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10月12日。ヒラカワが今最もはまっている、三遊亭遊雀をたっぷり。ラジオデイズ落語会。上のバナーで予約できます。(右上、『店長からのお知らせ』コーナーにて。札止めにならない前に予約すべし。国立演芸場2007年度花形演芸大賞で金賞のパワーと実力を堪能してください。これは、すげえよ。
2007.09.30
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雨の日曜日。まるの野郎に朝五時に起こされる。明るくなりかけた町を、眠い目をこすりながら歩く。なるべく、はっきりと目を覚まさないように歩くのである。帰って、まるに飯をつくって、そのまま、夢の続きを見るためである。日曜日は二度寝と決まっている。三四が無くて、いきなり晩秋の気配。寝るにはもってこいの日じゃないか。十時過ぎに起きて飯を食うが、また眠くなってしまった。よし、今日は大盤振る舞いの三度寝といくか。語呂だけは、山頭火の気分である。ということで、せっかくの日曜日が、かような非生産的な一日になってしまったのである。圓歌の『白髭橋』を聞きながら目黒まで出る。圓歌は、歌奴の頃からあまり好きな噺家ではないのだが、こうやってじっくり聴いてみると何年も床下で漬け込んだような声には味があり人間の造形も、街の描写も見事である。『山のあなた』(正式名は忘れた)や『中沢家』より、『西行』や『白髭橋』の方がずっといい。ご存知のように、白髭橋の下には大川が流れている。大川は、下町の人情を映してきた、「人間くさい」川である。その上にかかる橋で繰り広げられる人間模様もまた「くさい」のである。漬け込みすぎたぬかずけみたいなものである。『株式会社という病』から少し間が空いたのでそろそろ何か書こうと思う。昨晩、トップマネジメントカフェでの小笹芳央さんの講演のテープ起こしをNTT出版の牧野くんが送ってくれた。小笹さんとは、あの時、「本にしましょうか」と約束していたのである。このままでは、本にはならないので、巻頭か巻尾にヒラカワの「モチベーション論」を書かなくてはならない。小笹さんは、リンクアンドモチベーションという堂々たる会社の創業社長であり、モチベーションの専門家であるが、俺は、モチベーションというような言葉になじみが無い。何となく、六本木ヒルズ的な匂いがして、遠ざけたい舶来語である。この言葉を頻繁に聞くようになったのはサッカーの選手たちがさかんに、モチベーションと言い出したからである。青い嘴で何をうたっていやがると、思う。プロ野球の選手も、相撲取りも、プロレスラーもモチベーションなんていう、格好のいい言葉は使っていなかった。「土俵には銭が埋まっている」とか、「野郎、許しちゃおかねぇ」なんていう啖呵のほうが、体を顕している。モチベーションには、うまい日本語が当てられないがあえて言うなら、「衝き動かすもの」のことだろう。人間は誰でも、何かに衝き動かされて、動き回る。この衝動は、モチベーションというような洗濯して、漂白されたような言葉では言い表すことができないように思う。ラジオデイズのコラムにも書いたのだが、モチベーションと聞いて、俺は、映画『張込み』で、犯人を追うふたりの刑事が乗り込んだ夜行急行列車西鹿児島行きのうだるような真夏車内のシーンを思い出すのである。「犯人はかならず、昔の女を追って佐賀に姿を現す」これが、ベテラン刑事、宮口精二の直感である。この直感に衝き動かされて、もう独りの若い刑事大木実と宮口は、夜行急行列車に乗り込んできたのである。口をへの字に結んで、寡黙一徹の宮口精二という役者が俺は大好きである。このとき、二人の刑事を衝き動かしていたものとは何だろう。それは、モチベーションというようなものではないように思う。もっと、絶対的な何かである。あえて言うなら、それは使命感であり、職業に対する倫理である。そして、それがあれば、人はよく働くことができるのである。職業から、使命感と倫理というものが、報酬と地位に場を譲ってから、モチベーションという言葉が生まれてきたのかもしれない。
2007.09.30
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ラジオデイズの、『今月の顔』三名が替わった。関川夏央、柳家喜多八、高橋源一郎。俺にとっては垂涎の顔ぶれである。高橋さんに関してはサイトのコラム欄に、「そして、言葉が紡がれる」というフェリーニの映画タイトルのような小文を書いたので、お読みください。関川さんには、映画『張込み』に触発されて書いた『夜行急行列車「西鹿児島行」』という名エッセイがある。このエッセイを聞いていると、西鹿児島へ向かうランニングシャツ姿のふたりの刑事の顔が浮かんでくる。大木実と宮口精二。『七人の侍』の無口、一徹、男は黙って口真一文字の久蔵役も良かったが、俺は『張込み』のすこし疲労感の残るベテラン刑事の宮口が、かれの一番の当たり役だろうとおもう。昭和六十年代の日本には、こういう顔をして、黙々と与えられた仕事に打ち込む男がたくさんいた。そう思わせてくれるところが、宮口の存在感の確かさである。いぶし銀とは、この俳優に与えられる敬称である。この映画をじっと見つめていた作家がいた。それが、昭和という時代、近代化してゆく日本の姿に強い関心を寄せる関川夏央という作家である。この作品は、どのような声で読まれるべきか。俺と、同僚のプロデューサー菊地史彦は何十人かの声優の声を聞き比べ、思案し、そして最後に、ひとりを選んだのである。真夏の太陽が照りつける渋谷のスタジオで収録されたこの音が、ラジオデイズの最初の作品となった。そして、「話芸の街」には、待望の現代落語の天才、柳家喬太郎の作品がアップされた。喬太郎は、間違いなく、現代落語会の最高点に到達しており、どんな噺をやらせても、驚くべき水準をキープし続けてきている。俺は、喬太郎のCD音源は全て購入しているし、これからも購入し続けるだろう。今回アップした二作品は、なかでも特筆すべきもので、俺は歴史的な名演であると思っている。二作品は、『いし』と『怪談のりうつり』で、それぞれ別々の作品なのだが、上記の順番でお聞きいただきたいのである。後者のあるところまで来たときに、俺は思わず「すごいな」と呟いてしまった。その詳細を説明することはできないが、大笑いしている俺の背筋に思わず、言霊の芸というものの衝撃が走ったように思う。「喬太郎と同じ時代に生きていることができて幸せである」と漱石のように呟きたい気持ちにさせられる二席である。なんか、宣伝ばかりして、お前はラジオデイズの回し者かと言われそうだが、おっしゃるとおり、「回し者」なのである。どうか、ご容赦願いたい。でも、とにかく騙されたと思って、一度、喬太郎落語をお聞きください。後悔はさせないって。
2007.09.28
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福田新内閣誕生から一日。俺は六本木の国立新美術館へ。朝日新聞社の三ツ木記者同行で、フェルメール展を見る。フェルメールは一点だけ。絵にはガラスがはめられ、三メートルほど離れた手すり越しに見る。俺の場合は、眼鏡越し、プラスガラス越しということになり、よく見えない。よく見えないものを、見ようと眼鏡を拭く。新聞にも書いたのだが、俺は1996年のハーグ、マウリッツハイス王立美術館で行われた『大フェルメール展』を半ば偶然に見ることができた。その展覧会は、ヨーロッパ全体にちょっとした旋風を起こしており、今後100年は同じような展覧会は開けないという空前絶後のフェルメール展であるというふれこみであった。フェルメールの絵は三十数点あり、世界中の美術館、収集家の手の内にある。マウリッツハイスの展覧会では、実に三百年ぶりに二十三点を集めて行われる歴史的なものになった。当然前売りチケットは完売。ちょうどその頃、俺は自分の翻訳会社の支店をオランダのライデン市に作っている最中であった。ライデン(現地ではレイデン)は、日本語を教えるライデン大学があり、幕末長崎の医者であるシーボルトが日本研究をしていた大学である。町はライン川が流れ、風車が回り、チューリップが咲くといった童話のような景観で、俺も駐在の唐見くんもその美しさに嘆息したものである。(しかし、縄のれん、赤提灯のないこの街には三日で飽きてしまった)ビクターオランダのビルの中の一室が、格安で借りられることになった。ロッテルダム港には、ヨーロッパ中の製品が集まり、そこから世界へ運ばれる。その、出口のところで、製品マニュアルや、シッピングリストの翻訳を拾おうと計画したのである。しかし、こちらの目論見は外れた。ここに来るまでにほとんどの作業は終わっており、そのうえ、オランダの人々は日本人のように、がつがつと働かず、夕暮れになるとみんな家路についてしまう。翻訳作業なんてものは、残業につぐ残業といった按配でないと商売にならない。この支店は一年で閉鎖することになった。閑話休題。どうせ、入れないかもしれないが、雰囲気だけでも味わおうということでおれたちは美術館へ向かった。美術館の前は公園になっており、老人たちが犬と朝の散歩をしていた。一様に、毛足の短い茶の物静かな犬で、日本では見たことのない犬種である。いいなぁと、俺ははじめて、この国を羨んだ。記憶が曖昧なのだが、俺たちは少し並んで、難なく当日売りのチケットを手に入れることができた。いくつかの僥倖が重なったのかも知れない。そして、世界で最も美しい美術館といわれる館内に入り、ガラス越しではなく、目の前数センチのところまで、顔を寄せてフェルメールの技法を堪能することができたのである。考えて見れば、あれが理想の美術館であり、美術鑑賞の姿だった。俺は、その時『真珠の首飾りの少女』の絵葉書を購入し、額装して机の前にいまでも架けてある。この青いターバンの少女に、俺は「こひしてしまった」のである。今日は、その少女には出会えなかったが、同じ空気の中にたたずむ『牛乳を注ぐ女』との再会であった。一枚の絵に、群がる観衆。(俺もその一人である)何だか、彼女が気の毒になった。
2007.09.26
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9月28日の朝日新聞夕刊掲載から始まる三回シリーズ連載「風雅月記」を書いて、三ツ木さんに発送。この連載は、一ヶ月の俺の日記から、五日分を抜粋したもので、中年男(初老かな)の目線から見えてくる文化や芸能を語るといった結構の企画である。「日和下駄」である。肩肘を張らずに、自由に書けるのが楽しい。上野茂都、古今亭志ん五、エマニュエル・トッド、ヨハネス・フェルメール、清水哲男という脈絡のない五人の周辺を歩く。さて、本日自民党の総裁が決まる。先日養老孟司さん、内田くんとの鼎談の中で、「政治家はいったい何をやっているのか」(叱責ではなく、純粋な疑問形として)ということが話題になったが、この数週間、瑞穂の国には最高権力者が不在であった。どこかに隠れてしまったわけだが、それでも、ほとんど誰も困らなかった。いや、個人も地方もずっと困っているのだが、その困惑の状況は悪化も、改善もしなかったということだ。現実の政治プロセスがどうなっているのかの委細は判らないが、少なくとも統治権力者の不在ということに対して日本人の間に動揺や不安といった精神的な混乱は起こらなかった。突飛なようだが、絶好の機会にテポドンは発射されなかったし、軍事クーデターも起こらなかった。何も無かったということが、何かが起きたということよりも重要な意味があるということはある。そのことに、誰も言及していない。この空白こそ、日本の歴史上稀有の期間として記憶されてしかるべきかもしれない。今朝のテレビを見ていたら福田総裁候補が、先のアメリカ軍への支援に対する感謝を盛り込んだ国連決議において「日本が困っていることを、世界が支援してくれた。そういうポジションを日本が獲得した」というようなことを語っていた。「いや、それは違うでしょ、福田さん」と、思わずテレビに向かって言ってしまった。困っているのは日本ではなく、アメリカである。給油の継続は、実効的にもシンボリックな意味でもアメリカにとっては死活的に重要な問題である。ここで、日本がアメリカの軍事戦略から距離をとったら、ユーロ圏で起こったような、アメリカの覇権の稀釈化が東アジアにおいても明確になってしまうからである。国連決議は、ある意味で、アメリカの凋落とそれに続く地政学的な混乱といったものを、急激なものにするのではなく、ソフトランディングさせようという世界の配慮が働いたように見える。理論的に言うなら、そりゃ、一国の国内事情を国連の場に持ち込むなと言うロシアの言っていることが正しいんだけどさ。
2007.09.23
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E・トッドの『帝国以後』に続いて『「帝国以後」と日本の選択』を大変興味深く読んだ。これらは、みずほ総研からのご依頼を受けて今度銀行系の雑誌で連載をすることになったので、その資料として送っていただいたものである。さらには、みずほ総研でストックしてある、世界情勢を読み解くための数値などのコピーもいただいた。ちょうど、I・ウォーラーステイン(ご指摘により二字訂正:汗)を続けて読んでいたときであり、すこし、違った角度からの見方というものを参照したかったので、トッドの本は大変に刺激になった。このふたりのエマニュエルの本と、さらに、もう一冊共同通信の書評で頼まれていた『ウォルマートに呑みこまれる世界』を読めば、現在のアメリカのポジションというものに対するパースペクティブというものを手にすることができる。それは、俺が以前から感じていた、「アメリカの終わり」を補強するに十分な論拠を提供してくれている。トッドは、ソ連崩壊、EUでのフランスとドイツの握手以後のヨーロッパからアメリカや日本を見ている。日本から見る世界の風景とは、それは随分異なっていることに驚くのである。彼のような地政学的な視点で、世界を眺める専門家が残念なことに日本にはほとんど見当たらない。寺島実郎、小倉和夫、榊原英資といった名前を挙げることができるのみである。戦後このかたアメリカの風下に位置取りした日本という文脈を日本の学者も論客もなかなか離れることができない。ほとんどの情報はアメリカ発であり、アメリカ情報にどれほどのバイアスがかかっているのかが見えないのである。(イラク以後、それが露呈してきているけれど)アメリカのフィルターから見えるフランスやドイツは、ユーラシアの辺境でしかない。それは、アメリカが日本に見てもらいたくない「不都合な真実」であることを逆説的にあらわしている。とくに、共産党破産以後のロシアに関してはその重要性に関してほとんど関心を示すこともない。対して、北朝鮮や中国に対しては必要以上にリスクが強調されてきた。しかし、ロシアは共産主義の敗北と十年間の混乱から徐々に回復しつつあり、広大な土地と、石油、天然ガスという貴重なエネルギー輸出によって経済の安定化へ向けて動き出しており、そのことはヨーロッパの安定にとっては死活的に重要な問題である。なぜなら、ヨーロッパに配備された軍事施設はほとんどソ連に照準していたのであり、現在は初期の戦略的意味を失ってしまった。反体制ジャーナリズムに対する圧力など、プーチンのロシアは無害化されたユーラシアの空き地ではない。しかし、どう評価するにせよ、人類史上最強の全体主義国家体制を自らの手で打破したロシア人、トルストイやドストエフスキーを生んだロシアという国を甘く見てはいけない。見て見ぬふり、いや理由もなく見ないというのは、もっといけない。アメリカは戦後五十年間は、世界を安定に導く、軍事力と経済力を併せ持ったリーダーであり、同時に民主主義と自由の輝かしい保護者でもあった。しかし、グローバリズムの進展は、金融への過大な依存によってアメリカ自身の経済的な自立性を損ない、社会的にはアメリカ国内に閉じ込めていた同化政策の失敗(人種問題)や経済格差の拡大、貿易赤字のつけといった矛盾を世界中に撒き散らすという皮肉な結果を生むことになった。トッドはいくつかの重要な指標を用いてアメリカの政治的経済的基盤の脆弱性を説明している。ひとつは、アメリカの対外エネルギー依存率である。73年にアメリカは920万バレル/日 生産し、320万バレルを輸入していたが1999年には590万バレル/日 生産し、860万バレルを輸入する国になり、海外依存度は急速に増加している。以下は石油輸入の相手国のリストである。トップはサウジの5.85億バレル。二位はベネズエラ、三位はメキシコ。以下、カナダ、ナイジェリア、イラク、イランと続く。(2001年データ)アメリカが敵国とみなしている国にさえ、大量の石油を頼りにしていることがわかる。しかし、当の輸出国から見れば、アメリカは唯一のお客さんではなく、むしろ、ヨーロッパ、日本という三本柱のひとつでしかないのである。アメリカはまさに自らが考え出した経済グローバリズムによって、中東に対するコントロールを失いつつあったのである。顧客の選択権は、これらの産油国の側にあるからである。ヨーロッパはどうか。アメリカの重要な軍事拠点でもある、トルコ、ポーランド、イギリスの2001年の貿易を見てみると、ポーランドの対ユーロ貿易は、対米貿易額の15倍。トルコは、4.5倍。弟分とみなしていたイギリスでさえ、3.5倍であり、この三国は完全にユーロ経済圏に入ってしまっている。これもまた、グローバリズムが必然化する、近隣国同士の交易の増加ということに関連する。ロジスティックの問題は、無視できない。ヨーロッパは、EUを中心に自律した経済圏を構築しつつあり、アメリカの経済的なパワーを必要としなくなってきているのである。アメリカがグローバルパワーとして、示威できることの選択肢は、極端に少なくなっており、地域的に見れば軍事力以外にはないとさえいっても言い過ぎではなくなってきているということである。テロとの戦争というスローガンこそは、その数少ない選択肢の一つであったということが、こういった事実からも見てとることができる。しかし、テロは軍事的なパワーによって打ち負かすことはできない。なぜなら、アメリカがテロというとき、それは覇権国家に対する反逆というひとつの概念であり、幻影に過ぎないからだ。それをイデオロギーと言ってもよい。今、アメリカは世界でもっとも、非現実的なイデオロギー国家になろうとしている。幽霊を相手に戦争をしかけることほど無謀なことはない。そんなことはない。テロは実体だというのなら、リアリストに戻って対テロ戦争以前と以後の死者の数や、テロリストの数を数え上げたらいい。むしろ、それらが増加していることがはっきりするだろう。テロの効果が稀釈化する戦略的政策の継続によって、政治テロという概念を事実上無化する以外に方法はないのである。もうひとりのエマニュエル、ウォーラーステインは、トッドの極大化した空間から世界を眺めるジェオ・ポリティクスに対して極大化した時間から世界を眺める、世界システムの推移に着眼している。そして、万物の商品化という資本主義プログラムのオルタナティブを提案している。俺には、ウォーラーステインの思考がいまひとつ腑に落ちて来ないのであるが、ウォルマートという一小売業者が世界最大の企業となった(なる他はなかった)アメリカ自身がならず者国家にならないための、ひとつの希望の提示でもあるかもしれない。いづれにせよ、グローバリズムというものの進展の先にある最大のピットフォールは、世界の二極分解であり、オルタナティブの減少であることだけは確かなことのように見える。それは、ダーウィニズムという自然への回帰であるかもしれないが、行き過ぎた弱肉強食を調節するプロセスもまた、自然の中には埋め込まれている。いま、それがまだら模様に、世界のあちこちで始まっている。
2007.09.20
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秋葉原のイベントが終わって速攻で家路につく。けつに火がついているからである。書かなければならない原稿がたくさんありそうだ。ありそうだというのは、ご注文をいただいたときにはいつものように生返事をしてしまうのでじっくりと、メモをめくりなおして見ないと何をしなければならないかが良くわからないからである。そんなことでいいのか。いいのである。三十年間、これでやってきたのであるから、五十七にしてやり方を変えることはできない。爺は融通が利かないというのが相場である。煙草も四十年間、のみ続けてきたので、世間が狭くなったくらいで、やめるわけにはいかない。もともと、さほど世間が広いわけではない。渡れるだけの隙間があればよいのだ。「死ぬぞ」と脅されると、簡単に転向しそうではあるが、その時は、嫌煙家として余生を生きようと思う。べら棒な論理なのは承知の上で言っているのである。(こういったことは、その程度の問題であるということである)さて、今週の金曜日に「ラジオの街で逢いましょう」に、詩人の清水哲男さんがご出演される。二本どりのもう一本は、浄土真宗の僧侶、釈撤宗さん。釈さんは、内田ブログでおなじみの士大夫である。以前一夜語り合ってその人柄に心酔してしまった。お会いできるのが楽しみである。清水さんについてはこのブログで何度か、書いている。俺にとって、戦後詩の最高傑作をひとつということになれば躊躇無く、『短い鉄の橋を渡って』をあげる。その憧れの人とラジオでお話できるとは思ってもみなかった僥倖である。ラジオデイズには、清水さんが構成・解説してくれている『声のエッセイシリーズ』二本が収録されている。 『声のエッセイ5 珈琲 (湯気の向こう側の世界)』と『声のエッセイ6 酒 (神のやさしい液体)』である。それぞれ、練達の書き手の作品朗読と、清水さんの絶妙の解説が収録されている。プロデューサーは、ラジオデイズの菊地史彦さん。手前味噌といわれそうだが、この二編をダウンロードして、昨夜車の中で聴いてみた。俺の背筋に異変が起きた。名編集者、詩人、名作が揃わなければ絶対にできない仕事がここにある。これは、手前味噌ではない。(味噌はつくれない)だから、宣伝をしたいわけでもない。ただ、「ねぇ、とにかく聴いて見てよ」と親しい友にすすめたいだけである。曳野若菜さんは、清水さんを撮影した気鋭の女性カメラマンである。「人の声に心を動かされたのは初めて」と言っていた。俺もそう思う。彼がマイクに向かっていた時に聞こえてきた息遣い、ためらい、小さな破裂音のような笑い、囁き。俺はお聞きしているだけで、人間というものを信じたい気持ちになった。詩人の声は、こうじゃなければいけない。
2007.09.18
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ショートノーティスですが、明日火曜日の午後4時から秋葉原で下記イベントがあります。店主は、第三部のセッションのモデレーターをやります。入場料やや高めですが、お時間と懐に余裕のある方は是非いらしてください。マネジメント層には、必聴のテーマかと思います。まだ空席があり、当日着流しでいらしても、入場できると思います。(はたして、ヒラカワはこのテーマで暴れることができるのか。)秋葉原先端ナレッジフィールド @マークプロジェクトサロン 特別セミナー企画目標完遂のための「ミドルマネージメントの実践」セミナー■今回のテーマ目標完遂のための「ミドルマネージメントの実践」ロングセラー『組織力を高める』の著書、古田興司氏の待望の第2 弾著作『オーバーアチーブ』(共に東洋経済新報社)の出版を記念して特別セミナーを開催致します。人材育成のカリスマが、組織力の要となるハイパフォーマーのなり方、育て方をわかりやすく解説する本セミナーを通じて、完遂する人作りを解き明かして頂きます。また『組織力を高める』を古田氏と共同執筆された平井孝志氏も特別ゲストスピーカーとしてご講演頂きます。セミナー終了後は懇親会をご用意しておりますので、スピーカーの方々と交流して頂けます。開催日時 9 月18 日(火) 午後4~7 時 セミナー/午後7~9 時 懇親会講師 古田 興司氏/平井 孝志氏参加費 一般 :10,000 円会員 : 5,000 円 (領収書は当日お出し致します)人数 120 名(先着順にて定員になり次第締め切り/要事前登録)場所 セミナー :秋葉原UDX ビル4F アキバ3D シアター懇親会 :同フロア アキバフードシアター5+1プログラム午後3:30~4:00 開場&ご入場午後4:00~4:05 開催ご挨拶 (株)新産業文化創出研究所セッション1:「オーバーアチーブ」時間:午後4:05~5:00講師:古田 興司概要:組織力を高める最強の人材を育てる/ハイ・パフォーマー養成の極意セッション2:「顧客力を高める」時間:午後5:00~6:00講師:平井 孝志概要:売れる仕組みをどうつくるか/デル、スターバックス、P&Gに学ぶ休憩セッション3: パネルディスカッション及び質疑応答時間 :午後6:10~7:00【スピーカー】パネラー 古田 興司平井 孝志モデレーター 平川 克美第2 部:@マークプロジェクトサロン午後7:00~9:00 懇親会(UDX4F:レストランシアター)場所:秋葉原UDX4F 東京フードシアター5+1■主催(株)新産業文化創出研究所 @プロジェクト事務局■開催協力トップマネージメントカフェ/株式会社マップス■協賛東洋経済新報社(お問い合わせ先)株式会社新産業文化創出研究所(ICIC) 小池http//www.icic.jpTEL:03-5297-8227, FAX:03-5297-8203
2007.09.17
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実家に行って退院してきた父親のためのベッドを組み立てる。両親ともに、病院から戻ってきたが、これからが大変である。成長しているときは、考えもしなかったことが老いの中には次々に生起する。老いてみなければ生きることの意味は半分しか判りはしないのである。半分の叡智は、どこまでいっても半分でしかない。いかに生きてゆくかというのは確かに大変なテーマだが、テーマが無くても生きてはいける。現に、俺がそうだ。だらだらと日をついでいけば、死ぬまでは生きてはいける。必要なら死んだような生を生きることだって可能である。しかし、いかに死すべきかということを考えずに死ぬわけにはいかない。どのような生であれ、生は、今日も明日も明後日も続く連続性の中にあるが死は、ひとつの断絶であり、その先に存在する自分はもはや自分のものではなく他者の中に残された痕跡であり、他者だけが所有することができる幻影だからだ。自分だけで生きるということは主観的には可能だが、自分の死はもはや自分だけのものではない。それは他者と分かち合うというしかたでしか存在しない。この痕跡や幻想に死者は、もはや何の意味も付け加えることができないがただ、死に方の美学というものだけがかろうじて、生きているものと死んだものをつなぐ回路となる。生きているものは死者の美学を反芻することで己の中に死者を呼び返すからである。「自分ひとりで大人になったような気になりやがって」とは傲慢不遜な青二才が投げかけられる言葉であるが、人間というものは生きているうちは誰だって自分ひとりでやってきたような気持ちになるものである。日本浪漫派の文人は、夕日を眺めて「死ぬときはひとり」といったが、「自分ひとりで死んだような気になりやがって」と思うべきであったのだ。自分ひとりで生きてきたような気持ちになるのも、自分ひとりで死ねるような気になるのも、お蔭様でといった謙虚な気持ちになれるのも生きているからこそである。死はそういった傲慢も、謙虚も随伴できないところで起こる中断であり、その瞬間から、俺の死は、他者との共有物になる他はない。それが、行き倒れであれ、自殺であれ、犬死にであれ始まったものは必ず終わる。終わることは大して重要なことではないだろう。しかし、終わったものは必ず形を変え、位相を変えまた始まるのも世の常である。人の生死もまた、この世の常の外にあるわけではない。年老いた父親のベッドを汗だくになって組み立てながらこんなことを考えて見る。確かに屁理屈であり、下手な考えであるが、老いるとは、死について考える回数が増えるということであり、それは、大変に良いことであるということだけは確かだと、俺は思うのである。
2007.09.16
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ラジオデイズオフィシャルサイトが順調にスタート。いやぁ、俺もカフェヒラカワのマスター以外にもいろいろな仕事をやってはいるが、このラジオデイズのプロジェクトほど面白いものはない。企画して面白く、作業して楽しく、仕上がったものを聞いて雀躍する。一粒三度プロジェクトである。結局、生身の人間が一番面白い。(あたりまえだけど)魚はやっぱし、河岸直送の刺身である。早速、お買い上げいただいた皆様には、ラジオデイズ社長に成り代わりましてお礼申し上げます。近々に養老孟司+東京ファイティングキッズや、仰天の柳家喬太郎の新作もアップしますので、お楽しみに。さて、俺も、俺の周辺も面白がっているけれども、日本の政治の中枢は、ぽっかりと空洞ができている。「皇帝のいない九月」である。それでも、太陽は東から昇り、誰も政治の空白に困らず、夕方の商店街はいつものように呼び込みの声が聞こえている。国民は本当に、もはや政治に頼ってはいないということか。まあ、頼りたくても頼れないよね。いま、政局をもっとも楽しんでいるのは小泉純一郎だろう。俺は政局にはほとんど興味がない。誰が総理になってもいいと思っているからではない。政治家のほとんどが、大衆やマスコミ迎合になって以来現行の政治システムそのものが、世界の変化に対するファクターとしては確実に衰退しているからである。驚くべきは、むしろ「民意」というものがかくも簡単に左右前後に揺れ動いてしまう大衆社会というものの底の知れない軽薄さというべきだろう。いや、本当のところは揺れ動いてさえいないのかもしれない。どういうことか。当今の政治状況にはほとんど選択肢というものがなくなっており、民意なるものは微細な差異の間を浮遊するしかなくなっている。おそらく、小泉純一郎の周到なトリックプレイ(かれが狙っているのは自民党の中での政局ではなく、政界の根本的再編だろう)が今すぐになければここは順当に福田康夫ということになる。そうなると、当面は福田康夫と小沢一郎の対決をどのように見たらよいのかということになる。しかし、外交にせよ、内政にせよ、この二人にポリティカルな意味での差異はほとんど無いに等しいと言ってよいだろう。内田くんも書いていたが、改革を止めるなとかなんとか言っていてもこれは旧経世会と旧清和会の綱引きのようなものである。ソ連が崩壊したいま、イデオロギーとしての右翼左翼という対決はすでに溶解している。(安倍ちゃんは、そのことが全く理解できていなかったのである)同時に、政策としてのリベラルか保守かという軸も消失しているのである。だから、福田康夫の方が、小沢一郎よりもリベラルに見えてしまい、政策によっては福田康夫の方が民主党的であるというねじれが生じてくる。政治的なスタンスとしては、小沢も福田も実は反米的(右よりと言う言葉はもはやほとんど意味が無いので)であり、経済政策としても両者とも本音のところではアンチグローバリズム的であるように見える。日本の現在の政治を見ていると、対アメリカ戦略の微細な差異以外に政治的・経済的な指標が見つからないのである。このことが意味しているのは政治的・経済的選択肢がほとんどなくなってしまったということである。福田内閣の解散をめぐって、出てくるのは微細な差異と利権をめぐる政界再編の動きだろうとおもう。床屋政談的に言うならば、小泉純一郎は、チルドレンや民主党の前原誠司などの松下政経塾人脈を包含する親米、新自由主義的な新党結成へと動く。同じように、小沢一郎も反米、国民国家という路線で再編を狙う・・・なんてことも言われている。なさそうで、ありそうな話である。イラク侵攻のコアリションから降りたドイツが、戦後はじめてアメリカから距離をとり、それゆえにフランスと接近するという政治的なフリーハンドを得たように、今回のインド洋給油停止が実現すれば、日本は政治的にも経済的にもフリーハンドでジオ・ポリティクスを描かなければならなくなる。その時、その任に耐え得る政治家が見当たらない、というのがこの政局から見えてきた悲しい現実である。
2007.09.14
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仰天の安倍晋三ギブアップのニュース。これで、かき消されてしまったのが、「ラジオデイズサイトオープン」のプレスリリースであった。とんだ、とばっちりを受けたものである。で、ここであらためて宣伝させていただきます。明日9月14日午前10時より、www.radiodays.jpが正式オープンいたします。話芸・文芸・対話の三つの「街」(カテゴリー)でオリジナルに収録した音源の販売が開始されます。ヒラカワとしては、ウチダくん、高橋源一郎さんとの対話は、勿論だが、皆様に驚愕の「現代落語」を是非、味わっていただきたいと思っているのである。そもそも、この企画自体、俺(たち)が「ねぇねぇ、これすげーよ。」という落語をひろくあまねく天下に知らしめたいということで誕生したものであった。美味いものは、隣人と分かち合えばもっと美味いのである。そこで、誰がいいのかということだがこれ一本ということになれば柳家小ゑんの『フイッ』。いったい、この話はなんだ。展開の読めない、べらぼうな不条理世界。原作は三遊亭円丈師匠である。これが、聴けるのはこのサイトだけではないかと思う。しかも、オープニング記念で、無料でダウンロードできる。有料コンテンツで、ヒラカワの一押しは三遊亭遊雀。何でもいいから一度遊雀をお聞き下さい。この噺家の熱に触れられたことを、俺は幸せに思っている。日本の政治のトップがいきなり不在となってしまった一大事に、悠長に落語番組宣伝なんかやってていいのかとお怒りかもしれないが、いいのである。ウチダくんも書いていたが、「政治家が無能で、官僚が腐敗して、メディアが痴呆化して」いても、株価は上がり、晋ちゃん饅頭は売れ行き倍増。ほとんど、なにもパニックが起きないこの国の成熟をこそ寿ぎたいものである。養老先生も「いったい、政治家って何をやっているんでしょうかね」と言っていたが、俺もそう思う。前エントリで引用したトッドの口吻を真似るなら「国民が政治家なしでもやっていけるように生活を組み立て始めたときに、政治家のほうが、国民を必要としている」とでも言ったほうがいいような体たらくになっている。騒いでいるのは与太郎政治家だけである。まあ、「てえへんだ、てえへんだ」って、与太郎、八つぁんが叫んでいるときこそ、遠い目をして一服。「なんだい、騒々しいね。まあ、お上がりよ。」と長屋に導きいれて落ち着かせてくれるのがご隠居である。これが、落語の相場てえものである。アニメ会社の株が上がったり、腰をぬかした婆あもいたが、落語の相場は、総理大臣が辞めたくらいでは上がりもしないし、下がりもしない。大事なことは寝転んで考える。これが、基本であると俺は思っている。何ならそのまま寝ちゃってもいい。
2007.09.13
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「世界が民主主義を発見し、政治的にはアメリカなしでやって行くすべを学びつつあるまさにその時、アメリカの方は、その民主主義的性格を失おうとしており、己が経済的に世界なしではやって行けないことを発見しつつある」エマニュエル・トッドのこの認識はまったく見事という他はない。ジオ・ポリティクスを五十年、百年というスパンで見ることのできる目にはそれは、当たり前の事実であり、瑕疵は見当たらない。確かに言われてみれば当たり前だがこの当たり前すぎる事実を誰もトッド以上にうまくそしてエレガントに言い表すことができなかった。始末の悪いのはこういった透徹した歴史観が全く呑み込めない人々がいて、それが為政者だった場合である。「テロとの戦い」というスローガンもまた、トッドの描いた文脈を逃れたいアメリカが強引に創作した物語であり、セプテンバー・イレブンはたまたまこのスローガンを実行するトリガーになったに過ぎない。セプテンバー・イレブンが無かったとしてもアメリカは自国のプレゼンスを維持するためには、常に「外敵の脅威」が必要であったのである。無ければそれを作り出すことが、アメリカの軍事的プレゼンスには必須の条件なのである。アメリカが民主主義と自由主義の守護者であったのは、ソ連(あるいは共産主義イデオロギー)という強大な脅威が存在していたからである。ソ連が退場することは、同時にアメリカの政治的・軍事的プレゼンスが消失することを意味していた。そして、世界はまさにそのように動いていった。テロは、こういった歴史的な文脈とは無関係に、圧倒的な軍事非対称が存在している限りは存在し続ける。それは帝政ロシアの時代にもあったし、アイルランドにも、カナダにも、南米にも世界中のいたるところにあったわけである。長期的な視野に立つならば、アメリカの政治的・軍事的プレゼンスが低下すれば、テロは、必然的に減少傾向を示すことになる。勿論、職業的なテロリストは、どんな時代においても、一定の活動を続けるだろう。しかし、一般的な市民や、政治的党派が、テロリストの戦列に加わる根拠は確実に減少するからである。自分たちの主張を通す選択肢というものが増えれば、テロという絶望的な手段をあえてとる必然はなくなる。テロが生き続けるのは、それ以外に選択肢がなく、それが考えうる最も効率的な手段であると信じられる限りにおいてである。その意味では、アメリカのような軍事的なスーパー・パワーが存在することがテロという対抗手段をつくりだしているともいえるのである。だとするならば、そのスーパー・パワーがテロとの戦いを宣言すること自体が自家撞着ということになる。それは、貧困との戦いといっても、環境破壊との戦いといっても、差別のと戦いといっても同じである。アメリカという国がまさに、アメリカ的なものが作り出した負の遺産の処理に関してこういった自家撞着した対処法しか思い浮かばなくなっていることが問題なのである。テロ特措法の延長を巡って、安倍総理大臣は、これはアメリカとの約束ではなく、「国際社会との約束」なのだから、何としても実行しなければならないと言うようなことを語っている。こういうときに、これまでも何度か「国際社会」という言葉が出てきた。「非武装中立なんていう非現実的なことを言っていては、国際社会の笑いものになるだけである」なんていうように。― みーんな、そう言っているんだぜ。自説に明確な根拠が無いときの常套句である。しかし、実体的にも観念的にも、日本が国際社会とテロ特措法の延長を約束したということはなかったと思う。(約束したのは、テロ特措法には期限があるということの方だ。)勿論、国連との約束はしていない。国連以外の国際社会ということは、旧西側諸国ということになるのだろうが、述べたように、ソ連という脅威が消失したいま、西側という言葉もまた消失している。アメリカが対イラク戦争に単独主義で介入し、その戦いが泥沼化し、事実上のアメリカの敗戦という図柄が明瞭になるにつれて、アメリカの同盟国、追従国の為政者たちは、いづれも苦境に立たされている。イタリアのベルルスコリーニしかり、イギリスのブレアしかり、スペインしかりである。各国の得票傾向には、イラク介入支持への反省が如実に顕れている。アメリカの没落という趨勢は、ほぼ確実になっており、それゆえ世界は大きな過渡期を迎え、歴史の過渡期の不安定と混乱に晒されることになるだろう。おそらくは、文脈的な検討が必要なのだと思う。テロも、貧困も、環境破壊も、差別も、外敵ではない。自分たちの欲望の拡大と自由の享受のためのシステムが生み出した負債というべきものである。「美しい国」をスローガンに登場した安倍晋三というひとには、何の恨みもないけれど、彼の選挙結果に対する見解を聞いていると、自分の政策そのものに対する反省よりは、閣僚の不祥事や、マスコミのミスリードなどに原因を求めたがっているように思える。(だから、続投したのだろう)しかし、選挙での敗戦の原因は、まさに安倍晋三の「美しい国」そのものであるということには、思い浮かばない。こういった思考タイプの政治家は、外的が存在しているときは活躍することができるのだが、「外敵ではなく、自分たちの存在そのものが生み出した害毒」というような二十一世紀的な課題の解決には、もっとも不向きであるというほかはない。問題の在り処そのものが見えていなければ、かような難問に立ち向かえるはずがないのは明らかだからだ。
2007.09.10
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夏が去れば、台風の季節となる。今朝は五時半に起きて、(いや、まるに起こされて)湿度の高い空気の中を、眠さを引きづりながらとぼとぼと歩く。昨晩の、サウナ風呂のような道場での猛稽古が響いて身体のあちこちが軋んでいる。この身体と精神の綱引きは、年々陣地を失うような後退戦になる。こういう後退戦にしないような調和的な身体感覚を獲得してゆくのが稽古なのだがなかなか思うようにいかない。まあ、だから面白いのだけれどね。愚痴りながら手綱を引くのである。空気が淀んで蒸し暑くスーツを着る気にならないのでジーンズにシャツといったリゾートスタイルで新宿の会社へ向かう。ほんとうは、ステテコとランニングの植木等スタイルが理想だが。ラジオデイズの本番稼動が近づいている。最終的なチェックや、スケジュール確認、作業の追い込みと忙しい。月刊ラジオデイズが刷り上っていた。この号には、烏丸せつこさんについてちょとした文章を書いたのだが、これが、うちうちで意外に好評であった。本誌は、ラジオデイズが発行する月刊誌で、編集長は、元早稲田文学の編集を支えていた文鳥舎の大森女史。今のところは落語会にこられない方には、手にする機会がないので、ここに再録しておきたい。(ラジオデイズのサイトには、PDFファイルで読めるようになっている。)烏丸せつこ―批評家を内に持つ巫女(月刊ラジオデイズ 9月号ーこの人の声が聴きたい)女優というのは職業なのだろうか、それとも余人をもって代えがたい天賦の才能の異名というべきか。私には、女優とはスクリーンの中を棲家とする、何にでも変身可能であり、どんな時代にも移動することができ、死者までも口寄せすることのできる巫女のようなものだという法外な「偏見」がある。だから彼女は、電車には乗らない。大根も刻まない。洟もかまない。うんこもしない。いやぁ、何という素っ頓狂な「偏見」だろう。でもさ、この「偏見」なしに、女優が女優であることもまたありえないというのも真理である。巫女に信者が必要なように、女優には私のような加担者が必要なのである。だからこそ、「女優」とは他者の意見に左右されることのない、唯我独尊の存在であることが許されている。別の言い方をするなら「わがまま」であることが許されている。 烏丸せつこという女優もまた、私のそのような「偏見」の中に生きている女優の一人であった。彼女は「わがまま」だという風評もまた、「偏見」を裏書きしてくれていた。しかし、ラジオの収録の現場で、実際にお会いした烏丸せつこさんは、私の「偏見」をやすやすと裏切って、気の置けない、頭の良い、素敵な女性であった。人の意見をよく聴き、考え、吟味して応答してくれ、大声で笑い、ときに顔をしかめる。なんだ、普通の美しき女性じゃないか。しかし、それでもなお、彼女は「女優」であって、他のどんな職業も似つかわしくないように思えたのである。この矛盾した印象を説明するのは、なかなか難しい。人はどのようにふるまえば、普通であって特別な存在になれるのか。 この度、ラジオデイズに収録されることになった彼女の朗読の中にその答えがあるのかもしれない。一体、「女優」烏丸せつこは、どのように詩を読むのだろうか。「噺家は高座から消えなければならない」とは、柳家小ゑん師匠から教えてもらった、五代目柳家小さんの名言であるが、詩の朗読者というものもまた、自分を消さなければ詩を消してしまうというアポリアに直面している。かつて吉永小百合が立原道造の詩を朗読しているのをテレビで見たことがあったが、そこにあるのはまぎれもない吉永小百合であって、立原はそこにはいなかった。そこで、烏丸せつこの朗読を聴いてみた。宮沢賢治、林芙美子、金子みすず、大手拓次、そして立原道造。その他にも次々に高名な詩人の作品が彼女の身体を通過して「作品」となる。なるほど、こういうことなのか。そこにあるのは「女優烏丸せつこ」ではなく、「朗読者烏丸せつこ」であった。彼女に憑依したのは、それぞれの詩人であるというよりは、陋巷に詠うひとりの「朗読者」である、というように私には思えたのである。それは、同時に女優であり批評家でもあるという稀有の才能の上にしか、実現し得ない独特の憑依の仕方であるといえるだろう。さて、会社がひけてから白髭橋の会社の若いもんらと待ち合わせて、絶妙の銀シャリ屋である、「こころむすび」へ繰り出す。奴らに銀シャリの真実を教えておこうと思ったのである。脂ののりきった関アジの一夜干し、山陰浜田漁港直送の、鮮魚を凌駕する干物のうたい文句の秋刀魚、ほっけ、アジの炭火焼。特筆すべき福島産こしひかりのかまど炊き。酒は、本日のおすすめリストを上から順番に、一列全部注文。このすべてが、最高の水準を保っている。いや、うめえのなんの。店の外は台風が吹き荒れているらしいが、店の中は、酔っ払い約五名が馬鹿話で盛り上がっている。途中から、プロレス話になって、俺も何がなんだかわからなくなる。なるほど、俺はプロレスフリークだったわけである。他のことはほとんど忘れているのに、プロレスのことは、ほとんど覚えている自分にあきれる。
2007.09.06
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内田くんへの祝辞で、「無冠」という言葉を使ったのだが、それ以来「無冠」と言う言葉が、頭の中で居座っている。俺は、「無冠の帝王」という言葉にある種の憧憬を感じている。畏敬の念といってもいい。それは、カストリ雑誌のザラ紙の中にしか存在しないヒーローに与えられた称号であった。おそらくは、昔の少年雑誌で読んでいたプロレス列伝みたいな記事が記憶の底に染み込んでいるのだと思う。マット上にいる時間よりはロープ上や、空中に浮かんでいる方が長いといわれたアントニオ・ロッカ。古いモノクロフィルムで実際にリング上で動いているロッカの動く姿を見たときは、秘蹟に出会ったボーイスカウトの少年のように興奮したものである。力道山と二日間にわたる死闘を演じたという毒サソリ=タム・ライス。このひとの実写は見ていない。パット・オコーナーのコブラツイストを見たときの驚愕。アルゼンチン・バックブリーカーは、カウボーイ・ボブ・エリス。(全て記憶で書いているので、間違いがあるかもしれない。)少年誌には、異国のリングで活躍する無冠の帝王たちがリアルな絵とともに掲載されていた。挿絵はいつも、石原豪人という人のもので、テレビがまだ、珍しかったころ彼の描くヒーローに俺の憧憬はいやでも集中せざるを得なかったのである。ネットで、この石原豪人を引いてみるとポプラ社の江戸川乱歩シリーズの挿絵を描いていたとあった。そういえば、記憶の中に、石原の描く、怪人二十面相が浮かんでくる。さらに、石原は林月光という名前で、ゲイ雑誌に濃厚かつ倒錯的なエロスの世界を描いていたのである。なるほど、そういうことだったのか。少年であった俺にはまだ彼の描く絵の本当の正体がつかめてはいなかった。それでも、その絵が発散する世界には、反撥と誘惑がつくる緊張が張りつめたが思議な空気が横溢していた。その空気は蠱惑的であった。仔細に描かれた筋肉や、苦痛にゆがむ表情は官能的なエロスそのものの在り処を確かに示していたのである。美は乱調にあり。異形・無縁の世界では、どんな英雄も無冠であった。権力から遠く離れた世界の住人たちだったからである。プロレスの世界は、そのような異形・無縁の世界として俺の前に現われた。そして、最後の無冠の帝王は、アントニオ猪木の師匠筋にあたるカール・ゴッチであった。デストロイヤーのフィギュア・フォー・ロックも、ルーテーズのバック・ドロップもビル・ロビンソンのスープレックスもプロレスというリングの上の商品であったが、ゴッチのサブミッションはどれひとつをとっても商品とは呼び得ないものであった。酷薄であり、美しくもあった。あえて言えば、それは脱商品化された芸術のようなものであった。その妥協のなさゆえに、ゴッチは無冠たらざるを得なかったのかもしれない。
2007.09.04
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