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ついに声を失った。以前にも一度、まったく声が出なくなったことがあったが、今回もそれと同じである。声をだすためには、腹に力を入れて空気を喉元に一気に集めないければならない。それでも、ガー、ピー、スーといったような壊れたスピーカのような音にしかならない。人間の身体というものは、まことに玄妙、精密な仕掛けになっているものである。ウチダくんが、『株式会社という病』の感想文をブログで書いてくれている。まだ、出版もされていないのに、書評が出てしまったようなものである。NTT出版の牧野くんらと画策していまや売れっ子ライターである、ウチダくんから推薦のポップ漫画を書店用に書いてもらおうという魂胆があって、ゲラを発送しておいたのである。そうしたら、いきなりブログに感想文が書き付けられている。短時間で一気読みしてくれたのだと思う。それにしても、その読みの鋭さには感服せざるを得ない。いきなり、この本を書いた俺の意図、俺が意図していなかった効果、俺が知らなかった俺のことが、実に明瞭かつ鮮明に分析されている。改めて、ウチダタツルおそるべしと思う。同時に、感謝の気持で一杯である。(ありがとね)先ほど、校正が終了した。随分手を入れた。それでも、随所に不満が残る本である。きっと、色々なご批判が出るであろうと思う。前著は、教科書にしてもいいくらいの自信作であり、ひとりで勝利の祝杯をあげたのだが、今回のものは、苦労して破綻のある分だけ愛着のある本になったと思う。あとは、まな板の鯉である。さて、明日は学科試験である。体調が良くなっていれば朝から鮫洲に出かけようと思う。今晩、インターネットの問題集で、交通規則のお勉強である。何回かやってみたのだが、一向に合格点が出てこない。興味のないことを学ぶというのは、俺にとってはことのほか難しいことなのである。
2007.04.30
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アメリカから帰ってからずっと、風邪が治らない。煙草がうまくない、咳き込む、微熱がある、食欲が無い。今年はなんだか、しょっちゅう風邪を引いているような気がする。黄金週間に入ったというのに、免許も無ければ、体調も芳しくないということは、蟄居して新本の校正をしっかりやれということなのか。やってますってば。それとも、はやく免許をとれってことなのか。行きますとも、鮫洲。(めんどくせえが)ラジオ関西放送の『ラジオの街で逢いましょう』通称ラジマチも最初の一ヶ月を無事終了し、いよいよ二月目に突入。この番組は、パーソナリティーが四人登場する。編集工学研究所の元専務、現在ケイズワークの社長の菊地史彦。(俺のアミーゴだわな)文鳥舎主宰、元早稲田文学編集の博覧強記のおんな仕掛け人、大森美知子。(芸歴に似合わぬ文鳥のような声の持ち主である)そして、俺。そこに「わいをわすれちゃあきまへんがな」と満を持して登場するのが、ミーツの元編集長で岸和田だんじり祭りの元若頭という水戸黄門のような経歴の江弘毅である。この江弘毅の回が、5月1日に放送されるので是非お聞き下さい。ゲストはご存知、大西ユカリさん。(過去の放送分はここ聴くことができます。)7月放送分からは、ウチダ・ヒラカワの東京ファイティングキッズコンビがレギュラーで登場して、番組を破壊しにかかるということなので、こちらもよろしくお願いいたします。さて、手元に『東京ファイティングキッズ』文庫版(朝日文庫)の見本刷りが届いた。文庫用の前書きが俺、あとがきが内田樹、そして解説が小池昌代さんである。表紙は山本浩二のあっと驚く意欲作で実におもしろい本に仕上がっている。ウチダくんとも電話で話したのだが、この本の中に、この間の俺たちの思考のほとんどすべてが、すでに書かれている。勿論まだ、生煮えだったり、半熟だったりするのだが、それ故にヴィヴィッドな思考の痕跡が刻み込まれているように思う。近々に書店に並ぶはずなので、柏書房版をお持ちの方も是非、お手にとってお確かめください。(宣伝で恐縮ですが、まあ常套句ですのでお許しを)川端賞作家となった、小池さんの解説だけでも、読む価値あり。ということで、俺は「ぬれマスク」をかけて、寝ることとする。
2007.04.28
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ロサンゼルスに入ってすぐに感じた奇妙な感覚は短い滞在中ずっと、俺の身体から消えることは無かった。アメリカは、奇妙な脱力感に苛まれているような気がしたのである。とうとう時差ぼけが直らないまま終わってしまった今回の渡米だったが、帰ってきて新聞を開くと「中国(香港を除く)との貿易額は前年度比16.5%増の25兆4276億円だった。日中経済の相互補完関係が強まり、戦後初めて米国を抜き最大の貿易相手国になった」との記事。軍事・外交上の最大のパートナーであるアメリカに対して経済界は一足先に多極化へ向けて歩み出しているということである。経済には友愛もなければ、義理も人情もない。カナリヤのように、経済的欲望が息を吸い込むことのできる空気を敏感に察知して場所を移っていくだけである。いっぽう、先ごろ発表されたIMFのWorld Economic Outlookによると世界経済は、これまでと同様に4.9%の成長で推移するがアメリカ経済は2007年は2.2%に落ち込み、今後も低成長が基調になることを示唆している。世界経済の平均の半分以下の成長ということは相対的に見れば右肩下がりのフェーズに入ったということである。同時にそれは、世界経済の中心がアジア、中東、ヨーロッパ、日本といったところに遍在するという新しいスキームに以降してゆくということである。それはもう始まっているのか。そうだとすれば、これは大きな地殻変動である。様々な指標が、アメリカ経済の後退を示し始めている。ロサンゼルスの空港で俺が感じた寂寥感も、こういったことと無関係ではないだろう。911以降のアメリカは、経済と政治という二つの牽引力によって股裂きにあったような状態であった。経済的には市場万能のグローバリズムであり、政治的にはモンロー主義を彷彿させる単独行動主義である。単独行動主義はイラクにおける歴史的な敗北によって打撃を受け、アメリカ経済の活路であった経済フロンティアを食いつぶすというかたちで、経済グローバリズムもまた、長期的に見ればアメリカのプレゼンスを低下させることになる。実際にそのようなことを書いたこともあるが、思った以上にその影響が早くあらわれたということかもしれない。過去十年、アメリカ、とくにシリコンバレーは弱肉強食のアリーナであった。それが、人間にとって暮らしやすいかどうかは別としてアリーナは人間の欲望をくすぐり、アドレナリンの分泌を亢進させる場所であったことに変わりは無い。しかし、バブルの真っ最中においても、無理やり燃料を補給し続けて走り続けているような焦燥感のともなう祝祭が続けられているような印象はあった。外観的には、シリコンバレーはヒューマンスケールを取り戻しつつあるように見える。今回いくつかの有力なベンチャー企業を訪問したのだがいづれも、質素なオフィスで堅実な経営をしているように見えた。以前であれば、華々しいオフィスに大勢の人間が赤字を垂れ流しながらも一発逆転の夢を紡いでいた。親しい友人たちが、ラットレースから降り始めている。精神科に通い、もうお金のためだけに走り続けることができないという。スピリチュアルの学校があちこちにできる。経済ダーウイニズムの中で戦いつづけていれば、バランスをとるために、もう一方には極端な精神世界が用意される。食うだけ食って脂肪の塊になった肉体をジムで健康器具に囲まれて走り回ることでそぎ落とすといったところである。自動車免許を剥奪された今回のアメリカ旅行はアメリカがいかに歩くことを拒絶したところであるかを思い知らされた旅でもあった。横断歩道のない、道一つ渡るのにも難儀をしたのである。すべての道が、車のためにつくられている。日用品一つを手に入れるためにも、何十分も歩かないと目的地につかない。だいたい、道をとぼとぼ歩いている人間などいないのである。これが、俺たちがかつて憧れたル・コルビジュエの光り輝く街である。以上は、数日間の滞在の印象に過ぎない。しかし、どんな公式見解や鳥瞰図的な見通しよりも時差ぼけで、とぼとぼと道を歩いている疲れた人間の印象が当たっていることがある。
2007.04.26
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以前はこんなことは無かったのだが今回はひどい時差ぼけである。朝の四時に目が覚めて、やることがない。バスタブにお湯をためて、半身を湯につかりながら、持参してきた志水辰夫を読む。もう一冊は、藤沢周平の『用心棒日月抄』。海外に出ると、藤沢周平が読みたくなる。かつて、沢木耕太郎の『深夜特急』だったと思うが、バッグパッカーの手から手へとリレーされてぼろぼろになった文庫本は山本周五郎だった。なんか、わかる。感性の確かな手ごたえを、携えていたいと思うのだろう。あるいは、コミュニケーションに神経を使っていると、負荷なしに胸に染みこんでくる言葉がありがたいと思える。ようやく、明るくなりめたのでイースト・マウンテンビューの家並みの間を早足で散歩する。夜来の雨が上がって、清清しいカリフォルニアの空気が戻ってきている。なんども、道を横断するリスと出遭う。いつもと同じ、北カリフォルニアの中流の住む町並みだが、今回はいままでとは少し異なった感興を覚えるのである。昨日、アメリカは終わっていると書いた。911以後のアメリカは、数少ない美質であった、おおらかさ、あけっぴろげなところがなくなって、妙に内向きになっている。シャッターを閉ざした店。ひっそりと静まり返った住宅街は、静謐というよりも町中が息をひそめているといった印象である。イラクは歴史的な敗北ということになるだろう。国内の景気もいまひとつらしい。テレビでは、何度もヴァージニア工科大学の事件が映し出されている。この国は、後退戦が本当に苦手である。「何か変だよな」「いや、シリコンバレーは終わっているでしょ」「え、そうなの」「いや、よくはわからないけど。もうそういうところから遠ざかっているし」「じゃ、なんでまた、アメリカにもどったのよ」「もう、他に行くところがないしさ」昨夜の奥山との会話である。鮮明な兆候が見えるわけではないのだが、確実に何かが変わっている。戦地では、兵士の逃亡や任務拒否が増え続けているという。この、嫌戦気分が、ゆっくりとこのベイエリアまで被いはじめたということなのかも知れない。日が昇ってきて、街が活動を開始するかと、思いきやなかなか人びとは起き出さない。そうか、今日は日曜日であった。仕事をするか、それとも二度寝にするか。
2007.04.23
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久しぶりにシリコンバレーである。東京を出る前に、国際免許を取りに行って、その場で、国内免許を取り上げられてしまった(うっかり失効ね)ので、アメリカに来ても動きが取れない。成田-サンノゼの直行便もなくなってしまい、免許があれば、サンフランシスコからドライブなのだが今回ばかりはLA経由で、サンノゼ空港に入りそこで、現地のスーパースタッフである奥田女史にピックアップしてもらった。アメリカという国は化石燃料を燃やし続けないと、生きてはいけない大変不便なところである。今回は、最初から現地のスタッフにお世話になって、何から何まで、介護してもらわないと用が足せない。そのまま、サンノゼのオフィスに就いて近況を聞く。しばらく、来ていなかったらこちらは驚くべきことになっている。彼女は新しいビジネスを始めようとしているのだが、それが、これまでの彼女の手がけていたものとは180度異なるものであった。詳細はここには、まだ書けないのだが、かつてのITフリーク奥田女史は、今やITに愛想を尽かしたようで新しいアグリ・ビジネスに全身燃え上がっておりほとんど草原の巫女のようになっている。すごいものである。まあ、ここにはサンノゼ・ビジネスカフェのかつてのVPで今は俺の異国の悪友になっている奥山君がいるので、困ったときには彼に電話をするとすっとんできてくれる。まったく、仕事で世話になり、遊び(ゴルフとあわび取りなのだが、俺はもぐりにいったことがない)でも世話になり、得がたい友人である。彼は一度アメリカに見切りをつけて日本に帰ったはずであるが、電話をしてみると、ここに舞い戻っているではないか。一年以上会っていないのでカリフォルニアの味気ない晩飯(ベドナムそば)を食いながら久闊を叙すといった按配である。アメリカとはいってもベイエリアのことしか分からないのだが、今回はローカルエアーの窓越しに上空からしみじみとアメリカを観察した。なんだ、世界の温暖化に貢献し、中東にまで出かけて戦争をしている国だが上から見れば、山と荒地ばかりで人びとは谷間谷間に集落をつくって生活している。地上から眺めるLA,サンフランシスコ、シリコンバレーとは随分異なった印象を受ける。奥田さんに言わせるとそれでも、やはりアメリカは面白いということになる。超ハイテクで、IPO熱に浮かされたシリコンバレーではあるが、同時に、お金の世界にそっぽを向いたコミュニティー作りに挺身している今風ヒッピーも同じぐらい多い。その両極端が上手い具合にバランスをとっていて、そこにエネルギーが渦巻いているということらしい。何でも過剰なことがここの特徴なのかもしれない。確かに、やつらは中庸ということを知らない。腹いっぱいということも知らないのだろう。そういえば、今回利用したアメリカン・ドメステックエアーのフライトアテンダントはまるで、アメリカンポルノからそのまま抜け出してきたようなブロンドグラマーで、厚い唇はぬらぬらと濡れた光沢を放ち、でかいケツをくねくねと捩じらす動作はブギーナイツの画面の中をみているようであった。どこまでも過剰なのである。奥山くんがここに舞い戻ったのもこのアメリカの過剰さの魅力によるのだろうか。間違いなくアメリカはすべてのものが過剰になってゆく「変なところ」である。そして、「変なところ」は、好き嫌いは別にしても(俺はどっちかといえば辟易することが多いのだが)エキサイティングであることには変わりはない。ただ、これは俺の気のせいかもしれないが、どこかで、アメリカはもう終わっていると思わせるような寂寥の空気が流れ込んでいた。かつて、輝いていた過剰の魅力が、いまはそれを演じている人びとにとってもすこし、しんどそうに見えたのである。
2007.04.22
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先週末、NTT出版の牧野君と一緒に上野鈴本演芸場に行った。鈴本では珍しく、全席指定。この下席は、花録が大ネタを披露している。当日は、市馬、たい平、正蔵といった芸達者が続き、トリで花録が「子別れ」を通しで演じたのである。一時間半の長丁場であったが、ゆるみのない、気合の入った「子別れ」であった。最近テレビのレギュラーなどもやっていて人気者になって、どうなのかと思ったが、緊張感のあるいい「子別れ」を聞かせてくれた。勿論、この大ネタは錚々たる名人が演じており、それぞれに、泣かせてくれる。年若い花禄に、どれだけ熊五郎の「改悛」が描けるのかすこし心配でもあった。杞憂であったようである。熊五郎は、一旦は女郎に狂い、身をもちくずすが「改悛」して、女房の価値に目覚める。女房の方も、熊五郎の気持ちをどこかで信じ続けている。この噺のみそは、熊五郎という人間が、ふらふら揺れながらも、戻るべきところへ戻ってくるというところにある。人間は変われるのだということである。「芝浜」も同じ話型である。それはまた、人間はなかなか変われないということも暗示している。唐突だが、バージニアでの韓国人による銃乱射、長崎での市長暗殺の犯人像というものを見ていて、俺はこの落語の世界の意味の深さを思い出したのである。「絶対にあってはならないことだ」と為政者も識者も語るが、あってはならないことがおこるのがこの世界なのである。かれらは、変われなかった人間である。それが、呪詛であれ、思い込みであれ、人間と言うものは自ら設定した思考の枠組みに捕囚されると思考が硬直して、容易にそこから抜け出すことができない。そこに、悲劇が待っていてもである。かれらは、悲劇に吸い寄せられるようにして暴発する。暴発による以外には、その枠組みを突破できるすべがないかのように。このところ、この枠組み思考による呪縛ということがずっと気になっていたのである。ほとんど同じ環境に生活し、同じ言語を使い、同じ情報に囲まれていても、一方は左に進路をとり、一方は右に進路をとる。ひとりはテロリストになり、ひとりは人道主義者になる。ひとりはモダニストになり、ひとりは復古主義者になる。ひとりは護憲派になり、ひとりは改憲派になる。ひとりは拝金主義者になり、ひとりは義理と人情の渡世を生きている。かれらはお互いに非妥協的であり、憎みあう。人はそれぞれだというのは、もっともらしいが、当たっていない。どちらも、本当はひとりの人間の中にある可能性なのだと思うべきなのだ。だから、どっちがどっちかということ自体はあまりたいしたことではない。すくなくとも、そう思ってみることは必要なことだ。問題があるとすれば、「子別れ」や「芝浜」のように、片方の端から、もう一方の端へと引き返すということができなくなるということであり、そこに思考のアポリアがあると俺は思う。深刻なニュース画面を見ながら、そんなことを考えたのである。
2007.04.18
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カシアス内藤に関する熱いルポルタージュと、写真集を最後にしばらく、沢木耕太郎から遠ざかっていたのだが、ウチダくんの兄ちゃんがおもしろいというので『凍』を読んでみた。一気に読んでしまった。いやぁ、すごいな。これまでは、対象の人物について語りながらどこか、沢木自身のストイシズムやヒロイズムといったものが克っていたような、気がしていたのだが『凍』では作者は背後に消えて、クライマー山野井泰史の人間が圧倒的に迫ってくる。勿論、その奥さんの妙子さんと、かれらが挑み続けたものの描写も鮮やかである。これまで、沢木耕太郎は、幾分かは自らのルポルタージュのスタイル(それはかれが切り拓いたものだ)に窒息しかけていたのかもしれない。ストイックで端正だが、どこかけれんがあった。それが、この山野井という圧倒的な人間に出会うことで、ノンフィクションというものの新しい可能性を見つけ出したともいえるのではないだろうか。ひとつひとつのページに分け入ることで、読者は、どんなスポーツにも似ていない激しい闘いを至近から眺めることになるのだが、たとえば、俺はこんなちっとしたサイドラインにもぐっときた・・・-だが、それ以上に山野井が妙子に惹かれたのは、そのやさしさだった。妙子がなんとなく自分に好意をもってくれているのはわかっていた。しかし、山野井が惹かれたのは自分にやさしくしてくれている妙子ではなかった。自分以外の人にやさしくしている妙子を見ているのが好きだったのだ。- すると、電話の向こうで耳を澄ませていたらしい母親が、不意に大声で泣き出すのが聞こえた。それを聞いて大津は思った。死んだかもしれないという報にはぐっと耐えていた母親が、無事と知らされたとたん泣き出す。感情をおさえた、奥行きの深い筆致だ。だからこそ、山野井泰史という稀有の人間の息づかいを伝えることができたのだろう。作家とその対象の最も幸福な関係というものがここにある。そして、その関係が成立するためには、かくも過酷な現実が必要だったということでもある。
2007.04.16
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関係各位より免許停止に対する励まし、おくやみ、嘲弄のお言葉をいただきました。ここに謹んでお礼申し上げます。痛かったのはオートバイ中型免許がパアになったことであるが、これを期に、限定解除に挑戦、秋にはドゥカティかトライアンフで八ヶ岳を疾走している店主の雄姿がみられるはずである。さて、またまた、告知です。来る5月八日火曜日夜ラジオデイズ共催のオリンパスシンクる寄席が行われます。我が新作落語の神様、三遊亭円丈と柳家小ゑん兄いの二人会。それぞれ、持ちネタを交換して二席づつ。円丈師匠の「ぐつぐつ」は絶対に聞き逃すわけにはいかないという記念すべき第一回の落語会です。まあ、これは事件である。勿論ヒラカワも駆けつけます。皆様も是非、いらしてください。まだ、お席はあるようです。詳細はここで。お問合せ・ご予約:オフィスM’s まで メール:sui@ta2.so-net.ne.jp (TEL : 03-3999-3225)全国の労働者諸君、お江戸日本橋に結集しよう!内容訂正:円丈、小ゑんさんの持ちネタ交換は、別の落語会(無限落語)でした。こちらは、それぞれ、十八番の持ちネタ勝負です。お詫びして訂正いたします。
2007.04.15
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来月、朝日文庫から『東京ファイティングキッズ』の文庫版が出る。その解説を小池昌代さんに頼んだら快諾してくれて詩魂あふれる見事な文章を寄せてくれた。(お褒めの言葉が散りばめられている。褒められるのが大好きなウチダくんも俺もむずがゆいような恥ずかしいような気持ちである。)と書いていたら、昨日、小池昌代さん川端康成賞受賞の報が入ってきた。いやぁ、おめでとうございます。わがことのようにうれしいものである。その、小池さんと近々、ラジオで戦後詩について語り合う予定もある。中学生がはじめてデートをするようにわくわくしている。(当日は上野茂都さんも同録なので、俺にとっては盆と正月と還暦がいっぺんにやってきたような日になるだろう)で、今朝は、ちょっと、浮かれ気分で鮫洲へ向かう。これがいけなかったのか。来週からのアメリカ出張のための国際免許証をとるためにきたのである。プリクラで写真をとって、申込書に必要事項を書き込み、印紙を貼ってから、免許証を添えて、窓口へだす。「あなた、これ、免許失効してますよ」「え、今年は平成18年ですよね」「何を言っているんですか。もう失効して10ヶ月も過ぎてますよ。」俺の中で一年の歳月が消えてしまっている。「するってぇと、なんですか。国際免許はだめなんですか。」「はい、その前に日本の免許取り直してください。」すっかり忘れていた。まいったね。この場合、俺はどうすりゃいいのだろうか。また、教習所かね。(誰か、一番速く娑婆に復帰できる方法をご教授下さい)ことのところ、しばらくダブルブッキングがないと思っていたらこれだ。こういうことが、俺にはよくある。友がみな偉く見える今日この頃である。俺にはどこか、重要なビスが抜けているのである。●●●●●●●●で、まあ不幸中の幸いということである。(事情により伏字)今度、空港でチェックインしようとしたら、パスポートが失効していたなんてことにならないための、予行演習であると前向きにとらえて、まっとうな人生を生きたいと思う。小池さんは川端文学賞である。俺も頑張って免許証を受証せねば。えらい落差である。
2007.04.13
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先日ご案内のアゲイン@ラジオデイズ寄席ですが、予約が殺到しており、締め切らせていただきます。ありがとうございました。また、今回ご予約したにもかかわらず、お席を確保できなかった方には大変申し訳ありませんでした。このラジオデイズ寄席は毎月行われますので、次回は是非。業務案内でした。
2007.04.11
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仕事帰りに久しぶりに広尾のカフェ・デプレをのぞくと店は改造され、店名も変わっていた。俺としては、以前のパリのカフェ風の方がよかった。汚れた壁と、踏み込まれた木製の床。美しい汚れと、ニュアンスに満ちた空間だった。どうして、どこにでもある、ぴかぴかの今風カフェに変えてしまうんだろう。俺の勝手な失望を味わいつつ新しいメニューのンバーガーを食べる。コーヒーを飲みながら、『僕の叔父さん網野善彦』@中沢新一を読んでいると携帯電話が鳴る。アゲイン店主のイシカワくんである。「あのさ、すぐ来てよ。新しいメニューを食べてもらいたいんだよ」口をもぐもぐさせながら勘定を済ませてそのまま武蔵小山へ向かう。武蔵小山は個人商店の最後の砦である。アゲインの階段を下りると壁に、これまでのイベントの写真が飾ってある。ウチダくんとやった「東京ファイティングキッズトークイベント」もあった。あいさつもそこそこに新メニューが出てきた。「おから蒟蒻カレー」である。見たところは通常のキーマカレーであり、ひき肉がいっぱい入っているように見えるのだがこれが、おから蒟蒻なのである。食感もほとんどひき肉である。「うまいね」「じゃ、アゲインカレーでいいかな」「いいんじゃないの。ダイエットにもいいし」ということで、合格である。この出来たてのアゲインの天井や、壁が紫煙で黄色くなり、手垢が光沢となりどこにもない魅力的な地下室になるまで何年かかるのだろう。
2007.04.10
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日曜日も、まるは朝六時には俺を起こす。(お前には休日ってものがないのか)家の周りを一回りして、恒例の脱糞&マーキング。それから、うれしい二度寝。昼過ぎに起き出して、まるを連れて近所の学校へ。選挙があるから、義務を果たしに行くのである。運動場にまるを繋いで投票所で、投票を済ます。結果は、皆様ご存知のとおり。今回の選挙はまったく、見るべきものがなかった。結果は最初から明らかだったからね。若尾文子さんのご尊顔をテレビで拝見できたのが唯一の救いだった。若かりし頃の彼女が、どれほど輝かしい存在だったかを知っているものにとっては、美しく年老いた彼女を見るのは救いである。東京という街は、資本主義が行き着いた欲望の楽園でここから何か新しいものが始まる(=生産される)なんていう期待は持たないほうがよいのである。政治的にも文化的にも、ただ消費されるだけの場所だからだ。石原慎太郎氏は、今回は自戒と反省、ソフト路線で選挙を戦って勝利したが、彼の本質であった超国家主義者としての面目もまた、この東京で消費され、いまやただの夜郎自大で時代錯誤の老兵である。左右のイデオロギーは、もはや消費されつくされて倉庫の奥に捨て置かれた不良在庫でしかないのである。かれの中に、行動力があるとか、分かりやすい、見栄えがするなんていう指標しか見ずに投票する無党派、政治的無関心の若者たちが、かれに投票するというのもまた、消費化、都市化の必然だろうと思う。消費資本主義が中心的に推し進めているのは交換スピードの促進である。投下資本は出来るだけ早く回収されることを望むし、市場の商品棚は、いつも新しい商品が陳列されなければならない。回転を早めることで、利潤を積み上げてゆく。そのために必要なことは、商品比較が容易で、わかりやすいこと、標準化されていることなのである。大きいか、小さいか。速いか、遅いか。新しいか、古いか。強いか、弱いか。といったような二項対立的な分かりやすさがなければ商品は特別な鑑識眼を持った人間が現れるまで陳列棚に放置され場所代を払うだけのコストでしかなくなる。さらに、この差別指標が示しているのは、二項対立ですらない。あらかじめ、大きい、速い、新しい、強いということが専一的な価値として決められているからである。それゆえ、一極集中はさらに進み、都市内の南北問題、つまりは格差もさらに進み、文化的な非対称も極限まで進むことになる。市場は一見、多種多様な商品が百花繚乱の様相を呈しているかのようだが、実は、そのすべてが単一の尺度で測られるような単純明快な品物ばかりである。そうなると、差別指標は、ただ、「量」的なものだけに単一化せざるを得ない。大きいか、小さいか。速いか、遅いか。(以下同文)そして、ただ相対的な大きさ、速さ、強さだけが勝敗を決するという結果になる。これが、悪いといいたいわけではない。都市化、消費化の自然な過程だといいたいのである。今回の選挙とは、そういう空気が支配的な中で行われた選挙であった。そして、より大きな絵を描き、より大きな態度をして、より強そうな石原慎太郎氏がこの都市化を代表するプランナーとして選ばれたということである。情報の公開やら、福祉政策といった対蹠的な政策はやったほうがいいに決まっている政策である。だから、それもまた差別指標にはなりえない。誰が、より早くそれをやるかといったスピードの問題に還元されてしまうのである。したがって、ポスト石原もまた、選択肢は限られてくる。石原よりもより大きく、より強い人間が現れるか、あるいは、こういった都市化、消費化のフレームワーク自体を書き換えるような人間が現れるかである。しかし、後者である可能性は大変に低いといわざるを得ない。多くの人間が、交換スピードの促進、消費の拡大というフレームのなかで考え、それらが作り上げた言葉で思考することに慣れきってしまっているからである。だからといって、未来が暗いということではない。暗くもなければ、明るくもない。ただ、分かりきった未来というものは、それが、どんなに光り輝いていたとしても、退屈だろうと思うだけである。
2007.04.09
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ラジオデイズからの告知です。いよいよ、第一回ラジオデイズ落語会が武蔵小山アゲインで開催。5月18日金曜日。柳家小ゑん、柳家喜多八、三遊亭遊雀のゴールデントリオ揃い踏みだぜ。ラジオデイズ一押しのお三方です。喜多八師匠は、俺が落語教室で直接教えていただいた師匠で、これぞ落語という古典を体験できます。これ以上ないメンバーによる、一夜の落語会です。前座さんに代わって、今回は二つ目の古今亭菊可さんが駆けつけてくれます。勿論ラジオデイズフルメンバーも駆けつけて、客席から声援をおくります。一般席僅少。(30席ぐらいか)回転寿司一回抜いても、まず駆けつけるべし。予約は、ラジオデイズのサイト「イベント」のページから。(先着順なので、満席の場合はあらかじめお詫び申し上げます。また、先日の小ゑん師匠と俺との対談も、アップロードされています。ラジオをお聞き逃した方、お聞き下さい。俺はどうかっていえば、まあ、素人だな。堅いよ。でも、次回からは慣れちゃっているからね。
2007.04.06
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先日、青山さんからお借りしたディビット・E・カプラン&アレック・デュプロの『ヤクザ』(第三書館)がべらぼうに面白い。初版は1991年だから、もう二十年近く経つ。原書がアメリカで出版されたのは1986年なので時間はさらに遡る。本書はアメリカで「ノンフィクション書籍調査報道者&編集者賞」を受賞し、話題になった。前書きによると、日本からも「すくなくとも18社」が翻訳出版の名乗りを上げた。ところが、それが一斉に辞退し始める。それは、本書が単に、日本の犯罪組織についての調査であるに留まらず、政治的な意味での戦後日本の暗黒史を暴き出していたからである。出版社に圧力があったのか、それとも自粛というやつだったのかは不明である。世の中には陰謀史観というものがあり、それはそれで大変面白いのだが本書は、そのような際物ではない。丹念に資料を追って、正史から抜け落ちたジクソーバズルのピースをはめ込んでいくという地道な作業を繰り返している。登場人物は多岐にわたる。日本に自由主義の理想を埋め込もうとするケーディスと反共の橋頭堡にしようとヤクザを用いようとするウィロビーのGHQ内部での確執、山口組と稲川会の暗闘を利用してフィクサーとしての地歩を固めてゆく児玉誉士夫。世界で最もカネのあるファシストと自ら公言していた笹川良一。そして、河野一郎、大野伴睦、岸信介ら自民党の有力政治家たち。そして、ロッキード事件。ロッキード事件のとき、俺はまだプータロー状態で、毎日渋谷道玄坂百軒店あたりをうろついていた。ブラウン管の向こうには全日空の社長やら、丸紅の会長、日商岩井の役員らの証人喚問の様子が写し出された。「記憶にございません」の小佐野賢治は、田中角栄との間柄を問われ「刎頚の友」と形容していた。なるほど、刎頚の友か。これは、どんなドラマよりも面白く、証人たちは、どんな役者よりも迫真の演技を見せていた。ただ、やはりあれは上っ面をなぞっただけの味の薄いドラマでしかなかったのだ。なぜ、ロッキード事件のようなことが起こったのか、本書を読むとよく判ってくる。-日本の政界と犯罪界が裏の世界で共謀しているのが日本の戦後史だという点が頭に入っていたならば、このように様々な事実の発覚が、日本人にとってショックな出来事となることはなかったはずである。ひどいもんだが、これが日本の歴史の一面なのである。それは、アメリカもヨーロッパも変わらない。人間の歴史には、必ずこいうった欲とカネが権力と骨がらみになって進行して行く時代というものがある。ほんとうは、金融資本主義の時代になった今でも意匠が変わっただけなのかもしれない。ただ、残念なのは、このような歴史の修復作業が日本人の手によっては行われなかったということである。『東京アンダーワールド』は俺が最も感心したドキュメンタリーの一冊だがこれも書いたのはアメリカ人であった。勿論、ジャーナリストだって、命は惜しいから相当な覚悟をしなければ、アンタッチャブルに踏み込むことはできない。しかし、もしジャーナリストが「善良な市民」を代表するだけの、ただの代弁者であったなら、このような歴史の裏側は永久に埋没したままになってしまうだろう。ゲイ・タリーズも、ハルバー・スタムも、ボブ・ウッドワードも日本のジャーナリズムからはなかなか出てこない。
2007.04.06
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今、ラジオ関西でラジオデイズの新番組、『ラジオの街で逢いましょう』をやっている。等々力の俺のトランジスタ・ラジオでは聞こえない。関西在住の方は、お時間があればお聞きください。小ゑん師匠と、ぼそぼそ、どんより盛り下がりトークをやってます。写真は、上野茂都描くところのはめ絵に顔を突っ込んで悦に入るカフェ・ヒラカワ店主。アホである。顔のまわりは、「ふにゃめろん」来月は、この上野さんとラジオ対談をやる予定。音曲つき(たぶん)地を這うような盛り下がりに乞ご期待。(って、誰も期待してねぇか)
2007.04.03
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一昨日は、国土交通省に呼ばれて、日本の街づくり事情、および日本の将来に関する意見を述べよという御下問があった。俺と、もうお一人は、ハーバード・ビジネス・スクールの日本リサーチ・センター長の江川雅子さん。最初に彼女が、丁寧かつ見事なプレゼンテーションをし、続いて俺が、前日の深夜につくった二枚のメモで一席うかがう体の小話。江川さんは、ソロモンとUSBウォーバーグで15年のキャリアを有するばりばりの金融リサーチャーから転進された方で、きっと強面のグローバリストで、市場原理主義者で「こりゃ、喧嘩しなけりゃならねぇのかな、難儀だなぁ」と思っていたが、冷静に日本のコミュニティを分析されており、温厚で他人の声に耳を傾ける余裕をお持ちの、悠揚せまらぬお人柄。驚いたのは、彼女が、多様性、柔軟性、自律性という三つのキーワードで説明したコミュニティ論は、ほとんど俺が言いたかったことだったことであった。勿論、細かく詰めていけば、議論が角逐することもあるだろうが、これまでお会いしたどんな金融セクターの論客よりも人の話に耳を傾ける準備が出来ておられる方であった。まず、これだよね。国土交通省の人選に感謝。俺の方は、即席で準備したアース・ダイバー@中沢新一と、宇沢弘文&ジェイコブズからいくつかの文章を引用して、開発もいいが、経済合理性だけで押してやっていくと最終的には、規模とスピードだけを追求するかたちにならざるを得ず、地域が持つ多様性といったものを根こそぎにしてしまうとの自説を展開した。大切なのは鳥瞰図的なゾーニングプランではなくて、土地の古層にまで届くフィールドワークです。開発者は、誰もそれをやろうとしていない。そして、さらに重要なのは、右肩上がりの経済成長路線には限界があるということ、グローバリズムはその限界を隠蔽するシステムとならざるを得ないことなどを、ご説明申し上げた。翌日は、神戸から馥郁たるおんな編集人青山ゆみこ女史と、世界一の朝飯の北野ホテルの支配人、永末春美女史(上品!)が上京された。「そんじゃ、築地の場内で寿司でも食いましょう」ということになった。目指していた寿司屋は二軒だったが、どちらも長蛇の列。仕方なくもうひとつの「磯野屋」でサービスランチをほおばる。うまい。その後、月島へ移動して、もんじゃとビール。うまい。仕上げは、東京駅近くのブリジストン美術館でジャコメッティの彫塑を見てカフェで煙草なしのコーヒーであった。次回は是非、新宿末広亭にてお会いしましょう。なんだか、女性ばかりが生き生きしている今日この頃である。さて、夜は武蔵小山アゲインにて、待望の上野茂都ライブ。「今日が人生の頂点」と上野さんが言うほどの入りでじっくりと、10曲ほどの上野節を聞かせてくれた。俺は全身煮込み状態で、この超絶技巧自己相対化(わかるよね)の世界に浸っていた。いいねぇ。幸せだねぇ。この日のために、アレンジしてくれた「煮込みワルツ」は圧巻。〆は、「京葉水滸伝」。途中には、講談調の露伴朗読。うーん。「名人小さんと同じ時代に生きている我々は幸せ」といったのは漱石であるが、上野茂都と同じ空気を共有できた参加者は同じような気持ちになったのではないだろうか。希望を語らない。夢を語らない。自分を主張しない。欲しがらない。勝ちよりは負け。富よりは貧。満開の桜よりは、散りかけの一枝。上野茂都の世界には、確かな肌触りがある。皆が帰った後、麒麟山の吟醸を傾け、佃で買ってきた佃煮をつつきながら、少し言葉を交わす。これ以上ない、贅沢でせつない夜であった。
2007.04.01
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