの真骨頂『Groove Tube』、これまた人生で最も好きな曲『Blue Shinin'Quidk Star』、これだけ書いても書ききれないほど、この僅か2年間で発表した曲のすべてにおいて、それぞれ深い思い入れがあり、やっぱりフリッパーズ・ギターがその後の私の音楽観にもたらした影響は計り知れないものがあることがわかる。3枚のアルバムが、それぞれまったく違った個性で光を強く放っており、ふつうのバンドがそれを長年かけてゆっくりと模索し、変わっていくところをフリッパーズは僅か2年間で辿ってしまったのだ。この成長は、あまりにも速い。そして、その速さが、フリッパーズを僅か2年という活動期間で解散させてしまったのだろうしその後の、長い伝説の理由にもなっているような気がする。まぁ、伝説というものはいつだって後になってついてくるもので、当時、フリッパーズは一部のマニアに受けるだけで、他のミリオンヒットバンドが与ったような恩恵には全く縁がなかったようだ。しかし、実は2枚目のアルバムを出した90年には、その年の日本レコード大賞で最優秀アルバム、ニューアーティスト賞を受賞している。本当に、すべてを駆け抜けるような、そしてパッと皆を煙に巻いて消えてしまったような、後には不思議な感覚、そして皆の言う、伝説のみが残っているような、そんなバンドだったようである。と、私が好きなバンドについて書くと長くなりそーだから控えていたんだけどやっぱり長くなってしまった。そしてくどい。文章で気持ちを伝える事の難しさを痛感しているところである。機会があれば、そのたった3枚しかないアルバムを、そしてそのどれでもいいからどれかを、もっと機会があればぜひ、映像も、体験して欲しいものである。そこには、フリッパーズ・ギターというバンドが残した、素晴らしい、そして至極、気まぐれな世界観がいまだにキラキラと、光を放っているはずである。
2006/09/12
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私の周りには深酒する人が多いので、友人と飲むと、たいてい2、3軒の飲み屋をはしごする。終わるのは朝も、通勤電車が混み始める、そんな頃。渋谷で飲む事など滅多に無いのだが、飲む時は、やっぱり朝までなので、大体の飲み屋さんは、5時ごろに追い出される。しかし、渋谷の知っているお店で一軒、24時間居酒屋と呼ばれるお店があり、5時に、他の店を追い出されると、残った人々できまっていつも、その店に移動する。狭くて、決して綺麗とは言えない飲み屋だが、(むしろ汚い)そして出てくる料理も決して旨いとは言えない代物だが、(むしろマズい)外にはまるまると太った鼠が、這いずっているような飲み屋だが、ついでにいうと野良猫が、食べ物を探して入り口にうろうろしているような飲み屋だし、まぁつまりは、汚い感じの飲み屋だ。よーするに。しかし、その時間、他に空いている店がないので、仕方なく、その周辺で今まで飲んでいた、まだまだ飲み足りない若者らがぞろぞろと入ってくるので、店はいつの時間も、わりと繁盛していた。先日も、またいつもの流れで、渋谷で飲んでいた私達は、その店に流れる事になった。朝の6時。眠い頭で、ぼーっとしていると、店の女店員さんが、注文を取りに来た。ふと、思った。こんな時間まで働いて、大変だろうなぁ、と。一体、この人は何時から何時まで働いているのだろう、と。ご苦労だなぁ。歳は、私の母親くらいだろうか。いや、母親よりも、もっと歳上な感じだ。60を越えたくらいかもしれない。私の母親が、家でぐっすりと眠っているこの時間に、こうやって渋谷の街の中で、次々やってくる、質の悪い、酔っ払いの相手をしている。私の友人達が、注文を次々言うのを、まるで本当に、お母さんのように、気丈に返す、その人。よく見ると、とても美人さんだった。その白くて透き通った腕も、喉も、もう今は、ずいぶん皺皺で年老いてしまっている。けれど、ひと目で、昔は大層、モテた人なんだろうな、とわかった。歳のわりに、痩せていて、面長の顔は、やつれている。美人さんは、そして苦労してきた人は、なんだか悲しみを湛えている。優しく笑っても、なんだか悲しい顔だ。その苦労が、果たして男によるものなのか、私にはわからないけれど、こんなに美人さんだったらば、男が放っておくわけがないと思った。しかし、いい男に出逢えていたのならば、何もこの歳で、こんな時間に働かずに済むのではないか。何度も書くが、歳はもう、60を越えている程である。こんな時間に働くには、辛い年齢だと思う。真っ赤な口紅が、薄い唇に塗られていた。それが、皺皺の白い肌に似合っていて、なんだかとても悲しくなった。後ろ姿の、黒いポロシャツに、ジーンズ。悲しい背中。私の中には、間違っても、同情という感情は生まれなかった。私なんかじゃとても、計り知れないような、色々な人生を送ってきている人の背中だった。綺麗な人。昔、きっととても綺麗だった人。それ故に、きっと人よりたくさん、苦労をしてきた人。こんな時間まで、渋谷の街のまんなかで、一生懸命に、働いている。私は、それをなぜか、とても尊いもののように眺めていた。私が口を開くよりも先に、私の友人が口を開いた。「あの、おかあさん、とてもお綺麗ですね。」びっくりした。まさか友人もそんな事をおもっているなんて。それよりびっくりしていたのが、当の本人さんで、目を円くして、そして、パッと頬を赤らめた。まるで少女みたいな表情だった。「いやね。こんな年寄りつかまえて。」「私は貴方達のお母さんくらいの歳なのよ。いや、もっと上かも知れないわ」女店員さんは、照れを隠すように、ハニカミながらそう言った。しかしその表情は、やはり、若かりし頃に美人と言われ続けていたのだろう、そんな懐かしさを帯びた、表情だった。そして、この人はやはり、絶対モテただろう。そんな愛らしさすら感じた。でも、きっと、この歳になると、言われる事も少なくなったのだろうか。だから、驚いたのだ。その人は続けた。「だって・・・あなたたちまだ20代でしょう?」「私の娘が・・・生きていたら、もう34だから。」「もう亡くなってるんだけど、」「やっぱり私の方が、あなたたちのお母さんより上なのよ」そういって、笑った。そのまま、少し照れながら、調理場に戻っていってしまった。私は、その人を初めて見たときに感じた、あの悲しさの正体が、少しだけ、わかった気がした。「娘さん・・・亡くしてるんだね。」友人がポツリと言った。私は何も答えなかった。ただ、私の心に響いていた言葉があった。「生きていたら、34だから。」パッと聞かれた時に、それにすぐに答えたことが、とても悲しく、響いていた。母親だ。母親は、ずっと、こうやって、いつでも、娘を亡くした今でも、生きていたら何歳、生きていたら今頃、そう思い続けて生きていくものなんだなぁとおもった。なんだか私は、涙を零しそうになった。だから、友人にバレないように、慌てて横を向いた。気丈に振舞っている、その母親も、ずっとその子の事をずっとずっとずっと思いながら、そうやって生きていくものなんだなぁと。苦労してきた人は、悲しい。でも苦労してきた人は、優しい。私にはこれから、どんな人生が待っているのか。どんな苦労にも、凛として、立ち向かわなくてはならない。悲しいことだって、きっときっとたくさんあるだろう。私は、その時、どんな顔をして立ち向かうのだろうか。そんなことをたくさん、考えた。その人の背中を見ながら、たくさん、考えた。店を出る時も、その人は、私たちに、照れたままの笑顔で、「ありがとうございました」といった。「ご馳走様でした」と返した私だったけれどもまた、このお店にきっと、こよう。そんな事をおもっていた。
2006/09/07
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