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昨夜、嬉しい電話がかかってきました。26日から29日まで、ジュニアヨットOP級のナショナルチーム最終選考会が浜名湖で開かれ、うちのクラブからは、1次選考会を突破した4人がチャレンジしました。結果は、4人ともナショナルチーム入りし、世界選手権(スイス)に1人、ヨーロッパ選手権(ポーランド)に1人、アジア選手権(タイ)に1人、アセアン選手権(マレーシア)に1人と成績順に、今年日本から派遣される4大会に1人ずつ入った。途中経過を、HPで速報し、最終日には現地に電話をして、結果速報もクラブ員みんなに流した。電話の主は、この大会に優勝して昨年に続き、ワールドにチャレンジすることになった選手のお父さんからでした。この子がヨットを始めたときは、コーチをしていたが、わが子のジュニア卒業と共に、現役親コーチにバトンタッチしている。どんな成績になっても、親子で同じ目標に向かうことが楽しいことで、全部コーチにお願いして成績が出るより、親子のその後に意味があると思っているからです。それから、ジュニアなんてヨットを始めたばかりなので、ヨットが好きになることとスピード感覚を身につけることが一番大切なことで、気持ちよく走らせようとコーチングしていた。相手艇の弱点を突いたり、邪魔をして風を奪ってより相手を遅くして、結果的に自分が前になるような、小手先のテクニックを小さな時から教えると、そちらで勝とうとして絶対的なスピードを磨くことをおろそかにしてしまう。ジュニア時代に老練なレースでいい成績を残すより、成績は出なくても、荒削りでもでっかい原石にするのが、長い目で見ればよりその子のためになると思っている。お父さんは、今回のレースに付き添わなかったが、本人との話で、「ヨットを始めた頃、こうしたらいいと正解を教えられず、どう考えるかと、考える習慣を身に付けさせてもらってよかった」という言葉がでたそうです。いやあ、あれから3年はたっているが、本当に伝えたかったことがちゃんと伝わっていると嬉しくなった。実は29日の最終日の夜、お母さんから電話をもらっていた。内容は、ワールド遠征ナショナルチームのHP担当になって欲しい、というものでした。お母さんの話によれば、本人が私を指名して、チームのみんなにOKをもらったそうです。こんなことされたら、断ることは出来ないし・・・、というかそこまで私を買ってくれて、ありがたいと思いましたし、これに意気をを感じないようじゃダメです。喜んで引き受けました。これにはちょっと別の伏線もあるかな?昨年、彼が3月にワールド出場権を獲得した時、クラブで盛大に祝ってもらうことがなかったようで、あれえ変だなあと思っていました。私が現役の時は、私自身おめでとうが大好き人間なので、もっともっと小さな頑張りにも反応して、新聞社や放送局、それに市長室にも資料を作って売り込みました。わが子がかんでいないことの方が多かったですが、一緒に練習している誰かの喜びをみんなで拍手を送ることは、本人は当たり前だけど、拍手した方にも喜びのおすそ分けがあり、わが子もいい子に育ちます。最近はもっと個人や各家庭だけなのかなあ?なんて思っていましたが、数ヵ月後、やっぱりかわいそうになり、クラブのHP担当ということで、また彼のプロフィールやジュニアヨットのことを書いた資料を作り、新聞社や市の広報室に持ち込みました。そこから動き出し、市長室で市長との対談ができ、それが放送され、新聞数紙に掲載され、ラジオやテレビにも出演することができました。「よかったなあ、本人や家族、そしてクラブのみんなにも一生の思い出になったなあ。きっといい子に育ち、大人になった時、子供達のサポートをできる人になるだろう」なんて自己満足していました。「今年中3でジュニアの最後の夏、その彼が私を指名してくれた」これって、まだ上手に言葉で表現できない子供からの、「最高のありがとう」ってことじゃないかなあ。「こちらこそ、ありがとう」こんなんでまた、おじさんは力をもらっちゃうんだなあ。また、ヨットのシーズン夏が始まる。悲しみには「大丈夫、大丈夫」、そして小さな喜びを10倍の喜びにできる言葉でサポートしよう。今年も、周りでいいことばかり起こるなあ。
2005/03/31
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今日の日記も日曜日の同志社ウィーク観戦記の続きです。レース中は、女子マネさんがレースを楽しめるように、解説付きでクラブの艇がよく見える場所にレスキューボートを動かしながら見ていました。レギュラーのみんなも結構いい成績だったので、マネさんも大喜びでした。最後フィニッシュの時は、フィニッシュライン付近に移動して、選手を拍手と「ごくろうさま」で迎えました。どんな成績でも、拍手されると嬉しいもので、また拍手する方も嬉しいものです。こんな積み重ねが、クラブの総合力に繋がると思っているので、2年前に手伝いを始めてから、いつもやっていました。だんだん浸透して来て、選手もフィニッシュしたらレスキューボートに寄ってきて、一言会話するようになってきました。最初にレース観戦したときは、みんなバラバラで、よくない成績の時はあまりしゃべらない感じでした。いい成績じゃないとかっこ悪いってとこでしょうか。よくてもよくなくても、1レースが終われば、コーチボートに来て、より冷静に見ている人や、ヨットのことはよく分からないが単純に応援してくれる女子マネージャーさんと会話することで、リセットできる。いい成績でも浮かれすぎていると、次のレースへの準備が遅れ、風の変化に遅れをとる。悪い成績なら、会話することで吹っ切れる。みんなフィニッシュしたので、レスキューを本部船に近づけて、運営のお礼を言い、また選手の所に戻りました。今日は風待ちで時間が過ぎてしまい、1レースでおしまいです。その間選手は、レースの事をしゃべっていたのか?おもむろにみんなが揃って動き出し、本部船に向かい出しました。本部船の近くで揃って船を止め、立って本部船に「・・・大学です、ありがとうございました」これには、ちょっとビックリしました。私はこういうことは大切だと思うのですが、年齢が上だからとかコーチだからということで、選手達に強制したくないので、レスキューだけでもと思って、毎レースやっていましたが、選手がしているのを見たのは初めてです。多分みんなでこうしようと決めたのでしょう。強豪校のような、監督などからの強制が見え見えの感じではなく、ナチュラルでとても好感が持てます。とうとう始めたんだと、嬉しくなりました。毎日の練習の最後に、琵琶湖に向かってみんな並んでお礼を言ったり、この代になってから新しくやりだしたことは、何かいいです。自分たちのクラブだから、やりたいことをいろいろ取り入れたらいいよね。本部船から離れて艇庫に向かっていると、いい風が入ってきて、選手はみんな船の外に身体をそり出してグングンスピードが増します。「こりゃいいじゃん」と思い、レース艇に5m位まで近づけて伴走し、前からうや横から迫力のある走りを至近距離からマネさんに見せてあげることが出来ました。みんな、キャーキャーいいながら、カメラに収めていました。レース終了後で、選手も緊張がほぐれたのか、カメラ目線の子や手を振る子もいました。陸に上がると、「こんなのが撮れました」と見せてくれました。楽しんでくれたかな?ヨットがかっこいいと思ってくれたかな?選手も陸上でうだうだしてるばかりじゃなくて、かっこいい時もあるんだと分かってくれたかな?
2005/03/30
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昨日の日記の続きです。つまり、日曜日のレース観戦の続きです。息子君は、金曜日のプラクティス(練習)レースに出場せずに新艇をセッティングして、土曜日に練習なしにいきなりレースデビューさせました。新艇は、去年のキャプテンが乗るために買ったのですが、届いたのが8月で3週目と4週目にあるレースにきちんとチューニングする時間がなく、塩漬けになっていました。それで次男君に新艇が回ってきたのですが、昨年は乗り出して2年目に突入した艇のチューニングがとてもよく出来て、速かったので、そのまま全日本学生・全日本一般・そしてワールド最終選考会まで、チェンジする機会を失ってしまっていました。これからは本当に勝ちに行くレースが8月までないので、じっくり腰をすえて最初からチューニングです。実力の高い選手は、「弘法は筆を選ばず」のように艇を変えても、微妙なバランスを肌で感じて微調整して走れますが、次男君は努力とチューニングデータをメモしていって、やっとこさ走り出すタイプなので、納得できるようになるまで時間がかかります。センスというより、理詰めで行くタイプなので、どんな人にもデータで速いポイントをアドバイスできます。仕事をするようになったら、神がかり的な魔法より、科学の方がチームをリードできるので、とてもいい性格だなあと思っています。結局13位フィニッシュでしたが、やはりチューンナップなしなので、十分なボートスピードが出ないらしく、フィニッシュ後スピードが今一と言ってました。それでもよく13位にまとめたと、以前の息子君ならボロボロの順位をとってもおかしくないのに、立派なものだと思いました。スピードがないなりにリカバリーできる能力が備わってきたようです。土曜日は、クラブ全体が苦手の強風だったようですが、息子君は第2レース最初のマークをトップ回航したそうです。これはコーチとしては大変嬉しいことで、エースの息子君でさえ、強風になるとこの風域が得意の同志社の2艇に負け、いつもここで差をつけられていました。昨年の全日本団体戦予選でも、得意な風が吹いた初日は大差でリードしたのに、2日目の強風でリードを吐き出し、3日目はイーブン、最終日の第1レースはリードしていたが風がなくなり、後続艇有利になり差をつけられず、最終レースは風が上がり力負けしてしまいました。息子が入ってから、過去6位や7位だったのが、3位に肉薄して4位という躍進だったが、強風さえ克服できていれば勝てたレースでした。今月初めの和歌山ワールド選考会最終日、たまたま海上で息子の強風のセーリングを見て、チューニングの欠点が見えてしまいました。私は学生時代強風が得意だったので、バッチリ見えてしまいました。次男君は元々OP時代は、強風を得意にしていたので、おかしいなあとしか思っていませんでしたが、考え違いをしていたようです。470級の強風が得意だった私のセッティングを伝授しました。あのレースの帰り、息子の考えを聞くと、もっと体重のある外国のトップレーサーのセッティングをベースにしていたようです。何度か、私と同じ軽量コンビのセッティングをミーティングでも話しましたが、本気で採用する気にならなかったようです。しかし、あのレースでトップレーサーにはるか離され、軽風では勝負できる相手に、屈辱的な負けを喫して、学生相手の世界から一皮むけたようで、早速この同志社ウィーク初日で試したようです。やはり、ちゃんと負けることで、脱皮しようとするエネルギーが出るようです。あの時、日記に書いたようになってきました。本人曰く、「パワーがすごかった、メチャ速かった」琵琶湖は風が弱く、少しの風を拾って走るのはうまくなるが、どうしても強風になると弱い所がある。昨年全日本などで、オリンピックを狙っているレーサーの中でもまれて、大きなものを得られました。早速ミーティングで、自分で確かめたそのチューニングを発表していたが、息子のことだから、さらに磨きをかけてより速いセーリングにして、みんなにフィードバックするだろう。まず自分で確かめて、それから確信を持って言うので、みんなにとても伝わります。あとは息子君が、新艇を微風・軽風で昨年のようなスピードが出るようにチューニングするだけだ。新艇では、チューニングシステムを、世界的主流のシステムに変更している。チューニングの幅が広がり、より細かくジャストフィットできるが、その分ちょっと難しい。まあ彼のことだから、きっとうまくできるはずだ。それができれば、7大学戦ではぶっちぎり優勝で、日本一レベルの高い近畿北陸ブロックの団体予選も突破して、10数年ぶりにチームみんなを全日本インカレに連れて行ける。がんばれ~である。さて、同志社ウィークは、息子の通った清風ヨット部の先輩で、同志社大ヨット部OBのM君が全レーストップで優勝した。先週あった海外招待選手を交えた日産カップでも優勝し、現時点では北京オリンピックに1番近いだろう。彼は、琵琶湖ジュニアOBで、OP級全日本優勝者。アテネで銅メダルを取ったのも同じくOP優勝者で、今回M君と組んだのは、M君の前年の全日本優勝者。最強コンビかもしれない。レース後、お父さんも交えてうだうだ話していると、ニュージーランドから輸入した300万円のスペシャル艇はかなり速いそうだ。全レースに加えて全マークトップだったようだが、唯一2レース目の第1マークで次男君にトップを持っていかれた。次男君は、そのレースちょっとスタートにフライングしてしまい、1マーク回航後レース委員会から指摘されて、リタイヤしたが、その後M君とトップ争いが出来たら、さらに得るものが多かったろうと少し残念だった。強風でM君と競えたら、学生では負けないだろう。スナイプ級のマーク回航
2005/03/29
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昨日は、「同志社ウィーク」という同志社大学主催の琵琶湖の春のビッグレースに行ってきました。北は北海道から、南は九州まで、学生ヨット連盟が採用する470級とスナイプ級の2クラス140艇ほどの参加がありました。日本がオリンピック・セーリング競技でメダルを取ったのは過去2個、男女の470級だけです。学生競技での採用で選手層が多いことと、世界的傾向と同じように、メダルを取った選手がOP級出身という、OP級からヨットを始めたジュニア選手の台頭があげられます。同志社ヨット部は、全国で1番全国制覇の多い学校で、昨年も日本一になりました。そこが主催のレースということもあり、いつも参加選手が多いビッグイベントに成長しました。先週の日曜日は、寝坊してしまいコーチングをサボってしまいましたが、昨朝わが子君のヨット部艇庫を訪れると、一緒に泊まっていた東北大の選手とセッティングをしていました。今年は北大は来ていないようで、その代わり東北と東京が来ているようです。朝、風がなく、レースが延期になりました。仕方ないので、出艇せずにうだうだしていると、滋賀県在住の東北大OBの方が来られました。「どうも、宿舎をお世話になったようで・・・」「いえいえ、仲良くしてください」息子大のレスキューに一緒に乗りませんかとお誘いすると、「お願いできますか、ありがとうございます」息子さんにもジュニアヨットをさせようかとも思ったが、お父さんのヨットが忙しく、というか自分がヨットに乗りたいから、やめたそうです。琵琶湖のあるヨットクラブのHP担当で、そのクラブの会長さんは、私もよく知っている人で、琵琶湖ジュニアでお子さんとがんばっておられた方でした。やっぱりこの世界は実に狭い。すぐ共通の知り合いにたどり着く。お子さんは勉強はあまり好きではないらしいですが、市のアメリカ姉妹都市との交換留学で夏休みに2週間留学し、気に入って、市?県?の1年間の留学にも合格して、行くそうです。最初もみんな自分で決めたそうで、自分で道を切り開いて、羨ましく思いました。ただ、奥さんはちょっと不満なことがあります。交換留学で、向こうから来る子をホームステイさせるので、食事などの負担が奥さんにかぶさってくるからです。さて、1時間後にレース延期が解除され出艇です。いつものように、というか息子の代になって始めた、円陣を組んで掛け声をかけてレースに向けて出艇です。その後、東北と東京の部員各1名に、日頃縁の下の力持ちをお願いしている女子マネさん4名を乗せて、コーチングというよりレース観戦です。ここで楽しく観戦してもらって、より大きな縁の下になってもらう作戦です。軽風のみんなが得意としている風速で、470は10番前後にレギュラー3艇がフィニッシュし、いい感じで練習ができているようです。とくに1学年下の艇長の船が、上級生2艇の少し後ろでフィニッシュし、大収穫でした。土曜日の強風ではダメだったようですが、金曜日の練習レースでも11位でフィニッシュしており、いい感じです。今回の彼の艇は、息子が2年間苦楽を共にした今月ワールド選考会にも出た艇です。息子が基本チューンナップして速くなったので、一緒に乗って覚えた風に合わせた細かい変更を真似するだけで速いはずです。艇長としていいセンスをしていると思うので、まず真似をして、少しずつ自分の色を出していったらいいと思う。彼が初めていい成績をとってくれてかなり嬉しいです。やはり艇のスピードポテンシャルがちょっと違うようです。レース延期信号が降り、セールをあげ、いざレース海面に・・・
2005/03/28
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ヨットの雑誌に、北京オリンピックヨット競技に対する危惧が載っていた。日本はヨット競技がマイナーなので、まず問題にならないが、メジャーなヨーロッパでは、ちょっと問題になっており、ISAFという国際セーリング連盟幹部は、奇蹟を願うばかりなようだ。ヨーロッパでは、馬術とヨットはスポーツの頂点という扱いで、ちょっとお金持ちのスポーツという位置付けになっている。馬術の方がよっぽどお金がかかると思うのだが、ヨットは日本でいうゴルフクラブのような会員制ヨットクラブを中心に発達して、会員になるために、現会員の紹介が必要だったりするので、ちょっとクローズな感じがする。日本では他のスポーツと同じような位置付けで、学校のクラブ活動が発展の源なので、お金も余りかからないし、ゴルフのように高値で会員権が取引されることもない。確かに、ジュニアのレースに行くと、ヨーロッパや南米・アメリカの選手は、ヨットクラブに船を持っている家の子がしているので、お金持ちだ。なんとなく品があって、ヨットは趣味という位置付けのようで、今日は体調が優れないということで、国際レースをキャンセルして、ハーバーで本を読んでいる選手にはビックリした。日本なら、「あほか、おまえは、せっかくここまで来たのに、我慢してがんばらんかい」という世界のはずだ。アジアでも国家がメダルを狙って、小さい時から選抜して強化している国は別として、シンガポールやインド・ミャンマー・パキスタンなどの子は、とてもよく勉強をする。ヨットができるからお金持ちになったのではなくて、他でがんばってお金持ちになったからヨットが持てるようになり、その子がヨットができる。ヨットを楽しみながらも、子供は勉強もきちんとする。そして、そのような子が集まる学校に行き、そのような仲間が出来る。一種の階級社会を感じる。友人の話では、ヨットクラブの会員と一緒だと、奥の調度のいい部屋に案内されることがあるそうだ。海外レースに参加すると、主催はたいていそんなヨットクラブがして、もうヨットに乗らなくなったけどクラブに籍を置いているお年寄りがボランティアで手伝いに来る。長年同じクラブで楽しんできた仲間が運営するので、お金はかかっていないのだけれど、温和な雰囲気のレースができる。東京オリンピック当時現役だった、琵琶湖の重鎮で現在国際審判の資格を持って活動している方は、イギリスのレースに参加した時、首相が来ていて王宮に招待されたことや、ドイツのレースで、招待されたらお城だったことがあったそうだ。日本では単なるヨット乗りで、英語ができるので審判になったが、向こうの人からは、日本でもステイタスのある人と思われるらしく、お金を積んでも経験できないことをいろいろしたらしい。話は大分それてしまったが、2008年オリンピックの開催地決定の時、ISAFも委員を候補地に送ったそうだが、北京オリンピックのヨット競技開催地青島の気象データがなかなか出てこなかったらしい。結局、11月の気象データや、競技海面から遠く離れた沖のデータしか示されず、他競技との兼ね合いで、OKを出してしまったそうだ。最近のオリンピックは、気象データの収集が盛んで、セーリング競技のオリンピックチームには、気象の専門家がいるのが常識になっている。数年前から、オリンピックのある時期に、気象チームが現地入りして、気象ブイを入れてデータ収拾する。あまりの加熱に、アトランタからは開催国が設置した数個の気象ブイで得たデータを、各国に無料オープンするようになった。そんな世の中なのに、ちゃんとしたデータを出さず、オリンピックが決まってから開催されたメジャーなレースは、OP級世界選手権が1度だけ。しかも、その大会は風が吹かず、最初の3日間で成立したレースはたった1レースだけ。中日にある予備日を使って、チームレースをしたが、その場所は、港の中で横に本船が泊まっていて、造船所のドッグの目の前。とてもヨットをする雰囲気のところではなく、結局全レース消化できず、おまけに微風が得意なアジア勢が台頭し、中国が優勝し、マレーシアが2位という過去にない大会になってしまった。そのとき現地にいたので、雰囲気を覚えているが、ヨーロッパと南米を中心にしたブーイングが大会期間中から巻き起こり、各国OP協会のトップが集まる年次総会では、青島を選んだ国際OP協会トップに批判が集中し、「今後は、きちんとした気象データを事前に求め、平均風速4m/s以下のところでは開催しない」という採択までされた。現IOC会長はヨット競技出身なので、針のムシロに座っているようなものらしい。青島のレース海面の、オリンピック開催時期の平均風速が段々明るみに出てきたが、公平なセーリング競技ができる風速ではなく、潮の流れが強いので、どう見ても不適格。開催場所の変更や開催時期の変更を求める委員もいるらしい。OPワールドの時も、風がないのにすごい潮の流れだった。セールに風がはらんでいないのに、流れに乗ってドンドン流される。マークからドンドン離れていくので、やむ終えずルール違反の舵でこぐ行為をする選手が現われ、帰ってきた選手に聞くと、「審判艇が向こうに行くとみんなしてた」という答えだった。多分審判も、全員失格にできないからひどいのだけ、失格にしたのだろう。そんな状況の中、無理やり短いコースで成立させたというのが、私の見た現実。これが、オリンピックが開催される8月のレース海面だった。IOC会長やISAF会長は、天の気まぐれを頼るのみになっているのだろう。来年くらいから、オリンピックに向けて、青島でのビッグレースが開催されるだろうから、益々辛い立場になるのかもしれない。馬術同様、皇太子などがオリンピック選手で参加するので、セーリング競技のコンディションは、向こうでは結構風当りが強い。どんなに科学が発展しても、この競技の風任せ性は変わらないなあ。2001年8月 OP級世界選手権 中国青島
2005/03/26
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昨夜、急いで家に帰りました。9時閉店して、明日出来るものは全て明日に回し、即シャッターを閉めて、9時半前に家に着き、風呂に入って、食事を持ってTVの前にスタンバイ。H2の最終回です。よかったです。この番組は、軽いタッチで、悪役がいない。ちょいと悪役気味だった校長先生なども、すぐに応援する方に回り、見ていてしんどくなく、見終わってすがすがしい。「そんなにうまく行くわけないやろ・・・」いいんです。うまく行っていいんです。来週から楽しみな番組が減ってしまいますが、まあいいでしょう。話は変わって、今月初めの世界選手権代表選考レースで一緒だった、次男の友人K君からメールが数日前に届きました。今週末の「同志社ウィーク」という、同志社大学主催のビッグレースが琵琶湖であります。彼は天下のT大だが、1浪しているので次男より1学年下です。どうやら先輩を説いて、みんなで琵琶湖遠征することになったようだ。彼もジュニア出身なので、次男同様セレクションがないクラブでは貴重な経験者。下の学年だが、重宝がられているのだろう。そこで次男君の電話番号を聞いてきた。「なんじゃそりゃ、あんだけワイワイやってて、おまえら電話番号知らんのか?」とビックリしたが、いつもメールのやり取りだったのかな。次男君は迷惑メールの為に、アドレス変えてるからなあ。今日またK君からメールが届いた。「ありがとうございます。連絡が取れて、次男君大艇庫に無事寝られました」よかったね、貧乏学生には、旅館なんて贅沢。無料宿泊所は大いに使わなきゃ。次男が1回生の時、クリスマスに横浜であった、ナショナルチーム合宿に参加した。若手有望選手ということだったが、貧乏学生だから、T大の船を借りて、八景島ヨットハーバーに並んでいる大学艇庫に無料宿泊した。お互い様で、まず断ることはないだろう。次男君大艇庫は今、人であふれていそうだ。例年この時期、ヨットのシーズン初乗りで訪れる、最北のボーイズビーアンビシャス大に加えて赤門大も追加になり、みんなの熱気で暖かくなっているだろう。なんと言っても、あの艇庫アンド合宿所は、室内から星が見える環境だ。窓から見えるのではなく、屋根に1箇所穴が開いている。微妙に雨漏りしない場所だからそのままのようだ。大勢いてちょうどいいくらいだろう。琵琶湖に面した壁は全面窓でやたらに広い。これが寒い日こたえるようで、春休みはしんしんと冷え、合宿中でもたまらず下宿に寝に帰る部員がいる。そうだろうなあ。比叡山の北に連なる山には雪があり、その雪解け水が琵琶湖に注ぎ、海のような暖かさがない。この時期の海は、結構暖かく感じる。冬の風にビュンビュン吹かれて練習していて、身体が冷え切っていても、ミスって落水すると、温水プールのように暖かく感じる。「おお、ええ湯加減や」7大学戦というのがある。全クラブが対戦するのだが、ヨットは夏にレースがある。昨夏はアンビシャス大主催で、小樽でレースをした。小樽の艇庫の前は、うにが取り放題・食べ放題にあるそうだ。うわさでは、下級生がそれを取って、クラブの資金源にしているとか?していないとか?有名な札幌時計台に行ったり、札幌ビール園で宴会したりしたそうだ。レースの方は、1日目次男君が1番走りリードしたが、陸上で不注意から怪我人が出て、迷惑をかけたと2日目全艇リタイヤしたので、また九大に優勝をさらわれてしまった。琵琶湖でコーチをしながら、絶対勝てると送り出したのに、ちょっと残念だった。昨年の7大学戦の次男大学壮行会で、次男君が選手宣誓をした。全クラブ員で何人いるのか?アメリカンだけで60人くらいはいそうなので数百人の代表という、ラッキーなことになり、なんと新聞に写真入りで載った。もちろん新聞社から数部取り寄せて、私と家内の祖父母にも送った。選手宣誓をして、優勝なんてかっこよかったのに、本当に残念だった。まあ世の中、これくらいのツキが一番いいのかもしれない。艇庫では、気心も知れており、ワイワイやっているだろう。今週末は琵琶湖に行く予定なので、ちょっと楽しみである。そして、まずこの2校には勝っておいて、今年の7大学は勝たせていただこう。
2005/03/25
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無寄港世界1周をしている、堀江さんと斎藤さんが、もうすぐオーストラリアの西にかかります。西といっても、オーストラリア大陸の北西じゃなくって南西です。先日マラッカ海峡で海賊事件が起きましたが、マレーシア・インドネシア・フィリピンの大小さまざまな島が散らばる海は、海賊は当たり前のように出没するそうです。マラッカ海峡のように、本船航路があり、ひっきりなしに本船が行き来する所でも海賊が出るくらいですから、その他の海では、危険極まりないようです。しかも動力が貧弱なヨットでは、ひとたまりもありません。だから、大抵そこを回避して、オーストラリアの南を回って、ニュージーランドとオーストラリアの間を北上し、細かな島にはあまり近づかないのが賢明だそうです。ヨットの雑誌に数年かけて長距離航海をしている、俗に言うヨッティー達の日記や投稿文が連載されているが、停泊地でヨッティー仲間との情報交換は欠かせないらしい。どこそこの波止地は、安全でとてもいいだとか、あそこは最悪なので決して近づかないようにだとか。島の集落みんなが共同で生計を立てていて、獲物は山分け。カギなんて何処の家にもなく、調味料がなくなれば勝手に隣の家に入り持ってくる。所有するという感覚が違う島がある。自分の物は、自分の物であってよそさんの物。だから泥棒というものが成立せずに、警官が1人いるが、パトロールはしない。その警官がパスポートを見て入出国審査官も、役場や郵便局もみんな兼務しているユティリティープレイヤーだったりする。なんて似ているんだろうと思っていたら、実は同じ人だってことを知り、おったまげたなんて話が書いてある。島民があまりにフレンドリーすぎて、勝手に船に上がりこんで、デッキで昼寝していたりして、習慣の違いに驚くことも多いらしい。古くはマゼランも、これで命を落としたと記憶している。ポルトガル人のマゼランは、経過はもう忘れたが、スペイン国王の遠征隊の隊長として出発する。アメリカ大陸を南下して、ケープホーンをより安全に通過するマゼラン海峡を発見した。南太平洋に入るが、オーストラリアの北の海域まであまり島がないので、食料が尽き、病気で船団が疲弊した。やっとたどり着いた南太平洋の島で島民から大歓迎を受ける。食料も十分補給し、大いに鋭気を養ったが、自分の物は他人のもの、他人のものは自分のものという考え方の島民なので、勝手に船に上がり込む。いい物があれば、当たり前のように持っていく。やがてけんかになり、見せしめに数人銃で撃ったら、双方に大被害を出し、マゼランは戦死する。基本の考え方が違うのだから仕方がない。どっちも「なんてことするんだ」状態だったのだろう。結局、200~300人で出発した船団でスペインに帰り着いたのは、10数人だったと記憶している。斎藤さんは、どうやらメインセールをまだ修理しているようだ。堀江さんに1日の遅れをとっている。それにしても、無寄港世界1周と言えば聞こえはいいが、世界中の人をひきつけてやまない魅力いっぱいの南太平洋をパスするのは、もったいないなあ。私ならどうするかなあ?世界1周をする為に寒い南氷洋で、氷山にピリピリしながら走るより、南太平洋の島で天国のような暮らしを選んでしまうだろう。暖かい気候で、食べ物はそこらに実っていて、食べて・・・寝て・・・食べて・・・寿命が10年短くなっても、最後の10年くらいはそんな生活をしてみたいものだ。「堀江さん、南太平洋で行方不明」数年後、「大スクープ。堀江さん、南太平洋の島で生きていた」堀江さんのコメント「もう私を捜さないでください。こちらで楽しく暮らしています」なんてね。
2005/03/24
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今日は、甲子園で春の高校野球の開会式だった。ヨットの方も、冬が終わりシーズンに入っていく。ジュニアチャンピオンレガッタというヨットレースの全国大会が浜名湖で、19日から21日まで開催された。このレースは、1人乗りヨットのジュニアの大会です。OP級より少し大きな船を使う15才以下のクラスと、さらに大きな艇種を使う18才以下のクラスの両方の大会です。2005シーズンに向けての前哨戦、春休みを使ったジュニアの全国大会です。長い冬のオフが終わって、「さあこれからシーズンですよ」という意味も込めてヨットメーカーのヤマハが、地元の浜名湖で始めた大会ですが、最近はドライスーツという、水に全く濡れず、保温力もある着衣があるので、小学生でも真冬練習している。だから、実際は冬の練習の成果を試す大会になっている。昨夜、兵庫ジュニアの遠征メンバーから報告が来た。なんと、15才以下も18才以下も両方とも優勝してしまった。もう6~7年連続でチャレンジしているが、優勝は2回目です。15才以下のトップ選手が集まるOP級で育った子は、高校ヨット部に入り2人乗りをするか、ヨット部のない学校に進学した子は1人乗りをする。高校生になってからヨットを始める子もいるが、やはり上位選手の多くはOP級上がりの子が占める。今回優勝した2人も、高校生は元OPで、中学生は現役OP選手です。この中学生は、初め他のクラブでヨットを始めた。夏だけしか活動していないクラブで4年生までヨットをしていたが、もっとヨットに乗りたいという希望で、兵庫ジュニアのHP担当の私に先方のクラブを世話している方から連絡を頂いた。試しに数人兵庫ジュニアの練習しているところにやってきた。向こうのクラブのエース達だったが、兵庫ジュニアの1年目の選手にもかなわなかった。多分自信を失っただろう。その中でK君だけが、兵庫ジュニアに入りたいと5年生からやってきた。でも6年生の時は、受験で練習できなかった。中学に入り成績がドンドン上がってきたが、ジュニアの層は厚く、ナショナルチームまでは届かなかった。高校生の方は、お父さんが元大学ヨット部で、熱心にクラブのコーチをされて、この子も成績が上がったが、それ以上に身長が伸び体重がOP級にしてはオーバーウェイトになってしまい、軽風でスピードが出なくなり、ナショナルチームには届かなかった。「おめでとう、よく練習したね」早速、彼等の写真をHPに載せた。「クラブのみんな見てね」おっと、おめでとうメールを送らなきゃね、またがんばってくれるだろう。
2005/03/23
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堀江さんが好きだな。最初に手を上げるのは勇気がいるしリスクを伴います。もっとうまく立ち回る方法はあるのでしょうが、ストレートで分かりやすい。フジTVとの事で、フジTVの理屈がどうもよくわからない。株式を公開している以上、買収の危機はいつもある。それがいやなら公開しなければいい。大体あの会長さんの会社ではないはずだ。株式を公開することで、銀行借り入れという金利支払いを伴う資金から、無利息で返済義務のないお金を市場から調達できる。そのような資金を獲得しながら、経営者や従業員のやり方に反対しないで欲しいとか、身分を保証してほしいというのは虫が良すぎる話だと思う。いい番組を提供して、お客さんに喜んでもらおうと思っている人が、その夢を実現する為にスポンサーを探す。お金を出してもらう代わりに株式を渡す。会社の利益を、会社にプールするかスポンサーに還元するかを決めるのは、スポンサーだ。経営者が、利益の配分案を出してスポンサーに承認してもらって、そして経営陣を任期毎に更新して承認してもらうことで、経営者がもう1期経営できる。スポンサーが現経営陣よりもっと優れた経営陣を見出したら、そっくり入れ替えられるのはごく普通の話。優れたアイデアを持った経営者が、自分にお金がなくても夢を実現でき、スポンサーは働かなくても自分の出資したお金がなくなるリスクを背負うことで生活していける。それが、株式会社というシステムと理解している。大口新スポンサーが現われれば、引き続き経営をしていきたいと思ったら、スポンサーに自分のアイデアや経営能力をアピールするのが普通だと思うのだが、対決してどうするの?自社資産を叩きうるようなことをすれば、スポンサーのお金をくすねていることになるんじゃないのかな?会社が大きすぎて、複雑に考えすぎていて、単純な理屈がわからなくなっている。いくら従業員の声を出しても、他のスポンサーの声を持って対抗しないと、資本主義の理屈に合わない。私は零細自社株を100%押さえている。裏返せば、危なっかしくって誰も買ってくれないということもあるのだろう。家内と私で50%づつ持っているので、離婚もかなり会社の存続を危うくする。会社の設立資金は全額私のお金だが、家内の協力がないとやっていけないし、家内の賛成を得ないと私のやりたいことは実現できないように、自分の立場を追い込んで設立した。だから会社の倒産は我が家の崩壊とイコールだ。フジの経営者はおかしな事を言っている。自分の家屋敷を全部売って全部株式を買うくらいの行動を見せないと、堀江さんのパワーに負ける。相手は、失敗すれば全てを失って自己破産というリスクを取って行動している。堀江さんのパワーとスピードを取り込んで、他の民放を圧倒しようくらいの気持ちがあれば、他局の大きな脅威になるのになあ。もし他局と堀江さんが結びついて、新しいビジネスモデルを作ったら、どうするのだろう。常に新しい切り口を出しつづけないと淘汰されるのは世の常。今回の資金手当ては、株式転換社債を外資に発行して得たようだ。社債は、金利支払いを伴うが、業績をよくすれば株価があがり、社債から株式に転換が進み金利支払いが減る。しかし、株式が増えるので自分の持分比率が落ち、経営権を失うリスクが増える。堀江さんのことは詳しく知らないが、いいにつけ悪しきにつけ企業経営者が注目を浴びるということはいいことだと思う。松井秀樹や中田英俊が注目を集めてばかりいては、子供達の夢が知れている。男の子はサッカー選手に憧れ、女の子はモーニング娘に憧れる世の中は、平和ではあるが、社会の大きな発展には結びつかないように思う。企業経営者や技術開発者、ノーベル賞受賞者などが、今よりもっと注目を集める世の中の方が、より普通だと思う。野口英世がノーベル賞を受賞した時の方が、これだけ通信手段が発達した現在の受賞者より、注目を集めていたのではないだろうか。そういう意味では、青色発光ダイオードの発明者中村さんの報酬8億円はあまりに少ない。小さな会社が、あの発明1発で世界シェアトップ企業になり、最初の判決の200億でもすでに稼いでいるし、今後のことを考えると、喜んで払うくらいの事をしたら、優秀な若い技術者が次々入社して、恒常的な会社の発展に繋がったたと思うのだが・・・アメリカ大リーグの選手が、総額100億円とかで契約しているのに、あの世紀の大発明を、会社に何のノウハウもなかったなか、ほぼ1人で成し遂げた中村さんがたった8億円にはガッカリした。あれじゃ、勉強して勉強して科学者になろうと思うより、野球選手を目指すよな。高額報酬を取っている野球選手だって、球団や他の選手、グランドキーパーや営業社員がいないと、自分の力を発揮できないし、注目を浴びない。技術者だって、会社や営業や技術者仲間がいないと・・・だからどっちも一緒。1人のヒーローが、お客さんを呼び、優秀な選手を呼ぶ、ということをスポーツ業界は知っているということか。堀江さんは、孫さんや三木谷さんをライバルとして走っているのかもしれない。好敵手がいないと、人は成長しない。注目を集めるプロ野球に、30代の若い経営者が参入したことで、フジテレビとドンパチやっていることで、子供達がそっちも面白そうだと思うようになると嬉しいな。
2005/03/22
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福岡の地震のその後はどうなったのだろう?家に帰ってニュースを見なければ・・・今回の震源は、博多湾だったようですが、津波が来なくて幸いでした。陸地からあまり離れていなかったようで、少し大きな津波ならかなり被害が出たのではないでしょうか?ヨットハーバーは被害がかなり出ると思う。福岡の沖の玄海島というところの映像が、何度もTVに写っていましたが、全島避難になるようで、島の方には大変な負担になります。玄海島の位置を見ると、博多湾の入口にある。福岡には、学生時代のインカレで、能古島に宿泊して以来何度行っただろう。最後は、去年秋の次男の全日本学生個人選手権、ほとんどヨットがらみだなあ。今年の7月には、7大学戦というので、次男は福岡に行く。そんな関係で知り合いが結構いるので、「何か手伝えることがあったら・・・」と今朝メールを打っておいた。佐賀県唐津はそれほど大きな被害はないようだ。福岡市内の友人のところは、自宅の食器が落ちて割れ、片づけが大変なのと、ガスの仕事をしているので、電話がひっきりなしだったようで、やっと落ち着いてきたと書いてあった。より震源に近い西区の友人の所は、新築の家でもありほとんど被害なしでよかった。ただ、もっと震源に近い糸島郡の友人から返事がない。彼はアメリカ人で、田舎で古い家を買い、学校で英語の講師と職員をしながら、昨年から九大の学生もやっている。なんか環境問題の何とかかんとかを研究しているらしい。家で、玉子が高く売れる鶏(うこっけい?)の養鶏もしていて、おもしろい生活をしている。今月和歌山であった世界選手権予選の1人乗りヨットに息子さんが出場していた。わが子同様、代表にはなれなかったが、お母さんにも半年ぶりに会え、私的には楽しかった。次男が中学の時、フロリダのレースを予定していた時、彼が引率してくれることになっていた。ただ、その後息子の学業成績が下がって、学校に親子で呼び出され、さすがに息子もこのままではいけないと思ったようで、そのレース参加をキャンセルしてくれと言って来た残念な記憶がある。彼にそのことを電話すると、家族で付き合っていたので大変残念がられた。レースの土産とレースのオフ日に行ったフロリダディズニーワールドのお土産も、息子に買ってきてくれた。彼の所は、玄界灘が見えるほど海に近いので、かなり心配。彼の奥さんは日本人で、日本語の日常会話は大丈夫だが、日本語が読めない。家族の会話は英語。メールは英文の往復になるが、私のつたない英語でもちゃんと読んで、簡単な英語で返事をくれる。玄海島の映像を昨夜・今朝と見ていると、どうも彼の家とダブってしまう。糸島郡の映像が出ないところを見ると、大丈夫かなあと希望的観測をしているが、どうなんだろう?今夜電話してみよう。何もなければいいが。
2005/03/21
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今年も3月の末が近づいてきた。卒業式・入学式・入社式・転勤など、異動の多い時期。年度末で何かと忙しい方も多い。そして、新しい生活に向かって夢をふくらませる時期でもある。忘れてはいけない、次男君の誕生日3/28。この時期になると、親しくして頂いていたあの方の笑顔が思い出される。その方は、高校ヨット部に入部して知り合った1年先輩Kさん。とても明るい方で、クラブのムードメーカーだった。Kさんとは、コンビを組まなかったけれど、練習ではよく一緒に乗って、いろいろ教えてもらった。大学に上がり、Kさんの親が離婚して、両方とも関西を離れてしまった。Kさんは、下宿して関西に残った。大学ヨット部には入らなかったが、大型レーシングヨットのクルーをして、ヨットは続けておられた。学生という社会人より多少時間的余裕がある身分なので、全国というより世界をまたにかけてレースを楽しんでいた。ハワイやイギリスにもよく行っていた。いろんな船のクルーでレースに出ていたので、いろんなところの海を知っていて、ヨット事情にも詳しかった。関東でレースに関西艇で参加するときは、レース海面まで船を回航することもしていた。これが結構いいお金になるらしく、両親からの仕送りなしに学生生活をしていた。私は大学生になり、体育会ヨット部に入りオリンピッククラスの小型ヨットでレースを楽しんでいたので、別の世界の話が面白く、よくKさんの下宿に転がり込んで、夜通ししゃべっていた。植木屋のバイトも紹介してもらって、割のいいバイトをシーズンオフに一緒にしてお金も稼いだ。明るく面白く将来を語られるので、一緒にいて楽しかった。Kさんのガールフレンドも紹介された。大学を卒業して、世界をまたにかけるプロヨットマンの夢を実現する為に、ヨットのオーナーさんの会社に就職して、学生時代の続きのようなヨットの回航や、クルーの手配の仕事もしていた。大きなヨットは、大勢で乗るので、オーナーさんは乗ってくれるクルーを見つけるのに結構苦労される。クルーが固まっても、転勤や結婚やらなんやからで参加できないクルーが必ず出るので、常に補充していないと、メンバーが集まらず、ヨットは持っていても海に出られないという状態になる。こんな時、ピンチヒッターを手配してくれるKさんは重宝がられていたようだ。私が結婚し、1年?2年遅れでKさんも、学生時代に紹介していただいた方と結婚された。それからも新しく移られた市営住宅にお邪魔して親交はずっと続いた。最近はちょっと一般の人も知っているメーカーになったが、JIBというバッグメーカーも手伝っていた。あの生地が、ヨットのセールの生地で、私もセールメーカーに寄った時に、セールをカットしたはぎれで、プロ用ミシンでバッグを縫ったことがある。JIBがセールバッグの小さいのを、一般の方用に販売し出した時、棄てていたものを結構いいお金で売って、ぼろ儲けやなあと思った。そしてとうとう、Kさんが独立することになった。ヨット関連商品のショップを開くことになったのだ。海外レースで親交のある海外のヨット用品メーカーから輸入して、国内総代理店として売っていくことになった。4月からオープンで店の準備に忙しかった。ある土曜の夜Kさんから電話があった。「お~、オープンの日取が決まったんや。また店に遊びに来てくれや。場所はなあ・・・」「え~そうですか、おめでとうございます。これからがんばらなあきませんね~。私が最初のお客さんになりますわ。ライジャケあります?息子のライジャケ。小さい子のライジャケって何処にもありませんから手に入りませんか?」「お~、そうか。それはいいアイデアかもしれんなあ。日本でもこれから売れるようになるかもしれんなあ。早速輸入するわ。海外には何ぼでもあるから」「たのんまっせ」「お~、まかせとき」次男がまだ生まれる前、4/27生まれの長男の2才の誕生日プレゼントにするつもりだった。多分、というか絶対喜ばない誕生日プレゼント。家内がちゃんとしたプレゼントを用意するから、そのサブでいいだろう。夏にはこれを着せて海水浴に行くぞ、なんて考えていた。そして翌日の日曜日の夕方。高校・大学のヨット部の1年先輩から電話がかかってきた。「大変や、Kがレース中に落水して行方不明や。今から行けるか?」2~3日、西宮の漁船やヨット関係の船が多数出て捜索したが見つからなかった。そして1週間後神戸沖に浮いているところを発見された。お葬式で、まだ20代なのに未亡人になってしまった奥さんを、ちゃんと見ることが出来なかった。数日後Kさんの家に、ちゃんとお悔やみを言おうと訪ねたのをきっかけに、毎年この時期になると、主人がいなくなった家に1人で住んでいる奥さんを訪ねて、線香をあげるようになった。翌年、Kさんの高校からのヨット日記を自費出版したということで、もらって欲しいと頼まれて頂いた。10年以上、毎年の恒例行事のように訪ねていたが、奥さんに、「ありがとう、ヨット関係の人で毎年訪ねてくれるのは、あなただけになったわ。来年からは、出来ればKのお墓の方に参ってあげて。私の新しい人生の区切りにするわ」と言われた。年に1度訪れることで、私の子供達の話が出る。成長を喜んでくれるが、彼女に辛い思いをさせてきたのかもしれない。Kさんのためにも、奥さんが困ったら何か出来るかも知れないと縁を切らないようにしてきたが、迷惑だったのかもしれない。もう少し早く来なくするべきだったと反省した。その後は年賀状のやり取りだけになっている。たまにお墓に参るが、残念でならない。あの日、風が非常に弱く、この時期にしては暖かだったので、ライジャケを脱いでレースをしていたそうだ。セール(帆)のチェンジで慌てて、降ろしたセールに絡まったままヨットから落水してしまい、そのままセールと一緒に沈んでしまった。やはり同じ大学ヨット部の先輩の艇長は、慌てて舵を切って、自動的にレースからリタイヤすることになるエンジンをかけて落水現場に戻ったが、見つからなかった。その事件以来、私は海に出るときは必ずライジャケを着ている。子供達が小さい時は、フェリーでも海水浴場でも、家族4人でライジャケを着けた。この時期が来るとまた思い出す。そして今日は土曜日。できれば、幻になってしまった長男の2才の誕生日プレゼントを持って、また笑顔を見せて欲しい。
2005/03/19
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昨夜は、楽しみにしているH2というTVを見るために、10時までに家に帰った。長男の車があったが本人が家にいる気配がない。まあ男の子だし気にもしなかったが、着替えをしているとビデオを借りに行っていたらしく帰ってきた。「お父さん、TV見る?」「見るけど、お母さんの部屋で見るからいいよ」と、大きい方のTVを譲った。家内の部屋でTVを見ながら食事して、風呂に入って食卓で新聞を読んでいた。しばらくすると、「お父さんありがとう」と言って、自室に入っていった。別に私のTVでもなく、家族のだからありがとうもないものだと思った。食事が足らなかった時など、「お母さん、カレー作って」とでっかい声を張り上げるが、基本的には親を家族を大切にしている。「ありがとう」と「行って来ます」の声が大きいので、脱線もいっぱいするが長男は大好きだ。この子が高校生のとき、山一證券の倒産があった。それからしばらくして、「お父さん、僕今働いたらいくらぐらいもらえる?雇ってくれる所あるやろか?」と言って来た。変なこと言うなあと思って聞いてみると、親しくしている同じ学年の友達のお父さんが山一證券に勤務しているということだった。その友人が、親父が失業するから、高い学費がかかる私立でこのまま通えなくなるかもしれないと思い、学校をやめて働いて弟達を助けなければと、息子達と話したそうだ。とっさに私が高校の時、友人がお父さんの事業の失敗で、大学に進学せず働き出したことを思い出した。「奨学金もあるから、それで大学に行き、アルバイトして家族を助けたら大丈夫や、心配せんとしっかり勉強しとったら、お父さんがちゃんとなんとかしはるって」と答えておいた。息子が中学の時、夏休みに友達とキャンプに行きたいというので、キャンプ一式と子供達を運んだ事がある。行き帰りを私が責任を持ち、キャンプ場の管理人さんに期間中はお願いして、現地・参加者の電話番号も書いた学校に提出する書類を作成して、学校に許可をもらい、参加者宅にも送った。うちの子は、毎年恒例キャンプでテントも1人で建てられる。料理道具も家と変わらないものを持っているし、海水浴場隣接なので海の家がありお客さんもいっぱいで安全。行く場所も何度も行ったことがあり慣れているが、他の子はみんな慣れていない。でも子供達の行きたいに答えた。キャンプに行く前に、店に訪ねてこられた親御さんもおられた。来られた目的は私がどんな人か見るためだろう。かわいい大切な息子を変な人に預けたくないという親心は痛いほど分かる。その後、数度スキーにも連れて行った仲のいい仲間達の1人が彼だった。彼のお父さんも再就職先が決まり、無事大学にも行ったようだ。1週間ほど前、夜中長男の大きな電話の会話の声で目がさめた。どうやら大学でバラバラになったこの仲間からの誘いの電話らしかった。よっぽど嬉しかったのか、家中に聞こえる大音量で、「今からか~、今何時やと思ってんねん~・・・」など楽しそうにしゃべり、結局着替えて車で出て行った。「こんな仲間が、本当に苦しい時、親身になって助けてくれるんだよな」「家族を思って、親の窮状を察して、何も言わずに自分の進路の覚悟を決める、こんな友達の輪にいれば立派な人生を送れるだろうな」なんてその時思った。
2005/03/18
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今日は朝から雨でした。ひどい降りではありませんが、まだ雨が続いています。お客さんの話だと明日の朝まで雨のようです。仕事場にはTVがないので、お客さんからの情報が頼りです。PCで確認できますが、新聞やTVのニュースで入ってくる情報を、わざわざPCで見るのもなあなんて思って、もっぱらお客さんに聞くようにしています。というか、天気の話をすれば、「明日の朝までダメらしいよ」なんて教えてくれます。ちょっと困るのは台風の時です。朝確認して、最接近する時間を大体予定しているのですが、一向にその傾向にならない時は、どこに行ってしまったんやろなんて・・・こういう時は大抵お客さんも少ないので・・・そんな時はPC天気予報のお世話になります。久しぶりに、堀江さんと斎藤さんのヨットレースのことです。レースじゃなくって、無寄港世界1周冒険の旅なのでしょうが、どうしてもレースとしてみてしまいます。南米最南端ケープホーンを越えてすぐに、斎藤さんが堀江さんに追いつきましたが、斎藤さんの船のメインセール(1番大きな帆)にトラブル発生と、流氷の危険海域に差し掛かり、斎藤さんが堀江さん以上に低い緯度に北上したので、一進一退でした。メインセールの修理が済んですぐ、約1日斎藤さんがリードしましたが、再びメインセールトラブルが発生し、数日東の風になり、ヨットで1番時間がかかる、目指すオーストラリア南端が風上になり、斎藤さんのリードを吐き出すことになりました。横からや後から風を受けている位置なら、他のセールでもなんとかごまかせますが、風上に上るコースになるとメインセールトラブルは艇速に大きく影響します。斎藤さんはレーサーの意地?で緯度の高いより南に位置していますが、ここ数日は伴走という感じです。ジュニアヨットの世界組織、国際OP協会のHPに、OPTIワールド3月号がオープンになっていました。アテネオリンピックの記事も載っていました。Ex-Optimists shine in Athens 74% of the skippers of the medal winning boats at the 2004 Olympics wereformer Optimist sailors. And 80% of these had sailed in IODA World orcontinental championships.ということで、アテネオリンピックヨット競技のメダリスト艇の艇長のうち74%は、OP級出身者で、さらにその80%は、OP級世界選手権や大陸選手権出場者ということです。どうやらこの流れが定着しているようで、アトランタで70%を越えてから3大会連続でこんな感じです。次男君もジュニア時代OP級南米選手権に日本代表で参加しているので、とりあえずこの範疇には入っている。でも、160艇中まん中くらいの78位だったし、親がヨットはあくまでレクリエーションの1つという位置付けで子供と接してきたので、そこまでやらないと思う。勉強をしっかりやらずにや、学校を休んでスポーツというのは、私から言えば本末転倒だ。学校で生きていく基礎をつける事が一番大事で、そこの軸足をはずさずにその他にいろんな事をしたらいい。バランスのいい生活を送ると、バランスのいい人とめぐり合い、バランスのいい家族を築くことができる。と思うんだけどなあ・・・1999年南米選手権開催地のヨットハーバー アルゼンチン・ブエノスアイレス・ラプラタ川河口 オリンピックを狙っている選手を多く知っているが、スポーツセレクション進学して、スポーツで企業に入り、ヨットレースが仕事になっている人も多い。ストイックすぎて、何か余裕がないように感じ、幅がないように感じる。オリンピックに出て、その後もヨットとその記憶で暮らすのはあまりに寂しい人生のように感じる。次男君は、年上だったので日本チームキャプテンで旗手をさせてもらった。開会式でポールに日本国旗日の丸を揚げた。
2005/03/17
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突然ですが、家内は方向音痴です。しかもかなり重症です。結婚する前は、助手席に座ってくれているだけでOKだったから、地図をひざの上に置いているだけで、何も指示がなくても気になりませんでした。ところが、子供を乗せて遠出するようになると、「ここ何処や?合ってるんかなあ?」ってとこでチンプンカンプンだと、やはり困ります。今のようにカーナビはないし。道の端に車を寄せて自分で確認することになります。どうも車のスピードに地図上の動きがついていけないようです。ある時衝撃の現場を目撃しました。まだ1件の店を一緒にしていた頃、近所のお客さん宅にDMを配っていたのですが、私と家内とでは配るスピードが全然違います。店の外を掃除していると、家内が近くの交差点の真中に地図を置いて、それを見ています。「何してるんや?」と見ていると、地図をなにやら動かしています。危ないなと思ったので、帰ってきてから、あれは何をしていたのか聞きました。お客さん宅を数件回ると、次のお客さん宅に、右に行っていいものか、左かさっぱりわからなくなり、一旦自分の知ってる場所に戻り、地図の交差点と実際の交差点をちゃんと合わせて、やっとどっちに行ったらいいかわかるのだそうです。「え、え~」ここまでの方向音痴の人に合ったことがなかったので、衝撃でした。家内に言わせると、1番分かりやすいのは、交差点の中央に地図を置いて、90度回して地図とピッタリ合うようにすることだそうです。道理で手紙配りが遅いわけです。それ以来、手紙配りを家内にしてもらうことはやめました。あんなことをしていたら、いつか車に轢かれてしまいそうです。今は店員さんが配ってくれています。ということで、私の店の店員さんが昨日ヘルプに行っていました。よく社会で地図の勉強が出来たなあと思うのですが、平面と立体では違うようで、暗記は得意なのでいい点数を取っていたそうです。でも自分の方向音痴を自覚しており、何処に行くにしても、1度通った道ばかり通り、横道にそれたりしないし、当然車の免許は持っていません。どんくさくないので、教習所に通えば免許は取れると思いますが、「私が運転したら危ないから・・・」と言ってました。私・長男・次男と3台も車があるので、アッシー君には不自由しませんが、子供の遺伝しなくてよかったです。男の子だったからよかったのかなあ?
2005/03/16
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今お花を差し上げるセールをしていますが、先日お花好きのお客さんから、「ちょうど今朝梅の写真を撮りに行ったところだ」と聞いた。その日と数日前の2回、毎年行く別々の梅林に行ったそうだ。私が先日行った梅林にも行かれたそうで、そこの方が香りがよかったと言っておられた。梅も桜もきれいだなと思っていたが、香りを気にして梅を見たことがなかった。早速翌朝、同じ梅林に行った。いろんな種類の梅が咲いているが、ほとんどの梅には香りがない。でもいい香りがある種類もあった。私は男にしては、花が好きな方だと思うが、梅の香りを楽しんだことはなかったなあ。確かに香りがあったように思うが、見ることばかりで気にしていなかったと思う。というか、花全般に見ることばかりだったので、半分しか花の魅力を楽しまなかったようだなあ。もったいないことをしてきたなあ。これからは、もう少し香りも気にするようにしよう。確かこの梅がいい香りを放っていたように思う今回1番気に入ったしだれ梅中々よいではないか 今日、お客さんと話していると、100km歩行と言う言葉が出てきた。「あれ、100km歩行って清風に行っておられるのですか?」「はい、よくご存知ですね」「もう大学生ですけど、次男がお世話になりました。クラブをやっていたので100km歩行にチャレンジしたことはないですけど・・・」「うちは明日チャレンジするんです・・・」話を聞きながら、いいなあと思ってしまった。学校案内に富士登山と100km歩行が載っており、在学中にみんな経験するんだと思っていた。しかし、希望者だけで、最初10km、次30km、そして50kmだったっけ、段々距離を伸ばして、それをクリアした子だけが100km歩行に挑戦できる。次男君も最初の1~2回だけは参加したが、やるのが日曜日なので、やはりヨットの方がよかったみたいで、そこまでで終わってしまった。ヨットなんていつでも出来るけど、100km歩行にチャレンジする機会なんてめったにないからチャレンジして欲しかったが、親がいくら思っても本人の選択だから仕方ない。100km歩行は清風の名物行事で、大阪市内の学校から奈良県高野山までの100kmを、まる1日かけて歩く行事。初めは、ピクニック気分で歩き出すが、段々口数が少なくなり、1日目の夜は、眠たいのと疲れで夢遊病者の行列、難民のように一種異様な集団になるそうだ。途中リタイヤする人の為に、車が伴走し、出来た豆の治療をお互いにしながら、翌日夕方やっと着いた高野山では、お互いの健闘を称えあって泣き出すものを多数いるそうだ。そうかこの時期に100km歩行をしていたのか。ちょうど3学期末テストが終わった後なので、冬場休んでいたヨット部が活動を開始する時期と重なっているので参加しなかったんだなあ。次男君は、四天王寺さんのお祭りどやどやには毎年学校から参加していた。こちらは3学期中の日曜日でクラブがないので参加したのかなあ?ふんどし一丁になり、神輿を担ぐようだ。真冬で、周りから水をかけられるのだが、身体から湯気がたって暑いくらいになるそう。なんかブツブツ文句言いながらも毎年参加していた。
2005/03/15
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この時期は受験シーズンとともに卒業シーズンでもあります。土曜日は、次男くんのクラブの卒業式でした。大学なので、俗に言う「追い出しコンパ」というやつです。外部コーチというのを、この1年間してきたので呼ばれました。昨年8月末、インカレ団体予選敗退の閉会式後、艇庫での幹部交代に誘われましたが、外部の学校出身なので、コアな思いの式にお客さんのように出席してはいけないと思って、お断りしました。今回は、あれから半年経ち、1年間お世話になった学年の送別会でもあり、出席することにしました。6時に京都駅隣のパル横のアサヒのビヤホールでした。OBの方が多数出席され、息子がお世話になっているので、名詞配りと日頃のお礼、それに写真を撮っていました。今年は卒業生も多く、出席者も例年の倍以上ということで、新幹部になった息子の学年のみんなの卒業生に対する、「ありがとう」の気持ちがより大きいようで、嬉しく感じました。OB会長さん、ヨット部出身顧問教授さん、多数のOBさん、監督さん・・・、と歓談させてもらいました。やがて、卒業生10名が前のいすに座り、4年間の想い出やお礼をしゃべられました。多分、予定ではもっと短い挨拶だと思っていたのでしょうが、やはり4年間の想いは大きく、長いものでした。卒業おめでとう でもとてもいい挨拶でした。私もコーチということで挨拶し、全員大学からヨットを始めたので、まだまだ始まったばかりで、これからいくらでも乗れ、基礎が出来ているので、なが~く付き合え味が出るスポーツだということをしゃべりました。現キャプテンからの言葉として、次男が3年間の先輩方との想い出をしゃべり出しましたが、途中で涙が止まらなくなり、予定の3倍は時間がかかったと思います。京都タワー その後、店から出て京都駅前で、1回生のエール担当部員の発声で、多分レース毎に何度も歌ったのだろうクラブの応援歌と、伝統の琵琶湖周航の歌をOB含めて50名ほどが肩を組んで歌いました。最後は、卒業生1人1人に対する個人エールがエール担当から発せられ、それに続いて全員で拍手しながら「フレーフレー・・・(名前)」。それに、「ありがとうございました」と2名の女子マネージャーさんも高い大きな声で答えていました。エール琵琶湖周航の歌 駅前でもあり、立ち止まって見ておられる通りすがりの方もおられましたが、そんなことはお構いなしで自分たちの世界に入っていました。卒業生は、花束・記念品、それに部員全員の寄せ書きが書かれた色紙を持って、笑顔・涙・・・とても感動的でした。この場にいる自分がとても幸せでした。帰りの電車、頂いた卒業生の想いが書かれた記念文集を読みながら帰ってきました。技術的なもの、入部のエピソード、下級生に託す思い、同回生・先輩への感謝、学校のこと。最後に親への感謝も書かれていました。1人10ページにも及ぶものを読みながら、私のクラブ卒業の時とダブって、電車の中でしたが泣いてしまいました。セレモニーって心に残りますね。入学式・卒業式・出陣式・合格祝賀会・・・セレモニーで人生の1区切りをつけて、ステップアップしていくのですね。息子からまたお金で買えないプレゼントをもらいました。
2005/03/14
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私が何故子供とこんな接し方をするようになったのだろう?「親の過干渉は子供が自ら大きく育とうとする芽を摘む」と思っているから。私の母は、かなり賢い人です。母の実家に帰れば、習字や絵画・数学の栃木県一番という賞状が出てきます。小学校から女学校までずっと学年で成績は1番だったらしく、当時の女性では珍しく、東京の大学で理科系の難しい国家資格も取りました。小さな頃はそれらを見せられながら、「私の子だからあんたは賢い」と言われていましたが、「もっと出来るのに何でやらないの・・・そんなことでは将来生きていけない・・・」と言われるようになっていきました。自分のタレントを総動員してやっと結果を出しても、あまり褒めてもらえず、さらに上の目標を設定され、小さなミスに小言を言われ、スリッパでバンバン叩かれました。母の言葉で一番イヤだったのは、父をけなすことです。母の実家は商人で、戦争中の食糧事情悪化の経験から、農家出身の父と見合い結婚しました。母に比べて中卒の父は学はありませんが、私にとっては唯一の父です。父が中卒で負い目に感じたことなどありません。他人から父をけなされたら、反発出来ますが、母からならどうすることも出来ず、ただ聞いているだけです。「あんたはそうならないように・・・がんばらないと・・・」と続くのですが、それを聞いてやる気になる事はなく、早くその場を離れたくて、大抵は自室の机に向かって勉強している振りをしながら、ただ空を見ていました。厳しかったけど、母の後ろに隠れ気味に行動する内気な母っ子でした。私の学力は母に圧倒的に劣っており、今一な息子を持って悲しかったと思います。また、いい教育環境を与えられたのに、母の期待に答えられない自分が情けなく思っていました。高校時代、大学付属高校に通っていましたが、その大学にない学部に行きたくなり、外部大学受験をお願いに行ったとき、両親から「ヨット部で遊んでいて大学なんか受からない」と予備校入学を却下されました。予備校に行かなくても受験はできますが、今いる学校から出る以上国立に行きたいと考え、独学で合格する自信がありませんでした。浪人するよりは、学校が終わってから予備校に行き、日曜日はヨット部というのが、私の描いたシナリオでした。親が中学受験のとき勧めた中学は、大学付属じゃないので全員大学受験します。その環境に入れたかったのだろうが、付属中学と親の勧める中学の雰囲気には大きな違いがあり、明るい付属に行きたくなりました。きつく勉強しろと言われつづけていたことで、親に対する反発もありました。あれほど言われなかったら、親の喜ぶ顔見たさに、こっちでもいいかなと思ったかもしれません。外部受験したいと言いに行ったとき、「それ見たことか」と勝ち誇ったように、私は親の勧めに逆らったことを責められました。散々、学校の悪口を言われました。自分が通っている学校を親からいろいろ言われるのは辛いことです。言われた方には、何のプラスにもなりません。男はプライドの動物なので、絶対に外部受験せずにこの学校を卒業してまともな生活をしてやると決めました。国体や世界選手権選考レースに出場する時も、小言を言われ、2度目の世界選手権チャレンジは諦めました。だから、長男のライフルも次男のヨットも、同じく一銭にもなりませんが、「すごい、すごい」って応援しています。試合の結果は私にはあまり関係がありません。ニコニコやってる姿を見るのが私の喜びです。親がそうすることが、別のことへの彼らの取り組みにプラスになると知っているからです。それをすることで勉強が出来なくなるなんて子供は思っていません。無理だと思ったら、ちゃんと子供が選択します。親がそれを強いると、反発して本心とは別の道を選択してしまいます。そんな母も、私が大学時代病に倒れ父の看病を受けるようになりました。大学卒業後父も倒れ、私と家内とで稼いで、下宿していた弟の学費・生活費を仕送りしました。生まれたばかりの長男を保育園に朝から晩まで預け、夫婦で大車輪で働きました。そのとき親を見ていて、少し悲しくなりました。弟の学費が私と家内にのしかかってきた時も、文句も言わず皮肉も言わず、血のつながりのない家内が「何とかなるよ」と黙々と働いてくれました。休みには次男はまだ生まれていなかったので、長男と3人で病院へ行き、親を励ましました。でも親のプライドが邪魔するのか、「ありがとう」と口にすることはなく、「仕事ちゃんとしてるか」などあくまで強気です。「ごめんね」とか「ありがとうね」と素直に言えれば楽なのにと思いました。親がいくら威勢が良くても、いつか親子の関係は逆転します。けなして叩いていた家族に、下の世話をされる関係になります。最後は子供のお世話になるのがごく普通の人生ということを早くに学びました。確実に訪れる自分がゆっくりしか動けなくなり、頭の回転が鈍くなる時、子供から馬鹿にされるのは辛いことです。できれば、「大丈夫」って言ってニコニコ私を見ていて欲しい。子供は親からそうとうな仕打ちをされても、親を許すことが出来ると思いますが、子供に対して立場が強い時こそ、子供のちょっと出来たことに「すごい」って言ってやりたいし、失敗した時もニコニコ「大丈夫」って励ましてやりたいと思っています。私は長男なので、別棟ですが親の家の隣に住んでいます。家内にもそれを前提に来てもらいました。普通に接していますが、あまり話したくはありません。心が通じ合うことはないと思っています。私が子供という親に対して弱者の時されたことは、もう修復できないと思っています。でも、子供のときされたようなことを、親に対してしようとは思いません。そんなことをしても、何の慰めにもならず、自分がイヤになるだけで、親を悲しませてしまうだけですから。母親は、私にいろいろ言ったことがよくなかったとは思っていません。ずっと成績優秀で暮らしてきたので、私のような弱い、負け犬の気持ちがわからないのだと思います。当時の私の気持ちをいまさら言っても、私にも親にも何のプラスにもなりません。私に教育費を使ってくれ、親の考えで愛して大切に育ててくれたのは十分伝わっています。感謝しています。親を教師とする部分と反面教師とする部分を持って子供と接してきました。子供のしたいことにイエスといって、応援することで、やはり予想通り、クラブと受験勉強の両立ができました。長男は甲子園球場の売り子のバイトと両立させました。子供達の入学式にうちの親に行ってもらいました。孫が自慢のようですが、自分と私の子供との接し方の相違点を深く考えたら、私が何がいやで何がよかったかが分かります。子育てと言える時期の終わりと考えている大学入学の喜びの席で、自分の長男の子育ての1つの結果を見てもらうことが、私の親を反面教師にした部分へのリベンジです。心の面で正反対に子供と接した結果でのリベンジです。赤ちゃんは、生まれてきた時まず「泣く」事をします。次にできるようになる表情は、「微笑む」「笑う」事です。赤ちゃんの「微笑み」は周りの大人を和ませ、疲れを取り除いてくれます。「怒る」という表情は、それからずっと後になってできるようになると思います。お年寄りも、まず「怒る」表情からなくなっていくように思います。ということは、人が生きていく上で、一番いらないのは「怒る」ことじゃないかなあ。できるだけこれを使わずに生きられたらいいなと。出来なかった時の罰ゲームより、出来た時のご褒美の方が好きです。50点のテストを見て、50点の失点を責めるか、50点の得点を褒めるかの違いです。私は、いろんな事から責めることが出来ませんが、少し苦言を呈して、その数倍褒めるくらいが1番いいのかもしれません。今回の日記には、あまり書きたくない心の深い部分を書いたので、親への反発も書いてしまいました。子供の接し方という点では、違う考えを持っていますが、唯一の親でかけがえのない親です。そして長生きして欲しいと思っています。それを打ち消す為に、天国行きの言葉を書かねば。「ありがとう、ありがとう、ありがとう、・・・」今回の遠征車 まあうちの車です。マストが道路交通法違反でした。後に赤い布をぶら下げて走りました。2・3座席目をフルフラットにして、2人で寝たようです。「あやしい関係にならなかったか?」と問うと、毎晩9時ごろ5分と持たず夢の中だったという答えが返ってきてホッとしました。
2005/03/12
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昨日の日記に書いたように、子供が15才になる頃、手紙を書いて、子供に人生の道しるべを示すことを親として基本的に放棄した。そうするために、生まれてから15年間、勉強以外のことに関しては、子供達の意思を尊重してきた。「お父さん、どうしたらいいと思う?」の質問には、「・・君はどうしたいの?」と反対に質問した。そっちを選ぶときっと失敗するなと分かっていても、あえて従って失敗に付き合った。すると自分から、「やっぱりこっちにする」と言ってくる。「そう、じゃあそうしよう」先に私の意見を言ってから、子供の選択を待つと、失敗した時親に負い目を感じる。「だから言ったでしょ」なんて、子供に言ってしまいそうだから、子供の選択を待った。「こっちにしたらどうなるの?」という質問には、両方のいい所とダメな所を説明したが、「お父さんはそう思うけど、自分の好きな方を決めな」と最後につけるように心がけた。親が子供の前にレールを敷かないわけだから、よく考えるようになった。でも大体親の思うような選択をする。日頃の何気ない会話の中から何かが伝わるし、本でも何でも親が買ってきて、遊びに行く場所も親が連れて行くので、そうなるのは当たり前。そして親が怒らなければ、親が喜びそうな方を選んでくるような気がする。怒ってしまうと、自分がしたいとは関係なく、親に反発して別の方を選ぶ。自分がそうだったから、プライドの高い男の子の心境が良く分かる。失敗してもプライドを潰さないように、うまく行った時はプライドをくすぐると、生き生きとがんばり出す。男はほんと単純だと思う。小学校の通信簿の備考欄に書かれていたことは、「落ち着いている、よく考える、明るい、楽しそう、活発」マイナス面も書かれていたと思うが、もう忘れてしまった。これは、次男が入ったヨットクラブでも実践した。コーチという肩書きだったが、技術的なことはきちんと教えても、ミスを責めなかった。レースで悪い順位だったら、セッティングの責任にした。レース後、コーチボートに帰ってくる子供に、「あ~、これがあかんかったわ、御免な気付かんかった、よっしゃ直したからこれで速くなるで」といいながら、いじくりながら、また同じセッティングにしたことも多々ある。レースで前を走ったら、「めちゃ、うまなったなあ、言うことないわ、なんであそこであっちのコースに行ったか教えて・・・」ニコニコ得意満面に話す。「みんなに教えてやってや、コーチより乗ってる選手のほうが風の動きがようわかるから、頼むわ」あかんときは道具の責任、いい時は腕を褒める。プライドを潰さないことが一番大切なことと、わが子以外にも当てはまることで確信した。10人くらいしか選手がいない小さなクラブで、最上級生のビリ5番目の次男が全日本ランキング17位になった。あとの4人は次男より上。江ノ島のように100名以上選手がいるクラブより、ずっと効率よく選手が育った。先日の470級世界選手権選考レースで、次男は男子11位だったが、女子1位の子も兵庫ジュニアの同級生。彼女は男女総合でも2位。とんでもないスーパーウーマンになってしまった。当然ジュニア卒業後のコーチに負う所が大きいが、その環境に自ら飛び込む決断が出来たのは、子供のときにヨット大好きになれたからと自負している。日米プロ野球のコーチや監督のコメントがスポーツ面によく載っているが、アメリカのコーチは、日本人選手がオープン戦で結果が出なくても、「彼を信頼している」などと、けなさないようにしているのを感じる。しかし、厳しさははるかにアメリカの方が厳しいのだろう。だけど、スポーツニュースに写る日本人選手はみんな明るい。ダメでもプライドを潰されるようなコメントをされないので、まだまだいけるという気持ちになれるのだと思う。ワールド予選前、次男から電話がかかってきた。「お父さん、チーフコーチでいい?」「え~、手伝いに行くけどさ、その学校出身じゃないし、まずいんじゃない」「いいねん、いいねん、今期の体制をOB会に出さなあかんから、頼むで」「まあ、好きにしいや」彼が1年の時、1回だけレースを見に行った。2年になって、「お父さん練習見にきてもいいで」「先輩にお父さんのこと話したら、来ていいって」てことで、3~4回練習に参加した。3年になって、キャプテンからコーチを要請され、15回以上練習やレースに参加した。1・2年の時、近畿北陸団体予選で6位とか7位だったのが、昨年は4位になった。最終日までは3位で、全日本団体戦出場枠に入っていた。息子の代は3人しか部員がいないので、昨年以上の成績が残せるかどうか分からないが、息子からもらったチャンスだからやってみようと思う。「ブタもおだてりゃ空を飛ぶ」コーチングで果たして2年目もうまく大学生を乗せられるだろうか?息子からのチーフコーチ要請で、完全に子供の長期展望によって、コントロールされていると悟った。技術面は言うけれども、選手をけなさず、よいしょして楽しくレースさせるのを知っているから、安心して自分のクラブに親を入れるのだろう。その分責任は重い。私を信用してくれている息子の顔を潰すようなことをしてはいけない。息子達を信用して任せたことを反対にされている。信用したことで、信用されるようになったのかもしれない。信用されて任されることはしんどい事でもある。自分のクラブにかかわる親の行動や言動を冷静に吟味して、自分がキャプテンになってドンと任せてきたのだろう。9月に代交代して2ヵ月後、「新体制が固まって来たから、お父さんいつ来れる?」とコーチの要請をして来た。その間に、部員や監督のコンセンサスを取ったのだろう。明日は、4年生のクラブ卒業パーティーで京都に行くことになっている。マネージャーから一言挨拶するように言われているので、欠席する訳にはいかない。今年はいつもの2~3倍OBを呼んだようだ。さらに今年は、クラブ70周年の記念行事もあるそうで、その日の都合もマネージャーさんから聞かれた。これって、学長や教授、他校のOB会長などお歴々が集まるんじゃないの?似合わんなあ・・・「多い方がおもろいやん」と笑っていた。何か私の遺伝子だなあと思う。私が何故子供とこんな接し方をするようになったのだろう?親になるまでの体験が大きかったと思う。長くなるので次回に続きます。ワールド選考レース 風が上がってきた。風上の第1マークに来た次男君 第1マークを回航して、方位風下60度に位置する第2マークに向かって先行艇を追いかける次男君。声をかけられないので、心の中で「がんばれ~」
2005/03/11
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今日次男君の小学校の塾仲間の女の子のお母さんが来られた。昨年長男が国家試験に合格し新聞に名前が出たとき、「お宅のお子さんですよね」って言ってきてくれた。いやあ、気にかけてくれていたんだってビックリしてしまった。お嬢さんは、次男と同じなので今3回生。院に上がらずに就職するらしいとは、以前に聞いていた。お買い物が終わって、「ところでお嬢さん、元気に働いていますか?」と聞いてしまった。長男の同級生とまた間違ってしまった。「今3回生、ご次男さんと同じです」「あら、失礼しました」どうも、兄弟で同じ塾に通い、それぞれの友達がいるのでどうも混同してしまう。「PCで就職活動しています」お嬢さんは、工学部なので、松下なんかはヘルメットかぶったおじさんが説明会で話をされるそうです。技術系は、男性の院生が先に決まるそうです。確かに、製品開発とかは、すぐに成果が出ないので、すぐに寿退社されると困るという事情があるのかもしれません。事務系職種は、文系学部出身者が有利なようで、まだ決めかねているようです。まあ国立に通っているので、就職がないということにはならないでしょう。「希望するところがなかったら、院に上がれば・・・」と話しておいた。何か本人もそのように考えているらしい。次男は、就職活動をしている風には見えないので、来年は就職しないのでしょう。長男同様、院試を受けるような気がします。長男は、親に気を使っているのがわかるが、次男は長男の歩んだ道を歩いている限り、気楽なものだろう。親としては、別にどちらでもいいです。自分の人生なのだから好きにすればいいと思っています。自分で決めて、自分で行動して、事後報告だけくれたらいい。またあの手紙の事を思い出した。息子達2人には、15歳のとき、昔で言う元服の時期なのかなあ、父親としての基本的な考えを文章にして渡した。私の子供の時の親子関係、中学高校時代、大学時代、その後の就職、その後の親子関係、お母さんとの結婚、何故また勉強して学校に入ったか、祖父母の病気、あなたが生まれてから、その時々に親から言われたこと、そのとき感じたこと、そして今感じること、これからどうなると思っているか、を数ページに渡って書いて、彼らに渡した。親の職業とは関係なく自分の好きな道に進んで欲しいこと、どんな学部を選んでもいいし、途中でイヤになったらやめてまた受験しなおしてもいい。アメリカは、学部を卒業して専門学部に進むような風潮になってきている。これから日本もそうなってくるだろうし、官僚や企業に入っても、これはという人材は、企業資金で留学させてもらえる。そんな人材になる素質は十分にある。就職しても、その仕事がイヤになったら、転職してもいいし、大学に入りなおしてもいい。親の事など考えずに、自分のこれだと思う道に進んで欲しい。そこで、最も重要なのは基礎学力だと思う。今基礎学力を上げておくことが、大学に入りなおす勇気に繋がる。もう1つ大切なことがある。結婚相手のこと。あなたのお母さんのような人、賢くて、働き者で、ニコニコしていて、相手の意思を尊重する。子供に対して制限しない。お父さんの人生の最大のラッキーは、お母さんと結婚できたこと。なんてことを書いて渡した。今もPCに残っているが、あの手紙だけ子供達と真面目に向き合ったかもしれない。あの手紙は、今思ってもタイミングがナイスだったように思う。あの時期に、親のことは気にするなと文章で伝えたのは良かった。私が、彼らの人生に介入する道を断ったことで、「自分の人生の岐路は自分で決める、相談されるまで何も言わない」という私の姿勢を明確にできた。裏にある、「お父さんはあなたの選択を信じている、反対しない」が伝えることができたかもしれない。日曜日のレース、最終日最初のレースのスタートは軽風だった。
2005/03/10
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今日は朝から暖かで、いいことがありました。朝から、「お花プレゼント」のはがきを持ってのお客さんが多く、お店がお花と「ありがとう」でいっぱいです。今回のお花は、プリムラ・ポリアンサとプリムラ・ジュリアンです。鉢植えに入っているのですが、ここ数日朝お花に水をあげるとき、「きれいだなあ」と幸せな気持ちで1日が始まります。お花を見ながら、以前聞いた話を思い出します。日記にも書いたと思いますが、「女性は花だよ。ブローチとか大きいのつけた方がいいよ。小さいのは自分のためで、大きいのは相手や周りの人のためだよ」ってやつです。お花にはお花の都合というものがあるのでしょうが、葉っぱとは不釣合いなくらい大きな花をつけています。ほんと、周りにいる私の心を幸せにします。などなどバタバタしていると、郵便が届きました。請求書・・・これいらんなあ・・・の中に、分厚い封筒が・・・クッションが入っています。おっ、CDか?差出人は、先日和歌山のレースに行ったとき、プレスボートのドライバーをしていた方です。数年前、和歌山でジュニアのOP級ヨット全日本を開催した時、全体事務局長を私がして、この方は和歌山側の事務局でした。半年前から、あ~だこ~だ折衝して、レース初日の開会式で私が司会をしたところで、私とこの方の仕事はほぼおしまい。あとは成績表の作成とホームページへのアップだけで、寒い海上でレースをしている間、暖かい部屋で、のんびりしていました。届いたCDには、レース初日から3日目までの写真が入っていました。さらに、「先日寒い中ご苦労様でした。応援の成果なく次男さん、来年再チャレンジですが、この1年間頑張って頂き4年後には日の丸を、と応援しています」という文面が入っていました。う~ん、ありがたいな。私もジュニアのレース運営にかかわる時、レース後多くの方に、ちょっとしたコメントをつけてお子さんの写真をメール添付して送りますが、こないだ集まった選手たちも、周りのいろんな人達の長い間のサポートを受けて、ここまできたんだろう。2/3の艇長はジュニア出身というところをみると、小さい時大人に助けてもらいながら、段々ヨットが大好きになっていったのがわかる。ヨットの腕も重要ですが、周りの理解と、大好きって言う気持ちがないとここまで駒を進めることはできない。私も、よその子達にうれしいをあげようと思う。プリムラの花言葉「無言の愛」のように。日曜日、私が撮ってきた写真を載せます。アテネ銅メダル関君の船。この船がアテネの海を走ったんだ。 次男君最終日のレース海面にいざ出陣。ハーバースロープを出てすぐ、ラダー(舵)の最終チェックをしています。
2005/03/09
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介護保険が導入されてしばらく経ちます。最近、お年を召した方が、介護の方と一緒に来店され、お買い物をしていかれるのが、ごく普通になりました。張り切りすぎのヘルパーの方に違和感を感る時があります。同じお客さんが、ヘルパーさんなしに来店される時は、なんかゆったりと会話をしていかれるのですが、一緒の時には、店の人との会話がなく、買い物だけという感じです。総じて1人の時の方が、楽しそうです。何故かなあと考えていると、ヘルパーさんの張り切りすぎが原因のように思えてきました。ヘルパーさんが必要だから、頼まれたのでしょうけれども、当然ヘルパーさんの方が若いので、なんかご本人さんとペースが合わない感じがします。いろんなヘルパーさんがいます。買い物のメモを見て、商品を探してレジに持ってきて、本人さんの財布を覗き込んで、「1円出したらいいよ」とか言うヘルパーさんがいます。一緒の本人さんは、傍目に何かせかされているようで気の毒です。反対に、本人さんがゆっくり棚を見て買い物をするのを、ゆっくり待っているヘルパーさんがいます。こんな時は、本人さんが何か生き生きとしている感じがします。やってあげないことが大切な時もあります。ヘルパーさんは、時間給なので、自分がいる間にできるだけ仕事をしてあげようとしているのはわかります。本人さんを待っていたら、倍の時間がかかるでしょう。でも、何か違うなあと思ってしまいます。今日来店されたお客さんは、もう何年も前からごひいきにして頂いています。ヘルパーさんと一緒の時は、全く店員さんと会話がなく、ヘルパーさんとだけしゃべっています。今日はヘルパーさんがいなかったので、腰掛けてしばらくしゃべっていかれました。話の流れでヘルパーさんの話になりました。ヘルパーさんが来られる日は、ちゃんと玄関などを掃除しているそうで、大変なんだそうです。いくらヘルパーさんといえども、散らかった家にお迎えできないから、と言っておられました。1人暮らしのお年寄りの方もたくさん来店します。「あれ、今日はどっかお出かけ?よそ行きの服じゃない・・・」などちょこっとよく声をかけるので、暇な時は腰掛けていろいろしゃべって行かれます。いろんな経験をしておられるので、「へ~」ということをいろいろ教えていただきます。何も用事がないのに、主目的はおしゃべりすることだったのかなあ、という時もあります。ヘルパーさんと一緒の時は、そんなのが全くありません。病院がお年寄りの溜まり場になるのがよく分かります。自分がヘルパーさんを頼むようになったら、上手に付き合わないと、返って世間の人との会話がなくなり、手伝われすぎて買い物も出来なくなってしまうなあ、と気をつけようと思います。ゆっくりしか動けなくなっても、ゆったり待っていてくれるヘルパーさんを頼もうと思います。気になるおじいさんがいます。お金をたくさん持っておられるようですが、ヘルパーさんを頼んでいないようです。いつもゴルフ場にあるような、電動車椅子で颯爽と店に乗り付けます。後のもの入れから、杖を出して、それはゆっくりゆっくり入ってこられます。なんかいつもニコニコしています。店内を見て回れないので、店の者が商品をお出しするのですが、「へえ、おおきに」と言って、またゆっくりゆっくり杖をついてマイカーまで行かれます。杖を物入れにさして、マイカーに乗ると、グ~ンという感じで帰って行かれます。何か、あのおじいさんかっこいいのです。スーパーとか百貨店とかは無理でしょうが、行きつけの店であのように買い物をして行かれるのでしょう。今日から春のお花プレゼントなのですが、嬉しそうにそのはがきを持って来られて、たくさんの花から、「どれがいいかなあ」とか「孫がねえ・・・」とか言いながら、選んでいかれました。そして最後は颯爽と・・・今日もかっこよかった。今朝近所の公園の梅を写真に撮りました。白い梅の花と、ピンクの梅の花がきれいでした。ちょっと見ていると、自転車に乗ったお母さんとお子さんが止まって、パンを取り出して池のカモにパンをあげ出しました。3才くらいかなあ?パンに集まってくるカモさんに、お子さんが大喜びでした。なんか慣れている感じだったので、時々パンを持って来ているのでしょう。きっとこの子はいい子に育つのだろうなあ・・・
2005/03/08
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先週は学校の大切な船を潰してしまうと大変なので、運転ミスのないよう睡眠をしっかり取ることに努めましたので、楽しみにしている3番組、木曜日のH2・土曜日のチェジウさん・日曜日の義経、みんなアウトになってしまいました。さて次男君ですが、初日出来すぎの男子10位に始まって、2日目にはさらに神風が吹いて、男子9位まで順位をあげました。3日目の2レースは、いい所を走っていたそうですが、風が50度以上変わり、ともにノーレースになりました。最終日日曜日の朝、4:30起床で駅まで歩き、始発電車で7時に和歌山到着。バスを待っていると、ヨットの雑誌記者が、「あれ、・・・さん。選手に同じ苗字の子がいるから、ひょっとしてお子さんかなあと思ってました。そうですよね」と声をかけてくれて、一緒にタクシーで行くことにしました。私がジュニアの全日本の事務局長や広報担当をしていたので、何度もこっちには一銭にもならない仕事をご一緒しました。ポルトヨーロッパにでも行って、おいしいものを食べながら双眼鏡でレース観戦でもしようかと思っていましたが、記者さんが乗るプレスボートに乗艇できる幸運に恵まれました。ハーバーに着くと、選手達がセッティングを終え、出艇申告開始時間までゆっくりしていることろでした。成績表を見ていると、着替えて出てきた次男が寄ってきて、「ナショナルチームにあと5点やねん」「すっごいなあ・・・」男子6位と5点しか離れていないので、6位のチームより6番前でフィニッシュしたら逆転です。最終日、海上に出ると徐々に風が上がって来て、10m/sオーバーで波も高くなってきました。微風・軽風で次の風を予想する力のレースから、高い波と強い風の中、ボートバランスを保って走らせる力勝負のレースになりました。実力ビリの次男君では、全く歯が立たず、ブービー・ビリ・ブービーの3レースでした。それでも最後まで諦めず、はるか離されても必死に喰らいついていました。その姿勢に神様がプレゼントをくれたのか?最終レースずっとビリを走っていたのですが、最終マークからフィニッシュまでの間に1艇ひっくり返ってブービーに上がることが出来ました。陸上に上がると、先に帰っていた次男はマストを倒したり船の艤装を解いて、水洗いをしていました。「ようやったなあ、風が落ちてきたらほんま速いなあ」と声をかけると、「風が上がったら、みんなメチャ速かったわ。一気に行かれてしもた」と、やりきった満足感でいっぱいのようで、ニコニコ話してくれました。車を回してくると、近くにいる選手に声をかけ、船を積むのを手伝ってもらい、反対に用意の出来た船の積み込みに走り回っていました。息子と同学年の東大君がおり、船を並べてワイワイやっていました。関東と関西で離れていましたが、中学受験をした同級生で、お互いの境遇が分かるので、ジュニア時代から親子で親しくさせてもらっている友達です。ジュニアのナショナルチームの遠征で、私が監督で2人とも選手でした。その子達の10年後のこの光景を見ている私の心境わかります?最高を通り越しています。今月末琵琶湖であるレースに来るそうで、次男の学校の艇庫で、いつも来ている北海道大学に加えて3大学で雑魚寝状態になるのかもしれません。趣味やクラブで結びついた関係は、勉強だけの仲間より、強くなると思うので、いろんな所にたくさん友達を作って欲しいと思っています。社会人になっても助け合える仲間だと思います。優勝は、やはりアテネオリンピック銅メダリストで、次男は結局男子11位で全レースを終えました。小さなヨットという世界ですが、生涯忘れる事がないレースになったでしょう。私の部屋の壁に引き伸ばして額に入っている写真があります。数日前も書きましたが、大昔、私が江ノ島であったこのレースに1度だけ出場できた時の帰りに、記念にと烏帽子岩をバックに撮ったものです。私を四半世紀経って再びここに来させてくれたお礼に、海上・陸上でいろんな子達の写真を撮りました。帰って見ると、1日で129枚も撮っていました。いつか次男にこの写真をパネルにしてプレゼントできる機会がくるかもしれません。夕方から、和歌山・琵琶湖・京都・大阪と運転したハードでしたが、最高の1日でした。芸術系やスポーツ系の習い事は、中学受験で空白期間が出来ても、また一段落ついて再開されたらいいように思います。小学生時代習い事の成績が全然ダメでも、大好きならここまでなっちゃうんだという見本を、次男で見せてもらいました。「継続は力なり」とか「好きこそ、ものの上手なり」の見本です。
2005/03/07
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自称おやばか、他薦親ばかの私です。次男君がチャレンジしている、オリンピッククラス国内最高峰のヨットレースのレース委員会から、初日のレース結果が昨夜送られてきました。初日なんと男子470クラス10位で、トップはアテネで銅メダルを取った関君。すごい、次男君すごくがんばってる。このレース前、息子から電話で、艇を運ぶ手伝いをして欲しいことと、車で泊まるので置いていって欲しいと頼まれました。当然答えはイエスでしたが、出発前々日家内に持っていってもいい布団を聞くと、「大レースに臨むのにちゃんと宿に泊まって体調を整えないと。知ってる宿ないの?ペアの子の宿泊費も出すから宿取ったげて・・・」翌朝時間がないので、ジュニア時代から彼も何度か泊まったことがある宿を予約しました。すぐに母親の意見と宿の事を伝えました。しばらく経って返って来た返事が、「ありがとう、でも今回は車で泊まるわ」「よし、わかった。宿キャンセルしといてな」いくつもの予選を勝ち残ってきた、日本の470トップレーサー19艇しか参加できない大レース。息子の艇は、学生仕様で多分息子以外は3倍の値段がする速い船に乗っている。息子も自艇が遅いのはよく知っている。でもあえて、速い船を借りようとはしなかった。かつて私がチャレンジした時は、八方手を尽くして速い船をレンタルした。大学ヨット部に入った時、古い船を与えられた。その船で、しっかり結果を出して、1回生秋クラブが所有している3艇の学生仕様レース艇の一番遅い船を与えられた。2回生春、「船が遅いねん、全然あかんわ。前のより遅いわ」と愚痴をほとんど言わない息子が漏らした。「船、変えてもらったら」と言うと、しばらく考えて、「先輩がせっかく僕を1年から艇長に抜擢してくれて、今の船の方がいいやろうと変えてくれたから、僕このままやるわ。」「そう、それなら1年の時乗っていた艇のチューニングをメジャーリングして、忠実にコピーしてから艇の特性に合わせたチューンナップしていったら・・・」「僕もそう思う」その後3ヶ月かかって、だんだん速い船にしていって、結果が出てきて、近畿北陸ブロックトップ3にまでなった。3回生になって、一番いい船への交代を断って、もう1年これに乗り、とうとう学生を飛び越えて一般社会人も含めた日本のトップ16にまでなり、ワールド最終予選へチャレンジするチャンスを得た。自分をここまで導いて一緒に戦ってくれた艇への愛着と共に、バイトぐらいしか稼げない自分の力を測りつつ、費用を殺ぎ落として何処までできるかの彼なりのチャレンジなのだろう。かっこいいと思った。一昨日朝、船を運んで別れるとき、客観的に見てビリが妥当な線なので、がんばってなんて言えなかった。「じゃあ、また日曜日来るわ」で別れた。ビリでもかっこいいと思う。宿を私が予約してしまったことを悔いた。余計なお世話だった。船の運搬と同じように、宿を頼まれてから行動すべきだった。よい結果を得させようと行動したが、彼にとってそれで得る違う結果は、それほど喜ぶべきことではないのかもしれない。自分がプランニングしたことで、描いていた結果とどう違ったか?あるいは予想通りだったか?が人生においてもっと重要なことなのだろう。悪いことをしてしまった。すまん。
2005/03/04
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今朝着替えている時TVを見ていると、名門日比谷高校が勉強重点校に指定され復活してきたと流れていた。灘に抜かれるまで、東大合格連続トップを維持していたが、その後は凋落の一途。やはり原因は、入試の総合選抜制度導入だったそうだ。以来、学力は私立優位になっている。総合選抜で、義務教育の公立中学のように、地域の高校に行けるようにすると、入試不合格の不安がなくなる。多くの生徒を公教育で、ということを聞いていたが、上と下のレベルの差が大きな集団を多数作ることになる。レベルの揃ったクラスを教える方が効率がいいのは、どの世界でも当たり前。勉強のできるトップレベルの子は、A高校。次がB高校、その次がC高校、次が・・・となっている方が、先生も教えやすい。生徒にとっても、自分と同じようなレベルの子が揃っているので、ちょうど自分に合った授業が受けられる。その子のレベルにあった授業を提供するのが一番のサービス。こっちの方が、落ちこぼれが少なくなるはずです。それが平等?って思うことが時々ある。みんなが公立高校に入れることが平等だろうか?私は、みんながいろんな高校を受験する機会をもてることが、平等だと思っている。結果の平等より、機会の平等。天才や秀才は世にたくさんいる。持って生まれたものもあるだろうが、それだけその事に努力できる人、努力してきた人をそう呼ぶと思っている。名門高校に入ると、鼻持ちならない人になるのだろうか?そういう人もいるだろうが、大多数はそうではない。そういうところに在籍していると、不祥事に対する風当たりが強いので、自然に頭を打たれる。安い費用で高いレベルの教育を受けられる。いいことだ。もっと言えば、国公立大学の授業料を下げるべきだと思う。私が学生だった当時は、確か国立大学は一律年額3万円だったと思う。年収の低い家庭のお子さんでも、それで大学に行けるという夢がある。現実は、塾などに費用をかけてもらった子が入学するのが多いが、そればっかりではない。自分の年収がハンディで、子供に教育を受けさせられないと思っている親は、収入が増えても別の理由を持ち出してくるだけだ。子供に高い教育を受けさせようとする親は、いろんなハンディがあっても乗り越える。親の収入をハンディと思っていたり、収入の少ない親を軽蔑するような子はいない。私が学生だった頃のように、誰でもが何処にでも行けるように、元に戻ってきているように思う。いいことだなあ。ところが私の足元の地元を見るとガッカリする。1月に入ると、私立中学入試競争率が新聞の地域欄をにぎわし、次に私立高校競争率。我が母校結構難しいなあ・・・子供達の母校も結構なもんだなあ。今は公立高校競争率。俗に兵庫方式と言う総合選抜から抜けた神戸はまだましだが、わが町の普通科は軒並み1倍付近、平均が1.02倍、隣の市は1.01倍、その隣も同様。昨年の最終倍率は、わが町1.04倍、隣は1.03倍、その隣は1.04倍。なんじゃコリャ、名前を書けば合格か?こんな感じがずっと続いている。小学校から中学に上がる延長で勉強して、厳しい入学試験をくぐってきていない子達が集まる高校に入っても知れている。他の公立高校を受験すると言う選択肢がないので、優秀な子はドンドン私立受験する。勉強をすることは辛いことだとは思わない。いろんなことが分かってきて、なんか自分に自信がつく。受験は勉強のきっかけになる。スポーツと同じだと思っている。次男がジュニアヨットクラブに入った時、15才までのクラブなのに、中学になるとみんな中学校のクラブに熱心になって、地域のヨットクラブを辞めていた。数年ヨットクラブをすると、1人でヨットに乗れるようになる。だから5年生の時に、クラブで一番上の学年になった。当時の指導者は、レースで優劣をつけることは、楽しくヨットをすることではないと考えた。でも5人いた同級生の親は、みんなそうは思わなかった。新たなクラブを立ち上げた。すでに安全に何処にでもヨットで行けるようになっていたが、次のチャレンジはレース。勝ったり負けたりが面白いと考えた。多分日本全国のクラブで一番レースに出たと思う。「お宅のクラブ、何処のレースにでもいるなあ」とよく言われた。行き出した時は、みんなビリの方ばかり走っていた。「もっと練習しないとね・・・」なんて他のクラブの方から言われていた。でもみんな帰りの車でも楽しそうにしていた。5人の中では、うちの子が大抵一番ビリだったが、「またレース連れてって」とズ~ッとリベンジの機会を求めていた。結局ジュニアを卒業する時の全日本では、うちの子の17位がクラブの5人でが一番悪く、どんな指導をしたか全国の注目を集めた。なんの事はない、レースにいっぱい連れて行ったから。スポーツをするくらいの子はみんな負けず嫌い。指導者がガミガミコーチしなくても、レースでちゃんと数字で結果を子供に与える。悔しいから練習し、悔しいから上手な子に聞きに行く。コーチもくやしいから一升瓶持って、「教えてください」と頭を下げた。いろんなところで得た情報をつぎはぎコーチをしていたら、子供たちが勝手に強くなっただけ。私の一番の自慢は、みんな最後までヨットクラブを続けたこと。そして今、全員各大学ヨット部で活躍している。ヨットを大好きにさせたこと。これは私の財産だ。中学で別のクラブに所属していても、日曜日はみんなヨットに集まってきた。その下の学年も今の現役もみんな最後まで続ける。勉強だって同じ。生易しい勉強の場を提供しても勉強好きは育たない。入門編が終わりそうな頃、次のレベルの目標を、最後はトップレベルのレース、いやテストにチャレンジさせてやればいい。ゴチャゴチャ言わなくても、勝手にがんばり出す。親が「勉強しろ」なんて怒らなくても、テストをいっぱい受ければいい。進学校はやたらに試験が多い。中間・期末は当然、休み明けの実力テスト、全国模擬テスト、業者テスト、毎週・毎授業初めにテストをする教科もあった。歯を食いしばって、落ちこぼれないようについていってたら、何時の間にか全国トップレベルになっていたという感じ。名門日比谷高校の復活は大歓迎だ。東京都は、私立の攻勢に逃げずに立ち上がった。各地に出来た公立中高一貫校の結果が数年後から出てくる。どんどん呼び水になって、総合選抜入試制度が崩れていくだろう。高校に入ることを親は望んでいない。その先を望んでいる。自宅の近所にあり、夏休みなどよくセミ取りに入っていた名門県立高校も、そうなれば復活するだろう。野球も県予選で毎回シードされていたのに、近隣市でトップの進学実績を誇っていた。スポーツセレクションなんてなくても、勉強で努力できる人は、クラブでも努力できる。小学生の頃は、ここに来てるお兄ちゃんお姉ちゃん達は、かっこいいと思っていた。最近は関西トップ私立大学にさえ、1浪しないと入れない。これって学校は関係なく、予備校の問題でしょ。お金持ちじゃないと、高いレベルの大学教育を受けられないのか?それが国や自治体の目指すこと?逃げないで、以前のようにしっかり東大何人・京大何人と、数字を出してこいよ。中途半端な教員がきっといなくなるはずだ。強豪の高校野球の監督が生き生きしているように、数学の教師も生き生きしてくるはずだ。俺もいつかは、あのトップ校の教壇に立つぞという、がんばり教師が増えると思う。先生のがんばってる姿が子供に共感を呼び、がんばる子が生まれる。「勉強せんかあ」と怒ってばかりいる教師からは、そのような生徒は生まれない。がんばれ公立高校。
2005/03/03
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昨日とてもいいことがありました。次男君が、今日から和歌山で始まる2005年ナショナルチーム代表選考会にチャレンジしますが、昨年秋に免許を取り、先月自分の車を持ったばかりなので、船を運ぶヘルプを頼まれました。昨夜船を積む為に琵琶湖の艇庫に行くと、主務の子から、「来週のクラブ送別会で挨拶してもらえますか、短くていいですから」と言われました。違う学校出身にもかかわらず、昨シーズンクラブを手伝った関係からか、送別会に呼ばれています。OBの方も多数集まる席で、少しお礼を言う機会を与えられました。大きなわが子からのプレゼントです。その日で合宿が終わり、選手2人と私だけ艇庫に泊まって今朝出発する予定でしたが、下宿の方が暖かいので、4.7mの船と7mのマストをカートップして比叡山を越えて京都に入りました。そのまま部員みんなと学校の裏にあるサラサという、よく大学周辺にある学生のたまり場のような店で夕食を取りました。カレーの小500円を注文しましたが、普通の量のカレーに野菜が山盛り1皿ついていました。メニューを見ると、ほとんどのメニューが小・中・大、特大があるのまであります。ヨット部の多数が、いろんなメニューの大を注文していましたが、その巨大さにビックリしました。中華料理の回るテーブルの中央にデンと置かれる、大きなお皿に山盛りです。丼物は、家庭のでっかい丼の2~3倍は入るだろうと思われる器に、当然山盛りご飯が盛られて、さらにその上に肉がこぼれんばかり。ラーメン丼より大きく、当然ラウンドボトムです。「こんなもん3人前やんか、ホンマに食べれるの?」と思わず口から出てしまいましたが、みんな完食していました。さらに、セットメニューとしてケーキとコーヒーが出てきて・・・こいつらの腹、どないなってるんや?毎週日曜日の晩飯はここらしいです。それでも、アメリカンフットボールの子には参るそうです。壁に貼ってある感謝の寄せ書きを読むと、「学生時代の健康を支えてくださってありがとう」なんてのもありました。ラグビー部の写真や、各クラブ・同好会の日誌ノートというか連絡帳が、壁に貼られていたり、棚に並んでいたり・・・、漫画は山のようにありました。自転車やバイクが店の前にいっぱい止まっていて、私以外は全員学生。しかも全員男の子でした。紅一点のバイトの女の子は、きっとマドンナか・・・私にもあったかつてのあの時代にタイムスリップした2時間でした。息子達は、車に泊まるそうで、合宿所から2人分の布団を積みました。昨夜は息子の下宿に泊まったらと言われましたが、屋根に乗ってるレース艇にいたずらをされたら大変なので、下宿の前に止めて車中泊しました。フルフラットにして快適な寝心地でした。今朝4時半に京都を出発して、和歌山のヨットハーバーに7時着。即タクシーで駅まで、JRで一気に帰ってきて何とか仕事に間に合いました。大阪環状線外回りで、車窓から外を見ていると、公園に簡易の建物が建っていて、その前でお相撲さんが、体操選手のように開脚してぴたっと地面にお尻・両腿をつけ、前屈して胸も地面につけていました。「うわ、すごい」もうすぐ大阪場所なのかなあ?今日も夕方から、心のビタミンを聞きにお出かけです。
2005/03/02
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