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薩摩軍の抜刀隊の決死の戦いによる劣勢を挽回すべく政府軍は各隊より射撃の名手を選抜し“別働狙撃隊”を組織したのです。この時点の戦いにおいて兵士は双方、薩摩出身だったようです。つまり同郷の友人・親戚が戦いあったのであります。お互い何を信じて戦ったのでしょうか?薩摩軍は西郷先生に対する敬愛の情が大きかったと考えられます。では政府軍(そのなかでも薩摩出身者)がどうであったのでしょうか?あくまでも私の推察にしかすぎないのですが一つは明治新政府幹部による“洗脳”で二つ目は“立身出世”であったのかもしれません。前者は恐らく、大久保らにより「薩摩軍は明治天皇に刃を向ける賊である。」と信じ込まされていたのかもしれません。しかし彼らの多くは同郷の英雄・西郷先生を尊敬していたであろうし随分と世話になった者もいました。とすると。大久保らは彼らに「薩軍に利用されている西郷さんは救出しよう。」とまで話していたのかもしれません。つまり「政府軍の敵は桐野をはじめとする薩摩軍であって西郷さんではない。」ということでしょうか。事実、西郷先生はこの戦争において全くといって良い程、自身の意見を述べず指揮を執ってはいなかったのですから。現在においても鹿児島の方は「西南戦争は桐野さんの戦争だった。」と仰っているのです。後者については薩摩出身者のなかでも大久保のごとく「西郷先生は尊敬するが今の自分は政府の人間。ここで政府に反旗を翻しても得にはならぬ。」と考えていた者もいたでしょう。時代が変われども現在も似た現象に包まれているのではないでしょうか?「何となくマズイ。」であるとか「確かに理屈ではそうなのだが・・・。」と考えるのですが最終的には自分の立場が良い方向に進むよう算盤をはじくことは道端にころがっている石ころの数ほどあります。少し前では“バブル”と称された異常な経済(というよりマネ-ゲ-ム)。つい最近では、若き虚業家による砂上の楼閣のような実態の無いM&A、インサイダ-など。彼らが跋扈していた頃、二流のマスコミ・財界人・政治家は彼らを褒め称える輩すら存在しました。ただ、バブル崩壊を経験した私達は「これはおかしいぞ!」と直感的にその危うさ、いかがわしさを感じたでありましょう。結果的に何名かの逮捕者を出しただけでこの“虚像”を生み出した背景・要因を白日の下にさらすことなく終結となった感があるのは私だけではないでしょう。私は田原坂の戦いの頃から、こうした曖昧とした危うさを薩摩軍、政府軍共に感じていた兵士が少なくない数で存在していたのではないかと思ってしまいます。ともあれ薩摩軍の強靭な攻守を恐れた政府軍は3月7日から兵を増強し田原坂へ向かわせたのでありました。しかし西郷軍は3月19日までは有利に戦いを進めていくのであります。 本日は札幌市の最北に位置するガト- キングダムホテルさんでの昼食でした。 料理もさることながらデザ-トも素晴 しかったです。(相変わらず撮影にセ ンスは無いですが。)
2007.04.30
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西郷小兵衛さんは「兄さあ、先立つ不幸を許しやったもんせ。」と言い残して亡くなりました。小兵衛さんの訃報を聞いた西郷隆盛先生は、しばし呆然としたままでありました。薩摩の猛将・篠原国幹さんは戦いの前面に出ていて撃たれてしまいました。銀装の太刀を帯び、見るも素晴らしい指揮を執る篠原さんをたまたま知っている少佐が政府軍のなかにおりました。その少佐は江田という薩摩出身者でした。それゆえ、昔から篠原さんとは顔見知りだったのです。江田は射撃の上手な兵に狙撃させたのです。まさに偶然がなせる篠原さんの壮絶死でした。篠原さんに限らず、薩摩軍はトップが前線に出て勇敢に戦ったのです。桐野利秋さんしかりです。西郷先生も弾丸が行き交う戦地に平気で現れたそうです。慌てた側近が力ずくで西郷先生を弾丸が飛んでこない場所へ連れて行ったそうです。現在の日本において企業の不祥事が多発していますがトップが雲隠れしたり、申し訳程度に頭を下げる姿勢とは全く異なりますね。政治家も同様ですね。何か不祥事が明るみに出ると「秘書がやったこと。」と逃げをうつ人物が何と多いことか。しかし私の知っている限り、そう秘書が議員に内緒で不祥事に発展する行為に手を染めることは無いと思います。例えば“裏金”を渡す者はあくまで権限を有する議員に何かを求めるのでそれを提供するのですから最終的に権限のない秘書と策を弄することは無いのです。話を元に戻します。前回も触れましたが両軍、この田原坂周辺の戦闘が最も激しく、特に政府軍が消費した小銃弾丸は一日平均・数十万発、多い日で何と六十万発にも達したそうです。因みに、かの日露戦争での旅順第二次攻撃では三十万発を上回るのでその数や恐るべしです。ここまで政府軍を本気にさせた要因は薩摩軍の強力な抵抗と反撃によるのです。ある資料によりますと当時の政府の弾丸製造能力は一日、十二万発といいますから薩摩軍あいてには量産が間に合わないのです。その為、政府は外国から弾丸、製造機械を輸入したそうです。対する薩摩軍は弾薬が足りないどころか欠いているのです。信じられない話ですが鍋、釜を溶かして弾丸を製造していたのです。更に悲惨なところでは政府軍が落とした弾丸を現地の農民等に拾わせていたそうです。何か先の太平洋戦争末期の日本の状況と酷使しているような気がしてなりません。こんな“攻撃材料”に窮しているのですから薩摩軍の劣勢は仕方のないことなのです。そんな薩摩軍ではありましたが、 “抜刀隊”は果敢に政府軍兵士を刀で斬って斬りまくりました。その策は、ほふくからの奇襲攻撃でした。まさに神出鬼没の“ゲリラ戦”で政府軍を局地戦では一時的にせよ蹴散らすのでした。
2007.04.28
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本日、甲府市議会議員のO君からメ-ルが届きました。「中位で当選しました。肝を冷やしました。」との当選報告でした。日曜日に投開票されてから何も報告が無かったので気になっていましたが、まずは一安心です。彼は前回が初出馬でした。若さを武器に上位当選を獲得しました。それ以来、真面目に熱心に活動してきましたが苦戦しました。今回の選挙では新人が多く出馬したようですから彼は油断はしていなかったはずです。とはいえ選挙は何が起こるかわかりませんので安易な見通しは禁物です。彼とは大学入学以来の付き合いです。私以上に奇抜な行動をとる人物で周囲からの人気はありました。まだ独身ですので4年後の選挙までには結婚して欲しいと願っております。昨日のブログでも触れましたが、天璋院篤姫さん を題材にした「その時歴史が動いた」を観ました。薩摩藩・島津家の養女として単身、江戸の徳川家に嫁ぎ辛酸の連続のうちに40代後半で亡くなりました。出身の薩摩藩に徳川幕府を崩壊させられ隠居することになるのですが最後まで自分の周囲にいた女性の職探し、縁談に尽力します。自身は島津家の援助を断り窮乏に耐える生活を課します。亡くなった時の“財産”は現在の価値に換算して6万円だったそうです。まさに“物質的には貧しくとも徳川の嫁としての誇り”を持ち続けていたのでしょう。西郷先生のイト夫人も同様で西郷先生亡き後は小さな子供たちと山中に隠れ“食うや食わず”の生活を余儀なくされたそうです。その悲惨な姿を見るに見かねた西郷先生の実弟・従道さんが何度も金銭的援助を申し入れたそうですがイト夫人は断固として断ったそうです。イト夫人は兄弟とはいえ自分の夫を死に追いやった明治新政府の要人から情けを掛けてもらう行為を良しとしなかったのです。あくまでも自分の夫の“生き様死に様”に尊敬の念を持っていたからこそ毅然とした態度を示すことが可能であったのです。天璋院篤姫さん、イト夫人共にさすが“薩摩おごじょ”です。そういえば来年のNHK大河ドラマの主人公は天璋院篤姫さん だそうです。わずかな小遣いの為、安易に援助交際に走る現代の女性、年金受給権利獲得後の離婚を虎視眈々と狙う妻に天璋院篤姫さんの生き様を理解することが出来るでしょうかね?理解してもらえたら嬉しいのですが・・・・・・。 写真は天璋院篤姫さんも尽力した “江戸城無血開城会見の地跡”です。 東京・JR山手線「田町駅」近くに位置 しております。 三田からも近いです。 私の親戚が三田在住ですので上京時にはこ の“会見の地跡”に立ち寄ってから訪問し ています。
2007.04.26
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統一地方選挙後半戦が終了しました。波乱あり、予想通りと様々な結果に終わりました。何はともあれ、当選者は今後4年間、しっかりと公約を守ってもらいたいです。選挙が終わって少しは世の中が落ち着くかと思いきや、夏には参議院選挙があります。先の衆議院選挙以来の本格的国政選挙です。安倍内閣の信任選挙とも捉えることが出来ます。私は5月投票の市議選挙が残されておりますので今週末からの連休ものんびりは出来ないかもしれません。現時点での過ごし方は未定ですが合間をみて小旅行でもしたいと考えております。話はかわりますが、本日の「その時歴史が動いた」は天璋院篤姫さんが主人公です。薩摩藩のために全てを犠牲にされた生涯ですが聡明な女性であったと何かの書籍で読んだ記憶があります。来年は天璋院篤姫さんが話題の中心になる可能性があります。西郷隆盛先生との親交も深いものがありました。ではこの辺で書き込みは終わりにしてTVに向かいます。
2007.04.25
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時代が変われど戦とは“己を知り敵を知れば恐れるに足りず”の格言がありますが薩摩軍はこの法則を欠いておりました。明治新政府は電報・隠語の手紙を駆使することで薩摩軍の行動を逐一、把握していたと言われております。現代社会においても企業が他社に勝るには、いかに迅速に正しい情報を仕入れ次の一手に生かすかに左右されます。話が少し戻ってしまいますが総勢・3900名が立てこもった熊本城では当然のことながら食料不足に悩まされていました。しかし薩摩軍の兵糧攻めは完璧ではなく熊本鎮台は何度も薩摩軍の隙を突き、城外に出て食料を城に運び込んだのです。薩摩軍の激しい攻撃に耐え抜いたのにはこういう理由があったのです。この例のみ一つ鑑みても中央政府が何らかの手法で熊本鎮台に“手引き”をし情報の出し入れをした成果かもしれません。また、薩摩軍は兵器が旧式であったことも不利な条件でした。明治6年に西郷先生他多くの幹部が下野し帰郷してから、中央政府の速い進歩の詳細まで把握していなかったため十分な戦略構築が不足しておりました。付け加えるならば、いくら大山県令(知事)が資金面で薩摩軍を支援していたとはいえ、新政府の財力とは比べるまでもなく劣っていたのです。事実、薩摩軍には怪我の治療に使用する薬も不足し負傷した兵士は傷口に周辺に生えている草や土をすりつけていたのですから驚きです。しかし悪条件の下、闘争心は薩摩軍が明治新政府軍を凌駕していました。当初、田原坂周辺の戦いでは明治新政府軍を圧倒していたのですから。こうした“薩摩軍有利”の知らせに明治新政府は兵力を増強します。その結果、薩摩軍は少しずつ劣勢になっていくのです。2月27日には西郷小兵衛さんが胸を撃たれて亡くなりました。続く3月4日には篠原国幹大隊長が田原坂近くの原倉にて狙撃兵に撃たれ戦死しました。この闘将の死は薩摩軍の士気を降下させるには充分でした。この3月4日の吉次方面での衝突は双方、一歩も退かず弾薬を費やすこと何と数十万発でした。当初予定数は56万発ということですから5倍の数です。
2007.04.22
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本日は後半の統一地方選最終日です。私の友人も甲府市議会議員選挙に出馬(2期目への挑戦)しております。彼なら当選確実とは思っていますが内心、心配でなりません。今回の後半の統一地方選挙の最大の話題は“夕張市長選挙”であることは間違いありません。財政破綻直後の市長選挙であり候補者が多数乱立しているということで全国でも注目度NO.1でしょう。明日の夜には結果が判明するでしょうが、こちらの選挙もドキドキです。本当は本日、夕張に行き、モロ-師範の陣中見舞いに行きたかったのですが、某代議士夫人の“お別れ会”に出席することになりましたので、夕張行きは成りませんでした。夕方は札幌市に隣接する某市へ行きました。名前だけとはいえこれまた来月20日に投開票される市議会議員選挙に出馬予定候補者の後援会幹事長ですので戦況を聞きにいきました。以前も触れましたがこの市は財政悪化が急激に進んでおります。驚くことに歴代の市長(町長)は逮捕→死亡→逮捕の繰り返しという薄気味わるい現象が起こってきました。逮捕の容疑はもちろん“収賄”です。そのためか未だにこの市では選挙活動において“飲み食い”やら“候補者(議員)による有権者への付け届け”がまかり通っているやに聞いております。議員のなかにはこのような“犯罪”を嫌っている人物もおりますが「その数は少数である」と聞いております。札幌のベッドタウンでありながら有権者のなかには“倫理・道徳が欠如”したお年寄りが多いのかもしれません。こんな街だから財政も悪化しますし活性化も程遠いのです。警察ももっと目を光らせ“疑わしきは罰して”欲しいですね。そうすれば相当数の逮捕者が出て“浄化”されるのですが・・・・・・。市内を夕方から夜にかけて探索すると選挙違反者を“しょっぴく”ネタはあちこちにあると想像します。「政治と金」は古くて新しい解決困難な問題です。しかし、どこかで正常化しなければ“ものもらい体質”から抜けられない集合体に日本が陥ってしまいます。
2007.04.21
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一昨日は九州から取引先の大切なお客様がいらっしゃいました。私は初めてお目に掛かったのですがエネルギッシュな経営者というのが第一印象でした。謙虚でありながら自社製品に誇りを持ち、時にはジョ-クで場を和ませる術には全く恐れ入りました。しかし術というよりも生来の才能なのかもしれませんね。今日まで中央依存であぐらをかいてきた北海道民は見習わなくてはいけません。写真でも紹介しますがこのお客様は入手困難の“野うさぎのはしり”を持参して下さいました。この焼酎は知る人ぞ知る、もち米焼酎です。かの銘焼酎・“百年の孤独”と同じ蔵元で製造されていて“百年の孤独”とは“兄弟焼酎”にあたるそうです。米焼酎は薩摩芋焼酎とは異なりサラッとした舌触りなのですが比較的、アルコ-ル度数が高くこの“野うさぎのはしり”も42度でした。勧められるまま調子に乗りロックで楽しんでいましたら突然、私の未熟な脳が麻痺してしまいました。昔、知人に六本木のバ-に連れて行ってもらい、ウオツカを数杯飲んだだけで頭がグルグル回った経験があります。一昨日は大切な初顔合わせですから失態は許されません。すぐに水をもらい、後はひたすら水を飲んでいました。酔ってしまうと私のいつもの癖で西郷先生や西南戦争の話題に持ち込みました。(昨年、田原坂に行っておりますのでそんな話題も披露させていただきました。)お客様は札幌でそんな話題を喜んでする人間の存在を奇妙に思われたのでしょう。光栄なことに私のことを気に入って下さったようです。そうなりますと“大きく叩けば大きく響く”西郷先生のごとく、このお客様の期待に応えたいとする私は闘志をあらわにして仕事に取り組まなくてはいけません。やはり“良い人とのお付合い”が自分を成長させる原動力ですね。良い人といえば、夕張のモロ-師範は現在、告示されている市長選挙で燃えていらっしゃいます。モロ-師範は知名度がある某候補を応援されています。私も明日、夕張に行く予定でしたが急な用事が入り断念しました。候補乱立で再選挙の噂もありますが市民一人一人が真剣に考察し投票していただきたいものです。 写真は“野うさぎの走り”です。 下手な写し方ですね。
2007.04.20
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最近、風邪が流行っているようです。私の会社でもかなりの社員が風邪にやられております。かくいう私もなかなか完治しません。そこで半分やけになり「荒療治で治してやる。」と帰宅後、トレ-ニングに出掛けエアロバイクで汗を流しベンチプレスをやり、とどめにサウナで汗をたっぷり流してきました。もちろんサウナを出てからは“ドリンク剤”を飲みました。トレ-ニングは2週間振りでしたが、ベンチプレス・110kgは簡単に挙がりました。しかしスタミナは全くなし。すぐに息があがってしまいます。夕食は竹社長から頂いた“から芋”で炊いた“から芋御飯”で自分に元気を与えました。今のところ、まずまずの体調ですが油断は出来ません。実は明日、九州から大切なお客様がいらっしゃいます。発熱しようが腹痛になろうが会社を休むことは出来ません。熊本の“佐々隊”のごとく気合を入れて寝ます。九州からのお客様から“西南戦争”の話を聞くことができれば幸いですが・・・・・・。最後に。何やら物騒な事件が頻発しています。自分の身に何が起こるか全くわかりません。いつ何時、命を落とすことがあっても後悔しない毎日を過ごしたいものです。
2007.04.17
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約7カ月以上にも及んだ西南戦争において最大の激戦地はやはり熊本においてでありましょう。そのなかでも“峠”であるとか“坂”の名がついた場所は薩摩軍、政府軍の双方が全力で戦い抜いた地のようであります。薩摩軍に加わった地元・熊本の士族から編成された“熊本隊”は抜群の活躍をみせたのであります。前回も紹介しました佐々友房さん率いる“佐々隊”はかなり早い時期より熊本城攻撃に兵力を注入する薩摩軍とは別行動をとったのです。植木地区での戦闘が開始されたとの報を聞くや政府軍の南下を防ごうとし北上していったのです。この次点で佐々さんはむやみに熊本城攻めに固執するより自分の隊は政府軍を迎え撃たなくてはいけないと判断したのです。余談になりますが、やはり“血筋”は人間にとって大きな要素となるわけでお孫さんの佐々淳行さんもTVなどで自身の意見を話されている内容を聞きますと「即断即決のお方だなあ」との印象を受けます。2月24日、 “佐々隊”が吉次峠を越えて北上していましたら、地元の大勢の方が酒樽を用意して佐々隊を歓迎したとの日記が残されています。この地元民は薩摩軍に勝利の期待を懸けていたことはもちろんですが“佐々隊”に対しても敬意を表していたのですね。ここにきて勢いを増した薩摩軍の奮闘によって北上する佐々隊に攻撃してくる政府軍は存在しなかったのですが吉次峠では政府軍の攻撃を死力を尽くして防いだのです。この吉次を守るため、 “佐々隊”は“敵がい隊”という決死隊を編成したのです。“敵がい隊”とは何とも勇ましい名前ですが彼らは大刀で楠木を削り、白くして「敵がい隊、この樹下に死す。」と大書したそうです。この行為は彼らの“命を懸けて吉次峠を守り抜く”との固い決意であり同時に“万が一、守る事が出来なければその時は文字通り死あるのみ”という覚悟を表現したものです。戦いは、やはり気持ちが全てです。戦う者が、わずかでも「油断・弱気・躊躇」の念を抱いた時点で敗北が待ち構えております。ビジネス・スポ-ツにおいても同様です。「何が何でも勝つ」との決意を持ち続けた人間は強いです。更に命を捨てた人間はもっと強固です。現代社会に生きる私達も気持ちは強く持ちたいですね。もちろん、そのためには健全な肉体を所有することが必要不可欠条件ですが・・・・・・。
2007.04.16
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乃木少将にとって生涯、心の傷として残ってしまった“軍旗奪取事件”が表すように植木では“イケイケ”の薩摩軍でした。勢いがついた薩摩軍は熊本から植木へ兵を向かわせました。こうなると乃木隊は少人数で戦わなくてはいけません。結局のところ乃木隊は深夜、密かに撤退することを余儀なくされました。撤退の途中、薩摩軍と偶然にも遭遇しました。馬上の乃木少将は乗っていた馬を射られ落馬してしまいました。まさに薩摩兵にとっては、敵の長を成敗する一遇のチャンスです。乃木少将を斬りつけんと向かってきました。しかし寸でのところで乃木少将の傍らにいた部下が身を挺してかばい、代わりに斬られてしまいました。薩摩軍の神出鬼没な攻撃には後年、海軍の英雄となる乃木少将ですら手に負えない激しさがありました。この熊本県植木での戦いにおいて薩摩軍には強力な助っ人が現れたのです。地元・熊本で西郷先生を崇拝する士族は大勢存在しました。その士族達が一団を組織したのです。あまりにも有名な“熊本隊”であります。隊長は池辺吉十郎さんです。“熊本隊”のメンバ-は西南戦争後、日本の指導者となる人物が大勢おりました。後に熊本市長に就任した辛島格さん、同じく佐々友房さんは入獄後、衆議院議員になったのです。因みにマスコミでもおなじみの佐々淳行さん(初代内閣安全保障室長)は、この佐々友房さんのお孫さんにあたります。西郷先生は心強い味方の登場に喜びつつも“熊本隊”に対し両手を地面につけ、頭を垂れ「私は西郷吉之助です。今回の騒ぎで貴方の故郷を混乱に陥れ申し訳ございません。」と丁寧に挨拶をしました。西南戦争開戦直前まで陸軍大将を務めた薩摩軍の大将の謙虚で礼節を重んじる西郷先生の姿勢に“熊本隊”は大いに感激したのです。西郷先生は自分の地元・鹿児島が戦地になるのならまだしも、他県を戦場にしてしまったことを詫びたのです。この他地域の人間を慮る謙虚な西郷先生の言動から判断すると隣の国・朝鮮国を侵略しようとの意志があったとは思えないですね。 風邪は完治しつつあります。 ダメ押しに夕食はス-プカレ-にしました。 多種類の香辛料・漢方薬入りです。 店は超有名なピカンティです。
2007.04.13
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何と札幌は本日も雪が降りました。でもさすがに4月中旬ともなりますと積もることなく、すぐに溶けてしまいました。さて本日、竹社長(鹿児島ご出身)から鹿児島で採れたから芋(サツマイモ)と筍が届きました。私が“風邪をひいた”ことを知り、「あなたを元気付けるのは鹿児島の名産品を送るのが一番だと思って。」とのことでわざわざ鹿児島から取り寄せて下さいました。心温まるお心遣いに感謝です。サツマイモは鹿児島においてから芋と呼ばれているそうです。北海道は気候の面で栽培はされておりません。鹿児島産のサツマイモは大きく表面の光沢が素晴らしいです。このサツマイモは焼酎の原材料にもなるのですから鹿児島県民にとっては貴重な野菜ですね。竹社長は「から芋御飯にしても良し。そのまま蒸かしても良し。でも西郷さんはシンプルに蒸かして食べていたそうだから、あなたもそうしたら?」と言っておられました。実は私、何度も鹿児島へ言っておりますが鹿児島産のサツマイモは食したことはありません。“灯台もと暗し”との表現があてはまるのですが鹿児島では「黒ぶた」 、「きびなご」、 「さつまあげ」 、 「じゃんぼもち」 、 「鹿児島ラ-メン」は必ず口にしますが何故かサツマイモだけは未体験なのです。ですからこの週末は本当に楽しみです。サツマイモを食べて薩摩軍のように元気になりたいと思います。でも130年前の薩摩軍は西南戦争のさなかですので、ゆっくりと、から芋を味わう余裕などなかったのでしょうね。 写真は、から芋と筍です。北海道では こんな大きな筍は採れませんのでこの 大きには驚きました。
2007.04.12
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第16回統一地方選挙が昨日投開票されました。私が住む北海道札幌市において知事、市長共に現職が圧勝しました。まあ事前の予想通りでしたが今回はいわゆる“無党派”の投票行動がその勝敗を左右したようであります。今回の“無党派”は一昨年に行われた“郵政解散”における投票行動とは一線を画した感がありました。特に若い世代はしっかりと各候補者の政策を吟味して一票を投じたのではないかと私は確信しております。いずれにせよ戦いは終わりました。当選した知事、札幌市長にはこれからの4年間しっかりと舵取りをしてほしいものです。さて今回の選挙には私の知人・友人が随分と手を挙げました。その中でも私は色々な要因から北区から北海道議会議員に出馬した向井昭彦さんを応援しておりました。応援といえば格好良いですが先のブログでも紹介した通り、肝心な場面でダウンしてしまい情けなく思っています。ただ今回は私の妻が事務所に通ってくれ私の面目は保ちました。妻には本当に感謝しております。妻は選挙の手伝いは初めてなのですが慣れないながらも頑張ってくれたようです。その向井さんですが残念ながら次点に終わりました。ここの選挙区は定数が4名です。今回の当選者は3名が現職で1名は元市議会議員ですから実質的に現職との戦いでした。向井さんと4位最下位当選者の差は6,751票でした。出馬表明した時期が告示の1.5カ月前でしたしスタッフの数にも恵まれていない状況下、この得票差は大健闘でした。何しろ出馬した選挙区は自分の地盤でもないのですから、まさにマイナスからのスタ-トでした。Oさん(別名キンさん)という名参謀の存在も活動において効果を発揮しましたが、まず本人の“北海道を改革する”という情熱が溢れておりました。次回が楽しみであります。そしてもう一人、ぜひ紹介したい候補者がいます。向井さん同様、札幌市内のある区から北海道議会議員に出馬した方です。年齢は私より11歳も上ですが年齢を感じさせないエネルギッシュな人物です。この方は今年の初めまでは無風区(現職以外に立候補者がなく選挙をせず当選が決まる)と思われていた選挙区から突如、出馬しました。政党からの公認はありません。ある党から推薦はもらいましたが文字通り“孤軍奮闘” 、たった一人での戦いでした。彼は出馬にあたって勤めていた会社を辞めました。奥さんも子供さんもいます。一般常識では考えられない行為です。しかし彼は常日ごろより不満に感じていたり「改善しなくては北海道には未来が来ない」と思っていた“怒りと情熱を”炸裂させたのです。ライバルの現職が活動する、はるか前の朝早くから駅前に立ち、夜遅くまで選挙区を走り回りました。現職が強すぎる選挙区ですから私の周囲の選挙民は彼を“泡沫扱い”していました。しかし私は彼がひたむきに北海道の矛盾を語る姿を見て「声なき声を持った有権者は彼に票を投じるだろう。」と肌で感じました。やはり予想通り、昨日の開票結果は次点ながらも2人目の(最下位の)当選者に、約16,000票にせまりました。時間も金も人もない短期間の活動で、彼は14,357票もの“有権者の期待”を獲得したのです。私は「札幌市民もまだまだ捨てたものでもないな」と感じました。彼の4年後にも大いに期待が持てます。実は、昨日、その彼から私にメ-ルが届きました。朝の6時です。私は風邪で意識が朦朧としていたころです。その内容は次のような内容です。「実質40日しかない活動でしたが多くの方に支えられました。お金がなく、大きな他の事務所の横を通るたびに自分を奮い立たせました。西郷南州の言葉に“始末に困る人”があります。始末に困る人でなければ国家の大業をなすことはできない。今は有権者の審判をまつばかりです。」この彼の言葉には“自分の全てをさらけ出し、やるべきことを全てやりのけた男の満足感”を感じ取ることが出来ます。彼こそ“金も要らぬ、名誉も要らぬ”始末におえない人物です。私が敬愛する西郷先生の言葉を朝の6時にメ-ルで送りつけてくれた彼は私を徹底的に挑発しているのでしょう。「西郷先生を尊敬しているといいながらお前は何をしていて何が出来るのだ!俺はお前の一歩どころか十歩も先に進んだぞ!お前はいつ、命を賭けるのだ!」と。悔しいけれど、私は今の彼には負けていますね。でも今は、いつか来るかもしれない(来ないかもしれない)天命を待つのみです。ともあれ、今回の選挙で善戦したお二人の将来に栄光あれ。 写真は向井さんの活動のフィナ-レの模様です。 活動時間終了前のラスト演説の姿です。
2007.04.09
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本当でしたら自宅でブログを書いている立場ではないのですが・・・・・・。風邪が完治せず外出できません。午前中、病院に行きました。何年振りかで注射をうってもらいましたが間に合いませんでした。こんなに私が外出にこだわっているのは本日が立候補者が活動することが出来る最終日だからです。本日の20時までは広報活動が可能なのです。通常、各候補者は20時前に自分の事務所前で最後の演説を行います。その演説には今まで支えてくれた事務所スタッフに対する感謝の意を表する意味合いもあるのです。ですから私も候補者を初め遊説隊の労をねぎらいたかったのですが・・・・・・。出馬から時間がなく文字通り“手探り手作り”の選挙でしたがトラブルもなく戦いを終了することが出来たことは嬉しい限りです。北海道は今や“沈没状態”にあります。過去の“中央依存体質”にその原因があるのですが未だに危機意識が濃いとはいえない状態です。平成9年の北海道拓殖銀行破綻以来、根本的な問題点は何ら解決していないと私は考えます。当時、私はある地域で「都市銀行が破綻する時代なのだから今後、自治体が破綻することもありうる。」と、その活動のなかで述べていました。私の話をきいた方は理屈では理解していたかもしれませんが結局、目の前にぶら下がったニンジンを得ることを優先し強いものに巻かれてしまいました。あれから9年が経過しました。その地域は人口減に歯止めがかからず、ついには市立病院から産婦人科医が逃げ出すという事態に陥りました。地元で出産が出来ないのです。そんな自治体では若い世代はますます流出するでしょう。また、当時の私の主張に次のような内容がありました。「破綻の可能性のある自治体が他の自治体に吸収合併されることもありうる。」と。今の北海道がそんな状態であると私は考えます。もちろん「北海道を買収したい」という意欲のある自治体があればの話ですが。かつて私が東京で勤務していた時の話で今も私の脳裏から離れない言葉があります。仕事柄、同業他社の方と食事をすることも多く、何度か会合を重ねるにつれさほど遠慮がなくなります。私が彼に「北海道は食べ物が美味しく、のんびりしていて過ごし易かったのではないでしょうか?」と聞きました。すると本社が東京にあり北海道支店勤務経験の方は言いにくそうにこうおっしゃいました。「確かに遊びの点では楽しかったです。しかし失礼な話ですが私はもう北海道で仕事はしたくありません。」私はその理由を尋ねました。すると彼はこう返答してくれました。「北海道の人は“他人から(仕事を)貰おう”としか考えていない。何でも人間関係だけで仕事を貰えると思っている。」なるほど、北海道の人は危機に際し、自分達の力で解決しようとする気概は少ないのかもしれませんね。札幌市は本州からの転出組が多くかつてほど依存心が強くはないのでしょうが地方に行くと“旧態依然とした村意識”がまだまだ主流を占めていることが多いですね。今回の選挙でも「中央からの仕事が増える候補者が良い。」と考える有権者が多数、存在するなら北海道はますます疲弊しますね。先の地方のごとく疲弊した北海道から脱出したいとする人も現れる可能性も否定出来ません。しかし、仮に住み慣れた北海道を離れて大都会・東京で生活することの出来る道民はどれくらい存在するでしょうか?他者との付き合い方も生活様式も異なる大都会では、余程の覚悟がなければ、何年経過しても馴染むことは困難でしょうね。自分が営む現状の生活を死守したいのならまず自分の頭で物事を考えて行動することが不可欠です。明日は投票日。私はもう一度、各候補者の公約に目を通してから1票を投じることにします。でも、なまじ候補者が行ってきた行為とその周囲の人物を知っていると、その公約すら嘘に思えてしまう候補者もいるのが難点です。皆様もどうか賢明なご判断をお願いします。
2007.04.07
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本日、札幌は昼前後に雪が降りました。そろそろ見納めでしょうか。風邪がなかなか完治しないので仕事を残し早めに帰宅しました。このブログをしたためてから寝ることにします。昨日は札幌市長候補事務所へ陣中見舞いに行って参りました。選挙戦も終盤に突入したせいかスタッフの皆様方は少々お疲れのようでした。無理もありませんね。朝は8時から業務開始で夜は遅い時には深夜まで事務所に残ることもありますから。お互いに短期間の戦友ですので何が何だかわからないまま選挙が終わるということもままあることです。今回、私は仕事の関係でさほど深くは携わっておりません。その代わり、妻が某事務所にてお手伝いをしてくれております。私の友人・知人も候補者として戦っておりますが家族の苦労は言葉には表すことが出来ない程、大変であります。本人は自分の意志で出馬に踏み切ったのですからどんな困難も受け入れなくてはいけませんが家族は“寝耳に水”状態でひきまわされるのが常であります。時には夫(父)に代わり後援者の前で挨拶をすることも多々あります。私は過去、候補者の身内に同行し“挨拶まわり”をすることが多かったですから、その辛さは何度もみてきました。朝から晩まで初対面の人に会うのですからストレスが溜まりっぱなしです。ですから私はある程度、気心が知れてからは移動の車中で冗談を言っていました。笑わせて余計なプレッシャ-を取り除いてもらおうということです。投票日まで残りわずかとなりましたが無事に活動を終えて欲しいものです。明日の夜は会社の会合があります。体力的に心配です。
2007.04.05
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鹿児島を発ってから熊本城攻めに全力を注いだ薩摩軍が北上戦略に方針転換し、乃木軍との“全面戦争”の火ぶたが切って落とされました。“薩摩示現流”を幼少の頃より身体に沁みこませている薩摩軍にとっては敵をひたすら斬りつける戦いの方が性に合ったのかもしれません。熊本城攻撃不発のうっ憤を晴らすかのごとく快進撃を続けます。植木・向坂という場所での薩摩軍と乃木隊の戦いでは薩摩軍が徹底的にダメ-ジを与えました。いくら乃木隊の銃器が性能が良いとはいえ薩摩軍の気迫が遥かに上回ったのです。一旦、戦況が薩摩軍に有利になると、乃木隊は動揺し恐れをなしてしまうのです。それは薩摩軍がゲリラ的にいつどこからともなく出没し攻撃を加えるからです。また、乃木隊を構成していた兵士の殆どは元は農民であり“常に死と隣り合わせに身を置いていた”武士とはその性根が根本的に異なっていたのでしょう。この戦いでは乃木隊は連帯旗を奪われるという重大な失態を犯しています。当時、戦において旗を敵に奪われるという行為は恥ずかしいというレベルではなく、死んで償うという程の失敗なのです。この連帯旗は河原林という少尉が大切に携え、撤退する途中に薩摩軍によって奪われてしまったのです。恐らくは薩摩軍に殺されたのでしょう。この事を知った、隊を率いる乃木少将は迫りくる薩摩軍に立ち向かい、連帯旗を取り戻そうとしました。当然、死を覚悟してのことです。しかし大勢の部下が「ここはあなたの死に場所ではない。」と泣いてすがり乃木少将を引き留めるのでした。仕方なく連帯旗奪取を諦めた乃木少将は生き残った部下と撤退するのでした。この時の屈辱はその後も乃木少将の脳裏から片時も離れることはありませんでした。この「連帯旗奪取事件」から35年後の明治45年9月13日、明治天皇崩御大祭時に乃木少将は静子夫人と共に「大君の御跡したいてわれは逝くなり。」という辞世の句を遺して殉死しました。乃木少将は軍人の魂とでもいえる連帯旗を奪われた償いを明治天皇の跡を追って自刃することでまっとうしたのでしょう。35年目前のミスを終生、忘れず、「日露戦争の英雄」と称されようとも大君に対し“けじめ”をつけた乃木少将の軍人としての心構えは賞賛に値するものであります。生き恥を晒して生きている私などは誠に恥ずかしい限りです。同時に、公約を守らずに議員バッジをつけている事のみに生きがいを感じている政治家(屋)は乃木少将の行為を少しは見習って欲しいものです。更には「商品が売れれば良い。」であるとか「視聴率を取ることが出来れば下劣な内容でも構わない。」とするマスコミ各位は政治家以上に大罪であると考えます。彼らの愚かな思考・行為が連綿と続く日本国の美徳を日々、消失せしめているのです。私達も一時の“熱病”にうなされることなく事の本質を見極めたいものです。また、乃木少将と共に手を取り合い、天に召された静子夫人の夫に対する愛情は今の世の中にはさして存在しない貴重な価値観です。確かに「激しすぎる」との感は多少はありますが、自分の子供を恋人やらと虐待する愚かな母親にはそんな美学は一生、理解できないでしょうね。 今日は早めに帰宅し、大丸で「ぱんじゅう」を買いました。 最近は札幌市内でも見かけなくなりましたが「とうまん」 に並ぶ札幌の懐かしい和菓子です。(甘党でいらっしゃっ た西郷先生の写真にも供えました。)
2007.04.03
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一昨日は札幌市に隣接する某市にてほぼ一日中、時間を費やしました。地元選出の市議会議員の事務所開きに出席するためでした。私はこの事務所開きにおいて司会を仰せつかりましたので欠席は許されませんでした。前日はススキノにて送別会が行われましたが、日付を超えない時間に自宅に戻ったのも体調を万全にするためです。私は人前で話をすることはそれほど苦にはならないのですが司会は未経験でしたので数日前からあれやこれやと“シミュレ-ション”を組み立てました。もっとも司会に限らず大勢の前で話をする極意は“落ち着いてゆっくりと話す”ことしかないのです。本事務所開きには60名を超える方が集まって下さり、私も何とか大役を務めあげることが出来ました。主催した市議会議員は現在、一期目ですが、かつて市長選挙に出馬し惜敗した経歴の持ち主ですから地元での知名度はあります。そのため、初出馬の時は告示寸前の立候補にもかかわらず上位当選しました。かつて田中角栄元総理が若い代議士に「選挙に極意なんてものはない。ただひたすら地元を歩き多くの人と話をすることだ。」と語っていたそうです。こういう地道な活動を続けていると選挙は強いですね。今回の事務所開きにあたり私は名ばかりとはいえ幹事長なる役職に就任することになりました。若輩者の私ですから大した事は出来ませんが、事務所にお金をたかりに来る政治ゴロを叩き出す程度のことは出来るでしょう。ちなみにこの市議会議員は私の大学の先輩にあたります。彼は現在、わずか2名で会派を組んでおり数少ない“良識派”として活躍されております。数年前、周辺自治体との合併構想が持ち上がりました。彼と彼の同志は2名で合併に反対しました。「安易な数合わせは双方の財政基盤を危うくするばかりか、そこに住む人の生活に不便を生じさせる」との理由からです。結局、議会では決められず、住民投票に諮ることになりました。しかしその内容は全くもってお粗末な内容でした。何と「住民投票は実施するが投票率が50%(確か?)を超えなければ開票しない。」というまさに民主主義を踏みにじる内容です。今時、このような幼稚な決定がなされるとは驚くというより無教養な人間の共同体の存在に哀れさを感じてしまいます。結局、合併賛成派は投票には行かず、投票率も目標に達せず開票はされませんでした。この市は財政状態がここ数年で急激に悪化しております。夕張市のように“財政再建団体”に転落する可能性もあります。その原因は前市長の放漫運営です。本来ならば市民はその負の呪縛を断ち切らなくてはいけないのですが、危機意識が足りないのが現状です。会社も自治体もそのリ-ダ-の資質によって繁栄もすれば後退もするのです。以前も記しましたが、薩摩の島津斉彬公のごとし名君の下では経済は栄え良質な人材も輩出します。今の世の中、指導者を選出する主体は良くも悪くも地元の有権者でしかありません。自分の謝った判断は自分や自分の子供・孫に跳ね返ってくるのです。それゆえ、目の前の虚構に惑わされることなく、事の本質をしっかり認識し投票行動に結びつけなくてはいけませんね。 写真は事務所開きの模様です。 神棚・お供え・千羽鶴は欠かせません。
2007.04.02
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