全14件 (14件中 1-14件目)
1
暴風の中、朝から夕刻まで、両国第一ホテルで某社の中期戦略会議。長い会議の途中、二度ほど気を失う。退屈に対するに、気を失う術を覚えたのである。会議が終わってから、両国駅前のちゃんこ屋へ繰り出して、なべ。横殴りの雨に湿った身体を温めるには、最適の食物であった。明けて、快晴の秋日和の日曜日。母親が入院している、池上の病院へ見舞いに行く。病院の前には、周囲をコンクリートで固められたどぶのような川が流れている。川は第二京浜国道の下を潜り抜けて橋が何本も架かる池上へ出る。呑川である。以前は腐臭を放っていたが、ここのところは上流での浄化設備が整ったとみえて、水がきれいになって、鄙びたせせらぎの風情である。まあ、そう見えなくもないということである。ウィキペディアを引くと「世田谷区桜新町付近(東急田園都市線桜新町駅付近)を水源とし、世田谷区深沢、目黒区八雲、東急東横線都立大学駅付近(目黒区中根付近)、東京工業大学付近、大田区石川町、雪谷、久が原、池上、蒲田(JR蒲田駅付近)を流れ、糀谷を抜けて東京湾に注ぐ」とある。世田谷区、大田区の住宅外と、工業地帯を抜けて流れる二級河川である。川も酒も、二級の方が味わいは深い。橋の上からしばらく開渠を眺めていると、流れの中腹あたりに、形のよい水鳥が、デコイのようにじっとしているのが目に入ってきた。鷺か。水鳥といえば、鷺しか思い浮かばないのだ。秋の朝日を浴びて、じっと佇んでいる白い鳥を見ていると不思議と気持ちが落ち着いてくる。どこから、飛来して来たのだろうか。「いつまで、かかるのだろうか」再入院した母親は、これから一生を終えるまで幾度かはこの二級の川沿いの病院の世話になるのだろう。たぶん、父親も。俺も。俺はやはり、年老いた父親と二人で、俺が生まれた二級の町はづれにある、この橋を何回、渡るのだろうかと思う。見舞いを終えて、橋でまた止まる。鷺はまだ、そのままの姿勢で立っている。
2007.10.28
コメント(4)
亀田長男の会見を見ていたら、会社に遅刻。亀田くんは、まあ、覆面を剥がされたミスター・アトミックのようであった。知らないよね。アトミック。日本マットに登場した最初の、覆面レスラーである。鬼のように強いレスラーで、力道山の弟子たちがまとめて襲い掛かっても片っ端からマットに這わされていた。得意技?勿論覆面に仕込んだ凶器である。その、アトミックを暴れさせるだけ暴れさせて力道山が額の鮮血をほとばしらせながらも、アトミックの覆面を剥いだのである。俺は興奮しちゃったね。そうしたら、アトミックのレスラーとしては盛りの過ぎた、剥げ頭の顔が画面いっぱいに露出され、以来アトミックの神通力は、一瞬にして霧散してしまったのである。思えばあれが、日本に最初に現われたヒールつまり悪役であった。力道山はベビーフェイス。善玉である。でも、覆面をはがれた弱々しいアトミックを見ているうちに俺は少しだけ疑問を持ったのである。案外、このおっさんは「いいひと」であり、力道山という男は何か底意のある勧善懲悪を演出したんじゃないか。いや、当時はそんな風には思わなかっただろう。俺も長じて世間には表皮の下にもうひとつ別の世界があるのだということが判り始めた頃の偽造記憶である。亀田長男は、この日やけに弱々しい青少年に見えた。(本当は反省していないかもしれない。でもさ、聡明な人間においてさえ、人間はなかなか反省なんぞできないものである。ましてや、反省とは強要するべきことではないだろう)少年は、ヒールを演じきるには、必要な年季奉公が足りない。俺にはむしろ、この未熟な少年(とはいっても成人だけど)は踊らせられたのであり、踊らせた者たちに対する意図せざるサービス精神があのような稚拙なヒールぶりになったのだと思えた。それにしても、踊らせた者が、ここぞとばかりこの、覆面を剥がされたボクサーを打擲し、道徳を説くのを見ていて気分が滅入ってきたのである。しかも、少年は多勢に無勢。踊らせた者たちは、形勢が見えた後の、後だし説教。亀田長男はただの、お調子者だが、踊らせた者たちは、卑怯者に見えてしまったのである。お調子者は、反省などはしていないだろうが、自分が調子に乗ってしまったことだけは、気づくものだ。しかし、卑怯者はただ卑怯なだけなのに(誰だって幾分かは卑怯者である)、ときたま自分が良きことをなしているなどと思ってしまうのが始末が悪いのである。
2007.10.27
コメント(0)
i-POD で、「ラジオの街で逢いましょう」が赤丸急上昇である。すごいな。アート部門で14位。パフォーミングアート部門で一位。俺も、ポッドキャストしているのだが、いや、面白いの面白くないのって。この手前味噌、味は薄味だが、何度聞いても飽きが来ない大人の味である。パーソナリティーは、ラジオデイズプロデューサーで、元編集工学研究所専務、辣腕編集者の菊地史彦。三鷹で文鳥舎なる落語的秘密結社を経営する、元早稲田文学編集者の女帝、大森美知子。岸和田だんじりの筆頭若頭にして、伝説の元ミーツ編集者、今や話題のライターでもある江弘毅。そして、不肖、カフェ・ヒラカワ店長の俺。この、おっさん、おばはん連合の煮染めたような体臭にきみは耐えられるか。俺は耐えられない。でも、一度聞いたら癖になってしまうのである。ポッド・キャスティングって、何だかよくわからないって。いや、俺もよくわからないのである。iTunes Store で「ラジオの街で逢いましょう」で検索して、手続きするとI-POD でラジオ番組を持ち運べるようになる。それでも、判らないというのであれば、近くにいる若造を捕まえて、設定していただくのがよいだろう。老いては子に従うものである。面倒だね。でも、こんな連中の声に包まれて、眠るのは悪くはないはずである。第001回「落語はストーリーテリングである」 by 柳家小ゑん 第002回「噺家に話を聞こう!」 by 大友浩 第003回「話下手の私が講釈師になった理由」 by 神田茜 第004回「日活映画、あるいは明るかった昭和」 by 関川夏央 第008回「コトバを考える文化人類学者、地球を駆ける」 by 西江雅之 第009回「みんな、言葉の力で生きている」 by 小池昌代 第013回「江戸の落語と恋に学ぶ『粋』」 by 田中優子 第018回「思想界の人気者、縦横無尽のトーク」 by 内田樹 第020回「釣りと文学の深い関係」 by 大岡玲 第022回「女優が朗読する詩の迫力」 by 烏丸せつこ 第026回「脱力系の噺家、その魅力の秘密」 by 柳家喜多八以後、続々と登場するゲストにご期待。
2007.10.25
コメント(1)
会社不祥事は、起きるべくして起こっている。これが、前作『株式会社という病』のテーマであった。出版以後も、次々に不祥事が起こっており、なんだか、俺の本の宣伝をしてくれている。しかしねぇ、これほど連続的に起こるってのは、病も膏肓に入るといったところか。いや、これは病というよりは、当今では当たり前のこと、むしろ、それらを不祥事と呼んで、断罪する正義の方にこそ、何か見落としがあるんじゃないかとさえ思えてくる。テレビで古舘伊知郎が深刻な顔で、正義を伝える姿を見るたびに(俺はこの男が嫌いではない。すくなくとも前の司会者よりは好ましい)正義の看板は、色あせていくように思えてしまうのである。困ったことである。食品の原材料を他の安物で代替すること。賞味期限の切れたものを再利用すること。テレビで月尾教授が言っていたが、もったいないから捨てない。リサイクルできるものは再利用する。つまりは、廃棄しない。モノを大切にする。リサイクルする。これは、究極のエコロジーである。なるほど。この間頻出している、食品不祥事には、無意識のところで、このエコロジカルな精神が働いている。エコロジーは、ここのところ無双無敵の正義であるが、同時に消費者を騙すことは、最も忌み嫌われる最悪の所業である。冗談のような話だが、これは案外本質的な盾と矛の関係を示している。いや、勿論、利益を確保するために、原料をちょろまかすというのは、さもしい了見である。でもさ、このさもしい了見を誰が断罪できるのか。俺もお前も相当にさもしいというのが、人間の相場というものである。ビジネスにおいては、大盤振る舞いは罪になるが、さもしさは美徳なのである。問題は、だからさもしい了見そのものにあるのではないだろう。同時に、さもしい根性から派生したルール違反を正義が断罪するという構図にも、どこか無理があるように思える。競争原理の行き着くところは、勝ったもん勝ちであり(当たり前か)、ルールを支配するものが必勝法を手中にしたゲームだからである。どうも、このゲームのルールそのものが、さもしい了見でつくられているような気がしないではない。本当は世界は公正さや、フェアネスといったもので組み立てられている訳ではない。土台の方は、ホッブス的な弱肉強食を肯定しておいて、上モノだけは、カント的な倫理観でその行動を断罪しようとすること自体にそもそも欺瞞がある。世界が公正でも、フェアでもないと判ったとき、人間はどういう行動をとるのか。自分もまた、応分の不公正とアンフェアの行使を許されるはずだ、と考える。それが、フェアというものである。あるいは、不公正を断罪することをもって、横行する不公正と平仄を合わせる。これが、等価交換的なロジックを貫徹していった結末であり、職業倫理観、あるいは政治的な職責に関する倫理観の総崩れは、世の中の不公正に対して、自らも不公正で平仄を合わせないと損であるというさもしい根性の決算書なのかも知れない。同時に、他者にフェアネスを求める限り、この決算書は書き換えられることがない。自らすすんで、世の中の不公正を引き受けることができるのか。それができなければ、他者のすべてが不公正を行っているときに、公正さを貫くなどというアンフェアネスを引き受けることなどできないだろう。だからこれは、論理的な問題ではなく、すぐれて美学の問題だと、つくづく思うのである。美学は何ものとも交換できないからである。《以下お知らせ》これは面白い。平川も毎日聞いています。ラジオデイズ制作のラジオ番組『ラジオの街で逢いましょう』(ラジオ関西、毎週火曜日24:30~25:00)が、Podcastで聴けるようになりました。iPodやVoiceTrekなど携帯プレイヤー(レコーダー)に入れていつでもどこでも聴くことができます。現在下記の回を配信しております。第001回「落語はストーリーテリングである」 by 柳家小ゑん 第002回「噺家に話を聞こう!」 by 大友浩 第003回「話下手の私が講釈師になった理由」 by 神田茜 第004回「日活映画、あるいは明るかった昭和」 by 関川夏央 第008回「コトバを考える文化人類学者、地球を駆ける」 by 西江雅之 第009回「みんな、言葉の力で生きている」 by 小池昌代 第013回「江戸の落語と恋に学ぶ『粋』」 by 田中優子第018回「思想界の人気者、縦横無尽のトーク」 by 内田樹 第020回「釣りと文学の深い関係」 by 大岡玲 第022回「女優が朗読する詩の迫力」 by 烏丸せつこ番組購読は以下のどちらかで可能です。A)下記URL中の [RSS Podcasting] と言う画像を、iTunes、google等のRSSリーダー(要、Googleアカウント) へドラッグすると始まります。http://www.radio-cafe.co.jp/rss_feed.htmlB)iTunes中で、「ラジオデイズ」と検索すると出てきます。
2007.10.23
コメント(3)
朝日新聞の『風雅月記』、ラジオデイズの『ダイアローグに関する断章3―特別の一冊、偶然のたじろぎ』、そして、みずほ銀行の雑誌Foleの『アメリカ化する世界』の三本の原稿を一気書きして発送する。もうひとつ、月刊ラジオデイズの、『清水哲男』論が残っている。もちろん、本職のカフェの仕事も忙しい。それなのに、またひとつ仕事を抱え込むことになった。その経緯をすこし記しておこうと思う。ビジネスの世界で、「戦略」という言葉が盛んに使われたのは90年代の後半であった。マイケル・ポーターの戦略論が邦訳されて出版されたのは80年代。それから十年して、ベンチャー企業の経営者をはじめとして、誰もが自明のこととして、「戦略」こそがビジネスの枢要なテーマであると考えるようになった。誰もが、この言葉を口にするようになって、(妙な言い方をするなら)「戦略」は、ビジネスの競争的側面における、もっとも重要な「戦術」となったのである。俺は、この「戦略」という言葉をうまく呑み込むことができない、棘のような、引っ掛かりを感じ続けてきた。それが、何であるかを明確にするには、ビジネスというものを、もう一度根本から考え直す必要があると考えて、『反戦略的ビジネスのすすめ』を書いた。新しい世紀に入ってから、企業の不祥事が頻発した。それ以前にも談合や、賄賂、倫理観の薄い経営者による脱法行為といったものは、当然のことながら存在していたけれど、食品会社をはじめとする最近の企業不祥事は、欲望が倫理観を追い越して行くような人間の業のなせるごとき不祥事とは、根本的なところで性格を異にしているように思われた。それが、何であるのかを明確に、シンプルな言葉で言い表すことは困難に思われた。なぜなら、不祥事を引き起こすエネルギーと、会社を発展させてゆくエネルギーは、ほとんど同じものの二つの様態であるように見えるからである。他者を動かすには、他者の慈悲心に訴えるのではなく、他者の利己心に訴える必要があるというアダム・スミスの認識は、それを絶妙な仕方で物語っている。この、欲望と成長の結ぼれをほどいて行くためには、自分もその中に浸っている企業社会の全体を説明する言葉を発見する必要があると考えた。それはあたかも、病原菌と免疫菌の関係をどのように説明したらよいのかという課題であった。それが見えていないということと、それが無いということとは全く違うことである。にもかかわらず、見えていないことを無いと読み替えてしまうような性向を、俺は「病」であると考えた。そして、『株式会社という病』を書いたのである。本日、90年代後半のバブル期に生まれて、上場を果たしたベンチャーが倒産した。その会社の社長も、社業についても、俺はよく知っている。戦略的なビジネスモデルはあったが、そこにあるべき職業的な使命感は、希薄であった。いや、そんなものは最初から無かったように思える。金や名声を得ようとするモチベーションはあったが、職業それ自体に向かう動機は持ち合わせていなかった。そういった会社が、バブル期に数多く生まれ、消えていったのである。モチベーションとかキャリアデザインという言葉が頻繁に使われたのは、90年代後半のバブル期からその崩壊に至るまでの10年間である。それはまた、市場原理主義的な仕事観、強いものが勝つわけではなく、勝ったものが強いのだといった結果重視の価値観、自己責任、自己決定、自己実現といった個人主義的な風潮が蔓延した10年間でもある。これらの言葉に、俺は少しの愛着と、ぬぐいきれない胡散臭さを感じてきた。同時に、この言葉が、人が働いて生きていくことについて、隠蔽してきた「意味」が潜んでいるはずであると感じていたのである。今度書く本は、リンクアンドモチベーションという会社の創業社長である、小笹芳央さんとの共著である。かれは、モチベーションというものが、人間を仕事に駆り立ててゆく鍵であることをいち早く発見し、それをひとつの業務上のアプリケーションにまで仕立て上げた有能なコンサルタントであり、自らの会社を日本で有数の(おそらくはもっとも重要な)ポジションにまで押し上げた稀有の経営者でもある。俺は、人が働く理由は、モチベーションによるのではないと思っており、かれはモチベーションこそ自分を動かしてゆく最も重要なエンジンであると考えている。俺は、同じ経営者として、かれの業績の全体に対して常に尊敬の念を抱いてきた。しかし、今度の企画である、ひとが働くことの意味に関する共同作業の根底では、モチベーションという語が指し示すものに関する相容れない「思想」が凌ぎあうことになるだろうと思う。楽しいが、けっこう、きついシノギだ。そういう相手に恵まれたことを多としたいとともに、またもや、面倒な仕事を始めてしまった自分を恨めしくも思うのである。
2007.10.20
コメント(2)
以前、このブログで小説家神田茜をご紹介した。『フェロモン』(ポプラ社)である。久しぶりに、小説的感興を味あわせてくれる、見事な筆致であった。その茜さんの、リサイタルが武蔵小山アゲインにて行われる。リサイタルとは言っても、華々しいものではない。(当然だよね)茜さんの、せつな節が聞ける、講談の会である。なんと、ゲストにあの「煮込みワルツ」の上野茂都が登場するらしい。その日、アゲインはブラックホールになるだろうね。まさに、夢とも希望とも無縁の時間が流れる。いまどき、こんな会があってよいのだろうか。よいのである。まあ、この十年。政治も経済もはしゃいじゃったからね。ご主人の帰宅に喜ぶチワワだったからね。世界がとっちらかっちゃいまして、人間の欲望が人間を追い越して目を回しているといった渡世であった。そこへいくと、この人たちはぶれなかった。いや、ぶれようもないほど姿勢を低くして、雌伏していた。そして、そのまま固まってしまった。「流行らない歌はすたれない」上野茂都の至言である。「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」太宰治が、右大臣実朝に仮託して語った言葉である。滅亡しないために俺も武蔵小山に行くことにする。10月26日金曜日。料金2000円。予約はラジオデイズでも。
2007.10.18
コメント(0)
「店主、何か言ってやってくださいよ。店主が何を言うか、待ってる人もいるみたいですよ。」と、三丁目食堂の木村くんがDVDをくれた。確かに、俺はボクシングについて、これまで熱く語ってきた。それはファイティング原田の飢餓についてであり、ナジーム・ハメドが世界に与えた驚愕であり、長谷川穂積が追い求めている拳闘の理想であり、アリとフォアマンのキンサシャの奇跡の物語であり、カシアス内藤の苦い人生の奇跡についてであった。何故、これほど惹きつけられるのか。そこに、人生というものには本来あってはならないが、すべての動物の本能に隠れているような何か、つまりは後先の無い、一瞬の燃焼、生存を賭けた沸騰と怜悧の交錯そして、世のためにも自分のためにも、何の役にも立たない情熱―完全な「無」意味の跳梁があるからである。この一瞬の蕩尽に比べれば、ボクサーの悲惨な生い立ちの物語も、老トレーナーの見果てぬ夢も色あせた添え物に過ぎない。ボクシングは、もっとも人間くさいスポーツでありながら、人間の世界を超え出る一瞬を垣間見せてくれる。あらゆるスポーツの中で、ボクシングは、もっとも古い起源を持ち、もっともシンプルで、だからそこ、もっとも過酷なものである。戦う相手のこころを折って勝敗を決するどつき合いという形態が過酷なわけではない。激しい減量や、トレーニングが過酷なわけではない。いや、勿論、ボクサーは他のどんなスポーツよりも、肉体的な過酷さを要求されるスポーツであるかもしれない。しかし、世界の頂点で戦うようなアスリートであれば、肉体的な過酷さは、肉体を保持する必要な条件ではあっても、それが中心的な課題ではないことは誰でも知っている。ボクシングが過酷なのは、他のどんなスポーツよりも、勝者と敗者の明暗がくっきりと分かれることだろうと思う。いや、ボクシングにおいては、勝者ですら、祝福されることはなかったことを、フレイジャーが、アリが、大場が教えてくれている。「店長、いつになったら、内藤・亀田戦についてのコメントを聞かせてくれるんだよ」と言われるかもしれない。いや、これが俺のコメントなのである。内藤・亀田戦そのものについてはどうなのかって。いや、いい戦いだったと俺は思う。俺は十分に堪能させてもらった。あれは、いい戦いだった。ただし、内藤にとって、いい戦いであったということである。自分が愛し打ち込んできたボクシングの「理想」にボクシング以外の暴力によって泥を塗られたと思った男がこの危険な戦いを志願し、自分とだけ戦うように12ラウンドを戦い、自分に勝利したのである。もう一度、ビデオでよく見てほしい。いかに、内藤が自分の恐怖や、怒りや、うんざりとした気持ちと戦っていたかが良くわかるはずである。この、ボクサーとしては峠を過ぎた、老練なボクサーは、自らの体力と精神の限界まで歩み出て、ボクシングとは別の、マスコミの人間の権勢欲や、視聴率の魔物や、金銭欲や、ボクシングを知らない連中の無言の恫喝、といった形の無い巨大な圧力と戦っていたのである。TBSの担当以外の関係者も、芸能人も、評論家もこの圧力と単独で戦うという危険を犯さなかった。皆、当事者のいないところで鬱憤を溜めていたのである。内藤大助は、我知らず進み出てしまった正直者のように大きな圧力と単独で戦ったのであり、そのことはとりわけて称えられる価値がある。職場だろうが、世間だろうが同じことだ。誰もが内藤になれたのに、内藤になれなかった人々の溜飲を下げるために、内藤大助は単独でリングに上がったのである。亀田について?いまのところ、話すことは何もない。もし、アドバイスを求めてきたら、「はやく親離れしなさい」と言いたいだけである。あ、それから、「ボクシングでもやったらどうか」とも。
2007.10.13
コメント(4)
店主一押しの、遊雀落語。いよいよ明後日金曜日の夜。ラジオデイズのサイトでまだ申し込める(と思う。)見たことのないような古典。高座で壊れる遊雀を見よ!
2007.10.10
コメント(0)
神田茜をご存知だろうか。「せつないきもち」を語らせたら、この人の右に出る人はいない女講釈師である。左に出る人もいないので、「せつないはなし」は、ほとんど、このひとの独壇場である。その茜さんが、最近小説を書いた。処女作ということである。『フェロモン』(ポプラ社)という、せつない小説集である。新人とは思えない、うまい小説である。真打女講釈師というものの、物語修業の堆積のなせる業というべきか。五つの短編が所収されていて、それぞれ独立した話なのだが最後の「マリオン」というお話まで読みすすめないと、この本の本当の魅力は分からない。(その理由をご説明したいのだが、野暮なネタばれになりそうなので、控えさせていただく)俺は、近頃は、ドキュメンタリーや、批評や、歴史の本ばかり読んでいて、ロマネスクな味を忘れ気味であった。危ないところで、「フェロモン」に救われた。文学は、生活上何の役にもたたないものであるが、役に立つものだけをどれだけ集めても生活というものを肉付けすることができない。そう思わせる何かが、文学には潜んでおり、文学を知らなければ、そう思わせる何かがあることすら思いが及ばない。だから、俺は鞄の中に必ず小説を一冊放り込んでいる。それは、ポール・オースターだったり、小関智弘だったり、車谷長吉だったり、ヴォネガットだったりする。生活の中には必ず、何の役にも立ちたくない無駄な時間が現われ、その空白を埋めるためには、役に立たないものが相応しい。だから、枕頭と、便所には小説を置いておくのである。『フェロモン』は、久々に小説を読む愉悦を与えてくれる本である。枯れかけた鉢植えに水遣りを施したように、俺の精神の乾いた部分に水分が染み入ってくる。主人公はいずれも、ぱっとしない、自信満々とは程遠いが、妄想だけはたくましい、要するに何処にでもいる女性で、彼女たちは、世知辛い渡世を息を潜めるように、目立たぬように、乱さぬように、そっと漂っている。そんな彼女たちの渡る渡世にも、波風は立ち、雨も降り注ぐことがある。『フェロモン』には、彼女たちの微細な心の動き、息遣い、身構えについて、何故これほど正確な描写ができるのだろうかというほどくっきりとした造形がなされており、俺は、読み進めるうちに、我知らず、彼女たちの生きている虚構の世界と俺たちが生きている現実の世界の継ぎ目まで、歩み寄っている自分を発見することになる。神田茜、おそるべし。
2007.10.09
コメント(3)
先日のウチダくんの受賞パーティーで、ある編集者の方から、欝気味だった弟さんが『反戦略的ビジネス』を読んで、精神的な危機から脱出することができたとお礼を言われた。俺は勿論、書き手冥利に尽きると感じ、うれしかったが同時に少し驚いたのである。というのは、同様の言葉を、以前にも数人の方からいただいていたからである。あの本は、それほど売れたわけではなかったが、お読みいただいた方からの評価は概ね好評であった。しかし、先日の『株式会社という病』に比べると新聞や雑誌には、ほとんど無視されたように記憶している。ただ、何人かの信頼のおける読者が、望外の賛辞を届けてくれた。吉本興業を辞めて新しい事務所をかまえられて間もない木村政雄さんは、その年のベストだとおっしゃってくださり、JRの雑誌に大変好意的な評を、見開き全部を使って書いてくださった。当時オムロンの副社長をされていた市原さんからは、長文のお手紙を頂き、胸が熱くなった。そして、数人の見知らぬ方から、「救済」されたと告げられた。俺は、この本は、それだけで十分報われたと思った。あの本を書き上げたとき、俺は書くべきことは書ききったという気持ちであった。しかし、それがどれだけの読者の胸に届くのかという自信はなかった。長いこと文章書きから遠ざかっていた俺の、初めての単著でもあったし、ビジネスの現場では、ほとんど何の役にもたちそうもない思考の深みを綴ったものが、商業ジャーナリズムから好意的に迎えられるとは思えなかったのである。それでも、これまでのビジネス書の中で、あの本が試みたような原理的な問いかけに正面きって答えたものは(俺が知る限り)見当たらなかったし、たとえあったとしても、それは現場で考えたことではなくアカデミックな場所から発せられた研究成果だったり、コンサルタント的な定型の言葉から逸脱することは無かったように思える。俺はあくまでも現場にしがみつきながら、ビジネスの現場で働くことに対する定型的な言葉からどこまで逸脱することができるかと、考えていたと思う。そして、ある程度、(というのは、自分が自分で納得できるところまでは)誰も言わなかったが、言わなければならない現場の常識を拾い上げることができたのではないかと密かに自負していたのである。時間を経て、何人かの方から、精神的な危機からの脱出に役立てたことをお聞きして自分でも意図しなかった「実効」に少し戸惑いを覚えると同時に、自分の中に、言葉にならない余韻のようなものが広がっていくのを感じた。自分の手を離れた書物が、どこかで見えない読者の精神の中でもう一度息を吹き込まれているような不思議な感覚であった。何の役にも立たないと思っていた本が、何かの役にはたっていたのだ。お礼を言いたいのはこちらの方である。あの本は、孤独な作業から生まれた、ぶっきらぼうで、すこし孤独な風貌の本であったが、切実で真摯な加担者に恵まれたのである。先日、写真家の曳野若菜さんとお話をしていて、彼女が、アマゾンで買おうとしたら、品切れになっており、しかも、7500円というプレミアがついていることを知らされた。実際にサイトに行ってみたら、確かに大金を払わないと入手できない。いや、そんな大そうな希少本ではないのだ。数奇な運命を負った本である。俺としてはできるだけ多くの方に、正規の価格で、お読みいただきたい本なのであるが、今のところ、その手立てがない。これから、あの「本」はどうなって行くのだろう。
2007.10.07
コメント(9)
小林秀雄賞の授賞式がホテルオークラで行われた。ウチダくんの晴れ舞台を見に行かないわけにはいかない。江さん、山本画伯と森永一衣ご夫妻、釈老子、平尾くん、歌う牧師川上さんなどの関西連合と会場で合流。毎日新聞の中野さんをはじめ、お世話になっている編集者の方々も一同に会している。まことに晴れやかな授賞式で、ウチダくんのスピーチもほっこりと、肩の力が抜けていて良いセレモニーであった。会場で、久しぶりに小田嶋さんにもお会いできた。「今度ラジオやりましょうよ」「そうですね。テレビはご法度だけどね」このあたりの事情は涙の小田嶋ブログに詳しい。いいな。小田嶋さんの笑顔は。河岸を赤坂に移して二次会。関川夏央さんの「賞を取るのが遅すぎた」の乾杯の音頭ではじまる。関川さん、いい顔をしている。その関川さんと少し雑談。ウチダくんを一番押してくれていたのはこの人である。俺の本も読んでくれていて、好意的なコメントをいただく。なんといっても、この数年、関川夏央と、川本三郎は俺の枕頭の書であり続けたのである。ありがたい事である。加藤典洋さん、鈴木晶さんともご挨拶。「何か、前からお知り合いのような感じで・・」と鈴木さん。加藤さんも『風雅月記』を読んでくれたようである。甲野善紀さん、堀江敏幸さんの顔も。文学雑誌一冊分の顔の前で、お祝いのスピーチをさせていただく。高橋源一郎さんの顔が見えないのが寂しかったが、橋本麻理さんとたっぷりお話ができた。二次会お開きの後、江さん、橋本さん、本願寺の魔性の女フジモトさん、新潮社の足立さん、バジリコの安東さんらを引き連れてリトルマニュエラへ繰り出し、ジャズを聴きながら飲み直す。まことに芳醇な浮世離れした時間を過ごさせていただいた。内田くん、おめでとう。そして、こんな時間をいただいて、ありがとう。お礼は、いづれ立直一発放銃で。でも、追っかけ立直の兄上の方に振り込んじゃいそうである。
2007.10.06
コメント(1)
「汗顔のいたり」のお詫び会見が終わって、道場でたっぷりと汗を流す。風呂に入って心身を清めて本日の出来事を記す。秋葉原のオフィスの俺のデスクの後ろには本箱がある。その本箱がどうも、ゴミの山状態になっており、右ウイング、左ウイングの女史ふたりからは、「もー、いやだ。」「きたなすぎる」「品格にかかわる」というクレームをいただいていたのであるが「いいじゃねぇか」「減るもんじゃねぇし」と流していた。確かに減るもんじゃない。増える一方だ。一雨くれば土砂崩れの状態になっており、もう我慢ならぬとばかりに本日ついに、掃除されてしまったのである。いや、思えば宝の山であった。本。名刺のたば。手帳の類。書類。反故のテープ。携帯用ウォシュレット。(しぶい)阪神タイガースキャラメルの缶。キンカン。日野百草丸。壊れた置時計。阪神タイガースのメガホン。猫の皿。こういったものに囲まれて庵を編んでいたのである。片付いてみると、稼業遂行上、必要なものはほとんど何もなかったことが、白日の下に晒された。でもね、「落ち着くんだよ、ゴミの山の中に暮らしていると」「社長がそういうことを言うから、みんな整理整頓しなくなるんですよ」もっともである。俺は負の率先垂範をしているわけである。「わかった。じゃ、きれいにしよう。その代わり、やってね」とだらしない。お二人は猛然と掃除を開始。きれいになった本棚は、寂寥感が漂っている。背中のあたりに秋風が吹いている。床屋で居眠りをしている間に、後ろの方をバリカンで刈り上げられてしまったような気持ちになる。そのぽっかりと空いた空白を何で埋めようかと思っていたのだが、おあつらえ向きに、俺のデスクの上にもゴミの山がある。そして、本日はそのゴミの山を後ろの本棚に詰め込むことにする。「山が動いた」いや、ゴミが移動しただけである。まあ、そりゃそうだ。たとえ俺の周囲から、ゴミをさらったところで、それが、地球の外へ出てゆくわけではない。熱は熱い方から冷たい方へ流れる。水は高いところから低いところへ向かう。ゴミは、きれいな場所を探して移動してゆくのである。ゴミ五訓。元の、木阿弥ってことである。態度悪くてあいすまない。
2007.10.03
コメント(1)
年はとっても、耄碌はしたくないものである。先日のフェルメール展に関する書き込み。「絵にはガラスがはめられ、三メートルほど離れた手すり越しに見る。俺の場合は、眼鏡越し、プラスガラス越しということになり、よく見えない。よく見えないものを、見ようと眼鏡を拭く。」この部分が不正確であるとのご指摘を受けた。確かに、ご指摘の通りなのだと思う。当日(展覧会初日)の朝一番で入館したのであるが、すでに「絵」には人だかりができており、手すりの直前まで進み出ることができなかったので、三メートルは、推定である。しかも、ガラスは嵌っていないということで、これは俺の見間違いであるということになる。でも、ライトの具合なのか、何か見にくかったのである。だから、ガラスは俺の印象である。とにかく、事実は、ご指摘の通りであるようで、誤った情報を記載した事に関して、お詫び申し上げたい。特に、関係者各位にはご迷惑をおかけしたかもしれない。重ねてお詫び申し上げます。
2007.10.03
コメント(0)
先日の朝日新聞『風雅月記』で、俺の写真のとなりに、話題の沢尻エリカの写真が並び「こりゃ、いいツーショットじゃねぇか」とやに下がっていたのである。生意気でもいいじゃないか・・・いや、そんなことは、どうでもいい。この記事を、思わぬ人が読んでいてくれていた。そして、翌朝彼から電話があった。電話の主は、以前オランダでお世話になったビクターの関連企業の高橋社長である。もう、十年以上前の話である。そして、俺は次回の『風雅月記』で、そのオランダ時代の話を、フェルメールにからめて書いたばかりであった。(掲載はたぶん10月の第四金曜日)シンクロニシティー。こんな、プレゼントが、「時間」の中には埋め込まれている。「見ましたよ、記事」「え、どなたですか。ああ、高橋さん」「久しぶりですね」「ええ、その節は大変お世話になりました」どこにでもある、ありふれた会話ではあるが、当事者にとっては、いくつかの偶然が重ならなければあり得なかった会話でもある。十年前、ライン川が流れる美しい町はずれに、高橋さんが社長を勤めているビクターオランダがあった。どういった経緯か、その一室に俺の会社のオランダ駐在事務所を構えたのである。(その前年に、ヨーロッパ視察をした俺は、ブダペストを経由してオランダに入り、高橋さんを表敬訪問した。)あの時、オランダに立ち寄らなければ、翌年また訪問することにはならなかったはずである。あの時、もし高橋さんが、高橋さんでなかったら、二度と彼の地を踏むことはなかっただろう。オランダは美しいが、美しいだけの町として、俺には記憶されていただろう。高橋さんは、飄々たる風情を漂わせたおっさんで、何処にでもいそうで何処にもいないタイプのビジネスマンである。漂白の詩人ならぬ、漂白のビジネスマン。俺はいっぺんで気持ちが軽くなり、そのまま草鞋を脱いでしまったのである。最初にこの町に入ったとき、いきなり街角の白いビルの壁全体に墨痕鮮やかに「荒海や佐渡によこたふ天の川」と大書してある光景に出くわした。粋な落書きじゃないか。こんなところで、芭蕉に出会うとは、思わなかった。ライデン大学は、ヨーロッパではめずらしい日本学科がある大学として有名であり、シーボルトが日本語を学んだところでもある。俺は、そんなことも、知らずに、この町に就いたのである。当時、隣町のアムステルダムには日本レストランはわずかに、三軒しかなかった。パリの駐在員も、ブリュッセルの銀行員も、現地の飯を食っていたが、アムステルダムの日本人は、毎晩日本食レストランに繰り出していた。その理由は、すぐに了解できた。町に就いて三日間は、現地の食事をうまいうまいと食っていたのであるが、四日目に入るととたんに、食欲が失せてしまった。まったく、食指が動かないのである。あとで、聞くところでは、日本人には、現地の食事を消化する酵素が足りないということであった。三軒しかない日本食レストランのその一軒が、大場ひろしさんという漫画家がオーナーになっている居酒屋で、俺たちは毎晩そこに繰り出して揚げ出し豆腐や、肉じゃがをかっ込んでいたのである。諸々あって、駐在事務所は、一年足らずで閉鎖することになった。それ以来俺は一度も、ライデンを訪ねていない。高橋さんとは、その後日本で何回かお会いしたが、ここ十年は、お名前を思い出すこともなかった。あのとき、ハーグで行われた『大フェルメール展』で見たフェルメールの絵に先週、十数年ぶりで東京で出会った。そして、そのわずか数日後に、今度は生身の恩人に十数年ぶりでお会いする。
2007.10.02
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1

![]()
