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ジュニアヨットの世界選手権のレースが、29日よりスイスで始まっています。その日本チームのHPを担当しているので、チームからのレポートは真っ先に入ってきます。写真も送られてくるので、それをHPに載せて全国の皆さんが見られるようにします。今回の世界選手権は、湖開催です。しかも小さい。レース海面を取るちょうどの大きさはあるのですが縦長なので、風向によってはマーク設定が出来ないのでは・・・なんて心配していました。でも国際ジュニアヨット連盟で決まったのだから、できるのだろうなあと思っていました。世界選手権は、選手だけで260名、それにサポーターや各国役員を含めるとその倍以上の人数が集まります。地元にとっては大変な経済効果です。オリンピックと同じように、数年前の世界選手権のとき行われるアニュアルミーティング(年次総会)で開催地が決定されます。プレゼンテーションが活発で、ロビー活動まであります。当然風の要素は、最も大切なこと。そこで選ばれたのだから間違いないのです。ただ数年前に行われた中国青島大会は、ヒンシュク物でした。北京のリゾート地という触れ込みで、絶大な力を持っているヨーロッパの役員の東洋の神秘のイメージをくすぐり当選しました。プレゼンテーションで発表された風の具合は、レース開催場所のずっと沖合いのデータだったとかで、潮の流れは強く、風は弱く、ちょうどそこに居合わせたので雰囲気を感じましたが、ひどいもので、もう2度と中国ではしないという雰囲気がありました。ほとんど実績のない中国選手がすばらしく走り、抽選ではなく最初からチャーターボートが決まっていて、しかも他国では使っていない中国国内艇だったので、中国艇には細工がされているなどと、いろんな陰口が聞こえました。北京オリンピックのヨット競技開催地をアピールする絶好の機会ということもあり、国家的に動いたのでしょうが、反対に開催地の風の弱さをアピールしてしまいました。国際セーリング連盟は、その後中国に開催地変更を求めたという話も出ましたが当然無理で、オリンピック委員会セーリング部門はただ神に祈るのみだそうです。IOC会長はセーリング出身なので、北京で失敗すれば任期はそこまでなんて言われています。失敗といっても、設備とかじゃなくって、気まぐれなその期間中の天気。お天気任せの競技だからなあ・・・ちょっと話がずれましたが、このスイスの湖は、この季節決まった時間に、決まった方向から、決まった強さの風が吹くようです。レース本番前のチームレポートでも、狂いもなく風が入ってくると書いてあった。このくらいの大きさのヨットのレースは、風上に第1マークを設定し、スタートしてまず風上に向う。このレグが一番長く、縦長のレース海面が必要になる。普通は、海と陸の昼夜の温度差から生じる海風・陸風というものがあり、風向に合わせてスタート位置やマーク位置を変更するが、ここはいつも縦長方向から一定の風が入るので、いつも同じスタート位置・マーク位置でいいらしい。湖の横幅の狭さは関係ない。というのを、私は自分の目で確認している。ライブビデオが解説付きで提供されていて、HPで見られます。第1レースが現地時間2時からなので、多分12時頃から3レース終わって帰ってくる19時頃までずっと提供されていると思います。現在日本時間18時少し前、仕事で使わないPCでHPにアクセスすると、レース艇が次々出艇しているところです。ただし日本チームの艇置き場は、遠い所のようで、出艇風景は見られません。TURトルコ・USAのような位置なら、艇のセッティング風景から、ふざけあっている所まで見ることができるのになあ。数年前のヨーロッパ選手権で、フィニッシュボートからのライブ映像配信がありビックリしました。我が子のフィニッシュする瞬間が、地球の裏側で自宅にいながら見れるのです。今回は、陸上のボートヤード(多分レースオフィス)からですが、ちょうどそのすぐ前が第1マークになっており、レース艇の回航風景がみえます。かなり望遠の効くカメラのようで、スタートライン方向や、第2マーク方向、それに多分天気の解説をしている時なのだろうが、空を写したりしています。このようなものを見ていると、サッカーの試合の放送権を巡って巨額のお金が動くのが、あほらしくみえます。カメラとPCとブロードバンド環境さえ整えば、ほぼ無料で配信できるはずです。ロンドンのテロで無数の監視カメラの映像解析で、容疑者を逮捕しているようですが、あれと同じことが、世界中のいたる所で起こるはずです。ただ今回の映像配信には、たった1つ難点があります。解説がわからないこと。スイスは、ドイツ語とフランス語、それにオーストリア語の国だったと思うが、どうだったっけ?せめて英語なら、聞き取れる部分もあるのでしょうが、皆目わかりません。よって、音声なしで、BGM的に映像を流しています。仕事をしながら、その横にスイスが流れている。なんかいいかも?ジュニアヨーロッパ選手権クロージングセレモニー これはスウェーデンの国旗だったよな
2005/07/30
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「すんません、広告出来上がりました。広報紙5部置いて行きますわ」「ああ、Nさん。遠征の方はいかがですか?」「順調に行ってますわ」「Tさん、残念やったねえ。お嬢ちゃん参加するの?」「ええ、残念でした。Tさんは変わりなく参加します。来週の全国大会にも参加しますわ」「そう・・・、明るくがんばって欲しいですね。HPの方は・・・」「ええ、お母さんが残されたものだから・・・そのためにもがんばらなあかんなあと思ってますわ」市の教育委員会にお勤めのジュニアヨットクラブのお父さんが来られた。ヨットクラブは、市の体育協会にの入っているので、市の広報紙の間に、体育協会紙が挟まれる。8月初めに出るヤツが出来上がったそうで、広告のお礼のA4・1枚と、体育協会紙を持ってこられた。このお父さん、前は先生をしていて今は教育委員会、次は何処かの学校の教頭先生かなあ、そして校長という流れなのだろう。断れない広告なんですよね。広告効果があるのか?まあそんなことは、考えてないが・・・ここんちの次男君が、来月マレーシアで開催されるアセアン選手権日本代表メンバーです。監督さんは東京の方で、そこの下の子もメンバーに入っている。監督さんの長男君と、うちの次男君は1年違いで、元アセアン代表チームで一緒だった方。あの時は私が監督でした。日本チームはやっぱりゆかた今年のメンバーによく知っている横浜の方がいて、そのお母さんが先日ご病気で亡くなってしまった。2週間前くらい。アセアン選手権日本チームのHPを病室から更新しておられ、お悪いと聞いていたので、更新されていると元気なんやと思っていました。私が行った時作ったHPをリンクしたりして、みんなにこんな所だよというのをお知らせしていたが、ほんとに残念。せめてあと2ヶ月先であれば、お嬢さんの現地からのレポートを真っ先に受け、HPで全国のジュニアの子達に紹介できたのに・・・ご冥福をお祈りいたします。でも考え様によっては、長年がんばってきたお嬢さんのヨットの成果に、形の残るもので最後まで応援できたという幸せな最期だったかもしれない。お嬢さんの参加はどうされるのか?ちょっと心配だったが、今日Nさんに聞いたところでは、何も変わりなく参加されるそうだ。こういう時だからこそ、楽しい話題を家族や親戚に振り撒いて欲しいです。ご不幸はすぐに、メーリングリストでジュニアヨット仲間に伝播していき、お葬式の終わった数日後、同じルートに乗って、お父さんのコメントが流れてきた。「皆様たくさん列席いただきありがとう・・・これからも変わりなくヨットを続けるつもりですので・・・今までと変わらずお願いいたします・・・」お姉ちゃんは中3だからまだいいが、弟君は小4。お父さん・お姉ちゃんとともに、乗り越えて欲しいな。子供達の活躍が、もっともがっかりしておられるであろうお父さんの力になるだろう。「がんばれ~」である。などと、しばし心に響くしんみりした話をして別れ際、「広告費3000円、いいっすか」「え、やっぱいるの?今?・・・いいよ」やっぱり広告費要るのね・・・こっちの衣装の方がいいかも?こんな国もあるし
2005/07/29
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ちょっと前の話ですが、7月中旬TVの徹子の部屋に、斉藤実さんが出演なさった。斎藤さんは、堀江さんと同時期に単独無寄港世界1周を成し遂げたので、日本でもちょっと名が売れ、TV出演が実現したようだ。71才で既にヨットで世界7周だから・・・、しかも大半はレースとして回ったから・・・、もっと知れ渡っていてもいいのだがなあ。ヨットという競技は実にマイナーです。今回の世界1周のフィニッシュ後のインタビューで、斎藤さんは目標日数で回れなかったのが悔しくて、残念だったとか、情けないなんて言ってたようだが、無事に一周できるのはもう当たり前の世界なんでしょう。一癖ある斎藤さんが、どんなことをしゃべられるか興味がありましたが、ウィークデーの日中なんてTVを見れるはずもなく・・・、またの機会もあるでしょう。イギリスのヨットの老舗雑誌のSailor of the Monthに、斎藤さんがノミネートされていたので、インターネット投票で1票を投じておきました。ノミネートされたのが2名だけです。ヨーロッパでは、ヨットはメジャースポーツなので、日本のプロ野球の月間MVPに選ばれたようなもので、斎藤さんが極東の国民ということを考えると、かなりの快挙です。同時に世界1周したのに、堀江さんじゃなく斎藤さんがノミネートされるところが、海外での知名度を物語っています。斎藤さんは、中年になってヨットを始めたのだけれど、積極的に本場ヨーロッパのレースに参加して、友人をたくさん作ってこられ、斉藤さんに続くように、ユーコーさん、白石さんなど、単独世界1周外洋レーサーが続いている功績からもくるのだと思います。ちょっと話は変わって、野球がオリンピックからはずされてしまいました。はずされた原因は、その競技を他国に広める努力を怠っているからと、解説されていました。確かに大人の野球はそうなのかも知れないが、子供はどうなのかなあ?ジュニアの世界大会とかに日本の子も毎年出場してるし・・・私がよく知るジュニアヨットの世界では、国際OP協会が積極的に国際化をはかっています。各国のOP協会設立に努力しており、毎年数カ国にOP艇を無償提供しています。日本だって東京オリンピックの翌年、無償提供されてからジュニアができました。セントビンセント・サモア・ソロモン・ニカラグア・スリランカ・ケニア・ウガンダ、これらの国が昨年は船を無償提供されました。国際OP協会のHPでは、弱小国の活躍を良く取り上げます。数年前、日本が世界選手権ではじめて10位以内7位を取った時は、大変持ち上げられました。その後、中国ワールドでマレーシア選手が2位、とうとう去年のエクアドル大会で中国選手が優勝し、アジアが躍進しました。アジア人初のワールドチャンピオンと載りました。さらに今年のスイス大会では、その中国選手の2連覇なるか・・・みたいな記事が載っていました。ユーゴ内戦が終わってすぐ、ヨーロッパ選手権をクロアチアやスロベニアに誘致したり、まだOP協会に入ったばかりのカリブ海バージンアイランドで世界選手権を開催したり。レース運営スキルがないので、アメリカや南米の国際OP協会理事が張り付いて、裏方をやっていたようです。ヨットは日本では今一ですが、ヨーロッパで盛んということと、このような底辺の拡大を常に行っていることもあり、オリンピックからはずされることはないでしょう。元々近代オリンピックが、5種目?位で始まって、次の競技種目拡大でヨット競技が入ったほど歴史がながく、男女合わせて10種目もあります。今のオリンピック委員会の会長さんも元オリンピックヨット競技選手でスイスのお医者さんだったと思います。ジュニアヨーロッパ選手権 日本チーム監督・コーチ 運転しているのはコーチボートをシェアしたイギリスチームコーチレース中は、必ず他国とコーチボートをシェアすることと、各国1名のみ乗船可、プライベートコーチボート不可、となっていたのでレース中ではないと思われます。といっても毎年レースが進んで最終日が近づくと、ぐちゃぐちゃになるので、そうでないかもしれません。もう閉会式の乗りでしょうか?そう言えば、昨日監督さんからヨーロッパ選手権お土産Tシャツもらっちゃった、ラッキー
2005/07/28
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お昼ご飯を食べたら、手のひらにごはんを握って、一目散に公園に走っていきます。午前中みんなと遊んでいないので、まず友達を捜します。電話で連絡を取り合うなどという気の利いたことはしませんし、そんなことさせてもらえません。とにかく足で捜します。まず公園の池、次に横を流れる川、公園の横の市民プール、それでもいなければ家に行って行き先をおばさんに聞きます。たまに2時間くらいかかる山の秘密の場所に行ってるときがあり、ここだともう諦めです。ここは、山に登って次の山との間にある川の向こう側にあり、そこでは確実にカブトやクワガタがいます。朝なら木にいますが、午後は土の中です。いそうな軟らかい土を適当に掘ると出てきます。でも大抵みんなは池にいます。土手の石の上にご飯粒を置き、池の周りを歩いて、針と糸を捜します。釣りの人が捨てているのがすぐ見つかり、土手に上がって、1m位の適当な木を探します。その木に糸と針を結び、針にご飯粒を刺して、池に木ごと浮かべます。ちょっと離れた所にある、池に覆い被さるようになっている松の木のところに行って、そこにぶら下がっている縄をブランコのようにして遊びます。たまに落ちるというか、落し合いをするというか、自分から落ちるというか、ザブンザブンとにぎやかなものです。つりをしているおじさんがいたら、よそへ移っていきます。そうこうしていると、池に浮かせているつり竿が動いています。「おっ、釣れてるで」ダーっと走っていき、竿を上げると魚が食いついています。釣れたら即席でいけすを作ります。土手を掘って、池の水を引き、石で池側に柵を作ります。こうしておくと、適当に水が池と循環し、魚は死にません。って、結局夕方には、今日の獲物を手で持って池の沖に思いっきり放り込むのですが。竿が動き出すのにすぐ気づくといいのですが、遊ぶ方に夢中になっていると、運悪く池の中央に行ってしまっていることがあります。岸から10mくらいまでなら泳いで行きますが、それ以上はやはり怖くて・・・仕方なく石を投げます。というかせっかく捜した糸や針を持っていかれた腹いせです。竿の近くに石が落ち、竿がうまい具合に岸方向に動くと大歓声。でもほとんど、食いついた魚さんの気ままの動きについていくだけです。針に食いついている魚が、岸の方に寄ってくることもあり、そのときはチャンスなので飛び込んで取ります。この公園の横を川が流れています。この川は、上流の染めもの工場から出る赤色に染まったりしますが、コイやフナが泳いでいるのが見えます。錦鯉だって泳いでいました。上流に大きなため池があり、雨が降るとさらに上流の川から水が入り、あふれた水がこの川に入ってきます。その流れに乗って、池の魚がこの川に流されてきます。大雨が降った数日後、水かさが減ってくると、魚がいっぱいです。一気に流されてもっと下れば、でっかい一級河川と合流するのですが、うまい具合に流されまいと魚さんがするので、僕らの格好の遊び相手になります。通常はあまり深くないので、川に入って手づかみします。板とか石とか網とかいろんな物を使って浅瀬に追い込み捕まえます。川の土手には人が入れる位の横穴があります。懐中電灯を持って探検もしましたが、だんだん怖くなって、突き当りまで行けた事はありません。防空壕だとか、奥には原始人の使っていた土器があるとか、いろんな話がありましたが、途中で歩いて行けなくなり、泳がないと奥へ進めません。その向こうがまた広がっているといううわさですが、水は冷たいし足は立たないし、怖い度120%で誰も行く勇気がありませんでした。同じく土手の暗い秘密のところに湧き水が湧いている所もあります。ここには沢蟹がいます。ここ辺は、土手に大きな木がたくさんあり、両側から川を包んでいるような感じになっています。昼でも少し暗めで、シダ類がたくさん生えています。それらをかき分けて行くと目的の蟹のいる場所です。学校のある日、たまに朝ここに寄って蟹を持って登校します。夏休みの学校プールの日に、持っていってプールに放り込んで、それを捕まえる競争をすることもあります。みんなに、何処で捕まえたか聞かれますが絶対に言いません。僕ら数人の秘密の場所だから。ここは多分私有地です。この土手を登ると、誰かの家の庭になっています。この辺は、大阪の成功した商売人さんの別荘地として開発されたそうです。池があり、川があり、木がいっぱい。大きな家ばかりで、2つの池の間の野球ができる公園も、元は家が建っていて、それを市が買って公園にしたというのを聞いたことがあります。というか、子供の頃はまだ1/4は家が建っていました。そこのおじさんがジュースやアイス・花火を軒先で売っており、おじさんがいなくなってその家が集会所になり、そして今は更地になっています。綺麗に草が取られて学校の運動場のようになっていて、午前中は年寄りが集まってゲートボールをしています。4面もゲートボールが出来ます。もう立派なゲートボール場。昔市長さんだった人のでっかい家が池に面してあります。池の土手を歩いていると、一応垣根のように植木が植わっているのですが、そういう場所には子供用の穴が開くのがごく自然です。そこを通りその家の庭先を通り、向こう側に抜けて池を一周できます。庭の一番池側を通る時、そこに続く芝生の庭でおじさんがよく椅子に腰掛けています。縁側にいる時もあります。そういう時は、小学生でもやっぱ人の家を通ったらあかんのは知ってるので、頭を下げながら小走りに向こうに抜けようとするのですが、僕らを見つけると、大抵手招きしてくれます。縁側に座って、サイダーやジュースがもらえます。このおじさん、全然怒らないんです。なんだかんだ話されて、庭にある池の鯉にエサをやってくれんかとか、芝生に水を撒いてくれんかとか手伝わされます。でもどちらかというと、それが面白く、おやつも出るのでこっちは大歓迎です。垣根の手入れなどをしているところに通りかかると、その枝や葉を運んでくれと言われます。手伝うとまたサイダーをもらえます。この家は私が大学生になる頃、おじさんがいなくなったからか、市が買ったようで、今は市の迎賓館みたいになっていて、春の野点の会場になっています。ちょうど公園の梅林に面しているので、春は多くの方がみえます。一般の人に開放されている時、今でも中に入りますが、綺麗に修理されてもっと立派な感じになっていますが、当時とあまり変わっていません。とても懐かしく思います。多分あのおじさんは、元市長さんだったのでしょう。市民のお子さんには、怒れないわなあ。ジュースも出さなあかんわなあ。こんな環境が近くにあったので、幸せな小学生生活を送れたと思います。毎日泥んこ、びちゃんこで家に帰りましたが、近所の子はみんなそうなので親にその事で怒られたことはありません。小学生の時は、夏休みがすごく長かったように思います。最近は何故こんなに早く7月8月が終わっちゃうんでしょう?ジュニアヨーロッパ選手権のスタート
2005/07/27
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小学生が夏休みに入りました。来月の末まで、長い長い夏休み。ジュニアヨットクラブは、市の体育協会というのにも入っています。例年どおり、夏休みジュニアヨット教室を5日間開催します。市の広報紙に載って、うちが連絡先なので、電話がかかってきて店で申込書を書いてもらいます。一応土日の午後から5日間なのですが、午前中は年間通してのジュニアヨット教室をしているので、ヨットが面白かった子は、午前中も来て乗ります。午前中の子も、午後まで残る子も多く、結局大半の子が1日ヨットに乗っています。もっと続けたい子は、そのままヨットクラブに入って、やがてヨット小僧になっていきます。私はもう子供が大きいので、受付のみですが、現役の親御さんは縦横無尽に大活躍です。無報酬なんですが、かつて下手くそだった我が子を見ているようで、ニコニコしながらコーチングをしています。名所旧跡めぐりや海水浴の時間をこっちに取られてしまいますが、他に代われる人材が少なく、こういう一時期があっても人生にあってもいいんじゃないかなと思います。かく言う私自身、結構楽しくやってましたし・・・私の小学生時代は、このような高尚な遊びはなく、近所の公園が定番でした。自動公園のような小さな公園ではなく、さくらの名所だし、今は梅の名所でもあります。周囲2kmくらいの池が2つあり、池の間には野球場とまではいきませんが、まあまあ大きな広場があります。朝一番はラジオ体操ですが、その30分ほど前に起きれたら、一目散に公園内のクヌギの木を目指します。よじ登れる高さのところに蜜が出ており、カブトかくわがたがいれば最高です。カナブンなら必ずいますし、昼間でもいるのですが、カブトとなると朝一番しかいません。それをみんなが狙っているので、最初に駆けつけたヤツしかそれを採れません。くわがたなどが採れたら、公園内のラジオ体操の場所に行ってみんなを待ちます。「いいなあ~、触らせて~」その日のヒーローです。飛んでいかないように手で持ちながら体操をして、誰かのお父さんの判子を押してもらい家に帰ります。虫かごに入れて、ご飯を食べて、お昼まで勉強です。友達は、午前中から公園に集まるのですが、私はダメ。母親の口癖は、「朝は黄金の頭、今勉強したら何でもすぐ覚えられるから、もう夜まで勉強しなくていいよ」でした。本当はみんなと遊びに行きたいけど、勉強はできる方で、先生に褒められ、みんなにもすごいって言って貰えるので、そんなにいやじゃなくやってました。特に算数が好きで、難しそうな問題が解けて答えがピッタリ合うと、「よっしゃ」と思って、面白いです。30分くらい考えても分からない時は答えを見ます。読んでいると、「なるほどなるほど」、これもまた面白い。でも国語はあんまり面白くなかった。何故って、答えはピッタリって感じじゃないから。昼からは再び公園です。これが最高に面白い・・・to be continue・・・ジュニアヨーロッパ選手権 デンマークとポーランドの競いあい デンマークのこの子が優勝しました
2005/07/26
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昨日の日曜日は、琵琶湖に行ってきました。といっても、特別でもなんでもなく、最近は日曜日に琵琶湖に行くのが普通になっています。次男君のクラブの手伝いですが、珍しく朝から2~3m/sの風が入っています。名神高速京都東インターを降りて、湖西道路を琵琶湖沿いに北に上がるのですが、その道路に乗って5分くらいでおりばがやってきます。側道にはずれてすぐ、右手に大津から琵琶湖大橋まで見えてきます。ここで湖面を見渡すと、今日の風の具合がだいたいわかります。今日はいい感じで朝から風があるぞ。いい練習ができそうだ。柳ヶ崎ハーバー近くに下りてきて、艇庫そばでしばしゆっくりします。というのは、ETCの関係です。ETCってご存知ですか?道路公団のカードによる料金徴収システムです。クレジットカード会社にETC用カードを発行してもらい、そのカードを車にセットしておけば、料金支払いが自動で出来るので、料金所で止まる必要がありません。最初に使った時は、料金所でETC専用コースに入ってもゲートが上がらずあせりました。なんじゃコリャ、ちょうど後に車がいなかったので、そのままバックして、ゆっくり考えると、カードのカードリーダーへの差し込み方が反対だったようです。高速道路のプリデイドカードのデータ不正などのこともあり、ETCの割引が増えてきました。大都市近郊夜間割引というのがあります。夜10時から早朝6時までに、大都市近郊の入り口か出口を通過すると、料金が半額になります。そこで、6時前に高速に乗ります。すると琵琶湖に早く着きすぎるのです。昨日は、車から降り琵琶湖の湖岸の砂浜の上に座って、本を読んでいました。「宇宙からの帰還/立花隆」アトムおじさんの日記に書いてあり、興味を引いたので最近購入しました。波の音、適当な風、川を隔てた浜はジェットスキーの方がたくさん集まる所なので、昨晩からキャンプをしている人の起きだす音、けだるい休日の朝の人々の営み、そんな風景をバックに、宇宙のことを読んでいました。人って酸素があっても生きられないんだ。気圧が重要なんだ。高山登山の酸素ボンベには、いろんな意味があるんだ・・・なるほど~、へ~、知らない事をいっぱい知りました。さて、昨日はうまい具合にくもりです。ですが、日焼け止めは必須。長袖長ズボンで防備していますが、そこから出ている顔と手に入念に塗ります。最近の日焼け止めのいいのは、完璧にカットするので、見事に焼けません。私など毎週海に出ているのに、全く普通の人です。コツは、くもりでも油断せず必ず塗ることと、常に携帯して、ふと塗ってないとこなど気づいたらすぐに取り出すことです。最近の若者は、その辺の意識が高く、これまた毎週出ている女子マネさんも、きれいな白い肌をしています。長年海で遊んでいると、紫外線対策をしている人とそうでない人では、肌年齢が大きく違うのを実感できます。私が学生の時は、紫外線対策を今ほど言われておらず、男はほとんどそのままでした。シーズン初めに2回ほど日焼けで皮がむけたら、その後は1シーズンどんなに日焼けしても、皮がめくれるほどにはなりません。私は、色白の美少年だったので、日焼けすると赤くはれひどいことになりますので、日焼けさせる方のローションの日焼け効果の少ないものを塗っていました。日焼けイコール健康というイメージがあったので、日焼けさせる方が売れていたのかもしれませんが、これはれっきとした日焼け止めです。日焼けはするのですが、きれいに焼け、ひどい状態になりません。弱い日焼け止めかな?その後日焼け止めクリームになり、ずっと続けているので、毎週海に行ってる人には見えません。反対に全然サンプロテクトしない人もいます。男性はそれほどではありませんが、女性でその意識の薄い方は、30過ぎくらいから、シミ・シワがドンドン出てきます。「もう遅いわ」なんて言ってますが、多分それを笑いで済ませるのは海関係の人ばかりでしょう。世間一般から見ると、かわいそうと思えるほどです。女性のデリケートな肌には、日焼けは禁物。今からでも、一刻も早く対策をすればいいと思うのですが・・・午前の練習に出艇すると、スナイプ級1艇が浜に残ったままです。「あれ、なんで出艇しないの?レスキューから2人減っても大丈夫だよ」マネさんの他に、1回生1人と2回生2人、まだ2人乗りの艇長に自信がないのかな?「じゃあ、私と乗ろうか?1艇でも多い方がみんなの練習になるからね」みんなで並んで一斉に走り出す帆走練習、スタート練習、そしてレース練習をしました。やっぱりレース練習は面白いです。やっぱりコーチボートに乗ってるより、ヨットに乗ってる方が断然面白いです。そう言えば、来週は選手でレースです。結果は別にして楽しみです。どうか強風が吹きませんように・・・ジュニアヨーロッパ選手権から。ジュニアのスポーツは何でもそうでしょうが、ヨットは1人乗りなので、クラブに所属していながらも活動単位が家族です。世界中にこんな風景があります。かつて私も、この親父さんと同じことをやってました。
2005/07/25
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ホワイトセールレースとか、オーナーズヘルムレースとか、ウッディーとかクラシックというヨットレースがあります。ヨットも素材や設計が進歩し、艇速が年々伸びます。さらに賞金稼ぎやオーナーに雇われてレースで活躍するプロセーラーも増えています。そんな中、ホワイトセールレースは新素材の繊維を使用していない艇だけのレース。新素材で強度を高めたりしているセールは、その素材の色から、全体的に茶色に見えたりします。プロセーラーがヘルムスマン(舵を操作する艇長)をしてはいけないレース、強化プラスチックであるFRP素材を使用していない木の船だけのレース、など最新鋭艇には艇速では劣るが、ノスタルジックなおしゃれな艇で、しかしやっぱりレースという人も大勢います。私のヨットの始まりは、高校ヨット部。その後大学体育会ヨット部。レースシーンでヨットに親しんできたので、どうしても同じような人種が周りに多い。先日のクラブ葬の時、よくホワイトレースに出ているもうすぐ70才という先輩が、「速い船に変えたいんや。修正では上位に入るんやけど、やっぱりファーストフィニッシュしたいからな。修正でビリでもええから、速い船に乗りたいわ」と話しておられた。クルーザーレースになると、いろいろな大きさのヨットが一斉にスタートする。概ね大型艇の方が速いから、船の大きさ・セールの大きさ・総重量などで艇種ごとにハンディキャップをつけて、優勝をイーブンで争えるようにしている。ゴルフのハンディキャップと似ているが、腕の良し悪しではなく、あくまで船のパフォーマンスに対してのみのハンディというところが違う。同型艇ならハンディは同じになる。この先輩も、ハンディの多い小型艇を腕でカバーして上位の成績を取っている。でもフィニッシュ後、所要時間のタイムをハンディを計算して修正するので、レース中は、果たして何位なのかよくわからない。どうもそれが面白くないらしい。それなら、修正でびりになってもいいから、多数のレース艇を従えてファーストフィニッシュする方が、なんかレースに勝ったという実感がわくからいいというもの。私もクルーザーレースに出るなら、ホワイトセールの同型艇のみのスクラッチレースがいい。1cmでも先にフィニッシュしたら勝ち。途中経過も、あと10cm、あと1mとエキサイトする。ジュニアヨーロッパ選手権、レース中レース海面の沖をポーランド海軍?の潜水艦が通った。レースを見物に来たのかな?
2005/07/23
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7大学定期戦で福岡に行った時、信号無視で警察につかまってしまったと、次男から連絡があったと日記に書きましたが、その顛末を聞きながら、「ありゃりゃ」と思いながらも、正直に話してくれてありがたいなと思いました。今までいろんなことがあったが、路上にゴミをポイ棄てとかでないと、まず子供を叱らない(私のは叱るというより注意する程度で全然迫力がない)ので、気軽に自分の失敗を話してくる。もちろん一度も子供を叩いたことなどない。子供ももう数年で学校を卒業して社会人になるが、今対等に話せるのは、小さな時に、親という強い立場から、頭ごなしに怒ったりしなかったからだろうと思っている。学生時代に見た映画「ジョーイ」の親父が理想で、友達みたいな親子になりたいと思っていた。私がこう接したから、私が老人になり体が動きにくくなっても、怒らず辛抱強く接してくれるかなあと、ちょっと期待はしている。まあ別にそうならなくてもいいけどさ。電話を掛けてきた次男の話のメインは、警察沙汰のことではなく、自信を持って臨んだ7大学で負けてしまったことだった。「なんか、これじゃあ、全日本予選を突破できそうもないんやけど・・・」息子からの弱気な言葉を聞いたのは、いつ以来だろう。受験の時でさえ、聞いた事がない。不安でも、負けてガッカリしても、口には出さず、ポーカーフェースを守る子なのに・・・クラブのエースであり、主将というみんなを引っ張る立場からの不安なのだろう。客観的に見れば、全国で一番レベルが高い近畿北陸予選を突破するのは難しい。もう10年以上団体全日本に出場していない。スポーツセレクション選手を揃えた上位5校に対抗して、去年4位だっただけでも立派なものだ。ジュニアからの経験者だったから、1回生から安定した成績を残してきた最終学年の集大成だから、70周年でOBさんの期待もヒシヒシと感じたからなあ。目標に向かって精一杯やったら、結果にはそれほどこだわらなくてもいいんじゃない。クラブのみんなのことを考え過ぎたら、自分が楽しめない。自分が走ることを考えたらいい。それが結局団体戦の点数に有利に働く。7大戦が、微風軽風コンディションなら優勝すると思ったが、強風ならあかんやろうなあと思っていた。強風が吹いたので、仕方がない。次男は走ったが、いつもの3艇合計のレースではなく2艇合計だったから、平等に艇長をした関係で、次男が乗らなかったレースがやっぱりダメだったらしい。次男同様ジュニア上がりの子がいるT大は、部員が少ないので彼が全部出て、470級で優勝した。「いいんじゃないの。クラブのみんないい感じで上手になってるよ。ここまで持ってきて立派やんか。行ける日はみんな行ってサポートするからさ。それでさあ、予選通過できる感じで来てるよ、大丈夫やって心配すんなって」と言って電話を切った。予選通過の確信なんて何もない。でもここは空元気でも何でもいい。「笑う門には福来る」である。ジュニアヨーロッパ選手権のサイトのアップされている写真は、やはり女の子が多い。そりゃ雑草と可憐な花じゃ誰でもこっちを見たいからなあ。私なら、こんな子に周りをウロチョロされたら、レースに集中できないだろうなあ。
2005/07/22
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日曜日は、姪の結婚式でした。家内の着物のこともあり、朝早く出発しました。その前にOPヨーロッパ選手権のチェックもあり、なんと5時過ぎに起きました。いつも出発の時間になっても家内の準備が出来ておらず、「ちょっと待って」と言われるのが常ですが、この日はちょっと違い15分前には、もうスタンバイしています。朝一番に店に行って、荷物整理やゴソゴソして、家内のいつもも予定時間に入れて余裕を持って帰ったら・・・まだ例のカラス服も着ていないし、ネクタイもまだ、髭剃りさえまだだったので、ゲゲーっと慌てて用意しました。おかげで朝シャワーを浴びようと思っていたのにカットになってしまいました。車を家の前に回して、荷物を積んでいると、家内が助手席に。「う~ん、本日も中々の美形・美景です」運転していて楽しくなります。一生のお得です。カメラも持ってきているし、「写真、撮らせていただけませんか」と言おうと思うのだけど、言えない・・・結婚式場について、バタバタしているうちに忘れてしまった。家内は着付け室に消え、式まですることがない。新婦の父である兄と新居のこと・旦那さんの仕事のこと・・・いろいろ話していると、甥の新婦の弟が京都の下宿から直接やってきた。サークルのこと・京都のこと・学校のこと・・・これまたいろいろ話していると、次男から電話がかかってきた。「今新大阪に着いた。何処に行けばいいの?」「駅の北西すぐ、メルパルク大阪って聞けばわかるよ」そろそろロビーに現われる頃だなと思い下に下りるがまだ。しばらく外に出て四方を見ていたがやってこない。迷ってるなあ・・・ロビーに入り電話をすると、すぐ横に電話を取る青年。「ああ、今着いた。聞いたけど、あんま知らなくてさ、迷ってもうた」控え室に上がると、正面に見違えるようなキレイなお嫁さん。肩車・・・肩車・・・って私にまとわりついてた娘が・・・その後の成長も見てきたが、純白のウェディングドレスは、格別です。式・披露宴で、今回のお嫁さんのお姉ちゃんの時は、私がビデオ係をしたが、今回は甥っこがビデオ係。がんばって、ずっと撮り続けていました。甥と次男はテーブルが違ったこともありあまり話をしていない様子です。こいつら、京都で同じ学校で、同じく下宿生なのに交流がないようです。おまえら、キャンプや海水浴にいっぱい連れて行ってやったのに・・・まあこの2家族では、長男と一番上の姪が子供達のリーダーだったので、この2人だけではあかんのやなあ。上の姪の結婚式の時は、長男も出席していたので、子供達の間も和んで、純白の姪と一緒に写真をいっぱい撮ってたけど、今回長男は試合と重なってしまいいません。あの時は、京都に帰る2人を、京都の友達に用事があるからと、長男が車で送っていったが、どうしてもその日でないといけない用事ではなかったのだと思う。引き出物のお菓子と、披露宴のお土産の赤飯、それに新婚さんが、テーブルを回って皆さんに配ったキャンディーなど3人分に、おばあちゃんや親戚の分も集めて次男が持って帰りました。彼は昨日練習で琵琶湖の艇庫から今朝きました。そして艇庫に帰り、みんなでこれを食べるのでしょう。ちょっとしたぬいぐるみももらったので、これは女子マネさんへのお土産かな。何度経験しても結婚式は感動します。この娘との過去を思い出して、何度か涙が込み上げてきましたが、家内はもっとのようで、そっと肩に手を置いてあげました。「え、何?」そうじゃなくって・・・自宅に戻り車から降りた後、「写真撮ろうか」2枚家内の写真を写しました。「やったあ」、これってちょっと変かなあ?家内は、次男が正月自宅に帰ってきた日は旅行に行っていたので、去年9月以来1年ぶりの再会。披露宴で席が隣だったこともあり、次男とよくしゃべっていました。「おかあさん・・・」と声を掛けられ、満足だったんじゃないかな?日本チームのコーチボート GBイギリスと2カ国でシェアしています
2005/07/21
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ジュニアヨットのヨーロッパ選手権が終わりました。日本チームは、最終日を残して男女とも18位の選手がいて、入賞の15位に手が届くところにいました。でも最終日の2レースは、どうもよその国の子に神様が微笑んだようでした。今年のヨーロッパ選手権には、いろんな意味で関心がありました。開催地がポーランドという東欧の国だからです。東西冷戦が終わってから、知り合いがロシアやポーランドのレースなどに参加していましたが、大人のレースは、ウェブサイトが充実していないので、写真などが豊富ではなく、客観的な資料がすくないです。ところが、子供のレースは、というより子供のイベントは、世界共通で大人がよりがんばり、より楽しく盛り上げようとします。ウェブサイトも充実します。発信される情報を見て、どのような国なのか少し想像が出来ます。今回の大会は、スロベニア・クロアチアという旧ユーゴスラビアで行われた大会から数年あきました。まずウェブサイトを見て思ったのが、NIVEAという冠スポンサーがついた大会になっていました。サッカーの世界一クラブ決定戦に、TOYOTAが冠スポンサーになったのと同じように、大会名の前にスポンサー名がついています。NIVEAというのは、ドイツの企業で、日本では花王がニベアクリームとしてライセンス生産し、販売しています。NIVEAといえば、昔からブルーの缶やチューブです。この大会も基調は全てブルーです。参加した方のレポートでは、街中にブルーのNIVEAフラッグがはためいて、日本でいう選挙の時の投票日をお知らせするのぼりのようだそうです。「なるほど、NIVEAはポーランドに生産拠点を持っていそうだな。ポーランド、そしてヨーロッパに自社ブランドを浸透させる格好の宣伝媒体と思ってるんだな。さすがヨット競技発祥のヨーロッパ、ヨットレースへの一般の人の関心度が高いのだなあ。・・・」いろいろ感じました。大会期間中にスポンサーレースもあり、自由参加なのですが全艇支給されたブルーのセールでレースしたようです。ブルーの象さんがNIVEAのメインキャラクターのようで、多くの子がそれを持っている写真が写っています。参加賞なのでしょう。これは、相当なお金が主催のポーランドOP協会に入っているなあ。これは大幅な黒字だぞ。OPやその後のヨット競技の強化費になるのでしょう。なるほど、なるほど、頭にノートしておこう。クロージングセレモニーの前に、プロのバンドが入って演奏があったようです。さらにキレイな、そして夏らしい服装のお姉さんの歌っている姿も数組写っています。HPでのクロージングセレモニーノーティスには、バンドが入ると書いてありましたが、想像していた以上に本格的なコンサートになったようです。それにしても、選手全員15才以下ですので、日本ではまず考えられないなあ。ポーランドもやっぱりヨーロッパの国、子供にも子ども扱いしないなあ。それとも、選手以上に集まっている各国のサポーター向けなのかなあ。最後に、プライズギブンの時の光景がやっぱり気になりました。コンサートが終わったばかりの屋外特設ステージに、1・2・3位の台が置かれ、その上に選手の方を向いて選手が上がり、トロフィーを持って手を振ったり、ガッツポーズだったり、羽織ってきた国旗を広げたり・・・満面の笑みをみんなに見せています。それを選手側斜め前から、トロフィーを渡した大会役員が、拍手して祝福しています。良い成績を収めた選手が、選手に背を向けて役員から賞状をもらうのと、一段高いところに上がって、選手の方を向いてもらうのとでは、全然違うと思うんです。参加選手だって、背中に向かって拍手するのと、トロフィーやメダルをもらって笑顔に向かって拍手するのとでは、全然違うと思います。日本に、もっと選手側を向いてメダルや賞状をもらう方式が根付いて欲しいな。
2005/07/20
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金曜日の夕方、家内の店に車が突っ込んできました。近くの交差点で、ぶつかった車が突っ込んできちゃった。2つあるドアの一方とその周辺の窓ガラスが割れてしまった。道路に面する部分の半分が割れちゃった。ドアの支柱も曲がってしまいました。ドア付近で車は止まったので、お客さんにも奥にいた家内にも怪我はなかった。店員さんも手紙配りなどに出ていたりでよかった。入口の陳列台もおしゃかになってしまったが、店内のは無事。運転手さんにも怪我はなくほんとによかった。ついてるます、神様に守られてますなあ。車が突っ込んだ付近に、お客さんや通行の人がいても不思議はありません。うちもラッキーだったし、車を運転していた方もラッキー。早めに店を閉め、家内の店の片付けに帰りました。店員さんも自主的に残業してくれたそうです。ありがたや。すごい音がしたらしく、近所の方が大勢やってきたそうです。何故か銀行まで2人やってきて、申し訳程度にガラス片を拾って帰ったそうだ。銀行は何しにきたんや?しかも2人も来たなんて・・・保険で直すから融資いりまへんで。取引は長いですが、小金しか貯金してないから、上得意さんでもないんやけど・・・それにしても銀行さんは地獄耳ですね、何故かすぐやってきたそうです。車が突っ込んだ方のシャッターが閉められないので、大工さんに板を貼り付けてもらって、半分板・半分シャッターという状態で自宅に帰りました。日曜日から工事に入るが、しばらくちょっとへんてこな店、まあ仕方がない。その日遅く、店に突っ込んだ大学生の家族がみなさんで自宅にお越しになった。相手の車を避けようとして突っ込んでしまったというのは、警察の検分を聞いていた家内から聞いていたが、そのような言い訳はせず、ただひたすら親御さんともども頭を下げておられた。大学生の彼の怪我の有無を尋ね、相手の車の女性の怪我のことも聞いた。みんなかすり傷一つなく良かったことと、店はちゃんと直るから、うちの方は大丈夫ですよと。「まあいろいろありますわな」と笑って別れた。本人はもちろん、親御さんも慌てただろう。うちが変な人だったらどうしようと、うちのベルを押すまで不安だっただろう。そりゃ、客観的に見たら、スピードの出しすぎでしょう。避けても店に突っ込んでくるほど交差点に近くない。でもそれを言って責めても、言われている方は、自分でもわかっているので、頭を下げながらも、心の中で反発するだけ。警察に絞られ、親にも絞られたのかもしれない。事故保険の面倒な手続きや、つぶれてしまった店や、へこんだ車を見て反省するだろう。それでいいよ。世の中、お互い様のところがある。相手の方も常識のある普通の方でよかった。そう言えば、長男がクラブのキャプテンをやってた時、試合で福岡に行く高速道路のサービスエリアで、ガソリンを入れようとしてトラックにぶつかったことがあった。真夜中に電話をかけてきて、「事故しちゃった」「それで怪我は?」「大丈夫、後に乗ってた部員も大丈夫、でも車動かへん」「そうか、今から行こか?」「いや、ええわ。保険屋さんに電話して、きちんと僕が処理するわ。他の車に乗ってた子を乗せ変えて、僕は試合の出場は諦める。ほんまごめん」「けがなかったから良かったやん、そしたら処理みんな任せるわ、初めてやから保険の勉強になるやろ」フェリーでゆっくり寝て行ったらいいと言ったんだけど・・・長男の車はセリカという若者車、人数や荷物が乗せられないので私のワゴンに乗っていった。それがおしゃかなんだけど・・・事情を聞くと、長男の不注意(多分眠たかったから)のようで、僕が悪いと言っているんだけど・・・でも何も言わなかった。「こら、だから言ったやろ・・・」なんて言うところなのだろうけど・・・言えないんだよな・・・助手席側に真横からぶつかって、90度車が振られたよう。長男の低い車なら、トラックに運転席まで踏まれている。ワゴンで後の座席をフルフラットにして部員が寝ていた、つまりちょうど助手席には誰も乗っていなかった。神様は、事故を予想して、車を交換させたんだなあ。なんというラッキー、ご先祖様に守られているんだな。なんてことを、こういうのが起こるといつも頭に浮かんでくる。だから、「こら~」なんて出てこなくて、「良かったなあ」ってのが口から出てくる。多分ちょっと変なんだろうな。ジュニアヨットヨーロッパ選手権レース前 大勢のハッピーの集まり
2005/07/19
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次男中3のジュニアヨット全日本。当然ここで上位40位に入って、翌年の世界選手権最終選考会で世界選手権出場を狙っていた。日頃の実力から言って、まさか落ちることはないと私も周囲もみんな思っていた。ところが風が全く吹かず、変な風で強行したレースで走らなかった。次男のような子が3名、まさかの40位落ちを経験した。この時点で、15才がリミットのジュニアの次の目標がなくなり、ジュニア最後のレースになった。本人もまさかと思っていたと思うし、最上級生なのでかっこ悪いとも思っていただろう。でも最後の閉会式に並び、上位40人の発表にも顔を上げて拍手をしていた。他クラブのみんなとも日頃と同じように接していた。私の目には、「けなげ」に映った。かわいそうだなあと思ったが仕方がない。スポーツとはそういうもの。こういう潔い部分が、スポーツで学べる人生。親とて、何も出来ない。自分で消化するしかない。そして1回り大きくなる。いつもなら帰り道、クラブの子がワイワイ乗ってきて、うちのワゴン車の後部座席ではトランプが始まるのだけれど、みんな気を使ってその日は来なかった。船や荷物を積み終わり、クラブの車が連なって出発し始めた。助手席に座って、ボーと外を見ている次男に、「ごめんな、お父さんのセール選択ミスやった。ほんまごめんな、許してくれ」と謝った。それをきっかけに、「お父さんは悪くない。僕が走らんかったんや。全部僕の責任や。船もセールも買ってくれて、レースにもいっぱい連れていってくれてありがとう。僕お父さんにいっぱいしてもらったのに・・・、お父さんは悪くない。来年からは高校でヨットする」と言って、大泣きした。それを聞きながら、私も涙があふれてあふれて止まらなかった。彼のコース選択ミスなど、いろいろあったが、それを責めても、「でもな・・・」と反論が帰ってくるだけ。彼はちゃんとわかっている。自分でわかっている自分のミスを、改めて言われても反発しか生まない。傷口に再び塩をすり込まれて、ありがたいと思う人なんていない。返って私への反発から、冷静に自分のレースを分析できなくなる。男なら、それでさらに反省するより、反発するくらいの強さを持った人になって欲しい。何度も反省を促すようなひつこい人とは、袂を分けて、もっと懐の大きなさっぱりした人と付き合うくらいの気概を持って欲しい。ジュニアヨットヨーロッパ選手権でのボランティア。地元ポーランドの代表選考会に破れた選手だと思われる。甲子園の高校野球でのボールボーイの様。本職には遠く及ばないだろうし、時々遊んでいるのだろうが、多少のことには目をつぶる広い心がじっくり成長する人を育てると思っている。
2005/07/18
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ブツブツ、ブツブツ・・・「うん、わかった」ブツブツ、ブツブツ・・・「ひつこいんじゃ、わかったって言ってるやろ」こら待て、なんじゃその言葉使いは・・・ここに座れ・・・小言・・・小言・・・と親父が出てくる。「うるさいんじゃ、あほんだら」ドタドタ・・・どたどた・・・と自室に上がって、無性に親に対して腹が立つ・・・何もやる気なし・・・口なんか聞いてやるもんか・・・何度も私はこれを繰り返していたと思う。親も、このやろうと思っていたと思うが、こっちにだって言い分がある。付き合う女の子は、みんなしゃべり過ぎない人。機関銃のように、しゃべる母親のような人は願い下げ。一緒にいて落ち着かない。ゆっくり考えることも出来ないし、口を挟む余地もない。会話になってない、単なる押し付け。失敗しないように諭されたのだと思う。外で恥をかかないように、という親心なのだろう。遠足の持ち物もよく、親の前で全部リュックから出さされて、プリントを持って点検させられた。そこで忘れ物がわかったときもあったけど、親の前で点検させられるのは屈辱だった。全然信用してもらってないみたいで、思いっきり不機嫌な顔で点検していたと思う。忘れ物しても誰か貸してくれるし、失敗しても笑われて終わり。みんなも忘れ物や失敗はいっぱいしてるし、別に平気やんか。別所帯になり子供が生まれて、親とは反対の接し方を子供としようと思った。でもどこかで、しっかり育てなきゃって気持ちがあったと思う。長男がオムツが取る練習をしていた頃、金魚のえさ事件が起こった。もうこの日記でも2回書いていると思う。子供との接し方の原点の事件だし、子供から教えてもらった初めかもしれないので、強く印象に残っている。毎朝池の金魚にエサをやってから長男と一緒に保育園に出発していた。ある日曜日、この日は保育園も仕事もお休みです。庭に出て、長男の手のひらにえさを置いた。でも、袋から出す所からしたいようだ。初めて袋ごと手渡した。袋を開けようと思ったが、うまく開けられず袋がビリっと破れて、エサが全部池に落ちてしまった。「あ~あ、明日からの金魚のえさがなくなっちゃった」と言ってしまった。自分の失敗に驚いて、ビックリした顔をしてじっと私を見ていた長男が、私の言葉を聞いて大泣きして家内の所にかけていった。エサはまた買えるから・・・ごめんごめん・・・とかフォローしたが家内の後ろに隠れている。毎晩のお風呂にも一緒に入ってくれなくなり、白鳥さんのおまるに座らなくなり、オムツでおしっこをするように戻ってしまった。あの時何で、「大丈夫やって、えさはまた買ってくるから。今から一緒に買いに行こか。」なんて言ってあげられなかったのだろう。「子供を叱れないなあ」とつくづく思った。これ以来、よその子に対しても怒ったことがないように思う。失敗するまで見ていて、お父さんって来たら、「・・・こうした方がいいと思うで・・・」いつもこんな感じ。そうしなくてまた失敗しても、別に気にならない、また来たら言うだけ。その子と真剣に対峙していないのかもしれない。でも私には、怒ることが向いていないから、これで仕方がないと思っている。
2005/07/16
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今日は3日目。いえ、本当は4日目です。7/10から、ジュニアヨットOP級のヨーロッパ選手権大会が、ポーランドで始まっています。公式到着日・公式計測日があって、プラクティスレース、その夕方オープニングセレモニー。公式ウェブサイトからは、写真やレポートが次々発信される。日本チームもPC3台持っていってるので、現地から日本チームHPを更新している。選手4人に親御さん2人、ウェブマスター兼選手の母1、監督兼選手の父1、コーチ兼選手の父1、国代表1という日本チームの所帯です。PC3台といっても、1台はコーチが空いた時間に仕事をするために。1台はチームサイト更新のため。選手も楽しんでいるが、親御さんは大変だといいながら笑顔笑顔。昨日の大会公式ウェブサイトに載った日本チームのコーチボートには、でかい日の丸が掲げてあった。2カ国で1艇のコーチボートなのだが、GB(イギリス)チームとシェアしているようだ。多分親御さんが乗っているのだろうが、鈴なりの観覧はバイキング船のような形をしており絵になるなあ。12日がレース第1日目だったが、1日中まともな風が吹かず、陸上待機になっていたようだ。このときの大会HPのレポートが奮っている。「どこからともなくレース会場沖に現れた消防船が、大会会場に向けて放水し始めた。何だろう?と思ってテントを出ていた選手やサポーターは、逃げ遅れ全身ずぶ濡れ。放水に気づいて、慌てて放水の中に突っ込んでくる選手多数。一難去った後には、放水で自艇にたっぷりたまった水をくみ出している選手の姿があった」風がなく何もすることがない選手に向けて、粋な計らいだなあ。当然初めから予定されているはずもなく、日本では決してありえない光景。ポーランドって、東側から流血を経て東西冷戦の壁を破った発展途上の国、何か無骨なイメージを持っていたが、フレンドリーなんだ。なんか臨機応変さがいいなあ。ジュニアクラブのウェブマスターをしているので要チェック。選手1・ウェブマスター母1・監督父1を我が部から派遣しているから、毎朝早起きしてクラブのページにレポートを載せている。時差が7時間あるので、昼夜が逆気味。最近、張り切って早く起きれるようになってます。今月末からは世界選手権、そして来月末にはアセアン選手権と、クラブ所属選手が今年もドンドン世界に旅立つ。
2005/07/15
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育児バトンというのが回ってき着ました。・・・バトンというのが流行っているのでしょうか?まあ今回も何かの縁、そういう流れなのでしょうから・・・それに日記ネタを考える必要ないし、書いてみます。おおきにです。● お子様は何歳(何ヶ月)?性別は?もうお子様というかわいらしい響きのある年齢の時代は、はるか遠くになりにけりです。長男君24才2ヶ月、次男君21才3ヶ月。性別は、男の子2名です。家内のおなかの中に長男が宿った時、私はどうしても男の子が欲しくて、私にとっての天下の宝刀蛍光マリア様の像に毎日お願いしました。このマリア様とは、長~い付き合いで、私が幼稚園に上がる前、母親と通っていたカソリック教会の神父さんにお願いして、頂いたものです。といっても記憶にありません。後日母親から聞いた話です。教会の床に転がって、駄々をこねたそうな。本当は教会にあったもっと大きなマリア様が欲しかったようです(礼拝堂の前にデンといる等身大の2倍はある)が、もちろんいただけるはずはなく・・・持って帰ることも出来ず・・・家に入るはずもなく・・・10cmほどのものでお茶を濁されたようです。しかし、このマリア様、優れもので、蛍光塗料が塗ってある。つまり暗くすると、しばらくの間光っているのです。そりゃ、こんなチビにとっては、たまげた代物です。以来、私の宝物No1の座を占めています。もちろん今は違いますよ。家内、そして子供達です。この順番が大切、まず家内です、わが家の平穏のためにも、ここは強調しておきます。私の弟の時も、長男の時もお願いしました。次男の時は、長男と2人でお願いし、家内の女の子希望に勝利しました。● 生まれたときの感想は?段々おなかが大きくなってきて、一応言っておきますが私ではなく家内のです、動き出しました。「あ、動いた。触ってみて・・・ほら動いたでしょ、わかった?」わかりました、うわ~すごいと思ってしまいました。胎教というものがあるらしいという聞きかじりを信じ、ビバルディ・モーツアルト・ヨハンセバスチャンバッハなどを家でかけていました。がんばりましたよ。2Fのステレオから、コードを引っ張ってきて、1Fの部屋にスピーカーを置きました。コンサートにも行きました。男らしいのがいいかと思って、松崎しげるをいっときました。とりあえず顔が日焼けしてるからいいやろ、みたいないいかげんさでしたが。コンサート会場では人が多いし、その前後が騒がしいだろうから、ホテルのディナーをいっときました。そう言えば、あの頃以来ディナーショーに行ったことがありません。長男には、気合入ってました。出産予定1ヶ月前に実家に帰りました。確か、少し予定日より早く生まれたと記憶しています。朝一番に義理母から電話があり、「今病院に行ったよ」仕事しながら、にやけていたと思います。昼前、「生まれたよ、男の子だよ、おめでとう、お父さんだね」と電話がかかってきました。やったあという気持ちとともに、がんばらなきゃという気持ちも。週末に家内の実家に帰り、病院に見に行きました。「まるでお猿やなあ」と思いながら、産後が順調でその日に病院から実家に、家内と長男を連れて帰りました。それから家内が自宅に戻る1ヵ月後まで、毎週実家通いをしました。お猿さんから、どんどん赤ちゃんになっていき、かわいいったらありゃしない。思い出しました。男の子獲得作戦は、マリア様頼りだけではなく、「男女産み分け」なんていう本を買ってきて研究しました。もちろん基礎体温も測りました。「よっしゃ、今日や」なんてね。次男君のときは、もうベテランです。実家に帰ることもなく、前日まで家内は働いていました。朝6時頃、「ねえねえ、おなかが変、生まれるかも?病院に連れてって・・・」と起こされて、車で2~3分のかかっていた病院へ。それからすぐに生まれちゃったようで、2人とも家内はあまり苦しまず楽でした。長男2850gでチビでしたが、次男はさらにチビ2650gで保育器に入ってました。でも保育器が移動式で、家内が起きている間は家内の病室に保育器があり、保温のために湯たんぽかなんかが一緒に入っていたように記憶しています。長男を保育園に迎えに行き、その足で病院に会いに行く毎日を送りました。次男君もお猿さんだったのでしょうが、長男で慣れたので強く印象に残っていません。長男は次男を見て、ちっちゃいを連発していました。長男の時も次男の時も、指の数はよく数えました。10本あるとホッとしてたなあ。● うちの子のここが一番!って思うとこは?顔がいいのと賢いこと。どう見ても、うちの子が一番かわいいと思ってました。大きくなっても、ずっと一番と見えてしまいます。親というものは、そう見えるようになってるものなのでしょう。長男君はかなり頭がいいと思っています。小学校低学年で、対等に話をしてましたし、過去に私が言った言葉を出してきて、ズバリ私の発言の矛盾を突いてきます。彼と話していると、私の方が負けることも多々ありましたが、手ごたえがあり、楽しい話ができました。弁護士などのしゃべる仕事に向いてるのかなあと思いました。あと、市のレポーターなどに2~3度申し込んでいましたが、残念ながら不採用でした。就職の時も、学部とは全く関係ありませんが、マスコミ関係を受けようかなあなんて言ってました。好きなんだろうけど、どうも縁がないようです。塾など勉強環境はしっかり提供しましたが、あまり勉強しないのに、よく出来ました。真面目に勉強したら、どんな偏差値の学校にも行けるだろうなあと思いましたが、まあそれも性格でしょう。彼の中では、それでうまくバランスしているのでしょう。学校の勉強で困ることがなかったので、親は楽でした。小学生の時クラスで一番足が速く、少年野球は一時4番でピッチャー、そして何でもやりたがり、手を上げて役になっちゃう。小1運動会選手宣誓、生徒会副会長。中学生徒会長。高校修学旅行実行委員長、同窓会役員。大学クラブ主将、クラブ歴代1位記録。総理大臣にも、ヤの付く職業のボスにもなれる器を感じます。次男は、自分が納得するまで諦めない性格をしています。「何で?」「どうして?」の連発に閉口することもあり、いいかげんな説明では、すぐ次の「何で?」が来るので、彼にためによく事典を調べました。● 最後に将来どんな子に育って欲しい?好きなように生きたらいいと思っています。この子たちがうちに生まれてきて、いっぱいプレゼントをもらいました。親は子に与えるなんて言いますが、私の実感ではあれは嘘です。自分の事をする以上に子供達の事をすると楽しいです。そして大抵、すぐに倍返ししてくれます。老後の面倒を見て欲しいとか、何かそういう何かは全くいらないです。ただ彼等の親であるだけで、毎日お得している感じです。親が邪魔しなければ、すごいヤツになると思っています。親のことなど考えずに、こころの中に浮かぶ神様の言葉に素直に従って生きて欲しい。その人生を横目で見ながら、「うちの子や」とニコニコしていたいかな。今回も思いっきり、我が子君のいいところを書いてしまった。子供達は失敗もいっぱいしてるけど、「あ~ダメだ」なんてあまり思わないし、親として・・・してあげなきゃとあまり思わない。どうせ誰でも最初は出来ない、失敗から始まるのが普通、自分で何とかするやろ。と考えてしまう能天気な性格をしているので、何か平気で、よく出来たことがすごく印象に残ってしまいます。
2005/07/14
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また今年も梅雨が過ぎ夏がやってくる。ヨット部OBさんには、数人でクルーザーを所有し、レースに参戦したり、クルージングに出かけたりする人がいる。ヨットの楽しみに、数泊クルージングがある。海図などを持って慎重に行動するが、夜走ることもある。その時、フェリーなどでも見ることはあるが、ヨットの引き波で光る夜光虫には、キレイでゾッとすることがある。目的地に着き、漁港などで停泊し、近所の銭湯で風呂を浴び、漁師町のうまい物を食し、船に帰って休む時、幸せを絵に描いたような気持ちになる。ソヨソヨと風が吹き込んでくると、なお更いい気持ちになります。海は蚊がいないので、網戸などなしでもなかなか快適です。まあ、風がないと、ひどいもんだけど、これが自然の生活です。定期購読している雑誌舵に、クルージングの記事が載っていた。瀬戸内海を巡ったそうだが、広島の倉橋島には遣唐使船の実物大が展示されているようです。源氏と平氏の合戦でも、信長の時代にも出てくる海の民の本拠地が瀬戸内海に点在している。特に広島は島が多く、潮も強く、天然の要塞になっているので、日頃は漁師をしながら、時には物資や兵士を運ぶ運搬役であったり、海賊に変身することもあるのだろう。遣唐使船の船乗りはこのような島の人が担っていた。第14次遣唐使派遣までで、のべ3700人が大陸に派遣され、1700人しか戻って来なかったそうだ。5割の確率。もう一つ、呉市に大和ミュージアムと言うのがオープンしたそうだ。1/10スケールの戦艦大和が展示されているらしい。かなり巨大なものですね。その中に、呉市の造船の歴史が展示され、「佐久間艦長の遺言」という一文があるそうだ。明治43年、潜水艦の潜水訓練中に故障により沈没した艦の中で発見された艦長のログ(航海日誌の事をログと呼びます)。「小官の不注意により、陛下の艦を沈め部下を殺す。誠に申し訳なし。されど艦員一同、死に至るまで皆よくその職を守り、沈着に事を処せり」ログは午前10時の事故から、呼吸困難で意識が薄れていく12時40分まで、刻々と書き綴られている。当時潜水艦事故はあり、イギリスでは艦員が死を逃れようと、水明かりの漏れる窓の下に折り重なっていたと言う。ところが、佐久間艦長の艦を引き上げると、艦長以下クルー全員が自らの持ち場を離れず、窒息絶命していたという。当時このニュースは世界を駆け巡り、浸水とガソリンの充満する中の手記全文と、艦員の最後の姿が世界に感動を与えたという。さらに、現在でも各国で、最も尊敬すべき潜水艦乗りの姿として教育されていると言う。仕事に対するかっこいい姿勢を読ませてもらった。
2005/07/13
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この土日、次男君大主力は、福岡で7大学定期戦をしていたが、ちょうど同じ日程で、琵琶湖でもレースでした。こちらは全日本女子インカレ予選です。私はこっちのサポートです。なんせ、全日本予選なので、こっちの方が値打ちは上。次男君大から1艇参加で、彼女達は行きたい行きたい明太子遠征を我慢してのレースです。女子部員が少なく、ずっと参加していませんでした。今年春の新入生勧誘前に、「せっかく女子部員が1名いるのだから、なんとしても1回生を獲得して、女子インカレに出場しようよ」とミーティングで話したのですが、みんなもそう思っていたらしく、3回生の彼女の人柄もあり、男子部員達もとても盛り上がり、彼女も「私と全日本目指そう」と勧誘し、2名の女子部員を獲得した。まだ1回生なので、とても上手とはいえないのですが、なんとか3回生艇長のクルーとして予選に参加した。艇長だけの腕なら、楽々予選通過の実力はある。風が強くなると、クルーの力量がより問われるので、風が上がらないようにと天にお願いしていた。土曜日の成績は、予選通過ギリギリ。8艇が予選突破できるのだが、7位です。日曜日朝琵琶湖を見ると、風が上がる三井寺の風向。う~ん、やばいなあ。と思いつつも、選手には「大丈夫やって」と笑顔で接しています。先週艇長の3回生は、「他校はみんなレースメンバーみたいです。なんかやばそうです・・・」なんて弱気なことを言っていた。「九州遠征の方に行きたかった・・・」等と、予選突破できるという自信さえも風前のともし火状態だった。なんせ、何でもいいから自信をつけさせることが肝心。行けるかなあ?とか行けたらいいなあ?と思っていても、口からは行けるに決まってるわ、みたいな言葉を発しないと、行けるものも行けなくなってしまいます。試合とはそういうものです。土曜日5レースしたので、日曜日は残りあと3レース。風が上がらないうちに、3レースできたら。第6レース、いい感じで走り、ボーダーラインの9位と少し差を広げる。第7レース、神は私の願いを聞き入れず風が上がってきた。スタート前、強風用にセットするように、セッティング個所を言うが、適当にしか動かしていない。よりスピードが出る3枚目のセールを、風が上がって来ているので、無理しないように指示した。これは、主にクルーが操作するので、ミスってしまうとひっくり返る危険がある。3枚目のセールを優しいところでは展開したが、それ以外はやめた。なんとかフィニッシュしたが、やはりコンビを組んでいるのがヨットにまだ10回も乗っていない子なので、成績は今一でボーダーラインが近づく。でも、最終レースを残すのみで、ひっくり返ってビリになっても、予選通過できそうです。という点数計算の元、冒険に出ました。最終第8レース前、風はさらに上がり、湖面全体に白波が立っています。予選通過は手中に収めたので、強風用のきちんとしたセッティングをすることにしました。私はコーチですが、自分の考えを選手に押し付けるのは嫌いです。自分自身、人から命令されるのが嫌いという事があるからでしょうが、「私はこう思うけど、それを採用するのは選手自身だよ」みたいなコーチングをします。別に従わなくても平気です。だって、いろんな目的でクラブに参加しているのだし、学生が本職だから息抜きとしてクラブに参加してる子に、勝利を言い過ぎるのはあかんやろ。これも人生、あれも人生という考え、コーチとしては失格なのだろうけど、ヨットを好きになってくれたら、それでいいかなみたいな考えです。でも最終レース、この風でクルーの技量を考えると、ビリフィニッシュに限りなく近い。クルーに、のどか湧いてないかな?何かちょっと食べる?なんて明るく声をかけるが、顔が死んでる。ヨット乗りはここを乗り越えなければならない。ここを経験しておけば、大抵の風は平気になる。「なんかあと1レースだけど、ヨットでは経験したことがないほど風が上がって、湖面を見ているだけで怖い」という心境なのだろう。よくわかる、私も高校生でヨットに乗りたての頃は何度も経験した。「生きて帰れるのだろうか」とも思ったことがある。艇長も彼女を落ち着かせようと声をかけているが、艇長自身、この風でこの子とのコンビでは心もとないと思っていると思う。「さらに風が上がってきたねえ、これはこのレース中、この風が吹きつづけるよ」と言って、覚悟を促す。「3枚目のセールは、要注意だよ。張らなくて遅くなっても、セールをあげた艇がひっくり返ったりするから大丈夫、その間に追い抜けるよ」前のレースを見て、他艇の技量が大体わかったので、かなり確信を持ってこう言った。「よっしゃ、強風スペシャルなセッティングをするよ」と言って、コーチボートをレース艇に横付けして、コントロールロープを指示どおり目の前で動かさせた。「よっしゃ、いい感じ。これで楽に走れて、スピードも上がるよ」普通は、レース本番にぶっつけで選手が体験した事のないセッティングをするのはよくない。レース結果は、7レースまでに出たので、練習のつもりで。スタートした。一斉に左に向かってスタートするレース艇団。2番目に右海面に方向転換。ずっと後から見ていたが、慣れないセッティングのせいか、ボートのバランスが今一、風によくあおられている。でも最初に右海面に方向転換した艇より、明らかに速い。やがて追い抜いた。「よっしゃ、ええ感じや」次方向転換した時、左海面に行った多くの艇とどのくらいの感じで交差するかが楽しみになる。ところが好事魔多し。次の方向転換で、クルーがミスって沈(ひっくり返る)してしまった。さらにまた沈。う~ん、1マークはビリ回航。沈して横倒しになって、起こすまで時間がかかり、トップ艇とははるかな差がついてしまった。2マークに向かっている間、1艇3枚目のセールを上げてトラブっている。1艇抜いて2マーク回航。ここでまた強いブローが入った。3枚目のセールをあげていた前の2艇がトラブル。おお~ラッキー。我が部は、3枚目をあげていないので平気。3マークで先行艇に追いついて4艇がほぼ同時に回航。ただ上手なトップ艇などは、はるかかなたには変わりない。勝負の2度目の風上に向かうレグ。何とか・・・と思ってみていると、セッティングが正解のようで、明らかに他艇とスピードが違う。みるみる同時に回った艇を離していく。次のマークで、はるか前だった1度もトラブっていない艇に追いついて抜く。同時に回った艇ははるか後。ところがまたクルーのミスでひっくり返ってしまった。またせっかく追い抜いた1艇に抜かれたが、そのままフィニッシュ。目出度し目出度し、全日本女子インカレ出場です。「ご苦労さん」と声をかけると、「めちゃ速かったです、走りながら絶対行けると思いました」なんて、白波の海面で笑顔。他から見ると、どんな度胸の据わった強い女が乗ってるのだろうと思われるなあ。艇庫に戻って、彼女達とレース運営に駆り出されていたOBさん達と話していると、3回生の艇長さんは、最終レース走りながら、クルーに声をかけていたそうです。「もうちょっとやから、がんばろね。全日本の権利取ったら、好きなものおごってあげるからね」「え、本とですか、じゃあ冷やしうどん」とクルーが答えて、さらに張り切り出したそうです。焼肉とか言われると思ったけど、冷やしうどんとは安上がりやと思ったそうです。この2日間で、クルーの1回生はとても上手になったそうです。「土曜日の第1レースと日曜日の第8レースでは、全然違いました」と、笑顔の艇長でした。
2005/07/12
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この土日、次男君ヨット部は九州福岡に遠征していました。毎年恒例の7大学定期戦。微風から軽風なら、琵琶湖でそのような風に慣れているから、かなりの確立で優勝だろうなと思っていたが、今年は強風シリーズになったようで、ダメだったらしい。今年も九州大学が優勝して8連覇か9連覇。昨年の北海道大会では、1日目海上ではリードしたのだけれど、陸上で応援していた部員にトラブルがあり、他校に迷惑をかけたということで、2日目は全艇リタイヤして、久々の優勝を逃してしまった。昨年は軽風で得意な風だっただけに残念だったが、まあ人生いろいろあります。先ほど次男から電話があり、「福岡でさあ、3台連なって走ってたら赤信号になり、3台目を走ってて、行けるかなあと思って行ったら、パトカーにサイレン鳴らされてもうてん。免許の住所が実家なので、警察から通知が来るからさあ、来たら内容教えて。前のもあって、講習に行かなあかんねん」「よっしゃわかった。あははは、まあ人生いろいろあるわな」と笑ってやった。こういう時は、怒らないようにしている。というか、小さい時から怒ったことはほとんどないのだけれど。まあ、パトカーに赤色灯とサイレンを鳴らされ、後部座席に神妙に座り、たっぷり絞られただろうから、親からもう言う必要はない。以前に一方通行でも止められたらしく、累積1ヶ月免停ってヤツのようです。講習を受ければ、1日だけ免停になるのかな?私は免停になったことがないのでわからないが、そんなとこでしょう。それにしても、車に乗り出したのが春、あまりに早くないかい?長男君も過去免停になったことがあり、兄弟揃ってアウトロー。人生勉強のため、たっぷり絞ってやってください。その後次男君、饒舌にレースの事をしゃべってくれました。
2005/07/11
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鈴木光司さんという作家さんがいます。「リングらせん」という映画の原作者、と書けばわかる方も多いでしょう。この方、海が好きで、ヨットとボートを持っています。「ヨットで小笠原往復できたら、アメリカまで行ける」と言われています。通常なら小笠原まで4日くらいかかりますが、小笠原で数日遊んで、往復半月をヨットで暮らせたら、その延長に太平洋横断があります。鈴木さんは、ヨットの雑誌に連載を持っていますが、どうやらヨットでの太平洋横断の夢を持っているようです。最初は小さな船を持っていたが、慣れるとともに段々大きな船に乗り換えて、今38フィート(大体12m)。この辺から上の大きさが、安全に太平洋横断できるヨットのサイズです。1人じゃ不安なので、友人をけしかけて小笠原往復にチャレンジしようと計画したそうです。ところが、映画リングのアメリカ版がアメリカで封切られるイベントで、どうしてもアメリカに行かないといけなくなりました。計画どおり進めば、本土に帰ってきた翌日に日本を発てばいいのですが、なんせヨットは風任せ天候任せの所があり、断念して瀬戸内海に行くことにしたそうです。瀬戸内海なら、台風が来ようと風がなかろうと、近くの港に避難して、陸に上がって飛行機で飛べばアメリカでのイベントに間に合います。これは昨秋の事で、案の定台風が来て、小笠原に向かっていれば怖い思いをいただろうと書いてありました。でもこの人リングの作者。怖いなんて書くとなんか変な感じがします。あなたの書いた本の方がよっぽど怖いよ。映画しか知りませんが、こんな作品を書きながら、よく夜中トイレに行けるなあと感心します。そして、小笠原往復に成功し、アメリカに向かってほしい。そして、あの霧を経験して欲しいな。もっと怖い本が書けること請け合いです。次のリングは、舵輪ですね。
2005/07/09
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昨日の日記の続きです。アメリカ西海岸の沖に、霧がよく出る場所があります。アメリカから日本へのヨット航海記を読んでいると、時々これに遭遇したことが書いてあります。大抵、岸を離れて数日で遭遇しています。真っ白い霧が近づいてきてそれに包まれる。あるいは、気づくと霧の中だった。視界がなくなり、風がほとんど吹いていないので、艇速は落ち不気味だそうです。そして、いきなりすぐ近くを難破船が通ったなんてのもあります。霧の中では、自艇の位置を知らせるためにフォグホーンを鳴らします。大晦日などで、港に停泊している船が鳴らす、なんとも郷愁をさそうあの音です。商船や本船の場合、レーダー監視しながら霧笛も鳴らします。レーダーが発達してから、大型船同士の衝突はなくなりましたが、十分に速度をおとします。小型船は、大型船とぶつかったらひとたまりもありません。だからこっちは必死です。大型船は急に止まれないし、針路変更も急には出来ないので、小型船が避けるしかありません。全神経を集中している中、難破船や幽霊船がぬっと現れます。当然避けてくれないし、霧笛もありません。視界がないので、突然いきなりすぐ近くに現れます。過度の緊張から幻覚を見るとか、いろいろな説がありますが、航海記で確かにあれは無人船だった、見間違いではないと書いてあるのがあります。もうUFOの世界です。危うく衝突しそうになった。という記述もあります。畑下さんの遭難は、何故マストが折れたのか?謎です。ひょっとして幽霊船にぶつかったのかも・・・なんか怖い話ですが、最後の時はそんな霧に包まれちゃって、その霧とともにずっと航海するというのもいいかも、何て思っています。誰かの航海記にそのようなことが書いてありました。何となく私もそう思うなあ。
2005/07/08
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畑下栄さんがお亡くなりになったようです。以前日記にも書きましたが、遠洋漁船に乗って世界の海で活躍して、引退後アメリカに奥さんと住んでいた。奥さんが亡くなり、晩年奥さんの口癖だった「生まれ故郷に帰りたい」を実行するために、全てを売り払いヨットを購入。ヨットの素人だったが、教えてもらいながら経験を積み、奥さんの遺骨と一緒にいざ日本へ。小笠原近海まで来て漁船と衝突して小笠原で修理、その後奥さんの故郷静岡に到着し、生まれ故郷のお墓に。あんな広い海で、どうして船同士が衝突するの?という感じですが、船内で眠っていたのかもしれません。シングルハンドやダブルハンドで外洋航海するヨットは、氷山や鯨との衝突を避けるために海水温の急激な変化を察知する機器や、レーダーを備えて、アラーム機能を装備している船もあります。でも、畑下さんはそれらを備えていなかったのかもしれないし、ご高齢なので疲れてというのかもしれないと思っていました。長年連れ添った夫婦が高齢になると、奥さんは段々外に興味が移り、旦那さんは奥さんとの事を大切にするようになると聞きます。畑下さんもそんな思いが募り、2人だけの航海を決意し、それを成し遂げてアメリカに帰る途中での不幸。確かに、マストが折れた畑下さんの船を見つけた漁船や、海上保安庁の職員さんには迷惑をかけたが、海の男としては最高の最後だったかもしれない。奥さんの願いを実現し、思い残すことはなかったのではないかなあ。多くの時間と生活の糧を与えてくれた海で・・・幸せを感じながら最後の時を迎えたのかもしれない。私には何故か、事故のように思えない。そして、かわいそうにという気持ちも湧いてこない。私のヨット部の先輩に、事業で成功して、引退後長崎ハウステンボスに、2軒別荘を買った方がおられました。その別荘は、家の前に桟橋があり、船を置いておける。2軒買ったのは、ゲストを招待するため。西宮にも船を持っており、私も乗せてもらったことがある。九州で愛艇の整備を1人でしている時に倒れて、そのまま帰らぬ人となられた。この方のヨット部散骨式が昨年西宮で行われ、大阪のホテルでパーティーも行われた。湿ったのがお嫌いだったので、にぎやかな明るい音楽がかかっていたそうだ。昨日まで元気で、一番愛した自分のヨットで・・・参列者も奥さんも、「おっさん、ええ人生やったなあ、最高の逝き方やなあ」と笑顔で笑いあっていたそうだ。動かない畑下さんを見つけた漁船の方も、現場に急行した海上保安庁の職員さんも、同じ海の男。畑下さんのいきさつは知っていただろうし、最期にむしろ羨ましく思った方もいるかもしれない。「神様が迎えにきた」そんな安らかな感じがする・・・いいなあ。お安らかに。ニュースを見て感じた・・・謎・・・何故マストが折れていたのでしょう・・・続きは明日書きます。
2005/07/07
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大学ヨット部の同期、共同通信のY君の記事が更新されました。面白かったので概要を紹介します。詳しくは共同通信社ウェブサイトのボールパーク便りをどうぞ。題名は、「100回目迎えた白夜ナイター」「ミッドナイト・サン・ゲーム」という歴史ある野球ゲームがあり、多数の通信社が取材に入ったらしい。場所は、アラスカ州フェアバンクス。シカゴ・サンタイムズ紙によると、北極圏まで300キロ足らず。ここで毎年、夏至の夜に試合が行われる。それが「ミッドナイト・サン・ゲーム」。毎年1試合だけ行われ、今年は夏至の6月21日から22日にかけてだった。真夜中になっても照明は必要ない。白夜の下で行われる「ミッドナイト・サン・ゲーム」は、照明を使わないナイターだそうだ。この試合は1906年に始まり、今年100回目。そんなこともあって、メディアの注目を集め、シカゴ・サンタイムズのほかにも、ニューヨーク・タイムズ紙の記者や大リーグの公式ホームページ「MLB.com」、スポーツ専門テレビ局「ESPN」などのインターネット記者が取材に訪れたらしい。球場の座席数は3500しかない。入場券は10ドル。入場者には100回目を記念したチケットとボールがプレゼントされる。開場は午後8時30分だが、駐車場は7時ごろにはほぼいっぱい。車のトランクやハッチバックを開けて、バーベキューをしたり、サンドイッチをほおばったりして、白夜を楽しみながら開場を待つ。午後9時までには、ほとんどの観客が球場に入って席につく。試合開始は6/21午後10時30分。試合は、地元のゴールドパナーズ対ネブラスカ州オマハから遠征してきたストライクゾーン。ゴールドパナーズとは「砂金採りの選鉱鍋(ゴールドパン)を振る人」という意味らしい。学生主体のノンプロチームで、アラスカ野球リーグに所属しているが、リーグ外のチームとも対戦する。今回の相手のオマハ・ストライクゾーンもその一つ。米国の大学野球部は、全米大学体育協会(NCAA)の規約により、活動期間が厳密に定められ、大学が夏休みに入ると、学生部員たちは大学の部活動を離れ、各地のノンプロリーグでプレーを続けるらしい。ゴールドパナーズの登録メンバーは30人で、内訳は軍人1・大学院生4・その他は大学生。南カリフォルニア大・ワシントン大・オレゴン州立大・スタンフォード大など西海岸の強豪校の部員や、ルイジアナ州立大・テキサス大・アラバマ大などアラスカから遠く離れた大学の部員もいて、選手のレベルは決して低くないらしい。アラスカリーグ今夏の日程は、6/10にシーズン開幕戦を行い、7/28の最終戦まで44試合を予定している。試合開始時間は大半が午後7時。午後10時30分という遅い試合開始は「ミッドナイト・サン・ゲーム」だけ。学生部員たちはアラスカで2ヶ月足らずの短いシーズンを終えるとまた、それぞれの大学に戻っていく。ゴールドパナーズは1960年から活動している。アラスカの夏を経験した大リーガーは180人以上。野球殿堂入りした選手もおり、現役では昨季レッドソックスを86年ぶりのワールドシリーズ制覇に導いた監督や、歴代3位の703本塁打を記録しているバリー・ボンズ、ヤンキースのジェーソン・ジアンビ、マリナーズのブレット・ブーンらもいる。さて今年の「ミッドナイト・サン・ゲーム」。6回表、オマハの攻撃中に午前0時になると、試合は中断され、セレモニーが始まった。地元の女性牧師がイヌイットの言葉で「アラスカ・フラッグ・ソング」を独唱。1986年に殿堂入りしたレッドソックスの元選手が「始球式」。そして、午前0時55分、オマハの最後の打者がアウトになり、試合終了。地元のゴールドパナーズが3-1で記念の試合を白星で飾った。試合途中で球場を出た観客はほとんどおらず、明るい夏の夜の野球を最後まで楽しんだそうだ。この記事を読んでいて、こんな試合を見たら一生の思い出になるだろうなと思った。夜中の1時に照明なしの野球を生で見ているなんて・・・選手の方もアクセントになったろうな。もちろん忘れられない試合になったろう。メキシカンリーグとかは聞いたことがあったけど、寒くて野球とは結びつかないアラスカリーグが100年の歴史を刻んでいるのにも驚いた。いろんなところで、メジャーリーグとは独立したリーグがアメリカを中心にあるのだろう。大学の野球部に入ったら、4年間はそのチームに所属し、1年中そのチームで野球をする日本とは随分違い、いろんなチームに所属するアメリカにも、なんか懐の深さを感じる。いろいろ考えさせられるものがあった。
2005/07/06
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日曜日は、また琵琶湖に行ってきました。この日は、練習後レスキューボートを泊めてから、次の仕事をしました。大きな方のレスキューボートは、いつも近くのハーバーに泊めているのですが、1艇づつの海上係留場所に鉄の頑丈な鉄柱が左右に立っています。この鉄柱の間を通って係留するのですが、ここはゆっくりゆっくりボートをコントロールしないと、ポールに艇が当ってしまいます。この係留場所は、細い通路を通って90度右に曲がって係留するので、かなり難しいです。ゆっくりでも、ボートの重量を考えると、当りそうだと思って手で止め様と思っても無理です。ほとんど止まってる状態で、最後は鉄柱についているロープを手で持って、人力で引っ張り入れます。ところが、風が強く波が出ている時など、どうしても鉄柱にぐ~っと当ってしまう時があります。その度に船が傷みます。船がかわいそうなので、その鉄柱にお風呂用のマットを巻く方がいいと思い、昼休みに、マットとロープ、それに蛍光イエローのスプレーペイントを買いに行きました。スプレーペイントの方は、くすんで見えにくくなってきたマークを復活させるためです。さて、ボートを泊め、鉄柱にバスマットを巻く作業ですが、思いのほか大変でした。しかし、今日に限ってボートに乗っていた次男君が、中々鋭いロープの巻き方をして、かなりしっかり巻く事が出来ました。彼は、小さな時から手先が器用で、ドライバーでおもちゃを分解してまた元に戻したり、細かいギアを変えてみたり、細かいことを苦にしません。本職の建築科のデザインや作品もかなりの出来栄えです。1本の鉄柱に巻いて、次はまた次の機会にしようかと提案しましたが、「どうせやから、一気にやってしまおう」と次男君。基本的に、細かいことをするのが好きやからなあ。1時間弱かけて、4人で雨の中マットを巻き、さて帰ろうと思ってハーバーを出ようとすると、シーホッパーという1人乗りのヨットらしきものの先だけが、川の土手からちょこっと見えています。「あれ、ホッパーちゃうん、捨ててあるんやったらタダでもらえるかもしれんで・・・」と言うと、次男君はすぐ見に行き、「ほんまや」と早速ハーバー事務所に相談に入っていきました。程なく出てくると、そのヨットの持ち主らしい業者さんの事務所に行き相談すると、お客さんのを預かって管理していたんだけど、もういらないそうで処分しようと思ってそこに放置していたそうです。「持って行ってくれるんやったら、ありがたいわ」ということで、交渉成立のようです。それに付随するマストやセール、細かい部品も捜してくれるそうで、後日次男君に連絡が入るそうです。なんとすごい拾い物をしてしまいました。雨の中作業をしたご褒美でしょうか?これが4~5艇あり、みんな整備して使えるようになれば、1回生の練習にもってこいです。ありがたい、ありがたい。ちょうど次男君がいて良かった。めぐり合わせと言うか・・・それにしても次男君の行動力には感心しました。以前はお兄ちゃんの影に隠れている子だったのに、入ったクラブで貴重な経験者として必要とされ、キャプテンなどという肩書きをもらって、積極的にそして能動的に行動しています。神様に、次男君にとって一番ふさわしい必要とされている職業や社会的な場所に、導かれているような感じを受けます。お兄ちゃんのようにもっと積極的になったらいいのになあ、なんて思ったこともありましたが、そんなことを言わなくても、ちゃんとそれなりの時期にそれなりのことが起こって、できるようになっていくんですね。親は、食生活や子供が羽ばたくベースになる勉強や運動・趣味の世界を適当に提供しているだけで、本人がそれを種々選択していくものなんだなあ。
2005/07/05
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「何があっても大丈夫/櫻井よしこ著」を読んでいます。女性ニュースキャスターの走りの方ですが、いつもキレイにしていて、興奮しすぎることもなく冷静で、でも自分をしっかり持ってる感じがあり、あの時間帯はよくあの番組を見ていました。最近は、日経新聞TVの同じような時間帯にしている女性ニュースキャスターさんかな?この方の、知的な笑顔がいいです。知的といえば、真鍋かおりという女優さんがいますが、あの方NHK教育TVに出ているからか、受け答えに知的な感じを受けます。何処から出てきたんだろう。何か感じる知的なものは何なのだろう?教育TVの番組中で専門家に聞く時、表面上じゃなくってほんとに知りたいって雰囲気があります。番組収録語も、いろいろ質問しているんじゃないかなと。櫻井さんの本は、その半生を書いていますが、兄弟や親との関係、つまり家族のことを掘り下げて書いています。その時々の自分の思いも書いてあり、自分と自分の家族との関係と照らし合わせながら、引き込まれるものがあります。親との関係、家内との関係、子供の親としての立場と見たら・・・読んでいて楽しい本です。本を読んで初めて知ったのですが、櫻井さんは相当な経験をされていますが、それを障壁と感じなく育てられた母親の力を感じます。母親のすばらしい言葉がかなり出てきますが、このように声をかけてもらった櫻井さんの幸せを感じ、母親を今でもこのように慕える幸せも感じます。人には失敗や苦労は当たり前のようにやってきます。そのとき、支えて励まして、またそれを大した事ではないように思える心にしてくれる人が、周りにいるのといないのとでは、雲泥の差が出るように思います。「そんなことでどうするの・・・がんばりなさい」と言うんじゃなくって、「大丈夫、何があっても大丈夫よ」と言ってくれる人が、たった1人だけいればそれでいいのかなと思います。甘えているんじゃありません、誰でも問題解決は自分でしないといけませんし、解決しようとがんばります。でもすぐには出来ないし、さらに失敗する事だってあります。その結果を見て、「何で出来ないの」「こうすればいいでしょう」・・・ではなくって、「あなたならきっとできるよ」とあせらず見守る姿勢が、苦しんでいる本人の力になるのではないかなと思います。私も家族に対して、そのような存在であり続けたいなと思いました。中々の秀作です。
2005/07/04
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かなにゃんさんから、ミュージックバトンというものが届きました。ああ、日記に書いておられたものだなあ、とはわかったのですが、果たしてどうしたものか?まあ考えてもしょうがないので、かなにゃんさんの日記に書いてあった同じ質問に答えたらいいんだよな・・・全くシステムがわかっていないが、これで行きます。ちょうど日記のネタになるのでいいかな程度ですので、期待度ゼロです。といっても、最近は車でもニュース聞いてるくらいだから音楽関係は全くダメなんですね。だからかなりナツメロになってしまいそうです。Q. Total volume of music files on my computer(コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)最近は、何とかというファイル交換ソフトによって、著作権が・・・なんて話題になっていますね。カセットテープタイプのウォークマンは持っていますが、それ以降進化していません。数年前息子君が、なんかペンダントみたいなものを首からぶら下げていたので、なんじゃそりゃと聞いてみると、なんとCDからミニディスクに進化したウォークマンとのこと・・・隔世の感であります。4月次男君のクラブの新人勧誘を手伝い艇庫にいると、音楽をかけようということで、次男がソニーのかっこいいPCを・・・すると音楽が流れてきました。まるでテープレコーダーのような感覚で、ずっといい音・・・すごいなあと近くにいた部員に聞くと、このPC息子さんのですよとのこと。へえ、こんなPC買ったんだ。前置きが長くなりましたが、私のPC内にはゼロです。ちなみに、デスクトップPCのスピーカーをはずしているし、ノートPCの音量は下げています。Q.Song playing right now (今聞いている曲)いつも聞いている曲はありませんが、現在車にセットされているのは、ピザーラの社長さんから数年前にもらった「Asano Selection」。中南米の音楽のお気に入りを集めてCD作ったんだって。多分何処にも売ってないのだと思います。収録されている題名は、書いてあったけど覚える気がなく全くわかりません。ボサノバのけだるい感じが気に入って、時々聞いています。浅野さんとはヨット関係の知り合いで、中国に一緒に行った時(といっても向こうはVIPルームに泊まってたけど)、「のりまきさん、私のCDあげたっけ?」「いいえ」「あっそう、じゃあ帰ったら送るね」はっきり言って、歌もうまくないだろう浅野さんの歌声を聞いてもなあと思っていたが、きちんとしたジャケットのCDが送られてきて、とてもいい感じの曲でした。ひょっとしたら中国じゃなくって、別の機会に送ってもらったのかもしれません。もちろん浅野さんの歌声はなしです。ちなみに、自分の自伝みたいな本を出されたときも、会社に行くと山と積んであり、「これ読んだ?」「いいえ」「じゃあ1冊あげる、読んでね」帰りの新幹線の中で読みました。Q.The last CD I bought (最後に買ったCD)買ったCDは残念ながらありません。レコードはいっぱい持っていますが、当然みんな大昔に買ったものです。最近本にCDがついていますが、それを長男君のプレーヤーでカセットテープにコピーして車で聞く事はあります。この解答はあまりに味気ないので、生まれて初めて中学生時代に買ったLPレコードは、レッドツェッペリン、次に買ったのがビバルディの四季です。四季にはかなりはまりまして、展覧会の絵などクラシックを大分聞きました。当然友人からは、音楽の話題でかなり浮いてしまいました。では最後は何だったかなあ?思い出せませんが、松田聖子かもしれません。これは、息子達がまだ小さかった時、長男が1才の時スキーで車山高原のコットンキャンディーというペンションに泊まりました。ここは、私の中学から大学までの保証人になって頂いていた、親父の親友の方の弟さんがその年にオープンされました。以前から存じ上げていた方で、案内が来たこともあり早速予約して出かけました。長男を抱っこして家内と3人で、初めての家族スキーでしたが、寒くて長男が泣き出してしまい、こりゃあかんわということで、ペンションの前で雪遊びをしたりしていました。次のお盆も再びお世話になりました。夏の車山高原は、すばらしい景色で、キレイな朝日で起き、高原に出るとさわやかな風が気持ちよく・・・ちょうどそのとき、ペンションでは松田聖子がかかっていました。「赤いスイートピー」が心地よく身体に入ってきました。そして購入。Q.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me(よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)・ヴィバルディ四季/ウイーンフィル・ひこうき雲/荒井由実小学生までの紅白歌合戦から、中学に入り、レッドツェッペリン・ディープパープルというハードロックに嗜好が移行しました。同時にクラシックも聞くようになり、大音量の速いテンポの曲より、クラシックのキレイな音色のゆっくりな方がよくなりました。FM放送が始まり、創世記のNHKFMは、曲名を紹介して、言葉も何も入らずLPレコードの片面45分ずっと掛けっぱなしという感じでした。お気に入りのバロックの夕べという番組をエアチェックして、カセットに取って聞いていました。大学に入った頃だっただろうか?友人に薦められてこの曲を聞きました。当時の私には衝撃的でした。日本の歌といったら歌謡曲・演歌・フォーク・グループサウンズしか知らなかったのに、まるで絵を歌詞で表現しているような感じ、素直な歌い方、深くドロドロとした演歌ではなく、何かを訴えるフォークでもなく、私を揺さぶった曲のベストはこれです。・賛美歌頌栄541番 ちちみこみたまの・・・中学からプロテスタント系の学校に10年間お世話になったので、この曲は何度歌っただろう。私はキリスト教とは縁があるようで、甲子園に住んでいた幼少の頃は、カソリック教会に母親に連れられて毎日曜日通っていました。小学校の時は、時々日曜学校というキリスト教会での子供向けの礼拝とその後のお遊びに時々参加していました。なんか教会のあの凛とした何となく静かにしないといけない、少し涼しい感じ。カソリック教会ではキリストを抱いたマリア様の像や十字架を背負うキリストさんの像に温かさを感じる。あの雰囲気が好きです。賛美歌は中学時代毎日の礼拝で歌い、その一番のお気に入りがこれです。面白くもなんともない歌詞ですが、何故か好きです。その後の聖書、それに続く先生やゲストの方の話、全てのセットが私の中ではこの賛美歌に集約されているように感じます。ゲストや先生の話が面白くない時は、聖書をずっと読んでいました。特に旧約聖書は、教えではなく物語なので、わくわくする個所もあり、その情景を頭に描きながら読みました。旧約・新約聖書1冊全部読んだのは、我ながらすごいと思っています。今でもホテルの部屋で1人のとき、引出しを開けて聖書を捜し、ベッドにごろっとしながら読みます。・ヴォサノバの題名不明/アサノコレクション・避暑地の出来事/荒井由実この題名だったと思いますが、あまり自信がありません。家内と初めて2人だけで旅行をしました。大学4回生の時、当時スキーバスを出す会社を経営していました。経営とは大げさですが、当時学生がパンフレットを作ってスキーバスツアーをやり始めた頃でした。2人で共同経営しました。旅行社・ペンション・旅館・ホテル・バス会社・・・そしてイラストの学部に通っている子も仲間に入れてパンフレットを作り、近隣の大学の正門前でパンフレットを配っていました。兵庫・大阪・京都、特に女子大で配りました。バスツアーでは、スタッフとしてお金の計算をしながら、マイクを持ち参加者を楽しませ、雪上運動会・夜のパーティー・ダンスパーティー、もちろんスキーのインストラクターもしました。かなり儲かりました。資格試験の関係で知り合った家内と一緒に行きたかったのですが、ツアーなのに親父さんが許してくれません。家内は箱入り娘でしたので、仕方なく私が親父さんを説得に行きました。やっとOKをもらって、家内が参加してくれましたが、スタッフをしていれば、他の方のこともあり・・・そこで、その再びパンフを持って親父さんに・・・ここに行きますと言って、実は別の白馬乗鞍のホテルに2人だけで行きました。私達が参加していることになってるツアーのスタッフ、その他もろもろに協力を依頼し、想い出に残る旅行になりました。最後の日、タクシーでホテルから駅に降り、高原の小さな駅で電車を待つ間・・・心地よい風が吹き抜け、遠くの山を見ながら楽しかった数日間を振り返りました。そのときの気持ちは、この曲そのものでした。----これで質問に全部答えたわけですが、かなにゃんさんからバトンを渡されて、どうせ大したことは書けないなと思って書き始めましたが、結構かけました。というより、私の中のキレイな思い出に再び会えることが出来ました。さて次の方にバトンを渡すのでしょうが・・・これをお読みになった全ての方に・・・ここにバトンを置いておきます。ご自由にお取りください。ということにしておきます。かなにゃんさん、ありがとう。楽しませていただきました。
2005/07/02
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かなり前に入梅したのに、梅雨らしい雨が降りませんでした。一昨日も雨が降ったが、昼間サーっと暗くなって、ザーと降って来た。まるで夏の日の夕立。このまま夏になってしまうのかなあ・・・と思っていたら、今日は、何となくしとしと、カミナリも鳴ったが、まあ梅雨の末期の感じはあった。毎朝夕、近所の紫陽花小道と書いた手書きの看板の横を通るが、雨が降らなくってかわいそうだった。これでちょっとそれらしくなったかな?とも思うが、どうも時既に遅しの感がある。わが家の庭のも、どうもなあと言う感じになっている。梅雨らしい年は、何故か家人がその花の上にカサをさしている。どういう意味があるのかよくわからないが・・・あれは日よけだったのかなあ?いずれにしてもまだ雨は足りない。あと1週間くらいは雨でいいよ。
2005/07/01
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