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三國 連太郎(90歳)さま・・・驚きの人生とは!?
みくに れんたろう
1923年1月20日~2013年4月14日
日本の俳優。
本名は佐藤 政雄(さとう まさお)
群馬県太田市生まれ。
身長181cm、体重75kg。
日本映画界を代表する演技派俳優であり大名優、
演技上での伝説エピソードは数多く存在し、
25回以上の演技賞獲得の受賞履歴がその事実を物語っている。
母親は16歳で一家が離散し
広島県呉市の海軍軍人の家に女中奉公に出され、
ここで三國を身籠り追い出されて帰郷した。
たまたま静岡県沼津駅で知り合った父親となる人物の
仕事先だった群馬県太田市で結婚し三國が生まれた。
このため三國は私生児となる。
この育ての父親は電気工事の渡り職人で、
三國が生後7か月のとき、
一家で父親の故郷・静岡県西伊豆に戻った。
その後、三國は
旧制豆陽中学を二年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った。
中学時代は水泳部。下田港から密航を企て青島に渡り、その後釜山で弁当売りをし、帰国後は大阪でさまざまな職に就く。
敗戦時、三國は収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。
中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、
同じ佐藤姓の女性と偽装結婚している。
佐世保から広島を経て大阪に戻り、多種多様な職業についた。
なお復員時に鉄道で広島駅へ達した際には、駅から四国が望まれ、原子爆弾の脅威を知る。
1948年、女児を身ごもっていた妻と離婚。
鳥取県倉吉市へ行き、近くの三朝温泉へ行ったとき、
戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、
その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り、
当時の長だった岩本氏の秘書を務めながら農村工業課を新設、
サツマイモの澱粉からグルコースを採取する仕事を指導する。
宮崎交通を経て、1950年に東銀座を歩いていたところ
松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、
松竹大船撮影所に演技研究生として入る。
スカウト時には、
プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、
「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと三國本人が述懐している。
1951年、木下惠介監督『善魔』に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役としてデビュー、役名の「三國連太郎」を芸名にする。
翌年、稲垣浩監督『戦国無頼』への出演を希望し、東宝に移籍。
しかし、1954年、稲垣監督『一乗寺の決闘』撮影開始直前に映画製作を再開した日活に走り、「五社協定違反者第1号」となる。
大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けたれたという。木下惠介の勧めで3か月ほど俳優座に通った。
以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、
『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、
『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演・助演を問わず幅広く出演。
カリスマ的役柄で、圧倒的存在感をスクリーンに残す。1984年には紫綬褒章を受章。1986年には映画『親鸞・白い道』を製作・監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。1993年には、勲四等旭日小綬章を受章した。1968年には自ら映画会社APCを設立。
いわゆる役者バカであり、怪優・奇人とも称される。
家城巳代治監督『異母兄弟』(1957年)において、老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたエピソードはよく知られている。
これについては、「夫婦役の田中絹代とどう見ても夫婦に見えないことに悩んだ末のことだ」と三國本人が述懐している(腫れた三國の顔を見て「おやまぁ」と田中が一言、その日は撮影しなかったという)。
特に、粗暴な人物役を抱えた時期の三國はプライベートでも役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になっていることがたびたびであった。
テレビドラマ『支払い過ぎた縁談』(1965年、関西テレビ)の撮影において、浮浪者の心理を探るため、荒んだ格好でカップルを脅したことがあり、交番に駆け込まれて逮捕されそうになったという。レイプシーンなどでも、リハーサルから本気で暴行することで知られ、親しい女優でさえおびえたという。ただしオフの三國は親しい映画関係者の複数の証言によると「言動もおだやかで、酒も飲まず、まんじゅうなど甘いものが好物の、言動も仏様のようなおとなしい人物」だという。撮影所では役者・スタッフの安全のために釘を拾っていたという逸話もあり、オフの三國の人柄が窺がわれる。
結婚を4度経験。俳優の佐藤浩市は3番目の妻との間にできた息子である。
その他にも太地喜和子、石田えりらとのロマンスが取り沙汰され、奔放な女性関係で知られた。
太地と出会った時は19歳と41歳という22歳の年の差にも関わらず大恋愛に発展。太地の実家に挨拶に行き「10年経ったらせがれが自立できるようになるので、結婚させてほしい」と申し出、そのまま実家で同棲を開始するも3ヶ月目に「疲れた」という置き手紙を残して太地の元を去った。別れの10年後、太地との誌上対談にて、太地の「三國さんはどうしてあのとき、喜和子から逃げ出したんですか。」という問いに対し、「10年目にして率直に言うけど...あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです。」と答えている。また、その後、1981年6月の『週刊読売』のインタビューでは「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけです。ぼくは、男に影響を与える女の人が好きです。」と答えている。
近年では『釣りバカ日誌』シリーズ(1988年 - 2009年)で活躍。スーさんの愛称で親しまれている。だが本人は釣りが嫌いだと言う。子どもの頃は全く魚が釣れず、更に餌のミミズに触るのが嫌だったからであり、劇中でも浜崎伝助(西田敏行)の様には釣れていない。また初期には作品としての『釣りバカ日誌』に対して評価は低く、インタビューなどでしばしば「昔の義理で出演している」と語っていた。最終作となった『釣りバカ日誌20 ファイナル』の会見では「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険のような作品」「スタッフの作品作りに対する情熱は日本映画史に永遠に残る[12]」「僕にとって生涯の仕事だった」と語るなど総じて高評価であり、心情の変化が見うけられる。『釣りバカ日誌』シリーズで第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。
映画『美味しんぼ』では、親子の役で息子・佐藤と共演。その後『笑っていいとも』に出演した際には「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントしている。
2012年9月には、同年春から首都圏近郊の療養型病院に入院していることが報じられた。
一方2012年9月13日号の『週刊文春』では、老人ホームで暮らしていることが報じられた。
2013年4月14日、東京都稲城市の病院で死去。満90歳没(享年91)
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