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このところ書き込みはサボっていました。特に理由はありませんが柄にもなく多忙でした。そうこうしているうちに参議院選挙が終了してしまいました。結果は事前のマスコミ報道の通り自民党の惨敗という結果に終わりました。まあ、年金問題・閣僚の不透明な事務所費処理など問題が山積していましたから敗北は当然です。以前、私がこのブログで述べましたが今回の参議院選挙は「平成元年の参議院選挙と雰囲気が酷似している。」そのものでした。2年前の郵政選挙で大勝したおごりというか油断が自民党にはあったのかもしれません。これを機会に自民党所属の国会議員は猛省し早速、地元をこまめに歩き有権者のニ-ズを掴むことが必要です。さもなくば次期総選挙で過半数どころか200議席しか獲得できないという惨憺たる地獄が待ち構えていることでしょう。今回の選挙、私は珍しくノ-タッチでした。しかしそれゆえ客観的に選挙をながめることが出来ました。更にそれぞれ異なる政党公認候補関係者から色々な情報が入ってきました。なまじ事務所にいるよりもマスコミでは報道されない裏情報を聞くことが出来ました。(だからといって、それがどうということはないのですが。)それにしても自民党は大物クラスが相次いで落選しましたね。磐石な組織に支えられていると思っていた武見さんの落選も驚きでした。それに反していわゆるタレント議員の当選が目立ちました。選挙は結果が全てですからその結果に異論を唱えることはフェアではありません。それでも「こんなので大丈夫?」という人もいますね。当選した後は“公人”の彼らには公僕の意味をしっかり認識し一生懸命、働いて欲しいです。(“公人”となったらマスコミの目も厳しくなりますから変な話が出ないことを望みます。)ノ-タッチの参議院選挙でしたが“袖触れ合うも多少の縁”の山崎まや氏は残念ながら落選でした。それにしても札幌市内で2000票しか獲得していないとは驚くより呆れました。(山崎氏に対してではなく民主党にです。)参謀を務めたOさんからも怒りのメ-ルが届きました。いずれにせよ今回の結果が政界再編の引き金になるのか自民党政治の崩壊につながるのか予断を許しません。私個人は現在の“議員の世襲制”を禁止する方向に進まないかなと考えます。ひょっとしましたら真の“平成維新”とは規制緩和よりも“議員の世襲制禁止”の方実現かもしれません。写真は先週、夕張に行く途中に立ち寄った栗山町のレストランです。50分待ちの人気店です。
2007.07.30
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本日はのっけから写真を掲載しました。上記写真が本日のタイトルと大いに関係があるからです。会社は功ちゃん が出張で不在、神さん は肉体労働で疲れたので定時にて退社されため私は一人寂しく残業をしていました。何とか早く仕事を片付けることに成功しましたので退社することにしました。帰宅途中、生ぬるい風が吹く北海道大学近くを信号待ちしていた時でした。私の携帯電話が突如、鳴り響きました。携帯電話に目をやると発信者はOさん でした。Oさん は私が某議員スタッフをしていた頃の先輩で政治の道においては大ベテランです。今年は選挙の年でその実力を見込まれて年明けより休み無しで札幌の街を奔走しています。現在は民主党公認で比例区候補の札幌後援会責任者の任にあります。電話が鳴った時間は20時です。私は「何の用事かな?」と訝りながら電話に出ました。すると「何一人で信号待ちしているの?」とOさん がおっしゃるではありませんか。私はどこかでOさん に見られているのかなと思い「近くにいらっしゃるのですか?」と尋ねたところ「たった今、君の横を車で通り過ぎたよ。間もなく“まるたかラ-メン”に着くから来てよ。」とのご返答。やはり見られていました。“まるたかラ-メン”とは北海道大学近くで営業している名の知られたラ-メン店です。2分後、“まるたかラ-メン”さんに行ってみるとOさん と冒頭の写真の女性がいらっしゃいました。Oさん に紹介していただきましたこの女性こそOさん が支援されている方で民主党参議院比例区から出馬されている“山崎まや”候補なのでした。私は今回初めて“山崎まや”候補にお目に掛かりましたが第一印象は“はきはきしていてそれでいて上品な女性だなあ”というものでした。上手く表現できませんが“気品の高い肝っ玉母さん”とでも申しましょうか。“山崎まや”候補は道内の有名校・旭川東高校卒業後、北海道大学医学部付属看護学校に入学されました。卒業後は医療・介護の道を究められました。その功績が高く評価されて民主党からの出馬になりました。うろ覚えで失礼なのですが確か小沢一郎民主党党首が出馬を薦めたと記憶しています。“山崎まや”候補は今夜の最終便で東京に出発するとのことでラ-メンを食べながらの会話でしたが政治家向きの方であると認識しました。まず何といっても“ハ-ドな活動に耐えうる体力”の持ち主です。次に決して“物怖じしない”性格の持ち主でもあります。私は以前から政治家に必要な要素は何と言っても体力であると思っております。“山崎まや”候補は細身ながらどこにあんなバイタリティがあるのかと驚いてしまいます。(しかも今日も12時間の活動の後、お元気でしたので。)私などはパワ-はありますが体力に自信はありませんし人見知りしますし口下手ですから本当に羨ましいです。(初対面の異性と向かい合ってラ-メンを食べるなんて簡単なことではありません。)話が逸れてしまいました。“山崎まや”候補が残りの4日間、更にパワ-アップされ活動されることをお祈り申し上げます。これから“山崎まや”候補のHPを見てみます。皆様もいかがですか!(それにしましてもノ-タッチである今回の選挙ですが多少の関わりはあったのですね。)
2007.07.24
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本日の札幌は蒸し暑く過ごしにくかったです。今年は本当に寒暖の差が激しく体調管理が困難です。おまけに昨日の運転疲れが解消されず本日は気だるい一日でした。さて先週末、鹿児島の西郷南洲顕彰会からメ-ル便が届きました。早速、封を切ると講演会の案内でした。西郷南洲顕彰会とは西郷先生の偉業を偲ぶと共にその精神を継承するべく地元・鹿児島を中心に活動している財団法人です。私は4年前からここの会員になっております。そして西郷南洲顕彰会は西郷南洲顕館を運営しております。この会館はいってみれば西郷先生の遺品やゆかりの品を展示している“博物館”のような建物です。西郷先生ファンでしたら一度は入館している方は多いと思います。今年9月24日は西郷先生の生誕180年にあたります。ということは没後130年でもあるのです。それで今年は特別講演が催されるのです。題して「西郷生誕180年特別記念講演会」です。講師はあまりにも有名な稲盛和夫さん です。稲盛さんは説明するまでもないのですが現在の肩書きは「京セラの名誉会長」です。稲盛名誉会長は文字通り一代で京セラを世界有数の優良会社にのし上げました。確か「稲盛塾」という私塾をも運営されていたかと記憶しております。この方は京セラの創業者という事実だけでも感嘆に値するのですが人格的に優れた人物と聞いております。確か少し前に出家されたのではなかったでしょうか。おまけに社訓が“敬天愛人”ではなかったかと思います。昨今、目先の利益を追求しあげくの果ては刑事被告人に堕落する破廉恥な財界人(虚業家)が多いなか、日本では数少ない真摯な志を持たれた方だと私はかねてから尊敬しておりました。それゆえ今回、稲盛名誉会長のお話を西郷先生の出身地である鹿児島(稲盛名誉会長の出身地でもあります)で拝聴出来ることはこの上ない幸せです。当日まで多少の日数がありますので稲盛名誉会長が著された書籍をひもといてみたいと考えております。写真は昨日購入した夕張メロンです。ランクでいうと左が“秀”で右が“個撰”です。個撰とは形状が劣るため規格外にされたメロンです。それでも味はGOODです。今年は少し奮発して食べ比べしてみます。
2007.07.23
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本日の札幌はこれまでとはうって変わって暑く晴天でした。しかし私は札幌を離れ夕張市に行きました。目的はモロ-師範経営の“ビックモロ-さん”で夕張メロンを購入することでした。モロ-師範はこれまで私の本ブログに度々登場していただいております。極真空手の達人でジャズ評論家、ダンスもされるというまさにマルチ人間です。最近は北海道内のテレビ・ラジオに出演されていて活躍の幅が広がっておられます。更に先の夕張市長選挙に出馬され惜敗した羽柴秀吉さんの参謀も務められています。私は夕張メロン購入はもとよりモロ-師範に会いたくて往復160kmの運転を耐えました。(私は自動車の運転が好きではありません。)夕張市へ入る途中、栗山町にあるハ-ベストとかいうレストランで食事をしました。昼少し前に到着しましたが既に多くの老若男女が待っており入店まで50分を要しました。このレストランは自然の食材を利用した料理をウリのようでかなり有名だそうです。その食事を堪能した後、ひたすら夕張市まで車を飛ばしました。夕張メロンが私の大好物なのはいうまでもありませんが夕張市にはもう一つ(実はもう二つですが)好物があります。それはこれまた夕張名物の“シナモンド-ナツ”です。この“シナモンド-ナツ”は店頭に並ぶやすぐに完売となってしまいますのでまずはモロ-師範に会う前に確保しました。“ビックモロ-さん”に到着して早速、モロ-師範に夕張メロンを注文しました。モロ-師範は私が矢継ぎ早に注文するのを威勢良くさばいてくれます。高級種類のメロンを複数個を注文する際は“おまけ”もしてくれて有難いです。私がモロ-師範と親しいから賞賛するわけではありませんがモロ-師範の“目利き”は神業と表現しても決して誇張ではありません。事実、本日もカットメロンをいただいていた時に神奈川県から旅行でいらした方と同席になりました。その方の言葉が全てを物語っているのです。「私は先程、夕張市内の他店でカットメロンを食べましたがあまり美味しく感じませんでした。それで6年前にこの店に来たことを思い出し何とか探し当てて来ました。やはりここのメロンは最高に美味しいです。そして料金も安いです。」私も同感です。それゆえ、本州の大切な知人に夕張メロンを送る場合はモロ-師範に選んでいただいているのです。モロ-師範は自己の利益よりも上記のような遠くから来てくれたお客さんに満足してもらいそしてその方々との触れ合いを大切にされています。それゆえ“ビックモロ-さん”には全国各地から多くの常連さんが毎年訪れます。居心地が良いのでつい私も長居したり裸になってしまいます。今度また夕張市を訪問することを楽しみにしつつ夕暮れの夕張を後にしました。写真は、うさぎやさんのシナモンド-ナツです。明日、会社にもお土産として持参します。
2007.07.22
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昨夜は久し振りに会社の懇親会と相成りました。わが社の決算は8月ですので「あと1カ月頑張ろう!」という趣旨かどうかはわかりませんが楽しい懇親会でした。場所は真駒内の「朝日鮨」さんです。このお店は私が友人に紹介されて依頼、5年位前から通っています。今ではすっかり常連になりました。(と私だけが勝手にそう思っているだけかもしれません。)今回も九州の取引先の社長さんから送っていただいた“九州焼酎(麦)”の持込みを許可してもらいました。「朝日鮨」さんは札幌市民にとって“知る人ぞ知る”お店なのです。特徴は何と言っても“ランチでの寿司食べ放題”ではないでしょうか。代金は1,600円。この価格で目の前に置かれたネタ(ウニ・イクラ・アワビなんでもOK。)普通の男性でしたら十分に元はとれるでしょう。しかしここの名物はウニでもイクラでもありません。では何かと申しますと“サバ”です。ここの“サバ”は天下一品です。見た目は普通のシメサバなのですが口に含んだ瞬間、“とろけるというかフワッと”する口答えは表現出来ないくらいの絶品です。事実、私のみならず一緒に通う仲間達はこの“サバ”が目当てでイクラ・ウニを注文することはめったにありません。昨夜もひとしきり旬の刺身をいただき焼酎を味わった後、ここの“若大将”が私達の部屋に来て寿司を握ってくれました。やはり一番人気は“サバ”でした。ここの社長は私達常連から“大将”と愛情と畏怖の念を込めて呼ばれております。それは客とはいえ“大将”にとって気に障る行為をするとたちまち叱られてしまうからです。(笑)その一例は次の通りです。(ランチ時)1.携帯電話を鳴らす客。(もちろん発信は論外です。)電源はOFFです。2.勝手に注文する客。(注文は順番です。しかも“大将”が注文を訊いてからの注文です。)3.一度の注文に2種類のネタを求める客。(一度の注文に1種類のネタしか注文できません。)この3点は遵守しなくてはいけません。更に客同士が寿司を食べながらうっかり会話に熱中をすると“大将”に叱られます。(寿司を握るリズムが崩れる そうです。私の知人の愛称・ヒットマンさんは叱られてしまいました。)このように書くと“大将”は恐ろしい人物に思われますが実際は心根の優しい“おじさん”なのです。(“大将”のお人柄か、某有名プロ野球選手も遠征で札幌に来ますと必ず立ち寄るそうです。)美味しい料理と焼酎で楽しい時間を過ごすことが出来ましたが私はすっかり悪酔いしてしまい隣の部屋で寝てしまい“若大将”に起こされてしまいました。恥ずかしい限りですが、どうも最近は酒が弱くなったのか酒に負けています。それでススキノには寄らず帰宅しました。暫くは断酒が必要かもしれません。一夜明け、本日は退院する母を病院に迎えに行き夕方は期日前投票を済ませてきました。来週の土曜日は最後の訴えで各地中心部は賑やかでしょう。写真は「朝日鮨」さん入口です。場所はわかりにくいですが時間に余裕をもって探して下さい。
2007.07.21
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起死回生を狙った人吉での態勢立て直しは奏効せず薩摩軍の苦境は続きました。もっとも西郷先生始め主たる幹部は宮崎方面に移動していました。つまり後を託された兵士は持ちこたえることが出来なかったのです。そもそも薩摩軍は西郷隆盛という超カリスマ的指導者を中心に据え求心力を保ってきた集団ゆえに西郷先生が周辺に存在しなければ兵士の戦闘能力は半減するのです。私は戦争に限らず“戦い”に勝利するための秘策は存在しないと考えております。因みに私が考える“戦い”に向けて不可欠と思われる要素は次の3点であります。1.入念な下調べ。(冷静な精神状態での状況把握とでも申しましょうか。)→事業ではマ-ケ ットリサ-チと表現するのでしょう。2.勝負の前にくさびを打つ。(石橋を叩いて渡る慎重さ・細心の注意。)→この際、拡大策を 継続するか縮小するのか又は撤退するのか見極めることが大切です。3.時機とみるや一気に進める決断力・行動力。(時には勢いを利用することも大切。)そして“勇敢にして優秀な指揮官(リ-ダ-)の存在”です。上記の3点は基本中の基本でありますが精神的支柱としてのリ-ダ-の存在は欠かすことはできません。使い古された表現ですが紹介します。“おとなしい100匹の羊に率いられる大組織よりもたった一匹の勇敢な狼に率いられた少数精鋭の組織の方が戦闘において遥かに強い”と。人間社会においても同様です。いわゆるカリスマと呼ばれる指導者に率いられた組織は強固なものです。ここでのカリスマという定義・基準は様々ではありますがやはり「この人のためならどんな苦労を強いられても耐え抜いてみせる。」と思わせる人格が第一ではないかと私は考えるのです。金銭で結びついた組織はいざという時には脆いものです。現在、快進撃を続けるプロ野球“北海道日本ハム”も上記の要素を内包しているのかもしれません。私は野球はさほど興味がないのですがこのチ-ムは今のところ歯車が上手く回転しているのだと勝手ながら分析しております。さて話を西南戦争に戻しますと、やはり人吉での攻防は田原坂と同様に戦いにおけるタ-ニングポイントになったようです。実は人吉敗北前に西郷先生が初めて戦いの指揮を執ったのです。ほんの一部の指揮ではありますが劣勢は西郷先生としても前面に出ざるを得ない心境にさせたのでしょう。その際、野村忍助さんという騎兵隊大隊長に直接、指揮をしているのです。西郷先生は豊後地区への進軍を命じました。豊後地区は新政府軍が手薄の地域です。何といっても薩摩軍の何倍もの大多数の兵士が薩摩軍を囲っているといっても過言ではない状況です。このまま守勢に回っていたらその包囲網はますます狭まりますから今の薩摩軍にとっては賢明な策といえます。確かにこの策は一時的では奏効しました。次回は野村忍助・辺見十郎太さんという二人の大隊長の奮闘をその人となりと併せ紹介します。写真はまたまたアイス菓子です。今回のアイス菓子は鹿児島製でした。
2007.07.19
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恐るべき猛威をふるった台風が過ぎ去ったと思うやいなや本日は新潟で大地震が発生しました。被害を被った方々にお見舞いを申し上げるとともに自然の恐ろしさを再認識した次第です。どんなに文明が栄え便利な世の中になろうとも私達人類は大自然の一部にしか過ぎないのです。いささか哲学的になりましたが利潤の追求にのみ走りますと自然からしっぺ返しを喰らいます。これからは自然との共存・自然への感謝・私達人類は天によって生かされている ことを認識し日々の生活を過ごしたいです。人吉での軍制再構築の後、桐野さんは彼なりに満足していたようであります。この再構築によって再び新政府に対し打撃を与え鬱憤を晴らしたいという精神状態だったのかもしれません。また師・西郷隆盛先生との微妙な距離感を少しでも近づけたいとの願い でもあったのでしょう。桐野さんは「この新体制でここ人吉において2年は持ちこたえることが可能になった。そしてその間、土佐などの全国に点在する不平士族が決起するであろう。」と楽観的な見解を披露していました。戦況不利下にある西郷軍とはいえ多少の情報収集は可能であったでしょう。全国各地の情勢も知りえたと思います。現にこの頃には新聞のはしりのような報道機関が幾つも存在し現地に記者を送り込んでいたのです。その記者が連日、戦況を東京に知らせる役割を担っておりました。とはいえ薩摩軍は賊軍なのです。政府軍とは異なり正確な情報なを入手するには限界がありました。全国各地で鳴りを潜めていつ不平士族と薩摩軍中枢部が連絡を密に交わすことも不可能なのです。高知に限らず全国各地の西郷先生を慕う不平士族の言動は新政府が最も警戒するところのものでありました。当然、厳しい監視下に置かれていたことは想像に難くありません。戦闘とは距離的にも人間関係においてもその距離が離れていればいる程、常に連絡を交わしていなければ連携プレ-をとることが出来ず成功を収める事は不可能なのであります。ましてや新政府はあの手この手で懐柔策を駆使し反新政府一派の分断を謀るでありましょうから尚更です。薩摩軍が態勢を整えているうちに新政府もまた着々と先手を打っていたのです。それはあたかも将棋の駒を意のままに動かすがごとくです。5月下旬より政府軍は人吉周辺の要所を占領して薩摩軍に対する包囲網を構築していったのです。政府軍は5月30日に人吉へ総攻撃を仕掛けました。事前の包囲網作戦が奏功し6月1日には山地にいた政府軍が人吉市街に入ったのを契機に薩摩軍は南方に敗走し始めました。信じられないことではありますが薩摩軍の部隊ごと投降するという事態も発生したのです。このような失態は開戦以来、初めてのこと でありました。この頃には薩摩軍の疲労は頂点に達していたでありましょうし各々が直感で“戦況は極めて不利”と感じていたのでしょう。人間とは予想していなかった事態が生ずると往々にして狼狽するものです。その狼狽につけ込まれると案外、容易に白旗を揚げてしまいがちです。かつて自由民主党が野党に転落したことがありました。その時も多くの国会議員が離党しましたがこの現象もまさに自己防衛本能に基ずくところから発したのでしょうね。まあ今の大部分の国会議員は信念より自己保身を第一に考える輩が多い ですからね。そして一度離党して再び復党した人物が多いのも摩訶不思議なことです。政治とは数の論理とはいえ節操がないですよね。
2007.07.16
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今日は3連休前の金曜日。体調も良かったので会社の長老・功ちゃん、神さん と「串カツでも食べに行こうか。」との話題が持ち上がりましたが功ちゃんが「俺は帰る。」と主張したため来週に延期することにしました。帰宅後、 “柳月” (北海道の有名菓子店)の折りを発見しました。どうやら“お詫び”の印として届けられたようです。実は日曜日、リビングのダイニングチェアに座っていたところ左前の脚が折れてしまいました。次の瞬間、何故か“おがくず”らしき物がぱらぱらと流れ落ちました。購入してまだ2年しか経過していません。私の体重も71kgしかありません。私は一瞬のことで何が起きたのか把握出来ませんでした。少し冷静になり思案しますと脚が“空洞”になっていたため私の身体を支えることが不可能になっていたのです。そういえば購入後、数ヶ月が経過する頃より椅子の中から木が削られる音が頻繁にしておりました。私は「新品なので木がきしんでいるのだなあ。」と思い、さほど気にも留めていませんでした。ところがその音の正体は“木食い虫が椅子の脚に生息していて中で噛み続けていたこと”だったのです。どうりで、おがくずが登場したわけです。ちなみに本製品の保証期間は1年です。もうその期間は過ぎていますので私は新しく購入するつもりでいました。ただ破損の症状があまりに奇抜ゆえ一応、販売店のお客様窓口に電話をしました。対応された女性は私の説明を聞き終えるやいなや開口一番「お怪我はありませんでしたか?」と顧客の安全を聞いてきました。話が進み購入店の責任者から連絡が来ることになりました。数分後、その責任者から電話があり、丁重にお詫びの言葉をいただき「これから破損した椅子を引き取りに参ります。」とのこと。更に「新しい椅子と交換させていただきます。」と言われました。私としては保証期間も過ぎているので「いいえ購入しますから。」と応えましたがあくまで「当社で新品を用意します。」とのことでした。本日はその新品を持参していただき申し訳ないことに菓子折りまで用意して下さった次第です。私は何も菓子折りを戴いたからではありませんが今回のクレ-ム対応には感服しました。まず担当者始め店の関係者が“一切の言い訳をしなかった”ということ。次に“破損の原因を包み隠さず説明した”ということ。そして“対応が早かった”ということ。恐らくは会社としてしっかりとしたマニュアルが存在し社員はその方針をしっかりと把握しているのでしょう。その企業名はあえて記しません。しかしアルファベットがN(カタカナ)で札幌に本社があり北海道のトップ家具販売店、おまけに東証一部上場企業と特徴を羅列しましたら特に北海道民は誰しもが店名を思い浮かべるでしょう。同じ北海道企業でもつい先ごろ偽造により全国から非難の目を向けられた某企業とは大違いです。そもそも比較すること自体不謹慎なのかもしれませんが経営者の質に雲泥の差があるのでしょうね。全国にはN社と同じように適切なクレ-ム対応を施し企業コンプライアンスを順守する企業が増えております。というより企業コンプライアンスの欠如した企業は社会から“強制退場”されるのです。それに反して日本の政治の世界は隠蔽体質が横行しています。最近は決まり文句のように「法律に則って適切に対応している。」などど恥も外聞もない発言をする厚顔無知の輩が横行しています。やはり民間企業の方が政界の遥か先を進んで いますね。写真は昨日の続きです。ふくろう屋さんの塩ラ-メンです。さっぱりながらコクのあるス-プとチャ-シュ-は満足しました。何となく鹿児島ラ-メンの味に似ていました。
2007.07.13
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それにしてもここ数日の札幌は肌寒いです。暑がりの私にとっては過ごし易いのですが農作物に影響が生じることを心配しております。また日本の南では大雨の影響で事故が多発しております。昨夜、鹿児島在住の知人にお見舞いのメ-ルを差し上げました。すぐにその方から「大丈夫」との返信をいただき少し安心しました。指宿方面では列車が脱線した様子をテレビで知りました。9月に指宿へ行く予定ですので他人事ではない気がしました。さて本日は参議院選挙告示です。今回は私は基本的にはどの候補にも携わっておりませんのでまさに“高みの見物”です。(付き合い程度で何かの集会に顔を出す程度です。)候補者の選対事務所に入っていなくとも今回、自民党には凄まじい逆風が吹いている現実は普段、選挙に関心を持っていない人と話すなかですら感じることが出来ます。自民党にこれ程の批判の嵐が吹き荒れた選挙は平成元年に施行された参議院選挙以来ではないでしょうか?当時は“消費税導入”や“首相の女性スキャンダル”で自民党はどれ程の努力を尽くそうが選挙前から“万策尽きた”様相を呈しておりました。その選挙に私は携わっておりました。まだ大学3年生でしたが北海道選出の現職の陣営でお手伝いをしておりました。今でも記憶に残っている光景は街中で遊説カ-を走らせていましたら通行人から“アッカンベ-”をされたり“罵声”を浴びせられたことです。私は若いなりに「今回の選挙は自民党の崩壊の始まりかなあ。」とさしたる根拠もなく呆然とするのみでした。結果は落選でした。その当時の雰囲気と現在の社会に漂う雰囲気は本当に類似しております。ただ私は今回に限らず今後の選挙は“結果”を真剣に受けとめることから政策作成が始まるのではないかと考えます。今や与野党問わず政治家としての魅力・信念の強さ・使命感・人類愛を持ち合わせた理想の人物は存在しません。西郷先生のごとく“己の信念に従い敗れた時は潔く晴耕雨読の生活を享受する”という人物は存在しません。現状は、ふた昔前の“上司のゴマすりで組織に残っている茶坊主”のようなサラリ-マンとさして変わりがない世襲議員やただ単に若いだけの虚像議員ばかりです。このような輩が全てではありません。しかし彼らが大部分を占める日本の政界では彼らに対する信頼などありません。それゆえ有権者が判断を下すしか手段はないと考えます。その判断が間違っていれば失政は有権者自身に跳ね返ってくるだけのことです。更に公職選挙法に触れるといけませんので具体名を挙げませんがどう考えても候補者に相応しくない人物が今回も多すぎます。“今回も”と申しましたのは以前からその傾向がありますが年々、単にマスコミに登場する回数が多いだけの空虚な候補者が増えるからであります。かつて「政治家に道徳を求めるのは八百屋で魚を求めるものだ。」などと暴言を吐いた育ちの悪い政治家が日本に存在しました。しかし私はいまこそこれからの政治家に求められる資質は“道徳心を持ち、良き武士道を体現できる”ことと強く主張したいのであります。写真は本文とは無関係です。一昨日に訪問した豊平区のラ-メン店です。ス-プとチャ-シュ-は(も)絶品です。店名は「ふくろう屋」さんです。
2007.07.12
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明治維新樹立の遥か前から師弟の関係で結ばれていた西郷先生と桐野さんの間にかすかな“すきま風”が吹いた要因はやはり敗走の連続という現実に双方が事の重大さを認識し始めたからかもしれません。私は本件について以前、江藤淳先生(作家)とある作家との対談集で認識しました。その対談集を読んでから相当、時間が経過しておりますので詳細までは記憶にありません。ただおおよそこのような内容であったと思います。“西郷にしてみると熊本城を落せはしなかったものの開戦当初はまずまずの戦いであった。しかし徐々に戦況は薩摩軍に不利になっていく。西郷先生は心中「これは桐野にいっぱい食わされたかな?」と感じ始めたのであろう。”ということを江藤先生たちは語っておられました。事実、人吉への移動時点で桐野さんは西郷先生を避けるようになりました。西郷先生が人吉に入ったにも拘らず桐野さんは人吉から25kmも離れた江代という土地に留まっていたのです。連戦連敗のなか桐野さんは西郷先生に会わす顔がなかったのかもしれません。あるいは西郷先生も桐野さんの指揮官としての能力に不信感を漂わせていたのかもしれません。ただ私は西郷先生が桐野さんに対し不信感を覚えたのは戦況不利により自分に災いが降ってくる事態を想像したからでは無いと考えます。仮に開戦前、桐野さん達に「今度の戦いは間違いなく薩摩が勝ちます。全国の不平士族も決起します。」と薩摩にとって有利な情報のみを与えられていたにせよ西郷先生は最終的には自身の決断で「おいどんの命はおはんらに預けもそ。」と断言されました。この時点で西郷先生は勝利の如何に拘らず命を投げ出されていたはずです。では西郷先生のかすかな怒りは何に対してだったのでしょう?これはあくまで私の想像です。西郷先生は桐野さんの拙策によって多くの貴重な命が消えていったことなのではないでしょうか?つまり“犠牲を払うにしても最小限の程度にすべし。”ということでしょう。男同士の“すきま風”は現代社会にも起こりうる風であります。政治の世界しかり企業においてもしかりです。意外とこの“すきま風”がその歴史のタ-ニングポイントであることも度々です。ともあれ薩摩軍は人吉で兵・食料・資金を調達し人吉城には弾薬製造所を設置するなど態勢を整えました。戦略も人吉を基点にし周囲を塞ぐという守りを重視した内容に変更しました。もちろん熊本より南に位置する鹿児島からの攻撃も加わり攻めも忘れてはいません。ここで薩摩軍兵士に厳しい軍令が発せられました。「武器を捨て逃げ去る者は切腹を命ずる。」というまさに“死にたくなければ敵を殺せ”とでもいうべき崖っぷちに置かれた精神状態を各兵士に強いたのであります。対する政府軍は5月30日の総攻撃を開始するのでした。写真は先日見つけたアイスキャンディ-です。カップの方がじっくり味わうことが出来るかもしれません。
2007.07.10
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敗走を続ける薩摩軍ではありますが総兵力はこの段階では8000名も残っていたのです。とはいえ、対する政府軍は3万人以上もの勢力を保持していましたから今後の勝敗は決したかの感があります。政府軍はその数の力をもって薩摩軍を取り囲む陣容を組んでおりました。4月20日、政府軍各旅団は各々一斉に攻撃を加えました。永山弥一郎さんが自刃した御船において薩摩軍は一時ではありますが占領しておりました。しかし数の力に勝る政府軍に再び奪われてしまいました。四方八方からの激しい攻撃により薩摩軍は陣地を破壊されてしまったのです。薩摩軍は敗走する手段として御船川を使用しました。つまり泳いで逃げることにしたのです。そこへ政府軍が薩摩軍に向かい狙撃したため御船川が薩摩兵の血で真っ赤に染まるという何とも凄惨な光景となりました。敗走途中で陣地によっては薩摩軍が優勢な戦いを演じることも度々ではありましたが大きな流れを変えるには至らなかったのです。ここにおいて桐野利秋さんは“玉砕の決意”を固めたのです。潔いというか決断力があるというか判断はつきかねますが桐野さんなりの判断で“この先に勝機なし”と判断したのでしょう。その時、野村忍助さんが本営からの伝令として桐野さんの元に駆けつけてきました。野村さんは桐野さんに対し「現時点での玉砕を中止するように。」と懸命に説得しました。野村さんは「政府軍がせまってきておりこの地での態勢の立て直しは不可能。もう少し時間をかけて他の地で体制を整えるべき。」と主張しました。周囲の薩摩軍幹部達も「野村の意見に従うよう。」桐野さんを説得たこともあり野村さんの主張が採り入れられました。こうして翌日、西郷先生を始めとした幹部達が集まり今後の戦略についての会議が行われました。西郷先生他の幹部にとって、この地は自分達にとって“ふさわしい死に場所”ではなかったのかもしれません。会議の結果、人数も少なくなったこともあり隊の編成を中隊編成(100名)にしました。本営は桐野・村田さん達が指揮し、大隊は中堅クラスがその任にあたることとなりました。西郷先生は村田さんらの幹部及び2000名の兵と共に人吉へ向かいました。人吉は薩摩軍に好意的な土地でありました。薩摩軍は人吉で久し振りの安息の時を過ごすことが出来ました。人吉に到達するまで雨・寒さに悩まされ険しい“山越え”に耐えた苦労が報われた一瞬です。薩摩軍にとって、この“山越え”以外に人吉到達の手段は存在しませんでした。それは平地には、おびただしい数の政府軍が睨みを利かせていたからです。なお、桐野さんは西郷先生より遅れて人吉近くに到達しましたが人吉には入らなかったのです。どうやらこの頃から西郷先生と桐野さんの間には“すきま風”が吹いていたのです。写真は有村屋さんのさつまあげです。有村屋さんは鹿児島において屈指の名店です。偶然、札幌市内の某ス-パ-で見つけましたので購入しました。
2007.07.08
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今週は何故か心身共にだるく燃えるところなく終わりそうです。たまには息抜きも良いと自分に言い聞かせています。それでも今週はベンチプレスで122.5kgを挙げることが出来ました。たまたま体のバイオリズムが良かったのかもしれません。前々回、日教組の実態を取り上げた「報道特集」について触れました。私なりの感想を製作者の同級生にメ-ルにてお知らせしました。すると翌日、多忙にも拘らず彼から返信メ-ルが届きました。その内容の詳細は記しませんが「日教組を支持する層、反対する層のどちらからも高評価を受けた。もっとも、自分は当たり前の報道をしただけ。」とのこと。私の周囲の知人達も本番組を観ており「製作の仕方が良かった。」と賞賛しておりました。限られた時間内により視聴者に核心を訴えかける能力は凡人には不可能なことです。これも長年に渡り培ってきた“能力”なのでしょう。多くの視聴者の“鑑識眼”によって緊張にさらされるのでしょうが反面、高評価を得ることが出来る仕事に携わっている同級生に羨ましさをほんの少しだけ感じました。これからも日曜日の17時30分の本番組観賞を楽しみにしつつ「9月に東京で会いましょう。」との私からの返信メ-ルを差し上げました。その頃は参議院選挙が終了しています。安倍総理続投か又は新首相誕生かはわかりませんが爽やかな談論風発を今から期待しています。またまた本内容には全くの無関係です。先日食べたラ-メン店です。場所は石狩市です。 「塩ラ-メン」がお勧めかもしれません。
2007.07.06
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本日、久間大臣が辞任しました。当初、安倍総理は静観し嵐が過ぎ去るのを待つ構えのようでありました。しかし自民党内のみならず連立相手の公明党からの“辞任要求”にはついに抗することが出来なかったということでしょう。久間氏の発言内容は日本国民の誰しもが先のアメリカによる原爆投下で亡くなった方への冒涜と考えるでしょう。長崎・広島では原爆によって多くの方が亡くなられ、運良く生き残られた方はその後遺症に悩まされ亡くなっていったと聞いております。同時に発言内容のなかで「原爆投下によって日本は敗戦が確定した。それはそれで仕方なかった。」旨の趣旨がありました。私はこの発言にも憤りをおぼえます。この表現は敗戦を是としているようにも聞き取ることが出来ます。戦争に負けて「仕方がなかった。」で済むのでしょうか?戦争は国家と国家が生存競争を賭けて戦う最終手段であり最終行為なのであります。それゆえ一旦、戦いの火ぶたがきって落とされた場合、何が何でも勝たなくてはいけないのです。仮に勝利を得ることが困難な場合はせめて“引き分け”に持ち込むという戦略なくしては国家・国民がズタズタにされてしまうことはわが国の敗戦時から現在までを眺めても十分に理解が可能です。一国の安全保障に携わる大臣がこのような発言をすること自体、わが国は“平和ボケ”しているのかもしれません。さてここで久間発言の内容に関して一点だけ述べたいことがあります。久間氏の発言内容を世界史の分析のみに捉えるとあながち“間違い”ではないのです。私が大学生の頃、趣味で国際政治の研究に取り組んでいた時期がありました。もちろん核兵器の研究も行いました。その過程で国内外における数多くの国際政治学者(特に外国人)はこう主張しています。「アメリカは先の大戦で日本に原爆を投下した。その結果、日本は無条件降伏をした。」と。しかし衝撃的内容はまさに以下の主張です。「アメリカが当時、ほとんど戦意を喪失し敗北間近の日本に対し不必要な原爆を投下したことは大きな戦略があった。それは終戦後、世界の戦勝国との交渉の際に自国を有利なポジションに置くためだ。」と。つまりアメリカは戦勝国会議で唯一の核保有国として他国に圧力を掛けつつ覇権を握ろうとしたのです。日本はアメリカが原爆の威力を世界に誇示する実験場になったに過ぎないのです。事実、アメリカは戦後から現在に至るまで“世界の警察”として、その地位を固めております。恐ろしい話と思われるかもしれませんが国際政治なんてこんなものです。所詮、国家と国家に真の友情など存在しないのです。それゆえに私達はどんなことをしてでも国際社会のなかで生存していく必要があるのです。それは例えば自国が他国に対し“恐れられる国家”になるか“ぜひ存続してもらわなければいけない国家”になるのかでしょう。そしてその“生存国家”を支える対象はもちろんその国民なのです。ですから政治・選挙に関心を示そうとしない国民が蔓延る国家は衰退の一途をたどるのです。最後になりますが今回の久間氏辞任でもう一つ残念に思ったことがあります。それは安倍総理の決断力・一国の宰相としての緊張感の欠如です。かつて中曽根総理は「日韓併合は韓国にも責任がある。」と主張した藤尾文部(当時)大臣を罷免しました。その発言内容は今も吟味しなくてはいけない点はありますが中曽根総理は一国の宰相が世界に向け断行しなくてはいけない苦汁の決断をしたのです。それは同時に自国民に対する総理が取らなくてはいけない姿勢でありました。私は安倍総理には自身の決断で素早い“決断”をして欲しかったです。更に付け加えますと自民党の参議院議員候補に胡散臭い連中が存在することも懸念するところではあります。写真はいわゆる“Vシネマ”です。このところ心身共にスキッとしていませんでしたので安売りしていたこの作品を購入しました。戦後の横浜を狭しと暴れまくった4人の侠の物語です。毎夕食時に少しずつ観賞してパワ-を充満させます。いつまでも青臭いことばかり主張する私も愚連隊気質です。
2007.07.03
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金曜日は会社関係者との飲み会でした。さほど酒量は多くないにも拘らず悪酔いしてしまいました。原因は恐らく気候のせいでしょう。暑い日が続いたかと思いきや急に寒くなったりと体の調整が出来ません。そして昨日は東京からお越しの(お馴染みの)竹社長との再会でした。竹社長とはススキノで待ち合わせましたが、またまた竹社長にご馳走になってしまいました。昨日のススキノは土曜日というのに混雑していました。そういえば金曜日は公務員にボ-ナスが支給されたとのことですので彼らが繰り出していたのかもしれません。竹社長とは例のごとく鹿児島の話題から始まります。そこから政治・経済へと流れるのです。会話のなかで竹社長はさかんに昨今の日本で主流となっている“拝金主義”に対し懸念されておられました。「お金を稼ぐことは悪いことではない。しかし度を越えた金銭に対する執着は国を誤る方向へ導いてしまう。」ということです。元来、薩摩(鹿児島)は金銭には執着せず、それどころか金銭を忌み嫌う体質があったそうです。対して金銭に執着する県民は長州(山口県)と言われておりますが・・・・・・。今回、竹社長から嬉しいお土産を戴きました。ANAの機内誌である「翼の王国」です。何と薩摩の特集です。鹿児島の名産品・黒ぢょかや郷中教育を復活させるべく加治木島津家13代当主・島津義秀氏の特集には興味深く読むことが出来ました。私にとって、このようなお土産は多額の現金などよりも遥かに嬉しいものです。夕方、体内のアルコ-ルを抜くためトレ-ニングに行きさっぱりとしてきました。帰宅後は録画しておいたTBSの番組「報道特集」をじっくりと観ました。実は本番組を作成している人物は私が大学時代に所属していたサ-クルの同期なのです。それが理由ではないのですが私はこの「報道特集」を毎週、必ず観ることにしています。同級生がディレクタ-ゆえ賞賛する訳ではありませんがこの番組は実に時間を費やし丁寧に製作していると私は思っております。日曜日は多くの報道・討論番組があります。なかにはヒステリ-ではないかと思える老人がコメンテ-タ-を務める中身の無い番組が存在しますが「報道特集」は冷静な構成・進行に徹していることが嬉しいです。本日は「日教組」がテ-マです。番組を観て感じたことは、彼らの主張もわずかですが理解できる点もありましたが多くは時代錯誤というか“既得権益に固執するお役人”でしかありません。「日教組」の集会はまるでどこかの新興宗教団体の様相を呈していました。また大昔からの決まり文句である「教え子を戦場に送るな。」などという主張は自分勝手というか大きなお世話です。万が一、戦争になったら若者(男子)が戦地に赴かなくてはいけないのです。他に誰が自国を守るのですか?仮にアメリカの傘でじっと戦況を見守るにしても「日米合同軍事演習反対!」はないでしょう?自分たち(日本の若者)は日本で、のほほんと酒・スポ-ツ・オンナを楽しみ、アメリカの若者は戦地で犠牲になっても構わないのでしょうか?私事で恐縮ですが、まず若者の前に自らが戦地に行くことが出来るよう未だに老骨に鞭打ち、厳しいトレ-ニングを課しているのですが・・・・・・。また、“ゆとり教育”の弊害が喧伝されて久しいですが都会の生徒はそのような制度を無視して学力向上に努めているのですね。これでは“地方と都会の学力格差”は広がるばかりですね。私は学力も大切ですが“道徳心”を教えることの方が今の日本にとっては大切かと思っていますが。 写真は「翼の王国」です。
2007.07.01
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