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今年は、辰年ということで「相撲博物館」での展示は『龍づくし展』です『相撲博物館』Sumo Museum2024年1月14日(日)〜4月18日(木)お相撲さんのしこ名には、『龍』や『竜』の文字が多く使われていますよね〜入り口には「雲龍」「雷電」が昔からなのね現役力士でも、大関「豊昇龍」をはじめ、「竜電」「妙義龍」「水戸龍」「東白龍」「朝紅龍」所属部屋の区別なく「龍&竜」が好まれていますなぜ「龍&竜」が使われるのでしょうか?伝説の生き物である「龍」は、天を駆け、雲を起こして雨を降らし、稲妻を放つと言われ、その力に人々は、畏敬の念を抱きました。力士のたくましい肉体に龍の力が宿ることを願い、龍を描いた化粧まわしや、龍の文字が入ったしこ名も多くあるという事です。なるほど・・・初めて知りました今回は、撮影OKという事で展示物で一番馴染みのある「鶴竜」から第71代横綱『鶴竜』かくりゅうさんのお着物広げてみると・・・なんと素晴らしい構図肩には、空を舞う『鶴』裾模様に球を抱いた『竜』そして着用している横綱:鶴竜関これは、かなり古〜いモノクロ写真ですが第46代横綱『朝潮』あさしおの土俵入り化粧まわし3点セット(在位:昭和34年〜36年)身長が189cm当時としては、高身長の横綱ですね掛け軸から龍が飛び出しそうな構図です。次は、北の湖理事長ですね・・・第55代横綱『北の湖』きたのうみの化粧まわし3点セット中央に『龍』左右に『湖』の波がデザインされています。化粧まわしの右に展示してあるのも『龍』北の湖関のお着物です〜肩に昇り龍が球を握ってて稲光裾模様では、海で龍が暴れていますダイナミックな構図です。みんな一点ものの貴重な展示物ですね。他にも、いろいろ展示してあります。ネットで休館日を調べてからお出かけください。(注意)4月末から、展示物が変わります。『相撲博物館』は・・どこにあるのか?東京都墨田区横綱1-3-28国技館内に入り1階の正面玄関奥の右側国技館への行き方・・・とは?JR総武線『両国駅』西口下車すぐ前地下鉄『両国駅』からアパホテル横を通って5分今回は、博物館内でのお写真OKで記録できて良かったです。世界遺産にぽち
2024.04.03
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今回の展示は、土俵祭りについての興味深い展示がありました(^0^)♪『相撲博物館』Sumo Museum2023年9月10日(日)〜12月14日(木)『土俵祭り』・・・とは?立行事が祭主となり、祝司を奉上し、供物を棒げて、場所中の安全と興行の成功を祈念するもの。2023年9月場所の『土俵祭り』は・・・9月場所の前日に2023年9月9日(土)9:30~9:55両国・国技館・本土俵にて入場無料(先着順)で行われました。2024年初場所には、ぜひ行って見たいです相撲博物館の展示より供物の中身はこれ土俵祭りの供物・・・とは?国家の安寧、五穀豊穣をも祈念するもの。土俵の中央に穴を開け、塩・昆布・スルメ・勝栗・新米・かやの実などの縁起物が沈められます。勝栗は、勝ちに通じ、かやの実は、脂肪分に富み、長寿の滋養食とされる。「鎮め物」は、紅白の水引で結ばれます理事長・審判部の親方衆・全行司・溜会幹部・協会関係者が出席して行われます。令和4年(2022年)1月場所:千秋楽後の様子『神送りの儀式』・・・とは?本場所千秋楽の表彰式終了後、来場所から番付にしこ名が載る力士が御幣を持った十両格行司を胴上げして、土俵に招いた神を天に還す。これは、千秋楽に参加しないと見れない・・・ぜひ、見たいですYouTubeでご覧下さい。(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2023.10.07
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相撲博物館は、両国国技館の中にある小さな博物館です。今回は内部のお写真OKだったのです両国・国技館『相撲博物館』で開催中2023年9月20日訪問。『相撲博物館』Sumo Museum「栃木山・栃錦と春日野部屋」展所在地:東京都墨田区横綱1-3-28『国技館1階』03-3622-0366期間:令和5年(2023年)9月10日〜12月14日 10:30〜16:00HPで必ず確認してください。今回のテーマは・・・「栃木山・栃錦と春日野部屋」展小兵ながら、無類の強さを見せた第27代横綱『栃木山』写真左栃木山・・・とは?とちぎやま もりや栃木山守也1892年2月5日〜1959年10月3日身長:172cm体重:104kg MBI:35.15所属部屋:出羽海部屋栃木県出身引退後:年寄「春日野」として第44代横綱『栃錦』を育てた。『栃錦』は・・・「名人横綱」「近代相撲の祖」と評されました。栃錦も、年寄:春日野として多くの功績を残しました。14年間に渡り、日本相撲協会の理事長を務め、国技館の建設を実現させた。今回の展示は・・・栃木山・栃錦を中心に、名門春日野部屋の力士たちについて、紹介しています。現在の「春日野部屋」 東京都墨田区両国1-7-11主な関取は、碧山 塚原 栃武蔵 栃神山 栃幸大 栃清龍 栃丸 栃登 (写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2023.10.06
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大好きなレンブラント・ファン・レインの事が放送されましたので『夜警』の写真をUPしました。近くで鑑賞してみましょう犬切り取られる前の『夜警』は、こんなイメージ大人気で近寄れませんが・・・レンブラント最晩年のお気に入り『ユダヤの花嫁』レンブラントの家・アトリエレンブラント通称『夜警』の作品をとりあえずやたらとUP(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2023.09.10
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アンリ・マティスのパリ・ポンピドゥーセンター内「国立近代美術館」作品・写真とフランス語の題名Centre national d'art et de culture Georges Pompidou:CNAC-GP「ポンピドゥー・センター」Centre Pompidouパリ「国立近代美術館」Musée national d'Art Moderne:MNAMアンリ・マティスの展示作品Henri Matisse(1869-1954)Tête blanche et rose,(automne1914)Henri Matisse(1869-1954)Luxe,calme et volup tè1904Henri Matisse(1869-1954)Odalisque á la culotte rouge,[autome1921]Henri Matisse(1869-1954)Auguste Pellerin II,1917Henri Matisse(1869-1954)Porete-fwnêtre á Collioure,septembre 1914-octobre1914Henri Matisse(1869-1954)Nature morte Au buffet vent,1928Henri Matisse(1869-1954)La Blouse roumaine,avril 1940Centre national d'art et de culture Georges PompidouHenri Matisse(1869-1954)Figure dècorative sur fond ornemental,1925-1926Henri Matisse(1869-1954)Le violoniste á la Fenêtre,1918Henri Matisse(1869-1954)Fillette au chat noir[Marguerite],1910Henri Matisse(1869-1954)Intéur,bocal de poissons rouges,[pritemps 1914]Henri Matisse(1869-1954)Henri Matisse(1869-1954)Autoportrait,[1900]Henri Matisse(1869-1954)Portrait de Greta Prozor,[fin 1916]Henri Matisse(1869-1954)Le peintre dans son atelir,1916-1917Henri Matisse(1869-1954)(写真撮影:ほしのきらり。)大きな赤い室内世界遺産にポチッ
2023.08.15
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マティスのオダリスクについて思い出してみましょう特に印象的な赤いキュロット。アンリ・マティスの「オダリスク」Henri MatisseOdalisque a la Culotte rouge,[automene 1921]『赤いキュロットのオダリスク 』1921年油彩 カンヴァス 65.0cmx90.0cm【初期ニース時代の作品】です。パリ・ポンピドゥー・センター「国立近代美術館」所蔵。アンリ・マティスHenri Matisse1869年12月31日〜1954年11月3日(84歳没)マティスにとって・・・『赤いキュロットのオダリスク 』ははじめてパリの美術館に公式に購入された作品となった。この時期マティスは、それまでのホテル住まいから、ニースに部屋を借りて本格的に制作を始める。1927年までマティスのお気に入りのモデルとなるアンリット・ダリカレールが、模様のある衝立などで設えられた室内に、オリエントの衣装を着て横たわる。半裸の上半身には、比較的オーソドックスな陰影や肉付けが用いられている「オダリスク 」に代表されるマティスの初期ニース時代の作風は・・・伝統の復権を求めると同時に、高まる植民地主義を背景にエキゾティックな趣味が流行する第一次世界大戦のフランスの公衆に歓迎された。「オダリスク 」の最初の重要な作品である『赤いキュロットのオダリスク 』は、オリエンタリスム絵画を支持し、「国立リュクサンブール美術館」の館長であったレオンス・ベネディットにより美術館に買い上げられる。オリエントのハーレムの女性を描く「オダリスク 」は、西欧の欲望を幻想としてのオリエントに託す、19世紀以来のオリエンタリズム絵画の主要なテーマであった。Henri MatisseOdalisque bleue ou L'Esclave blanche(1921)『青いオダリスク あるいは 白い女奴隷』1921年油彩 カンヴァス 82.0cmx54.0cmパリ「オランジュリー美術館」所蔵。マティスは、オダリスクを何度も描いています(参考資料:BSSギャラリー世界の巨匠MATISSEより)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にポチッと
2023.08.14
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アンリ・マティス初期の作品。パリのポンピドゥーセンターの「国立近代美術館」所蔵の作品です。HENRI MATISELuxe,calme et volupte,1909『豪奢・静寂・悦楽』1904年~1905年油彩・カンヴァス・98.5cmx118.0cmパリ・ポンピドゥー・センター「国立近代美術館』所蔵。マティスの初期の新印象派風な作品です。アンリ・マティスHenri Matisse1869年12月31日〜1954年11月3日(84歳没)ある観点から見れば・・・この計算された作品は“初心者”の労働と考えられるであろう。他の観点から見れば・・・この作品は画家のその後の作品のほとんど最後まで響き渡るテーマの開始を告げている。したがって、この作品は特別に重要な転換点をなす。この作品の新印象主義風のスタイルは・・・不自然で巧んだところがあり、色調(パレット)の特色にフォーヴ時代の作品とのつながりがあるとはいえ、すぐにマティスの気質とは合わなかった。実際、これは画家の初期の実験のひとつと考えられるかもしれないーー《生きる喜び》において重要な新生面を切り開くための準備として。手法に活気がみられないところは官学的であり、それはシニャックとクロスとの影響によるものである。しかしながら、たとえスタイル自体にはいささか挫折したところがあり、事実1900年前後のより自由でより個性的な大胆な労作を裏切っているにしても、主題は、以後50年にわたって追求すべきものを野心的に予示している。かしこには、ただ 秩序と 美と豪奢と 静寂と 快楽。美的内容はすべてボードレールの『旅の誘い』の中で3たび繰り返し句の内に含まれている。マティスは・・・この詩のすべてを包含する視覚的映像を求めなかった。その代わり、文字どおりの意味と、慎重に選ばれたこれらの語句が暗示する声喩方とから、愛の島(シテール)のような世界を創造したのである。前景には・・・左方へ後退してゆく浜辺と右方に開けている湾とがある。絵の右辺は、木の幹によって固められている。この幹は・・・空間的には不明瞭なほとんどセザンヌ的な傾向によって、平面的な意匠として、中景の浜に引き上げられたボートの帆柱と帆げたとに結び付けられている。この砂地の浜には・・・怠惰で弛緩(しかん)したさまざまな姿勢の一群の女性がいる。左下には・・・ピクニックのなごりを留める布が広げられている。この細部は、緊張したエロティックな暗示に富むセザンヌの初期の構図を思わせる。しかし、マティスは・・・厳密に女性だけを集めることによってそういった葛藤を自分の作品から一掃したのだが、この平穏さは次の《生きる喜び》では、右前景で目につく抱擁する2人の人物によってあいまいな形で破られてしまうだろう。もちろん、この大きな構図の中には、技巧の上で賞賛すべきものが多くある。右端の木にもっとも近く立つ人物の背後に暗い陰影と、座っている人物と横たわっている人物の下に投げかけられている緑がかった影とは、後の神話的で田園的な情景で同じ趣向をよりいっそう大胆に使用することを予示している。確かに、苦心の跡のある筆触と、空間幻覚と平面の意匠との間の強められた緊張感とは、《生きる喜び》のより大きな自発性に道を譲ることになるだろう。にもかかわらず・・・あるスタイルを習得するマティスの技術は、厳密に言うと、単なる関心からよりも他の人からの強要によることが多いのである。彼は才能ある折衷主義者に留まっていることもできただろうし、初期の現代絵画の歴史の中に自分の位置を見出すこともできたであろう。しかし、そうではなかったから、彼は別の運命を選んだのである。(参考資料:BSSギャラリー世界の巨匠MATISSEより)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にポチッと
2023.08.13
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東京「両国駅」の前にある国技館にはSumo Museum『相撲博物館』がありますSumo Museum『相撲博物館』今回のテーマは・・・「すみだと大相撲」江戸時代から、すみだの町は、まげに着物姿の力士が闊歩し、櫓太鼓が鳴り響き、大相撲の町として活気に溢れていました。回向院での大相撲、伝統の力士:雷電、相撲の神様を祀る野見宿禰神社など江戸時代から現在までのすみだの町との関わり合いが展示されています。大相撲おみくじあります〜のみのすくねじんじゃ野見宿禰神社のおみくじお相撲さんが可愛い!この土俵は、売っていないそうです。2つと同じ顔の力士がいない・・・選べない!記念スタンプも大人気です。最近は、外国人観光客が多い国技館です。横綱「千代の富士」土俵入りの化粧まわしウルフと言われた千代の富士・・・こんな化粧まわしだったのですね。相撲博物館の中央には、土俵(多分、実物大)がありますが、気がついている人は、ほとんど居ませんね〜大相撲開催中は、12:30~16:00までで・・・12時半頃は大行列ですそれ以外は、10:30〜16:00ですが、引退相撲や、コンサートがあると違うので確認してください。「江戸大相撲写生之図」日本橋・両国橋江戸時代の日本橋と両国橋の賑わいが二枚の屏風に描かれています。大きなお相撲さんが、日本橋と両国橋を渡っています。それを、江戸時代の「すも女」たちが見つめいています世界遺産にぽち
2023.06.24
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東京の両国国技館内にある「相撲博物館」は、国技館の1階エントランス右にあります SUMO MUSEUM「相撲博物館」東京・両国『国技館』内の1階エントランス右(西側)にあります今まで何度も国技館には、行くのですが・・・まだ、一度も中に入ったことがありませんでした。今回のテーマは『すみだと大相撲』展令和5年(2023年)5月14日(日)〜8月23日(水)歌川広重(初代)「名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋」の展示そうそう、モネやファン・ゴッホが大好きだった広重ですねうたがわ ひろしげ歌川 広重・・・とは?1797年9月6日〜1858年10月12日江戸時代の浮世絵師。本名=安藤重右衛門(安藤広重)代表作・・・は、『東海道五十三次』『名所江戸百景』・・・この一枚ですね。可愛い「お守り、おみくじ」売ってました。野見宿神社からの・・・顔が微妙に違う世界遺産にぽち
2023.06.23
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大栄翔は、1月場所で大勝ちし春場所には、三役復帰が叶いそうですね〜よかったです。回転速く繰り出す突っ張りが、威力を増して優勝も経験。常に全力を出し切る姿勢が清々しい。だいえいしょう大栄翔・・・とは?所属:追手風部屋本名:高西勇人しこ名履歴:高西→大翔栄→大栄翔番付:前頭筆頭生年月日:平成5年11月10日(29歳)出身地:埼玉県 朝霧市出身校:埼玉栄高校身長:182.0cm体重:165.0kg得意技:突き、押し。Maegashira #1DaieishoHayatoActual Neme : Hayato TakanishiDate of Birth : November 10,1993Place of Birth : SaitamaHeight : 182.0cmWeight : 165.0kg【大栄翔にアンケート】相撲を始めた年齢は・・・7歳しこ名の理由は・・・親方の大翔山から二文字いただいて自分が埼玉栄高校出身の「栄」を親方と相談して入れました。同じ部屋で仲良くしているのは・・・誰ですか?翔猿関、遠藤関、剣翔関、大奄美関、大翔鵬関とみんな仲良しで特に剣翔関と仲が良いです。好きなアーティストは・・・長渕剛マイブームは・・・ドラマ好きな食べ物は・・・焼肉好きなテレビ番組は・・・相撲好きなアニメは・・・ワンピース子どもの頃はどんな子でしたか・・・外で遊ぶのが好きな子。足が大きいそうですが・・・32cmです。同じ埼玉の力士について、北勝富士関は、一つ上で雲の上の存在でした。同じ埼玉の阿炎関とは、仲良しです。犬と猫ではどちらが好き・・・犬です。犬を飼っているからです。名前は、トイプードルの「チロル」です。小さい頃は、チロルチョコのようでした。相撲以外で得意なスポーツは・・・卓球苦手な事は・・・楽器廻しの色は・・・朱色が十両から好きです。好きなタイプの女性は・・・笑顔が素敵な人。【戦歴・受賞歴】幕内最高優勝 1回十両優勝 1回三段目優勝 1回序の口優勝 1回金星 4回殊勲章 5回技能賞 1回生涯戦歴 463勝 398勝 2休(66場所)幕内戦歴 312勝 301杯 2休(41場所)【決まり手の傾向】1. 押し出し 35%2. 叩き込み 27%3. 突き出し 14%その他 24%初土俵 平成24年1月場所新十両 平成26年7月場所新入幕 平成27年9月場所新三役 令和2年1月場所最高位 関脇【大栄翔と同じ平成5年生まれの力士】西小結 若元春(10月5日生まれ)西前頭筆頭 大栄翔(11月10日生まれ)東前頭7枚目 逸ノ城(4月7日生まれ)東前頭14枚目 一山本(10月1日生まれ)東十両6枚目 美ノ海(5月6日生まれ)東十両14枚目 對馬洋(6月27日生まれ)おいてかぜべや追手風部屋・・・とは?埼玉県 草加市 瀬崎 5-32-22師匠:追手風親方(元・前頭2枚目大翔山)【追手風部屋の素敵な力士たち】東前頭筆頭 翔猿西前頭筆頭 大栄翔西前頭9枚目 遠藤東前頭15枚目 剣翔西十両2枚目 大奄美西十両6枚目 大翔鵬東幕下12枚目 大翔丸東幕下18枚目 日翔志東幕下50枚目 大喜翔西幕下58枚目 大飛翔西三段目62枚目 大雄翔西三段目64枚目 大翔樹西三段目71枚目 大翔宗東三段目72枚目 大翔成西三段目78枚目 大翔西序二段31枚目 大国巌西序二段63枚目 薩摩翔東序二段64枚目 大典翔うわ・・・覚えるのが大変ですねどつこい押し相撲は楽し世界遺産にぽち
2023.01.28
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佐藤健の衝撃的な恋愛ドラマです〜絶対に今夜見ます楽しみですね〜早速、お気に入り登録『100万回言えばよかった』TBS系 金曜ドラマ1月13日(金曜日)午後10時〜10時54分数奇な運命に翻弄されながらも奇跡を起こそうとする3人の姿を描く。安達奈緒子(あだちなおこ)による完全オリジナルのファンタジーラブストーリー。鳥野直木(とりのなおき)役「佐藤健」調理師。悠依が中学生の頃に預けられ里親・樋口家で、彼女と出会っている。大人になり再開した矢先、不可解な事件に巻き込まれ亡くなるが、想いを伝えられなかった「思い残し」から幽霊となる相馬悠依(そうまゆい)役「井上真央」有名美容院の系列店の店長。かつて、家庭の事情から里親に預けられた過去を持つ。運命の相手と意識した直木を突然失い、その死を受け入れられずにいる。魚住譲(うおずみゆずる)役「松山ケンイチ」刑事。実家は1000年続く寺で、代々霊媒の家系だがこれまで霊とは無縁の生活を送る。しかし、直木の死に関わる事件を捜査するようになったことから、悠依と直木の2人の運命に関わることになる。世界遺産にぽち
2023.01.13
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昨日、3年ぶりに銀座へ行って来ました!3年間ですっかり変わってしまった銀座。歌舞伎座ギャラリーに行ってきました〜場所は、東京の銀座「歌舞伎座」の上です新しくなった「歌舞伎座」の後ろにそびえるこのビル歌舞伎座タワー行き方は・・・まず、歌舞伎座の右横からエスカレーターで地下2回に降ります。地下鉄から、地下鉄へと直接にも入れます。なんと〜江戸時代風のお買い物パラダイスお店がいっぱいあります〜ここは、誰でも無料で入れるしお買い物を楽しんだり日本らしいお土産を買うことができます。外国からのお友達を連れてくるのもおすすめなぜかと・・・言えば、冷暖房完備で、ちょっとアイスを食べたりお茶したり出来るからです。お弁当も売ってます歌舞伎座ギャラリーへは・・・奥の左へ進みエレベーターで5階へ上がります。歌舞伎座ギャラリー・・・とは?2013年、新しい歌舞伎座の開場と同時にオープン。気軽に歌舞伎の雰囲気を味わってもらうための施設。歌舞伎の舞台再現。衣装や小道具。実際に間近で見ることができる今回の演目を舞台展示。舞台を間近で体験できますが・・・(舞台の上には乗らないでください)と書いてありました【場所】東京都中央区銀座4-12-503-3545-6800歌舞伎座タワーの5階にある。【入場料金】無料歌舞伎座タワーへの【行き方】東京メトロ日比谷線・都営浅草線「東銀座」3番出口で目前東京メトロ銀座線・丸の内線・日比谷線「銀座駅」A7番出口5分 JR「有楽町駅」銀座ブランド街を歩いて10分お勧め JR「東京駅」タクシー10分。2022年末は、特別展です『歌舞伎座ギャラリー特別展』「十三代目市川團十郎白猿襲名披露」 「八代目市川新之助初舞台」記念展ー歴史の継承 そして歌舞伎に未来ー豪華絢爛の歌舞伎を楽しんでどうしても行きたかった場所です。昨日は、とても空いていました〜いっぱい写しました(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.10
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ゴッホの暗い画面は、印象派との出会いと日本の浮世絵からの影響で見違える程明るくなしましためっちゃ〜明るい画面はこれです。Van Goghファン・ゴッホ『ファン・ゴッホの寝室』1889年9月『ゴッホの寝室』(第3バージョン)パリ「オルセー美術館」所蔵。南仏アルルに移住して芸術家コロニーを計画ゴッホが「黄色い家」を準備し、その2階部分のゴッホの寝室を描いた。絵の左側の扉には、ゴーギャンの部屋がある。(第3バージョン)は、ゴッホが母のためにサイズを、57.5cmx74.0cmと縮小して描いたもの、非常に明るく希望に満ちた明るい色彩ですファン・ゴッホ・・・とは?Vincent van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)オランダ人のポスト印象派(後期印象派)の画家。それでは、作品の変化を年代を追ってみてみましょう【ゴッホのできごと&作品写真】1853年3月30日、オランダ、フロート・ズンデルトに生まれる。1872年、グーピル商会:ハーグ支店に勤務。 画家としての修行を始める。1873年、深刻な失恋を経験し 転勤したロンドンで再び失恋する1876年、寄宿学校の教師となる。1879年、炭鉱の臨時牧師となり宣教活動を行うが、 常軌を逸した行動により、解任される1880年10月、突然、画家になる決意を語りブリュッセルへ、1881年4月〜、経済的な問題からエッテンの実家に戻り、 田園風景や、近くの農夫たちを描きまくる。『黄色い麦わら帽子のある静物』1881年11月末-12月半ば『浜辺の漁師』1882年8月『浜辺の漁師の妻』1882年8月『林の白服の少女』1882年8月1883年〜1885年、オランダ北ブラバント州、 ニューネンの農村で2年間過ごし、暗い色調で描く。『機織る人(右向き)と糸車』1884年3月『機織る人、正面から』1884年5月『機織る人、3つの小窓のある室内』1884年7月『ジャガイモを植える農夫たち』1884年8月〜9月『日暮れのポプラ並木』1884年10月『コーヒー挽き、パイプ入れと水差しのある静物』1884年11月『4本の石器瓶と酒瓶と白い茶碗のある静物』1884年11月『暗色の帽子をかぶったブラバントの農夫の顔』1885年1月『パイプをくわえた農夫の顔』1885年1月『テーブルの前に座る農夫』1885年3月-4月(数年にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成)『じゃがいもを食べる人々』1885年4月『暖炉の側の農婦』1885年6月夏の間、村を歩き回って、ミソサザイの鳥の巣を探して描く。『3つの鳥の巣のある静物』1885年9月-10月『3つの鳥の巣のある静物』1885年10月1885年11月〜1886年初頭、アントワープ1886年2月末、弟テオを頼り、パリに移り住む。 色彩が明るくなり、画風が大きく変貌する。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1886年10月『風車のあるモンマルトルの眺め』1886年秋(印象派より新印象派の一派が台頭してくる)『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』1887年夏『4本の切ったひまわり』1887年8月-9月『2本の切ったひまわり』1887年8月-9月1888年、南仏アルルに移住する。芸術家コロニーを計画。『自画像(麦わら帽子をかぶったもの)』1887年-1888年の冬『花咲くモモの木(モーヴを思い出して)』1888年3月『静物:黄色い皿に入ったじゃがいも』1888年3月『アルルの跳ね橋(ラングロワ橋と洗濯する女性たち』1888年3月『花咲く果樹園』1888年3月-4月『銅の花瓶のアミガサユリ』1887年4月-5月『ラ・ムスメ、坐像』1888年7月『一足の靴』1888年8月『キョウチクトウのある花瓶』1888年8月『ローヌ川の星月夜』1888年9月『ウジェーヌ・ポックの肖像』1888年9月『夜のカフェテラス』1888年9月『アルルの女(ジーヌ夫人)手袋と傘』1888年11月初頭『アルルの女(ジヌー夫人)本』1888年11月(1889年5月?)『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』1888年12月『男の肖像(ジョセフ=ミシェル・ジヌー?』1888年12月『赤ん坊のマルセル・ルーラン』1888年12月1889年、アルルの精神病院に入院を繰り返しながら、制作を進める。『ひまわり(15本のひまわり)』1889年1月『オレンジ、レモン、と青い手袋のある静物』1889年1月『ルーラン夫人のゆりかごを揺らす女』1889年1月『ルーラン夫人のゆりかごを揺らす女』1889年3月『郵便夫ジョセフ・ルーラン』1889年4月『郵便夫ジョセフ・ルーラン』1889年4月『日の出の春小麦の畑』1889年5月-6月『オリーブの木々、背景にアルピーユ山脈』1889年6月『星月夜』1889年6月『糸杉と2人の女性』1889年6月『プロヴァンスの干し草の山』1888年6月『刈る人と太陽のある麦畑』1889年6月末『自画像』1889年8月末『ファン・ゴッホの寝室』1889年9月『自画像』1889年9月『渓谷』1889年10月『オリーブ畑:淡い青色の空』1889年11月1890年『歩き始め(ミレーを模して)』1890年1月『アルルの女(ジヌー夫人)』1890年2月『悲しむ老人(永遠の門)』1890年4月-5月『オーヴェルのガシエ医師の庭』1890年5月『静物:アイリスのある花瓶』1890年5月『花咲く栗の木』1890年5月『糸杉と星の見える道』1890年5月12日ー15日『医師ガシエの肖像』1890年6月『オーヴェルの教会』1890年6月『わらぶき屋根の家々』1890年6月『小麦を背景に立つ若い女』1890年6月末『糸杉のある麦畑』1889年6月末『雨空の干し草の山』1890年7月1890年7月29日、オーヴェール・シュル・オワーズにて ピストル自殺未遂がもとで死去(享年37歳)。(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.12.06
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ファン・ゴッホが自殺に至るまでの1年余りの作品をみてみましょう夜のカフェと天国の星空鑑賞。Vincent van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ『夜のカフェテラス』1888年9月16日頃oil on canvas 80.7cmx65.3cmオランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。ゴッホが、アルルに来て半年がたっています。アルルのフォーラム広場で、実際にこの場でゴッホが描いたもの。この時の様子をゴッホは、「ガス灯の明るすぎるほどの光が、 これが溢れるばかりの 黄色とオレンジでね〜 青い色をぐっと強くいかしているんだ」そして、「夜、その場にいて絵を描くのは、 すごく楽しいことだよ」。「天国に咲く『天国の花』として描いた」。と、ゴッホは説明しています。Vincent van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳)オランダ人のポスト印象派(後期印象派)の画家。ファン・ゴッホは・・・パリから、明るい南フランスアルルへ移住しますが、どうも、内面世界の不安定さ、精神が異常をきたすほどに追いつめられた心境が、絵画においては、力強い筆致でありながらも、全体の印象からは見る者に不安を抱かせるような、不可思議な世界を生み出したとも言える。ことに自殺にいたるまでの1年あまり作品は、自分の狂気と人間存在の孤独を投影したかのような風景が増えた。精神病院の庭や、晩年を過ごした田舎の風景を描いた作品には、うねるように筆を動かした細かい筆致が見られ、精神性の高い風景画である。そこには、自然に投影されたゴッホ自身の陰鬱な、しかし、理想とと情熱に満ちた人生観がうかがえる。(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.12.05
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ファン・ゴッホの絵の1番の特徴は、絵の具を分厚く塗ることです。美術館で叱られる程、近寄ってみてみましょうフィンセント・ファン・ゴッホVincent van Gogh『星月夜』1889年荒天のもと、麦畑がどこまでも広がっています。悲しみと極度の孤独感を表現しようとして、わざわざ努力するまでもありませんでした。 [ファン・ゴッホ]Vincent van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳)オランダ人のポスト印象派(後期印象派)の画家。ゴッホの絵画の大きな特徴は・・・絵筆にたっぷりと絵の具をつけて、カンヴァスに勢いよく色を塗り重ねていく独特の筆使いにある。とくにその風景画には、見たものをそのまま素直に描写するのではなく、一見荒々しく見えるタッチを用いて、風景の中に、自分の精神状態を描き出そうとする意図がうかがえる。ゴッホは、絵の具をかなり分厚く塗り上た。しかも、手早く塗り上げていくのが特徴だった。そのために、表面をよく見ると、画面に絵筆の動いた跡があり、絵筆の動きや、それを握り締めて、カンヴァスの上で激しく動かしていた画家の姿をも想像させる。このような厚塗りの技法は、とくに「インバスト(盛り上げ塗り)」と呼ばれ、印象派の画家の多くが用いたが、なかでもゴッホの場合は、塗られた絵の具の量や筆の勢いの点からも、かなり重量感がある。「インパスト」厚塗りの技法・・・とは?1840年に、金属製のチューブに入った絵の具が開発され、普及した。チューブ入りの絵の具は、それまでのものよりも濃厚で硬めだった。ゴッホをはじめ、印象派の中には、厚塗りする画家が多かったが、それはチューブ入りの絵の具の登場とも、深く関わっている。ゴッホが、画家として創作活動をした期間は、死ぬまでのわずか10年ほどのことだ。しかも、ゴッホは、いわゆるアカデミックな意味での美術教育は、まったく受けていない。それでもゴッホは、その10年間でそのような表現を確立していったのだ。さらにゴッホの芸術を特徴づけるのは、ゴッホ自身の生き方である。ゴッホは、いくつかの職業に就こうとして挫折し、失恋の痛手を何度か受け、「自分には芸術しか残されていない」という思いで芸術の世界に足を踏み入れた。De Aardappeletes『じゃがいもを食べる人々』1885年初期の頃は・・・貧困にあえぐ下層階級の人々への共感に満ちた暗い雰囲気の作品が多かったが、パリへ移ってからは、印象派や日本の浮世絵からの影響を受け、鮮やかな色彩に満ちた作風へと変化するしかし、世間に受け入れられず、人並みの暮らしを送ることができないゴッホは、自分に自信を失い、次第に厭世的になっていく。つねに孤独につきまとわれ、極端に悲観的になり、晩年は精神を病むほどになった。(つづく)(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.12.04
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19世紀に誕生した「印象派」は、印象を表現しようとする芸術でしたその方法とは?Claude Monet1840-1926モネの『睡蓮』19世紀後半のフランスでは、新たな芸術運動が起こっていた。印象派の登場である。彼らは・・・戸外制作を行い、同時代の都市社会や、風景、そこに生きる人々を描いた。印象派の画家たちは、見たものを忠実に再現するという写実主義に影響を受けつつも、そこに独自の感性を盛り込んでいく。彼らが、熱心に研究したもののひとつに、光の表現がある。Claude Monet1840-1926モネの連作『エトルタの風景』刻々と変化する光を描くために、自分の目がとらえた印象をカンヴァスに再現しようとしたのだ。それは、非常に感覚的な表現だったといえるだろう。従来のように、パレットの上で、色彩を混合していては、移ろいゆく光を十分には表せない。そこで、考え出されたのが、筆触分割、あるいは、色彩分割と呼ばれる技法である。これは、原色に近い色彩を小さなタッチで併置するという方法だ。画面の近くで見れば・・・色斑の集まりにしか過ぎないが・・・離れて見れば さて〜色斑同士が鑑賞者の目で混合され、微妙な光のニュアンスを醸し出すのであるこうした色彩の理論は、シュヴルールなどの工学的な研究から導き出されたものだった。とはいえ、印象派の絵画は、美術界の主流だったアカデミーから見ると、デッサンは、なっていない仕上げは、乱暴と批判の対象でしかなかったそれでも、主題、色彩、構図、技法など、さまざまな面で、革新をもたらした印象派は、のちの画家たちに多くの影響を及ぼした。それらはやがて、キュビスムや、表現主義などへと受け継がれていく。クロード・モネは・・・刻一刻と移りゆく光を表現しようとした。『ルーアン大聖堂』の連作Claude Monet1840-1926同じ場所で、時間を変えて、戸外で制作を行い、Claude Monet1840-1926このような連作を残している。『ルーアン大聖堂』の連作は、1892年と1893年に描かれ、全33点のうち、この正面の同じ構図が28点ある。そして、『積みわら』の連作も『積みわら-朝の雪の効果』1891年クロード・モネの連作『積みわら』は、1890年の夏から、1891年の春まで、25点を製作した。『積みわら、雪と光の効果』1891年モネが住んでいたフランス、ジヴェルニーの家の近くの同じ場所ココで描かれた。異なる時間、季節、天候、それぞれの光の下で描き分けた。『積みわら、夏のおわり、朝の効果』1890年『積みわら』連作は・・・モネが何度も描いた、時刻、季節、天候など、自然要因の変化が主題に及ぼす効果を描き分けた最初の作品群の一つである。モネの連作は・・・『睡蓮』『積みわら』『ポプラ並木』『ルーアン大聖堂』『エトルタの風景』などがある。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.12.03
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ピエール・ボナールの代表的な画題は「浴女」光溢れる明るい暖色系の色彩で描かれているピエール・ボナールPierre BonnardNu à contre-jour(1908)(Le cabinet de toilette au canapé rose)『逆光の裸婦』1908年(薔薇の長椅子のある化粧室、オー・デ・コロン)油彩 カンヴァス 124.0cmx108.0cmブリュッセル「ベルギー王立美術館」所蔵。室内につきものの壁紙や、敷布の模様は、窓から差し込む陽光より溶解している。手前に背を向けて身を反らせる裸婦は、一身に光を受け止めることによって、ネガ的なモティーフとなっている。多様な要素に埋め尽くされながらも、斜めに置かれた長椅子が、室内に奥行きを表している点で、ナビ派期の平面的な空間構成とは、明らかに一線を画す。鏡の導入もこの時期の特徴だが、そこに映し出された像は、生身の裸体を相対化すべく描かれているのだろうか。床に置かれたタライが、この裸婦がマルトであることを物語る。ピエール・ボナール・・・とは?1867年10月3日〜1947年1月23年(79歳没)19世紀〜20世紀当時のフランスの風景画、室内画、風俗を描いた画家。日本画・浮世絵の影響を受けたナビ派。1867年10月3日、フランス、フォントネー=オー=ローズに生まれる。1888年、ナビ派を結成。1889年、エコール・デ・ボザール入学。1890年、日本美術に開眼。1893年、パリの路上でマルト(1869-1942)と出会う。1925年、南仏ル・カネに居を構える。1947年1月23日、ル・カネにて死去(享年79歳)。マルト(1869-1942)・・・とは?ボナールのモデルでありミューズ。マルトとボナールが出会ったとされるのは、1893年、これ以降マルトは常にボナールの絵画とともにあった。後年に婚姻届を出す際に、初めてマルトの本名を知ったというミステリアスな存在。それがボナールのインスピレーションを刺激したといえる。「ナビ派」・・・とは?ヘブライ語で「預言者」を意味する。19世紀末フランスの画壇のなかでも、カトリックや象徴主義の色彩が強い一群の画家たちである。創始者は・・・モーリス・ドニ、ポール・セルジュエ、エドゥアール・ヴイヤール、ピエール・ボナール。ただし、ボナールは・・・ナビ派の神秘的・宗教的側面には、冷淡であり、ジャポニスムの影響を強く受けたところから「日本的なナビ」と呼ばれる。特に当初は、日本の浮世絵の手法を駆使して、当時のフランスにおける風俗を描くという試みに没頭していた。ボナールが、暖色中心の明るい色彩表現に移行し、独自の世界を確立するのは、1900年以降のことである。『棕櫚』1926年油彩 カンヴァス 114.3cmx147.0cmワシントンD.C.「フィリップス・コレクション」所蔵。南仏ル・カネ近郊の風景。遠景に比べて近景が、ぼんやりと描かれているのが特徴。 しゅろ『棕櫚』では・・・画面上部を棕櫚の葉が、大きく左右に横切っているが、これは明らかに北斎などの影響である全体の情景は、ボナールが新居を購入した南フランスのル・カネの風景をもとに構成され、強い陽光のもと、めくるめく色彩の世界が展開されている。(参考文献:Gakken/西洋美術を知りたいより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.12.02
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ナビ派・・・とは?まず「モーリス・ドニ」についてざっと見てみましょうMaurice DenisGranville,1870-Saint-Germain-en-Laye,1943Baigneuses â Perros-Guirec (Vers 1912)Huile sur toileパリ「プティ・パレ美術館」所蔵。モーリス・ドニ・・・とは?モーリス・ドニMaurice Denis1870年11月25日〜1943年11月13日(72歳没)ナビ派のフランスの画家。ドニの理論は・・・キュビスム、フォーヴィスム、抽象絵画にも影響を与えた。モーリス・ドニは・・・フランス人。1870年11月25日、グランヴィルに生まれる。1888年、ゴーギャンの「総合主義」に影響される。1890年、セリュジエらと「ナビ派」を結成する。1893年、最初の妻マルトと結婚。子供=7人。1919年、パリに宗教芸術学校開設。マルトが死去。1943年11月13日、交通事故が原因で死去(享年72歳)。ドニは・・・「ナビ派」の中心人物であり、その理論的支柱となった。形態を単純化するセザンヌの手法、ひとつの色で対象物を表すというゴーギャンの手法などを突き詰め、「一枚の絵とは、 軍馬や裸婦や、 何らかの逸話である以前に、 本質的に、 ある秩序で配置された色彩が覆う 平坦な面であることを想起しよう」と宣言。これがのちに現代絵画の基本路線となるモーリス・ドニの作品・・・とは?Maurice DenisGranville,1870-Saint-Germain-en-Laye,1943Soir florentin:Baigneuses(1910)Huile sur toileパリ「プティ・パレ美術館」内の仏解説文La composition ordonnée selon un axe centralet une ligne d'horizon placée trés bas,reprendle dispositif des grands décors plafonnant dela Renaissance italienne.Les lignes épurées, lafraicheur des tons posés en aplat, la gestuellechorégraphique des figures,font écho aux nusde Maillol, le [primitif plasque], qui avaitrejoint Denis dans I'élaboration d'un nouveauclassicsme. Présenté avec succés au Salond'automne de 1910, ce décor fut bientôt suvidenouvelles commandes sur des sujets profanes,au théâtre des Champs-Élysées (Histoire de lamusique) puis au Petit Palais (Histoire de I'artfrançais) sur la coupole de I'escalier situé àproximité de cette salleMaurice DenisGranville,1870-Saint-Germain-en-Laye,1943Soir florentin:Le Péme(1910)Huile sur toileA l'origine, Soir florentin comprenait quatre grandspanneaux : Danses, La Cantate, Baigneuses, LePoéme, reliés par quatre représentations typiuesdu paysage italien, Les Pins, Les Cyprés, Les CollinesLes Oliviers. Créme de Décor est directementinspiré des Crépuscules Décaméron de Boccace,écrivain majeur du quattrocento italien. Denisreconnaissait en cette évocation du paradis surterre, l'intemporalité et I'universalité du bonheurpartagé avec son épouse Marthe et leur petite filleNoëlle, durant les séjours passés chez leur ami,le musicien Ernest Chaysson, â Fiesole, prés deFlorence.ドニ自身の特徴・・・とは?解体の簡略化や、アール・ヌーヴォー風の曲線、柔和で明るい色調などに見られる。平面処理が著しく、装飾的で、奥行きなどにはあまり気にかけていない。(参考文献:東京美術/より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.12.01
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モダン・アートとは?ざっと簡単に整理してみましょう〜モダン・アートと言えばモンドリアンを思い出します。ピエト・モンドリアンPiet MondrianDutch,1872-1921Composition in Red,Blue,and Yellw(1937-42)oil on canvasMOMA「ニューヨーク近代美術館」所蔵。ピエト・モンドリアンの赤、青、と黄色を用いたコンポジションシリーズどこかで見たようなバックのディザインなどで見かけます20世紀に入ってからのモダンアートは・・・多様化が特徴だといえる。ざっくり言えば・・・なんでもアリ自由最初の大きな動きとなったのが、フォーヴィスムである。アンリ・マティスHenri Matisse『赤のハーモニー』(赤い部屋)1908年「赤のハーモニー」のアイフォンケースマティスやドランは、鮮烈な色彩を使って、細部にはこだわらない大胆な表現を行った。一方、形態による表現でも、革命的な動きが起こった。キュビスムの誕生だ。パブロ・ピカソPablo Picasso『アヴィニヨンの娘たち』1907年Tシャツも・・・ピカソやブラックが中心となって活動したキュビスムでは、対象を解体し、キューブや面のような形で、その造形を再構築してみせた。こうした抽象主義の潮流は、パリのみならず、ヨーロッパ各地で起こっていた。前衛芸術家たちは、互いに影響を及ぼしながら、それぞれ独自の表現方法を追求していったのである。イタリアでは・・・マリネッティを中心に未来派が結成され、運動表現を絵画に取り入れようとした。Vassily KandinskyカンディンスキーのImprovisation28(second version)インポジションシリーズ『即興28』1912年カンディンスキーや、マレーヴィも相次いで非具象絵画を発表し、ロシアでは・・・構成主義の運動も高まっていく。また、幾何学的な表現を追求したモンドリアンは、新造形主義と呼ばれる作風を確立した。スマホケースにも・・・このように形態や色彩のみで、対象を表現しようとする絵画も生まれてくる。いわゆるシュルレアリスムである。シュルレアリスムは・・・無意識や非合理の解放をうたった芸術だ!夢の中の世界や、現実にはありえない状況を描いた作品は、不思議な雰囲気をたたえている。そして、この時期のパリには、世界各国からの芸術家が集まってきており、彼らを総称して、エコール・ド・パリと呼んでいる。ユトリロ、モディリアーニ、藤田嗣治などが、多彩な才能を発揮した。パウル・クレーのグッズ『ドゥルマカラ島』の長いクッションドイツのバウハウスで活躍したクレーは、さまざまな色彩を用いて、イメージを形にした。ここで描かれるテーマは、生と死である。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.11.30
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ウォーホルは、スープ缶をデザインして32個も並べました。これにはメッセージが込められていますニューヨーク「近代美術館」MOMA32個32種類のキャンベルスープ缶が並ぶアンディ・ウォーホルAndy Warhol1928年8月6日〜1987年2月22日(58歳没)本名=アンドリュー・ウォーホラ (Andrew Warhola)アメリカ合衆国の画家・版画家・映画制作。芸術家で、ポップアートの旗手。晩年には、コンピューターアートにも興味。生涯独身。【代表作】キャンベルスープ缶アンディー・ウォーホル・・・とは?1928年8月6日、アメリカ、ピッツバークに生まれる。1945年、学生新聞のアートディレクターになる。1949年、カーネギー工科大学卒業。 装丁やイラスト、アートディレクションなどの 仕事を手がけるようになる。1952年、ニューヨークで最初の個展を開く。1962年、ドル紙幣とキャンベルスープ缶の作品を制作。1968年、ストックホルム美術館で、 ヨーロッパでの開催は初めてとなる個展開催。1987年2月21日、胆嚢の手術を受ける。 2月22日、容態が急変し亡くなる(享年58歳)。Andy WarholAmerican,1928-1987Campbell's Soup Cans(1962)(32 Campbell's Soup Cans)Synthetic polymer paint on thirty-two canvases『キャンベルのスープ缶』(32個のキャンベルのスープ缶)シルクスクリーン カンヴァス 合成高分子塗料51.0cmx41.0cmx32枚ニューヨーク「近代美術館」所蔵。キャンベルのスープ缶・・・とは?Campbell's Soup Cansアンディ・ウォーホルによって、1962年に製作された美術作品。ときに、「32個のキャンベルスープ缶」とも呼ばれる。32 Campbell's Soup Cans確かに、32個の違う種類の缶が並んでいますなぜ・・32個も並べたのでしょうか?当時、キャンベルが販売していた32個のスープの缶詰である。screen printing(スクリーンプリント)スクリーン印刷工程で、機械的に製作された。ウォーフォルの作品は、ファクトリー(工場)内で、アシスタントとの共同作業で製作されます。芸術作品というものが、大量に作られ、複製され、流れ作業で作り出し、大量に消費される社会の象徴として32個のスープ缶を並べた。単に、「キャンベルのスープ缶」の宣伝だけではなかった。そのメッセージは・・・わたしたちが暮らす21世紀の大量消費、大量廃棄にもつながっている。この32個の大量のスープ缶は、イメージの「繰り返し」にひそむ現代の消費社会を浮き彫りにしている。バービーの衣装にもスープ缶プリントが、Andy WarholAmerican,1928-1987『マリリン・モンロー』1967年シルク・スクリーン 91.1cmx91.1cmワシントン「テート・ギャラリー」所蔵。誰もが知っている女優:マリリン・モンロー。この女優さんの顔は・・・確かに多くの人々に馴染み深い。しかし、実際にモンローに会ったことのある人は、おそらくほとんどいない!存在するのは、マリリン・モンローというイメージだけであり、そのイメージが大量消費されているのが、現代社会である。ウォーホルは、モンローの写真をモティーフに多くの作品を手がけたが、『金のマリリン・モンロー』ニューヨーク近代美術館ここでは、宗教画のような「金のイコン」の中にマリリンをウォーホルは・・・その「虚像」を通して、現代社会が巧妙に作り上げられた虚構の上に成立していることを、痛烈に露わにする。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.29
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アンディ・ウォーホルの有名なポートレートですが、金のマリリン・モンローは特に珍しいアンディ・ウォーホルAndy Warhol金のマリリン・モンロー(部分拡大)やがて、誰もが15分間ずつ有名人になる日がやってくるだろう。 [ウォーホル]アンディ・ウォーホルAndy Warhol1928年8月6日〜1987年2月22日(58歳没)本名=アンドリュー・ウォーホラ (Andrew Warhola)アメリカ合衆国の画家・版画家・映画制作。芸術家で、ポップアートの旗手。ウォーホルの作品の多くは・・・「ファクトリー(工場)」内で、アシスタントとの共同作業で製作されている。芸術作品というものが、唯一無二のものであるところに絶対の価値を持つという常識に逆らい、ウォーホルの作品には、多くの複製画が存在する。しかも取り上げられる題材は、コカ・コーラの缶、キャンベルスープの缶、マリリン・モンローや、ドル紙幣など、大量に消費される商品や、人々の中で複製されるスターや、アクシデントの一場面などだ。そこには、多くの芸術家たちが繰り返してきた色彩や形態、表現への葛藤はない。あるのは、ただイメージの「繰り返し」である。しかし、もちろんそれは、無価値なものを大量に作り出す行為ではない。大量消費社会の象徴的な素材を、流れ作業で作り出すという行為そのものに、消費というものの持つ本質、そこにひそむ無感覚さ、現代社会が失ったもの、主題のなさ、そして無名性、匿名性といったものを浮き彫りにしている。芸術活動そのものを通じて現代社会の歪みを体現した稀有な芸術家だといえる。マリリン・モンロー・・・とは?Marilyn Monroe1926年6月1日〜1962年8月5日(36歳没)ノーマ・ジーン・モーテンソンNorma Jeane Motensonアメリカ合衆国の女優・モデル。多くの映画に主演した「金髪の美女」。当時、最も人気のあるセックスシンボルで、性の革命の象徴であった。映画「ナイアガラ」1953年映画「紳士は金髪がお好き」1953年映画「七年目の浮気」1955年映画「お熱いのがお好き」1959年ポップアート・・・とは?テレビ、広告、マンガなど、大衆的な図像を作品の素材として使った芸術であるAndy WarholAmerican,1928-1987Gold Marilyn Monroe(1962)Silkscreen ink on synthetic polymer paint on canvas211.0cmx145.0cm『金のマリリン・モンロー』1962年シルクスクリーン カンヴァス 合成ポリマー塗料ニューヨーク「近代美術館」所蔵。(MOMA館内英解説文)Warhol made this painting shortly after legendaryactress and sex symbol Marilyn Monroe committedsuicide in August 1962. It is one of his photo-silkscreened canvases and one ofhis earliest celebritypaintings.He hand-painted the large vanvas in goldand then silkscreened Monroe's face cropped from apablicity still for the film Niagara(1953),at the center.With this updated version or Byzantine icon,Warholcanonized and eulogized Monroe a goddess ofpopular culture.Gold Marilyn Monroe was the starof Warhol's fist exhibition of paintings in New York,at the Stable Gallery in November 1962.The showsold out,and Warhol achieved status in the art world,something he had desired for a long time.永遠のセックスシンボルであったマリリンモンローが、1962年8月に自殺した直後に描かれたウォーホルの作品。これは、彼のフォトシルクスクリーンカンヴァスに最も初期の有名人のひとりを描いた作品です。ウォーホルは、大きなカンヴァス・スクリーンに手で合成ポリマー塗料を塗り、その上に映画:ナイアガラ(1953年)の宣伝用写真から顔のコピーをトレースして貼った。ウォーホルは、ここで宗教的なイコンを思わせる『金のマリリン・モンロー』を女神として祀り、金のマリリン・モンローを豪華に大衆化した。『金のマリリン・モンロー』は、1962年11月に、「スタブル・ギャラリー」で開催されたニューヨークで最初の展覧会に出品され、作品は展示後にすぐに買い上げられた。現在では、ニューヨーク近代美術館に展示されている。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.28
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マグリットは平凡な景色の中に隠して「謎」の世界を描いていますそれを見つけてみましょうルネ・マグリットRené Magritteひとつのオブジェが、別のオブジェの中に溶け込む。たとえば、ある場所では、空から森が出現する。[マグリット]ルネ・マグリットRené Magritte1898年11月21日〜1967年8月15日(68歳没)ベルギー・レッシーヌ出身、シュルレアリスムの画家。シュルレアリスム・・・とは?1924年、詩人:アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表した。シュルレアリスム(超現実主義)の方法は、夢、驚異、想像、無意識、狂気、偶然などに注目し、たとえば、無意識で筆を動かし、それに修整を加えないで表現するといったものもある。文学から生まれたが、芸術全般とりわけ絵画が、シュルレアリスムのわかりやすい表現として発達した。【シュルレアリスムの代表的な画家】ルネ・マグリットサルバドール・ダリハンス・フェルメールイヴ・タンギージョアン・ミロマックス・エルンストマン・レイポール・デルヴァオーベルギー王立美術館「マルグリット美術館」マグリットは・・・ベルギー人です。1898年11月21日、ベルギー、レッシーヌで生まれる。1912年、母が川で投身自殺し、その遺体を見てしまう。1922年、壁紙工場でデザイナーとして働く。1927年、初の個展を開く。 パリでシュルレアリスム運動に参加する。1943年、印象派的な作品を描き始める。1947年、フォーヴィスム的な作品を描き始める。1967年8月15日、ブリュッセルにて死去(享年68歳)。日常生活の中のありふれた光景を正確に描写いるかのように見えて、マグリットの作品には、つねに「謎」が・・・・秘められ、非現実的なトリックが隠されている。ありえない場面を・・・あたかも現実であるかのように細密に描写し、平凡さの中に存在する不思議な世界を暴き出すのが、絵画で詩を描くマグリットの作風だもともとは、グラフィックや、工業デザインを職業としていたマグリットが、芸術的に大きな影響を受けるのは、1927年パリに移住してから出会ったシュルレアリスム運動である。前年に、『道に迷った競馬騎手』という作品を制作し、不思議な空間の謎めいた光景を描いたマグリットは、シュルレアリスムに自分の居場所を見出した。ことにマグリットは、シュルレアリスムに効果的な優れた描写を生かし、現実を素直に描き出すだけでは終わらない。新たな想像と混沌の世界を生み出す。また、パイプを克明に描きながらも「これはパイプではない」と文字を加える『イメージの裏切り』などの作品では、「意味するもの」と「意味されるもの」との差異を描き、絵画と詩にある記号論的問題を提起している。The Empire of Lights『光の帝国』1950年油彩 カンヴァス 113.7cmx146.0cmベルギー王立美術館「マグリット美術館」所蔵。一見、なにげない風景に見える。しかしよく見ると、白昼の空の下に広がるのは、夜の光景だ。写実的に描かれているだけに、そのありえない謎に一度とらわれ出すと、そこからなかなか抜け出すことができない。マグリットは、この作品についてこう語る。「光の帝国に 私は相違するイメージを再現した。 つまり夜の風景と白昼の空だ。 風景は、夜を連想させ、 空は、昼間を連想させる。 昼と夜の共存こそが、 私たちを驚かせ魅了する。 その力を、 私は詩と呼ぶのだ」。 [ルネ・マグリット](参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.11.27
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ミロのシンボリック的な抽象絵画の世界には、自由な新しい時代になったことを感じますバルセロナ「国立ソフィア王妃芸術センター」彫刻私の作品には、死はありません。私が興味あるのは、誕生です[ミロ]ジョアン・ミロJoan MiróJoan Miró i Ferràジョアン・ミロー・イ・ファーラー1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)カスティーリヤ語=ホアン・ミロスペイン・カタルーニア地方「バルセロナ」出身の芸術家。シュルレアリスム運動に参加。ピカソ、ダリと並ぶスペイン前衛の三大巨匠のひとり。バルセロナ出身のミロは・・・1893年4月20日、スペイン・バルセロナで生まれる。1918年、バルセロナで初の個展を開く。1921年、パリで初の個展を開く。1941年、『星座』連作を完成させる。1973年、バルセロナにミロ美術館完成。1983年12月25日、マジョルカ島で死去(享年90歳)。何かを見て想像するのではなく、頭脳によって考え出すのでもなく、あくまでも、幻覚症状にも似たイメージの世界から、偶然湧き上がってくる詩的な夢想を、そのままカンヴァスに再現したのが、ミロの芸術である。奇妙な形をした人間や、動物をシンボル化したもの、得体の知れない有機体、生きている幾何学模様、そういったものが浮遊するかのように画面に構成されている。色彩としては・・・赤、青、黒など、どれも鮮明で明確だといっても、綿密な計算があるのではない。あくまでも、無意識の世界から繰り出される人間的でユーモラスな芸術世界は、現実を超越して見る者の心の奥底を直接震わせてくる。その芸術は、誰にも真似のできないものである。【代表作】『太陽の前の人と犬』(逆立ちした人物)1949年油彩 カンヴァス 81.0cmx54.5cmスイス「バーゼル美術館」所蔵。大きな赤い円は太陽、その前にふたりの人物と1匹の犬が描かれている。黒を多く使ってはいるが、そのほかの色彩は鮮やかで、全体から受ける印象も軽やかだ。スペイン内戦などの歴史的な事件を目にすることで一時期は野蛮で激しい作品を描いたミロだが、56歳で描いたこの作品では、再び本来の詩情とユーモアを取り戻している。形態も色彩も無造作で、偶然性に満ちた画面のように見えるが、しかし、つねに多種多様な表現に取り組んできたミロらしく綿密な表現と豊かなイメージの追求を試みた作品である。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.26
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アメディオ・モディリアーニの人物は笑ってしまうほど特徴的でありますがなぜか癒されますパリ「オランジュリー美術館」案内表紙よりぼくの心の中には、美しいイメージが満ち溢れている。[モディリアーニ]アメディオ・モディリアーニアメディオ・クレメンテ・モディリアーニAmedeo Clemente Modigliani1884年7月12日〜1920年1月24日(35歳没)イタリアの画家、彫刻家。主にパリで活動。エコール・ド・パリの画家。エコール・ド・パリ・・・とは?モディリアーニの時代、パリには数多くの芸術家が集まった。イタリア人の・・・モディリアーニロシア人の・・・シャガール、日本人の・・・藤田嗣治、ポーランド人の・・・キスリング、ブルガリア人の・・・ジュール・パスキン、リトアニア人の・・・シャイム・スーティン、フランス人は、ユトリロとローランサンなどがいた。最初「エコール・ド・パリ」は、外国人の画家を区別するために使われたが、その後、もっと広い意味で、パリに住んでいる外国人芸術家全般を指すようになった。『ポール・ギョームの肖像』1915年アメディオ・モディリアーニはイタリア人。1884年7月12日、リヴォルノに生まれる。1895年、肋膜炎(きょうまくえん)にかかる。 この病気は、一生続く。1900年、療養のための旅行で、 フィレンツェとヴェネツィアを訪れる。1902年、フィレンツェの美術学校に入学。1903年、ヴェネツィアで美術の勉強を続ける。1906年、パリに出る。1917年、初の個展開催予定、だが 「わいせつ」との理由で中止になる。1918年、南仏に移る。1920年1月24日、パリにて、 結核性髄膜炎で死去(享年35歳)。『子供とジプシー女』1919年頭部も顔も手足も、上下に引き伸ばされて細長いそれが、モディリアーニの最大の特徴だ表情があるのかないのかわからない独特の目の表情と相まって、モディリアーニの描く人物は、優しげで、おだやかで、それでいて、どこか物悲しい。いわば、人間のプリミティブな魅力を醸し出している。ふだんは、美男で有名な優男、しかし酔うと手のつけられない乱暴者で、さまざまなドラマを残し映画化もされ、彼自身の人間性とも重なる人物画は個性的だ。この独特な人体表現は、じつは絵画ではなく、モディリアーニが、もうひとつ打ち込んだ彫刻のほうで先に表現されたものだった。その彫刻は、アフリカの土着民族が作る仮面からインスピレーションを得て作られた。当時のパリでは、日本の浮世絵が流行していたのと同様に、黒人彫刻が注目されていた。とくに土俗的で、人間臭さに満ちたシンプルな形態に、抽象画家たちは、激しい衝撃を受けたといわれる。モディリアーニも、その形状に影響を受けた。そしてその素朴な力強さを、絵画として表現しようとした。モディリアーニによって、描かれたパリの庶民が、アフリカの黒人彫刻や、エトルスク彫刻からヒントを得たフォルムで表現されているところに、モディリアーニの面白さがある『青いクッションの裸婦』1917年ふくよかな女性の重量感、リズムミカルな輪郭、微妙な色合いの肌。モディリアーニの芸術の特徴が、よく表れている作品です。多少縦にデフォルメされた細長い人物を、縦長のカンヴァスに描くことが多いモディリアーニだが、ここでは珍しくカンヴァスを横にしている。このカンヴァスの裸婦は、細長く引き伸ばされた身体を巧みな空間処理によって、モデルをごく自然な体勢で見せている。モディリアーニは、彫刻作品も多く残しているが、彫刻家による造形を力強く裸婦画にも暗示させている。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.11.25
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ピカソは小柄だったらしいですが、好みの女性は大柄の金髪の女性だったそうですよPABLO PICASSOSpanish,1881-1973Le Goarnet oil on canvas,1901『曲芸師の一家』油彩 カンヴァス 212.8cmx229.6cmピカソ「青の時代」の作品。ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。Pablo Picasso20世紀美術における最大の巨人ピカソ。作品点数は、美術史上最多で、ギネスブックにも登録されている。その活動は・・・絵画のみにとどまらず、彫刻や陶器などの立体作品も膨大な数を残している。作品の様式が、次々と変化することでも知られており、青の時代、 バラ色の時代、 キュビスム、 新古典主義、 シュルレアリスムと、現代美術史のさまざまな流れをひとりで駆け抜けた、まさに怪物である。Pabulo Picasso『アヴィニヨンの娘たち』1907年(ヴアヴィニヨンの女たち)油彩 カンヴァス 243.9cmx233.7cmニューヨーク「近代美術館」所蔵。『アヴィニヨンの娘たち』は・・・世界初のキュビスム作品として知られている。キュビスム・・・とは?「立体主義」と訳されるが、立体を立体として描くという発想ではなく、二次元の画面に前関係を無視して、立体の要素を押し込もうとすることを意味している。『アヴィニヨンの娘たち』でも、たとえば・・・人物の顔が横向きであるのに、目は正面を向き、前後にあるはずの両耳や、顔と臀部が同時に見えている。『人生』1903年は、ピカソの「青の時代」を代表する傑作で、子供を抱く母親を、若い男女が怯えたような背線で見すえている。これは、人生の無情を寓意するもので、画題としては伝統的な「メメント・モリ(死を想え)」である。『芸人の一家』もまた青の時代の作品で、登場人物の陰鬱な表情に、人生の悲嘆が表れている。・・・初期の作品。おまけに・・・PABLO PICASSOSpanish,1881-1973Le Gournetoil on canvas,1901ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。PABLO PICASSOSpanish,1881-1973Two Youthsoil on canvas,1904ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。・・・・おまけ作品おわり・・・実験精神が旺盛なピカソは・・・常に新奇な手法に挑戦し続けた。たとえば、カメラの露出時間を長くし、ペンライトでケンタウロスの絵を描く姿が、「LIFE」誌で紹介されている。ピカソがあまりにも、さまざまな試みに先鞭をつけたため、以降の美術家たちは、新機軸を打ち出すのに苦労することとなった。Pablo Picassoピカソは・・・生涯にわたって精力的で、何歳になっても「僕ピカソだから」という必殺の口説き文句で、女子画学生をはじめ多数の女性を虜にした。まさに「英雄色を好む」である。大柄で豊満な金髪の北方形美女が好みだったというが、ピカソの節操のなさにより、多くの人が不幸になったのも事実である。そういう面でも、常人とはかけ離れた存在であった。(参考文献:GAKKEN/西洋美術を知りたいより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.24
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ピカソの後年の作品を見ていくと戦争に対する怒りを表現されるために恋人を対決させて恋人たちが泣く姿を描いています戦争というものは、ウクライナ紛争以来、一般市民が泣くという意味を実感しています。パブロ・ピカソPablo Pikassoピカソの後年は・・・キュビズムの手法をさらに突き詰め、『泣く女』などの傑作を経て、20世紀最高の傑作といわれる『ゲルニカ』が生まれる。ここにはスタイルへのこだわりよりも、痛切な感情のほとばしりが、究極の形を選びとったかのような激しさがある。白と黒だけで、戦争の悲劇の悲惨と人間の愚かさを描いた着想ひとつとっても、比類のない作品だ。Pabro Picasso(1881-1973)パブロ・ピカソ・・・とは?Pablo Picassoキュビスムの父・・・と呼ばれる1881年、スペイン・マラガに生まれる。1897年、マドリッドの王立美術学校に入学。1900年、パリに住む「青の時代」の始まり。1904年、芸術家の共同住宅「洗濯船」に住む。1907年、ジョルジュ・ブラックに出会い、 キュビスムを生み出す。1917年、ロシアバレエ団の公演に参加。 舞台制作を手掛ける。1937年、ナチスの無差別爆弾に怒り、『ゲルニカ』を制作する。1946年、南仏に移る。 共産主義に傾倒する。1973年4月8日、南仏ムージャンにて死去(享年91歳)。画家として超一流の技術を持ちながら、保守的にならず、さまざまなスタイルを超越し、創造への意欲だけを率直に表現したピカソは、まさに20世紀最高の天才だった。『アヴィニヨンの女たち』は、セザンヌの『水浴する女たち』のシリーズからインスピレーションを得て描かれた作品である。ピカソは、セザンヌを画家として尊敬し、その考え方から多くを学んだ。『アヴィニヨンの娘たち』に見られる「複数の視点から対象をとらえる」という考え方も、対象を上下左右から見て、それを同時に再現しようとしたセザンヌに学ぶところが多い。ピカソは晩年に・・・偉大な古典作品を自分なりに大胆に翻案し、それを絵画としてまとめあげた作品を残している。たとえば・・・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとに描いた『官女たち・ベラスケスによる』は、その代表作です。しかし、『アヴィニヨンの女たち』における試みは、それとは本質的に異なるものだった。「私は、 物を見たままに描くのではなく、 考えるままに描く」というピカソの言葉は、フォルムを表現するために、常識的な規則に縛られることのなかったセザンヌの姿勢と通じるものがある。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.11.23
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ピカソの初期の作品から新しい作風に変化していった時代を写真を見ながら鑑賞しましょうパブロ・ピカソPablo Picasso『アヴィニヨンの娘たち』1907年私は、物を見たままに描くのではなく、考えるままに描く。[ピカソ]パブロ・ピカソPablo Picasso1881年10月25日〜1973年4月8日(91歳没)ピカソは・・・生涯スタイルを変化させ続けた画家である。彼が残した約2万点の作品は、油彩、彫刻、陶芸、舞台衣装や舞台のセットなど多彩で、しかも頻繁にスタイルを変え、新しいジャンルを模索した。そのひとつひとつが、衝撃的で革命的だったが、彼自身は、そのどれもにも安住せず、最後まで自分の創作意欲と格闘したのである。初期において、彼は自分の人生と作品とを色彩感覚においてうまく重ねていた。寂しげで、悲しく冷たい青色が、印象的な「青の時代」、そして恋人との生活で、明るさと華やかさが表れたが、不安な影も秘めたバラ色が印象的な「バラ色の時代」。それが彼の画家としての人生のスタートだった。その後、まず彼が世間を驚かせたのは、『アヴィニョンの娘たち』である。自分が尊敬するセザンヌの作品をもとに、いくつもの視点による形態の把握と、面により、対象を分割する手法を突き詰めた物だった。『アヴィニヨンの娘たち』1907年油彩 カンヴァス 243.9cmx233.7cmアメリカ「ニューヨーク近代美術館」所蔵。ピカソは・・・敬愛するセザンヌの「水浴する女たち」のシリーズや、黒人彫刻から発想を得たとされるこの作品は、芸術のとらえ方や、常識を根本からくつがえす大きな問題作である。見たものをいかに表現するかという・・・根本的な発想が、ここにはまったく存在しない。歓楽街の5人の女性は仮面をつけ、しゃがんだ女性は、前と横から見た姿が同時に描かれている。ひとつの視点から描くという常識を超えて、この作品自体が複数のイメージを醸し出すひとつのプリズムのようだ。伝統的絵画手法は、まったく無視されたこの作品は、しかし見る者に、複数の視点からイメージをとらえるという新しい体験を提供するものだった。ピカソが「キュビスムの父」と評価されるゆえんでもある。この作品で、形をとらえて形を描くという絵画の伝統から自分を解き放ったピカソは、次に別の新しい構築を目指した。抽象ではなく、ことさら量感が強調された『大きな浴女』に見られるように、彫刻のように豊かな人間像にこだわり始める。新古典主義と呼ばれるこの時期には、ひたすら豊満な女性を描き続けた。その後、ピカソは・・・再びキュビスムに足を踏み入れる。今度は、絵の具という素材からも解放され、新聞紙や模造紙などをコラージュする手法を発見する。『藤椅子のある静物』は、その代表作である。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.11.22
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77年間上下が逆さまに展示されていて驚いたモンドリアンですが、写した写真の上下左右を度々間違えてドキッ!とする私ですこちら向きで正しいのでしょうかNew York City分量と色彩が異なっていながらも、それらは同等の価値を持つべきである。[モンドリアン]ピエト・モンドリアン(ピート・モンドリアン)Piet Mondrian1872年3月7日〜1944年2月1日(71歳没)19世紀から20世紀のオランダ出身の画家。本格的な抽象絵画を最初期に描いた画家のひとり。ピエト・モンドリアンPiet MondrianDutch,1872-1921Composition in Red,Blue,and Yellw(1937-42)oil on canvasMOMA「ニューヨーク近代美術館」所蔵。対象に対して主観的になったり、感傷を抱くことを考えたモンドリアンは、カンヴァスから、それらのものをいっさい排除した。あるがままの形を追求するからこそ、そこに人間の感情の入り込む余地が生まれる。ピエト・モンドリアンPiet MondrianDutch,1872-1921Composition NoII,with Red and Blue(1929)oil on canvasMOMA「ニューヨーク近代美術館」所蔵。そこで彼は、徹底的に形を消し、代わりに、より普遍的な表現法を模索した。その結果彼が発見したのは、自然の基本的な要素、つまり水平線と垂直線、そして黒、白、グレーという3つの色彩により、世界を描くという斬新な技法だった。ピエト・モンドリアンPiet MondrianDutch,1872-1921Tableau;Lozenge with Four Lines and Gray(1926)oil on canvasMOMA「ニューヨーク近代美術館」所蔵。彼の作品は、黒い線によって区切られた色面に特徴があるが、線はけっして画面を分割するために弾かれるのではなく、むしろ色彩と面とが自由な発想によって見る者のイメージの中で、自在に浮遊するためのものである。つまり彼の作品は・・・完結したひとつの小宇宙ではなく、無限の広がりを見せる柔軟なイメージの遊戯なのである。ピエト・モンドリアンPiet MondrianDutch,1872-1921Composition with Red,Blue,Yellow,and Gray(1921)oil on canvasMOMA「ニューヨーク近代美術館」所蔵。赤、青、黄、および灰色の色彩によって抽象的な画面を作るという理念に到達したモンドリアン。彼は・・・芸術を「空間決定」のための行為だとした。それはつまり、色彩や形が何かを意味するためにあるのではなく、それ自体で存在すること、それ自体の意味によって存在していることを意味する。そこでは・・・白い空間、黒い線、そして赤、黄、青、灰色の色彩が、何かを意味したり、暗示したりするために描かれているのではなく、全てそれだけのものとして存在している。ピエト・モンドリアンPiet MondrianDutch,1872-1921Broadway Boogie Woogie(1942-43)oil on canvasMOMA「ニューヨーク近代美術館」所蔵。【モンドリアンのざっくり年譜】1872年3月7日、オランダ・アムステルダム近郊で生まれる。1892年、アムステルダムの芸術アカデミーに学ぶ。1908年、マティスの作品に衝撃を受ける。1910年、パリに出てキュビスムに接する。1917年、オランダで「デ・ステイル」を結成。1920年、パリで新造形主義を提唱。1938年、ロンドンに移る。1940年、ニューヨークに移る。1944年2月1日、ニューヨークにて死去(享年71歳)。PIET MONDRIAANAmersfoort 1872-NewYork 1944Kröller Müller Museum EXPO=4Compositi met raster 6:rut,Composite met kleuren(1919)オランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。「デ・ステイル」・・・とは?モンドリアンは、キュビスムに影響を受け、1917年に雑誌「デ・ステイル」の創刊に参加する。「デ・ステイル」は、通常の芸術家の共通性、普遍性への関心を持って、建築家なども参加しており、モンドリアンの「新造形主義」の考えに主導されていた。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.11.21
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アンリ・マティスの大作「音楽」は、まるで小学校の音楽室を思い出してしまいますねアンリ・マティスHenri Matisse 『音楽』1910年油彩 カンヴァス 260.0cmx389.0cmサンクト・ペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。新しい色が結合したとき、私の表現のすべてが与えられる。[マティス]アンリ・マティスHenri Matisse1869年12月31日〜1954年11月3日(84歳没)フランスの画家・版画・彫刻・ドローイング・コラージュ。フォーヴィスム(野獣派)のリーダー、モダニズム。「色彩の魔術師」と呼ばれた。鮮やかな色彩と明快な形態とが、絶妙なバランスで調和し、静寂の心地良さを感じさせるのが、マティスの芸術である。初期の頃は、大胆な筆使いと、強烈な色彩の対比が、むしろ挑戦的に受け取られ、フォービィスム(野獣派)と揶揄された。しかし彼は、あくまでも一貫して色彩に興味を持ち、色彩をどのような形態で配置すれば、カンヴァスの上に、新たな光の空間を生み出すことができるかを探ることに精力をかたむけた。「野蛮だ」といわれた画風は、すぐに影をひそめ、マティス芸術の最大の特徴である穏やかな調和を漂わせる作品を生み出すようになる。『音楽』は・・・・有名な『ダンス』と対で描かれた作品です『ダンス』が、躍動的なのに対して、この『音楽』は、静的である。左の人物がト音記号、残りの4人は・・・五線譜の上の音符を表すと考えられる単純化された形態、そして色彩も、人物の赤、背景の青と緑というように、徹底的に単純化され、それだけに画面上での調和が見事であるもちろん、人物の配置も、綿密に計算しつくされ、これ以外には考えられない。まさにマティスらしさに満ちた作品である。【マティスのざっくり年譜&代表作】1869年12月31日、北フランスの ル・カトー・カンブレジに生まれる。1891年、パリでアカデミー・ジュリアに入学。1905年、『豪奢、静寂、そして逸楽』を アンデパンダン展に出品。「フォーヴ」と呼ばれる。1911年、ロシアに招待旅行、 続いてモロッコに旅行する。1909年、『ダンス』『音楽』の制作を開始する。 1922年、『オダリスク』の連作を制作。1948年、ヴァンスのロザリオ礼拝堂の制作を開始。1954年11月3日、ニース郊外にて死去(84歳没)。晩年は、切り絵制作滑らかな曲線で囲まれた色彩が、計算しつくされた配置で構成され、音楽的とさえいわれるきわめて装飾的な作品を数多く制作した時期を経て、後年は、とくに黒を効果的に用いた抽象的な作風へと移っていく。単純化された色面の構成と形態を追求する姿勢は、晩年には、切り絵を用いた斬新なスタイルを生み出し、コラージュを用いた表現へとたどり着く。(参考文献:東京美術/西洋絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.11.20
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ダリと言えば溶けた時計と死んだような不思議な生物?そんな不思議な世界を思い出してしまいますサルヴァドール・ダリSalvador Dali『記憶の固執』1931年油彩 カンヴァス 24,1cmx33.0cmニューヨーク「近代美術館」所蔵。妄想とは罪ではなく、幸福を得る最良の手段である。[ダリ]ダリの『記憶の固執』・・・とは?この作品の実物を見ると、あまりの小ささに驚くはずA4版よりひとまわり大きい程度の両面に、細密な描写で再現された、リアルだけれども、・・・不思議な世界。それは、題名どおり、ダリの無意識に刷り込まれ、夢やふとした瞬間に、繰り返し甦ってくる記憶です。舞台は・・・彼が何度も描いた故郷の砂浜。魚か?胎児にも見える肌色の物体は、ダリのお得意の「やわらかい自画像」で、眠る横顔になっています。さらに物にたかるアリやハエなど、定番アイテムが並ぶ中、この作品を特徴づけているのが、ぐにゃりと溶けた時計でしょう。ダリと言えば・・・溶けた時計というほど有名なこのモティーフは、カマンベルチーズを食べている時に思いついたとか・・・?アインシュタインの相対性理論が提示した「時間のゆがみ」という概念を視覚化し、長さや前後関係がぐちゃぐちゃにゆがんで、入り乱れる夢や記憶の時間を表現したと言われます。サルヴァドール・ダリSalvador Dali1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)スペイン・フィゲラス出身の画家・デザイナー。【サルヴァドール・ダリのプロフィール】流派=シュルレアリスム(リアリスト的シュール)得意なモティーフ=ガラ、時計、アリ、漁村。尊敬する芸術家=基本は「自分が一番」だが、 フェルメールのことは絶賛。 ルネサンス絵画も研究。家族・恋愛=ガラひとすじ。 ただ、見出し歌手になったマンダ・リアは別格で、 どんなパーティーにも連れて歩いたという。活動=ルイス・ブニエルの 『アンダルシアの犬』で脚本と美術、 ヒッチコックの 『白い恐怖』でも、美術を担当。 宝石や香水や、ぺろぺろする チュッパチャプスのデザインまで、 手広く活躍しました。うわさ=過激なパフォーマンスと強気の発言は、 自信のなさの裏返し。 繊細で潔癖症でナルシスト。 こんなややこしい性格の子を 手玉に取れたガラさんは、 やはりすごい女性です 【ダリのざっくり年譜】1904年5月11日、スペイン・カタルーニャ地方の フィゲラスに生まれる。1921年、マドリッドの国立美術学校に入学。1925年、バルセロナの画廊で初めての個展を開催。1929年、詩人:エリュアールの妻:ガラと暮らし始める。1934年、ガラと結婚。1940年、ニューヨークへ渡る。1941年、ニューヨーク近代美術館などで大回顧展。1948年、スペインに帰国。ポルト・リガトで暮らす。1974年、フィゲラスの古い劇場を改装し、 ダリ美術館として開館。1989年1月23日、フィゲラスの病院で死去(享年84歳)。夢の中の光景が・・・現実以上にリアルに感じられることがあります。シュルレアリスムとは・・・非現実ではなく、そのような超現実感を追求する芸術です。フロイトの精神分析に影響され、理性や常識に抑圧された記憶や妄想を描き出すことで人間の内面を探ろうと、詩人:ブルトンらが提唱。ダリは、画風に迷っていた21歳の時に、この運動に出会って開眼し、一躍、シュルレアリスム絵画の旗手として注目を集めます。のちに政治色を強めたブルトンによって、仲間から除名されますが、ダリこそが、シュルレアリスムを体現する画家であったことは、誰の目にも明らかであります。サルヴァドール・ダリを分析すると・・・トレードマークの髭や、数々の奇行と傲慢な「オレ様発言」から、自信たっぷりの大芸術家と思いきや、素顔のダリは、むしろ逆。病死した兄の身代わりとして、育てられた幼少期がトラウマとなって、自信が持てず、極度の女性恐怖症。「柔らかい自画像」や、「溶ける時計」は、性的不能への恐怖の表れともいわれています。そんな彼に自信を与えてくれたのが、シュルレアリスムという方法と、ガラという女性でした。詩人:エリュアールの妻だったガラは、ダリと出会って即座に乗り換え、公私にわたって彼をサポート。正確には、ダリを完全に尻に敷き、ガンガン描かせて稼いだお金で若い恋人を囲ったりして・・・。傍から見れば、悪妻でも、ダリにとっては・・・生涯の美神。彼の芸術活動は、ガラに出会った時から始まり、彼女の死とともに終わります。(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.19
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カンディンスキーは宇宙的?図形を組み合わせたように見える抽象絵画を理解したいヴァシリー・W・カンディンスキーWassily w.Kandinsky芸術は、宇宙の法則と結びつき、またそれに従っている場合にのみ、偉大なものとなり得るのです。[カンディンスキー]ワシリー・カンディンスキーWassily Kandinsky1866年12月4日〜1944年12月13日(78歳没)ロシア出身の画家・理論家。抽象絵画の創始者。ドイツ・フランスでも活躍。【カンディンスキーのプロフィール】流派=抽象主義(表現主義経由)得意なモティーフ=音楽的絵画。幾何学的絵画。尊敬する芸術家=画家への道を開いてくれたのはモネ。 シューンベルクの前衛音楽は「印象」シリーズの生みの親。 クレーは、無二の親友。家族&恋愛=最初の妻を捨ててまで愛した ミューターとは戦争で涙の生き別れ、でも ロシアに帰国して数年後にちゃっかり別の女性と結婚。戦争と苦悩=晩年は、クレーと同様、 ナチスに退廃芸術の烙印を押され、フランスへ。 作品は、アメリカで人気があり、 米政府に亡命を勧められましたが、 ナチス占領下のフランスに残りました。うわさ話=絵も文章も難解な理論派ですが、 思い切りがよく行動力も抜群! 女流画家:ガブリエル・ミュンターとの 不倫愛などのうわさ話も知られている。形態で一番大切なものは、その形態が「内的必然性」から生まれたかどうかだ。[カンディンスキー]【カンディンスキーのざっくり年譜】1866年12月4日、ロシアのモスクワで 裕福な茶商人の息子として生まれる。1886年、モスクワ大学で法学と経済学を学び始める。1893年、モスクワ大学講師に就任。1901年、前衛画家集団「フォーランクス」を結成。1902年、女流画家:ガブリエル・ミュンターと出会い恋人に。1911年、マルクとともに「青騎士」結成。 [コンポジション]シリーズ制作開始。1914年、第一次世界大戦勃発。モスクワに戻る。1918年、革命政府の「造形芸術局」委員に。 ロトチェンコら構成主義者と交流。1922年、ドイツのワイマールに移り、バウハウスの教授となる。1933年、フランスに亡命。1944年12月13日、パリ郊外のヌイイ・シュル・セーヌで死去(享年78歳)Vassily KandinskySmall Pleasures(Kleine Freuden)June 1913Oil on canvasSolomon R.guggenheim Museum,New TorkSolomon R.Guggenheim Founding Collection 43.921「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」所蔵。抽象絵画・・・とは?『コンポジションIII』1923年これが、抽象絵画です。ピカソやマティスは、色と形を自由に変えながらも、人や景色など具体的な「何か」を描きました。けれども、カンディンスキーのこの作品には、そのような「何か」がありません題名どおりの、色と形の『構成物』。そこから読み取れるのは、組み合わせの面白さやリズム感、楽しそうな印象といった、目に見えない理論や感覚だけです。ちなみに、カンディンスキー自身はこの作品で、静と動、収縮と拡散といった「対立を統合する円」を表現したかったようですが。このように、具体的な対象を描かない絵画のことを、一般に抽象絵画と呼んでいます。Vassily KandinskySeveral Circles(Einige Kreise)Januari-February 1926Oil on canvas「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」所蔵。『抽象絵画の父』カンディンスキー・・・とは?もっとわかりやすくロシアの名門モスクワ大学を出て、法学部の助手をしていましたが、1896年「フランス絵画展」が開かれたモスクワで、モネの『積みわら』を観て感激し、画家になることを決意。ドイツのミュンヘンに出て、象徴主義の巨匠:シュトウックに学び、マルクらと共に表現主義グループ「青騎士」を結成します。最初は、具体的な対象に自分の内面を投影した写実的ともいえる画風でしたが、次第に色と形が現実から離れ、自由に暴れ出すように1919年頃からは、「印象」、「即興」、「構成」と題した連作で、抽象表現へと向かいます。さらに、第一次世界大戦でロシアに帰国し、幾何学的な構成を重視する「構成主義」に接することで、具体的な対象を完全に捨てた抽象絵画を確立する。Vassily KandinskyCircles on Black(Krugi na Chyornom)1921Oil on canvasSolomon R.Guggenheim Museum.New YorkSolomon R.Guggenheim Founding Collection 46.1050「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」所蔵。1922年には・・・バウハウスに教授として招かれて、ドイツに戻り、理論と実践の画面から抽象絵画を極めていきました。Vassily KandinskyVarious ActionsAugust-September 1941Oil and enamel on canvas「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」所蔵。カンディンスキーとクレーの共通点とは?カンディンスキーとクレーには、他国からミュンヘンに来て、シュトゥックの教えを受け、「青騎士」で、活躍し、バウハウスで教えたという以外にも、大きな共通点がありました。それは、音楽の才能ですカンディンスキーは・・・ピアノとチェロの英才教育を受けていますし、クレーは・・・音楽教師の子息でヴァイオリンの名手。音楽という目に見えないものを絵画で表現しようとしたことが、2人が抽象的な手法へと向かうきっかけにもなりました。カンディンスキーの方が、より純粋な抽象に到達したのは、ロシア人だったからでしょう。当時、ロシアは、西欧より文化が遅れていた分、逆に伝統に縛られず、極端な近代化を進めていました。ロシア構成主義のモダニズムは、抽象絵画だけでなく、ドイツのバウハウスやフランスのアール・デコなど、近代デザインにも大きな影響を与えています。(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.18
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パウル・クレーは、元祖イクメンで主夫だったそうですよ〜子育てから得た絵画も見てみましょうPul Klee(1879-1940)KN der Schmied,1922[KN le forgeron]Huile,aquarelle et plume sur gaze collée sun cartonパリ「ポンピドゥー・センター(近代美術館)」所蔵。子どものように・・・無垢な眼差しでとらえた形と色彩。パウル・クレーPaul Klee1879年12月18日〜1940年6月29日(60歳没)20世紀のスイスの画家・美術理論家。スイス生まれのクレーは、父親の祖国ドイツのミュンヘンで、象徴主義の巨匠:シュトゥックに師事。同門のカンディンスキーらが結成した表現主義グループ「青騎士」に加わります。売れない時代は、ピアノ教師として家計を支えた妻に代わって「主夫」となり、家事や子育てに奮闘しました。1914年には、北アフリカのチュニジアに旅行し、色彩に開眼。1921年には、美術工芸学校「バウハウス」の教授に迎えられ、暮らしも安定してきます。ところが、1930年代に入ると、ナチスが台頭。クレーは、「退廃芸術家」の烙印を押されて職を追われ、スイスに帰国。皮膚層硬化症で手が自由に動かなくなる悲運にも見舞われました。代表作『セネシオ』1922年は・・・彼が公私ともにもっとも充実していた時期に描いた作品です。その激動の60年間を追ってみましょう【パウル・クレー60年激動の生涯】【幼少期】1879年12月18日(0歳)スイスの首都ベルン近郊の町 ミュンヘンブーフゼーで生まれる。 父ハンスは、北バイエルンのタン生まれのドイツ人で、 母イーダは、フランスのブザンソン出身のスイス人。1880年(1歳)一家はベルンへ居を移す。1883年(3歳)母方の祖母アンナ・フリックの手ほどきで絵に親しむ。1886年(6歳)ベルンの小学校に入学する。 ヴァイオリンを習い始め、ベルン音楽協会の 定期演奏会に出演するほどまでに上達する。1890年(10歳)ベルンの初級高等学校に入学。 ベルン市管弦楽団の非常勤団員となる。1892年(12歳)この年から1898年までに 9冊のスケッチブックを残す。1897年4月(17歳)オープストベルク通り6番地に引っ越す。 クレーの父ハンスが亡くなるまで暮らすこの家は、 クレーがのちにしばしば戻ってくる実家となる。【修行時代】1898年4月24日(18歳)1918年まで続く日記をつけ始める。 10月13日、ミュンヘンに出てる。 美術学校(アカデミー)への入学は認められなかったが、 美術学校長の勤めにより、ハインリヒ・クニルの画塾に入る。1899年7月(19歳)画塾の仲間とザルツブルグの ブルクハウゼンに滞在し、銅版画の技術を学ぶ。 12月、のちの妻となるリリー・シュトゥンブフと 音楽の共演を通じて知り合う。1900年10月(20歳)ミュンヘン美術学校に入学。 フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受ける。 美術学校と並行して、クニルの画塾でデッサンの勉強も続ける。1901年5月(21歳)アカデミックな美術教育に馴染めず、 シュトゥックの教室を出る。この頃から、 銅版画の制作に勤しむようになる。 6月、リリーと密かに婚約。 10月、画塾の友人と6ヶ月間イタリア旅行に出掛ける。1902年(22歳)ローマからナポリ、フィレンツェ、ミラノなど周り 5月、ベルンへ帰郷。 10月、ベルン音楽協会の非常勤ヴァイオリン奏者となり、 1年間、定期演奏会に参加する。 11月、解剖学の講義に通い始める。1905年5月〜6月(25歳)友人のプレッシュと ルイ・モワイエとともにパリに旅行。1906年7月(26歳)銅版画連作「イヴェンション」を ミュンヘン分離派の展覧会に出品。 9月15日、ベルンからミュンヘンに出て、 ピアニストのリリーと結婚する。1907年11月30日(27歳)長男:フェリックス誕生。1910年8月(30歳)スイスで初の個展開催。 画家で小説家でもあったアルフレート・クビーンと知り合う。【画家の誕生】1911年2月(31歳)作品の目録を作り始める。 9月、友人モワイエの紹介で アウグスト・マッケと カンディンスキーと知り合う。 1912年2月(32歳)青騎士の展覧会に デッサンと水彩画を17点を出品。 4月、リリーを同伴したパリ旅行で、 ドローネーのアトリエ訪問。 マルクと知り合う。KLEE PaulMÜ nchenbuchsee,1879-Muralto,1940Vista a una plaza(1912)View on to a Square Técnica mixta sobre papelマドリッド「ティッセン・ボルネミッサ美術館」所蔵。1912年2月(32歳)青騎士の展覧会に デッサンと水彩17点を出品。 4月、リリーを同伴したパリ旅行で、 ドローネーのアトリエを訪問。 この年、マルクと知り合う。 1914年(34歳)ミュンヘン新分離派のメンバーとなる。 4月6日、モワイエ、マッケとともにチュニジア旅行へ。 4月20日、イタリアのバレルモを経て、 ナポリとローマまで一人旅。 4月22日、ベルンに戻る。1916年(36歳)3月4日、第一次世界大戦でマルクが戦死。 3月11日、クレーがドイツ軍に召集される。1917年(37歳)ミュンヘン近郊のシュライスハイムで、 飛行機輸送の任務に就いていたクレーは、 1月15日、ゲルストホーフェンの国立空軍調練校に 配置換えになり、会計書記官になる。 3月、シュトゥルム美術学校の教師陣に名を連ねる。1918年3月20日(38歳)上等兵になる。 1897年以来続けていた日記を12月16日付で終了する。 クリスマス前に休暇をとる。1919年(39歳)兵役解除となる。 10月、ミュンヘンのゴルツ画廊と契約を結ぶ。【クレーの黄金時代】バウハウス時代1920年5月〜6月(40歳)ミュンヘンのゴルツ画廊で大回顧展が開かれる。 10月、ヴァイマール・バウハウスに教授として招かれる。KLEE PaulMÜ nchenbuchsee,1879-Muralto,1940Cusa giratoria(1921)Revolving HouseGouache sobre estopilla adherida a papelマドリッド「ティッセン・ボルネミッサ美術館」所蔵。1921年1月(41歳)バウハウスでの授業を開始。 3月、母イーダが死去。 10月、息子フェリックスがバウハウスに入学。1924年夏(44歳)シチリア島へ旅行する。12月、ヴェイマール・バウハウスが閉鎖される。1925年3月(45歳)デッサウ市がバウハウスの受け入れを決定。 10月、クレーの「教育スケッチブック」刊行。 11月、パリの画廊で開催された「シュルレアリスト展」に、 デ・キリコやピカソらとともに、クレーの作品が展示される。Paul KleeGerman,born Switzrlnd.1879-1940Around the Fish,1926oil and tempera on canvas mounted on cardboardニューヨーク「近代美術館」所蔵。1926年7月(46歳)デッサウに移る。 バウハウスの経営悪化を受け、10%の減給が提案され、 5%で決着。年棒7000マルク。Pul Klee(1879-1940)Florentinisches Villen Viertel,1926[Villas Florntines]Huile sur cartonパリ「ポンピドゥー・センター(近代美術館)」所蔵。1928年夏(48歳)リリーとともに 北フランスのブルターニュ地方に旅行。Paul KleeGerman,born Switzrlnd.1879-1940Cat and Bird,1928oil and ink on gessaed canvas,mountedon woodニューヨーク「近代美術館」MOMA12月17日から、翌年の1月17日まで、 エジプトに旅行。Pul Klee(1879-1940)Pfeil im Carten,1929[Fléche dans le jardin]Huile et tempera sur toile de lirパリ「ポンピドゥー・センター(近代美術館)」所蔵。1929年夏(49歳)フランスとスペイン地方に旅行。 この年から作品を完成度に従って 8段階の価格に分離するようになる。Paul KleeGerman,born Switzrlnd.1879-1940Fire in Evening,1929oil on cardboardニューヨーク「近代美術館」MOMA1930年3月〜4月(50歳)前年にベルリンで行われた個展が、 ニューヨーク近代美術館に巡回。 6月、デュッセルドルフの美術アカデミーから教授として招かれる。1931年4月(51歳)バウハウスを辞任。その後、 デュッセルドルフ美術学校の教授に就任。【戦争と病に翻弄されるクレー】1933年4月(53歳)美術アカデミーを突然、解雇される。 デッサウの留守宅がナチスによって家宅捜査を受ける。 12月、ナチスの迫害を逃れ、一家でスイスに亡命。1934年(54歳)ロンドンのメイヤー画廊で、英国初の個展開催。「パウル・クレー、素描1921-1930」(グローマン著)が ナチスに差し押さえられる。1935年2月23日(55歳)から約1ヶ月間、 ベルンで273点を展覧する大規模な個展開催。 11月、皮膚硬化症の兆候が出始める。1936年(56歳)皮膚硬化症の症状が悪化。 スイスのタラスプやモンターナで療養する。1937年(57歳)カンディンスキーの最後の訪問。 11月28日には、ピカソも訪れる。1938年(58歳)パリで開催された国際シュルレアリスム展に出品。 夏の期間、静養を兼ねてベアテンブルクで過ごす。1939年4月(59歳)ブラックが訪問する。1940年(60歳)1月12日、父ハンスが死去。 2月16日〜3月25日まで、60歳の誕生日を記念して チューリヒで213点を展覧する回顧展が開催される。 6月29日、心筋炎による心臓麻痺のためスイス、 ロカルノ・ムラルトのサンタニューゼ療養院にて死去(享年60歳)。 7月15日、1年以上前から申請していたスイスの市民権が与えられる。Paul KleeGerman,born Switzrlnd.1879-1940Fir in the Evening,1929oil on cardboardニューヨーク「近代美術館」MOMA(MOMA館内解説文)A red opaque rectangle stands out among bands ofmuted browns,greens,violets,and blues,whichdynamically interact to suggest built structures orgeographic formations.Klee's trip to Egypt in thewinter of 1928-29 inspired a number of striatedcompositions, a response in part to the stratifiedcliffs of the Nile Valley and the long strips of tilledfields he saw thre.These works"moved far fromNature," he said, "and found their way back to reality."While the work is apparently abstract,the variationwithin the simple formal palette of line and colorconstructs depth and space and even evokes a fireaflame in a desert at day's end.クレーは、何故ナチスに追われたのか?クレーはスイスで生まれ育ちましたが、人種も言葉も国籍も、本人の意識もドイツ人。絵画を学んだのも、最初の活動拠点もミュンヘンですし、第一次世界大戦にも、ドイツ兵として従軍しています。なのに、ナチスに「親ユダヤの共産主義者」と決めつけられたのは、思想も画風も進歩的だったから・・・。ナチスの総統ヒトラーは・・・若い頃に画家を志したものの、古い写実的な風景画しか描けず、ユダヤ人の画商に頭を下げて買い取ってもらっていました。その苦い体験からか、抽象的な近代美術を毛嫌いし、「病んだ脳が生む退廃した芸術』として、弾圧したのです。公職を追われ、故郷に逃れたクレーですが、ナチスとの摩擦を怖れたスイス政府は、彼に国籍を与えませんでした。彼の晩年の作品が、無邪気さの中にも透明な悲しみをたたえているのは、病魔のせいだけではないでしょう。クレーが望んだ、スイスの国籍を得られたのは、死後のことだったのです(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(参考文献:東京美術/パウル・クレーより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.17
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クレーは、絵画に詩、ヴァイオリンはプロ級だったそうですが多くの才能を持った彼が羨ましいですPaul KleeGerman,born Switzrlnd.1879-1940Fir in the Evening,1929芸術の本質は、見えるものを再現するのではなく、見えるようにすることです。[クレー]パウル・クレーPaul Klee1879年12月18日〜1940年6月29日(60歳没)20世紀のスイスの画家・美術理論家。【パウル・クレーのプロフィール】流派=表現主義、シュルレアリスム、 抽象主義などを吸収した独自の流派。得意なモティーフ=ファンタジーに満ちた 天使や動植物、人物。音楽尊敬する芸術家=もっとも親交の深かった画家は、 カンディンスキー。マッケ、マルクとも「青騎士」で共に活動した。家族・子供=妻:リリーは、 演奏会で出会ったミュンヘンの医者の娘。 リリーの父親は、 売れない画家クレーとの結婚を認めなかった。 当時としては珍しく主夫業に専念し、 息子の成長もマメにつけたいた満点パパ。 家事の負担が大きすぎると 愚痴をこぼしたこともある。エピソード=7歳から始めたヴァイオリンの腕前は抜群で、 11歳でベルリン交響楽団の一員になったほど。 詩の才能にも恵まれ、進路に迷うも、 いちばん惹かれた絵の道に進みました。Around the Fish,1926【パウル・クレーの年譜】1879年12月18日、スイス・ベルン近郊の町 ミュンヘンブーフゼーで生まれる。父は、音楽教師。 母は、フランス生まれの声楽家(スイス国籍)1898年、ミュンヘンに出て、画塾で絵の勉強を始める。1900年、ミュンヘン美術学校に入学。 フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受ける。1906年、ピアニストのリリーと結婚。1907年、長男:フェリックス誕生。1916年、第一次世界大戦でドイツ軍に徴兵される。1921年、バウハウスの教授となる(33年、解雇)1930年、ニューヨーク近代美術館で個展。1931年、デュッセルドルフ美術学校の教授になる(33年、解雇)1940年6月29日、療養先の スイス、ロカルノ・ムラルトの病床で死去(享年60歳)【代表作】『セネシオ(野菊)』セネシオはラテン語で、キク科キオン属の植物を総称する学名。その丸い花を擬人化したような、この作品。よく見ると、古い西洋絵画にはない近代美術のエッセンスが詰まっています。奥行きのない平面性、円や正方形といった単純な幾何学図形による構成、現実に縛られない自由な色彩、カンヴァスの織りムラや絵具の塗りムラの質感を活かした「画肌」など・・・。けれども、そんな高度な技法や計算など少しも感じさせず、あくまでシンプルでピュアな印象。まるで子どもが描いた絵のようです。Paul KleeGerman,born Switzrlnd.1879-1940Cat and Bird,1928クレーは・・・さまざまな近代美術から、吸収した技法を、子育てを通じて学んだ無垢な眼差しと、チュニジュア旅行で開眼した色彩感覚によって統合し、独自の画風を築いた画家でした。(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.16
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シャガールはロシアからフランスへ亡命し、アメリカへと逃れます。最近の世界情勢を見ていると人ごとではないと思うのであります。やはり戦争の影が・・・。Marc Chagallロシア帝国もソヴィエト・ロシアも私を必要としていないのです。私は、彼らに理解されない異邦人なのです。[シャガール]シャガールとは・・・どんな人?マルク・シャガールMarc Chagall1887年7月7日〜1985年3月28日(97歳没)20世紀ロシア(現:ベラルーシ共和国ヴィテブスク) 出身のフランスの画家。シャガールは「愛の画家」と呼ばれる【シャガールのプロフィール】流派=エコール・ド・パリ得意なモティーフ=故郷のヴィテブスクと妻のベラの思い出。尊敬する芸術家=エル・グレコ、レンブラント、セザンヌ。家族=2人目の妻は、シャガールが65歳の時に出会った 18歳年下のロシア女性:ヴァヴァ。 その後33年間、連れ添った。淋しがり=永遠にベラを思い続けながら、 65歳で再婚したのはともかく、 ベラの死の直後にも 家政婦さんに手をつけたとの噂には感心しません。 淋しかったのでしょう。エピソード=シャガールが再び故郷の土を踏んだのは、 最初にフランスに亡命してから、 50年後の1973年(当時86歳)。 ソヴィエト文化大臣の招待だったが、 変わり果てた故郷ヴィテブスクは訪れず。【シャガールのザックリ年譜】1887年7月7日、帝政ロシアのユダヤ人居住地区に生まれる。 父は、ニシン倉庫の労働者。1907年、サンクトペテルブルクの美術学校入学。1910年、パリに出る。1912年、モンパルナスの共同下宿兼アトリエ「蜂の巣(ラ・リュッシュ)」に移る。CHAGALL,MARCVitebsk,1887-St.Paul-de-Vence,1985Des nudo(Nnde)19131914年、ヴィテブスクに戻る。1915年、ベラ・ローゼンフェルトと結婚。1923年、妻子とともにフランスに亡命。 画商:ヴォラールと契約を結ぶ。1940年、ドイツ軍がフランスを占領。1941年、ユダヤ人迫害を逃れ、ニューヨークに亡命。1952年、ヴァレンティーナ(通称:ヴァヴァ)と再婚。1973年、ニースにシャガール美術館開館。1985年3月28日、南仏サン・ポール・ド・ヴァンスの 自宅で死去(97歳)。『誕生日』1923年喜びのあまり宙を舞い、恋人にキスしているのは、シャガール自身です。彼は22歳の時、故郷の町でベラという美少女に一目惚れけれども、彼女はまだ13歳で、町一番の富豪の娘でした。しがない画学生だったシャガールは、パリに出て修行。ベルリンで個展を成功させた1914年、故郷に凱旋して、ベラに求婚しました翌年の7月7日、数週間後に結婚式を控えた、シャガール28歳の誕生日。ベラは彼が留守の間におめかしをして花を摘み揚げた魚とお菓子を用意してアトリエを飾り付け、彼を驚かせます。感激したシャガールは、花を花瓶に活けようとする彼女にキスをすると、すぐさまカンヴァスに向かって絵筆を取りました。そして、彼の人生でもっとも幸福な時間となる瞬間を、色彩豊かに描き留めたのでした。直後から、2人の運命は急転します。第一次世界大戦とロシア革命が勃発し、シャガールは妻子を連れてパリに亡命。そこでも安息は続きません。今度は、第二次世界大戦が始まり、彼の作品を「ユダヤ人の退廃芸術」として燃やしたナチス・ドイツがフランスに侵攻。夫婦は、1941年にニューヨークへと亡命しますが、その3年後には、ベラが病気で急逝してしまうのですシャガールは、ショックで1年近く絵筆を持てなくなったといいます。大戦後、失意のうちにフランスに戻った流浪の画家は、ようやく南仏のヴァンスに定住。97歳で亡くなるまで、失われた故郷と愛妻の思い出を、カンヴァスに蘇らせようとするかのように、何度も描き続けたのです。Marc ChagallFrench,born Belarus.1887-1985I and the Village(1911)oil on canvas. NY-MOMA.Mrs.Simon Guggenheim Fund,1945『私と村』1911年1921.1cmx151.4cmニューヨーク「近代美術館」所蔵。(MOMA館内説明文)Painted the year after Chagall came to Paris,I and the Village evokes his memories of his native Hasidic community outside Vitebsk.In the village,peasants and animals lived side by side,in a mutual dependence here signified by the line peasant to cow,connecting their eyes.The peasant's flowering sprig,symbolically a tree of life,is the reward of their partnership.For Hasids,animals are also humanitu's link to the universe,and the painting's large circular forms suggest the orbiting sun,moon(in eclipse at the lower left),and earth.The geometries of I and the Village are inspiredby the broken planet of Cubism,but Chagall's is a personalized version."For the Cubists,"Chagall said,"a painting was a surface covered with fors in a certain order.For me a painting is a surface covered with representions of things・・・in which logic and illustration have no importance."Marc Chagall(1887-1985)A la Russie,aux ânes et auxautrs,1911パリ「ポンンピドゥー・センター」所蔵。シャガールの故郷ヴィテブスクは、今のベラルーシ共和国にあり、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』に出てくるような東欧のユダヤ人共同体でした。CHAGALL,MARCVitebsk,1887-St.Paul-de-Vence,1985La casa in Grey(1917)そのため、第二次世界大戦では、ドイツ軍が徹底的に破壊。記憶を共有してきた妻にも先立たれシャガールの故郷は、彼自身の思い出と作品の中にしか存在しな具なってしまいます。2人を待ち受ける運命の厳しさを知ってから『誕生日』を見直すとささやかな幸福がこの上なく尊く美しいものに思えてきて、涙がこぼれます(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.15
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ルソーの絵画を見ていると自然に微笑んでしまうのです〜素朴派に分類されてはいますが彼自身は古典を重んじ真面目描いているのですアンリ・ルソーHenri Rousseau『眠るジプシー女』1897年知らない国の風変わりな植物を見る時、私は、夢の国へいくような気がします。[ルソー]アンリ・ルソーHenri Rousseau1844年5月21日〜1910年9月2日(66歳没)Henri Julien Félix Rousseauアンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの「素朴派」の画家。【アンリ・ルソーのプロフィール】流派=素朴派(ただし本人に自覚なし)得意なモティーフ=肖像画・空想の中のジャングル尊敬する芸術家=古典的な画家:ジェロームを 一方的にリスペクト。本人いわく、 助言をもらいに会いに行ったことがあるらしい。家族・恋愛=意外と惚れっぽく、二度の結婚。 未亡人に恋をし、求婚するが拒否された。行動=天然?純粋とは限らず、 兵役で中南米に行ったと偽って、 ジャングルの絵を描いたり、 手形詐欺で捕まったりと、 妙な虚言癖があるのが困りもの。エピソード=どんな酷評でも、自分に関する新聞記事は、 喜んでスクラップしていました。 秘密結社フリーメイソンの会員だったともいわれています。【アンリ・ルソーの年譜】1884年5月21日、フランス西北部ラヴァル生まれ。 父は、板金工。母は、軍人の娘。1863年、法律事務所に勤務中、金を盗み、 1ヶ月の禁固刑。出所後は、軍隊に入隊。1869年、クレマンスと結婚。1871年、パリ市入市税関に務める(1893年、退職)。1884年、この頃から本格的に絵を描き始める。1899年、ジョセフィーヌと結婚。1907年、銀行詐欺事件に巻き込まれ、有罪判決。1908年、個展を開く(客はわずか)。 ピカソのアトリエで、ルソーを讃える夕べが開かれる。1909年、手形詐欺事件に巻き込まれ、有罪判決。1910年9月2日、パリで死去。享年66歳。ルソーがまだ税関に勤めていた46歳の時の作品。セーヌ川畔の風景を背にして立つ自画像で、前年のパリ万博に完成したエッフェル塔や、それを祝う気球が描かれています。でもこの作品、見ればみるほ変なのです遠近法はでたらめで、背景の人々や船と比べると、ルソーは、驚くほど巨大足は宙に浮いていて、パレットの持ち方も不自然です。雲の形や、空との前後関係もおかしいなど、ツッコミ始めればキリがありません。こちらも、ツッコミどころ満載なのに不思議な魅力にあふれた一枚。技法や常識にとらわれず描くことで、独特の温かい味わいを出す「ヘタウマ絵画」を一般に『素朴派』と呼びますが、ルソーはまさにその元祖でした。ただし、ルソーはヘタウマの自覚は全くなく、正統派芸術家のつもりだったようです。ルソーは、正規の絵画教育は受けておらず、パリ市の税関に勤めながら、独学で描き始めた日用画家。40歳を過ぎてから、独立芸術家教会展に出品しますが、ヘタウマという概念がなかった時代に、評価されるはずもありません。それでも彼は、おかまいなし。49歳で税関を退職し、年金で食いつなぎながら、死ぬまで毎回、出品し続けました。ルソーは、印象派など新しい芸術には、あまり関心がなく、古典をお手本にしていたとか・・・。ウケを狙わず、真面目に描いた挙句にヘタな「天然力」で、彼は、きせずして古典的な常識を打ち破り、印象派すら超える新しい絵画を創り出したのですルソーのヘタウマを最初に評価したのは・・・巨匠:ピカソや、詩人:アポリネールら、モンマルトルの安下宿「洗濯船」に集う若い芸術家たちでした。1908年には、「ルソーを讃える夕べ」を開き、賛辞の詩を贈呈。感激したルソーは、アポリネールと恋人の画家マリー・ローランサンに2人の肖像画を贈ろうと、全身のサイズを巻尺で測った挙句に似ても似つかない姿を描き、迷惑がられたりもしています。若者たちも、たんに老画家の「天然ぶり」を面白がっていただけではないでしょう。当時、アフリカ美術の素朴で、力強い美にハマっていたピカソなどは、ルソーの「狙っていないスゴさ」を正しく理解していたはず・・・。誰もが、簡単に真似できそうなヘタウマですが、それを芸術の域にまで高められるのは・・・ルソーのような天然か?ピカソのような天才の、どちらかなのです。(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.14
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アメディオ・モディリアーニは、イタリア人で病弱なダメンズですがイケメンだったそうですよアメディオ・モディリアーニAmedeo Modigliani絵を描くためには、私に向かい合っている生きた人間を見ることができなければなりません。[モディリアーニ]20世紀の初頭。パリのモンパルナス界隈には、世界中から、若い芸術家が集まって、貧しくも自由に暮らしていました。その中で、特定の主義は掲げず、個々の作風で活動した芸術家を総称して、「エコールド・パリ(パリ派)」と呼びますロシアのシャガール、ポーランドのキスリング、日本の藤田嗣治、といったビッグネームが並びますもっとも「らしい」画家と言えば・・・やはりイタリア出身のモディリアーニに尽きるでしょうモディリアーニ・・・とはどんな人?アメディオ・クレメンテ・モディリアーニAmedeo Clemente Modigliani1884年7月12日〜1920年1月24日(35歳没)イタリア人画家・彫刻家。主にパリのモンパルナスで活躍し、エコールド・パリ(パリ派)の画家のひとり。【モディリアーニのプロフィール】流派=エコール・ド・パリ。得意なモティーフ=人物(風景は数点しか描かず)。尊敬する芸術家=エコール・ド・パリの画家が集ったモンパルナスの 共同アトリエ「蜂の巣(ラ・リュッシュ)」で、 キスリングやスティンらと親好。家族・恋愛=別れたベアトリスは、 5歳年上のイギリスの詩人でジャーナリスト。 ジャンヌは、出会った当時18歳の学生。裏話=病気や売れないつらさを、 酒と麻薬で紛らわせる弱い人。 でも、そこがダメンズ好きな女子たちの 母性本能をくすぐってやみません『子供とジプシー女』【モディリアーニの年譜】1884年7月12日、イタリア、トスカーナ地方の港町 リヴェルノに生まれる。1901年、結核が発病。1903年、ヴェネツィアの国立美術研究所に入学。1906年、パリに出てモンマルトルに入学する。1909年、モンパルナスに移る。1914年、イギリス出身の詩人:ベアトリス・ヘイスティングと出会う。1916年、生涯、支えてくれた親友で画商:ズボロウスキーと出会う。1917年、19歳の画学生:ジャンヌ・エビュテルヌと同棲を始める。 個展を開催。1918年、結核が悪化。南仏で静養する。ジャンヌが女児出産。1920年1月24日、パリで死去。『シャイム・スーティンの肖像』子どもの頃から彫刻家に憧れ、パリに出てからも30歳頃までは、彫刻を制作。しかし虚弱で、彫刻は肺に悪いという理由で断念。本格的に絵に転身してから、5年で死去。モディリアーノは、どうして目玉を描かないのか?瞳を描かない独特の画風は・・・彫刻家出身のモディリアーニが、アフリカ彫刻から学んだもの。個性や表情がもっとも表れやすい瞳をあえて描かないことで、モデルを日常性から切り離し、時を超えた神秘性を与える効果を狙ったともいわれます。生前は、まったく作品が売れず・・・酒と麻薬に溺れながら、似顔絵描きで食いつないでいたモディリアーニ。『青いクッションの裸婦』33歳の時に開いた生涯でただ一度の個展も、裸体画が、猥褻だと批判されて即刻中止にそんな絶望の淵から救ってくれたのが、他ならぬジャンヌです。モディリアーニは、彼女の肖像を何枚も描いていますが、これは、同棲2年目の作品。ジャンヌのお腹には、彼の子どもが宿っています。けれども、画家は持病の結核が再発し、幸福が続かないことを知っていました。暖かな黄色に包まれたジャンヌの表情に、どこか切ない哀愁が漂うのはそのせいでしょう。翌年、モディリアーニは35歳の若さで病死。ジャンヌが、ビルの窓から身を投げて跡を追ったのは、その2日後でした。モディリアーニは・・・イケメンだったのか?ルックスがよくて生涯も劇的となれば、人気が出るのも当たり前。映画でも・・・1958年の『モンパルナスの灯火』では、ジェラール・フィリップ、2004年の『モディリアーニ真実の愛』では、アンディ・ガルシアが演じているくらいイケメンだったわけですから。病弱で繊細な内面を、チョイワル入ってた美貌で包み、酒と麻薬で、やつれさせた感じ。世間がイメージする「破滅型アーティスト」そのままで、絵になります。作品も、変に難しい主義を振り回さず、情緒に訴えかけてくるから、わかりやすい。昔のフランス映画のような哀愁は、日本人の心にも響きますよね。『ポール・ギョームの肖像』1915年絵を描かせて買ってくれたギョーム氏。生前、売れなかったのが不思議なくらい。世界中から集まった才能がしのぎを削っていた当時、パリで頭角を現すには、モディリアーニの人生は、短すぎたのかもしれません。(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.13
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アンリ・マティスの絵は、心を癒される色彩がありますほっこりする作品を鑑賞してみましょうアンリ・マティスHenri Matisse『赤いハーモニー』『赤い部屋』1908年油彩 カンヴァス 180.0cmx220.0cmロシア「エルミタージュ美術館」所蔵。アンリ・マティスHenri Matisse1869年12月31日〜1954年11月3日(84歳没)フランスのフォーヴィスムを代表する画家。彫刻家・版画家・ドローイング・コラージュ・カットアウト。その後20世紀を代表する芸術家として活躍。色彩の魔術師と呼ばれる。『豪奢、静寂、逸楽』1904年夏私が、夢見るのは、肉体の疲れを癒してくれる、座り心地のいい肘掛け椅子のような絵 [マティス]【マティスの年譜】1869年12月31日、フランス北部の町生まれ。 父は、穀物商。パリ大学法学部に進む。1889年(21歳)故郷の法律事務所に勤務。1890年、虫垂炎で入院中、絵を描く楽しさに開眼。1891年、画家になるため、再びパリに出る。1895年、国立美術学校に合格。 ギュスターヴ・モローの教室で学ぶ(92年から聴講生)。1898年(29歳)アメリー・パレイルと結婚。1905年、サロン・ドトーンヌに出品。「フォーヴィスム」と呼ばれる。1912年、北アフリカのモロッコに旅行。1941年、十二指腸癌で手術。切り絵が中心となる。1947年、南仏ヴァンスの礼拝堂の設計と装飾を始める。1954年11月3日、南仏ニースで死去(享年84歳)『ルーマニア風のブラウス』マティスって・・・どんな人?【エピソード】第二次世界大戦中、腸閉塞で生死の境をさまよい、手術後は切り絵に没頭。ジャズなど多くの名作を残し、抽象絵画にも影響を与えました。じつは、相当な努力家なのですが、育ちのよさゆえ苦労を表に出しません。そのため、センスだけで仕事をしている、おしゃれ野郎と誤解され、妬まれることも・・・。【マティスのプロフィール】流派=フォーヴィスム得意なモティーフ=装飾的な室内、窓、オダリスク、ダンス尊敬する芸術家=セザンヌから最も影響を受けた。 セザンヌの『3人の浴女』購入。家族・恋愛=妻:メアリーとは、60代で破局。 晩年の恋人は、金髪のロシア女性:リディア。鮮やかな色彩の中心で、真っ赤な金魚が泳いでいます。その配色のバランスが、じつに絶妙でセンスがいいですねマティスは、「色彩を現実から解放した」と言われます。人の顔を描いても、髪は青で鼻筋は緑だったり。現実がどんな色だったろうが関係なく、感性のおもむくままに色を配したのです。自由で激しい色彩と荒々しいタッチから、彼は仲間のドランやブラマンクらとともに、「フォーヴィスム(野獣派)」と呼ばれました。もともとは、1905年の「秋季展」で、彼らの作品を観た批評家が皮肉を込めて、そう呼んだのですが、7年後に描かれた『金魚』では、色とタッチの激しさは落ちついてきたものの、画面は、壁紙のように平板になり、形は、単純化。晩年の切り絵作品へとつながる、装飾的なデザイン性が芽生えています。マティスは・・・親の意向でパリ大学に進み、法律事務所に勤めていましたが、虫垂炎で入院中に絵画に目覚め、25歳で国立美術学校に入り直して、モローに師事。35歳で、ようやく「フォーヴ」として、注目を浴びた、遅咲きの画家でした。「君は絵画を単純化するだろう」と、師:モローが予言したとおり、彼は遠近法や陰影など西洋絵画を重苦しくしていた要素を次々に排除。単純化に色と形だけで「心地よい空間」を作り出しましたその現代性をいち早く見抜いたのは、ロシアの富豪:シチューキンや、アメリカのスタイン兄妹など、のちに20世紀をリードしてゆく新興国のコレクター。抽象画とは一味違うマティスの「心地よい」モダンさは、今も多くの芸術家に影響を与えています。「マティス風」のイラストは・・・今も、ファッション誌などでよく見かけます。彼の作品は、いかにもフランス的でセンスがよく、時代を超えた「おしゃれ感」があります。そこが、ピカソと違う点。ピカソは時々、ものすごくドロクサい。現代美術の2大源流、フォーヴィスムとキュビスムを代表する画家として、よく比べられる2人ですが、ピカソが、テクニックの人だとしたら、マティスは、センスの人だと思います。キュビスムは、理知的で。フォーヴィスムは、その名のとおり野生的な芸術といわれますが・・・この2人の生きざまは、むしろ逆。死ぬまで女性を漁り続けたピカソの方が、「野獣派」で、法律家出身のマティスの方が理知的で上品。この2人は親友で、お互いにリスペクトしあいながらも、仲が悪かったというのも、わかるような気がします(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.12
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パブロ・ピカソ代表作『泣く女』とは?生涯に画風が変わり続けたパブロ・ピカソはどんな人だったのでしょうパブロ・ピカソPablo Picasso女というのは、悲しむべきものなのだ[ピカソ]パブロ・ピカソPablo Picasso1881年10月25日〜1973年4月8日(91歳没)【ピカソのプロフィール】流派=基本は、キュビスムだが、つきあう女性に合わせて変化。得意なモティーフ=人物(とくに女性)、鳩など。尊敬する芸術家=セザンヌから多くを学んだ。 ブラックは、ともにキュビスムを追求した。家族・恋愛=若い頃は、純愛思考で、 30歳で同棲を始めたエヴァが4年後に病死した時には、 心から悲しんだという。妻になるオルガが、ピカソの母に挨拶に行った時=「息子はあなたを幸せにできない。 あの子は自分のことしか考えてないんだから」 と言われたとか(そのとおりの結果に・・・)【ピカソの年譜】1881年10月25日、スペインのアンダルシア地方マラガ生まれ。 父は、美術教師。1900年、パリに出る(親友の自殺を機に1903年頃から暗い画風の「青の時代」に入る。)1904年、モンマルトルの「洗濯船」で暮らす(フェルナンドと出会い、「バラ色の時代」に突入。)1907年、初期キュビスム作品『アヴィニョンの娘』を発表。1918年、オルガと結婚(1955年病死)「新古典主義の時代」。1927年、マリー=テレーズ・ジローと出会う。1936年、ドラ・マールと出会う。1937年、『ゲルニカ』制作。1942年、フランソワーズ・ジローと出会う。1961年、ジャックリーヌ・ロックと再婚。1973年4月8日、南仏ムージャンで死去(享年91歳)ピカソの『泣く女』・・・とは?ヒステリックに泣きわめく女性を、キュビスムの手法で描いた作品。キュビスム(立体主義)は・・・セザンヌが開拓し、ピカソやブラックが発展させた手法。対象を単純な幾何学的立体に分解して組み立て直したり、複数の視点から見た形を合成したりするのが特徴です。この作品では・・・女性の顔が立体というより、平面的な図形に分析され、正面と横顔が組み合わされています。「わけのわからない絵」の代名詞のようにいわれるピカソですが、じつは、とても絵が上手い神童でした。100年早く生まれたいれば、ゴヤのような宮廷画家になっていたでしょう。けれども彼が生きたのは、写実的な絵を上手に描くだけでは売れない時代。世界中の才能が集まる20世紀初期のパリで生き残るには、常に新しいスタイルを打ち出して、時代を先取りしていかなければならなかったのです。写実的な「青の時代」と「バラ色の時代」を経て、キュビスムで脚光を浴びた後、「新古典主義の時代」で写実に戻っていたピカソ。再び、キュビスム的な表現に向かわせたのは、26歳年下の愛人で写真家のドラ・マールでした。ピカソ初の社会派絵画となる大作『ゲルニカ』は、知的な彼女の助言なしには生まれなかったでしょう。けれども当時、ピカソには、本妻とドラの他にも若い愛人が・・・。誰を選ぶのかと問い詰めれば、「殴り合いで決めろ」といい放ち、ドラのプライドを傷つけます。しかも、彼女が泣き叫ぶ姿を面白がって、『泣く女』のモデルにする始末。20世紀の巨匠ピカソは、女性を踏み台に成長する。“自己中”男でもありました。「女性は女神かドアマットのどちらかだ」。この迷信どおり、ピカソは女性を美神とあがめて、新しい画風の霊感を得る一方で、別の女性に関心が移ると、ドアマットのように踏みつけました。ロシア出身で、保守的な妻:オルガに、顔がわかる絵を描いてほしいと頼まれれば、キュビスムを捨てて「新古典主義の時代」に。10代の若さにあふれた癒し系のマリー・テレーズを愛人にすれば、官能的な女性像を描き、“自立した女”ドラと出会えれば、キュビスムに戻って社会派の『ゲルニカ』を・・・・ピカソが時代に合わせて、画風を変えれば変えるほど、不幸になる女性も増えました。オルガとドラは精神を病み、マリー=テレーズと、2番目の妻:ジャックリーヌは、ピカソが他界した後に自殺。難を逃れられたのは、「私はドラになりたくない」と早々に去った、フランソワーズという愛人くらいです。(参考文献:幻冬舎/西洋絵画入門より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.11
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ロートレックは貴族の御子息でしたがモンマルトルのカフェに毎日通ってこの絵を描きましたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック作アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-LautrecHenri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec Monfaアンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック・モンファ1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの後期印象派の画家。もし自分が人並みの体だったら、絵は描かず狩猟でもしただろう。(ロートレック)【ロートレックのプロフィール】ロートレックの性格=みんなを笑わせることが好きでした。家族構成=母からは「小さな宝石」と呼ばれ愛された。 生涯結婚しませんでしたが、 モデルで画家のヴァラドン(ユトリロの母)とは、 本気の恋をするが、3年で破局。よく使うモティーフ=夜の歓楽街に集う人々。 モンマルトルの歓楽街。 とくに娼婦や踊り子や役者。よく行く場所=パリのカフェやダンスホール。交流にあった文化人=銀行家:ナタンソン家の サロンに出いりしていた文学者:アンドレ・ジード、 マラルメ、ボードレールと交流があった。尊敬する芸術家=ドガを崇拝し、その構図に影響を受けた。 踊り子をモティーフにしたものも彼の影響か? 一時期ご近所だったゴッホとも友情が。 日本の美術には関心がありました。【ロートレックの年譜】1864年(0歳)伯爵家の一人息子として、 11月24日、南フランスの町アルビで生まれる。1878年(14歳)椅子から落ちて左大腿骨を骨折する。1879年(15歳)散歩中に溝に落ちて右足を骨折する。1881年(17歳)パリに出て、絵の勉強をはじめる。1882年(18歳)コルモンの画塾に入り、そこで、 ゴッホやベルナールと知り合い友人になる。1891年(27歳)「ムーラン・ルージュ」のポスターが評判になる。1899年(35歳)アルコール依存症の発作がひどくなり、 精神病院に入院する。1900年(36歳)パリ万国博覧会の日本館を 車椅子に乗せられて見学する。1901年(37歳)9月9日、ボルドー近郊の マルロメにある母の城で死去。本名:アンリ・マリ・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック。長い名前が示しているとおり、貴族の出身である。14、15歳のときに相次いで両足を骨折し、下半身の成長がとまってしまった。そのため、得意な絵画の道を突き進むことになった。パリに出て、当時の有名画家コルモンの画塾に入るが、ロートレックを魅了したのは、モンマルトルに集まる芸術家たちであり、歓楽街の喧騒だった。ロートレックは、母親の反対を押し切り、モンマルトルにアトリエを借り、画家の友人たちとの日々を楽しんだ。モンマルトルのカフェや酒場に出入りするようになったロートレックは、夜の退廃的な世界に魅了された。そこでの現実を静かに観察し、そこに人生の縮図を見て取っていた。『ゴッホの肖像』1887年10歳ほど年長のゴッホとの出会いは、コルモンの画塾においてだった。2人はつきあいは長くなかったが、深い友情で結ばれていた。最後の印象派展が開催された1886年、2人の画家は、パリのモンマルトル地区に住んでいた。彼らにとって印象派展は、参加するものではなく、観るものだった。そして2人とも、その影響から逃れることはできなかった。この作品では、初期のロートレックが、印象派から影響を受けていたことを教えてくれる。黄色と青色という補色を基調にしながら、素早い筆致を用いており、のちのロートレックの画風を予告している。この画塾時代に画題は人物に絞られていく。上流階級出身のロートレックは、生活に困ることがなかったため、自分の気に入ったものに専念することができた。ドガ同様、ロートレックは、人工照明の下にいる人びとを好んだ。印象派の画家のように、光を描き止めることに関心は向かなかったが、都市の生活を描いたという点で、印象派の後継者となっている。ロートレックは、人物を素早くスケッチするため、カンヴァスよりも厚紙を多く用いた。印象を描きとめるには、その方が便利だったようだ。ロートレックは、サロンで作品を発表することを目指していた訳ではなかった。彼の名前を有名にしたのは、ポスターや版画という複製芸術であった。日本の浮世絵からも影響を受けた斬新な構図は、とりわけポスター芸術で鼻開くことになる。『ムーラン・ルージュにて、ダンス』1890年パリのモンマルトルの丘の麓にあるムーラン・ルージュ(赤い風船)は、ステージの上の踊りや歌を鑑賞するだけではなく、踊ることもできる当時の人気のカフェ・コンセールだった。ロートレックは、1889年に開店して以来の常連客だった。毎晩開店するとお決まりの席に座り、夜の歓楽街を訪れる人びとの姿を観察しながら、絵のイメージを膨らませた。この作品は、ムーラン・ルージュを描いた30数点のうち、もっとも大きなもの。中央では、「骨なしヴァンタン」というあだ名を持った踊り手が、新人の踊り子に稽古を付けている。遠巻きにしている人びとは、彼らにあまり興味を持っている訳ではなく、女性を誘うことに忙しい男性の姿も見える。うつろな目をしたピンク色のドレス女性は娼婦である。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.10
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点描画法と言えばジョルジュ・スーラとは知っていても彼は、どんな人だったのでしょうか?ジョルジュ・スーラGeorges Seurat『シャイユ踊り』1889年〜1890年油彩 カンヴァス 171.5cmx140.5cmオッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。芸術とは、調和である。調和とは、「明暗と調子」「色合い」「線」の相反するものどうしの類似性であり、相似するものどうしの類似性である。(ジョルジュ・スーラ)『サーカス』1891年ジョルジュ・スーラGeorges Seurat1859年12月2日〜1891年3月29日(31歳没)19世紀フランスの新印象派の画家。点描技法の創始者。【スーラのプロフィール】比較的裕福な家庭に生まれる。両親の理解を得られたため、生涯、経済的な苦労は一切なく、画業に励めた。無口な完璧主義者でした。デパートの店員のようなきっちりした身なり。ビロードのような目。けっこう〜イケメンだった。内気・無口・頑固。秘密主義。昼寝を忘れて仕事に没頭する。一人でいるのが好きだけど、サーカスのような賑やかなところも好き。パリ近郊の行楽地へ行きましたし、夏は、ノルマンディ地方で過ごした。親友は、シニャック。結婚は、しませんでしたが(実は息子がいた)。1年間の兵役中、海のきらめきをずっと観察。同世代の人たちを描くことが好きでした。近代的なモティーフに興味がありましたので、エッフェル塔も一番に描きました。アンデパンダン展(会費さえ払えば誰でも参加できる)の開催に尽力。【スーラの年譜】1859年12月2日(0歳)裁判官書記の父のもと パリに生まれる。1875年(16歳)市立デッサン学校に通う。1876年(17歳)友人と共にアトリエを借りる。1877年(18歳)エコール・デ・ボザール受験準備のため、 石膏デッサンを多数描く。1878年(19歳)エコール・デ・ボザールに入学。 アングルの弟子:アンリ・レーマンのアトリエに所属。 図書館で、多くの本を読む。1879年(20歳)志願し兵役につきブレストに1年間滞在。1880年(21歳)約1年間、ひたすらコンテによるデッサンに打ち込む。1883年(24歳)『アニエールの水浴』がサロン落選。1884年(25歳)初のアンデパンダン展に『アニエールの水浴』出品。 シニャックと知り合う。1885年(26歳)『グランド・ジャット島の日曜日の午後』制作。 ピサロを紹介される。1886年(27歳)第8回・印象派展に出品。1890年(31歳)恋人:マドレーヌ・ノプロックが長男を出産。 役所に認知の届け出。1891年(31歳)3月、第8回アンデパンダン展に未完の『サーカス』を出品。展示作業中、風邪が悪化。 咽頭炎になり、9日後、3月29日(享年31歳)死去。 死後、恋人と息子の存在が明らかになる。 息子も同じ病気で2週間後に死亡。スーラは・・・アメリカ人物理学者:オグデン・ニコラス・ルードや、フランス人科学者:ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールによる色彩と化学理論に関心を持ち、自らも点描技法を考案した。これは、明るい色彩の絵の具を色の斑点にわけて描く技法である。色斑であらわされた色彩は、観る者の網膜上で混ぜ合わされるという「視覚混合」の原理を絵画に適用した。点描技法で製作された大作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を27歳のときに参加した第8回印象派展に出品。賛否両論を呼んだ。この新たな技法を用いた画家たちは、「新印象派」と呼ばれたものの、スーラは、自ら「光彩主義」と称した。スーラのとって重要だったのは、色彩によっていかにして光を表現するかだった。スーラは・・・光を描きとめようとした印象派の絵画に、化学的な理論を適用した。現代生活という画題は、印象派の画家たちと共通するものだったが、その制作の方法は、アカデミックな教育にもとづいていた。スーラは、作品を描くための準備習作を多数残している。そこでは登場人物のうちの数人や背景の風景がくりかえされたり、ときには小さなカンヴァスで、画面全体の構図を試みたエスキスも描いている。さまざまな準備と緻密な計算や理論のもと、作品は最終的にはアトリエのなかで完成された。スーラが全力を傾けたのは、大型画面の作品であり、いずれの場合も静けさに満ちたモニュメンタルなものとなっている。このような点からみると、スーラは、印象派を超えながらも、伝統的に忠実な画家だったといえる。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.09
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印象派は戸外の風景画を描いていますが、ドガは競馬場以外はほぼ屋内で描かれていますこの作品も・・・エドガー・ドガEdgar Degas『カフェにて(アブサント)』1875年〜1876年油彩 カンヴァス 58.0cmx42.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。当時、隣の女性が飲んでいるアブサントという強いお酒がアルコール中毒を作り出していると社会問題になっていた。エドガー・ドガEdgar Degas1834年7月19日-1917年9月27日(83歳没)ドガは、印象派なのか?ドガは「印象派展」に7回も参加している。それなら、当然「印象派」にも関わらず・・・「アンチ印象派」だった!「印象派」と呼ばれるのが大嫌いだったなんと〜理解し難い。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』戸外で木漏れ日を描いた印象派らしい作品。それに比べるとドガは、『手袋をした歌手』自然光ではなく、カフェでの人口的なライトで歌う歌手。「印象派」戸外で制作「ドガ」主に室内で制作ドガって、どんな画家だったのでしょうかね〜ドガの理解し難い性格とは?裕福な銀行家の長男。小柄・痩せ型・面長。攻撃的で辛辣で超気難し屋。皮肉にみちた眼差し。猫と犬と食卓の花と香水が大嫌い。趣味は、口論とオペラ鑑賞。人嫌いを装っている癖に社交的。油彩のみならず、パステル、版画、彫刻、写真と幅広くチャレンジした。最初から、超上手い。古典的名画を愛す。全8回中、7回「印象派展」に参加。男女問わず友達多し。意地悪な破面の奥に、誠実さと優しさを隠し持つ、ややこしい性格。生涯独身。晩年は、失明同然。Madame Jeantaud au miroir(vers1875)【ドガの年譜】1834年7月19日(0歳)銀行家の長男として、 パリに生まれる。1845年(11歳)名門リセ・ルイ・ル・グラン中学に通う。1853年(19歳)パリ大学法学部に登録。1855年(21歳)エコール・デ・ボザールに入学。 アカデミズムな画家ラモットに師事。 アングルと会う。1856年(22歳)約3年間イタリアに滞在し、 ルネサンスの巨匠たちの作品を学ぶ。1862年(28歳)マネと知り合う。1865年(31歳)サロン初出品。1868年(34歳)カフェ・ゲルボワに通う。1870年(36歳)普仏戦争勃発。志願兵として入隊、 銃撃の訓練で右目の視力がほとんどないことを知る。1872年(38歳)アメリカ、ニューオリンズの親戚の家に滞在。1874年(40歳)第1回『印象派展」出品。 以後、7回以外、全参加。 父が急死し、多額の債務を抱えるようになる。1888年(54歳)写真家:マイブリッジから写真を学ぶ。1892年(58歳)デュラン=リュエル画廊で初めての個展開催。1894年(60歳)ドレフェス事件。 ドレフェス支持派の友人たちと絶縁。1901年(67歳)視力悪化。1912年(78歳)20年近く住んでいた家が取り壊されるため、 引っ越しを余儀なくされる。 これ以降、制作をやめる。1917年9月27日(83歳)パリにて脳出血のため死去。印象派の人々が結束して、「印象派展」を組織したのは、古典的なテーマ以外認めようとしないサロン(官展)に対抗するためだった。ドガは駆け出しの頃、古典的なテーマで、サロンに何度か応募したが、入選しても全く話題にならなかった。そのためサロンでの成功を諦め、1870年頃から、近代的なテーマで勝負する印象派の人々と共にすることにしたのだった。ドガは、印象派の画家とは違い、瞬間の動きを完璧に描くためにデッサンを何枚も描き、入念な下準備を行った。しかし、その「瞬間をスナップショットのように捉える」姿勢は確かに印象派と共通するものだった。ドガは・・・36歳で普仏戦争に志願した際に、目に異常があることに気づいていましたが、その後、視力は少しずつ低下していきました。67歳頃には、ほぼ失明状態になり、太いチョークによる素描が限界となりました。1894年に起きた「ドレフェス事件」で、反ユダヤ主義の態度を取ったドガは、多くの友人と絶縁し孤独感を増していきました。さらに、78歳の時、長年住んでいた家の引っ越しを余儀なくされ、それ以降、制作も止めてしまいました。家政婦:ゾエは、35年間、ドガの身の回りの面倒をみ、話し相手となり、看護婦役も務めました。そして、1917年9月27日、83歳で亡くなるドガを看取りました。(参考文献:川手書房新社/印象派の画家たちより)(写真撮影/出題:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.08
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ドガと言えば華やかなバレエを描いた作品を思い浮かべますが〜ちょっと違うイメージの作品もエドガー・ドガEdgar Degas『アイロンをかける女たち』1884年(明治17年頃)油彩 カンバス 76.0cmx81.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。19世紀には・・・中流階級以上の女性は、自分でアイロンをかけなかった。代わりに洗濯やアイロンがけを請け負ったのは、貧しい女性たちだった。パリとその周辺に住む人びとの20〜30%が、洗濯業に従事していたとされる。とはいえ、朝5時から、夜11時まで働いても、その生活はままならなかったという。ドガは、働く女性たちの姿をカンヴァスに描きとめた。蒸し暑い部屋で、熱心にアイロンがけをする女性(右)と、やる気のない様子の女性(左)が、対比されている。このような2人の女性の組み合わせは、ドガは15年以上にわたって、好んでいたモティーフで、同じような構図の作品を4点製作している。この作品では、地塗りの施されていない麻布の地が見えるほど、絵の具は薄塗りされている。ドガの画題は・・・バレエの踊り子、洗濯女、カフェ・コンセールの歌手、帽子屋の売り子、娼婦など、都市に暮らす人びとの孤独や、都市労働者の姿は、ドガの好んだ画題だった[ドガの写真]エドガー・ドガEdgar Degasイレール・ジェルマン・エドガー(エドガール)・ド・ガHilaine Germain Edgar de Gas1834年7月19日-1917年9月27日(83歳没)油彩のみならず、パステル、版画、彫刻、写真と幅広くチャレンジした。彼の用いた技法は・・・油彩のみではなかった。ドガの作風が変わった本当の理由とは?視力の低下に悩まされるようになったドガは、目を近づけて製作できるパステル画を用いる一方、写真にも熱中した。写真の可能性を追求したドガは、絵画製作に利用するにとどまらず、ルノワールや、マラルメら知人たちのポートレートを撮影したさらに目が悪くなると・・・蝋で小さな彫刻を製作した。その主題も、やはり踊り子や裸婦だった。ドガは、人の動きに興味があったのだ。1886年の第8回「印象派展」に参加したのち、彼は、画商を通じて少数の作品を売るのみで、大半の作品は、自分の手元に残しておいた。ドガとは・・・どんな人?ドガの性格=「この人の趣味は人と口論することだ」 と画商:デュラン=リュエルに言われました。家族構成=生涯独身。よく使うモティーフ=都市の人びとを描くのが得意。 特にバレエが好きで「踊り子の画家」とも呼ばれた。よく行く場所=パリのカフェ、劇場やその舞台裏、 競馬場を多く描きました。交流のあった文化人=詩人:シャルル・ボードレール 詩人:ステファヌ・マラルメ 作家:エミール・ゾラ尊敬する芸術家=アングルが好きでした。 イタリアの巨匠たち ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、 ミケランジェロ、ティツィアーノ、 フラ・アンジェリコ、ボッテチェリ。【ドガの年譜】1834年7月19日(0歳)銀行家の長男として、 パリに生まれる。1856年(22歳)3年間イタリアに滞在し、 ルネサンスの巨匠たちの作品を学ぶ。1862年(28歳)マネと知り合う。1868年(34歳)カフェ・ゲルボワに通う。1870年(36歳)普仏戦争勃発。志願兵として入隊、 銃撃の訓練で右目の視力がほとんどないことを知る。1874年(40歳)父が急死し、多額の債務を抱えるようになる。1888年(54歳)写真家:マイブリッジから写真を学ぶ。1892年(58歳)デュラン=リュエル画廊で初めての個展開催。1917年9月27日(83歳)パリにて脳出血のため死去。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影/出題:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.07
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歪んだ教会にロイヤルブルーの青い空、魅了されますね〜ご存じゴッホの絵を鑑賞しましょうフィンセント・ファン・ゴッホVincent van GoghDe kerk van Auvers『オーヴェルの教会』1890年油彩 カンヴァス 93.0cmx74.5cmパリ「オルセー美術館」所蔵。ゴッホ最晩年の作品。昼なのに夜のようなロイヤルブルーの空です。歪んだ教会にオランダの衣装の女性が向かう先は。Vincent van Goghフィンセント・ファン・ゴッホ1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳)オランダ人のポスト印象派(後期印象派)の画家。初期の代表作から・・・De Aardappeletes『じゃがいもを食べる人々』1885年【ゴッホのプロフィール】ゴッホの性格=頑固で強情でした。家族構成=結婚はしませんでした。 子連れの貧しい売春婦シーンとの結婚は、 家族や親戚から猛反対されました。よく使うモティーフ=働く農民の姿を多く描きましたが、 身のまわりの風景にも興味がありました。 自画像を多く残しました。よく行く場所=ブリュッセル、アントワープ、パリ、 アルル、サン・レミなど、あちこちに行きました。交流のあった文化人=収集家でもあったガシェ医師。 アルベール・オーリエが作品を絶賛してくれましたので、 お礼の手紙を送ったこともあります。尊敬する芸術家=17世紀オランダの画家レンブラント。 19世紀フランスの農民画家ミレー。De sterrennacht『星月夜』1889年【ゴッホの年譜】1853年3月30日(0歳)牧師の父のもと、 オランダの北ブラバント地方フロート・ズンデルト村に誕生。1869年(16歳)グービル商会のハーグ支店に就職。1873年(20歳)グービル商会のロンドン支店に転勤。1878年(25歳)グービル商会を解雇され、一時エッテンに戻る。1886年(33歳)アントワープの美術学校に入学。 3月にパリに出て、コルモンのアトリエに通う。1888年(35歳)アルルに移り住み、 ゴーギャンとの共同生活を送るが、わずか2ヶ月で破局。1889年(36歳)サン・レミの精神療養院に入る。1890年7月29日(37歳)テオに看取られながら、 オーヴェール・シュル・オワーズで死去。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1886年10月さまざまな試行錯誤ののち、ゴッホは27歳で絵画の道を志した。1886年3月にパリへ出てきたのも、アカデミックな絵画教育を受けるためだった。グービル商会で働いていた弟:テオの住む小さなアパートに落ち着き、そこから、アカデミックな画家フェルナンド・コルモンの画塾に通った。絵画の基礎を学ぶものの、わずか4ヶ月でコルモンの画塾を去る。画塾での最大の収穫は、トゥールーズ=ロートレックや、エミール・ベルナールなどの若い画家たちと親交を結ぶことができたことである。パリに来て3ヶ月も経たないころ、第8回「印象派展」が開催。スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』が話題を呼んでおり、ゴッホも点描技法の研究をはじめる。Le Pont de I'Anglois『アルルの跳ね橋』1888年ゴッホは・・・弟:テオからゴーギャンを紹介された。2人はすぐに仲良くなり、印象派の画家たちのたまり場だったカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで芸術について論議し、タンギー爺さんの画材屋では、タダ同然で絵の具やカンヴァスをわけてもらった。パリでの友人たちとの交流を通じて、ゴッホは印象派の技法を習得し、日本の浮世絵への関心を高めた。『タンギー爺さん』1887年秋それまで貧しい人びとを暗い色彩であらわしていたゴッホの作品が、Slaapkamer te Arles『ファン・ゴッホの寝室』1889年明るい色彩による現代的な主題へと変化した。1887年になると、パレットはますます明るさを増すが、1888年2月、突然パリをたち、「日本の浮世絵にあるような明るい光」を求めて南フランスの町アルルへと向かった。そしてそこで、自らの色彩と技法を確立することになる。『ひまわり』1888年陽光に憧れて南仏アルルに移り住み、芸術共同体を夢見たゴッホ。黄色い家を借りて12脚の椅子を揃え、愛と芸術の象徴である「ひまわり」の絵を12枚描いて飾るつもりでした。そこに集まるはずの仲間を、キリストの十二使徒になぞられたのでしょう。けれども、やって来たのは・・・『夜のカフェテラス』1888年9月希望に満ちていた頃、ゴッホの眼に映った明るい夜景。1888年10月、ついにゴーギャンがやって来ました。しかし、「南方のアトリエ」の実現が、一歩近づいたと喜ぶゴッホとはうらはらに、ゴーギャンのアルル行きは、「ここに来れば、テオの仕送りによって生活できる」という打算に満ちた選択でした。『ローヌ川の星月夜』1888年料理は、ゴーギャン。買い出しは、ゴッホ。テオからの仕送りの使い道を決めるのは、ゴーギャン。などの取り決めのもと始められた共同生活でしたが、熱狂的な制作活動の後、夜な夜な行われる芸術論議は、激しさを増し、妥協を知らない二人の仲は、徐々に険悪になっていきました。ゴッホの「耳切事件」勃発!ゴーギャンは、逃げ去り南国タヒチへ。事件後、ゴッホは、アルルの病院に収容されます。『医師ガシエの肖像』1890年発作を繰り返す兄を案じ、テオは芸術に非常に理解のある医師ガシエに、兄を託すことにしました。医師の住むオーヴェールは、パリからも近く、ガシエと意気投合したゴッホは、しばらくの間、制作に没頭する。『糸杉と星の見える道』1890年サン・レミ療養院への道は、結婚するテオの負担を少しでも軽くしたいと願ったゴッホが自ら決めたことでした。しかし、入所後も、重度の発作を度々繰り返します。ゴッホは、「芸術は最良の病の避雷針」と信じ、正気が戻った際には、猛烈な勢いで絵を描き続けました。『鴉の群れ飛ぶ小麦畑』1890年悲劇は、「夏はみんなでオーヴェールで過ごそう」というゴッホの提案を振り切って、テオ一家がオランダの実家に戻っていた間に起きました。パリで疲弊し窮乏に喘ぐテオの姿を見て、長年自分が強いてきたテオへの負担の大きさを痛感してしまったゴッホは、全ては自分のせいだと感じ、「もはや、どうにもならない」と、自殺を決意したと推測されます。ゴッホは自殺を図った2日後、7月29日に亡くなりました。弟テオも病の悪化で半年後に亡くなります。(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.06
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セザンヌと言えば転がりそうなりんごを思い出しませんか〜そうそうこれです))ポール・セザンヌPaul Cézanne『リンゴとオレンジのある静物』1895年〜1900年油彩 カンヴァス パリ「オルセー美術館」所蔵。セザンヌの静物画は・・・構図を追求する上で適した画題だった。セザンヌは、静物画を1860年台から描いている。初期のものは、横一列に食器や果物を配置したものだった。その後、全体のバランスを考えながら、壺やリンゴの配置にこだわるようになった。ときには、リンゴの下にコインを挟んだこともあるという。さらに、瓶や壺、リンゴや玉ねぎ、白いナプキンなどのモティーフに集約された。セザンヌとは・・・どんな人?ポール・セザンヌPaul Cézanne1839年1月19日〜1906年10月23日(67歳没)フランスのポスト印象派の画家。【セザンヌのプロフィール】セザンヌの性格=「気むずかしい孤高の人」と言われた。家族構成=モデルだったオルタンスとともに暮らし、 息子ポールも生まれましたが、 父には10年以上も秘密にしていました。 結婚したのは、1886年でした。よく使うモティーフ=プロヴァンス風景を描き続け、 静物にもこだわりました。よく行く場所=生まれ故郷の南フランス。交流のあった文化人=作家:エミール・ゾラは親友でしたが、 1886年に彼が発表した小説「制作」がもとで、 交友が途切れました。尊敬する芸術家=ドラクロワを大いに尊敬しました。セザンヌと言えばこの山セザンヌ作『サント・ヴィクトワール山』自然は実に複雑な形で、私の前に現れ、私はゆっくりと仕事を進めます。私が成し遂げなければならない進歩には限りがありません(セザンヌ)【セザンヌの年譜】1839年1月19日(0歳)銀行家の父のもと、 エクサン・プロヴァンス(エクス)に生まれる。1857年(18歳)エクスの市立素描学校で学ぶ。1859年(20歳)エクスからジャ・ド・ブファンに 父親が別荘を購入。そこに装飾画を描く。1861年(22歳)パリに出てアカデミー・シュイスに通う。1872年(33歳)息子のポールが生まれる。 ピサロの勧めで家族とともにポントワーズに移る。1886年(47歳)オルタンスと結婚する。 父が亡くなる。1895年(56歳)ヴォラ-ルの画廊で初めての個展を開催。1906年(66歳)写生中に嵐に襲われ、 ずぶ濡れになったことが原因で、 10月23日にエクスで急逝。セザンヌと言えば・・・『トランプをする人々』南フランス出身のセザンヌは、父からの仕送りもあり、金銭的苦労を知ることなく、アカデミー・シュイスでの勉強や、ルーヴル美術館での模写に励むことができた。若い頃には、あらゆるジャンルに挑戦していた。(のちに自らの手でこれらの初期作品を多数破棄してしまった)この頃、マネを中心とした若い画家たちが、カフェ・ゲルボワに集い、さまざまな芸術に関する議論を行っていた。セザンヌも彼らに合流した。画家としての転機が訪れるのは、1872年、ピサロとともにパリ近郊のポントワーズで制作したことにより、厚塗りの絵の具で、神話などを主題としていた作風は一変した。印象派の技法を学び、明るい色彩を用いて、細かいタッチで絵を描くようになった。 『オーヴェール・シュル・オワーズの首吊りの家』1873年(明治6年)油彩 カンヴァス 55.0cmx66.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。 セザンヌは・・・パリ近郊の町オーヴェール・シュル・オワーズや、ポントワーズに滞在した。ピサロとともに戸外でカンヴァスを並べて制作することで、田園的な主題を厚塗りの絵の具で描くようになる。ここにあるのは、晴れた春の日の田園風景である。高台から見下ろすように描かれた、わらぶき屋根の家。自殺者の出た家とされるが、真偽のほどは定かではない。小道やわらぶき屋根や石壁などの質感が、ザラザラとした絵肌であらわされている。第1回「印象派展」に出品された3点のうちのひとつで、展覧会での批判はよいとは言えなかったが、この作品は美術収集家のドリア伯爵によって購入された。そして存命中に、画家自身の承諾を得て何度も展示された数少ない作品のひとつである。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.05
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ポール・ゴーギャン(ゴーガン)は何故、妻子を残して南海の孤島タヒチに行ったのでしょうか?ポール・ゴーギャンPaul Gauguin『タヒチの女たち(浜辺にて)』1891年油彩 カンヴァス 69.0cmx91.5cmパリ「オルセー美術館」所蔵。光と色を追求した「印象派」の影響を受けて、当時のアート界は、ちょっとした「南国ブーム」となります日本の浮世絵に憧れ続けたファン・ゴッホは、日本の代わりに南仏アルルで生涯を終えるが、ペルー育ちで船乗りの経験があるゴーギャンは、本物の南国へ行くことで差をつけようとしましたポール・ゴーギャン(ゴーガン)Paul Gauguin1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)ポスト印象派(新印象派)の画家。ポン=タヴァン派、総合主義、象徴主義、プリミティヴィスム。芸術はひとつの抽象作業。自然を前にして輸送しながら、自然から芸術を抽き出すこと(ゴーギャン)【ゴーギャンのプロフィール】ゴーギャンの性格=毒舌家で野心家でしたが、 その一方で、インテリで照れ屋でもありました。家族構成=25歳で結婚。妻はデンマーク人のメット。 四男一女をもうけるが、別居するようになり、 ゴーギャンは恋人と一緒に住むようになる。よく使うモティーフ=人物を描くことが好き。よく行く場所=パリ、ブルターニュ、マルティニーク島、 アルル、タヒチなど。交流のあった文化人=詩人:ステファヌ・マラルメ、 批評家:アルベール・オーリエは、数少ない理解者だった。尊敬する芸術家=ドガは、感性と知性に恵まれていると思っていた。音楽と同じ振動である色彩は、自然のなかでもっとも曖昧なもの・・・すなわち内面的力・・・から生まれて、最後は、より普遍的なものに到達するのである(ゴーギャン)【ゴーギャンの年譜】1848年6月7日(0歳)共和国の新聞記者の父ピエールのもと パリに生まれる。1849年(1歳)一家でペルーに移住。船中で父が急死。1855年(7歳)母と姉とともにフランスへ戻り、 オルレアンに滞在。1865年(17歳)商船の見習い船員となり、 南米のリオ・デ・ジャネイロ航路につく。1872年(24歳)パリの株式仲買商ベルタン商会に勤務。 この頃から絵を描き始める。1886年(34歳)ブルターニュのポン・タヴェンに滞在。1891年(43歳)タヒチに滞在。1903年5月8日(54歳)心臓発作のためにマルキーズ諸島 ビオ・オア島アトゥオナで死去。株式仲買人の職にあったゴーギャンは、一家の昔からの知り合いの実業家で、同時代絵画の収集家でもあったギュスターヴ・アローザの勧めもあり、絵筆をとるようになる。日曜画家だったゴーギャンに影響を与えたのは、印象派の長老:ピサロだった。彼は、ギュスターヴ・アローザの家に出入りしていたピサロを知り、絵画について学ぶことになった。ピサロは若い画家たちの育成に力を注ぎ、新印象派の形成に大きく貢献していた。ゴーギャンは、ピサロとポントワーズで夏を過ごし、自分が師と認めるこの画家そっくりの風景画を描いた。一方、室内画や人物画では、ドガから強く影響された。「ドガの才能と生き方は、 芸術家がこうあるべきだ という希有な見本だ」とゴーギャンは述べている。画家になる決心をして、35歳にして株式仲買人の職を離れ、経済的に苦しい状況に追い込まれたゴーギャンは、家庭とも別居し、安く暮らせる場所を探していた。そんな時に仲間から勧められたのが、ブルターニュのポン・タヴァンだった。この村に初めて滞在した1886年、彼はパリからやってきた印象派の代表として受け入れられた。1888年の二度目の滞在の時には、若い画家たちのリーダー的存在になった。現実に見えるものと想像の世界を組み合わせ、明確な輪郭線と、鮮やかな色彩で描くという手法を生みだしたゴーギャンは、このとき、印象派を越える方法を見出したのだ。その後も、ブルターニュ、マルティーニク島、アルル、タヒチと放浪し、自らの画風を確立させることになる。ところが、2年後に帰国して成果を披露したものの、作品は、ほとんど売れず。パリに居場所を失ったゴーギャンは、再びタヒチに渡ります。今度こそ、二度と帰らぬ決意とともに。タヒチに戻っても以前の現地妻は、別の男と結婚しており、仕事もなくて貧乏になる一方。病魔にも冒され、生きる望みを失ったゴーギャンは、最後の力を振り絞って大作を仕上げた後に自殺を試みますが、それも未遂に終わります。晩年には、タヒチよりさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、貧困と苦痛のうちに世を去ります。友人:ゴッホと同様に、ゴーギャンも死後に評価され、自由な色彩表現は・・・マティスらの「フォーヴィスム」に強い影響を与えたのであります。(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.04
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『床削り』で有名なカイユボットの写実的な絵をじっくり鑑賞してみましょうふふっ手が長くない?ギュスターヴ・カイユボットGustave Caillebotte『床削り』1875年(床を削る人びと)油彩 カンヴァス 102.0cmx147.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。第2回「印象派展」出品。労働者階級の男性たちが、ブルジョワ階級が住むアパルトマンの古くなった床をカンナで削り直している。場所はパリで、カイユボットの隣家を描いたともいわれる。床には削られたあとが、縦縞の線となってあらわれている。床削り職人は酒を飲みながら、この辛い仕事をこなしているのだろう。画面右には、瓶とワインの入ったコップが置かれている。作品全体は、比較的暗い色調で仕上げられている。伝統的な要素が認められるものの、ドガのように、極端に強調された遠近法を用いて、入念に構成されている。この作品は、1875年のサロンに落選し、第2回「印象派展」に出品された。批評家たちは、「奇妙」であり、「あまりにも独創的」な構図に注目しつつ、描き方の力強さを称賛した。カイユボット・・・とは?ギュスターヴ・カイユボットGustave Caillebotte(1848年8月19日〜1894年2月21日(45歳没)フランスの画家、絵画収集家。写実主義、印象派。印象派展に経済的・精神的に貢献した。印象派の絵画を多く蒐集し、没後にその遺言状により国家に寄贈し、リュクサンブールから、ルーヴル美術館、現在のオルセー美術館の印象派コレクションとなる。【カイユボットのプロフィール】性格=人柄はよかったのですが、 怒りっぽくて短気でもありました。 ちなみに読書家でした。家族構成=生涯独身でしたが、 亡くなる前の約10年間には、 伴侶と呼べるような女性がいました。 その女性は、シャルロット・ベルティエです。よく使うモティーフ=自分の趣味でもあったヨットをはじめ、 スポーツをする男性を描くのが好きでした。よく行く場所=パリやその近郊。交流があった文化人=作家:エミール・ゾラは、「誠実な芸術家」と好意的に評価してくれた。 批評家:ギュスターヴ・ジェフロアとも親しかった。尊敬する芸術家=印象派の画家たちを支え、 世の中に認めてもらうことに専念していました。裕福な暮らしを送っていたカイユボットは、アカデミックな画家:レオン・ボナに師事し、伝統的な絵画教育を受けた。 その後、師匠:ボナの友人であったドガと知り合い、ドガを通じてモネやルノワールを紹介された。第1回「印象派展」の開催された年、保守的なブルジョワで息子がアカデミーの画家になることを望んでいた父親が亡くなり、膨大な遺産を得ることができた。父の束縛から逃れたカイユボットは、それまで続けていたサロンへの出品を取りやめ、印象派展に全力投球する。彼は、裕福だったために作品を売る必要もなく、独自の画風を確立することができた。カイユボットは、極端に遠近法を強調した構図を用いて、スポーツなどをする男性の姿を取り上げた。【カイユボットの年譜と作品】1848年8月19日(0歳)繊維織物商を営む パリの大ブルジョワの家に生まれる。1872年(24歳)アカデムスムの画家:レオン・ボナに師事。 父とともにイタリアを旅行する。1873年(25歳)エコール・デ・ボザール(官立美術学校)入学。第2回「印象派展」出品。1875年「床削り」第2回「印象派展」出品。1875年「窓辺の若い男」1876年(28歳)自分の死後にコレクションを国家に遺贈する という遺言を作成する。第2回「印象派展」出品。1876年「ピアノを弾く若い男」1882年(34歳)生活の場をセーヌ川沿いの町、 プティ・ジェヌヴィリエに移す。1885年(37歳)ルノワールの長男:ピエールの名付け親になる。第3回「印象派展」出品。1876年「ヨーロッパ橋」第3回「印象派展」出品。1877年「パリの通り、雨」第4回「印象派展」出品。1877年「ボート漕ぎ」第4回「印象派展」出品。1878年「屋根の眺め(雪の効果)」1883年「アンリ・コルディエの肖像」1888年(40歳)プティ・ジュヌヴエリエに家とアトリエを購入。 ルノワールがしばしばここを訪れる。1888年頃「アルジャントゥイユのヨット」1892年「干した洗濯物」1894年2月21日(45歳)プティ・ジェヌヴィリエにて死去。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.03
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19世紀の女流画家は、モリゾ、カサット、そしてエヴァ・ゴンザレス。ちょっとマネに似ている・・・と、思ったあなたさすがですエヴァ・ゴンザレスEva Gonzalès『イタリア劇場の桟敷席』1891年(明治24年)油彩 カンヴァス 98.0cmx130cmパリ「オルセー美術館」所蔵。ゴンザレスは・・・エドゥワール・マネに師事した女性画家。上流階級の女性が、劇場のバルコニーに着飾って訪れた様子が、印象的に捉えられているゴンザレス・・・とは?エヴァ・ゴンザレスEva Gonzalès1849年4月19日〜1883年5月6日(34歳没)フランスの印象派の画家である。ゴンザレスは・・・1849年4月19日、パリに生まれる。父方は、スペインにルーツを持つモナコのブルジョワ家系。母は、ベルギー人音楽家。ゴンザレスは、16歳から美術を学び始めた。当時、公立の美術学校は、女性の入学を認めていなかったので、パリで女性のための絵画教室を開いたシャルル・シャプランに学んだ。(1825年〜1891年)1869年、スタジオを開き、ベルギー出身の画家アルフレッド・ステヴァンスに紹介されて、(1823年〜1906年)エドゥアール・マネの弟子になった。(1832年〜1883年)この頃、マネによるゴンザレスの肖像画が描かれた。1870年から、サロン・ド・パリに作品を出展。マネと同じように印象派展にしたことはないが、そのスタイルから、印象派の一員に数えられている。エヴァ・ゴンザレスは、マネのただ一人の生徒であった。また、彼女は、印象派の画家たちのためにモデルを務めることも多くあった。普仏戦争の間は、ディエップに移る。エヴァは、Henri Guèsrardと結婚し、夫と自分の妹をモデルに多く作品を残した。エヴァは、出産時に34歳で死去したが、それは師であったマネの死の6日後のことであった。(参考文献:Wikipedia様より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.02
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印象派クイズにちょっと飽きてしまいました〜今日から作品を通じてお勉強してみようかと勝手ねっ。19世紀「印象派」女流画家:ベルト・モリゾの次はメアリー・カサットMarry CassattThe Loge『劇場の特別席』油彩 カンヴァス 1882年ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。メアリー・カサットMarry Cassattメアリー・スティーヴンソン・カサットMarry Stevenson Cassatt1844年5月22日〜1926年6月14日(82歳没)アメリカ人画家・版画家【カサットのプロフィール】性格=たくましい性格。家族構成=生涯独身。子どもはいません。よく使うモティーフ=女性、母子、 家庭生活を扱った絵が多い。よく行く場所=あまり女性が外出しやすい状況ではなく、 劇場へは、男性同伴なら行くことができました。交流のあった文化人=アメリカの実業家で、 美術収集家のヘンリー・ハヴマイヤー夫妻。 妻のルイジーヌは幼なじみで、 長い間友情をはぐくんでいましたが、 1923年に言い争いをして仲違いした。尊敬する芸術家=師:ドガとは深い親交を結ぶ。 日本の浮世絵版画にも関心を持った。【カサットの年譜】1844年5月22日(0歳)銀行家の父のもと、 アメリカのペンシルヴェニアに生まれる。1866年(22歳)フランスに留学する。1873年(29歳)パリに移り住む。1892年(48歳)世界コロンビア博覧会の 女性館のために壁画制作を行う。1893年(49歳)デュラン=リュエル画廊で 大規模な個展を開催する。1904年(60歳)レジオン・ドヌール勲章を授与。1914年(70歳)ピッツバーグ美術アカデミーの ゴールド・メダルを受賞。 白内障を患い、絵画制作から離れる。1926年6月14日(82歳)フランスのメル・テリビュで死去。裕福なアメリカ人家庭に育ったメアリー・カサットは・・・フランスとは違い、女性にも入学が認められていたアメリカのペンシルヴェニアアカデミーで、基礎を学んだ。フランスに渡ってからは、パリの画塾で学び、パリのサロンに作品を出品するなど、きわめてアカデミックな教育を受けた。また、イタリアや、スペイン、オランダ、ベルギーに滞在し、過去の巨匠たちの作品を学んだ。けれども「ドガ」の作品との出会いをきっかけに、アカデミックな規範から離れることになる。カサットは、ドガの弟子になり、印象派展に参加した。師のドガからの影響だろうか、彼女の興味は、光の表現よりも、同時代の人びとにあった。アカデミックな教育で培った卓越した技術をもって、人物を的確に表現した。メアリー・カサット『オペラ座の黒衣の女』1879年頃1870年代、パリには新しい劇場がいくつも誕生し、それぞれ特色ある講演が行われた。劇場は車校の場であり、誰もが着飾ってその場に臨んだ。カサットは、師のドガと同じく、劇場をテーマに多くの作品を描いたが、彼女の興味をひいたのは、観劇する女性たちだった。この作品では、舞台の脇にあるボックス席に座り、舞台に見入っている女性があらわされている。オペラグラスを手に持っている女性の姿はよく描かれているが、このように実際に使っている場面が選ばれることは珍しい。横顔を見せる黒衣の女性は、派手なアクセサリーをつけておらず、慎ましやかで上品な装いをしている。黒色は、この当時のファッションの流行色でもある。『5時のお茶』1879年この頃から、イギリスで「アフタヌーンティ」午後の紅茶という習慣がはじまった。イギリス趣味を好んだパリの人々の関心を引く画題だったのだろう。この絵に描かれているのは、ブルジョワの客間。テーブルの上には、2人分のティーセットが用意されている。簡素な服装やくつろいだポーズから、左端の女性が、このお茶会の女主人ということが分かる。彼女は、すでにからになった茶碗を置いてしまっている。帽子を被り、長手袋をはめた女性客は、背骨を伸ばして上品にお茶を飲んでいる。華やかな生活をあらわすよりも、比較的控えめの色彩を用いて、女性たちの日常を淡々と描きとめている。女性たちも何か考え込むような様子ですらある。この作品は、第5回「印象派展」に出品された。『寝たがる子供を洗う母』1880年カサットの作品の大半は人物像だ。カサット自身は、生涯独身だったものの赤ん坊の世話をする母親、子どもの面倒を見る乳母、午後のお茶で一息入れる女性たちを多数描いた。それらは、女性たちの日常である。カサットの母子像は、決して穏やかな愛情のみを表したものではない。そこに描かれれるのは、育児という重労働に専念する母親の姿であり、むずかったり手足をバタバタさせる子どもの姿である。子どもの世話をする乳母など、ブルジョワ家庭で働く女性たちの姿も、カサットの興味を引くものであった。さまざまな労働に従事する女性たちの日常の何気ない情景を描き続けたカサットは、女性をめぐる多様な困難を克服するため、女性の参政権運動などにも積極的に参加した。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.11.01
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ファッションに敏感な美しい女性です。今でもイケてる感じこの人は誰でしょう?【ヒント】19世紀の女流画家です。第一問=この絵のモデルは、誰ですか?第二問=この絵の題名は?第三問=この絵は、どこの美術館にありますか?第四問=この女性は、何派の画家ですか?第五問=この絵を描いたのは、誰ですか? モデルとの関係は?モリゾ「ゆりかご」姉エドマと赤ん坊答えは・・・第一問=この絵のモデルは、誰ですか?【解答】モリゾ第二問=この絵の題名は?【解答】すみれの花束をつけたベルト・モリゾ第三問=この絵は、どこの美術館にありますか?【解答】パリ・オルセー美術館第四問=この女性は、何派の画家ですか?【解答】印象派第五問=この絵を描いたのは、誰ですか? モデルとの関係は?【解答】エドゥアール・マネ 弟の嫁。モリゾ「ブージヴァルの庭のウジューヌ・マネと娘」モリゾ・・・とは?ベルト・モリゾBerthe Morisot1841年1月14日〜1895年3月2日(54歳没)19世紀印象派の画家。マネのモデルとしても知られる。裕福な家庭に生まれたモリゾは、姉:エドマとともに絵画を学んだ。両親の理解もあり、良家の子女のおけいこごとの枠を超えて、画家になる道を選ぶことができた。The Sisters(1869)ルーヴル美術館で、コローを知り、姉妹は、その光や大地の表現に魅了された。そしてコローに弟子入りし、戸外での制作を試みた。【モリゾのプロフィール】モリゾの性格=積極的であり、意志も強い女性。家族構成=画家:エドゥアール・マネの弟:ウジェーヌと結婚。 一人娘は、ジュリーモリゾ「夢見るジュリー」よく使うモティーフ=女性や子ども、日常的な情景を描く。よく行く場所=あまり自由に外出できない時代でした。 外出には、夫や付き添い人が必要でした。交流があった文化人=長い付き合いがあった詩人、 ステファヌ・マラルメは、モリゾが死んだあと 娘:ジュリーの後見人となった。尊敬する芸術家=初期にコローとマネから影響を受け、 晩年には、ルノワールからも影響を受けた。The Harbor at Lorient(1869)【モリゾの年譜】1541年(0歳)公職を歴任する父と 18世紀の画家フラゴナールの遠縁にあたる母のもと ブルージュに生まれる。1852年(11歳)家族でパリに引っ越す。1858年(17歳)姉:エドマとともに絵を習う。 ルーヴル美術館の模写の許可を得る。1860年(19歳頃)コローに師事し、 両家は家族ぐるみの付き合いをする。1867年(26歳)ファンタン=ラトゥールを通じてマネと知り合う。1874年(33歳)マネの弟:ウジューヌ・マネと結婚。1878年(37歳)娘:ジュリーが生まれる。 第4回「印象派展」への参加を見送る。1892年(51歳)夫:ウジューヌ死去。1895年(54歳)ジュリーから移された風邪が原因で 肺鬱血の激痛に襲われ、パリで急死。マネ作「バルコニー」 モリゾの運命を変えたのは、マネとの出会いだった。モリゾ家とマネ家は・・・家も近く、家柄も同じ程度だったこともあり、親しくなるのに時間は掛からなかった。モリゾは、マネの『バルコニー』などのモデルを務める一方、マネから画風の上で影響を受けた。この時期、コローからの影響に加え、黒色を多く用いた陰影のない平坦な人物像を描いた。モリゾ「モリゾの母と妹」モリゾは・・・結婚して絵画の道を諦めた2歳上の姉:エドマをしばしばモデルにした。第一回「印象派展」が開催された1874年、モリゾはマネの弟:ウジューヌと結婚した。優しくておだやかな夫の理解のもと、画家という道を進むことができた。そしてこの頃、コローやマネからの影響を脱して独自の画風を確立し、モリゾは大胆でのびやかなタッチを用いるようになった。19世紀当時、女性がプロの画家として活躍するには、さまざまな制約があった。ブルジョワの女性たちには付添人なしで公的な場に出かけることはできなかったのである。モリゾ「蝶々捕り」そのためモリゾが取り上げた絵画の主題は、主に家族や身近な存在だった。娘:ジュリーが生まれてからは、愛娘の成長を描きとめたものの、不幸にも娘が成人する姿を見届けることはできなかった。モリゾ「夏の日」1879年第5回「印象派展」出品作。ブローニュの森の近くに住んでいたモリゾにとって、この森は散歩コースになっていた。夏の日をボートに乗って過ごしている。画面に描かれていない男性がボートを漕いでおり、2人の女性は涼しい風を優雅に味わっている。女性たちはリボンのついた夏の帽子をかぶり閉じた日傘を膝に置いている。夏の日であっても良家の女性は、肌を露わにしてはならなかった。帽子は、身だしなみとして昼間の外出には欠かせないものだった。日よけのためのパラソルは・・・おしゃれなアクセサリーとして19世紀後半のフランスで流行していた。流行の服装をした女性で、季節をあらわしているものの、大胆な筆致のために衣服の細部はよく分からない。クイズは、ひとまず最終回悪しからず。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影/出題:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.31
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これも大好きな絵画ですね〜おしゃれな人がいっぱい描かれています【ヒント】喫茶店みたいな名前の画家です 第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=現在、どこの美術館にありますか?第四問=この画家は、何派の画家ですか?第五問=どこで描きましたか?第六問=この絵を買ったのは、誰ですか?第八問=絵のモデルは、誰ですか?第九問=出品されたのは、何回めの何という展覧会ですか?第十問=この絵の全体に描かれた白い部分は、何ですか?第十一問=この絵の中には、何人が描かれていますか?答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ルノワール第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 (ムーラン・ド・ラ・ギャレット)第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】オルセー美術館第四問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派(厳密には、のちに新印象派)第五問=どこで描きましたか?【解答】パリのモンマルトルの丘にある ムーラン・ド・ラ・ギャレットというダンスホール。第六問=この絵を買ったのは、誰ですか?【解答】カイユボット第八問=絵のモデルは、誰ですか?【解答】ルノワールの友人たち第九問=出品されたのは、何回めの何という展覧会ですか?【解答】第3回・印象派展第十問=この絵の全体に描かれた白い斑点は、何ですか?【解答】木漏れ日第十一問=この絵の中には、何人が描かれていますか?【解答】127人Bal du moulin de la Galette『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)1876年油彩 カンヴァス 131.0cmx175.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。ルノワールが、35歳の時に描いた作品。1877年、第3回「印象派展」に出品。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ルノワールピエール=オーギュスト・ルノワールPierre-Auguste Renoir1841年2月25日〜1919年12月3日(78歳没)フランスの印象派の画家。厳密には後期から、ポスト印象派(新印象派)のグループとなる。ルノワールは、最初サロン風の画風であったが、モネたちグループや、ドラクロワの影響も受ける。アングル風の時代。ルノワールの印象派時代。ルノワールのポスト印象派時代。と区別してまいりましょう。第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 (ムーラン・ド・ラ・ギャレット)「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は・・・製粉業を営むギャレットを売っていた商人の親子が、古い風車の近くに開いたダンスホール。「ムーラン」は、風車という意味で、「ギャレット」は、焼き菓子の意味。カフェのダンスホールは・・・毎週、日曜日のみ、午後3時から、深夜までの営業。週末にカフェやダンスホールに行くことが当時のパリ労働者階級の庶民の楽しみであった。第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】オルセー美術館印象派グループと共に展示されています。大きな作品なので、すぐに目に飛び込んできます第四問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派後期から、ポスト印象派(新印象派)。第五問=どこで描きましたか?【解答】パリのモンマルトルの丘にある ムーラン・ド・ラ・ギャレットというダンスホール。当時、ルノワールは・・・このダンスホールの近くに住んでいた。アトリエから通いながら制作した。しかし、131cmx175cmと大きくダンスホールには、半分ほどのサイズのカンヴァスを持って行った。とは言っても、大きいですが。アトリエに持ち帰り、大きなカンヴァスに描いた。ということで「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、2枚あることになる。小さい方は・・・1990年に齊藤了英が7800万ドルで落札。その後バブル崩壊で海外流出。第六問=この絵を買ったのは、誰ですか?【解答】ギュスターヴ・カイユボットGustave Caillebotte代表作=床削りの人々(1848年8月19日〜1894年2月21日(45歳)カイユボットは、お金持ち。フランスの画家であり、絵画収集家であった。第2回「印象派展」の開催に経済的・精神的に貢献し、印象派の彼らの絵の多くを買い取った。彼の遺言で、死後フランス政府に寄贈され、オルセー美術館に至る。第八問=絵のモデルは、誰ですか?【解答】ルノワールの友人たち画中の人物は、ルノワールの友人たちである。手前の左側ダンスをしている黒い帽子の男性は、キューバの画家:カルデナス。カルデナスの相方の女性は、当時、ルノワールのお気に入りのモデルの、マルゴ。中央下側のベンチに座っている女性が、エステル。エステルの背後にいる女性が、『ぶらんこ』右エステルの姉:ジャンヌ。この姉妹は、素人モデルである。右側のテーブルに座っている3人の男性のうち、背を向けて姉妹と会話しているのが、画家の、フラン=ラミ。その向かい側でタバコを口にくわえているのが、画家のノルベール・グヌット。その右側で、メモを取っているのが、批評家のリヴィエール。第九問=出品されたのは、何回めの何という展覧会ですか?【解答】1877年、第3回・印象派展第十問=この絵の全体に描かれた白い斑点は、何ですか?【解答】木漏れ日ルノワールの『陽光の中の裸婦』『ぶらんこ』とともに、印象派時代の特徴は、太陽の光を木漏れ日を通して人物に光が当たるぼかした白い斑点を描いた。第十一問=この絵の中には、何人が描かれていますか?【解答】127人『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』には、何人描かれているのでしょうか?手前の人は、確かに数えてみたのですが30人余り、後方の人は重なり合って確認が不可能ですちゃんと数えた人がいるそうです。大盛況のカフェ・舞踏会の様子が表現されています(写真撮影/出題:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.30
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