「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

2020.12.31
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​ゴッホが突然芸術の都パリに向かったのは、1886年でゴッホ33歳の春でした。いや〜パリが嫌いだったはずのフィンセント君・・・ゴッホって、どんな人だったのでしょうか?


​パリ・モンマルトルでの生活​​


モンマルトルの丘「サクレ・クール寺院」


ファン・ゴッホはボヘミアンの聖地パリ・モンマルトル


居場所を見つけたような気分を味わうのであります


通い始めた「ヘルナン・コモン」の画塾では・・・


前衛画家たちと出会って、大いに触発されるのでした



フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ
​Vincent Willem van Gogh​
1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)


当時は、まだ数基の風車が残っていたモンマルトルは、


ゴッホに故郷を思い出させるほどの田舎でした。






石切場や棚で仕切られたぶどう園・菜園・畑、


工房が点在していたが、モンマルトルの町は、


安酒場を提供する歓楽街となっていた。


丘の頂までうねるように伸びる狭い通りは、



昼は、絵のように美しく・・・



夜は、暗く危険な場所だった


今もパリにそびえ立つサクレ・クール寺院は、


1871年のパリ・コミューンの余波で


街を襲った暴力の償いとして建てられたが、


当時は、まだ建設中だった。


ゴッホと弟:テオが最初に住んだのは・・・


モンマルトルの端にあるピガール広場から南に


1ブロック離れたラヴァル通りの小さなアパルトマンだった。


散らかし放題のゴッホに・・・





だが、数ヶ月後にルピック通り54番地に引っ越したことで


事態はいくらか改善した


居間と寝室2間、そしてゴッホの小さな画室のついた


このアパルトマンからは、街が一望できた


モンマルトルの丘の麓には・・・


1870年代に前衛芸術活動で賑わった


「バティニュール地区」があった。





ブッソ=ヴァラドン商会の支店長を務めており、


会社を説得して保守的な絵画以外にも


「印象派」の市場開拓に乗り出したが、


それまでのところ成果は限定的だった。


今でこそ有名な印象派の画家たちも、


当時は、評価も認知度も低かった。


画家として自信のなかったゴッホは・・・


高名なアカデミー画家の「フェルナン・コルモン」1845年〜1924年


に師事し、テオのアパルトマンから数ブロック離れた


コルモンの画塾に入った。


こうした画塾は・・・


官立美術学校(エコール・デ・ボザール)への


入学準備用の場所として、


成功を収めたサロン画家が運営していた。


授業内容は、画塾によって異なり、


ゴッホは・・・


コルモンの画塾が特にリベラルだという評判を


同塾に通ったことのある友人:ブレイトネルから聞いていたようだ。


ゴッホは・・・


この画塾で知り合った前衛画家から刺激を受け


彼らを通して新進画家のさまざまなグループとも交流するようになる。


しかしコルモンの画塾は、一時的に閉鎖されていた


早熟で野心溢れる エミール・ベルナール

1868年4月28日〜1941年4月16日


このベルナールの悪ふざけによっての閉鎖


ベルナールは・・・


「画中における表現の性質」が原因でエコール・デ・ボザールから


既に停学処分を受けていた


ベルナールは、反抗的ないたずら・・・


裸体モデルがポーズをとる場所の暗い塾を


明るい縞模様に塗り替えたのために画塾を追われ


パリを離れてブルターニュ地方を放浪する。


画塾が再開された際に


ベルナールが何度か立ち寄っており


そこで・・・ゴッホと出会ったようだ


ゴッホは、それまでにも


画塾の2人の生徒と知り合いになっていた


1人は、新進気鋭の 画家:ルイ・アンクタン

1861年1月26日〜1932年8月19日
作品「クリシー大通り、午後5時」1887年


もう一人が・・・


トゥルーズ=ロートレック

1864年11月24日〜1901年9月9日、


当時、ロートレックが・・・


個性的かつ芸術的に惹かれた猥雑なパリ生活の魅力は、


労働者階級の女たちを細やかに描いた肖像画の連作に現れつつあった


コルモンの画塾にいた英国人画家:アーチボルト・ハートリックが


当時のゴッホについて 鮮明に伝えている。


「赤毛の顎ひげと

 ゴワゴワした口髭を生やし、


 頭は刈り込み、目つきは鋭く、

 辛辣なことを言いそうな口元、

 中背で贅肉のないがっしりした体格、

 活発な仕草にぎこちない足取り、

 いつもパイプをくわえて

 カンヴァスの前に立ち、

 版画と素描に囲まれた男、

 それがゴッホだ。

 自説を説明したり、

 発展させたりしながら

 のべつまくなしに熱く語るが

 論議を吹っかけることはないーー

 ただ弟に対しては別なようだ。

 兄の狂乱に振り回されて

 テオの頭は爆発しそうだった。

 ゴッホにはオランダ語や英語やフランス語で

 まくし立てては肩越しに振り返り、

 歯の間からシーッと音を出す変な癖があった。

 実際、こんなふうに興奮した時は、

 狂人のように見えたが、

 疑わしげにむっつりする時もあった・・・

 でも子供のように単純なやつで、

 喜びや痛みを子供のように大声で表現する。

 こちらが戸惑うほど好き嫌いをはっきりと言うが、

 悪気があるわけでも、

 相手が気を悪くしたことに気づいた様子もない」。


こうした証言の多くがそうであるように、


これもかなり後に書かれたものなので


鵜呑みにするわけには行けないがクール


それらしく聞こえる。


ゴッホは、コルモンの画塾で1日4時間、


ヌードや古代・ルネサンス彫刻の複製の素描・習作を製作し、


午後は、大抵ルーヴルやリックサンブール美術館で過ごした。


サロンで受賞して国家買い上げになった作品は、


1818年に開館したリュクサンブール美術館に展示されたが


画家の没後、その作品は


ルーヴルのコレクションに加わることになっていた。


彼が、レンブラントやドービニーと並んで高く評価した


風景画家:ジョルジュ・ミシェルなどの作品を


ゴッホは研究できた


ドービニーが1874年に描いた

『春』は、当時ルーヴルに展示されており、


ドービニーに傾倒したゴッホは、


オーヴェル=シュル・オワーズにあるドービニーの家や


庭の絵を豊かな色彩表現で晩年で最晩年に仕上げている。


この時期に研究した画家たちを彼は生涯崇拝し続け、


亡くなる年にも


「ドラクロワ、ミレー、ルソー、 そして(ジュール)デュプレの画派の永遠の若さ」


について記している。


(参考資料:ガイアブックス、ファン・ゴッホより)
(写真撮影:ほしのきらり。)



今年は、経験したことのない世界となり

これまでで一番家に居た

ステイホームの1年間でした


しかし、1年間じっくりと勉強できた年でもあり

人生には無駄な経験などないはず

大きな収穫に変える努力が大切だと

考えながら知識を積み上げてゆこうと・・・

ますますしばらくは こもり

健康な世界になりますよう願いつつ

希望を持ってゆきましょう


​2020年大晦日ほしのきらり。​


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最終更新日  2020.12.31 00:10:12
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