2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全25件 (25件中 1-25件目)
1

昨日は、3人乗りレーシングヨットのレースでした。土曜日が雨模様の天気で、この時期低気圧が通り過ぎると、西高東低の気圧配置で強い西風が吹くことが多く、先週のように風が強いとやだなあと思いながら朝を迎えました。朝、S先輩を迎えにJR西宮まで。息子さんに車を取られたのでしょうか?ハーバーに着くと、予想に反して風がない。船の艤装を終え、桟橋に船が降り、桟橋係留のままメインセールが上げられる程弱い風のコンディションです。「今日はカッパがいらんかなあ」ソヨソヨの風に乗って、ゆっくりハーバーから出ます。ここからは、T先輩艇と2艇だけ・・・2杯じゃ寂しいな。しかもT先輩艇は速いし、置いていかれるのは寂しいなあ。母校ヨット部が練習しています。週末から11/3にかけて江ノ島で全日本学生選手権の日程なのにいるのか・・・2つのクラスがあるのですが、片方は予選で負けちゃったから、次の代が全日本に行かずに練習のようです。艇庫が隣のライバルも練習をしています。昨年までは2連続でうちが関西で総合優勝したが、今年はお隣さんが総合優勝。お隣さんは、2クラス各クラス6艇出しており、乗ってるのが24人、さらにレスキューボートを見ると10人ほど乗ってる。数は力ですから、羨ましい限りです。レース海面に着くと、隣のハーバーから3艇出てきています。これで同型艇が合計5艇。楽しくレースが出来そうです。S先輩から、「今日はSTを鍛えるから、おまえスキッパーな」という御達しがあり、今日はスキッパーです。スキッパーというのは、舵を握る人で、レースでは一番結果を左右します。我がチームは、学生時代よく走った選手のなれの果てが揃っているのですが、まだこの船に10回ほどしか乗ったことがない私が、オーナー兼スキッパーのS先輩の次に多く乗っています。この船の基本動作をきちんと分かっているのは、S先輩のみで、あとは素人集団です。他艇も、元オリンピック選手を筆頭に、学生時代の成績は似たり寄ったりなので、我が艇の低位置は、びりかその次です。この日は、レースではあるが練習として、舵を私に預け、ST先輩に動作を教えることにしたようです。スキッパーは、センスと集中力が必要で、レースで気を抜く時間は全くありませんが、担当が舵だけなので、基本動作は小型艇から大型艇まで一緒です。だから、学生時代に全日本を目指して練習してきた者なら、すぐに出来やすい部署です。S先輩も、素人を率いてご苦労様です。この日は、最初微風から6m/sくらいの順風に上がり、最終レースの最終レグはまた風が落ちる楽しいウインドコンディションで、3レースでした。私はインターポートという国際レースで2レーススキッパーをして、これで2日目のスキッパーなので、ちょっと余裕が出てきて、他艇の動きなども落ち着いて見れるようになりました。一番速い艇に乗っているGさんとインターポートでご一緒させてもらったので、見ながら覚えた部分もあります。その時、一番速い船のスキッパーもしたので、その感覚を再現すべく、いろいろチューニングすることができました。3レースで、ヨットレースを勝つために最も重要な、最初のマークトップ回航2回と大健闘でした。インターポートでも、2回のうち1回トップだったから、全5レースで3回トップは中々です。私に合ってるのかもしれません。S先輩の人柄に乗せられてるところもあります。S先輩は、私が大学1年の時のキャプテンの方ですが、今は会社を経営しておられ、自分がいなくても動くようになっています。ベトナムだ香港だ、海上自衛隊の観閲式だと、いろんな所に行ってますが、ビクともしないようです。まあ、私もS先輩の会社のサービスを買っているのですが・・・船でご一緒して、何故自分がいなくても会社が回っているか分かるような気がします。S先輩以外は、この船に関して素人だから、毎回たくさん失敗します。でも決して怒ったりしません。船の中でひっくり返っていても、「落ち着いて」と声を掛けられます。「いい走りしてるで」と気持ちを乗せてくれたり・・・そしてフィニッシュ後、同じくラブの先輩後輩の仲だからでしょうか、失敗をがははと笑い飛ばします。「ヨットの基本は出来てるから、慣れればできる」と信じてくれているのが伝わってきます。お子さんに対する姿勢も、そういうところを感じます。うちに似ているのですが、長女さんは、トルコ語学科というめずらしい学科を卒業し、トルコに行ったら遺跡発掘の仕事をし始め、ドイツの大学がそれに積極的だからと、ドイツの大学に通い出し・・・大卒の女の子だから、結婚のことなど言いたい事は山のようにあるだろうに、自由にさせており、お母さんはそれに便乗して、娘の下宿を拠点に、ヨーロッパをいろいろ回ったらしいし・・・親が信用しているを態度で表しています。昨年の母校ヨット部主将だった息子君も、自由に育てられているなあと、傍で見ていてもしゃべっても感じました。親というものを経験し、子どもの失敗を注意することは簡単です。それで、親の仕事をきちんとしていると満足は出来ます。多分会社の経営者も同じでしょう。細かい所まで注意して、傍目でもいい経営者に見えます。でもそれは、子どもや社員を育てるのとは違う気がします。ミスを注意しすぎちゃうと、顔色をうかがう子になったり、ミスを恐れて何もしない子になります。結局十分に成長できません。「きっとできる」と信じて、ミスに目くじら立てず、笑い飛ばすくらいにしてやると、温かい環境に恩返ししようとよりがんばるもので、またチャレンジします。それによって、自分で成長し、やがてトップがいなくても平気な会社が出来上がります。私もこういう先輩と縁があり、ラッキーです。近くで生で、しかもタダで吸収したいですね。
2005/10/31
コメント(4)
「こんにちは」「はい、あら、Kさん、珍しい」数日前、次男出身ジュニアヨットクラブの現中2の子のお父さんが、仕事場にひょっこり現われました。Kさんは自宅が京都なんですよね。「今日はこんな遠くまで、仕事ですか?」「いえ、KOさんの所に寄ったら、近所だと聞いたもんで・・・」Kさんは、この週末からタイ・パタヤで始まるジュニアヨットアジア選手権に、サポーターとしてついていかれる。お嬢さんがメンバーに選ばれたからですが、うちのクラブでは今年最後のナショナルチーム遠征です。ヨーロッパ選手権・世界選手権・アセアン選手権、そしてこのアジア選手権。うちのクラブも4名もナショナルチームを出すクラブに成長した。近所に仕事場があるKOさんは、次男と同じ年で、ずっとジュニアで一緒。その後同じ高校ヨット部になり、京都のD社大ヨット部キャプテンを今年している。大学での活動も同じ琵琶湖なので、ずっと次男のライバル。親同士の仕事場が近いので、朝や夜親同士は何かを食べに行ったりする大の仲良し。KOさんは、時々タイに遊びに行っている。タイに遊びに行くというと、悪友の存在がちらちらするが、その辺は詮索しないでいる。私まで引き込まれたら大変。携帯電話をレンタルするより、買う方が安いので、購入して持っている。それをKさんが借りに来たというわけです。多分、KOさんは悪友の持っているのも集めて貸したのだろう。アジア選手権が開催される所は、私が過去レースを引率した所で、泊まるホテルまで一緒だから、監督さんにはいろいろとアドバイスしたが、その他の情報も知りたくて、KさんはKOさん仕事場訪問のついでにうちに寄ったようです。KOさんとうちは、歩いて2分て距離だからなあ。一通り話が終わって、Kさんがしきりに私を再びジュニアコーチに誘う。最近は子供達が増えて、親のヨット経験者が相対的に減り、いざという時の臨機応変な対応に不安を感じていらっしゃるようだ。特に安全面。まあ本当に困っている感じなら手伝うが、親御さんがいっぱいいるのになあ・・・しばらくはホームページ担当でお茶を濁しておこうと思う。アジアチームは昨日日本を発ち、今日チャーター艇の引渡し、計測、そして練習しているのだろう。明日はスポンサーレースで、明後日から本番レース。送られくるメールやチームHPから情報を拾って、ジュニアHPで紹介する日々がまた始まる。
2005/10/29
コメント(0)

「前に停まってる車、次男さんのですよね」「ああ、そうだけど、よく分かったね」「前、向こうの店であれに乗って行きはったから」古くからいる従業員さんが、前回次男が車で帰って来てた時のを覚えていてくれてたようです。ありがたいですね。何の変哲もないない車なのに、覚えてくれてて。ひょっとすると、ぶつけてへこんでるところを覚えていたのかも・・・昼にふらっと次男が帰ってきた。「クレジットカード作ってくるわ」と近所の銀行に行った。わざわざ実家に帰って来なくてもカードくらいできるだろうに・・・と思っていたが、期限が切れてしまったパスポートの申請もあったそうだ。銀行から帰ってきて、「年末から旅行に行こうと思ってるねんけどさあ、カード・現金・トラベラーズチェック、みんな持っていった方がいいやろか?」「海外に行くの?日曜日に船でヨット部のみんなと話していた卒業旅行ってやつか?」「いいや、1人でオランダ行こうと思って。向こうに留学してる友達がいるから。年末前に出て、1ヶ月くらいで帰ってくるわ」「あ、そう」「電車で2時間2000円あればフランスなんやって」「へえ、1ヶ月あればいろいろ回れるなあ。オランダはドイツにも近いし、アムステルダムはヨーロッパのハブ空港だし便利だよね」今回も事後報告で、なんか嬉しい。親父は僕のしたいことに反対する分けないと思ってる。小さい時から、そういう風に接してきたからそうなったのだけれど、反対に信頼されている気がする。子供の時、海外レースを経験したことが、海外に1人で1ヶ月行くことに対しても気を楽にしているのだろう。選手3人だけの小さなグループという、自分で何とかしないといけない環境だったから、さらに良かったんだろうなあ。まあ、自分の人生、自分でプロデュースしてね。親父は、メールを楽しみにして、写真を見せてもらうだけだな。
2005/10/28
コメント(5)
サンタバーバラから絵葉書が届きました。取引先の営業マンからです。今、そのUSA子会社に、英語研修という形で行っている。その間の担当者から、会社の費用で語学学校に通っているということです。その絵葉書の写真には、海・海岸線、そしてヨットハーバーが写っていた。私が海好きだということを承知でこのハガキを送ってきたかどうか定かではないが、「いいなあ」とトリップしてしまった。こういう気分の時は、その手の活字を読むに限るなあ・・・ということで、ヨットでの長距離航海者の文字を追うことにする。ちょこっとこういう好きな分野の事を読むと、気持ちがハッピーになるからなあ。偏西風と言うのは知っておられるでしょうか?赤道の無風地帯があり、次に貿易風地帯、そして偏西風地帯と、緯度が上がると、いつも同じような風が吹いている地帯がある。日本の上空にいつも吹いているジェット気流も偏西風です。いつも西風が吹いているので、西の雲が東に流されていく。日本の天気が、大体西から東に変わるのはこの影響です。この南の地域は貿易風地帯。ヨットに乗ってる人の多くは、「貿易風」という響きに一種の憧れがあるのではないでしょうか。私はかなり憧れてます。カリブ海の島々は、貿易風帯にあり、大西洋からの東風がいつも吹いている。椰子の木につるしたハンモックを、心地よく揺らし、青い空には低い小さな雲がポツンポツンと浮いている。午後には、東の空に暗い雲が現われ、そこから白いカーテンが垂れ下がる。やがてそれがやってきて、10m/s以上の風とともに、海面が真っ白になるほどのスコールになる。5分から15分くらいの毎日の定期便。こういうのに憧れますが、カリブのアンカレッジ(錨を打つところ、つまり船の波止地)での白人ヨッティー達は、すかさず船の中に避難するのではなく、反対に船から出てくるらしい。デッキブラシを持ち出してきて、船をブラッシングする者。日よけから流れ落ちる水をバケツに受ける人。そして、女性は服を脱ぎ出して、天然のシャワーの下、全身シャンプーの時間になる。目のやり場に困るらしいが、それが毎日の日常。日が傾き午後の終わりに近づくと、船にヨッティー達が集まり、アルコールの時間になる。かなり酔いが回ってくるころに、ハイライトのグリーンフラッシュというものがあるらしい。太陽が西の海に水没する一瞬、ギラッと緑色の閃光を放つのだそうだ。水平線に雲がなく、空気がよく澄んでいる時に見られるらしい。自然条件がうるさいが、中にはアルコールがちょうどいい感じに回っている時でないと見られないと言うヨッティーもいるらしい。このグリーンフラッシュは、写真に撮られ、絵葉書にもなっているが、似て否なるもので、南の海で貿易風に吹かれながら、眺めるものらしい。いつか、自然が作り出す光の芸術に乾杯したいものです。おっと、アルコールがいけない私では様にならないかな?ヨーグルトではあかんやろか?
2005/10/27
コメント(2)
「愛国心」をテーマにした番組をしていました。サッカー日本代表を応援している若者に向けて、愛国心はありますか?という質問をしていた。小泉さんがまた靖国神社を参拝し、憲法に愛国心という文言が入る案が取りだたされていることと繋げての番組だと理解した。生まれた国を愛することは愛国心だと思いますが、国の施策に盲従するのは愛国心ではないと思います。インタビューに答えていた若者が、日本代表を応援するのと、愛国心は何か違うなあと、総じて答えていたが、とても健全に思えました。靖国神社は、戦争指導者と戦場で散った方、両方が同様に神として祭られています。両方に、ありがとうと感謝することは、私にはできません。東京裁判の正当性、フィリピンなどの植民地を結果的に解放したという日本の戦争正当化論、いろいろありますが、私にはそれを武力で成し遂げようとする事に賛成はできません。かつて愛国心をあおり、国とために死ねば神様になると教育し、軍事専門家ではもう敗戦濃厚と分かっていたにも関わらず、奇蹟を信じて始めた特攻作戦で多くの若者の命を奪った。「国のために死んでくれ」というのは、今起こっている自爆テロと何ら変わらない。これは、国の組織的軍隊が取る作戦とは思えない。愛国心と言うのは、個人の内からにじみ出るもので、国に強制されるものではない。国を家族に例えるなら、親が子に家を愛せよと強制し、特攻作戦は、家のために子供に死ねと命令するようなもの。子孫として、それを強いた当時の親に感謝は出来ない。愛国心と言う言葉の裏で、非愛国者としてレッテルを貼られる人が生まれ、そうならないために何となく、体制の意見に迎合する人が生まれる。それが段々と、先鋭化に傾いていく。それがかつて歩んだ道です。私1人の意見なんてちっぽけだが、子供に恥じない行動を取らないとね。
2005/10/26
コメント(4)
「ピウピウピウピウ、ピーウーピーウーピーウーピ-ウー・・・」最近、道路から突然変な警報音がよく聞こえてくるようになりました。最初は何事か?と音の鳴る方に注意していましたが、もう慣れてしまいました。駐車中の車からの盗難防止ベルのようです。あの感度は調節できるのでしょうか?警報音の鳴る車が駐車されたら、切れても切れてもしばらくすると鳴り始める。車をゆすったりすると鳴る仕掛けになっているのか?すぐ横を車が走り抜けると鳴るようです。多分その風圧で車が揺れ、それを感知してしまうのでしょう。それにしても近所迷惑です。仕事場の前は駅前のバスロータリーなので、交通量は多いです。車を覗き込んでる人もいるし、けたたましい警報音にかえって腹立ちまぎれにいたずらされそうです。そして、慣れてしまった近所の私は、もう無反応になってしまいました。これって、狼少年現象ですね。日曜日まで4日間次男君が帰ってきていたので、自宅のネット環境がかなり改善されました。次男君は、細かいことが好きで、掃除もまめにします。部屋の模様替えもよくしていて、机の向きがよく変わっていました。長男君は、自分の生活スペースさえまともなら、あまり他が気にならないようで、兄弟でも大分違います。次男君は、下宿を始めてから今回が一番長期の実家滞在だったので、PCを持って帰って来ました。スプリッターから分かれたPC回線をさらに蛸足にして、長男・家内・私の部屋に引っ張っていたのですが、モデムが1台しかなく、モデムを使う部屋に持って来て、PC回線に結び、そこにPCコードを結ぶようにしていました。仕事場をADSLから光ケーブルに変えた時、ルーター(蛸足配線できる機器)なるものをNTTから無料でもらったのですが、仕事場で使うことはなく、自宅に置きっぱなしになっていました。自宅で何人も同時にPCを使うことがないので、そのままだったのですが、次男に設定しといてと渡しておきました。翌日にはルーターが使えるようになり、付属でついていた無線機器も使えるようになっており、PCの横にガチャンと突っ込んだら、無線でネットに繋がるようになりました。
2005/10/25
コメント(2)

昨日はクルーザーに乗ってきました。息子のヨット部の外部コーチを2年間させてもらい、いい経験をさせてもらったお礼に、クルーザーのセーリングも経験させてあげたいと思い、彼らを招待することにしました。知り合いの大学ヨット部監督さんは、毎年ヨット部卒業生と数泊のクルーザーセーリング旅行をしている。監督さん曰く、「小型ヨットのレーシングは、ヨットの世界のほんの一部。ヨットの広がりを経験させてやりたいから・・・」すごくいいなと思っていたので、ちっぽけながら実現させることが出来ました。次男君に乗りたい人がいたら先輩でもいいよと声をかけておいたのですが、土曜晩まで連絡なし。ありゃりゃ中止になっちゃうのかなあと思っていると、「お父さん、僕入れて4人、僕の代だけ」と言ってきました。週末自宅に帰ってきていたので、次男君と家を出て駅でみんなを乗せハーバーへ。毎週日曜日は天気がよく、風もいい感じなので期待していたのですがあいにくの冬型気圧配置で、風が強く寒いです。ハーバーで大学艇庫が並ぶのを見て、艇庫のきれいさに羨ましがっていました。確かに彼等の艇庫とは住環境が大分違うなあ。船に着くとオーナーのKさんがおられて、予備燃料のことなど教えてくれました。Mさんとともにツインスターに乗る予定と言うことでしたが、先輩方が多いので遠慮するとの事。ヨット部上がりとは言え、私以外はクルーザーは素人なので、心配して来てくれはったのでしょう。ありがたい。女子マネさんにトイレの使い方もレクチャーいただきました。ツインスターに乗らないのなら、ご一緒にと誘ったのですが、親子セーリングに気を使われたのか遠慮なさいました。そう言えば親子でヨットに乗るのは初めてです。ツインスターにヨット屋さんに勤める後輩のI君が来ていましたので、Mさんが水のポンプのこと、ビルジポンプのことを見てもらっていました。どうやら正常に動いているようです。問題点が1つずつ解決していきます。11時に出発です。Mさんから、「今日セール上げたらメイン破れるんちゃうか」何か私もそんな感じがしたのでリーフ(セールを小さく上げる)するためのシートだけは用意してきました。東入口から出て機走で風位に立てながらメインアップ。あらかじめ1ポイントリーフ用にシートを通していたのでそこまで上げ、ジブを展開すると、間もなく「ビリッ」という聞きたくない音が・・・ありゃりゃ、リーフしたクリングル周りのセールが持たなかったようです。古いセールなので、とうとう少し破れてしまいました。ヨット部員だけならフルセールで行くのだが、女子マネさんがいるし、ヒールに恐がってしまうと子供にヨットをやらせようと思わなくなったらと思うので、今日はどんぶらこっこのスローライフセーリングです。中学生以下のジュニアが練習しています。みんなが「あれ後輩?」って次男に聞きます。遠くに高校生艇が2艇。あれも次男の後輩の高校の船だったかもしれません。赤灯台に向かっていると、先に沖に出ていたレース艇が防波堤内に戻ってきます。西風で沖は波が良くないのかなあと思いながら、息子の「沖に行こう」の言葉で赤灯台を抜け、沖の浮標に向けます。他の子は港内でも琵琶湖よりは数段上の波なので「すごいなあ」と言っていますが、息子は元々ここでヨットを覚えもっとすごい所でも乗っていたので、その辺に関しては平気です。「スピンついてないの?」とやはりレーサー、もっとスピードを追及したいようです。気持ちはわかるけどなあ、今日は女の子乗ってるし・・・その辺気を使わないともてないよ。数キロある一文字防波堤の反対側の白灯台を回って港内に入ることにしました。白灯台を回り岸に伸ばすと、水深が浅くなってきます。水深3m、こりゃいかん、限界です。沖出しするが、砂利船集団の中で、何度も方向転換してやっと広い海面に出ます。何度も方向転換したので、みんなそれなりにコンビネーションが出来てきました。セールを小さくしていることもあり、マネージャーさんが舵を取ったりしていましたが、あ~だこ~だ楽しそうです。学生が練習している海面を横目に、入口近くまで帰ってきて、セールダウン。ちょうどツインスターも上から下りて来てセールを下ろしています。3時前に帰着して後片付け、マネさんにログブックを書いてもらいましたが何を書いたのか?次のときのお楽しみ。ちょうどフローティングボートショーだったので見ていきたかったのですが、これからバイトの子がいてそのまま帰りました。帰りは、初めてのクルーザーセーリングが楽しかったようで、みんなでお金を貯めて・・・なんてしゃべっていました。ヨットは、卒業してからも長く遊べるからね。仕事の息抜きに海で遊んで欲しいものです。次男君も小3の時、こんな感じでヨットを始めたのに、あれから14年ずっとヨットを続けています。
2005/10/24
コメント(2)

時々、昔のビデオを観ます。子供達の赤ちゃんだった頃のは、最高に幸せな気分にさせてくれる。長男君が、家内のおっぱいをチューチューしてるのを延々撮ってるのもある。これをもし発売しようと思ったら、きっと何とか審査ではねられるだろう。最近はこれくらい平気なのかな?家内の表情が、長男君を見ながら、なんか幸せそう。長男君は、口をとんがらして、舌が微妙に下唇にくっついて、上唇がリズミカルに動く。わき目も振らずだったのが、口を離して満足そうな感じになったのに、またチューチュー。面白いなあ。いやあ、家内には頭が上がらないです。最終的にはみんな家内が世話をして、オムツ替えとかいろいろやったけど、全然足らない。あれから今まで、私は子供達と遊んでいただけのような気がします。家内がいてくれたからだなあ、ありがとう。おととい、昨日と、次男君が帰っているので、久しぶりに家族4人が1つの屋根の下で寝ています。家内と作ってきた家族、次男が下宿で出てしまうようになって、それまで何とも思っていなかった家族全員が揃うことが、何となく幸せに感じたりする今日この頃です。市民スポーツ祭
2005/10/22
コメント(4)

新聞のスポーツ欄に、フリースタイルスキーモーグルの上村愛子さんのコメントが載っていた。「弱音を吐き出せる幸せ」弱音を吐くのは格好悪いと思っていたけど、無理をしなくていいんだと最近気づきました。8月の合宿で、高校生の遠征以来のホームシックにかかった。コーチに途中帰国の相談をした。腰の痛みと、ウェートトレーニング不足が原因で体が思い通りに動かない。楽しいはずのスキーが楽しくなく、海外にいる意味さえ見失った。コーチに相談するのは初めてだった。弱音を吐くと、「それじゃだめだろう」と怒られると思っていて、怒られることでさらに落ち込むから、言うだけ無駄と思っていた。でもコーチの反応は違った。笑顔がなくなっていたことをとっくに気づいていて、「コーチは選手を助けるためにいる」「オリンピックで人生が終わるわけではない」「あせらなくてもいい」コーチの存在は、学校の先生と同じで選手を見下し怒る人で、100%の味方は母親だけだと思っていたからうれしかった。話を聞いて、今できることをやればいいと吹っ切れて、その後の練習は充実して、腰の傷みも消え、今期初めての3Dの技も完璧にこなせるようになった。今は笑顔いっぱいでスキーをしています。-------愛子さんは、1998年の長野オリンピックの時、笑顔の高校生で登場しました。髪飾りもおしゃれでいいなあと、アイドル的に見ていました。本番でも7位で、悔しがらずにとても喜んでいたので、この子いいなあと思いました。その後ワールドカップで優勝するなど着実に力をつけていたのに、2002年ソルトレークオリンピックで6位に終わった。もっと上位に来ると思っていたのに、少し残念だった。その後、多分1年後だったと思うが、愛子さんの特集番組を見ました。大技の得点が上がり、着実に滑るよりも有利になってきていたそうです。愛子さんは冒険はやめて、点の出ていた過去にこだわって、それを磨く作戦で臨んだが、時代の流れに取り残された。カナダ人コーチに変わった。そのコーチの言葉が印象に残って、それから愛子さんを注目し、きっと次のオリンピックはいい結果を残すだろうと思った。原点に帰って基本のスベリを上げる練習をしていたが、世界選手権だったかな?ある大会で1回目首位に立った。2回目は、みんな逆転を狙って大技を仕掛けてくるので、愛子さんも大技を行くことにして短時間練習したが、やはり順位を下げる結果になった。それに対するカナダ人コーチのコメントは、「私は順位を落とすのが分かっていても、今の自分の得意な所で行こうとアドバイスしたが、愛子が大技で行きたいと言ったから、OKした。順位はさらに落ちてしまったが、愛子の選択だからこれでいい。いろいろ学んだだろう、今はそれが大切だ」みたいなものだった。その大会を写した愛子さんとのミーティングで、コーチの顔がいつも笑顔だった。「楽しんでいるかい?」がこのコーチのキーワードだなと感じた。愛子さんは初めて外国人のコーチについたそうだが、こういうコーチがサポートしていればいずれ結果が出てくると思った。そして楽しく競技ができると思った。今年は、別のコーチのようだが、また外国人コーチで、愛子さんのコメントを読むと、同じような感じなんだなあと思った。それともう一つ、「100%の味方は母親だけだと思っていた」という部分・・・ずっと100%お母さんは味方だったんだな。これは、彼女が何も上手に出来ない小さな頃の母親の接し方がそうだったということだろう。彼女の小さな意思表示を、ちゃんと尊重する接し方をしてきたのだろう。いつでも自分を信頼してくれる帰るところがある人は強い。自分の意志を信じて思いっきりチャレンジできるから。愛子さん、来年のオリンピックは、今までで一番楽しい大会になるんじゃないかなあ。きっと結果もついてくるよ。市民スポーツ祭セーリング競技 小4以下の部 表彰状すごいね
2005/10/21
コメント(0)

朝日新聞の夕刊の連載に、「世界の貧しさと闘う」というのがある。多分10日間位の連載で、前回は「トヨタウェイ」でした。何気なく読んでいると、ヨット部という文字が飛び込んできた。まだ25才だから、次男君と琵琶湖でレースをしていたと思われます。彼Wさんは、バングラデシュでストリートチルドレン11人と共同生活をしている。しらみがついているので、女の子もみんな丸刈りらしい。1日の大半を路上で暮らす彼等の親は、現金を得るのに必死、彼らも鉄くずなどを拾う。「自分にできることを探して歩き回っていたら、売春婦の子供がいじめられていた。公園で一緒に歌い、読み書きを教えるようになった。母親の売春を見てしまった子や、娘は大切な収入源という人がいる。安心して暮らせる場所が必要だと思い、親を説得した」英語もろくに出来ず、ツテもないのに空港に降り立ったのが3年前、不幸な境遇の子供にチャンスを、という思いだけだったらしい。金沢大4年の時、タイでヨットレースに出た。パーティー会場に向かう途中、スラムの入口に立つ5・6才の子と目が合った。「俺とあの子の差は何なんだ」何かに突き動かされる思いがした。ダッカ大の受講生になり仲間を探し、NGO設立。日本大使館主催のベンガル語弁論大会にでたWさんは、大使館員と知り合い、そのツテで日本語教師の職にありつき、多くの知り合いを得、資金集めのコンサートも実現した。今ストリートチルドレンの映画を製作中だとか。イラクの高遠奈緒子さんと同じことをやっているようだ。高遠さんは今イラクに入れないので、ストリートチルドレンの家を仲間に任せて、破壊された学校再建のための資金集めをしている。私もタイにレースに行った時、ダウンタウンで怪しげな路地にたむろする子を見た。でもWさんのような感情は湧かなかった。人は同じものを見てもいろんな事を感じる。感じたまますぐに行動を起こせるのは若者の特権。ミスはいっぱいするだろう。でもそれを指摘するのではなく、アドバイスしながらもすばらしい成果に声援を送りたい。ダッカの大使館員はそういう目で彼を見ているのだろう。そして新聞社に彼を紹介したのだろう。大規模ダム建設費用にODA援助することも大切なことなのだろうが、こういう小さなNGOが、日本人のイメージアップに貢献している部分も大きいのではないだろうか。数年前に、カンボジア和平に向けての選挙などで日本が協力したとき、現地で地道に活動してきたNGO代表の若者を、会議に参加させなかった政治家がいた。「NGOごとき・・・」という発言があったと思う。年齢や政府へのコネのあるなしではなく、活動実績を見て、平等に見たいものです。本当の平等は、結果の平等ではなくチャンスの平等。私はこの記事を読んで、Wさんに拍手を送りたい。市民スポーツ祭セーリング種目をクラブが運営しました。市長さんの名前が入っているけどこの小さな表彰状、きっと君たちの前向きな姿勢の応援になると思う。おっちゃん達も親御さんたちも、君らの笑顔から元気をもらってるよ。
2005/10/20
コメント(2)
「12歳に殴られ母死亡」夕刊にまた、同じような事件が報道されていた。「ああ、まただ・・・」タイトルを見たときの正直な印象だった。大阪のマンションで、お母さんが倒れているのを、先生が見つけた。室内にいた長男の中学生が、お母さんを殴ってしまったようだ。「お母さんに勉強しなさいと言われてケンカになり、殴ってしまった」と話しているようだ。午前0時、お母さんに勉強しなさいと平手で殴られ、殴り返したそうだ。朝起きたらお母さんが倒れており、東京のお父さんに電話をかけた。お父さんからの連絡で、先生が駆けつけたそうだ。中学校によると、「長男が家庭内で暴力をふるう」と相談が寄せられていた。夏には、包丁を持って暴れたので、警察が大阪府の子供家庭センターに通告していた。この日は中間テスト2日目、無断で学校を休んだので、先生が心配して自宅に電話したが、体調が悪いので休むと本人が答えた。同級生によると、「やんちゃで友達も多く、成績がとてもよかった。変わった様子はなかった」近所の人によると、「最近、午前2時ごろになると、窓を激しく開け閉めする音が聞こえ、子供が暴れているのかなと思っていた」「挨拶もちゃんとするし、見た目もごく普通の子。母親とケンカすることが多いと聞いていたが、多感な年頃なので普通の事だと思った」--------私の過去と重なる子が、また一線を越えてしまった。また長男。長男は、親の期待が大きいだけに、失敗やさぼりをきつく叱られる。よって、反動も大きい。子供が親に暴力を奮ったり、暴言を吐くのは、心に屈折したものがあるからで、そのはけ口に一番自分の事を分かってくれている親を選ぶ。心に屈折したモノが起る元は、大半が親からの圧力。言葉だったり、暴力だったり。多分一方的ではないが、親子の間に暴力の応酬が日常的にあったのだろう。親は暴力をふるってはいけない。お仕置きと称するものもいけない。子供は親が一番好きで、親を信頼している。立つのも、言葉を覚えるのも親を真似している。何でも親のすることはまねをする。たとえお仕置きと称しても、暴力や言葉の暴力を子供に対してすると、子供は真似をする。正しいことなら、暴力をふるっても赦されるんだと子供の頭にインプットされる。「宿題したの?」もゆっくり普通の会話で声を掛けるといいが、きつく叱るトーンでやるといけない。きつく叱って恐怖で勉強しても、いずれ勉強がイヤになる。さらに勉強させようとしたら、もっと大きな恐怖がいる。恐怖と傷みに人は一番早く反応する。だから幼児や低学年では、この方法を取ると、上達が早い。でも悪感情と結びついたものは、無意識のうちにそれを拒否するようになる。叱られて勉強したことが潜在意識に残り、勉強イコール叱られるという悪感情とくっつき、勉強を進んでするのがイヤになる。喜びや笑顔、褒める、拍手で勉強すると、幸福感情と勉強が結びつく。即効性はないが、自分で勉強するようになる。小さな出来たを褒めてやればいい。子供は決してそれで有頂天になってサボったりしない。一時期サボっても家庭から出ると、いっぱい壁にあたり、有頂天になってサボったらあかんことを学んでいる。子供をよいしょしているだけで、段々勝手に勉強するようになって、何も言わなくていいようになる。このお母さんは、ずっと勉強しなさいと言ってきたのだろう。いい点数を取ってきたとき、思いっきり褒めていたのかなあ・・・何かの教科が悪い時、それを言うのじゃなくて、そういうときこそいいのを褒めたかなあ・・・子供は自分の事だから、何が出来なくて何が出来たか親以上に分かっている。あえて出来なかった部分に触れなかったら、子供は親のやさしさを知る。そして周りの人に対してもやさしい事が出来る子になる。お母さんのご冥福を祈ります。
2005/10/19
コメント(8)

ロッテがソフトバンクに勝って、パリーグ優勝です。今年もしロッテのがんばりがなければ、パリーグはソフトバンクのぶっちぎり優勝で、つまらないものになったでしょう。セリーグの方は、ヤクルトが優勝じゃないかなあと予想していました。阪神ファンですが、一昨年優勝したところだから、今までの優勝周期から行ったら、まだ先。中日は、連覇するようなはしたない事はしない球団だと思ってました。さて、我が阪神とロッテで日本シリーズです。当然阪神を応援・・・何だろうけど、今年はロッテに優勝を譲ってもいいかなと思っています。セリーグ制覇を3年間で2度もやってくれたし、それだけで満足です。藤沢周平ではありませんが、足るを知るというか、十分ありがとうです。そしてもう一つ、バレンタイン監督が好きなこともあります。大分前にロッテの監督をしていたときも、GMと合わずに辞められたけど、いい感じでした。今回も、負けた時など怒りを表すが、選手に対してではなく、負けたことに対してで、いつも選手は良くやったとか、こういう時期もあるなどと、選手をかばいます。昨夜、ニュースでソフトバンクとの試合経過を見ていたが、1点リードの最後に1年間ストッパーで結果を出してきた小林を迷わず使った。2日前、最終回4点差で小林を投入したが、逆転負けを喫して、ほぼ手中にしていたリーグ制覇が逃げてしまった。「何故?4点もリードがあるのに・・・」という気持ちになったと思うが、最終戦でしかももっと緊迫する1点差で、迷わず小林を投入した。たった1回だけど0点に押さえて、小林はウイニングピッチャーになった。2日前の悪夢とセットで、神様の仕業を見た気がした。迷って他の投手で優勝するより、打たれても小林を、と思ったのかもしれないと想像した。こういう使い方をされると、本人も気合が入るし、他のチームメイトも納得いくだろう。日々こういう監督を見てきて、選手が力をより出すようになり、今年の好成績に繋がったのだろう。今年は日本シリーズもロッテは制し、バレンタイン監督の研究本が書店に並び、けなさず褒める、楽しむ、ことが勝利に繋がるという事が少しでも世の中に広まったらいいと思う。世の中既に変わっている。私の周りでも、ガミガミ怒っている指導者の集団でよい結果を出しているところは知らない。みんな激励、おだて型で、技術的な事はしっかり教えているところです。スポーツはもちろん、勉強だってそう。長男のある学年の中学担任先生と長男は合わなかった。「こんな成績でどうするんだ」型で、イヤになって先生の授業だけボイコットした。あのままあの先生が担任だったら、登校拒否になっていたかもしれない。次の学年では離れ、6年間担任団が持ち上がりの学校だったが、とうとう辞められてしまった。次男の担任先生は、受け持った高3クラスを学校一番の実績で卒業させて、中1に降りてこられた。そのまま6年間持ち上がりだったが、勉強に関係ないことでも生徒をホームルームで大げさに褒めて、結局6年間持ち上がったクラス40人中半分以上が、国立2強に現役合格した。学校の歴史始まって以来の最強クラスだったろう。クラス懇談に何度も出席したが、こんなあかんことがあったので家庭でも注意してくださいなどは全くなく、こんないいことをやってくれましたとか、良かったことばかりを言われ、出席されているお母さん方の顔がみんな笑っている。成績に関しても、大丈夫です任せてくださいと言う。いつもの口癖は、「お子さんの前で夫婦喧嘩しちゃだめですよ。お父さんの悪口をお子さんに聞かせちゃダメですよ。学校や担任への不満も厳禁です。お子さんが世界で一番信頼しているのはお母さんですよ。そのお母さんが不満に思ってる学校や担任を、お子さんが信頼するわけありませんよ。直接学校や担任に言ってください。一緒に解決するように考えましょう」そういうのに通じるものがバレンタイン監督に見えるような気がします。大阪湾名物俗名じゃり船 空港島などの埋め立て用土砂を運ぶ船です。これがじゃまなんですよね。
2005/10/18
コメント(2)

昨日はいい天気でした。最近なぜか朝が早く目覚めます。日曜日は、先週に引き続き5時に目覚めてしまいました。あまりに早いので、まだみんな夢の中。静か~に、こそっと着替えて仕事場に向かいました。土曜日にDMの原稿が出来たところでそのままになっていたものを、印刷機に掛けました。印刷しながら、次の原稿を作っていると問題発生です。前回ハガキに印刷したので、そのまま厚紙設定にしていたからか?数枚一度に送られたようで、時々印刷されていない用紙が混じります。ありゃりゃ。それを1枚1枚抜き出して再び印刷。予定時間をオーバーしてしまい、8時の開店時間に散髪屋さんに行くことが出来ず、散髪が済んだのが10時前。10時から船の整備に集まろうということになっていたのに、30分も予定オーバーです。ハーバーに着くと、この日はハーバー開港○周年記念というのをしていました。芝生の特設ステージで、司会者がなにやらしゃべっています。バザーが開かれていて、やきそば等の屋台も出ています。ヨットハーバーらしく、海関係の衣類販売もあります。まあ、ハーバーの建物内に出店しているお店が、特売のお店を出しているような感じですが。今日の予定は整備なので、決まった時間はなく、遅れついでにバザーを一応回って、ゲスト桟橋で行われていた、トヨタマリンのボート試乗会を覗いてから、係留桟橋の方に向かいました。既に先輩方が3名来られており、ステアリングを磨いたり、ボディーの汚れをブラッシングしたりしていました。1時間近く遅刻して、言われていた担当部分を速攻でやり終え、ボディー磨きに加わりました。まだ不具合が出ているところがあります。電動ビルジポンプ、清水の流れ、前回表示しなかったスピードメーター。さらにオーディオ関係を新調しようということになっていますが、個人的には音楽はなくてもいいのですけど。芝生での生演奏が流れる中、船で昼食です。いつもなら、ハーバー内のレストランで食べるのですが、今日の一般のお客さんがいっぱいです。ハーバー横の生協さんでお弁当を買ってきての食事です。M先輩のお嬢さんは、推薦で大学が決まったそうで、今日運動会らしい。奥さんが見に行っているのか?夕方迎えに行くらしい。うちは、中学からは文化祭にも運動会にも行ったことがない。保育園の爆笑の運動会を経験したら、小学校ですら今一面白くない。男の子と女の子の違いだろうか?運動会に娘を迎えに行くと聞いて、え、え~っと驚いた。午後から、桟橋からのロープをいろんな角度で引っ張って、桟橋から船の底にくっついた貝などを落とします。こいつらすぐくっつくんだよね。ワイワイやってるので、横の船からおじさんが出てこられた。先週もそうだったが、若い美人のほにゃららな方と・・・、船に上がる時一々ハイヒールを脱いで・・・違和感あるんだけど、羨ましいんだよね。思わず、乗りやすいようにお隣の船を持って、桟橋により近づけてあげました。お安い御用です、ハイ。最後にスピードメーターのチェックです。スピードメーターは船の底から出ている小さなプロペラが回ることで、測定している。前回0.00ノットという表示は出ていたので、電気系統は生きているのだろう。そうすると、貝君がプロペラにくっついて回らなくなっていると予想される。夏でしかもきれいな海なら潜ってもいいのだが、誰もそんなことをしようとは思わない。船内からパイプを伝ってセンサーが出ているので、それを船内から回収して、貝を取ることにする。引っこ抜くと、当然のことながら海水が入ってくる。ぼろ切れをそこに突っ込んで、浸入を防ぎながら、急いで貝取りです。どうやらうまく行った感じなので点検です。エンジンをかけて、外に出てフルスロットルで走りました。モーターボートではないので遅いのだけれど、表示は2ノット、歩くスピードと同じくらいということなんだけど、明らかにそれよりは速い。なんかセンサーおかしいなあ?ということで、再びゴソゴソしていたら、きちんとはまっていなかったようで、もう一段奥に突っ込め、ストッパーにかかりました。一気に5ノット近くの表示になった。でも7ノットくらいは出るそうなので、エンジンの力がスクリューに全部伝わっていないのかなあ?それにしても、最後にゴソゴソしてよかった。ストッパーにかかっていない状態で、誰もいないときに何かの拍子で外れちゃったら、半日もあれば水船になって沈没してしまうところだった。いやあ、ラッキーでした。セーリング中 マストを下から見上げると
2005/10/17
コメント(2)
今週に入って、Aさんの自伝を読んでいる。Aさんは、月曜日の日記にも登場したが、日本セーリング連盟初代会長で、クルーザーJPN0001番の元所有者。山口県の海外海運を中心に手広く商売をしている裕福な家庭に育ち、ナンバースクールから東大ヨット部、今で言うキャリア組で1日だけ勤務して、海軍主計局へ出征、戦後中央官僚に復帰。その後、事業家に転進し、神戸JCを立ち上げ初代会長。神戸経済のキーマンとして商工会議所活動。お父さんとおじいさんが衆参議員もしていたので、山口県の岸・安部・佐藤、隣の竹下さんなどと親しく、神戸での後援会長などで、中央政界にも明るく、でも地元ヨットハーバーでは気さくなヨット乗り。関西の地元のヨット関係者では、知らない人がいない程の重鎮です。まだ杖をつかずに気楽にヨットに乗られ、私などとも気軽に会話をしてくれるが、80才を越え自伝で自分の人生を書き残すことが、後世の何かの役に立つと思われたようだ。日曜日にクルージングした船に、この本があり、何気なく持って帰った。「謹呈」となっており、Aさんは知り合いに配った1冊なのだろう。この本には、戦前から戦後までの日本経済の動きと、中央官僚の働きが、実体験で書かれている。もっと詳しく書けるのだろうが、まあまあ中々そうはいかないところもありそうだ。数社の電鉄会社の役員から、電鉄会社の立ち上げ、自分が持っている海運会社、燃料会社。神戸空港開港問題で、神戸と大阪の商工会の間に隙間風が入り、経済と政治のキーマンを集めてとりなすなど、いろいろ面白いことを知った。また国鉄民営化委員だったことで、JR西日本役員をやってたり・・・まあ大変なものです。そして最後の章に、ヨットとの関わりが書いてあった。多分、ここが一番楽しく書かれたのではないだろうか?初めて知ったことがたくさんあった。愛艇ツインスターは、香港の財閥が持っていたが、日本で手放すことになり、その会社と取引が合った関係でそれを購入し、それを本拠西宮に回航した時のメンバー5名中3名もうちのOBがいる。その当時からの付き合いのようです。ツインスターは当時日本最大級のヨットで、うちのOB達クルーと連戦連勝で、初めて外洋ヨットにセールナンバーが割り当てるようになったとき、JPN0001という名誉あるナンバーをもらったようです。オリンピックのヨット競技に初めて日本が参加したのは、私の現役時代の総監督なんですが、そこからずっとオリンピックにも関わり、アトランタで初めて日本人が銀メダルを獲得した時には、当時の国際セーリング連盟会長との間柄から、授賞式の最前列の席を夫婦で用意されたいたそうです。初メダルの場に立ち会えたことが相当な喜びだったようです。実に痛快に、Aさんの人生を読ませてもらった。次船に行く時に、書棚に戻しておこうと思うが、ただ一点この本を読みながら、残念だなあと思ったことがあった。豪快に生きた本の中の登場人物。いっぱい失敗をしただろう。でも時代が、そしてライバル関係の者が、それを大きく包んで赦した。岸元首相は、お父さんと同じ学校の先輩後輩関係で、その娘婿の安部晋太郎さんの神戸後援会長をしていた。日本ヨット協会会長が亡くなり、ツテを頼って紹介していただいたのが、まだ重鎮になる前の政治家だった竹下登さん。首尾よくヨット協会会長になってもらったが、竹下さんの勢力拡大で神戸に後援会を作ることになった。それを作るように頼まれたが、ライバル関係である安部さんの事もあり辞退した。でも安部さんが、どうぞどうぞと。両方の後援会長を兼務するようになり、竹下さんと安部さんが首相の座を争い・・・となるのだが、お互いに広く信頼関係を保ち、相手を認めていた。それに対して、今年の夏の郵政民営化で小泉さんがやったことは・・・綿貫さんの重鎮としての風格が見ていてかわいそうでさえあった。あまり好きなタイプではないが、長く政治の中枢で、また同僚としてやってこられた亀井さんに、国の将来に対するビジョンを持っているとは思えないホリエモンさんを当てるという失礼なことをする。多分、経済界の重鎮や、日本の経済の大きなところを動かしている、あるいは動かそうとしている人からは、小泉さんという人物は軽いと思われただろう。これが、戦場に武装自衛隊を戦闘員として送るとか、徴兵制導入法案とかの問題なら話は別だが、すでに道筋がついて、相当変わってきている郵便局の問題を、さらに早急に解体するくらいの違いで・・・のるかそるかの勝負に出るのは・・・自分の反対勢力を、うだうだ言いながら懐柔する度量もなく、国際舞台でしたたかに日本の舵を取ることは出来ないだろうと思った。
2005/10/14
コメント(4)

みんなに、「おとなしい・影が薄い」と言われて中学に通い出しました。毎日、2時間目と3時間目の間に、全校礼拝がありました。賛美歌を歌い、聖書の一部を読み、その後その聖書の部分に合う話があります。宗教主事の先生の話だったり、校長先生だったり、一般の先生だったり・・・時には卒業生や外部の方が来られて話されることもありました。礼拝の時間が楽しみだった。よくおまえだけ音が外れてると言われたけど、賛美歌を歌うのが好きでした。何か落ち着くのがいい。落ち着きすぎて寝てしまうこともあるが、とにかくこの時間は好きだった。学校から地元のプロテスタント系教会を紹介され、強制ではありませんが日曜日に行ったらいいよと勧められました。地元の教会は、日曜の9時ごろに子供向けの礼拝が始まり、10時過ぎから大人の礼拝があります。誰が行ってもいいし、途中退席もOKです。そこでも基本は同じで、賛美歌を歌い聖書を読み、誰かが話をして、また最後に賛美歌を歌って終わり。途中に、寄付する袋に10円とか50円・100円任意ですが、幾ばくかのお金を入れて、回ってきた箱に入れます。その後は、教会併設の幼稚園の庭で、来てる子達とドッチボールしたり、サッカーしたり、女の子はまたなんかしています。大人の礼拝に出たことも何度もあります。牧師さんの進行で、ここの教会に通って来てる人が、得意なものの話をしたりする時があり、結構面白かったです。その後、バザーの打ち合わせや、クリスマス会の飾りつけなど、大人たちがみんなで教会を盛り上げている感じがあります。キリスト教国などでは、こういう教会がたくさんあり、日曜日に近所の人が顔を合わすことで、コミュニティーのつながりになっているのでしょう。町内会の集会所に、用事のない方は日曜日に集まり、みんなで歌を歌い、近所のじいさんの話を聞いたりする、そんなもんでしょうか。私は、幼児の頃、母親に連れられて、カソリックの教会に通っていました。小学生の頃は、日曜学校という呼び名の子ども礼拝に、友達と遊べるからという理由ではあるがたまに通っていたので、特に違和感はなかった。キリスト教と中学で深く関係することで、一神教の考えが入ってきました。子どもは親の子ではなく、神様の子ども。親も子どもも神様の前では並列です。子どもは神様の導きで、その親に養育されているだけで、親に従う必要はなく、いつか自分の心の中に、「・・・がしたい。・・・になりたい」という神様のメッセージに従って行動すればいい。自分の心に素直に従うことは、神様からのメッセージに沿うことで、それが生まれる前からこの場所で世の中の役に立って欲しいと、神様が願って地上に生を受けた自分の一番輝ける場所へ導かれる道。アメリカのTVなどで、なぜ子どもが早くから独立した部屋になるのか?なぜ大学生は親から学費を援助してもらうのではなく、奨学金やアルバイトで授業料を作っているか?なぜオーストラリアなどは、大学授業料が全て国費なのか?理解できました。生みの親と本当の親が一致している儒教と、生みの親は育ての親で本当の親は神様だというキリスト教との違いです。同じキリスト教でもプロテスタント系と中学で縁が合ったのは、良かったかもしれません。カソリックは、神様を頂点に、次がローは法王、そしてその次は司祭というふうに、ピラミッド式になっている。ローマ法王が神様の言葉の代弁者で、司祭はそれに従う。さらにその下に、という風に神様の言葉が降りていく。一番末端の神父さんの言葉が、神様の言葉です。神父さんは結婚しない。その修行をしている修道士さんも神様にだけ使えるために結婚しない。シスターさんと呼ばれる修道女さんも結婚しない。それに対して、プロテスタント系では牧師さんと呼ぶ。神様の言葉の代弁者ではなく、教会の事務局であり、用務員であり、人々を神様に導く手助け者でしかない。だから、人の言葉を神様の導きと捉えるのではない、自分の心に浮かんだ言葉や思いを神様の言葉と捉えられた。プロテスタント系メソジスト会派は奉仕を特徴としています。その学校である私の母校は、マスタリー・フォー・サービス(奉仕の精神)が教育の土台です。夏休みに、ライ病隔離施設の手伝いに行くボランタリーなどもありました。今はハンセン氏病と言われ、鼻がもげたりする病気で醜い顔になったりするので、伝染力がほとんどないのに、蔑まれいじめられて来た人々です。その後、離島などの施設に隔離され、一般社会とは断絶されました。中学生をボランティアに出すので、親の理解も必要です。そういう映画を全校生徒で見に行ったり、ボランティア希望者の親を集めて説明会をしたりしていた。そういう教育を受けた3年間で、私は大きく変わった。親は所詮他人と思えるようになり、その言動をそれほど気にならなくなり、ナイフを見なくなった。ごく普通の子になった。多分私はその学校に導かれたのだろうと思っている。親の恩に報いなきゃを筆頭に、いろいろなものとのしがらみも、あまり気にしなくなった。洗礼も受けていないし、クリスチャンでもないが、私をこの世に生まれさせ何かをさせようとしている神様が後にいると思うようになり、人生がなんか安心するようになった。将来の不安、病気・怪我・・・におびえず、余分な準備もせず、自分のこころに正直に生きるのがいいと思うようになった。いろいろ私にとって不都合なことが起こるが、それも1つの試練で、コツコツしていればいつか過ぎ去ると思えるようになった。子どもにも、よその人にも、「なぜ分からないんだ」とか思うことがなく、この人は私にはわからない別の使命をもって生まれてきているから、私の意見を言うこともあるが、その人が自ら決める事が一番その人にいいと思うようになった。だって、それが神様の意思だから。だから、自分の思うようにならないことに対して、深く思い込むことがなくなった。あなたの心に浮かぶ「・・・したい、・・・になりたい」が神様のお願い、という言葉は、あんたは何も出来ないと言われてきた私に、自分への自信を与えた。出来れば、親として子どもにこの神様のような役割をしてあげたいので、子どもの「・・・したい」にはNOと言わないようにしている。「きっとできるよ、がんばりな」何の根拠もない。でもそれは、わが子を導いている神様の意思。出来なくても、「大丈夫、またチャレンジしな」と、何の保証もないのに言っている。何も考えていない調子のいい人間と写るかもしれないが、それがその子の持っているものを一番発揮させると思っている。生涯、子どもに拍手を送る一番の応援団でありたい。2人のわが子は、それぞれに神様の導きによって行動している。彼等の一番輝ける場所で、より輝くために、私が必要だと思っていること、つまり、何でも食べられることであったり、人に迷惑をかけないことであったり、スポーツであったり、勉強であったり、が十分出来る環境を提供しようと思い、そうしてきたが、彼らが拒否したらあっさりやめる。きっとそれは神様の意思じゃないんだ。やめてからやっぱりまたやりたいと言ってきたら、また手続きを取る。親はそれぐらいが一番だと思っている。一気に書いてたら長くなってしまって、3日に分かれてしまいました。読んで頂いてありがとうございます。大阪湾を走っている時、遠くで大型艇のレースをしていた
2005/10/13
コメント(8)
何かの時にあまりにひどいことを言われたので、反発していつもなら親を押すだけなのに、親が私にしてるように、平手で親父の顔を叩いてしまいました。思いっきり叩いて怪我でもしたらと思って、パチンと音が出ないくらいにゆるく叩きました。子どもに手を上げられたのが初めてだからか、一瞬きょとんとしていました。そしてすぐに、「きちがいやな、おまえ、親を叩くとは何事か。勘当や出て行け」と言われました。これにはショックでした。親にキチガイと言われ、散々子どもを今まで叩いていながら、たった1度叩かれただけで、キチガイと呼ばれました。もう一つ、親を叩いてしまった自分を責めた。最低だなと思った。爽快感なんて全然なかった。罪の意識のみが残った。ここで学んだので、自分の子どもにも、もちろん家内にも手を挙げたことはない。叩いた方も、叩かれた方も、叩くことになった問題を考えることなどできずに、ただ家族の暴力という事実に打ちひしがれる。よって子どもからも家内からも叩かれたことがない。「子は親の鏡」なんです。相手からされたくないことは、自分からしないようにすればいい。血が繋がっている親子だからこそ、叩いたりしてはいけない。叩けば叩かれ、溝が深まるだけ。近い間柄だからこそ、切れない縁だからこそ、反作用は深い。泣きながら自室に閉じこもりました。私の人生でこれほどショックだったことはありません。親は子どもに食べさせているから、何をしてもいいのか?圧倒的に強い立場を利用して、しかも反撃しない子どもに対して・・・弱い者イジメでしかありません。大人同士なら、相手が失敗しても叩いたりしません。小学校の時、隣の席がいつもクラスのいじめられっこだったのは、先生がその席にその子を置いたからです。何故か?私が人をいじめる子に猛反発して、いじめっ子に突進していくから、いじめられっ子が守られるからです。中学受験で勉強が忙しくなるまでよくケンカをしていました。弱くていつも最後は泣かされるのだけれど、いじめる子を見ていられないのです。家で叩かれて、自分の能力を蔑まれる言葉を浴びているから、我慢できないのです。いじめられている子を守ろうというのではありません。いじめている子に一矢報いたいのです。今思えが、あれはいじめている子を親に見立てて、思いっきり突進して行ったのだと思います。結果的にいじめられている子が、それ以上いじめられなくなるだけで、正義の味方として突進しているのではありません。外から見れば、正義感の強い子ですが、何故ケンカをよくしているか、鬱積したものがあるのではないか、と考える必要があります。親が普通に温かく育てていれば、それほどケンカはしないものです。高校野球でも、生徒を叩いた先生がいましたが、どんな理由でも私には赦せません。暴力はいけません。そのようなことで生徒の更生には繋がりません。暴力など使わなくても、ちゃんと話し合いで解決できます。話すことが、その生徒が反対の立場になったとき、暴力で解決しようとする気持ちを押さえることになります。暴力の連鎖は自分の所で断ち切らなければなりません。私の通った中学は、キリスト教プロテスタント系メソジスト会派の牧師さんが作った学校です。カナダ出身のこの創設者は、学校や病院などを作り・・・今では百年以上の歴史のある事業がいくつもあります。キリスト教は、大昔カソリックだけでした。ローマ法王を頂点に、ピラミッド式に全世界のカソリック教会が繋がっています。しかしこういう大組織は、どうしても権威主義になり、出世競争になり、戒律が厳しくなり、汚職の温床が生まれます。それに反発したのが、歴史で習うマルチンルターの宗教改革です。ここから、カソリックに対する新教プロテスタント教会が誕生します。ルターの作ったルーテル教会は今でも続く世界の大組織です。プロテスタントには、無数の会派ができ、それぞれが独立しています。厳しいカソリックに対して総じていろいろなことがゆるいので、ゆるすぎるプロテスタントに対しての宗教改革があったり、カソリックの中でも揺り戻しがありました。フランシスコザビエルは、そういう考えのカソリック系イエズス会の神父です。世界の3大宗教で、佛教は多神教、イスラム教とキリスト教は一神教です。私は日本に生まれ、木にも山にも石にも神様が宿り、日本に古くからある神社に正月は参拝し、誰かが死ぬと佛教のお寺に行き、キリスト教のクリスマスの祝いもする環境で育ちました。また日本には、支配階級からすると、人心を治めやすい儒教精神も色濃く残っています。つまり、目上の者を敬う、そして従う。その代わり、目下の者の面倒を目上の者が見る。そういう思想です。これが親子関係のベースになり、子どもの自由な発想に制限を与え、汚い言葉を使っても、暴力さえ使っても、それが親の愛情だと赦される土壌を作っています。親に、「あんたを手で叩くとこっちが痛いわ」と言われながら、スリッパでお尻を何発も叩かれる悔しさや口惜しさは、言葉では言い表せません。
2005/10/12
コメント(13)
中学で受けたキリスト教教育について書いていたら長くなってしまいました。続き物になります。何度もこの日記で書いたことですが、私は親の期待に沿えなかった落ちこぼれです。私の能力に比べて親の期待が大きすぎたからだと思っていましたが、わが子を育てることで、そうではないことを知りました。「親が子どもの能力を制限している。子どもが伸びる芽を最も摘んでしまうのが親」この事は、はっきり言えます。親は、子どもに期待します。これは当たり前です。そして、親自身が右にそれ、左で道草して大きくなりましたが、今の自分と過去の出来事を天秤にかけて、あの時こうしていれば・・・なんて考えます。それを土台に、人生の最短コースを子どもに歩ませようとします。これが子どもの前に引くレールです。そのレールから子どもが外れそうになると、レールに戻そうとします。しかし、子どもが自ら失敗して覚えたことは自分のその後の肥やしになりますが、そうでないものは何にもなりません。そっちに行きたいとレールからl外れた時、親に無理やりレールに乗せられると、親への反発を生み、それを言葉で表現できない子どもは、親が悲しむようなことを、自分を削ってします。体を傷つけたり、勉強をしなくなったり、悪いことをし始めて警察沙汰を起こしたり・・・これは、全く親に感心を持ってもらえなかった子どもにも同じ現象がでます。両者は別もののようで似てもいます。親が過剰に感心を持ち別人格の子どもの人生の進路にまで介入しているか、親である自覚なしに、子どもを厄介者のように扱うかの違いです。私と親の関係は前者で、それを幸いにも中学の時分かったので、その後親を表面上は赦すことが出来ました。そして子どもたちには、そうでない、両方の中間のような接し方をしたので、彼らは生き生きと好きなことをして生きています。決めた事を報告しに来るし、私がしたような部屋にカギをかけ絶対に親が入って来ないようにすることもしません。中学で受けた教育の事を書きます。私は、レールの上を走ってきました。横道にそれるとレールに戻されますが、段々大きくなると、やっぱり自分のしたいことやどうしてもやりたくなり、親から見れば素直だった子が従わない子になっていきました。その時、親は子どもを信じて手を離してやればいいのですが、私はそうはしてもらえませんでした。「将来の事を考えてるの?」「馬鹿なんだから」と横道にそれて失敗すれば、まるで勝ち誇ったように説教し、自分の考えたレールに戻されました。また失敗しないように、遠足の前日などに、リュックサックの点検があり、プリントと1つ1つ照らし合わされ、ミスがあると「あんたは何も出来ないのね、注意散漫です」と言われてしまいます。幼稚園なら点検があっても分かるのですが、小学校3年とかそれ以上になってもというのは、子どもにとって屈辱だけです。それがイヤで、親にはどんなプリントも出来るだけ見せないようにしていました。中学受験の時期になり、親が勧める中学を絶対受けないと6年で宣言しました。親は関東出身なので、本当は親戚に預けて慶応に行って欲しかったようですが、その受験はボイコットしました。そして、当時は公立も含めて何処の中学でもみんな丸坊主でしたが、唯一自由だった私立を受けてそこに通うことになりました。とにかく何でも命令してくる親がイヤで、失敗をそれ見たことかという感じで勝ち誇って説教する親がイヤでした。親が勧めることには、みんな反発して、親が嘆くのが楽しかった時代でした。でもしたたかに、自分が本当に損になるようなことには反発せず、自分でも優柔不断だと思います。こういう育てられ方をした子は、どうなるか知っていますか?自分がそうだったからはっきり言えます。おとなしい。外づらがいい。近所でも評判の真面目な子。でも反面、内弁慶になります。親に当る。ドアやふすまを蹴飛ばす。私は、引き出しにナイフを隠していました。そのナイフをみて、自分が強くなった気持ちになっていました。少年の犯罪者にこういう人はいませんか?お勉強もよくできるのに・・・挨拶もちゃんとするいい子なのに・・・「護身用にナイフを持ち歩いていました」「親に分かって欲しかった」「無性に腹が立った」少年犯罪者の多くが口にする言葉が、私にはすんなり聞けます。精神異常でもなんでもなく、そうなることを知っています。
2005/10/11
コメント(4)

日曜日に、隣のヨットハーバーにあるレストランにランチをしに行きました。最近ランチというらしいが、私はやはり「昼めし」の方が馴染みます。車で行ったら1時間もかからない近所なんだけど、わざわざ風だけが動力の鈍足の船で行く所に値打ちがあります。モーターボートを好む人は、楽しいことが待っている目的地に早く着くことが大事。ヨット好きは、その道中が楽しい。朝ハーバーに着くと、前日からの兵庫国体リハーサル大会で、テントや船がいっぱいです。船に着くと、S先輩から、「オイル入ってなかったんや、やばかったぞ。持ってきてくれてありがとな」とのこと。M先輩がオイルに気づき、用意してくれたのでエンジンが助かりました。本日のメンバーは、S先輩ご夫婦・K先輩・もう1人のS先輩、そして私の5人です。10時に桟橋を離岸。ハーバーのゲスト桟橋には神戸港観光船のような船が着いていて、お客さんがたくさん乗っています。リハーサル国体観戦なのでしょう。沖に出ると、すぐに「警戒船」とフラッグを揚げた船がいます。ブルーのマークがレース海面を囲むように入っています。プレジャーボートがレース海面に入って来ないように警戒しているのでしょう。反対側の埋立地の先端に目をやると、テントの下にTVカメラがレース海面を狙っています。こんな遠い所から映せるのだろうか?まあすごい機材持ってるからなあ・・・さあセールアップ。うんしょ、うんしょ、これ以上人力じゃだめだなあというところで、ウインチにシートを巻いて、レバーをまわしてギリギリギリギリ言いながら上がっていきます。セールが古いのであまり力任せに揚げるとさらに傷めてしまう。まず沖の赤灯台を目指す。左手は、リハーサル大会A・B両レース海面で、A海面では先頭集団が回航し3枚目のカラフルセールが上がって、花が咲いたようになっている。B海面はスタート前のようです。いい天気です。昨日の雨模様とは大違い、日頃の行いのよさが分かります。その分暑く、厚手の長袖が耐えられなくなり、半そでになりながら日焼け止めもしっかり塗る。本当は、岸に近い白灯台を目指す方が早いのだけれど、本当の目的は昼飯じゃなくって、セーリングをすること。赤灯台を過ぎると、となりのYHまで風上へののぼり1本です。一文字防波堤に沿ってセールを絞り風上に向かい出すとかなりヒール(船が風下に傾く)が入ります。北風(陸からの風)なので波がなく濡れないのですが、ヘルムスマン(舵を持っている人)が大変そうです。そこで、ジブ(小さい方のセール)をファーリング(巻いて小さくする)して、もっと快適セーリング。南の海面を見ると、大型艇のレースをしており、巨大なスピン(3枚目のセール)の花が咲いています。防波堤沿いには、漁船が1隻。操業中なのかなあ?一文字防波堤の沖まで出てくるといつも気づくのですが、大阪方面に見える杭の林立はなんだろう?埋め立て予定地を示すものかなあ?一文字の大阪側白灯台を交わす所まで上ってきました。日曜日で天気もいいので、釣りの人がたくさん防波堤にいます。渡船で防波堤まで渡ってきます。岸の方に目をやると、海釣り公園が見えます。こちらもたくさん人が出ています。ここまで来ると、YHはもうすぐそこです。大阪市の舞洲ごみ焼却場が見えます。イタリア人デザイナーのユニークな煙突や建物が特徴で、アミューズメントパークのような外観です。こんなのにお金使ってるから、今赤字で困ることになるんだよなあ。いよいよYHです。クルーザーが数艇出てきます。次男君が高校の時練習していた淀川河口では、相変わらずディンギー(小型ヨット)が練習しています。エンジンをかけ、セールを降ろし入港します。湾内ではアクセスディンギー(身障者でも乗れる)が練習しています。一番手前のゲスト桟橋内側に横着けし上陸。「変わらんなあ」2年ぶりくらいだけど、ほとんど何も変わっていません。沖から予約しておいたレストランに入ります。11時半くらい。お客さんはまだ少ない。2Fには何度か入ったことがありますが、1Fは初めてです。イタリアンレストランになっています。パスタのランチコース1400円を注文。レストランの海側がオープンになっていてウォークインで屋根のある外のテラスに出ることが出来ます。ちょうどいい季節で暑からず寒からず。テラス越しに海や係留艇が見えます。小さなチャペルがあり、ウェディングドレスが飾ってあります。ここを貸切にしてウェディングも中々おしゃれでいい感じです。2時間弱、先輩方はビールやワインでしたが、私は最後のケーキとジュースを飲んで、帰路に出発です。ゲスト桟橋を見ると、外側にきれいな船が着いています。明らかに艇体の白さが違います。近づいて見るとデュフォーというフランスのメーカーの新艇のようです。衣類洗剤の宣伝ではありませんが、「白さが輝く」状態です。特に我々の乗ってきた艇が横にあると・・・復路の途中から、私にヘルムスの交代指令が。この船はステアリングタイプで、風上に座り中々いい感じです。それにしてもこの船に乗る度に、ステアリング重いと思うのですが・・・グリースを挿したいんだけど、何処からこのステアリングボックスを開けるのかなあ。やっぱりヨットはクローズホールド(風上限界まで風に向かって上る)。ギリギリの微妙なところを探るのが楽しい。風が幾分落ちているのでフルセイル(セールを小さくせず)で快調です。復路中間でS先輩にヘルムスを交代。赤灯台を越え、湾内に入ると左海面から快調に走ってくる艇が・・・サイドボトムがどっかでみたようなカラーリング。セールNoがJPN0001ツインスターでした。日本ヨット協会元会長で、元東大ヨット部のAさんが所有していた船。クルーザータイプヨットで最初に登録した船、羨望のJPN0001番の後継艇。Aさんと今は亡き、母校ヨット部の総監督が仲がよく、2人のスター、つまりツインスターという艇名がついています。Aさんはまだ存命ですが、高齢なので今は母校の先輩方が譲り受け所有しています。自艇は、ツインスターより若い世代なので、S先輩から、「あれに負けるな」と指令が飛ぶ。負けたら、陸に上がってから、「遅いなあ」とか「しごいたろか」なんて、笑いながらも言われるに決まっている。5艇身前を交差し方向転換して平行位置でスピード勝負。走り比べです。やはりこちらの方が船が大きいからか、スピードも上回っているようです。先月ツインスターはセールを新調したので、勝負しよかとこちらをあおっていたが、ちょっとギャフンと言わせてあげました。ハーバーに戻り、残った時間で整備です。雨漏り対策やら、なんやかや。指がベトベトですが、これまた船の楽しみというところでしょうか。
2005/10/10
コメント(2)

「この付近に駐車しているドライバー、ここは駐車禁止です。直ちに車を移動しなさい」パトカーが、駐禁パトロールに回ってきた。パトカーの拡声器で、ゆっくり回りながら、この付近を数周回っている。ここは仕事場なので、車を停めているわけではないけれど、毎回これを聞く事になる。はい、駅前で駐車すると、いろいろ支障が出て、事故の原因にもなるのはわかっています。でもなあ~、あの言い方なんとかならないものかなあ?交番や、日頃何かで警官さんに尋ねるときは、普通に答えてくれるのに・・・車に乗ると人は変わると言います。おとなしそうな人が、前をノロノロ走っている車などあると、思いっきり汚い言葉で文句を言ったり・・・警官も同様のようです。あの言葉使いは、パトカーというより車に乗っているからだろうな。頑丈な鉄で守られているから、きつい言葉が平気で使えるのだろう。実際に駐車違反切符を切ってるときに、あんな言葉使いはしない。あの言葉使いを聞くたびに、警官に対するイメージが悪くなる。権力があるからこそ、言葉には気をつけないと・・・今日は、婦人警官だったけど、こういう風にしゃべれと言われているのか、同じような口調だった。余計なお世話だが、お嫁の貰い手がなくなるよ。私なら、百年の恋もさめそうだ。「こちら亀有公園前派出所」のレイコさんとか、交通課の婦人警官さんは、みんなきれいで、言葉も上品なのに・・・先週ラーメン屋さんで、読んだ漫画が頭の中に残っているぞ。文句ばっかり言ってても進歩がないので私から提案です。せめて大阪の警官は、ちょっと笑いを取りましょうよ。「毎度ごひいきに願っております。警察でございます。この付近に駐車なさいますと、8000円(だったっけ?)頂戴いたすことになっております。これから年末にかけ、当方も何かと物入りでございまして、本日もたくさんの御駐車誠にありがとうございます。ではこれから集金にうかがわせて頂いてよろしゅうございますでしょうか?毎度ありがとうございます。あ、申し遅れました。お代金のお礼と言ってはなんですが、只今ならもれなく違反切符を無料で切らせていただく特典付でございます」なんてね。何の脈絡もなく、ミニ国際レース 風上に向かっています
2005/10/08
コメント(2)

「オイルやその交換工具は、当方で用意しますので、明日会社まで取りに来てくれる方いますか?」先々週が全日本、先週が小さな国際レース、ついでに言えばその前の週がその練習レースで、3週連続で3人乗りレーシングヨットに乗っていました。世間は明日から3連休で、どこかに出かける皆さんも多いと思います。レーシングヨットチームメンバーの先輩方も、船でどこかに行こうかという計画を立てていました。和歌山と大阪の県境?淡路島?計画立てて・・・宿取っといて・・・人にはいろんな得意分野があって、号令かけ役、実際に宿の手配などをする役・・・いろんな人がいるからうまく行きます。学生時代のクラブ活動での役割と結局同じような役どころで何となく落ち着きます。私は少し下の学年なので、多少客観的に眺められますが、やっぱりなあと言う感じです。さて、今週末は、実際に動く役回りのM先輩が、仕事で東京に出張でいません。よって、何となく宿も取らず、日曜日だけの近場のデイクルージングに落ち着きました。隣のハーバーのレストランに昼食を食べに行きます。M先輩は、ヨット部を卒業して、海関係の会社に勤められ、海外経験や東京勤務を経て、最近関西に帰ってこられました。世界中にマリンエンジンやその他を売ってる会社なので、船関係はプロです。うちの現役クラブのレスキューもM先輩の会社のです。まめなM先輩は、少し前に現場部署の方と共同所有艇のメンテナンスをしに行かれました。そこでエンジンオイルがかなり汚れているので、交換しておいた方がいいということになりました。明日土曜日整備して、日曜日にクルージングという段取りですが、M先輩がいないので、土曜日に集まれる人がやらなければなりません。車なら、ガソリンスタンドで、ちょっと待っていると、店員さんがやってくれますが、船はそうは行きません。人がいないから費用が結構かかるのと、相手の時間に合わさなければなりません。大体、海上に出てトラぶった時に、乗ってる者で応急処置くらいは出来なければなりません。車のように道端に止めて、JAFを呼ぶわけには行きません。よって、自分たちですることになりました。セールで風を受けて走るのは平気ですが、エンジン関係はまだまだです。そして冒頭のメールが流れてきました。私が昼間ちょっと仕事を抜けて、M先輩の会社まで道具を取りに行ってきました。中には、作業工程も書いてあります。M先輩は出張に出発した後なので、その部下の方が正門で待っていてくれました。守衛室に預けて置くから、いつでも取りにきてという軽い乗りだったのに、私が着くと、「のりまきさんですか?Mから預かっています。宜しくとのことです」なんて、雨が降っていたので、会社のロゴの入ったきれいなビニール袋にまで入っています。私が帰るのを見届けて、丁寧にお辞儀までしてくれます。私は、仕事からちょっと抜けて、近いから原付バイクで行ったのに・・・なんか似合わないねえ・・・M先輩は数年後には、会社で役員かなあと同期の方の間ではうわさされている、出世頭の方です。でもOFFでしか会わないので、「あかん筋肉痛や、体がついていけんわ」とか、全く学生時代同様の姿で、そういう付き合いをしますが、ONの時は仕事の中心でがんばってはるんやなあと実感しました。まあもう少し上の先輩には、よく宣伝している会社の社長さんだけど、クラブOB会行事ではいつも弁当係で、両手にほかべんを持って走り回っている人もいる。なんでわざわざ東京から駆けつけてきて、弁当係やねんと思うが、そういうONの肩書きなど全く関係ないのがまた面白い。ここで唯一の基準は卒業年度。どんなにヨボヨボでも、先輩は強いのです。明朝仕事前に、船までこの道具を届けて、すぐに仕事です。整備は先輩方お願いします。オイルまみれで、えらい汚れるんちゃうやろか?私はパス、ラッキー。ミニ国際レース 風下マークを回航して、香港チームとシドニーチームの競い合い
2005/10/07
コメント(4)
先月、琵琶湖にピラニアがいたというニュースを聞いて、ビックリしていると、その後、ワニがいたとか、さそりが出たとか、蛇が逃げたなどと、ペット関係の話題が目につくようになった。陸カメを数匹?数頭?飼ってるというご家庭もTVで紹介されていた。世の中すごいなあと思いながら、どうも私にはいただけない。ワニ、さそり、・・・でも成長しても小さかったら、いただけるかもしれない。ミニワニ、タツノオトシゴ(ちょっと無理があるかなあ?)・・・、ライオンだって小さければ猫だし・・・ペンギンなんて、あの大きさだからかわいいけど、2mもあったらとてもかわいいとは言えない。ヨットの雑誌を読んでいたら、もしカバが小さかったら・・・なんてのが載っていた。大きいといただけないが、小さいとかわいい~と女子高生に言って貰えそうなのは、たくさんありそうだ。シマウマなんてどうでしょう。頭から尻尾までが5cmなんて大きさなら、かなりいい。ペットとして最高かもしれない。こうなると、シマウマを食べてるライオンも、おなかがすいてしょうがないので、必然的にシマウマ同様の大きさになる。水槽の大きさで、サファリパークが家の中にできる。前出のカバさんが5cmだったら、あの小さな尻尾がさらに小さくなり、くるくるって回すしぐさは、最高にかわいい。しかもカバさんは、水陸両用なので水槽サファリパークがかなり楽しくなる。・・・なんてことになると、人も小さくならざる終えなくなって、結局一緒か・・・たわごとでした。
2005/10/06
コメント(4)
月曜夜遅く長男が帰ってきた。大抵学校には車で行ってるのに、私の車の隣に停まったままなのに、長男は家にいない。どっか行ってるのかなあ?なんて思いながらも、あまり気にしていなかった。なんか大きな荷物を持って帰ってきたような感じで、家内の部屋に行って家内を起こし、何やら玄関などでやっている様子。・・・私は、そのまま寝てしまった。翌朝起きると、でっかいスーツケースとスーツに白ネクタイ・・・こんな格好でどっか行ってたのか。「友達の結婚式にでも行ってたの?」家内に聞くと、会社の内定の何とかの会らしく、東京に行ってたようだ。そうか、来春には長男はこの家からいなくなるんだなあ・・・長男は去年の夏過ぎにもう内定もらっていたが、大抵の人はこの春から夏にかけて内定が出て、ここで来年の新入社員を一同に集めてというのだろう。そう言えば、先週家に帰ると次男が家内の部屋でゴロンとTVを見ていた。「ああ、帰ってきたんか」「うん、あのさあ、こんな勉強したいんだけどさあ・・・」って、資料を見せてくれた。家内の部屋で家内に説明し終わって、そのままTVを見ながら私にも説明しようと、私を待っていたようだ。「どれどれ・・・へえ、こんなのするの・・・」「していい?」「いいよ、どうぞ。今晩泊まってくんやろ」「うん、明日京都に帰るわ。明日何時に家出るん?」「8時くらいかなあ・・・。駅まで送ってけってんだろ。時間融通きくで・・・」「8時でいいよ、送って行って」これをやりたいので許可をもらおうというのではなく、報告に来ただけという感じ。お金がかかるので、報告しとかなきゃな、という感じだけど、子どもがやりたいと言ってきたことにはNoと言わないので、子供達も反対されるはずはないと思っている。その分責任は自分にあるので、しっかり自分で資料を調べて研究するようになっている。今回も、資料調べて、1ヶ月体験してから報告しに来た。頭から信じてやれば、子どもはこう育つのだなあと、小さい頃からの子どもとの関わり合いが良かったと最近自信を持っている。小さい頃は、やるって言っててやらなかったこともいっぱいあった。これは子供達2人とも。でもそのことを責めなかった。なんだかんだ、出来なかった言い訳を言ってるのを聞いて、「それじゃあ仕方なかったね」と言うだけ。多分これが一番堪えると思う。親は僕のウソをわかってて、何も言わない。こうされると、親の信用に答えないとな~なんて思うようになっていったのかもしれない。小学校高学年くらいから、何も言わなくても、自分で考えてくれて、うれしいことばっかりしてくれる。親がなくても子は育つというが、本当にそうだと思う。家内は母親だから、朝遅刻しそうな時は起こすとか、食事をちゃんと用意するとかいろいろあるのだろうが、私は男同士だから、長男とはバッティングセンター、次男とは海にと、友達のように遊んでいただけだったように思う。バッティングセンターで長男に勝ったことないし。ごく普通の家族の会話だと思いますが、私は厳しく叱られて叱られて育てられたので、そういう会話を親に気軽に出来ない雰囲気だった。遅く帰ってきても、コソコソと自室に帰るだけ。親に駅まで送って行ってもらったこともない。大体言い出す雰囲気はない。ピシャリと、「甘えるんじゃない」と言われるだけ。ゼロか百かの世界に感じていた。子供達が家内の部屋でゴロンとTV見たり、食卓ではなくわざわざ家内の部屋に食事を持っていって食べてるのを見るとうれしくなる。こいつら、お母さんが大好きだよなって。そういう世界がない私には、ちょっと羨ましくさえある。大学院教授が38才の長男に刺されて亡くなったそうだ。本来一番かばいあい、守りあう存在である親子なのに・・・ここまで嫌われるのには、積年の思いがあったのだろう。生まれて来たとき、子どもは親を100%信用している。反面親は、何も出来ない子どもを100%信用していない。子育ては、親が一方的に子どもに信用の空手形を切る歴史であるように思う。空手形を裏切られても、裏切られても、また次の信用の空手形を切る。きっとこの子は出来ると信じてあげる。出来なくても、次はできるはずだと信じてあげる。その連続が、子どもに自分への自信を植え付け、やがて後には親がいるというバックボーンで、社会にチャレンジしていく。失敗しても、大丈夫やって空手形を切ってくれる再起できる場所を持つ人は強い。そう思っている。家族は信じ合うもの。家族の誰かが失敗してお金がみんななくなっても、またみんなでぼろ家から始めたらいい。きっとこういう家族は強いと思う。こういう経験をしたら、すごく強く、そして周りの人にすごく優しい人になれると思う。たとえお金のないギリギリの生活であっても・・・たとえお母さんやお父さんがいなくて辛くても、大丈夫、残った家族がお互いを思いやる心があれば大丈夫。どんなことがあっても、親が子どもをちゃんと見て、おかしな方向に進みそうな時、きちんとまっとうな道を話していれば・・・そして親自身がそういう風に暮らしていれば大丈夫。結局「子は親の鏡」、ここにたどり着くなあ。
2005/10/05
コメント(6)
アメリカスカップが始まってから、1度もそのカップはニューヨークヨットクラブから離れることはありませんでした。しかし歴史が変わる時がきました。オーストラリアのロイヤルパースヨットクラブの艇オーストラリア号が、ニューヨークヨットクラブのリバティー号に勝ちました。世界中、特にオーストラリアは大いに湧きかえり、時のオーストラリア首相はその日を国民の休日にしてしまいました。アメリカスカップの歴史と言うのは、ほぼアメリカ対イギリスの闘いでした。始まってから110年間1958年まで、チャレンジャーシリーズに勝って、アメリカ艇へのチャレンジャー権を得たのは、カナダが2度だけで、それ以外は全てイギリス艇がチャレンジしている。1962年に初めてチャレンジャーシリーズに勝ったのが、元イギリスのオーストラリア。それから1度イギリスがチャレンジャーになったが、その他は1983年まで全部オーストラリアがチャレンジしている。オーストラリア7回目のチャレンジ1983年に、史上初めてアメリカに勝利する。長いルーズの歴史があったからこそ、国民の休日にまでなったのでしょう。この歴史的勝利にはちょっとした裏話があります。まさかニューヨークヨットクラブから、このカップが動くことはないだろうと思っていたので、カップはクラブのアメリカスカップ専用の部屋に、台座にボルトで固定されていました。そこで、表彰式カップ授与式をニューヨークヨットクラブですると発表された。それに怒ったのはオーストラリアチームのボス。「勝者を祝福しないとは何事か。この海で勝利を得たのだから、ここで祝福されなければ意味がない。すぐにカップをここに持ってこい」と。アメリカも負けてはいません。レース会場でカップを受け取ったオーストラリアチーム全員を、当時のレーガン大統領がホワイトハウスに招待します。そこで、「台座のボルトはあまり硬く閉めないように。すぐにカップは取り戻されるのであるから」と挨拶します。とうとう130年かけて、カップは動きました。チームはすぐにオーストラリアに帰らず、まずロンドンに向かいます。130年前にカップを製作したR&Sジェラード社の鑑定員に見せ、認証を得てからオーストラリアに戻ります。その後、レーガン大統領の予告どおり、アメリカの西海岸サンジエゴヨットクラブが一旦取り戻し3回防衛しますが、ニュージーランドのオークランドヨットクラブに持って行かれ、そして現在はスイスの巨大IT企業総帥がカップを保持しています。海のないスイスですが、この方は、勝利すべく巨額のポケットマネーを投入し、前回のニュージーランドチームの主要メンバーを丸ごと引っこ抜きました。たった100ギニー2万円のカップを争奪する物語は、次回2007年。その後もずっと、時代の成功者を巻き込みながら続いていくのでしょう。
2005/10/04
コメント(4)
イギリス万国博覧会を記念して行われた、ワイト島を回ってくるヨットレース。大方の予想に反して、新興国アメリカからたった1隻出場したアメリカ号が、並み居る海洋大国イギリスの帆船をぶっちぎりで勝ってしまった。そのレースを記念して100ギニーで作られたトロフィーは、アメリカ号のふるさとニューヨークヨットクラブ所属の5人のオーナーの家で持ち回り保存された。やがて、このトロフィーをかけてヨットレースを行おうと言う案がでて、5人のオーナーはニューヨークヨットクラブにそのトロフィーを寄付します。これがアメリカスカップの発祥ですが、レースのルールはカップ保持者側が決めるので、どうしても開催地有利に働くのか?以来130年間もニューヨークヨットクラブから他に、カップが動くことはありませんでした。このレースは、マッチレースという、1対1の勝負で、多くの挑戦艇が数回のその勝負に勝利してやっと、アメリカスカップの挑戦権を得ます。最後に防衛艇であるニューヨークヨットクラブ代表艇が出てきて、挑戦艇と一騎打ちをします。挑戦艇決定シリーズの間、アメリカ艇はそれらの特徴を見ながら新艇建造し、世界一のGMP大国が巨大な資本力と知力を防衛艇に注ぎ込むわけですから、ほとんどは一方的なレース結果で防衛を果します。世界の大富豪が自分のポケットマネーを中心にスポンサーを募っての挑戦の歴史です。現在でも、挑戦艇シリーズのスポンサーはルイヴィトンでルイヴィトンカップと呼ばれています。イタリアからの挑戦艇に、プラダチームがいたり、アメリカからはオラクルだったり、華やかさには事欠きません。過去で最も有名なのが、イギリスの紅茶王サートーマスリプトン卿の挑戦で、30年間に4回チャレンジして、アメリカにことごとく跳ね返されています。最後のチャレンジはリプトン卿80才だったそうです。たった100ギニー2万円のトロフィーをアメリカから母国イギリスに取り戻すために・・・美しいです。この長年の挑戦は多くの人の心を打ちました。ニューヨークタイムズが音頭を取り、挑戦を受け続けた市民が1ドルづつ寄付して、ティファニー貴金属店でリプトンの名を刻んだトロフィーを作り、リプトン卿に贈りました。アメリカスカップのトロフィーは、ロンドン一の貴金属店で作られましたが、ニューヨークからもニューヨーク一の貴金属店で・・・おしゃれですね。後年、そのカップを争奪するレースが始まります。その名も、「リプトンカップ」母校ヨット部先輩に、お亡くなりになって多額の寄付をされた方やカップを寄贈された方が数名おられます。それがその方の名を冠した大会や・・・カップと言う名で、後輩の私達が協力しながら続けています。こんな死に方、かっこいいなと思っています。
2005/10/03
コメント(2)
昨日のかなにゃんさんの日記に、かわいそうな現実が載っていた。顔見知りの方のお子さんが、道路で転んで怪我をして、入院しているらしい。なんでも、お子さんをしっかり育てようと思って、習い事などを親主導で厳しく行かせていた。どうしても行きたくない習い事に車で送った後、帰りたいとお母さんの車を追いかけてきたお子さんを、バックミラーで見ながら振り切ろうと車を走らせたが、突然お子さんの影が消え、おかしいなと戻ったら、頭から血を流して倒れていたそうだ。もし、うちの子なら・・・大変なショック・・・かなにゃんさんもショックを受けておられた。愛情が支配する関係になっていますね。親が理想を最短距離で子どもに追い求めさせようとするために・・・根本原因はここにあるように思います。親にちゃんと気持ちを話せない子どもが、体で親に何かを語りかけていると感じます。お子さんの気持ちを感じて、新たな親子関係を築いてほしい。そして、早くよくなりますように。と書いた。私もそういう風に育てられたので、そのお子さんの気持ちが多少はわかると思っています。私もこの年になり、子どもだけではなく、親も経験し、双方の気持ちがわかるようになったつもりです。私は弟と6才も離れています。幼児の頃は、1人ッ子と同じように育ちました。母は、昭和1桁生まれの大変な秀才で、女学校に行く女の子が少ない時代に理科系の大学に進み、男子と同じように勉強し、ある資格を持っています。実家は田舎町ですが、大きな商店をしていて、母の父親は天皇さんを守る近衛兵の隊長をしていた、まあエリートです。ところが祖父が病気で死んでしまいました。それから戦時体制の世の中になり、店は祖母と母の姉の入り婿さんが中心に、番頭さんもおり順調でしたが、次第にお米に困るようになり、戦後母は農家の3男である父と結婚しました。見合いだったので、よく分からなかったのでしょうが、父は中卒で学歴が違い、育った環境が違い、結婚当時の収入も母の方が、相当多かったようです。そんな家庭に私が生まれ、出産で仕事を辞めてしまった母の話し相手は私1人。教育がなければ・・・という母の信念の下、私は育ちました。当時は幼稚園に行かない子も多く、行っても1年というのが普通だったのに、私は4才から幼稚園に電車とバスで3年間通いました。これで、どれだけ教育熱心だったか分かると思いますが、私は母の期待に答えられませんでした。返事をしない、言葉使いが悪い・・・ゴキブリを叩いていたスリッパで、お尻を叩かれました。今でも幼稚園でのあることを覚えています。同窓会でもみんなに言われるほどの事件。幼稚園登園初日は、親と園内まで入ります。2日目は門まで、3日目はバス停と園との間にある長い階段の下まで・・・と毎日親がついていく場所が決まっており、10日ほどで家から1人で通うことになります。階段の下まで親が付き添ってもいい日。下にいる母の手を離れるのがイヤでした。甘えん坊です。まずそこで大泣きしました。横を友達が登っていきます。仕方なく手から離れ、階段を登って行くと、ちょうど中間くらいに、青大将という長い蛇がいました。恐くてなきました。母親の元に帰れるという期待があったかもしれないし、青大将の向こうまで母親が送ってくれるという期待があったのかも・・・でも、下から「がんばりなさい」とか言ってるだけでした。ここで甘やかしたらいけないと母は思ったのでしょう。他のお母さんにも、声をかけてもらったような気がします。やがて母は帰ってしまいました。階段の上からその様子を見ていた女の子が降りてきて、ないている私の手を取って、幼稚園まで行くことが出来ました。私の初恋かな?幼稚園は完全に女の子が強く、2番目に強い彼女がいつも気になっていました。彼女とは家が相当離れているのですが、中学の時、学校への乗り換えが同じ駅で、毎朝すれ違い挨拶するようになり、朝の時間はウキウキし、いつもの電車から降りてこないと、どうしたのかなと気になっていました。彼女の長男が、うちの次男と同じ中学の1年下というのも偶然で、昨年はその中学の関西一円に配る学校案内に、2人ともクラブもしっかりやった卒業生として載りました。彼女の長男なんか、Jリーグのジェフ市川(千葉)のプロテストに合格したけど、それを辞退して医学部に行ってるくらいスゴイ子です。話を元に戻して、甘えん坊の男の子がもう1人いました。彼は私よりひどくて、園庭の囲いにしがみついてずっと泣いていたこともあります。でも彼のお母さんは、ルール違反だけど、園の外から声をかけていました。半日でも平気でそこにいます。帰ってしまう私の母とは大違いです。小学校にあがり、「・・・しなさい」と言われてやれると、壁に貼った表にシールが貼られます。でも出来なかったらバツがあります。チャレンジというより、ノルマになってしまって、母親はニコニコして褒めてくれますが、シールが貼られてもあんまり楽しくありません。今でも、ああいう表は嫌いです。母親がイヤでイヤで仕方なかったけど、機関銃しゃべりの母の前では黙っているしかなく、ノルマをこなすようにしていました。今考えても恐ろしいことですが、小学校高学年で学校の教材で使う小刀を1本、机の引き出しに入れていました。そしてそれをよく見ていました。「僕はこれで自分を守れる」と思っていました。やがて中学受験で、母の勧める中学を受験せずに別を受けました。そして、慶応中学の受験をボイコットしました。僕の精一杯の母への反発です。その年頃になると、無性に母の言うように動く自分がイヤになっていきました。小中学生の凶悪事件で、「日頃から護身用にナイフをかばんに入れていた」とか、「万引きくせがあった」「手首を切ったことがある」・・・など報道で明らかになります。精神的におかしな子ではないかとか、元々凶暴な子でもっときちんと親がしつけなければ・・・なんて評論されることがありますが、私はそうではないと思っています。自分の心をうまく親に語る言葉を持たない子どもからのメッセージです。悪さをして、こっちを向いてほしいのです。気づいて欲しいのです。本当に護身用なんです。暴力をふるわれていなくても、ナイフを持つことで、言葉の暴力に対しても強い自分でいられるんです。そしてその相手は親がほとんどだと思います。特に母親です。だから、父親は母親を大きく守って、子どもに真っ直ぐな最短距離を歩ませようとする潔癖さが出ないようにしなければなりません。父親が子育てにもっと介入して、オムツが早く取れなくてもまあまあ。勉強が多少できなくても、走るのが速いからいいじゃん。スポーツが出来なくても、蝉を捕まえるのがうまいで。なんて言って、子供の自信をなくさないようにすると共に、お母さんを赦さないと。子どもはお母さんがより好きで、母親にとっては子どもは人生をかけてもいい作品です。子どもという作品で、お母さんの優秀さを世間が見ているところもあります。そういうときに、お父さんは子どもの出来ないことをお母さんの責任にしてはいけません。「おまえの作品は、ここは出来ないけどこれはすごい上手や」と、子どもを褒めながら母親も褒めているのです。昔なら子どもの凶悪事件は、おかしな子で片付けられていたのに、最近は子どもやその親に深く関わり、その心の動きを追った本や番組ができるようになってきています。自分が、ナイフを持つ子の気持ちがわかり、自分を傷つけるのが分かるので、そういうものをよく読みます。僕も危なかったなあと読む度に思います。ナイフで手首を切るような事はしませんでしたが、私は爪を噛みました。友達の半分くらいしか爪の大きさがありませんでした。今はそういうことはしませんが、それでもその名残で、つめは小さい方です。お子さんが大怪我をしてしまった、かなにゃんさんの知り合いのお母さん。あの怪我はあなたの子育ての結果です。子どもを追い詰めすぎました。失礼ですが、凶悪事件を起こすお子さんの典型的な親の姿に見えます。でも、今回の怪我で目を覚まして下さい。最短距離を歩んでも面白くないです。失敗しながらが親子で面白いのです。失敗しても、お母さんが「大丈夫」と言ってあげ続けていれば、食べさせているだけで、自慢できるお子さんになります。塾やお稽古教室を仮病で休もうとした時、分かっていながら休ませたらいいです。段々お母さんに悪いなあと思って、サボらないようになります。その時は、自分の意志で行くのだから、チャレンジになり、そこでの成果は自分の自信になり、自分の自慢になります。お母さんがいつまでも、強引に行かせていると、子どもの成果はお母さんの成果で自慢です。お子さんにはそのように見えるのです。だからお母さんの自慢にしないように、自分からサボってうまく出来ないようにして、お母さんを困らせます。出来なくても、「大丈夫」って笑って抱っこしてあげていれば、いつか羽ばたいて行きます。お子さんが、早く退院できますように・・・今日はたくさん書いてしまった。子どもの時の親との関わりからまだ抜けきれず、「こころのポテトサラダ」という日記名までつけて書いている、メインテーマこころに関する出来事を読んだので一気に書いてしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございました。あんまり面白くないですね、ごめんなさい。家内、自分の子や他の子との接し方の原点である原体験をちょっと深く書いてしまいました。私って一線で踏ん張った恐ろしい子ですね。多分中学の教育がよかったと思います。
2005/10/01
コメント(8)
全25件 (25件中 1-25件目)
1