「きらりの旅日記」

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2017.02.05
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カテゴリ: 映画
映画「エゴン・シーレ」を渋谷文化村で見て来ました(^-^)V


エゴン・シーレ・・・とは?

            (ウィキペディアさまより)

エゴン・シーレ
Egon Schiele

1890年6月12日 - 1918年10月31日

オーストリアの画家。

エーゴン・シーレとも。

当時盛んであったグスタフ・クリムトらの

ウィーン分離派を初めとして象徴派、

表現主義に影響を受けつつも、

独自の絵画を追求した。



意図的に捻じ曲げられたポーズの

人物画を多数製作し、

見る者に直感的な衝撃を与えるという作風から

表現主義の分野に置いて論じられる場合が多い。


オーストリア・ハンガリーの首都ウィーン近郊にある

トゥルン・アン・デア・ドナウに生まれる。

父アドルフ・シーレは

帝国鉄道の鉄道員として働き、

後には駅長を務めている。

母マリア・ソウクップ・シーレは

クルマウ・アン・デア・モルダウ市出身の



シーレ家は、北ドイツ出身で

ルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した

中産階級の家系である。

鉄道技師だった

祖父ルートヴィヒ・シーレ(1817-1862)が



初代監督官に就任したことによって

オーストリア=ハンガリー帝国に住むようになった。

ローマ・カトリック教会が

圧倒的なオーストリアにあって、

少数派のルター派

オーストリア福音主義教会

アウクスブルク信仰告白派に属していた。

なお、

オーストリアでは19世紀後半以降、

芸術、文学、建築等で

新教徒の活躍が目立ち、

彼もその集団の一人でもあった。


幼少期にシーレは

初等教育を受ける為に

クロスターノイブルク市へ移住、

そこで美術担当の教員から

早熟な才能を認められている。

教師からの推薦を受けたことは

シーレにとって大きな後押しとなった。

15歳の時に父が梅毒で病没すると

叔父レオポルドに引き取られた。

叔父は

シーレが学業に励まないことに悩んだが、

同時に芸術への強い興味に理解を示すなど

シーレに愛情を持って接している。

翌年にシーレは

ギムナジウムではなく

職人としての訓練を受ける許可を得て、

16歳の時に

グスタフ・クリムトと同じ

ウィーン工芸学校に学んだ。

ただ異なったのは

クリムトがそのまま職工として開業したのに対し、

よりアカデミック色が強く純粋芸術を追求する場であった

ウィーン美術アカデミーへ更に進学した点であった。

ちなみに

シーレが同アカデミーに入学した1906年の翌年と翌々年には、

アドルフ・ヒトラーが同アカデミーを受験して不合格になっている。


【クリムトとの出会い】

ヒトラーにとっては

一生の羨望となるウィーン美術アカデミーも

シーレにとっては失望の場でしかなかった。

保守的で時代錯誤な

古典主義を継承するアカデミーに

価値を感じなかったシーレは

アカデミーの授業から離れ、

代わりに工芸学校時代の先輩である

グスタフ・クリムトに弟子入りを志願した。

クリムトとシーレの作風は

必ずしも同じ路線ではなかったが、

クリムトは熱意ある後輩を大いに可愛がり、

貧しいシーレが

モデルを雇う代金を立て替えてやるなど

援助を惜しまなかった。

またクリムトは

自身の分離派を初めとして、

象徴派や表現主義など

新しい作風を模索する作家達が組織した

ウィーン工房にシーレの入会を推薦した。

クリムトの全面的な援助にも助けられ、

1908年には

最初の個展を開いている。

1909年、アカデミーを正式に退校して

アカデミー教育と決別、

同時にアカデミーを離脱した仲間達と

交流会「Neukunstgruppe」

(ノイ・クンスト・グルッペ、新たなる芸術の集い)を設立した。

本格的に独自の活動を開始したシーレに衝撃を与えたのは

分離派の源泉とも言える

フランス印象派の絵画展を

クリムトが開いた時のことであった。

その展覧会で

実物のフィンセント・ファン・ゴッホの作品を目の当たりにし、

自らの芸術観に多大な影響を与えられた。

また同じくゴッホの影響を受けた

ドイツ表現主義の画家達

(ヤン・トーロップ、エドヴァルド・ムンク)の絵画も展示され、

彼らからも強い影響を受けた。


【独自活動】

展覧会の刺激で

創作意欲に駆られたシーレは

精力的に試作を繰り返し、

アカデミーの制約を離れた

自由な創作を繰り広げた。

人体に関する研究も

単に人体構造を作品に反映させるだけでは飽き足らず、

性の部分など

タブー視されていた部分も

作品に取り込もうとした。

死や性など

倫理的に避けられるテーマを

むしろ強調するような作品を制作していった。

裸体や性を描くこと自体は

問題視される傾向が減りつつあったが、

彼の描く表現は

非常に過激だと受け取られた。

しかしシーレは

倫理的に問題視されるような描写も

怯まず作品へ用いていった。

画風では

ゴッホに代表される

表現主義の躍動感ある描き方を好み、

特に「向日葵」を賞賛している。

自らもゴッホへの賛辞として

同じ構図の向日葵を作品として遺している。

また自らの生年がゴッホの死没年であることに

「運命を感じていた」という。


1911年、シーレは

自らの裸体モデルを務めていた

ハチミツ色の金髪と

青い目をもつ17歳の少女

ヴァリ・ノイツェル

(本名 Walburga Neuzil、1894-1917)と

同棲を始めた。

彼女はクリムトから紹介されたモデルであるとも、

街中でシーレが声をかけたとも言われており、

知り合った経緯は定かではない。

親しい間柄となった二人は

ウィーンの喧騒を離れて

母方の故郷である

チェコのチェスキー・クルムロフ市へ移住している。

別段二人の関係は

隠し立てされたものでもなかったが、

シーレの母の一族が住んでいたにも関わらず

閉鎖的な田舎町は

彼らを歓迎しなかった。

というのも、

シーレの家に娼婦などが出入りして

ヌードモデルをしていることを

近隣の住民が知るところとなったからで、

やがて二人は

町から追い出されるようにして

ウィーンへと舞い戻った。

そして今度はウィーン近郊の

ノイレングバッハにアトリエを開いて活動したが、

下町の子供を誘い込んで絵のモデルにしたり、

庭で女性モデルを裸にして

デッサンを描くなどしたため、

再び近隣住民から追い出されるように

町を後にすることとなった。


1912年4月、14歳の少女が

シーレの家で一夜を明かしたと警察に告げ、

警察が逮捕の為に踏み込むと

大量の絵が見つかった。

その後、シーレは

24日間にわたって拘留されている。

シーレ自身の手記によれば

彼は家出少女に宿を貸しただけで、

何らやましいことはしていないと書き残している。

しかし裁判所は

シーレの絵を猥褻物として押収し、

そればかりか裁判官の一人は

目の前にあった蝋燭で絵を燃やすという

不要な挑発行為まで行ったという。


【エーディトとの結婚】

1914年、ウィーンに戻ったシーレは、

通りを挟んだ向かい側に住んでいた

中産階級職人の娘、ハルムス家の

エーディトとアデーレ姉妹と知り合っていた。

シーレは

どちらかと結婚することを考え、

エーディトを選択した。

シーレによれば

社会的に許される人間を選んだとしているが、

実際のところは

エーディトとヴァリの両方を繋ぎ留めたいと考え、

年に1回それぞれと2人で

バカンスに行くなどといった妥協案を2人に提示したが、

そんなことが受け入れられるわけもなく、

ヴァリは

2人の前から去った。

そして、ショックを受けたヴァリは

二度とシーレの前に現れなかった。

シーレは

この時の経験も絵画として描いている。

その後ヴァリは

従軍看護婦としての訓練を受け、

クロアチアに派遣されるも、

1917年に23歳の若さで派遣先で病死した。


1915年6月17日、

ウィーン市の中心部ドロテーア通りにある

オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派市区教会で

エーディト・ハルムスとの結婚式が執り行われている。

花嫁エーディトの父ヨハン・ハルムスは

北ドイツ出身の機械工のマイスターでルター派であった。

カトリックが圧倒的であったウイーンにおいて、

少数派のルター派教徒同士の結婚を選択している。

結婚は

ハルムス家の妹エーディトとしたが、

姉のアデーレとも親しかった。

エディトの姉アデーレを下着姿のモデルにして

作品『紫色の靴下をはいて座っている女』(1917年)

を描いているが、

その時期シーレと姉アデーレの間には関係があった。


【従軍と成功、病死】

結婚の3日後、

第一次世界大戦が勃発すると

24歳のシーレは

オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集された。

作品制作も中止に追い込まれたが、

結果としてみればこの出来事は

シーレの飛躍に繋がる結末となった。

チェコ地方のプラハ駐屯部隊に配属されたシーレが

上層部に画家として活動していることを説明すると、

軍は芸術家を尊重してシーレを前線勤務に就かせなかった。

彼は主に後方のプラハで

捕虜収容所の看守を務めつつ、

戦争という経験の中で

スケッチや作品の構想を続けることができた。

更に1917年に

首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、

暖めていたアイディアの製作に打ち込んだ。

1918年、

大戦も終わりに近付いた時に

クリムトによる

第49回ウィーン分離派展に

50点以上の新作を一挙に公開、

それまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は

一躍注目を集めた。

シーレの絵の価格は上昇し、

要望を受けて

次々と絵の買取依頼が舞い込むようになった。

画家としての大きな一歩を踏み出したシーレであったが、

妻エーディトが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹り、

シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去。

シーレも同じ病に倒れ、

妻の家族に看護されたが、

10月31日に亡くなった。

シーレは死の直前にエーディトのスケッチを遺している。


【後世への影響】

シーレの「二十代で早世した天才画家」というイメージは

1980年にジェーン・バーキンが主演した映画『エゴン・シーレ』

(ビデオ邦題『エゴン・シーレ/愛欲と陶酔の日々』)で広く認知された。

これ以外にもシーレを題材とした様々な芸術作品が製作されている。

エゴンシーレの名を冠した楽曲『ミュージック・フォー・エゴン・シーレ』

ダンス、エッセイ、小説などに彼の作品やその人生がモチーフに引用された。

作品群は故郷であるオーストリアのレオポルド国立美術館、

チェコのシーレ記念美術館、ニューヨーク市立美術館など世界中の美術館に収蔵されている。

ナチス時代にヒトラー政権によって退廃芸術展が開かれた際、

ドイツ国内はもちろん占領地域からもシーレの作品が没収されるなど危機的な状態に置かれ、

戦争が終った現在は作品返還についての議論がドイツ国内の美術館を相手に行われている

(シーレ以外にも略奪美術品についての返還に難色を示す場合が多い)

2010年、オーストリア政府は

1900万ドルでシーレの作品を買い戻す依頼を

ドイツ政府に行った。

現在レオポルド国立美術館は最も多くのシーレ作品を保管している。

2011年に200点以上が存在するシーレ作品の一つが資金調達の為に

サザビーズへ委託されたが、

オークション価格は4010万ドルまで高騰した。

日本では1979年の回顧展がきっかけとなって、

展覧会や出版物でシーレがたびたび紹介されるようになった。




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最終更新日  2017.02.05 19:29:21
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