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今年(令和元年)の5月31日、「ある目的」のために私たちは伊豆半島の最南端にある「石廊崎(いろうざき)」に向かった。(静岡県賀茂郡南伊豆町)その際に映した景観が冒頭画像である。その「ある目的」とは、とある能力者の意向を代行するかたちで・・・近々M8~9クラスの大地震が太平洋側に起きる可能性があるので、その大難を小難に方向づけるための「行為」をすること・・・であった。そして伊豆半島南端での私たちの「行為」は、分かる人には解る「型」を自然界から見せられるかたちで、5月31日の15時丁度に終えたのであった。(これまでの経緯は、今後の日記で綴っていく予定だ。)正直なところ当初は、今回の「行為」により上記の「ある目的」が達成されるという感覚は無かったのだが、あろうことか6月18日の22時22分頃に「山形県沖」を震源地とする「最大震度6強(M6.8)」の強い地震が起きたことを、地震発生の直後に知ることに・・・。この地震報道をテレビニュースで見た瞬間、ほんの少しだが私の脳裏をかすめたのは・・・今回の「ある目的」に沿った「行為」により、もしかすると太平洋側で起きる可能性のあったM8~9クラスの大地震は回避されたのではないか・・・ということであった。そして、その震度6強の地震が起きた場所(新潟県村上市)を地図上で確認した際に、ふと・・・この地震は「関東の南北軸(※)」と関係しているのでは・・・との想いが浮かぶのであった。(※)関連記事・・・関東の南北軸(2005年7月26日の日記 )この「関東の南北軸」とは、かつて私が東京に住んでいた時に見出せた軸線のことで、大きく捉えれば「北」と想定した日光の「男体山」と、「南」と想定した鎌倉の「江の島」を結んだ軸線というわけだが、今回の村上市で観測された震度6強の地点を地図上で確認すると、この南北軸をほぼ真北に伸ばした位置に相当していたことに気づき驚いた。そしてさらに驚いたのは、その言わば「本州」を南北に貫く軸線は、栃木県日光市にある標高2,486mの「男体山」を中心とすること・・・つまり、軸線の中心たる「男体山」と南方の「江の島」を結ぶ軸線が示す距離と、同じく「男体山」と北方の「震度6強の地点(村上市)」を結ぶ軸線が示す距離が、ほぼ同じと分かったことで、それと同時に・・・南方の太平洋側に溜まっていた地震のエネルギーは、北方の日本海側に抜けたのではないか・・・と感じたことを憶えている。しかし、この5月31日の「行為」と、その後の6月18日の地震との関連付けについては、やはり牽強付会の誹りを免れないと思われたので、上記内容の公開は控えようと考えていたのだが・・・※6月24日の9時11分頃に「千葉県南東沖」を震源地とする「最大震度4(M5.5)」の地震発生。(※6月24日の11時54分頃に「インドネシア付近」を震源地とする「M7.5」の地震発生。)※6月24日の19時22分頃に「伊豆半島東方沖」を震源地とする「最大震度4(M4.1)」の地震発生。・・・と、昨日中に地震が連続して起きたことにより、私としては「大難を小難に・・・」の祈りが天に届いたのではないかと感じ、記事にしたためた次第である。
2019年06月25日

先々月の4月28日(日)、佐賀県佐賀市のエスプラッツホールで開催された〔佐賀城下 Jazz Festival 2019〕の幕開けを飾る「 櫻井哲夫 & 川口千里 スーパーデュオ 」を聴きに行った。☆関連記事・・・光り輝くプロドラマー”千里ちゃん”かつて「カシオペア」という日本を代表するフュージョンバンドに所属し、現在も第一線で活躍するベーシスト「櫻井哲夫」が、若手女性ドラマー「川口千里」と組んで演奏する本格的なデュオは、今回のジャズフェスティバルでの披露が初めてということであった。私としても・・・この二人が叩き出す最先端の「超絶技巧リズム」は、どうしても聞き逃すことができない・・・ということで、コンサートの前日に山口から佐賀へ乗り込むことに…。そこで冒頭の画像は、そのスーパーデュオが始まる直前の舞台を映したものだ。そして、まるで親子のように息の合った二人の演奏が始まり、集った多くの観客を魅了したわけだが、そのライブの雰囲気を少しでも伝えられたらということで、まず以下に(1)の動画をリンクした。次に(2)の音源は、かつて二人が参加した音楽グループで、デュオを披露した際のものである。(1)千里ちゃんのドラムソロの映像〔佐賀城下 Jazz Festival 2019〕…櫻井哲夫 & 川口千里 スーパーデュオ…より (2) 【IKEBE channel】櫻井哲夫 & 川口千里 リズム・セクション・セミナー ◎櫻井哲夫 Tetsuo Sakurai (Bs.) 川口千里 Senri Kawaguchi (Dr.)加えて以下にリンクした動画は、印象に残る千里ちゃんのドラミングの数々だ。※楽曲「Erotic Cakes」のライブ映像「ガスリーゴーヴァン・ジャパンツアー」in福岡(2015年12月) ※Something Like This (Kozo Suganuma) drum cover by SENRI (2010年の公開で千里ちゃんが中学校時代の演奏)※川口千里 ドラムソロCraftsman Drum-Off 2015 菅沼孝三 ”魂の道場” 川口千里 Part2※楽曲「Luna Sol(月と太陽)」のライブ映像 Feb.9th 2017 Piano-高木里代子 Drums-川口千里 Bass-塩田哲嗣さてここで、来月の7月中に開催予定の「川口千里」が出演するライブツアーを紹介しておこう。ウェザーリポートの伝説的ベーシスト、アルフォンソ・ジョンソンが、世界で活躍する日本人女性ドラマー・川口千里をフィーチャーするジャパンツアーが、国内の各所で開催される。そこで下のリンクは、7月9日に福岡で開催されるライブチケットの案内だ。何を隠そう・・・この情報を知った私はすぐにチケットを入手し、もう今からワクワクしているところである。◎アルフォンソ・ジョンソン ジャパンツアー feat 川口千里 メンバー:Alphonso Johnson(EB) Frank Ricci(EG) Gary Fukushima(Key) Senri Kawaguchi(Dr)ところで、佐賀でのコンサート会場が公共の文化施設内ということもあり、会場に向かう道中には佐賀県を代表する様々な情報が掲示してあった。そこで、とりわけ私の目を引いたのは、上掲の明治の元勲「大隈重信」を紹介した画像であった。前回の日記で取り上げた「山縣有朋」を大隈の政敵とする記述は多く、あたかもそれを象徴するかのように、山縣が本宅の「椿山荘」を建設する際、大隈の住まう「早稲田」を見下ろす高台の「目白台」にしたという噂もあり・・・。何はともあれ、スーパー”女子大生”ドラマーと謳われた「川口千里」は、学生生活を送った早稲田大学を今年3月に卒業したばかりであり、おそらくプロドラマーとして独立した初仕事の場所が、奇しくも彼女の母校の創設者であり初代総長の大隈重信の誕生地であったということである。ちなみに、今回のドラム&ベースからなるデュオの、もう一人のベース奏者「櫻井哲夫」は慶応大学出身なので、言わば「早慶のエリートコンビ」が叩き出す知性あふれるパフォーマンスに、会場の観客は酔いしれたというわけだ。そこで興味深いのは、かの大隈が早稲田大学を創設するキッカケとなったと伝わる以下のエピソードだ。・政治家嫌いの福沢諭吉とは、たびたび雑誌での論戦に暮れていた。福沢は大隈のことを「生意気な政治家」と、大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と言ってお互いに会うことを避けていた。そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人たちに内緒で酒宴の席を設けた。いったいどうなるかと周囲は面白がっていたが、直接相対した両者は酒が通ると意気投合し、大隈が「福澤先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福澤が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられて、早稲田大学を作ったという。(以上、Wikipediaより抜粋)図らずも・・・と言うべきか、前回の日記の流れから今回の記述も、明治維新を推進した薩長土肥の「長州藩(山口県)」と「肥前藩(佐賀県)」に纏わる明治政府の主要人物を絡めた文脈となった。最後の画像は、今回の佐賀市で開催された Jazz Festival の名目に掲げられた「佐賀城」の入口に現存する「鯱の門」を撮影したものだ。城内には、かつてあった本丸御殿の一部を復元した県立の「佐賀城本丸歴史館」があった。当館は、日本で初めて本丸御殿を復元し、約2,500平方メートルの規模を誇るとのことで、威風堂々とした貫禄が漂っていた。館内では「幕末維新期の佐賀」をテーマに、佐賀城の復元や幕末維新期を先導した佐賀藩の科学技術、佐賀が輩出した偉人について詳しく紹介され、加えてボランティアの解説も丁寧で分かりやすかった。歴史の現場にて往時の「肥前藩」が備えていた優れた実力を垣間見つつ、「 櫻井哲夫 & 川口千里 スーパーデュオ 」の素晴らしい演奏(言葉を超えた二人の語らい)の余韻を胸に帰路についたのであった。
2019年06月19日

「令和」の元号を聞いた四月中旬だったと思う…山口県萩市にある明治の元老 山縣有朋(やまがたありとも)公の誕生地を訪ねた。実は「宮中某重大事件」といって元老の山縣らが深く関わり、結果として山縣の権威は大きく失墜したとされる事件があるのだが、この事件の真相が詳しく書かれた記事を、たまたま当日の朝に読んだことが、当地を訪ねる契機となったのであった。そこで冒頭の画像は、その「山縣有朋誕生地」の全体を撮影したものである。上の画像は当地の中央に座す石碑を映したものだ。そこで公と同郷の者として印象に残るのは、明治維新に至る直前に起きた長州藩の内乱「大田・絵堂の戦い」であった。分かりやすく言えば、長州藩の政府軍(侍の隊)と諸隊(下級武士や農民の隊)が戦い、庶民が武士に勝利した内乱というわけだが、この戦闘において奇兵隊(諸隊)の軍監として陣頭指揮を執り勝利に貢献したのが山縣有朋であった。この内乱の勝利が長州藩藩論を倒幕へと決定づけ、後の明治維新に向けての原動力となっていった。この上の画像は当地に掲げてあった公の紹介、そして下の画像は石碑の左下にあった公の邸宅「椿山荘」(現在の東京都文京区関口にある「ホテル椿山荘東京」の前身)との縁が記された解説を、それぞれ映したものだ。1878年(明治11年)、東京目白台にあって昔から椿が自生し「つばきやま」と呼ばれていた景勝地を購入した山縣有朋は、敷地内に自分の屋敷として建てた邸宅を「椿山荘」と命名した。おそらく、その命名の背景には、公の生誕地の近くの「椿」(萩市)という地域に「椿八幡宮」が鎮座し、萩城の鬼門を護る「笠山」の椿群生林では、約10haの敷地に約25,000本のヤブ椿が自生しており、また萩市の地名の由来として「ツバキ」が詰まって「ハギ」になったとの説があることから、故郷の「萩」を重ねていたのではあるまいか・・・。ちなみに、下の画像の解説版に書かれた東京の「椿山荘」から移植された「寄贈 ヤブ椿1本」とは、冒頭画像に映る看板の左奥に見える樹木である。そして五月の末に私は東京に行くことになるのだが、この「山縣有朋誕生地」を訪れた時点では、上記の「ホテル椿山荘東京」に長時間の滞在が許されることになろうとは思いもよらなかった。当地を巡りつつ往時を偲んだ後、石碑の下からフト天空を見上げると、下の画像のように大きな日輪が出ており、今も変わらぬ情報操作により貶められた山縣有朋公の「権威の復権」を象徴しているかのように感じられた。
2019年06月15日
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