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もう一軒、「太宗路」に面したところに、見るからに高そうな「慶州パーク観光ホテル」はあるが、此処は、勿論、論外である。 とは言え、既に午後9時を過ぎてしまっているから、少しだけど焦りのようなものを感じていた。 焦りというより、不安と言った方が適切かも知れない。 それなのに肝心の「インスホテル」は見つからない。 仕方がないなぁ、「ツーリストホテル」の値段を聞いて、安けりゃ、もう此処に泊まるということにして、ホテル探しはこれで一件落着ってことにするかということになった。 それで、意を決して「ツーリストホテル」に入って行った。 フロントで部屋はありますかって尋ねると、端末を叩いてくれて、あると言う。 幾らですかって尋ねると、50,000ウォンだという返事。 日本円で4,854円だ。 当初決めていた「インスホテル」になおも未練はあったんだが、1泊お願いすることにした。 部屋は少し古い感じがするが、部屋の大きさからしても、まさに日本のビジネスホテルのようなものだ。 テレビがあって、ちょっとしたテーブルとソファがあった。 テレビのチャンネルは韓国語のみだから、つけっ放しにして寂しさを紛らわすには良いが、楽しむことは出来ない。 ポット、ティーパック、湯のみなどは無く、その代わりに冷蔵庫の中に飲み物が入っていた。 小さな冷蔵庫の上には中の物は無料ですって書いた紙が貼ってある。 500mlのミネラルウォーター1本、缶ジュース1缶、栄養ドリンク1本だ。 なんだか、300円ほど戻って来たような気がして嬉しいって喜んでしまった。 お風呂はバスタブは無くシャワーなんだが、肝心のお湯が出ない。 石鹸はホテルなんかに用意されているあの小さな石鹸なんだけど、誰かが使った使い古しだ。 歯ブラシはない。 歯磨き粉はチューブ入りのものだが、家庭用の大きなチューブ入りで、しかも、中身は既に2/3ほど使われているものだ。 泊り客が順々に使って来たんだろう。 ここで聡明な方ならば気付くだろう、なんて地球に優しいホテルなんでしょうってね。 お湯は出さない、石鹸は皆で無くなるまで使う、歯磨き粉も皆で一つの大きなチューブの物を無くなるまで順々に使う、歯ブラシは準備しない、こうして余計な汚水やゴミは出さないなんてね。 そして、最後の最後の極めつけはこうだった。 まさに止めを刺されたようなものだ。 余りのショックで、ソファにへなへなへなって座り込んでしまった。 と言うのは、枕元の電話器の横に備え付けられたメモ用紙を何気なく見て愕然としたんだ。 このメモ用紙には、なんと「INNS TOURIST HOTEL」って書かれていたんだ。 何、「インス ツーリスト ホテル」だって、このホテルが。 待ってくれよ。 「慶州インス観光ホテル」って言うから、「INNS HOTEL」とばかり思っていたんだよ。 「観光」って「TOURIST」ってことなのかい。 知らなかったなぁ。 「TOURIST」って観光客のことじゃなかったっけ。 おいおいおい、なんてぇこったい。 「インスホテル」が「ツーリストホテル」だなんて、そんなこと知らないし、気付かないから、あっちこっちってめちゃんこ探し回ったんだぞ。 疲れるなぁ。 本当に疲れがどっと出て来てしまったよ。
2005年01月31日
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午後7時40分、お店を出た。 ひょうきんなもので、お腹が一杯になると、少し落ち着いて「インスホテル」が探せそうだ。 今度こそ見逃さないぞって心に誓って、この道じゃないかって思った道を北に向かって歩いて行った。 しかし、このままこの話を続けると長くなるので、途中を飛ばすことにしたい。 実はそれからも、北と南の間4~500mを行ったり来たり何度も往復することになるんだ。 尤も、同じ道を行ったり来たりするんじゃなくて、南北に走る道が3本か4本あって、あれでもない、これでもないって北へ行ったり南へ行ったりって歩き回る破目になってしまったんだ。 結局、「インスホテル」は見つからず、やっぱり潰れてしまったんだっていうあたいなりの結論を出して、探すことを諦めることにした。 だけど、本当のところは、あたいが大失態をしでかしていただけのことで、「インスホテル」は潰れてはいなかった。 それはずぅっと後になって分かることになるんだ。 このエリアは、結構、モーテルが多いんだ。 実際、歩き回ってみると、10軒ほどあったような気がする。 日本のような、きんきんぎらぎらって言う感じのネオンサインが輝いている訳ではない。 もう少し落ち着いた感じ、むしろ地味とも言えるような感じがする。 韓国のモーテルは日本のモーテルとは少し違うって聞いてはいたが、だけど何となく日本のモーテルを想い浮かべてしまって、今一つ、気乗りがしない。 とは言え、「インスホテル」が無いんじゃ仕方がないだろう、そろそろ覚悟を決めて、今日はモーテルにするかって思ってみたり、まさに悩み多き青春である。 何度も何度も地図を確認しながら、この辺りを廻りまわったものだから、そうこうしているうちに、どうも「インスホテル」があったに「ツーリストホテル」があるように思われて来たんだ。 確かに此処にホテルがある。 ホテルにはネオンサインや横断幕なんかもあるんだけど、ハングル文字だから、なんて書いてあるのかさっぱり判らない。 唯一、それと判るのは、ホテルの正面玄関の上にある青色の英文字の電飾灯だけである。 そこには「TOURIST HOTEL」って書かれている。 持っている地図って言ったって、略図に近い地図だし、道路の名前も分からないから、自分の立っている位置だって地図上では何処だか分からない。 「ツーリストホテル」ということだと、「インスホテル」が買収されて、名前を「ツーリストホテル」に変えたってことなのかなぁって想ってみたりする。 そして、時間が経つにつれて、多分そうなんだろう、きっとそうなんだって、少しずつニュアンスが変わっていって、最後は「インスホテル」は買収されて、「ツーリストホテル」に名前を変えたんだって言う結論になって、やっぱりねぇ、そうなんだって納得してしまった。
2005年01月30日
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この道を南に行けば、右手にホテルがあるはずだって信じて歩いて行ったのだが、結局、見つからなかった。 どこで見逃してしまったのだろう。 昼間の高速バスターミナルに来てしまった。 おかしいなぁ、この道沿いにあるはずだったのになぁ、どうしてないんだろうって不思議でならない。 潰れてしまったのだろうか。 そんなことを考えながら歩いていると、小さなお店の前を通り掛かった。 その時、前を歩いていた若い女性が一人でそのお店に入って行ったんだ。 若い女性が一人で入って行けるところって、結構、安くて美味しいってことが多いなんだよねって、さも分かったふりをして、あたいもこのお店に入ることにした。 ホテル探しは、まずお腹を膨らせてから、ゆっくりやろうやってチェンジマインドしたんだ。 このお店、バスターミナルにやって来るお客さん達が利用する食堂っていう感じだ。 広くはないんだけれど、カウンターに5~6人、4人掛けのテーブルが4卓ほどあっただろうか、びっしり詰めれば、少し狭いが20人は入れるお店だ。 ご主人と奥さんの二人で切り盛りしている。 日本と違って、厨房が丸見えっていうか、お店の一角に厨房があるから、二人の働きぶりが手に取るようだ。 ご主人は奥の方で火を使って料理を作っている。 奥さんは手前の方で食器を洗ったり、中に入れる具なんかを洗ったり切ったりする他に、ご主人が作った料理を運んだり、食べ終わった食器を下げて洗ったりしている。 二人共、甲斐甲斐しく働いている。 見るからに真面目そうな二人だ。 何か頼もうと、奥さんに何がありますかって尋ねると、彼女は日本語で、ラーメン、うどん、きんぱがあると言う。 きんぱって何ですかって聞き返すと、既に作られたものがあったので、それを見せてくれた。 きんぱって日本で言う巻き寿司のようなもので、具の周りにご飯があって、それを韓国海苔で棒状に巻いているのである。 ただ、太さとか大きさからすると、巻き寿司というよりは、中に入った具こそ違え、胡瓜巻きとか河童巻きに近いんじゃないかなぁって思う。 味は食べていないから分からない。 あたいはオーソドックスなラーメンを頼んだ。 先に入った若い女性もラーメンを頼んだようだ。 そして、あたいの直ぐ後からどやどやと入って来て、一つのテーブルを占領してしまった高校生の男の子4人組はきんぱとうどんを頼んだようだ。 クラブ活動を終えて家に帰るのだろう。 大きな荷物を持っていた。 程なくして、奥さんがラーメンをプレートにのせて持って来てくれた。 お箸と蓮華は金物だった。 味はなかなか美味しい。 日本で言うあっさり系の醤油ラーメンだ。 これでもかこれでもかって、工夫に工夫を重ねたような、ごてごてした味ではない。 まさにシンプルという言葉に尽きるラーメンだ。 麺はどうも生麺ではなく、乾麺のような感触だったが、それはそれでまた美味しい。 先に食べ終わったお客さんが支払う様子を見ていると、2~3,000ウォンを払っているようだ。 4,000ウォンとか5,000ウォン払っている気配はない。 まずは一安心ってことだ。 食べ終え、お金を払おうと、奥さんに幾らですかって尋ねると、2,000ウォンだと言う。 日本円で194円だ。 やっぱり思った通り、安いねぇって、心のうちでつぶやいて、大いに納得だ。 若い女性が一人で入って行ったり、クラブ帰りの高校生が4人もぞろぞろと入って来るようなお店だから、安いってことは証明済みだったのかも知れない。 斯くして、韓国慶州・釜山の一人旅の初日のディナーは、ラーメン一杯、総費用は日本円にして194円って言うことになった。
2005年01月29日
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「月城路」に沿って、東北東に2kmほど行くと慶州駅がある。 慶州駅の手前400mのところで左折して、1.4kmちょっと西に行けば、今日、泊めてもらおうと考えているホテルがある。 案内所でもらった観光ブックでは、市内の観光宿泊施設として2軒紹介しているんだが、その内の1軒にあたる。 慶州インス観光ホテルだ。 星の数は2つだ。 3つ星ではない。 3つ星ホテルを安心と安全の観点から信条として来たあたいも、近頃、金の切れ目が縁に切れ目ならずも、息切れして来ている。 2つ星でも十分だって思うようになって来たのだ。 と言うか、泊まれさえすれば、どこでも良い。 どこでも良いのなら、安い方が良い。 ただ、それだけだ。 このホテルは1泊49,000ウォンだとガイドブックには記載されている。 日本円にして4,757円。 想像するに、ビジネスホテルって感じなんだろう。 暫く歩いてゆくと町の中心に戻って来たようで、民家や商店が建ち並んで来る。 暗くなっているから、お家の灯りやお店の灯りが心の支えになる。 そんな灯りに照らし出されるものを次々と見て行くんだが、まぁ、文字という文字、ことごとくハングル文字だ。 これ程までに徹底してハングル文字っていうのもお見事である。 ソウルじゃ、まだまだ観光客の立場を思いやってか、漢字や英文字が併記してあったものだが、ここ慶州はそんなことお構いなしで、ハングル文字一辺倒だ。 夜の7時近くなって来て、お腹も空いて来た。 お昼は機内食で済ませたから、お腹が空いて当然なんだ。 だから、どこかで夕飯を食べなくっちゃってお店を探しながら歩いているんだが、自慢じゃないが、外からじゃ、なに屋さんなのか皆目判らない。 食べ物屋さんも色々あるんだが、ハングル文字が躍っていたりするお店はちょっと入り辛い。 韓国語で何にしましょうかって尋ねられでもしたら、お手上げだ。 一番期待してるのは、写真付きのメニューが用意されているお店ってことなんだが、そんなお店どこにもありゃあしない。 結局、「月城路」を左折して、慶州の繁華街をどんどん行くんだが、ハングル文字に圧倒されてしまって、お店に入ろうという勇気が湧いて来ない。 ああでもない、こうでもないってぶつぶつ言いながら、ネオンサインに誘われて、明るい方に明るい方にって歩いて行くうちに、慶州の駅前通りに出てしまった。 それで、そのまま西に歩いて行くと、「東大路」に来てしまい、ええぃままよって渡ると、なんとそこはもう中央市場だった。 と言うか、正しくは中央市場のような雰囲気が漂うところだったって言うべきなのであろう。 兎に角、もらった地図は日本語で道路名が書かれているから、読めば分かった気になるんだが、実際の道路標識なんかはハングル文字で書かれているから、一体、どこのどんな道路を歩いているか、正直言って、分からないってことなんだ。 午後7時も過ぎちゃったから空は真っ暗で、ネオンサインの灯りだけが頼りになって来た。 それで、夕飯探しは後にして、まずは今日泊まるホテルを決めなきゃって思ったんだ。
2005年01月28日
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もらった観光ブックによれば、「国立慶州博物館」について、以下のような記述がある。 「新羅千年の歴史の縮小版:仁旺洞(インワンドン)の半月城の東側に位置して、ソウルの国立中央博物館に次いで韓国最高を誇る。 新羅千年の歴史を一目で見学できる文化の殿堂として国内・外の観光客らに人気が高い。 庭内に入ると一隅の鐘閣にある巨大な釣鐘を最初に見ることが出来る。 これは新羅時代最高の名鐘と評価されている聖徳大王の神鐘(一名エミレーの鐘)である。 10数万点の貴重な所蔵品の中から本館と三棟の別館に常時3,000余点が展示されている。」 正面に本館、右手に鐘閣、右手奥には雁鴨池館、左手に古墳館、左手奥には展示・収蔵庫がある。 「国立慶州博物館」は本館1棟と別館3棟、それに鐘閣から成る。 最初に足が向いたのは「鐘閣」であった。 この聖徳大王の神鐘は東洋一の大梵鐘だと言う。 確かに、大きい。 見たところ、直径が約3m、高さは吊り下げ部も入れると5mもあるのだろうか。 兎に角、東洋一大きいっていうことだから、推して知るべしである。 その大きさに惹かれてってこともあったんだけど、実は、あたい、もっと違った意味で見てみたくもあり、見たくもなしっていう複雑な心境だったんだ。 と言うのは、あたいの持ってるガイドブックによれば、この「聖徳大王神鐘」について、「鐘を鋳造するときに女の子を人柱として溶けた銅の中に投げ込み、完成後に鐘を撞いたところ、『エミレ(お母さん)!』と聞こえたという悲しい伝説があり、別名「エミレの鐘」とも言われている」と記載されていたんだ。 日本でも、昔、お城を建てるときに人柱云々って話も耳にするものだから、という悲しい伝説がありって書かれているが、実際に、遠い昔、韓国でこのような悲しい話があったとしても何ら不思議でもないように思われて、ついつい助けてって泣き叫んでいたであろう少女と溶けて真っ赤になった銅とを想像してしまう。 結果、余りにおぞましくって背筋が氷付いてしまうってことになる。 だから、そのことを思い出して、大きな鐘を見ていても、心はすっかり沈んでしまっていたんだ。 正面の本館は50m×50mほどの大きさで、2階建てなんだけど、1階部分は倉庫にでもなっているのか、はたまた事務所にでもなっているのか、観光客は入れない。 だから、2階の展示場に直行となる。 展示されているものは、先史時代から原三国時代までの遺物や、新羅の仏教彫刻や金属工芸品である。 例えば、金冠、金製の高杯などである。 古墳館と雁鴨池館は何故だか閉まっていた。 理由はハングル文字に聞かないと分からない。 本館の裏は広い庭園だ。 池もあって綺麗に整備されている。 また、仏国寺にある「多宝塔」と「釈迦搭」の複製版とも言うべき二つの搭があって、石材も新しくって歴史こそ感じないものの、博物館らしい落ち着いた雰囲気を醸し出していてなかなか見応えがある。 午後6時10分、あたいは「国立慶州博物館」を出た。 陽も落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。
2005年01月27日
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ガイドブックには以下のように記載されている。 「雁鴨池:文武王14年(674年)に建築された庭園。 新羅は領土を拡張していくに従い国の収入も豊かになっていった。 王族たちは派手で贅沢な生活を送るようになり、大きくて華麗な宮殿を築くのに関心をおいた。 そうして朝鮮半島統一直後の674年にはこの雁鴨池を造り、679年には華麗な宮殿を建てる。 宮殿は臨海殿と呼ばれたが、今は建物の跡しか残っていない。 雁鴨池という名前は、庭園が本来の豪勢な姿を失い、池にアシや浮き草が生い茂り、鴨と雁が飛んでいるのを見た朝鮮王朝期のある文人が付けたものだという。」 更に検証するべく、もらった観光ブックを見てみると、「三国統一を成就した偉大なる英主文武王が統一後に造成した離宮であり造園技術の白眉と評価されている。 1975年池と周辺の発掘調査が行われ新羅時代の宮中生活の断面を知る貴重な各種遺物3万3千余点が出土し、現在国立慶州博物館の雁鴨池館に展示されている。」と記載されている。 「臨海殿址(雁鴨池)」の中は非常に綺麗に整備されている。 池も手入れが行き届いている。 また、3棟の社のうち、入口から2つ目の社の中には、その中央にガラスケースがあって、ミニチュアの臨海殿が入っている。 ミニチュアの大きさは3m×3mもあるだろうか。 写真を撮って来たが、ミニチュアと言えど風格があって、さすがに立派である。 現存すれば、さぞかし素晴らしいんだろうなぁって思ってしまう。 「臨海殿址」を出て、「月城路」沿いを南東に400mも行くと交差点がある。 ここを右折すると、100mも行かないうちに「国立慶州博物館」だ。 着いたのは午後5時15分だった。 まだ周囲は明るい。 閉館時間は午後7時だから、まだ大丈夫。 時間は十分ある。 入場料は400ウォンだった。 日本円で39円だ。 本当に安い。 因みに、7歳から24歳までの学生は200ウォン。 日本円で19円だ。 24歳まで学生ってことは、韓国には徴兵制があるからかなぁなんて思ってみたりする。 当然、6歳以下は無料だ。 それに、30人以上の団体も1人当たり200ウォンだという。 と言うことは、30人以上で押し掛ければ、1人19円ということだ。 当たり前なんだろうけれど、兎に角、安い。 日本の物価と韓国の物価を単純に比較すると、日本を100とした時、韓国は70~80だと思う。 否、80~90かも知れない。 それなのに、韓国の歴史的な観光名所の拝観料だとか、入場料だとかは日本に比べて10分の1とか、20分の1程度になっている。 これじゃ、そこで働く人の給料も出ないじゃないなんて心配になって来る。 日本人が韓国に来て観光地をあっちこっちと廻って、安い、安いって感激するのは良いんだが、韓国の方が日本に来て、観光名所を廻れば、目の玉が飛び出す程、びっくりするんじゃないかとさえ思ってしまう。 その驚きようが目に浮かぶようだ。
2005年01月26日
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「石氷庫」を見終え、「半月城」を出ることにした。 下りて行くとき、気付いたのだが、確かに石垣がある、ある。 低い石垣だから、背の高い草やちょっとした木なんかがあると見逃してしまう。 「月城路」に出た。 道路を渡って、右に100mほど行くと「臨海殿址(雁鴨池)」があった。 木々の間から建築物が見えたのだ。 社が3棟見える。 何やら見応えのあるところに来たようで嬉しくなった。 入場料は910ウォンだった。 日本円で88円。 「臨海殿址(雁鴨池)」って、大きな「雁鴨池」があって、その池の直ぐ傍に、これが韓国の建築物って言う感じの大きな社が3棟、それぞれ100mも離れて建っている。 「雁鴨池」自体が幅70~80m、奥行き200m位の大きなの池で、「臨海殿址」のエリアにすれば、幅400~500m×奥行き700~800mもあるのではないだろうか、池の反対側には行っていないので、良く分からないんだが、その位の広さはありそうだ。 3棟をよくよく見ると趣は同じようなのだが、形はそれぞれ少し異なっている。 黒瓦葺きで、高さは約10m、幅、奥行きは共に20mもあるだろうか。 いづれも色褪せているが、梁は緑色、柱は朱色だ。 柱はざっと数えて24本。 数え間違ったとしても、少なくともその前後だとは言える。 戸なんか一切なくて吹き抜けだ。 近くには70~80cmほど高く盛り上げられた平地があって、一面芝生のような草が生えていて綺麗に刈り揃えられている。 その平地の上の丸い平石がある間隔で規則正しく並べられている。 合計すれば20個とか30個にもなる。 実は、この石の上に大きな建物の柱が立っていたって言うんだ。 そうそう、それで思い出したのだが、「奈勿王陵」の近くにも、盛り土されている平地があって、その上には丸い平石が規則正しく並んでいたんだ。 どちらも当時はこの丸い平石の上に柱が立っていて、その平石の並び具合で建物の大きさが判ってしまうってことになる。
2005年01月25日
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「半月城」に登り終えると三叉路に来る。 ここで直進するか、左手に行くかの選択を迫られる。 もらった地図ではどうも左折するのが正解のようだ。 それで、左に折れて400mも行くと正解だった。 「石氷庫」があったのだ。 外観は芝生のような背の低い草が一面を覆っている塚に見える。 しかし、此処に来るまでに見て来た塚と比べると、少し平ったい感じがする。 高さは7~8m、裾の直径は30mもあるかも知れない。 その塚の一角を直角に切り込んで、その一面を出入り口にしている。 大きな石が積み上げられて、中に空間を設けている。 その空間に氷を入れて貯蔵していたのであろう。 入口の天井の石には右から「石氷庫」と漢字で記載されている。 ハングル文字が躍り狂うこの慶州で漢字に遭遇すると、ほっとしてしまう。 もらった観光ブックには、「朝鮮王朝英祖14年(AD1938)に築造された氷を貯蔵した氷室である。 高さ5.21m、奥行き12.27m、アーチ型」と書かれている。 ただ、塚の高さと石室の高さを比べると、あれって感じるかも知れないんだが、石室の床面は1mか2mほど掘り下げてあったから、矛盾はしていないように思う。 また、この「石氷庫」の前に小さな石碑があって、その石碑には「石氷庫」の説明書きがあった。 「慶州石氷庫:この石氷庫は朝鮮時代の英祖14年(1738)に月城の中に作られた氷室である。 石氷庫内の石室は長さ19m、幅6m、高さ5.45mで、長方形をしている。 約千個の石で作られており、虹の形をしている天井には3つの換気口があり、底には排水のための溝が作られている。」 説明書きの通り、この「石氷庫」は270年ほど昔に造られたもので、余り古くないようだ。 入口には10cmか15cm位の間隔の鉄格子の扉が閉まっているので、中には入れない。 しかも、照明灯はないから、入口から零れて入る微かな光が頼りだ。 石室内は暗くって、目を凝らして見ないと何も見えない。 当然、中は積み上げられた石材で囲われた空間があるのみだ。 だから、大きな感動はない。 尤も、入場料は取られていないから、文句は言えない。
2005年01月24日
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ガイドブックには、「鶏林」について、以下のようなことが書かれている。 「ここは後の新羅王族、慶州金氏の始祖である金閼智の誕生秘話で知られる所。 新羅4代脱解王のときに神秘な光が樹林の中から放たれ、紫雲が天から地までつながっていた。 その光をたどって行くと、大樹の枝に金の櫃が下がっており、その傍らで雄鶏が高い声で鳴いている姿があった。 金の櫃を開けたところ、中から眉目秀麗な男の子が生まれ出た。 その赤ちゃんを金閼智と名付け。 ここから金氏の系譜が始まったという。 脱解王はこの樹林を雄鶏にちなんで鶏林と呼び、国号を鶏林とした。 その後、金氏が王になり、国は繁栄する。 国号は後に新羅と改称されるが、その後も鶏林という言葉は朝鮮半島を意味する別称として定着している。」 「鶏林」では、見学者はあたいの他には、若いカップルや家族連れなど、4~5組しか見掛けなかった。 一応、「鶏林」内をめぼしいものは何かないかって、うろうろと歩き回ってはみたんだが、それは、結局、無駄だった。 それで、太っ腹なあたいのこと、入場料の280ウォン、27円は「鶏林」にぽんと寄付したってことにして、「鶏林」を出た。 次に向かった先は「半月城」だ。 ただ、城って言っても、建物の残骸すら在る訳でなく、石垣だけが辛うじて残っている、そんな城跡だ。 それも、日本だったら、高く積み上げられた石垣やお堀、それに白鳥なんかを思い浮かべてしまいそうだが、30cmとか40cm位の高さの石が、4段か5段程度、積み上げられた石垣だから、良く良く注意して見ないと、草木に覆われているから見逃してしまう。 それも、だらだら坂を登ったことは、事実だが、高さにして20mも登ったのか、疑問である。 せいぜい10m程度登ったに過ぎないのかも知れない。 それほど高くない所に登り詰めると、凡そ平地と思われる土地が広がっていて、弓道や乗馬を楽しんでいる人達もいた。 ガイドブックは巧く説明している。 「半月のような形の丘を削り、ところどころに土石を混ぜて築かれた城。 もとは宮殿の周りを囲む形であって、12世紀の歴史書『三国史記』には「朴赫居世21年に宮を造り金城と呼び、婆裟王21年には金城の東南に城を造り月城と呼んだ。 その長さは1023歩もあった」と記録されている。 現在は何の遺物もなく、朝鮮王朝時代に建てられた石氷庫(氷の貯蔵室)が残るだけ。 森が茂り広々とした芝生は慶州市民の憩いの場になっている」と言うことだ。
2005年01月23日
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「膽星台」の入場料は何を隠そう280ウォンなんだ。 日本円で27円。 安いって言う以外、何とも言いようがない。 これだけ安いと、ケチって20mも離れたところから見ているだけで、あなたは満足出来ますかって言うことになる。 それで、あたいがこの280ウォンをケチらなかった証として、日本語で書かれていた説明書きについて報告します。 「慶州膽星台:膽星台は新羅時代の善徳女王(在位632~647年)の在位中に造成された東洋で最古の天文観測台である。 膽星台は花崗岩を加工した基壇の上に27段の石段を円筒形の曲線で積み上げ、さらにその上に丸く長い長大石を「井」の字形に重ね、頂上部で天文観測できるようになっている。 規模は下部直径が5.17mであり、高さは9.4m、地台石の1辺の長さは5.35mである。 膽星台は直線と曲線とが見事に調和をなしている安定感のある建築物である。」 次に行くところは「鶏林」だ。 聞いた通り、林っていうことだから期待は出来ない。 「膽星台」は大小二つの遊歩道が交差する所の北東にあった。 それで、細い方の遊歩道を南に200mほど行くと三叉路にやって来る。 其処を右折すれば、右手一帯が「鶏林」と呼ばれる所だ。 「鶏林」の入口には小さな事務所のような建物があって、その窓口で入場券を売っている。 しかし、此処が観光名所だと言われても、う~んと唸ってしまいそうなほど、何とも言いようのない所だった。 中に入ると、樹木なんかはまばらにあるんだが、その他には何か神様でも祀っているような小さな社があるだけだった。 一言言えば、拍子抜けだ。 それでも、入場料が入場料だから、文句は言えない。 入場料は「膽星台」と同じく280ウォン。 日本円で27円。 当然、安いって言うことになるが、ここばかりは当たり前って感じがする。 しかし、韓国の人々にとっては歴史的な価値があるのだろう、もらった観光ブックにも、あたいの持っているガイドブックにもそれなりに尤もらしいことが書いてある。 もらった観光ブックには「元は始林と呼ばれたが、慶州金氏の始祖である金閼智(キム アルヂ)の誕生説話に依り鶏林と呼ばれてきた。 鶏が鳴いているそばの金のひつから発見された男の子を脱解王が養育し、金のひつから生まれたので、金と賜姓にした。 慶州金氏(木貫)はこの金閼智から始まって居り、彼の7世孫である味鄒王(ミチュ/第13代AD262~284)が金氏としては初めて王になり以降37名の子孫が王位を就いている。」と記載されている。 なる程、なる程って思いはするものの、今一つ、ピンと来ない。
2005年01月22日
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「膽星台」は第27代善徳女王(632~647年)の時代に造られた天文観測施設で、東洋で最も古い天文台と言われている。 また、韓国の国宝31号に指定されているとのこと。 この天文台は石のブロックを積み上げて造られている。 高さが約9m、下部の直径が約5m、そして、上部の直径が約3mの円錐台のように見える。 但し、最上層は4辺から成る正方形状に、また、最下層は正方形に石が敷き詰められ、それがベースになっている。 この「膽星台」は平地に建っているから、目立っていて遠くからでもそれと判る。 ガイドブックにはこのように説明されている。 「膽星台は外形上、3つの部分から出来ており、四角の二重基壇を積み、その上に直径が違う円筒形で27壇を築き上げ、天辺には井の字型に石を組み合わせている。 各石壇の高さは約30cmで花崗岩の一つ一つは同じ形であるが、各石壇の直径がだんだんと減って、緩やかな曲線を描いている。 また、膽星台に積み上げられている石の数は361個半で、これは旧暦で数えた1年の日数と同じである。 円筒形の石壇27壇と井の字部分まで含めた28壇は基本星座を象徴しており、石壇の中にある四角の窓の上と下は12壇ずつで12月すなわち24節気を意味している。」 とのことだが、解ったようで解らない。 天文台っていうからには、上部に望遠鏡まがいのものが設置されているんじゃないのって思ってしまうから、益々、どうして天文観測が出来るのか解らなくなってしまう。 尤も、中央部には四角い窓が設けられているんだが、今ひとつ、その窓の果たす役割が解らない。 観光案内所でもらった観光ブックには以下のように説明されている。 「善徳女王(ソンドク/第27代)の世(AD634年)に築かれた天文台。 現存する天文台としては東洋最古と言われている優れた構造と象徴性を持つ新羅築造技術の傑作品である。」 この「膽星台」は平地の上に建っていて、周囲のどこからでも見ることが出来る。 しかし、このエリアには、一応、周りには囲いが設けられている。 外から中が見えないように隠すための囲いじゃないようで、まる見えの状態だ。 であるにも拘らず、入口では見学者から入場料を取っている。 考えるに、お金を払って中に入るメリットと言えば、4~5m近くまで近づけるって言うことと、近くに立てられた説明板を読むことが出来るということ、それに、ボランティアか、市の職員か知らないが、解説者の方が4~5人いて、その方に解説を頼めば無料で色々と説明してもらえるっていうことであろうか。 勿論、日本語担当の方もおられたし、英語や中国語の解説者もおられた。 兎に角、とある鎌倉の大仏さんのように、高額の入場料を払わぬ者には一切見せないって、樹木をあっちこっちに植えて覆い隠してしまうというような姑息な手段は講じられていない。 じゃぁ、入場料は、一体、幾らなんですかって、大いに気になるところであるが、それがまた驚きの金額なんだ。
2005年01月21日
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「大陵苑」の南側に設けられた本来の入口は、出口に当たる裏門と同じか、もしくは良く似たような門だった。 黒瓦葺きの屋根があって、柱や戸なんかは朱色に塗られているのだ。 唯一、異なる点と言えば、さすがにこちらは入口と称される正門だから、門の両サイドに等身大のお人形が立っている。 多分、観光客をお迎えしているっていうことなのだろう。 苑外から見て左手には、金冠を冠り、薄いブルーのナイトガウンのような衣服を身に付けた3頭身の男の子の人形が、そして、右手には、少し形が違う金冠を冠り、薄いピンクのナイトガウンのような衣服を身に付けた同じく3頭身の女の子の人形が立っている。 等身大で3頭身ってことだから、異様に顔がでっかくて、目もめちゃくちゃ大きい。 まるで、少女漫画に出て来る主人公の少女のように目が大きいんだ。 くりくりとしているって言うより、むしろ真ん丸って言うべきなんだけれどね。 でも、日本人が飛び上がって喜ぶほど可愛いっていう顔じゃない。 多分、日本人と韓国人じゃ、可愛いっていう感覚が違うんだろう。 敢えて、顔の特徴を言うならば、少し下膨れ風っていうところかなぁ。 駐車場を抜けて大通りを渡ると、目の前には、刈り込まれ綺麗に整えられた草で一面覆われた平地が広がっている。 道沿いには、高さ約2m、横幅約4mもありそうな大きな石碑があって、ハングル文字と漢字で、「世界遺産 慶州歴史遺産地区」と書かれている。 右手にはずっと遠くに幾つもの塚が見える。 この内の一つが「奈勿王陵」なんだろうなぁって思ってみたりする。 それに、遠くの方には青々とした芝生のような草が生える平地の上を優雅に歩いている家族連れやグループがいたりする。 寝転がっている人もいる。 皆、思い思いにこの広広とした空間の中で自由を楽しんでいるようだ。 奈良の斑鳩の里ってこんな感じじゃなかったかなぁって思えたりして、遠い昔の青春時代の思い出も蘇って来たりする。 左手前方200mほどのところには膽星台も見えている。 あれだ、よぉし、行くぞって歩き出した。
2005年01月20日
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係りの小父さんの教えに従って行くと、歩道の両側、特に左側には何基もの塚があった。 いづれの塚も、草が綺麗に刈り込まれていて、見ていて気持ちが良い。 右手にも大きな塚があった。 これが「天馬塚」である。 歩道から回り込むように入って行くと、その塚の裾の一角に高さ約4m、幅約8mほどのコンクリート製の入口がある。 上部には「天馬塚」と漢字で書かれているから、よしよし、これが天馬塚だって良く判る。 中に入ると、左右に約20mもあって、奥行きが約10mほどの広さの空間がある。 見学は、このエリアを右側から回って行くのだが、壁面には1m角ほどの大きさのガラス窓の枠が5つあって、その中に出土品が展示されている。 正面奥に来ると、当時そのままの埋葬状態が展示されている。 更に左側も壁面に同じくガラス窓の枠が5つあって、出土品が展示されている。 展示されている出土品は、壺、刀剣、金冠、金帽、金製の鳥翼形冠飾、金製の蝶形冠飾、金製の耳飾、曲玉、指環、そして、金製?子などである。 この「天馬塚」について、以下のような説明書きがあった。 「これは新羅時代の代表的な積石木槨墳で、円周57m、高さ12.7mの比較的大きな塚で、5~6世紀に作られたある王の陵と推定される。 発掘調査の時、金冠をはじめ遺物11,500余点が出土された。 その中で、白樺の皮で作られた障泥に天を飛ぶ馬が出土したことから、天馬塚と名付けられた。」 因みに、障泥とは馬の鞍の泥よけのことである。 また、もらった観光ブックには「天馬塚」についてこう書かれている。 「1973年新羅の古墳で国が計劃的に発掘したのは此の天馬塚が第1号である。 発掘調査の結果、統一新羅以前の古墳で積石木廊墳であることが判明し、王冠を始め遺物11,526点が出土して居る。 現在は内部に入り見学することが可能な展示古墳になって居り新羅の積石木廊墳の構造を知るのに貴重な資料となっている。」 「天馬塚」を出て、更に南に行くと、「新羅味鄒王陵」があった。 この陵は周りを黒瓦葺きの石塀で囲われていて、正面には高さ約5m、幅約8mほどの大きな黒瓦葺きの門がある。 しかし、生憎、門は閉まっていた。 当然、塚の上部は塀越しに見えるのだが、詳細は判らない。 ここにも説明書きがあった。 「古墳20基余りの中で中央にある古墳は第13代味鄒王(在位262~284)の陵である。 味鄒王は金閼智の末裔として、金氏では最初の王である。 王陵の規模は円周56.7m、高さ12.4mで、慶州市内の平地古墳の中でも大型墳に属しており、内部構造は積石木槨墳であると推定される。」この王陵は、石塀の中にこそ入れなかったが、写真はしっかりと撮った。 これで「大陵苑」はほぼ見終えたようなので、そのまま南に向かって行って、本来の入口とされる所から出ることにした。
2005年01月19日
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「太宗路」を東に400mほど行くと、「西城路」との交差点に来る。 この交差点を渡って、100mも行くと、左手にちょっとした空き地があった。 その空き地を通して、幾つかの「塚」が見えるってこと、それに気付いたんだ。 あれあれあれ、あんなところに塚がある。 それで、もらった地図で確認すると、この一帯は「路東・路西古墳群」だという。 ちょっと失礼して、空き地に入れさせてもらって、じっくりと塚を見ると、位置は少しずつずれているんだが、3基ある。 手前が一番小さくて、高さ約5m、裾の直径が約10mの塚。 その後ろに、高さが約8m、裾の直径が約20mの塚が、更にその奥にも2つ目の塚と同じ位の大きさの塚がある。 そして、左手奥100mほどの所にも「塚」がある。 「塚」って、見た目はぼた山なんだけど、一面、芝生のような草で覆われていて何かしら趣がある。 しばらく見入っていたが、「路東・路西古墳群」は確かにこの目で見たってことで、これで良しとして、本来の目的地である「天馬塚」に急いだのだ それで、一つしくじってしまった。 言い方を変えれば、見逃してしまったってことだ。 と言うのも、もらった地図には「路東・路西古墳群」とだけ書かれていたんだが、実はあたいが持っていったガイドブックによれば、この古墳群の何処かに「瑞鳳塚」と「金冠塚」って呼ばれる古墳があって、それらの古墳は見どころだってことなんだ。 もらった地図に噛り付いていたものだから、すっかりそのことを忘れてしまっていた。 更に「太宗路」を200mほど行くと「鮑石路」との交差点に出る。 この交差点の南東に位置しているのが、「天馬塚」がある「大陵苑」だ。 「大陵苑」は、約38,000坪の敷地に「味鄒王陵(ミチュワンヌン)」はじめ新羅千年の古墳23基が散在する公園であるという。 兎に角、広い。 また、ガイドブックによれば、「太宗路」に面したところには「大陵苑」の裏門があるんだが、出口専用だと言う。 だから、この「大陵苑」の南にある入り口まで、外周を1kmちょっと廻って行かねばならないって思っていたんだ。 ところが、ちょっぴりラッキーだったことがある。 それは、「鮑石路」との交差点で右折して、外周を左回りで入口に向かわなかったことである。 右回りで、「大陵苑」の黒瓦葺きの石塀に沿って歩きだしたものだから、間もなく、出口専用と言われていた裏門にやって来た。 「大陵苑」と書かれた門は、黒瓦葺きで、柱や戸なんかは朱色に塗られている。 これが裏門なんだって納得していると、中にいた係りの人らしき小父さんが手招きしている。 何だろうって入って見ると、その小父さん、あそこで入場券を買って下さいという。 それも、身振り手振りでだ。 あれ、ここは出口専用じゃなかったんだっけって思うんだけど、入れるんだったら、どこでも構わないやぁ、入っちゃえってことで、小父さんの指示に従って、入場券を買った。 料金は1,400ウォン。 日本円で136円だ。 安い。 小父さん、あたいから副券を取ると、右手前方を指差して、この方向に行きなさいって教えてくれたんだ。 何がなんだか分らないんだが、それはそれ、旅人の直感で、あっちに行けば何かあるんだろうってことで、お礼を行って、その方向に歩いて行った。
2005年01月18日
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観光案内所の係りの人に、親切に応対してもらうと嬉しくって、ついつい悪乗りしてしまう。 この際だから、彼女に甘えちゃおうって思ってね。 地図を広げ、今、私は何処にいるんですかって尋ねてみたんだ。 すると、丁寧に教えてくれた。 此処ですよって地図のある地点を指差してくれたんだ。 それで初めて判ったんだが、今いるところは、「兄山江」という河に掛かっている「西川橋」の近くで、東に150mほど行ったところ、「太宗路」沿いの北側にある高速バスターミナル。 その隣ってことだ。 丁重にお礼を言って、観光案内所を出た。 「太宗路」に出ると、確かに右手に大きな橋が見える。 そうか、そうか、橋があるってことは河があるってことなんだ。 此処に河があるってことは、なんて呟きながら、早速、地図をくるっくるっと回して、今、見えている光景を地図に重ね合わせてみた。 と言うことは、この道を東の方に800mほど行けば、道路の南が「天馬塚」ってことだな。 そうか、こっちの方向だなって確信、歩き出した。 ただ、街中にはハングル文字だけが我が物顔に踊っているものだから、もらった地図の日本語名とは噛み合わない。 地図は読めるんだけど、道路表示板なんかが全てハングル文字だから、確かめようがなくって、結局、さっぱり分からないままっていう訳だ。 ハングル文字との戦いは大変だなぁって言う思いが、じわぁっと募ってゆく。 しかし、それも、そういうものなんだって覚悟さえ決めてしまえば、なんてことはない。 迷ったって、所詮、歩いて行けるような距離だし、慶州市内だから、どうってことはない。 どうも、唯一頼れるのは錆付いたあたいの感だけのようだ。 もらった地図とあたいの感で、ここは乗り切るしかないんだってこと、改めて認識。 こうして、「慶州」の一人旅が始まったんだ。
2005年01月17日
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もらった観光ブックは、訪れた観光客に慶州市が無料で配布しているものだ。 慶州に住む人達の温もりが伝わって来る。 その表紙には「慶州が皆様方をご招待致します 千年の微笑を保つ慶州」って記されている。 なるほどねぇって感心至極だ。 更に、表紙をめくるとその裏には観音様をバックに「千年の古都慶州が力強く鼓動を續けています 千年の微笑が生きているように感じられる慶州! そこには歴史と傳統の息吹きが聞こえます」と記されている。 なるほど、なるほど、そうか、そうかって、知らなかったことを一つ一つ学んで行く。 新羅って国のこと、世界史で学んだ、そんな記憶は残っているが、所詮、遠い昔の遠いよその国の話で、この歳になるとテストなんか何もないあたいだから、他人事以外の何ものでもなかったが、こうして慶州にやって来て、新羅、新羅って言われてみると、急に親しみさえ覚えてしまう。 そして、その新羅って言う国が千年も続いていたってことを改めて知って、凄い国だったんだって驚いてしまう。 次のページには「発刊に際して」と題して、以下のような文面が載せられていた。 「新羅(シルラ)千年の古都慶州(キョンジュ)には、数多くの誇り高き燦爛たる文化遺跡が到る処に散在します. 祖先から受け継いだこれらの世界的に高く評価されている貴重な文化遺産を、我我は世界中の人人と共に永遠に保存し、またそれらを後世の子孫に譲らなければならぬ義務を負っています. 願わくはこの一冊を通じて日本のお客様方に悠久な歴史と伝統に輝く古都慶州の歴史ひいては新羅の歴史を理解していただき、充実した慶州旅行のしおりになるようにと祈念しながら編輯いたしました. 従って此の一冊を手引きにしてご覧になった新羅文化が皆様方に感動と感銘をあたえる契機になれば幸いです.」 因みに、この新羅(シルラ)王国とは、BC57からAD935までの992年間続いた王国で、AD668年に韓半島を統一し、統一国家として民族固有の文化と仏教文化に燦爛たる花をさかせた千年王国であるとのこと。 また、慶州の世界文化遺産については以下のように記述されている。 「ユネスコが指定した世界文化遺産の都市: 慶州は都市全体が一つの巨大な博物館である. 1995年に仏国寺と石窟庵が世界文化遺産に指定され、また、2000年には慶州市内一円の五つの地区が世界文化遺産に追加登録されて、慶州は名実共に世界的な歴史都市としての位置を確固にしたのである. 新羅千年の古都である慶州の歴史と文化をそのまま保存している慶州歴史遺跡地区は、仏教遺跡の古の都としての遺跡がよく保存されている. このような慶州歴史遺跡地区は、遺跡の性格に依って五つの地区に区分されている.」 五つの地区とは、(1)千年王朝の王宮の跡、月城地区、(2)仏教美術の宝庫、南山地区、(3)新羅の王陵をはじめ古墳群の分布地域、大陵苑地区、(4)新羅仏教の精髄、皇竜寺地区、(5)王城防御施設の核心、山城地区である。 この観光ブックを読むと、「慶州」が見えて来るっていう感じがする。
2005年01月16日
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この観光案内所で貰ったものは、左右に8枚折り、縦に3つ折りの縦、約50cm、横、約70cmの大きさの「慶州」の観光地図と、B5版129ページのカラー刷り観光ブックだ。 買えば、地図が100円、観光ブックが300円はするだろうなぁって思われるほど素敵なものだ。 当然、日本語版のものだ。 地図は表と裏の両面に印刷されている。 表の方には、「慶州」全域の地図と、世界文化遺産及び東海岸文化観光地についての記載がある。 世界文化遺産に登録されてところは「慶州」には2ヶ所あって、一つが「仏国寺・石窟庵」で、もう一つは「慶州歴史遺跡地区」である。 裏は、「慶州」市内の地図の他に、自転車観光地図に、「南山圏」、「普門観光団地」及び「仏国寺圏」の観光地図、更には交通手段に、慶州主要施設利用案内までと盛り沢山である。 それに、それぞれの観光地を代表するような名所旧跡の写真と簡単な説明書きも添えられているものだから、旅行者が欲しいと思う情報が満載って感じで、非常に使い勝手の良い地図になっている。 だから、大切に使って、持って帰えれば、貴重な資料にもなりそうだ。 と言うのも、日本語版だから、この地図に首っ引きだと、ハングル語が飛び交う韓国に来ていることすら、忘れてしまいそうになる。 この地図には、以下のような記載もある。 「慶州」を知る上で貴重な文言と言える。『 慶州(屋根のない博物館): 慶州は新羅千年の燦爛たる文化と歴史が生きている千年古都として、古代の全アジア大陸の多様な文化を独創的に収容し、創造した世界文化遺産の都市であり、また人口30萬の歴史都市である。 “屋根のない博物館”と呼ばれるくらい都市の至るところに古墳および遺跡が鑑賞できることは慶州ならではの特権である。 今でも発掘が進行中である数多くの貴重な遺跡は、韓国民族文化の源流と呼ぶことができるであろう。 その中でも金冠塚と天馬塚の出土品は世界的に高い評価を得ている。 また、各地に立てられているお寺や仏像は新羅の歴史と仏教精神が融合し、芸術の極致である。 それ自体が文化財である南山、そして朝鮮時代の儒教文化の伝統がそのまま続いてきた良洞民俗村など、数え切れない多くの文化遺産は毎年訪れる800~900萬の国内・外の観光客の目を奪うのに充分である。 慶州は“徐羅伐”と呼ばれたことがあったが、この意味は太陽が一番最初に照らされる聖なる地という意味である。 』
2005年01月15日
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いつもそうだから、今、何処にいるのか判らないってことに慣れてしまって、緊張してしまうなぁって言うような初々しさは微塵もない。 なんて言うつもりだったのだが、現実は厳しく、見渡す限り、ハングル文字ばかりだから、狼狽えてしまう。 ソウルじゃ、ほんの少しだけれど横文字を見たように思ったが、さすが「慶州」だ、横文字や漢字は街の中からすっかり消えてしまっている。 ただ、唯一の救いと言えば、「慶州」ではバスターミナルなんかに観光案内所が設けられていて、地図なんかを無料で提供してくれるということだ。 ガイドブックにそう紹介されていたから、まずは、そこに行って、もう少しまともな地図でも貰えれば、今、どこにいるか、それ位は判るだろうって、至ってお気楽なムードで、バスターミナルを出た。 と言ってしまうと、若干、事実と異なるようだ。 実は、高速バスがこのバスターミナルに入って行くとき、目敏く観光案内所と思しき建物を見つけていたんだ。 ひょっとすると、あれかなぁってね。 だから、観光案内所に泣き付けば、全てが解決するって、密かに期待していたんだ。 それじゃあ、どうして、観光案内所って思ったかってことなのだが、建物に書かれているハングル文字を見てって言うことじゃなくて、窓に何枚も観光地なんかのポスターが貼られていたから、きっとあそこが観光案内所なんだって勝手に思ったんだ。 しかし、そう信じ切ってしまうと、あとは簡単だ。 恐れを知らぬってことになって、よしよしよし、此処だ、此処だって喜び勇んで、建物の中に入って行ったんだ。 中には、係りの人なのだろう、3名の若い女性がいた。 相談者と思われる一人の男性もいて、1~2分、係りの女性と話していたが、何か地図のようなものをもらって出て行った。 あたいは、その間、カウンターに置かれているリーフレットを勝手に取って見て待っていた。 日本じゃ、郵便局や市役所なんかで見かけるリーフレット入れのようなところに、「慶州」の観光ブックや地図、それにホテルの案内などなど、20種類近くのリーフレット類が並べられていたんだ。 当然、韓国語版があり、英語版があり、中国語版があり、日本語版もある。 想像するに、どうぞご自由にお持ち下さいってことなのだろう。 順番が来て、あたいは「慶州」の地図はありませんかって、尋ねると、係りの女性が、これですか、それともこれですか、なんて、一つ一つ取って見せてくれる。 何しろ、言葉は通じないから、彼女の言わんとするところを彼女の身振り手振りで推し量るのである。 終始、彼女は笑顔を絶やさなかった。 だから、あたいなんか、鼻の下を長~くしてしまって嬉しくって仕方がない。 日本じゃ、見ず知らずの観光客相手に、しかも、お金になるんであれば、また別なのかも知れないが、終始、笑顔で対応してもらえることなんて、滅多にない。 笑顔に出会うって、宝くじで6等300円に当たるようなものだ。 10枚買って、1枚当たる。 10人に出会って、始めて1人の笑顔が見られるっていう勘定だ。 むしろ皆無に等しいと心しておいた方が無難に思う。 大体はぶっきらぼうな応対で、煩いわねぇ、さぁさぁ、これを持って、さっさと帰ってよって言わんばかりに、お願いした資料なんかを渡され、追い返されるというのが相場だ。
2005年01月14日
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釜山は晴れていた。 空港ビルを出ると高速バスのバス停があった。 ガイドブックによれば、「慶州」行きの高速バスは60分~90分間隔で「金海国際空港」から出ていると言う。 と言う事は、運悪くバスが出た後なんかに行くと、1時間近く待たねばならない。 その場合、「慶州」到着は夕方になるから、旅の初日は移動だけで潰れてしまう。 それじゃあ、余りに惨めだ。 2泊3日の旅なんて、最終日の3日目は日本に帰る日だから、実質1日ってことになって、余りに短か過ぎて悲しい。 それに、どっちかって言えば、折角の韓国の旅なのに、計画は丸潰れになってしまうようなもの。 だから、その場合は、雨が降っているときと同様に、慶州に行くのは止めようと思っていた。 ところが、まさにグッドタイミングで、「慶州」行きのバスが午後1時に出ると言う。 まるで、空港ビル近くで待機し、あたいの到着を待っていてくれたようなものだ。 それで、よぉーし「慶州」に行くぞって決めたんだ。 ラッキーとしか言い様ない幸運に恵まれ、高速バスは2番の乗り場から午後1時02分に出発した。 ガイドブックのちっぽけな地図によれば、「金海国際空港」から「慶州」までは100kmほどだ。 高速バスの料金は9,000ウォン。 日本円にして874円だから、やっぱり安い。 悪い癖でいつも日本だったら幾らするんだろうって思ってしまう。 午後2時05分、バスは高速道を降りた。 バスは「慶州」の街の中を走っているんだが、街中、ハングル文字が躍っていて、今、何処を走っているのか、地図を見ていても全く判らない。 あちゃ、また、ハングルちゃんとの地獄の戦いが始まっちゃったって思ったものである。 午後2時15分、バスは高速バスターミナルに着いた。 「金海国際空港」から「慶州」まで、1時間13分だった。
2005年01月13日
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成田第2空港ビルに午前8時40分に着いた。 横着にも、2時間前には空港に来て下さいっていう指示には従っていない。 出発は午前10時30分だから、1時間40分前に着いたってことになる。 間に合わない訳ではないが、悠長なことはしていられない。 あたいが選んだチェックインカウンターには15~6名並んでいた。 しかし、10分ちょっとで順番が回って来た。 チェックインは午前9時5分に終えた。 そして、出国審査を終え、搭乗口に着いたのは、午前9時29分だった。 出発まであと51分だ。 搭乗口のアナウンスでは、機内の清掃が遅れているので、搭乗案内は10分ほど遅れると言う。 時間が来て、航空券のチェックの後、バスに乗せられて空港の端から端まで連れて行かれたように思う。 時間にして7~8分。 バスを降りると、そのままタラップに行き、搭乗である。 この便はアメリカン航空とのコードシェア便であると言う。 釜山までの飛行時間は1時間40分。 ただ、ソウル行きと違って、釜山行きの便は、韓流のなんのと騒がれている割にはお客の入りが少なく、搭乗率は50%を切っているようにも思われた。 客室乗務員から、ドアをアームドの位置にして下さいっていうアナウンスがあったのは午前10時32分。 その後、何かもたもたしていて、実際に航空機が滑走路に向けて動き出したのは午前10時43分であった。 そして、待機場所に着いたのは、午前10時53分。 離陸の順番は4番目。 離陸許可を待って約10分。 午前11時4分、やっとのことで成田国際空港を飛び立った。 釜山まで355マイルの旅の後、午前12時34分に金海国際空港に着陸した。
2005年01月12日
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昨年の秋に韓国の「慶州」と「釜山」に行って来た。 2泊3日の旅だから、あっと言う間の、まさにドタバタの旅であった。 出発の前日、気になっていた韓国の天気をインターネットで調べると、初日は晴れ、2日目と3日目は晴れ時々曇りという。 ラッキーじゃないって喜び勇んで出掛けて行ったのだが、結果はちょっぴり裏切られて、2日目の夜には小雨がぱらつくようになり、3日目は雨が降る一日となってしまった。 尤も、3日目はお昼には空港に向かったので、ずぶ濡れになって参ってしまったという訳ではなかった。 何とか、追い縋るどしゃ降りの雨を振り切って、這う這うの体で逃げ帰って来たのだ。 しかし、成田空港では遂に捕まってしまって、どしゃ降りになってしまった。 今回、韓国の「釜山」と「慶州」を選んだ理由は、話せば笑われてしまいそうなほど、他愛無いものであった。 何故、「釜山」を選んだかというと、話は簡単で、チョーヨンピルという歌手が「釜山港へ帰れ」という歌を謳っていたからであって、哀愁が漂う「釜山港」に一度は行ってみたいと遠い遠い昔から思っていたのだ。 一方、「慶州」は、あたいのホームページの掲示板に、「慶州」に世界遺産があると書き込んでもらったものだから、一念発起っていう仰々しい話ではないが、行ってみる価値ありって思ったからなのだ。 しかも、「慶州」には、「金海空港」から高速バスが出ているということだから、行かないという手はない、そう思ったのである。 ただ、行き帰りを入れて、たったの2泊3日の旅だから、「慶州」に行くとスケジュールがぐっと厳しくなる。 それで、最後の最後まで行くべきか行かざるべきかって迷っていたんだ。 結局、出発を明日に控えて、こういう結論を出した。 まず、雨が降っているようであれば、「慶州」には行かない。 どしゃぶりの中じゃ「慶州」で時間を過ごすのは難しい。 無理すると、ずぶ濡れになって風邪を引いてしまう。 それに引き換え、釜山であれば、どしゃぶりでも地下街やアーケードのある繁華街などで、ショッピングを楽しむことが出来る。 それで、雨が降れば「慶州」を止めて、「釜山」を思う存分楽しむことにきめたのだ。 しかし、この2泊3日の旅は、どうも天気は持ち堪えそうで、雨が降るという心配はなさそうであった。
2005年01月11日
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旅行会社のパンフレットなんかを見ていると、上海リニアモーターカーの体験プランがオプションとして計画されていることに気づく。 だけど、どれも高い。 一番安くて、片道2,500円、高いものじゃ、3,500円もする。 それを思うと、一人で勝手に乗れば、片道40元、538円だから、滅茶苦茶安くすませることが出来る。 しかも、これだけ安いと、もう感謝、感謝あるのみだ。 リニアモーターカーは20分置きに出る。 6両編成だ。 あたいは最後尾の車両に乗った。 先頭でも良かったのだけれど、最後尾が一番乗客が少なかったので、最後尾にしたのだ。 車掌は制服を着た若い女性達だった。 どこか、旅客機の客室乗務員のような感じである。 検札でもするのかなぁって待っていたが、ただ、通り過ぎて行っただけだった。 午前12時20分に出発した。 結局、あたいが乗った車両は乗客がたった7名だった。 なんだか、この車両を大枚叩いて買い占めてしまったようなリッチな気分である。 だけど、それだけに、いざスピードがどんどん上がって行くと、一人じゃ心細いと言うか、怖いなぁって気持ちに一人で立ち向かって行かねばならないってことに気が付いた。 当たり前なんだけど、周りには誰もいないんだから。 ジェットコースターのような、ギャアーって言う若い女の子達の絶叫の中に芽生える連帯感がない。 ゆっくりと滑り出したリニアモーターカーは、徐々に加速して行く。 ごとごとって微かに揺れるが、その音は小さい。 そして、どんどん加速して行って、ある程度の速度になると、まさに未知の世界が開けて行く。 体で覚えている最高の速度は新幹線だから、それを超えると、おいおいおい、どこまで加速して行くんだよぉ~って叫んでしまいそうだ。 初めて、航空機に乗って、離陸するときに感じたあの何とも言えない恐怖心、まさにそのものである。 しかも、凄い、凄いって、心此処にあらずの状態なのに、なおも、ぐいぐい加速して行くものだから、興奮は最高潮に達してしまう。 窓から見える景色は凄まじい速度で後方に飛んでゆく。 うわぁ~速い、速いって、何度も何度も口にしてしまう。 まさに興奮の坩堝だ。 さすがに最高速度431km/hrに近くになった頃は、凄いとしか言いようのない大きな感動と快感に酔いしれてしまった。 「浦東空港駅」には午前12時27分に着いた。 ちょうど7分間の乗車であった。 まるで、遊園地のジェットコースターから降りて来た時のように、また、もう一度、並んで乗るぞっていう、そんな衝動に駆られたものであった。 午後3時50分、成田行の便で「上海浦東国際空港」から飛び立ち帰国の途についた。 < 終 >
2005年01月10日
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午前10時10分、「外灘」を出た。 次は「静安寺」だ。 此処が今回の中国の旅、最後の訪問先となる。 「南京東路」と「河南中路」との交差点の所に、地下鉄2号線の「河南中路駅」がある。 この地下鉄2号線は南京路に沿って走っている。 この地下鉄に乗れば、3つ目の駅が「静安寺駅」だ。 此処で降りると、駅名の通り、「静安寺」が近くある。 距離にして約5kmである。 地下鉄の料金は2元。 日本円で27円だ。 乗っていた時間は約6分だった。 「静安寺」は「南京西路」と「華山路」の交差点の北東に位置している。 大きなお寺であるが、ただ今、改築中、あるいは新築中ってこともあって、歴史の香りはしない。 それでも、大勢の信者の方々が来られていて、熱心にお参りをされている。 台湾でもそうだったが、中国に来て、お寺を回ることが多いが、どこのお寺でも熱心にお参りされている多くの信者を見掛ける。 何か心配ごとや悩みごとでもあるのじゃないかって思ってしまう程、仏像一つ一つに丁寧に長いお線香を上げお参りされている。 信心深い信者の方々の姿を見ていると、頭が下がる。 一通り見終わったところで、時計を見ると、午前11時20分だ。 まだ、少し早いんだが、途中、万が一のアクシデントがあるやも知れず、安心を確保するため、空港に向かうことにした。 尤も、リニアモーターカーに乗る楽しみもまだ残されていることもあったから、先に進むことにしたのだ。 「静安寺駅」から地下鉄2号線に乗って、9つ目の駅である「龍陽路駅」で降りた。 その距離は約12km。 料金は3元だった。 日本円で40円。 慣れたもので、メモ用紙に駅名を書いて、窓口で係りの人に見せると、指で料金は3元であることを教えてくれる。 「龍陽路駅」には午前11時53分に着いた。 所要時間は22分であった。 それで40円だから、日本じゃ考えられないほど安い。 貧乏人なんであろうか、これ程安く乗せてもらえると、嬉しくって堪らない。 「龍陽路駅」の改札に出ると、正面に上海リニアモーターカーの駅である「龍陽路駅」がある。 リニアモーターカーはここから「浦東空港駅」までノンストップで走る。 距離にして22km~23kmだろうか。 ただ、この距離はガイドブックの地図から読み取ったものだから、正確さに欠ける嫌いがある。 旅行のパンフレットなんかには、バスなんかでは、通常、1時間掛かるところを、8分で走ると記載されている。 このリニアモーターカーは最高速度が431km/hrと言うから、そのスピード感って一体、どんなものなんだろうって想像するだけで、興奮してしまう。 中国では上海磁浮列車って言うらしい。 普通席の単程票は片道50元だった。 日本円にして672円。 往復買えば80元なのだそうだが、今更、往復は買えない。 仮に往復買うとすると、片道は40元になる。 日本円で538円だ。 安い。 次回、上海に来ることがあれば、必ず、往復買うぞって鼻息は荒い。 だって、ちょっとした遊園地のジェットコースターに乗ったって、距離にして、たかだか1kmか、2km程度なんだろうけれど、一回乗れば、800円とか、1,000円は取られる。 それを考えれば、格段の安さだ。 だから、遊園地で遊ぶつもりで、上海磁浮列車を2~3回往復するのも悪くない。 日本じゃ、残念ながら、体験出来ないんだからね。 尤も、今年の3月から愛知県で開催される万国博覧会ではリニアモーターカーが走るとかなんとか、ラジオで言っていた。 是非とも乗ってみたいし、上海磁浮列車と乗り比べてもみたい。
2005年01月09日
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どう考えても奇妙である。 何か変なのである。 唯一、救われる道があるとすれば、それは、切り絵を貰って、さっさとさようならしてしまうことだったのだが、現実はそう甘くはない。 だから、結果的には、致命的とも言うべき、止めのボディブローを喰らってしまった。 紙と鋏で切り絵を作ってくれた小父さん先生、何を思ったのか、やおら、手を自分のズボンのポケットに入れて、100元札を取り出した。 そして、折り畳まれていた100元札を両手で広げ、あたいにこれだよって感じで見せたのだ。 そして、あろうことか、こうおっしゃったのである。 あたいはそれを聞いて、目がテンになるどころか、耳がテンになってしまった。 『 あなたは私の友人からプレゼントを貰いました。 中国では人からプレゼントを貰うと、とても感謝します。 そして、感謝の気持ちとして、何かお返しをします。 あなたは私の友人に感謝の気持ちとして、これと同じものを差し上げて下さい。 』 これと同じものとは、彼がズボンのポケットから取り出した100元札のことだ。 日本円にして、1,344円だ。 あたいは心の中で、おいおいおい、何を言ってるんだ。 そういうことなら、初めっから言えよ。 持って回って、持って回って、そして、結論がこう言うことかい。 何度も要らない、要らないって言っていたのに、日中友好だの、あなたとの出会いを記念してだのと、取って付けたようなことを言っておきながら、今頃になって何を寝ぼけたこと言ってるんだって、口にこそ出さないものの、むっと来てしまった。 いやぁ、むっと来たどころか、かちんと来たって感じだ。 あんなに幼稚な芝居に、まんまと乗せられ、騙されてしまった。 悔しいっていう思いがいつしか怒りに変わってしまった。 しかし、友人に差し上げて下さいって言った彼の口調は、幾分、居丈高にも聞こえたし、心なしか脅迫じみているようにも聞こえてしまった。 小父さん先生達は、一見、善良そうな文化人を装っているが、一皮剥けば、こういうからくりで金を巻き上げようと、みーちゃん、はーちゃんのようなあたいのところに近づいて来る輩だったってことが判って愕然としてしまった。 どうしよう、どうすれば良いんだって、必死に対応策を考えようとするんだが、騙されて悔しいっていう思いで、少し興奮しているものだから、頭の中は真っ白だ。 だから、咄嗟には名案が浮かんでこない。 小父さん先生は、あたいを納得させようと、私は要らないんだが、友人には差し上げて下さい。 友人に失礼があってはならないので、これを差し上げて下さいと繰り返すのである。 私は必要ないって、そんなこと当たり前だろうが。 あんたはプレゼントしたい、受け取ってくれって言ってたんだよ。 う~ん、どうしょう、どうしょうって、ほんの1~2秒考えただろうか、咄嗟に脳裏に浮かんだのは、逃げろってことだった。 夜じゃ、怖いが、真っ昼間の「外灘」だ。 例え、追いかけられても、周囲には人もいる。 何とかなるさって思ったんだ。 それで、「じゃぁ、結構です」って語気を荒げて言い放ち、切り絵が入った袋を小父さん先生に突き返すと、同時に踵を返し、脱兎の如く、「外灘」の遊歩道を南に走って逃げたのだ。 ただ、小父さん先生達が追いかけて来るんじゃないかっていう恐怖心もあって、30mか、40mも走ったところで、後ろを振り返ったんだが、幸い、彼らが追いかけて来ている様子はなかった。 ようし、このまま逃げ切るぞって自らに言い聞かせて、なおも走り続けたんだ。
2005年01月08日
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冷静に考えてみれば、彼ら小父さん先生達はひょっとすると非常に奇特な方々で、自称、日中友好に努めている先生ってことだから、無碍に断り続けるのは得策ではないんじゃないかって思われて来た。 それ程、熱心にあなたとの出会いを記念してプレゼントするっておっしゃっているのだから、ここで断わり続けるのは愚の骨頂とも言える。 それで、まぁ、良いか、中国人13億人の中にはこういう奇特な方もおられるんだ、荷物になるなんて馬鹿なこと言っていないで、有難く頂戴しておくかっていう気になったのである。 それじゃぁ、お言葉に甘えて頂きますって貰ったんだ。 しかし、貰ったのは良いんだが、当然、入れる物が無い、仕舞うところが無い。 どうするかなぁって思ったのも束の間だった。 隣りの小父さん先生、まさに間髪を容れずって言うのだろう、紙袋からスーパーなんかでもらう半透明のビニール袋を取り出し、これに入れれば良いって入れ口を広げて差し出してくれたのである。 あたいは、助かるなぁって思うと同時に、隣りの小父さん先生、すごく気が利くんだ、とも思ったりもした。 それで、すみませんねぇなんて礼を言いながら、切り絵をその袋の中に入れ、そして、その袋ごと貰ったのである。 しかし、少し時間が経つと、心の中では、切り絵を入れるビニール袋まで、どうして持っていたのっていう驚きが頭をもたげて来た。 兎に角、すっきりしないのである。 余りにタイミングが良すぎて異様なのである。 普通だったら、何か袋なんか持っていなかったかなぁって呟いたりして、やおら紙袋の中をごそごそっと探し始め、あぁ、あった、あったって感じで、ビニール袋を取り出して、これで良かったら使ってって渡すでしょう。 そういう流れであったら、ごく自然で違和感なんか覚えなかったと思う。 だけど、あれじゃ、初めっからビニール袋を持って来ていて、筋書き通り、取り出して渡したって感じがしてならないのだ。 小父さん先生達は、兎に角、百戦練磨だから、学習効果は抜群で、切り絵は荷物になるから要らないって言われた時、素早く袋を取り出して、その中に入れさせて、荷物になるとは言わせないようにしているって穿ったこと考えるのは、それこそ、愚の骨頂だろうか。 しかし、徹底した用意周到さには、空恐ろしくさえ思ってしまった。 何か仕組まれた筋書き通りに、物事が進んで行ってるんじゃないだろうかってね。 彼らは日本語も学びたいって、「外灘」に来たと言っていた。 9月には日本に行くと言う。 日本には親しい大学の先生がいると言う。 一人の小父さん先生は、紙と鋏まで用意していて、あなたの切り絵を作って上げましょうって作って、出会えた記念にプレゼントすると言う。 そして、更に、鞄や紙袋から持っていた切り絵をも取り出して、出会えた記念にプレゼントすると言う。 彼らはまるで示し合わせたかのように切り絵を持って来ていたのだ。 荷物になるのでって、やんわりお断りすると、是非とも貰って欲しいと言って、用意して来ていたビニール袋を空かさず出して来て、これを使ってと言う。
2005年01月07日
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あたいは、残念ながら、全くって言っていい程、切り絵には興味はなかった。 それに、例え、彼の好意に甘えて、その切り絵を貰ったとしても、荷物になるだけで、よれよれのショルダーバックなんかに仕舞えば皺皺になるだけであった。 だからと言って、紙袋なんかに入れて持って歩くっていうのも億劫に思えたし、ましてや、日本まで持って帰るという情熱はさらさら無かった。 むしろ、邪魔になるだけだと思った。 それで、申し訳ないとは思ったんだが、丁重にお断りした。 ところが、小父さん先生、此処であなたと出会えた記念だからって、是非とも受け取って欲しいって繰り返すんだ。 それじゃあ、ご好意に甘えて、記念に頂きます、どうも有難う、さようなら、お元気でって、別れられていれば、ハッピーエンドだったのだろう。 ところが、どっこい問屋はそうは卸さない。 予期せぬ最終章が待っていた。 ここで、この小父さん先生から隣にいたもう一人の小父さん先生に指示が出たんだ。 中国語だから、何か解らない。 だけど、隣りの小父さん先生は、その指示に従って行動を開始した。 実は、彼も紙袋を持っていたんだ。 その紙袋の中から、またまた切り絵を出して来たんだ。 そして、あたいにプレゼントしたいって差し出したんだ。 おいおいおい、どうなっているんだ。 あっちの先生、こっちの先生、二人共、まるで示し合わせたかのように切り絵を持っていて、そして、あたいにプレゼントだ、プレゼントだなんて、そりゃ何か変だよ。 何かおかしいよ。 隣りの小父さん先生なんて、一言、二言、話したって言うか、隣にいて、うんうんって頷いていた、その程度だったんだよ。 あたいが日本語を教えて上げたって訳じゃないんだ。 なのに、あたいにプレゼントするって。 日中友好のためにだって。 そりゃ、ないよ。 何か変だよ。 だってさぁ、どう転んで見ても、あたいがプレゼントを貰う理由が無いものね。 ほんとに全く無いんだよね。 この隣りの小父さん先生も同じ大学、否、同じ専門学校で教えているってことだったんだけど、切り絵を教えているってことなの。 そうじゃないでしょう。 それとも、趣味がたまたま二人共同じ切り絵だったってことなの。 それも何かおかしいよね。 何か取って付けたような感じがするよね。 ただ、隣りの小父さん先生の切り絵は、名刺を見せてくれた小父さん先生より、込み入った切り絵で、確かに時間も掛かっているように思われた。 もし、切り絵にグレードって言うものがあるなら、ワンランク上に相当すると言っても過言ではないと思われた。 しかも、その切り絵は、厚手の紙の間に挟み込まれているものだから、結構、嵩張っている。 だから、これらの切り絵を貰えば、嬉しいっていう思いより、荷物になってしまうなぁっていう思いの方がはるかに強かった。 まぁ、ここまで来ると、小父さん先生達が、一生懸命、考えたであろうシナリオが、そして目論見が見えて来ますよね。 もう60にも手が届かんとする小父さん達が哀れなほど子供っぽい芝居を一生懸命演じているってこと自体、哀れに見えて、涙さえ出て来てしまいそうですよね。 という事は、こんな子供っぽい芝居に乗せられてしまっている観光客の日本人がいるってことですよ。 小父さん先生達は、一度、吸ってしまった甘い汁が忘れられなくて、手垢で黒ずんでしまった名刺を後生大事に、毎日毎日同じこと、飽きることなく「外灘」で繰り返しているんでしょうね。
2005年01月06日
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そんな心の内とは裏腹に、あたいは笑みを浮かべ、日本語では切り絵と言うんですって教えてあげたんだ。 すると、まるで、初めっから知っていたんじゃないかって疑ってしまいたくなるほど、有難うの一言も無ければ、切り絵って言うんだ、なんて確認することも無く、話は次に進んで行ってしまったのだ。 あれぇ、切り絵ってこと、知りたくて教えてって言ったんじゃなかったの、まさか初めっから知っていたってことじゃないでしょうねぇ、なんて思いつつも、呆気に取られてしまった。 彼の口から出て来た次の言葉は、あなたと此処で会えた記念に、あなたの切り絵を作ってあげましょうっていうことだった。 と言って、鞄から黒い紙と鋏を取り出して、あたいの切り絵を作り出したんだ。 それを見て、あたいは余りの手際の良さに驚いてしまった。 手際が良いと言うのは、「外灘」まで、わざわざ紙と鋏を持って来ていたってことだ。 だから、益々、この小父さん達、怪しいって思ってしまう。 あたいの頭の中は、これから起こり得るであろう、ありとあらゆる状況を想い起こして、まさにパニック状態である。 さぁ、これから、この局面はどう展開して行くんだろうって、先が読めない不安が、なお一層、募る。 其れに付けても、しまったなぁ、小父さん先生が日本語を勉強したいって言って来たとき、すみません、急いでいますのでって断わっておけば良かった。 今更、悔やんでみても、後悔先にたたずだ。 この小父さん先生って、彼が言う大学で、一体、何を教えているんだろう。 まさか、切り絵ではないでしょうに。 だとすると、切り絵は彼の趣味なのかなぁなんて、思い付く限りのこと、あれこれと想い巡らせてみるのだが、妙に変どころか、めちゃくちゃ変であるってこと以外、何も分からない。 作ってくれた切り絵は、あたいの横顔であった。 あなたの横顔だって言われるまで、それが何なのか判らなかった。 それに、あたいの横顔だって言われても、似ているのか、似ていないのか、本当に自分の顔なのか、皆目分からない。 鼻があって、帽子の庇がある、ただそれだけのようにも見える。 小父さん先生は、あなたと出会った記念に、これをプレゼントすると言う。 上げるって言うもの、断る理由もなく、しかも、元はと言えば、単なる紙っきれだから、お金がかかっている訳でもない。 それに、貰ったからって、荷物になるようなものじゃない。 どうって言うこともない代物だから、この際、波風立てず、有難うございますって頂くことにした。 ところが、切り絵を貰ったことで、一気にクライマックスに突入だ。 あたいに切り絵を渡すと、小父さん先生、再び、肩からぶら提げた鞄の中に目をやり、何かを探し始めた。 そして、小父さん先生が取り出したものは、更に一回り大きな切り絵だった。 えっ、まだ他にも切り絵も持っていたんだ。 小父さん先生曰く、あなたとの出会いを記念して、この切り絵も差し上げますって、あたいの方に差し出したのだ。
2005年01月05日
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それから、話は色んなところに飛んで行った。 あたいがあっちこっちに振ることもあって、一つの話に終始することはなかった。 兎に角、あたいは小父さん先生に話の主導権を握られることを極度に恐れていた。 と言うか、何を言い出されるのか、戦戦恐恐としていたってことなんだ。 その後、他愛ない話が10分も続いていたであろうか。 突如、小父さん先生は何を思ったのか、中国のお土産の話をし始めたのである。 上海には○○に政府公認の土産物屋があって、安いから、そこで買えば良いと進めてくれたのだ。 ただ、前後の話とは全く繋がりがなくて、唐突としか言いようのない中国のお土産話になったものだから、面食らってしまった。 兎に角、それ程、唐突だった。 しかも、この小父さん先生、最初っから何か胡散臭い中国人って勝手に思い込んでしまっていたから、気を許してはいけないと身構え過ぎて、余計にそう感じたのかも知れない。 あたいは、素っ気無く、お土産は荷物になるので買わないことにしているんですって答えた。 と、その時だ。 小父さん先生は、どうも痺れを切らせてしまったようで、彼が目していた本題に入っていったようなのである。 まぁ、このままだと何時まで待っても本題に入れないという焦りもあったのだろう。 自ら、お土産話を切り出し、一気に勝負に出たのである。 やおら、肩からぶら提げていた鞄の中に手を入れ、ある物を出して、これは日本語で何と言いますか、教えて下さいって殊勝にも尋ねて来たんだ。 この殊勝にも「教えて下さい」って言って来るところが、今から思えば、曲者だったのである。 全てが終わってみて解る、小父さん先生のしたたかさって言うことなのだろう。 あたいは、見た瞬間、何か判らなかった。 それで、よくよく見ると、なんと彼が持っていたものは切り絵だったのだ。 えっ、切り絵。 どうして、この場に切り絵が出て来るんだ。 どうしてこんな所に切り絵なんか持って来ているんだ。 美術の先生って、切り絵の先生ってことなの。 そうじゃないだろう。 大学で切り絵を教えている訳じゃないだろう。 そもそも日本語を勉強したいって、「外灘」に来たんじゃなかったんだっけ、なんて色々と穿鑿するんだけれど、納得出来るような回答は見つからない。 むしろ、突拍子もない切り絵が出て来たことで、何か変だどころか、これは何かおかしいぞ、気を付けなきゃって言う思いが一層強くなってしまった。
2005年01月04日
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後ろから付いて来た小父さんは余り話し掛けては来なかった。 せいぜい、合の手を入れる、その程度であった。 先頭を切ってやって来た小父さんは積極的だった。 大学で美術を教えていると言う。 先生なのだそうだ。 自分の名刺を出して、あたいに差し出した。 名刺には何とか美術、何とか専門学校と書かれていた。 あたいは少し驚いた。 えっ、専門学校なのに、どうして、この小父さん、大学で教えているって言うのだろう。 中国じゃ、専門学校を大学って言うんだろうか。 それとも、あたいが何も知らないと思って、大学で教えているって言って信用させようとしているんだろうか。 何か変だなぁって思った。 尤も、日本でも、子供は専門学校に通っているのに、大学に行っているって言う親もいるし、そんなものかとも思った。 この小父さん先生は9月に日本に行こうと思っていると言う。 だから、その前に日本語を勉強して、勘を取りも出さねばならないんだって言う。 成る程、確かに、日本に行く前に、日本人と日本語で話をして勘を取り戻しておきたいってこと、理解出来ない訳ではない。 しかも、あたい、今日は比較的ゆとりがある。 昼過ぎに飛行場に向かえば良いだけだ。 10分か20分位であれば、此処で中国の人と話をするのも悪くはない、そう思った。 小父さん先生曰く、自分は大学の先生だから、日本の大学の先生にも親しい友人がいる。 そう言って、持っていた10数枚ほどの名刺の中から、日本人の名刺3枚を抜き出し、何とか大学の何々先生、何とか大学の先生、そして何とか大学にも知り合いの先生がいるって調子で、あたいに見せてくれたのである。 わざわざ「外灘」まで名刺を持って来て、見せようとするのか、そこの所が解らない。 強いて、理由付けするならば、俺は日本でも顔が広いのだってことを自慢するつもりなのだろうか、兎に角、何かすっきりしない変な話である。 ところが、これらの名刺、どれも手垢で異様に汚れて黒ずんでいるのである。 名刺の周囲なんかは少し擦り切れているように見える。 中国人って財布を待たない。 持っているのを見たことがない。 レジではいつも裸のままのお札をポケットから取り出して払っている。 ポケットにそのままお金を入れて持ち歩くのだ。 そのお金と同じように名刺をそのままポケットに入れるているのだろう、周囲が擦り切れているのである。 ちょっと待ってよ。 名刺って、一度貰ったら、それが最初で最後、名刺ホルダーなんかに整理されたり、名刺箱の中に無造作に仕舞われたりして、当分、日の目を見ないってことになるんじゃないの。 だから、いつまでも新品のように真っ白で綺麗っていうのが、名刺じゃなかったっけ。 どうして、小父さん先生が持っている名刺は、こんなに汚れているんだろう。 汚れているってことは、何度も何度もその名刺を使っているっていうこと。 しかし、日本の大学の先生がこんなに手垢で黒ずんだ名刺を渡すはずがない。 と言うことは、この小父さん先生はこれらの名刺を使いまくっているってことなのだろうか。 誰にも渡すことなく、自分で使っている。 数え切れないほど多くの人に、この名刺を誇らしげに見せている。 それで、見せる度に手の汚れがこの名刺に付いてしまうってことなのだろうか。 見せられた名刺は、確かに日本の大学の先生のものだった。 一人は京都にある龍谷大学の**教授の名刺、もう一人は帝京平成大学の**教授の名刺、そして、三人目は立教大学の**教授の名刺であった。 話は更に進んだ。 小父さん先生は、もう一人の後から付いて来た小父さん先生と二人で、9月に日本に行く。 その時、日本の○○大学と何とか何とかで友好関係を結ぶという。 どうも、姉妹都市ならずも、姉妹大学になるってことのようだ。 そして、彼の所属する美術何とか専門学校の全権を委任されて日本に行くってこと、その重鎮ぶりを、小父さん先生は得意気に、かつ滔滔と話されたのである。 ( 続 )
2005年01月03日
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午前9時、チェックアウトを終えて、ホテルを出た。 昨夜の喧騒は一体どこに消えてしまったのか、赤や青のネオン輝く夜の「南京路歩行街」とは打って変わって、ひっそりと静まり返っている。 静寂に包まれた「南京路歩行街」を一人歩くのも、何か独り占めしているようで、気持ちが良い。 「外灘」まで約2km。 ゆっくり歩けば、半時間だ 「外灘」の遊歩道にやって来た。 遊歩道と言っても展望台のようなもの。 対岸には「東方明珠塔」や「金茂大廈」が見える。 振り返れば、「中山路」に沿って、クラシック調の石造建築物がずらりと建ち並ぶ。 「外灘」も昨夜とはまた違った趣きがある。 素晴らしい。 此処が上海なんだ。 湧き上がって来る感動を何度も何度も噛み締めて、そして、「浦東新区」の美しく躍動感溢れる光景に酔い痴れて、暫くの間、立ち尽くしていた。 すると、どうしたんだろう、一人の小父さんがニコニコと微笑みながら、あたいの所に近づいて来たんだ。 否、その後ろから、少し遅れて気の弱そうな小父さんも付いて来た。 年恰好からすれば、二人とも50代後半であろうか。 そして、何十年来の友人と再会でもするかのように、異様に親しげに、妙に馴れ馴れしく、あたいに話し掛けて来たんだ。 それも、日本語だったものだから、あたいは日本人です、なんて不覚にも自らあっさりと認めてしまったのだ。 しかし、どうしてあたいが日本人であることが判ったのだろう。 自分で日本人であることを認めておきながら、寝惚けたことを言うなよって、叱られてしまいそうである。 彼らにしてみれば、あたいが日本人であると見抜くことなんて朝飯前だったのだろう。 確かに、あたいは肩からショルダーバック、首からはデジカメをぶら提げているから、ひと目見りゃ判るって言うものなのかも知れない。 とは言え、日本人です、なんて軽薄にも認めてしまったばっかりに、私は日本語を勉強しています、少し日本語を話させて下さい、などと言う、如何にも殊勝そうで、如何にも健気そうってこと装ったお願いであったがために、断れなくなってしまった。 まぁ、ここが彼らの狙い目なのだろう。 日本語を勉強させて下さい、なんて言われると、なまじっか勉強は神様であるかのように耳にたこができる程聞かされて来た日本人にとっては、嫌だなんて言えないんだよね。 彼らにすれば、日本人なんて、皆、御上りさんばっかりだから、ちょろいちょろいって、内心、笑い転げていたのかも知れない。 まんまと嵌められてしまった。 あたいは彼の身の上話なんて聞きたいなんて言った覚えはない。 なのに、一方的に話し始めてしまった。 最初、中国語か何かで話し掛けてもらえれば、それはそれ、いつもの通り、分からないって身振り手振りで伝えて、即刻、お仕舞いにすることが出来たんだが、意表をつく日本語で話し掛けられたものだから、冷静沈着をモットーとするあたいも、すっかり動転してしまって、しくじってしまった。 この小父さん達、一体、何者なんだろう。 日本語を勉強したいから、少し話させて下さいって、何かすっきりしない、何か妙だよね。 もう60にも手が届くような小父さんが二人でだよ。 今更、日本語を勉強させて下さいもないだろう。 今だって、少しアクセントこそ気になるものの、しっかりと日本語を話しているじゃない。 何か他に目的があるんじゃないの。 そう考えれば考える程、不可解な小父さん達である。 多分、この小父さん達、「上海」で、今もなお、頑張っていると思う。 と言うことは、「上海」に行こうと思っている人は、運が良ければ、「外灘」でこの小父さん達に会えるかも知れないってことだ。 だから、心密かに楽しみにして「上海」に行けるって訳だ。 あなたも「上海」の「外灘」に行けば、素晴らしい出逢いが待っているってことなのだ。 ( 続 )
2005年01月02日
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「黄浦江」に沿って走る「中山路」を地下道を潜って渡ると、目の前には「外灘」と呼ばれるエリアが広がっている。 このエリア、南北は2km近くにもなる。 それに「黄浦江」の河辺だから、河風が吹いていて、とても気持ちが良い。 遊歩道に従って、歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりしながら、ゆっくりゆっくり歩いて回ると、時の流れも忘れてしまう。 尤も、遊歩道って言うよりは、展望台がずうっと続いているって言った方が適切かも知れない。 「中山路」の西側には、19世紀後半から20世紀前半に建てられたというヨーロッパ風の格調高い石造りの高層建築物が所狭しと並んでいる。 建物は見るからにクラシック調だって言ってしまいそうな建物が続いているものだから、異国情緒たっぷりで、惚れ惚れしてしまう。 しかも、ライトアップされて夜空に浮かび上がっているものだから、まさに百万ドルの夜景を目の当たりにしているようなもの。 対岸の「浦東」地区には、「外灘」を象徴する東洋一のテレビ塔「東方明珠塔」がライトアップされて妖艶な姿を惜し気もなく晒している。 それに、中国一高いと言われる高さ450mの「金茂大廈」も見える。 本当にこの世の物とは思われぬ素晴らしい光景が広がっている。 そんな「外灘」に、あたいは「上海」に来たんだ、「上海」に来ているんだっていう実感、そして喜びを思う存分噛み締めていたんだ。 その日、ホテルに戻って来たのは、午後11時過ぎであった。 終に最終日の朝がやって来た。 今日、「上海浦東国際空港」から帰国の途につく。 航空便は午後3時50分発だ。 だから、正午過ぎには空港に向かいたい。 結局、「上海」は「外灘」で始まり、「外灘」で終わってしまうようだ。 今からドタバタ回ってみても、所詮、行けるところは多くて2~3箇所だし、それに、あたいの性分なんだけど、帰りの時間が気になって気になって、落ち着いてなんか「上海」を楽しめないってこともある。 少し、「杭州」、「蘇州」、「無錫」、そして「上海」の時間配分を誤ってしまたってことなのだろう。 肝心の「上海」は次回のお楽しみになってしまいそうだ。 ただ、次回って、一体、いつのことなのか検討はつかないんだけれどね。 「上海」を次回のお楽しみにしたことで、一転して、今日の予定はお気楽なものとなった。 もう一度、真昼の素顔を見てみたいってことで、朝一番で「外灘」に行くことにした。 そして、その後、地下鉄2号線沿いにある「静安寺」に行って、それで今回の旅はお終いにしよう。 2号線沿いだから、そのまま、逆の方向に行く車両に乗れば、空港に向かう。 しかし、もう一つ、楽しみだけはしっかり取ってある。 それは、リニアモーターカーに乗ることだ。 地下鉄2号線の「龍陽路」駅から「上海浦東国際空港」まで、リニアモーターカーが走っている。 時速は431kmだと言う。 日本の新幹線の「のぞみ700系」が時速285kmだから、時速にして146kmも速く走るんだ。 速度が1.5倍ってことになる。 考えただけでも、興奮してしまう。 リニアモーターカーに乗ることって、遠い昔からの夢であった。 ただ、その夢は日本での話。 友人の中にはリニアモーターカーを開発するんだって言って、その会社に就職した者もいる。 しかし、時代は変わって、今、「上海」にはリニアモーターカーが走っている。 実用と言うことでは、「上海」が世界で初めてなんだそうだ。 これに乗らなくって、何が「上海」一人旅だ、なんて鼻息だけは荒い。
2005年01月01日
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