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今季アカデミー賞レースにも加わっている映画『ジョジョ・ラビット』を観てきましたので、心覚えをつけておきましょう。以下、ネタバレ注意ということで。 時代は第二次世界大戦下のドイツ。10歳の少年ジョジョは、心優しい母親っ子。彼の家は、父親が兵隊に取られ、ちょっと年の離れた姉インゲは亡くなり、今の所母一人子一人状態。そんな寂しさもあってか、今の彼はすっかりヒトラー信奉者となり、ユーゲント(ドイツ少年兵)として活躍したいと頑張っている。 とはいえ、心意気だけはあるものの、本当は虫一匹殺せないような優しい子ですから、ユーゲントの訓練も彼には難しいことばかりで、落ちこぼれ、仲間から弱虫呼ばわりされている。 そんなある日、ジョジョは死んだ姉の部屋の壁の向こうに人の気配を感じるんですな。で、勇気を出して調べてみたら、なんとその隠し部屋に姉と同い年くらいのエルサが潜んでいた。実はジョジョの両親は反ナチスの活動家で、父親は国外で活動中、母親は自宅にユダヤ人の少女を匿っていたんですな。 秘密を知ったジョジョは、ヒトラー信奉者として、ユダヤ人に対する偏見を植えつけられていますから、エルサのことを通報しようとするのですが、エルサから「もしそんなことをしたら、お前もお前の母親も死刑だ」と脅され、口をつぐむしかなくなってしまう。 それでも、少しでもヒトラーの役に立とうと、ユダヤ人を見分ける方法を案出すべく、エルサからユダヤ人のことを聞き出そうとし、彼女と話をするようになる。と、そのうち、ジョジョの心にも年上のエルサに対する恋心が芽生え・・・。 で、そうこうするうち、ドイツ軍は劣勢になり、連合軍が迫ってくる。その一方、ドイツ国内の裏切り者探しも厳しくなってきて、反ナチスのジョジョの母親にも魔の手が。 この危機的状況の中、ジョジョとエルサの運命は・・・ ってなお話し。 筋書きからすると結構、厳しい話なんですが、それを厳しく描くというより、ユーモアを交えて描いているところもあって、なかなか趣のある小品でした。母親役のスカーレット・ジョハンセンがなかなかの名演で、ますますヒトラー信奉に傾いて行く10歳の息子を少しもてあましながら、それでも愛情深く育てている様子が、とってもいいのよ。それからジョジョと親友のヨーキーの可愛らしい友情とか、憎むべきユダヤ人と知りながら年上の若く美しい女に惹かれていくジョジョの心情、そしてユーゲントでのジョジョの司令官である退役軍人のクレッツェンドルフ大尉の行動とか、色々見どころもある。 全体として、そこまでの傑作とは言いませんが、一見の価値はあり。教授のおすすめ! と言っておきましょう。これこれ! ↓『ジョジョ・ラビット』
January 31, 2020
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新型コロナ・ウイルスの流行で、マスクがバカ売れしているそうですが・・・マスクさえしていれば自衛できる的な風潮になってない? もちろん、既にウイルスに罹患している人が、他人に迷惑をかけないようにマスクするのは効果的ですよ。だけど、空中に浮かんでいるウイルスをマスクで防御、なんてできるわけないじゃん。花粉じゃあるまいし、ほとんど素通りでしょ。テニスのネットで飛んでくるビー玉を防ごうとするようなもんで。 なのに、TVでは「マスクが飛ぶように売れています」とか「バスの運転手さんにマスクが配布されました」などと報道していて、「そんなことしても無駄です」とは報道しないんだよなあ。あれ、意図的だよね。 おそらく、「マスクさえすれば大丈夫」的な風潮をそのままにして、庶民のパニックを防ごうと思っているのだろうけれども。まあ、そう考えると、インチキな報道をすることにも大きな意味があるのか。 それはともかく。 小野寺S一貴という人が書いてちょっと前に話題になった『妻に龍が付きまして・・・』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、まあ・・・神道系自己啓発本かな。 著者に言わせると本書に書いてあることはすべて実話だそうですけど、小野寺さんの奥さん(本書中では「ワカ」さん)は子どもの頃から霊感が強かったようで、今ではワカさんについている龍神と会話ができるようになっているらしいんですな。で、ワカさんは自分の守護霊的な龍神に「ガガ」(ガーガーうるさいので)という名前をつけていて、しょっちゅう会話をしている。ちなみに龍神ガガは名古屋弁なんですけどね。で、ワカさんを仲立ち・・・っていうか、いわば通訳にして、小野寺さん(本書中では「タカ」)もガガと会話をするようになり、ガガから色々教わったと。で、その龍神ガガの教えを綴ったのが本書なわけ。 ま、この時点で良識ある人は立ち去るわけだよね。たまたまワタクシにはその良識がないもんで、さらに読み進めてしまうわけですが。 で、龍神に直接指導される形で、例えば神社での正しいお参りの仕方とかも学べると。 で、その正しいお参りの仕方ってのは、要するに、例えば何かお願いがあって上司の家を訪問する時の心構えと同じなわけよ。 例えば人に頼み事をしにいくのに、ジャージ・サンダル履きではいかないわけでしょ。しかるべき恰好をして、身なりを整え、気持ちもシャキっとさせて、心構えをしていくわけで。それと同じことを神社にお参りする時をしろと。もちろん、神社の場合であれば、お参りする前に水で手・口を清めたりなんかして。 で、何かをお願いにあがるわけだから、神様に対してもまず自分の名前を声を出して名乗り、どういうお願いであるかをちゃんと声に出して言うと。二礼・二拍手・一礼、みたいな形式的なことより、そういうことの方が重要であると。 あと、お賽銭だって、あれは気持ちだから。「ご縁があるように」とか言って5円玉を賽銭箱に放り込むとか、そういうのではなくて、自分の願い事の大きさに合わせた気持ちをお賽銭に託すとなれば、しかるべき額になるだろうと。当たり前のことですよね。 あと、私がなるほどと思ったのは、神様にお願いする時は、媚びていいらしいです。つまり、神様だって可愛い奴を助けたいと思うわけだから、神様に可愛い奴と思われるような頼み方をする方がいい。要するに、礼儀正しく、かつ、甘えるわけですな。 ところで、本書の主役たる龍神ですが、ガガさんによると、龍神ってのは「神」とついているけれども、神様ではないんですってね。眷属、すなわち神の使いなので、言ってみれば狛犬とか稲荷の狐とかと同格。だけど、人間は龍のことを犬・キツネ以上の存在と見なす傾向があるので、眷属界における龍神の立ち位置はかなり上。だから、龍神は人間が好きなんですな。特に日本人が。 で、龍神ってのは、数が多くて(知らんわ)、幾千万憶位いる。うじゃうじゃいるんですって。で、その龍神は好みの人間にくっつくらしいんですな。で、その人間の行いが良くなると、ついている龍神の位も上がり、うまくすると本当の神様になれる。で、龍が神様になった状態が「鳳凰」なんですと(なるほど、爬虫類が進化して鳥類になるわけか)。だから龍神は好みの人間を探しては指導し、その人間の成長に伴って自らも鳳凰への出世を目指す。その意味で、龍神と人間の関係はウィンウィンであると。 はあ~。そうだったの~! ちなみに、龍神は前記の通り、うじゃうじゃいるんですけど、やっぱり龍だけに水辺は好きらしい。あと、龍神は結びの神様ククリヒメと仲がいいらしいです。だから、ククリヒメを祭っている全国各地の白山神社、あそこには結構沢山、龍神が遊びに来ているらしいです。 それから、龍神的観点からすると、宗教上の差ってのにはあまり興味がないようで、ただ人間が自分より大いなるものに頼りつつ、自ら努力して成長しようとする姿勢、つまり「信仰」があるかないかを見るんですって。「宗教」ではなく「信仰」ね。ただ、龍神は、人が喜ぶことを楽しむ傾向があるので、ガチの仏教徒とは気が合わないと。あの人らはマゾ的な修行とかするので、どうも面白くないと。 そう、龍神は人間の喜び、笑いを重視する。例えば仕事をするにも、好きでもない仕事を嫌々しているような人は、そのことが仕事中に顔や態度に出るわけですな。で、そういうのを龍神はまったく好まないんですと。どんな仕事であれ一生懸命打ち込んで、働くことを楽しいと感じながら働いているような人が好きで、そういう人を応援したくなると。 あ、あと、龍神が人間の願いのどこを見るか、というのも結構面白かった。 例えば神社とか行って「どうか宝くじで1億円当たりますように」とか祈る人がいる。だけど、その人の願いというのは、おそらく1億円という金の山ではない、というのですな。で、「じゃあなぜ1億円欲しいのか」と問うと、「世界一周したいから」と答える。さらに「ではなぜ世界一周したいのか?」と問うと、「色々な場所で色々な人に出会えるから」と答える。で、「ではなぜ色々な人に出会いたいのか」と尋ねると、「今、友達がいないから」と答える。 つまり、この人の本当の願いってのは、「1億円」ではなく「真の友達」だったと。で、龍神は、その人の本当の願いの方を実現させることに力を貸すんですと。 は、はーーん。なるほどね。「なぜそれがしたいのか」という問を繰り返すことによって、自分の本当の願いを突き止めることが出来るわけですな。で、龍神に頼みごとをするとするならば、その本当の願いについて助力を頼めと。納得。 とまあ、そんな感じで、この龍神ガガさん、なかなかいいこと言ってます。そして、ガガさんの言うことを聞いていると、なんていうの、龍神への甘え方、なんてのも分かってくる。で、龍神に甘えるようなことをすると、それは結局、楽しい人生に足を踏み出すことと同じだ、ということも。 というわけで、ベストセラーになるだけあって、なかなか面白い観点の自己啓発本だなあと感服した次第。私的には、結構アリかな。これこれ! ↓妻に龍が付きまして・・・ 【中古】 ちなみに、我が家の近くにも白山神社があるのよね、ククリヒメを祭っている。ということは、そのあたりに龍神さんたちもたむろしている可能性大。 もう、本書を読んで龍神への媚の売り方も心得たし、そろそろワタクシも龍神ひと柱、味方につけて、昇る龍のごとき活躍を始めちゃいましょうかね!
January 30, 2020
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仕事の合間合間に、気分転換というか、SNSとかチラ見したりするんですけど、最近のお気に入りがコレ。これこれ! ↓古民家ひとり暮らし ま、どういう素性の人かは知りませんけど、フリーのウェブデザイナーさんなのかな? だから、会社とかに出勤しなくてもいいので、基本、パソコンとネットがあればどこにいてもいいという。 そういう仕事環境の中で、この人はどうやら西伊豆の古民家を借り、ひとり暮らしを始められたと。 で、その日常をネットに上げて、YouTuber 的なこともやられているわけですけれども、これがね、すごくいいのよ。 何がいいかと言いますと、男のひとり暮らしといいながら、実にきちんと暮らされているというところね。とくに食事とか、本当にきっちり、栄養バランスのとれたものを作って食べられていて、片づけもきちんとして、その生活ぶりのなんとすがすがしいことか。一種の修行のようでもあるのだけれども、それを楽しくやられているところがまたいいんだなあ。 こういうのを見ちゃうと、「ワシも西伊豆で古民家ひとり暮らししたい!」ってなるよ、絶対。 プラス、なんつーの? 人が生きるということは、こういう風に、日々の暮らしを大切にするっていうことなんだよなあ・・・と、哲学的なサトリまで啓かれるというね。 将来的にワタクシも、俗世間から離れて、ネットでこなせる仕事に就いて、余生の一日、一日を大切にしながら暮らしてみたいものだなと。ま、そんなことを思いながら、このサイトの今後の進展を楽しみにしているワタクシなのでありました、とさ。
January 29, 2020
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こんな面白そうな本を見つけちゃった!これこれ! ↓馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください [ 藤森かよこ ] アマゾンとか見ると、レビューの数が半端ない。出版後わずかひと月にして既に重版出来となったようで、売れているみたいですなあ、うらやましい。 ちなみに、著者の藤森かよこ先生、私はよく存じ上げております。 本のタイトルを見ると、まるで藤森先生が馬鹿でブスで貧乏みたいに見えますけど、とんでもない。今から四半世紀ほど以前のことですが、初めて先生にお会いした時、「え? かとうかずこ?」と思いましたもん。そのくらい、お美しい方。 ま、それはともかく、藤森先生ってのは、えらく威勢のいい方でね。エネルギッシュというか。エネルギーを道にドバドバ撒き散らしながら歩いている感じ。でまた忖度とか大人の事情とか、そういうのが一切ない直言一本やりの人なので、期せずして舌禍が多い人でもあった。それは言わない方がいいんじゃないの? というようなこともズバッと言ってしまうので、それで傷つく人もいましてね。で、そういう人は離れて行ってしまうのですけど、藤森先生は離れていく人を止めようとする人ではないんですな。私のこういう感じが嫌いなら、どうぞご勝手にっていう。 今から四半世紀前、私が名古屋の大学に赴任し、学会に関しても東京支部から名古屋支部に移籍して、初めて名古屋支部の先生方に紹介された時、私はその時に初めて藤森先生にお目にかかったのですが、まあ、元気なお姉さんだなと。東京以外の地方にもこんな威勢のいい女性がいるんだ、と思ったことを今なおよく覚えております。 で、まあ、私は藤森先生に何かグサッと言われて傷ついてしまうようなやわな人の気持ちも分かる一方、先生の思ったことを思った通りにズケズケと言うところが嫌いではないので、先生が名古屋の大学に在籍されていた間は結構仲良くご一緒させていただいたし、藤森先生も私のことは割と好意的に見ていてくださったのではないかと。 でね、ある時私は、その藤森先生にこういうことを言われたことがあったのよ。 2002年に私が最初の著書を出版した時。藤森先生はそれを読まれて、私にこう言われた。「あなた、こういう本が一冊書けるなら、二冊も三冊も書けるわよ」と。 この短い一言。これがね、私にとってはすごく印象的で。 だって「こういう本が一冊書けるなら、二冊も三冊もかける」というのはさ、「あなたにはそういう能力がある」という高評価でもあり、かつ、「これで満足するなよ、さらに書き続けろよ」という叱咤激励でもあるわけでしょ。 本の内容なんかには一言も触れずに、ただこの短い一言。だけど、先生が「この先、二冊も三冊も書けるはず」と言ってくれたことがね、私にはすごく嬉しかったし、またその励ましのおかげで、実際に二冊も三冊も書けたのであって、藤森先生は多分、そんな声をかけたことすら覚えてもいないと思いますが(先生はそういうウェットな人ではないので)、私には大きなことだったのね。 だからこそ、そんな藤森先生が書かれた初めての単著(もちろん共著や翻訳は沢山ある)ということで、私もぜひ、読まなければと思った次第。 レビューを見ると、相変わらず忖度なしの直言ズバズバ本のようですが、おお、藤森先生、相変わらずですね、この先、二冊も三冊もこういう本が出るはずですよねと、心の中でつぶやきましょうかね。
January 28, 2020
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年度末が近づいてきて、大学でも予算の執行を急ぐよう、事務の方から指示がありまして。 で、今日、事務に行って、予算がどれくらい残っているか、あと何が買えそうか、なんてことを相談してきたのですが、そこで耳よりな情報をゲットしたんですわ。 いや、実は私の研究室がやたらに寒くてですね、エアコンをマックス、つまり30度に設定していても、足元からしんしんと冷えるわけ。 で、これを何とかできないかと、昨年、机の下に置くパネル型のデスクヒーターを研究費で買おうとしたのですが、なんとこれが却下されまして。これこれ! ↓DC-PKD4-H パナソニック デスクヒーター(グレー/ヘリンボーン柄) 【暖房器具】Panasonic [DCPKD4H] つまりね、研究室の暖房はエアコンか石油ストーブと決まっていて、それ以外を置いてはいかんというのですな。 で、それは理不尽であると随分粘ったのですが、結局、昨年は買えずじまいになってしまった。 ところが、今日、改めて事務に聞いてみたら、「いいですよ、買えますよ」ですと! え、なにその宗旨替え? で、さらに聞いてみたら、事務の大元締めが配置換えで別な人になって、新しく担当になった人が話の分かる人であったと。どうやら、そういうことらしい。実際、既に私と同じ研究室棟にいる何人かの人がこのデスクヒーターを購入したとのこと。 ひゃー、そうなの? じゃ、私だって買うでしょ。 当然、速攻で買いましたよ。やった~、これでようやく、ゾクゾクするような足元の寒さから解放される~!! ということで、そのデスクヒーターが研究室に届くのを、今か今かと首を長くして待っているワタクシなのであります。
January 27, 2020
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今日のサンジャポのデーブ・スペクターのコーナーで、右目を小型カメラにしているカナダ人映像作家の話題が取り上げられておりました。右目を機械に置き換えているので、サイボーグならぬアイボーグなんですが。これこれ! ↓眼球を失った男 この人、ロブ・スペンスさんというのですが・・・、実は私の知人なの。 ・・・っていうか、私、この人の撮った映画に出演しているのよね。 ロブさん、カナダで映画を撮っているんですけど、たまたま日本に「金縛り」という現象があることを聞き付け、興味を持ったと。金縛りって、日本人しかならないので、海外ではあまり知られていなかったんですな。 で、ロブさんの弟のジョンさんが日本に住んでいるので、そのジョンさんに頼んで金縛り経験のある日本人を探したのですが、たまたま私の家内がジョンさんの友人で、その伝手で結局私が取材されることになった次第。ま、私も若い頃、よく金縛りにあいましたのでね。 で、そのドキュメンタリー映画に、私も出演してしまったと。ま、そういうわけ。 とまあ、そんな御縁のある方が、いきなり日本のテレビ番組に「右目にカメラを埋め込んだ男」として登場したのでビックリよ。 でも、片眼を失ったハンデをものともせず、むしろそれを利用して、映像作家としてのキャリアを積み上げているんだから、すごいよね。いい意味でしたたか。私の好きなタイプのタフさですなあ。
January 26, 2020
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昨日、愛車の車検のためにマツダのディーラーに行った話をしましたが、その帰り道、どこかで軽く昼食をとろうということになりまして。 とはいえ、別に記念日でもないので、大枚払ってご馳走を食べるつもりもない。ごく軽く食べられれば良かったので、たまたま目に入ったサイゼリヤに行くことにした次第。我が家ではあまりファミレスで食べることがないので、サイゼリヤに来たのも本当に久しぶり。 だけど、久々に入ってみると、結構、気分アゲアゲになるもんですな! だってとにかく安いんだもん! ランチだったらワンコイン500円で、ハンバーグとライスのセットが食べられるし。メニュー見ているだけで、なんかウハウハしてくる。あまり安いので、つい、あれこれ頼んじゃったりして。 で、注文した後もさらにメニューを熟読して、次にサイゼリヤを訪れた際には何を食べようか、という話になりまして。これこれ! ↓サイゼリヤ季節のメニュー で、完成した戦略が以下の通り。 まず季節メニューの「やわらかお肉とごろごろ野菜のポトフ」(899円)を一つ頼み、これを家内と二人でシェア。で、これに加えて「アロスティチーニ(ラム肉の串焼き)」(399円)と「ミニフィセル(フランスパン)」(169円)、それに「フレッシュチーズとトマトのサラダ」(299円)を一つずつ注文し、フランスパンにラム肉とチーズとトマトを挟んで即席のラムサンドを完成させ、これも家内と半分ずつシェア。どうよ、旨そうでしょ? で、これにデザートワイン「ラコンブリッコラ」(200円×2)に「ティラミス・クラシコ」(299円×2)、それにドリンクバー(190円×2)を追加。完璧。これでしめて二人分の料金が3144円也! おお、素晴らしい! どうでしょう、この計画。なかなか豪華なディナーが低価格で楽しめそうではないですか。 ま、今、ラム肉の串焼きが品薄のために販売中止になっておりますが、2月の半ばには再提供可能ということでしたので、その頃にもう一度、サイゼリヤを訪れ、上に述べた計画を実行しようかな、などと考えているワタクシなのでありました、とさ。
January 25, 2020
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車検を通すため、家内の愛車のデミオをディーラーに入庫したのですが、その際、馴染みのMさんから「マツダ3の試乗、できますよ」と悪魔のお誘いをいただいたので、お言葉に甘えて試乗してしまいました。 最初に乗ったのはマツダ3の1.5リッター車。最近のマツダ車のクオリティーは高いですからねえ。運転していると、なにもかもスムーズで、非常に乗り心地がいい。ただ、やっぱり1.5リッター車だとこのクルマの車格に合わないというか、ちょっとパワーが足りないところがあって、スピードを上げるためにアクセルを踏み込むと、ギアがキックダウンしてしまって、途端にエンジン音が騒々しくなる、といった繰り返し。そこはちょっと残念なところでありまして。 で、次に乗ったのが今日の本命、2リッターの、しかもスカイアクティブX搭載車。ガソリン車でありながら、ディーゼル車のように圧縮着火するという、世界に類を見ない特殊なエンジンでございます。 で、乗ってみると、さすがに1.5リッター車とは格段のパワー感で、このクルマにはこのくらいのパワーがないとな、って感じ。その意味ではなかなかよろしい。 が! それでも、パワーがモリモリ出て来るかというと、そうでもないんだよなあ・・・。必要十分という感じであって、決してそれ以上ではない。その意味では、私のキャプチャーが搭載している1.2リッターのターボ・エンジンの方がよほどパワー感はあるもんね。 うーむ。最近の小排気量ターボ車に慣れてしまうと、自然吸気エンジンって、2リッターでもなんだか物足りないなあ・・・。 でも、それ言ったら、プジョー306とか、シトロエンC4の2リッターエンジンって、自然吸気でももっと遥かにパワーがあったなあ。特にプジョーなんて、翼が生えたようにかっ跳んだからなあ。 マツダ車、デザインは最高にいいんだけど、エンジンが・・・イマイチ、パンチがないんだよね・・・。スカイアクティブXエンジン、残念ながら期待していたほどではなかったかも。少なくとも、60万円も余計に出してスカイアクティブX搭載車に乗る意味は、私には分かりませんでした。これだったら、普通の2リッター・ガソリン車でいいな。 ちなみに、車検の代車でもらったのは、日産ノート。もちろん、e-power ではなく、普通のガソリン車。しばらく乗ってみたんだけど、まあ、これが驚くほどつまらないクルマで、トヨタのヴィッツなんかと同じで、ただ動くだけ。後部座席が驚くほど広いという以外、取るべきところがない。 なかなか、国産車で私の意に添うクルマって、ないもんですなあ・・・。
January 24, 2020
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東出某の浮気話。情けないねえ。一人の女も幸せにできないのかね。 まあ、ワシは根がシシリアン・マフィアだからね。とにかく奥さんが一番大事。好きな女と結婚出来て、これ以上の幸運なんかない。生きている限り、一秒でも長く一緒に居て奥さんを幸せにしたいと思う、それがこのワシ、男一匹じゃい。映画『ゴッドファーザー』の冒頭、ドン・コルレオーネがそれとなく(その実、長男で浮気者のソニーに向って)「家族を大事にしない奴は男じゃない」って言うシーンがあるけど、全くドンの言う通りだよ。東出よ、見損なったぜ。 さてさて、2週間くらい前に引いた風邪にまだ悩まされておりまして、寝込むほどじゃないけど、どうもすっきりしない。 で、今日は柔術の稽古の日だったんですけど、どうしようかな、行こうかな、それともやめとこうかな、と、散々悩んだ挙句、先週も休んじゃったし、今日は行こうと思って行ったわけ。 で、どうせやるなら、ショック療法をやろうと思って、稽古の冒頭、師範のA先生にめちゃくちゃ痛い技を続けざまにかけていただいたんですわ。三段技の「腕押捕・持廻り」とかね。 まあ、知っている人は知っているけど、これが痛いのよ。死ぬほど痛い。道場中に私の「あ゛あ゛あ゛~~~・・・」という悲鳴が何度となく響き渡るという。 あまりの痛さに、このクソ寒さの中、パーーーっと発汗するんだよね。唐辛子級の痛み。 そしたら、風邪、治りました。 アレだね、身体が命の危険を感じるんだろうね。弱っている場合じゃないと。火事場のなんとか、みたいな感じで。で、身体中の白血球が活性化し、風邪のウイルスを食い尽くしたらしく。 ということで、道場へ行く時は結構弱っていたんですけど、道場から帰る時はシャキッとしてしまったワタクシ。やっぱり、思い切って来て良かった~。
January 23, 2020
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センター入試の監督業務で日曜出勤をした、その代休を取ったので、今日は自宅でのーんびり。 で、古本ライターの岡崎武志さんが拙著について言及してくれているという噂を聞きつけ、掲載誌の『サンデー毎日』最新号を買いに近くの本屋さんに行ってみたもののまだ置いてなく(名古屋は一日遅れるのかしらん?)、手ぶらで帰るのもなんなので、その本屋さんの古本コーナーを物色。そして長田弘さんの『本という不思議』(みすず書房)の美本を200円でゲット! さすが、転んでもタダでは起きないワタクシなのでありましたとさ。 さて、それはさておき、最近、エリザベス・キューブラー・ロスの『ライフ・レッスン』(原題:Life Lessons, 2000)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょうか。 エリザベス・キューブラー・ロスは、「否認」→「怒り」→「取り引き」→「抑鬱」→「受容」と5段階で進展していく「死の受容プロセス」(キューブラー・ロス・モデル)を解明・提唱したことで知られる、スイス生まれのアメリカのお医者さんですが、晩年、脳卒中で左半身麻痺になりまして、本書はその麻痺後に書かれた最晩年の本の一つ。そのせいもあって、本書はロス一人で書いたのではなく、デーヴィッド・ケスラーという、まあお弟子さんみたいな人との共著という形をとっております。だから本文中、二人で書いた部分、ロスが書いた部分、ケスラーが書いた部分が分けられていたりする。でも、まあ、読んでいてそんなに不自然な感じはしません。 で、『ライフ・レッスン』っていうくらいですから、本書には各章に一つずつ、全部で15個のレッスンがあります。「愛のレッスン」「人間関係のレッスン」「喪失のレッスン」「忍耐のレッスン」「怒りのレッスン」・・・とか、そんな感じ。だから、まあ、「最近、自分は忍耐が足りないな」と思ったら「忍耐のレッスン」の章を読むとか、そんな感じで必要に応じて読むことも出来る。いわば家庭常備薬みたいな本ですな。 で、様々な臨床データ・・・というか、要するに医者として日々、色々な患者(その多くは死期の迫った患者)と接することで、彼らの言動から学んだこと・・・がエピソードとして書かれているので、その一つ一つのエピソードが面白いし、そこから引き出されてくるアドバイスもいちいち納得っていう感じ。で、そのアドバイスってのは、結局、他の自己啓発思想ともつながってくるようなものなんですわ。 例えば、「愛のレッスン」や「人間関係のレッスン」で語られていることってのは、「人はいかに愛を知らないか」ということね。普通、我々が知っているのは、愛ではなく、報酬だとロスは言うわけ。何かをしてあげたから、その報酬として愛される、という形の愛しか知らない。だから、そういう報酬としての愛で結婚してしまったりすると、やがて互いに飽きて互いに報酬をあげなくなり、それで「愛が失われた」と思い、それを相手のせいにする、という悪循環が生じると。 で、そうなると、人は大概、相手を変えようとするわけね。相手に非を認めさせ、謝らせ、態度を改めさせようと。だけど、それじゃうまく行かないとロスは言うわけ。相手は変えられないよと。 じゃあどうすればいいか。自分が変わればいい。まず自分自身を愛することから始め、相手を支配しようなんて思うことを止め、無限の愛に値する人として相手に接する。そしてすべての人間関係はなるべくしてなっているのだという究極の認識に至る。これが答えだと。 まあね、こんな感じで、「自分を変えれば世界は変る」「宇宙の(=神の)摂理は人智を超える」的な自己啓発思想に限りなく近づいて行くわけね。 また「力のレッスン」の章では、自分の中に宇宙の力があることを知れ! 的なことが書いてある。力ある万物を作った神が人間だけか弱く作る筈がないと(なるほど~!)。じゃなんで人は道を誤り、その力を発揮できないかというと、「もっと」という思いがあるから。明日はもっとよくなる、という虚しい希望に振り回されるわけ。 だけど、死期の迫った人は、そうは考えないというのですな。なぜなら死期の迫った人には、「もっと」を期待する明日がないから。だから、生きている今、この瞬間に生きることを心掛け、そのことに感謝している。だから、死期の迫った人ほど、健康な人以上に生き生きとしているんですと。だから、我々も少し、そういう人達のことを見習えと。 これも、「今を生きろ」「感謝しろ」という、自己啓発思想と同じ結論のことを言っているわけですよね。 「恐れのレッスン」の章では、人間の究極の感情は二つしかない、すなわち「愛」と「恐れ」であると。で、愛は今現在の感情であり、恐れは過去や未来に対する拘泥であると。だから、怖れを捨て、愛を取れ。過去や未来に拘泥せず、今を生きろと。 こういう風に「愛」と「恐れ」で人間は出来ていると考えるのって、「ACIM」系自己啓発思想の考え方に通じるな。 「忍耐のレッスン」の章では、宇宙の摂理ということが強調されております。つまり、物事が起こるのには、どんな物事が起こるか、どんなタイミングで起るか、ということがあるわけですが、これらは全部宇宙の所掌事項であると。だから人間がそれを左右することはできない。出来ないにも拘らず、それをコントロールしようとするから苦悩ってのは生まれるので、そういう支配欲を捨てたところに、自由が始まる契機があるのだよと。第一、人間は怪我したって、勝手に傷が治るわけでしょ。あれ、各自の念力で「治れ!!」と体に命じて治っているわけではない。人間の意志とは関係なく、宇宙が治してくれているわけよ。それと同じで、すべてを宇宙に任せ、「いずれ上手くいく」と思ってリラックスしていりゃー、いいんだと。 ただね、宇宙に任せる際、理解しておかなければならないのは、宇宙はその人が金持ちになるかとか、結婚するかどうかとか、そんなことには一切、関心を持っていないということ。宇宙が関心を持っているのは、その人が人生をどう経験しているかどうかだけだと。それはつまり「真のあなた」になるための経験を経ているかどうか、ということなので、我々としては、自分の身に起こることを、すべて起こるべくして起こっている宇宙からの宿題だと思って耐えればいいと。 はー。納得。納得ですわ。難しいけれども。 だけど、「明け渡しのレッスン」の章でロスたちが言うことなんですけれども、一般に「コントロールすることはいいことだ、コントロールを放棄して現実に身を委ねることは危険だ」という観念で生きている人が多いんですな。 だけどロスたち曰く、別にあなたが命じなくても朝になると太陽は昇ると。時期になれば花は咲くと。で、我々が身を委ねようとしているのは、万物の運行を精妙に調整しているこの宇宙に他ならないのであって、これに身を委ねて何を怖れることがあるのかと。なるほどね~。 ただ、「委ねる」のと「降伏する」のとではまったく違う、というところが重要でございます。降伏するとは、自分の人生を否定すること。一方、委ねるとは、自分の人生を受け容れること。明け渡しとは、どんな状況にあっても、つねに選ぶことができるという考え方であると。 うーん、この辺りは『夜と霧』のヴィクトール・E・フランクルの思想と重なってきますな。そう言えばエリザベス・キューブラー・ロスもまた、アウシュヴィッツの強制収容所の見学から、人生をスタートさせた人なのでありました。 で、面白いのは、「じゃあ、いつ明け渡すのか」ということなんですけど、ロス曰く、「いかなる状況にあっても、毎日、毎時、この瞬間瞬間が明け渡しのチャンスである」と。「どんな人であれ、生れるときや死ぬときは、大きな力に自分を明け渡している。生まれたあと、死ぬまでのあいだに、われわれが道に迷うのは、明け渡すことを忘れているからである」と。明け渡さなければ、悪戦苦闘のすえに消耗しきってしまう。だから安心できないとき、行き詰ったとき、自分はすべてに責任があると思った時、変えられないことを変えたいと思った時、それらすべてが明け渡す時であると。 で、ここでロスの思想は、ラインホルト・ニーバーの有名な従容の祈り(The Serenity Prayer)に通じてくるわけね。従容の祈りってのは、 神様。願わくは、変えられないことを従容として受け容れるゆとりと、変えられることを変える勇気と、その違いを知る知恵をお与えくださいますように。 という奴ね。 あとね、「許しのレッスン」の章にはこんなことが書いてある。 子供の頃は「ごめんなさい」という言葉をよく言うし、それが受け容れられると。なぜなら、子供は未熟だから間違うものだ、という通念があるから。だけど、大人になると、「ごめんなさい」という言葉が少なくなるし、また発したとしてもそれで許されなくなってくる。 だけど、そこは許さなければならないとロスはいいます。なぜなら、大人も子供同様、間違いを犯す人間だから。 特に人は、苦しんでいる時、配慮を失った時、混乱している時、もろく、孤独で、感情的に未成熟な時、間違ったことをして人を傷つけてしまう。だから、傷つけられた人は、自分を傷つけた相手が、傷つけた瞬間に弱い存在だったことを理解し、行為を憎んで人を憎むなと。そして、傷つけられたことによってたまった怒りをなんとか放出し、心の平和を取り戻す努力をしなくてはならない。なんとなれば、相手への否定的な思いを手放し、自分の心の平和を取り戻すことこそが取り組むべきことだから。つまりここでも重要なのは他人ではなく、自分であると。自分を何とかすることが重要であると。 まあ、本書の中でロス(あるいはケスラー)が言っていることは、すべて正しいな。正しいばかりでなく、そのレッスンに従って、私自身もそういう心がけで生きたいと思います。 ちなみに、この本の中では、ロスが自分自身のことをさらけ出しているところもある。やっぱり左半身麻痺になって、思うように動けなくなったことへの不満・憤懣・怒りが思わず噴出しているような箇所があるんですな。それで、他人を中傷したりしているところもある。ロスも人の子なのよ。 だから、ロスは、自分自身にも必要なこととして「怒りのレッスン」とか「許しのレッスン」とか、「明け渡すレッスン」とかを書いているわけね。超越的な立場から書いているのではなく、至らない人間として書いている。 そこが、いいよね。 あと、本書の最後の訳者あとがきのようなところに書いてあったのですが、ロスが亡くなった時、アリゾナ州のスコッツデールで葬儀が行われたのですが、各種宗教の人がそれぞれのやり方でロスのあの世への旅立ちを準備しただけでなく、最後は、ロスの息子さん娘さんの手で特別な儀式が執り行われたんですって。 それは、「蝶を放つ」という儀式だったそうで。つまり、葬儀の参列者に、袋に入った蝶が渡され、合図とともに一斉にその蝶を空に放ったんですって。 ロスが若い頃、ユダヤ人の強制収容所の跡を見た時、そこの壁に爪や石によって蝶の絵がやたらに描かれていたんですと。 つまり、明日は死ぬかも知れないユダヤ人たちが、蝶を描くことで、現世の苦しい蛹の殻を破り、蝶となってあの世へ飛んで行く、その幻想の中で日々の苦しい生活をしのいでいたんですな。 その蝶の絵を見たことで、人間の死をテーマにした研究活動に邁進することになったのがロス博士なわけだから、そのロスの死に際し、蝶の儀式をしたというのは、なかなかふさわしいことだったわけ。 あー。ちょっといいな・・・。 私はいつ死ぬのか分かりませんが、私が死んだら、その葬儀で、参列者に蝶を空に放ってもらうのも、ロマンチックでいいかもね。 ということで、この本、色々な意味で、とても勉強になったのでした。教授のおすすめ! と言っておきましょう。これこれ! ↓ライフ・レッスン/エリザベス・キューブラー・ロス/デーヴィッド・ケスラー/上野圭一【合計3000円以上で送料無料】
January 22, 2020
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先日の梅宮辰夫さんに続いて、今日は宍戸錠さんの訃報が入って来ました。享年86。 私はさすがに渡り鳥シリーズの世代ではないし、むしろ『ゲバゲバ90分』世代として宍戸さんを知ったくらいな感じで、俳優としてどうなのか、ってなことはあまり意識したことはないのですが、ただ、よくテレビで見かけるおもしろいほっぺの人、という印象ですかねえ。 だけど、何となく、雰囲気が好きだった。この人に対して嫌な印象を持ったことが一度もない。 それは何故かと思うのですけれども、一つにはこの人の声が好きだったのではないかと。ちょっとこう、上擦ったところのあるような独特の声質で、一度聴けば絶対聞違えることがないところがある。 宍戸さんの声で思い出すのは、NHKで昔放送していた『警部マクロード』の、主人公、マクロード(デニス・ウィーヴァー)の吹き替えを担当されていたこと。宍戸さんの上擦った声が、いかにもマクロードの風貌に合っていて、もう、マクロードはこういう声なんだと子供心に確信するくらいでした。 宍戸さんのあの顔や声を思い出すだに、いい人だった、好きなタイプの人だったなあと思いますねえ。その宍戸さんが亡くなったとなると、私にとって懐かしい昭和がまた一段、遠くなる気がします。エースのジョーのご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。
January 21, 2020
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クリントン大統領を補佐した元アメリカ合衆国副大統領、アル・ゴア氏が書いた『不都合な真実』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 アル・ゴア氏は、2000年の大統領選挙戦でジョージ・W・ブッシュ氏に敗れた後、政界を引退、自分たちが積み上げてきた政策がブッシュ氏らの共和党政権によって次々となし崩しにされていくのを眺めつつ、その無力感の中で新たに見出したのが、若い頃から興味のあった環境問題。よし、今後はこれで食って行こうってんで、地球温暖化に警鐘を鳴らすムック『不都合な真実』(映画版もあるよ)を出して、見事ノーベル平和賞ゲット! ある意味、地球温暖化はゴア氏にとっては都合のいい真実となったのでありました。 で、そもそもゴア氏が地球環境問題に興味を持ったのは、子供の頃、母親にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読み聞かされたこと。で、この傾向は、大学時代にロジャー・レヴェルという先生について学んだことで決定的になるんですな。このレヴェルという人は、1950年代から人間が作り出す二酸化炭素の増大が地球の温暖化につながることの実証に取り組んだ科学者。 で、大統領になれなかった悔しさとヒマに任せて調べてみたら、二酸化炭素の増大は、とにかくめっちゃヤバいということが分かった。選挙に負けたとはいえ、腐っても元副大統領ですから、やろうと思えば何でもやれる。地球温暖化の被害を受けていると思しき場所に行ってみたいよーと言えば、誰かがそこへ連れていってくれる。で、実際にそういうところに行ってみると、まあ、たしかに状況はひどい。昔、大河があったところは干上がり、昔湖だったところも干上がり、寒さによって虫が死ななくなったことで松の大森林はキクイムシにやられ、氷河はなくなり、北極の氷も小さくなり、南極も氷が崩れ落ち、サンゴは白骨化し、生物はどんどん絶滅している。 ちなみに、アメリカの原潜が北極海から巡航ミサイルを打ち上げるには、その前にまず北極の氷を破って浮上しないといけないのですが、それには氷の厚さが1メートル以内でないとまずいのだそうで、だからアメリカ海軍はこの50年、ずっと北極海の氷の厚さをレーダーで測り続けているんですな。で、その海軍が公表したがらない極秘データを元副大統領としての圧力かけて入手したところによれば、北極の氷がどんどん薄くなっているのは明らかなんですと。 あとね、昔は、鳥の雛が孵る頃に、毛虫が大発生して雛の餌になっていたのだけど、最近は温暖化で毛虫の発生時期が早まり、鳥の雛が孵る頃には毛虫は既に居なくなってしまうんですと。だから雛ちゃんもあわれ飢え死にすると。そんな感じで、地球温暖化は様々な形で地球上の生態系を崩しつつある。 で、そうであるにも関わらず、世の中には「温暖化なんかウソ、ウソ」と主張する人々もいる。特に、産業よりの共和党は、ロビイストを使って「温暖化ウソ説」を吹きこんでいるそうですが、少なくともゴア氏によれば、地球温暖化の事実、そしてその原因が二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスにあることは、重力の法則の次くらいに異論のない科学的言説なのだそうで。 だから、温暖化は止めなきゃいかん。二酸化炭素ガスを少なくしよう! シンプルですが、ゴア氏の結論はそこね。 じゃあどうすればいいか。本書の終りの方は、二酸化炭素ガス排出を抑えるために我々ができることが色々書かれているのですが、例えば電球を蛍光灯に変えようとか。風力発電を増やそうとか。飛行機に乗るのを控えようとか。冷蔵庫を壁から少し離そうとか。マイバッグを持とうとか。肉を食うのを減らそうとか。 えーーーー、そのレベル? っていうね。まあ、それで効くなら、やってもいいけどぉ。 あ、それから、本書にはゴア氏の家庭のことがあれこれ書かれていて、いかにいい親に恵まれたか、ティッパーはいかにいい妻か、子供たちはいかにいい子か、ってなことがあれこれ書かれている。家族自慢の本でもあるという。 ちなみにゴア氏、そんなに素敵な奥さんのティッパーとはその後離婚して、政治家時代の大口資金提供者、つまりは金づるだった女との再婚へ向けて交際中とか。 おい! その不都合な真実はどうなんだ! っていう。 ま、本書はそんな感じです。 つまらなくもないけれど、それほど面白くもないっていう感じの本。じゃあ、なぜこれを私が読んだかと申しますと、これもまた一つの「自己啓発本」だと思うから。地球は危機的状況にある! だから我々人間はこの星の上での生き方を変えねばならぬ! っていう意味の自己啓発本。 そういう系統の自己啓発本はあって、例えばラブロックのガイア理論とか。で、そういう「地球の視点」から人間の生き方を改善する必要を謳うっていうのは、ヒッピーの考え方でもあって、ということはスピリチュアル系の自己啓発本とかとも同根だったりするわけよ。 大体さ、アル・ゴアって、ヒッピー世代でしょ。ベトナム行った人だから。兵隊としてではないようだけれども。 だから、本書冒頭でも、青い地球の写真、宇宙から見た地球の写真がどーんと。1972年12月、最後のアポロとなった17号が地球と月の中間点から撮った写真。日食の時に撮った(つまり地球とアポロ17号と月と太陽が一線に並んだ時に撮った)ので、光源が真後ろにあるものだから、地球が実にキレイに撮れている。その後、地球の写真というと、この写真が頻繁に使われたのだとか。ま、そんな地球の美しい写真を冒頭にどーんと載せて、「こんなキレイな地球を、汚しちまっていいの?」という、言葉にならない暗黙のプレッシャーをかけるという。ガイア系/ヒッピー系自己啓発本の常套手段でありまして。 ま、そんな本。私は仕事上の興味があるので読んでしまいますが、人におすすめするかっていうと、どうかな。そういう方面に興味のある方はどうぞ、って感じでしょうか。これこれ! ↓不都合な真実 (実業之日本社文庫) [ アル・ゴア ]
January 20, 2020
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センター入試終了~! 二日間の監督業務も終わった~・・・。年年歳歳、この業務がしんどくなってくる。もう、ヘトヘトと言っていいっす。 昔はこの業務、結構楽なもので、担当者同士の取り決めで適当にローテーション組んで休憩したり、あるいは監督業務中に本を読んだりできて、それほどしんどいと思ったことはなかったのですが、最近はそういうのは全部禁止になってしまって。丸々二日間、もんのすごい緊張感の中、ひたすら監督業務に打ち込まないといけなくなったものですから、それはそれはきついのよ。 昔はね、スマホとかネットとかなかったからね。最近は、受験生がすぐネットに上げるのよ。「監督者が居眠りをしていた」とか、「監督者同士の話声がうるさくて解答に熱中できなかった」とか。で、そういうのがすぐに文科省経由で大学に注意として届くので、もう、我々としてもそういう批判を受けないよう、極度の緊張の中での監督業務を強いられることになりまして。 この二日で、私の寿命は確実に三日くらい縮まったな。 ま、それはともかく、来年は一体どうなるんだろう? センター入試は今年で終わりとか言っているけれど、英語民間試験導入は没になり、国語・数学の記述式もお蔵入りとなったのなら、もう従来のセンター入試と何一つ変わらないじゃん? と思ったら、噂によると、英語のリスニングの配点比率を高めるとか言っているらしい。 もう・・・だからそれが馬鹿だって言っているんじゃん! 英語リスニングテスト導入以来、どれほど日本人の英語学力が下がったことか・・・。それ、お上の方でも検証しろって。なんで、さらに悪い方に変えるんだよ。 結局、センター試験と何も変わらないばかりか、一部悪い方に変えるって・・・。 ほんと、文科省の愚かしさは底なしだな。
January 19, 2020
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はあ~。センター試験の監督。疲れるわ~・・・。 試験監督自体も疲れるんだけど、この数日、風邪なのか何なのか、ちょっと体調が悪くて。 私の場合、体調が悪いと、ただでさえ寝つきが悪いのが輪をかけて悪くなって、それで一層体調が悪化するという悪循環なのよね。 で、そういう、体調悪くて眠れない時は、ラジオを聴くわけ。 だけど、まあツマラナイ番組ばっかりでね! 呆れるほどつまらない。 で、唯一大人の鑑賞に堪えるのがNHKのラジオ深夜便かなあ。昨日は深夜2時台に、数年前に録音された柳田邦夫のインタビューの再放送があって、なかなか面白かった。そして3時台はアメリカのAOR特集。4時台は森山良子特集。そんなのを聴いて、5時半には出勤のために起き出したのだから、結局、昨夜もほとんど寝てないよね・・・。 ま、とにかく、私にとって、眠れない夜の友はラジオ深夜便なんですわ。なんか、すっごいおっさんみたいだけど、そうなんだから仕方がない。 さてさて、明日はもう一日、センター入試の監督業務なんだけど、まだ体調悪いし、今日もまた深夜便で、眠れぬ夜を過ごすのかなあ・・・。
January 18, 2020
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今日の新聞でちょっと驚いたのは、アメリカ文学研究の泰斗、東大名誉教授の渡辺利雄先生がの訃報があったこと。ああ、ついに渡辺先生も亡くなられたのか・・・。 と言っても、先生と私はまったく接点がなかったのですが。 接点がないどころか、芸風がまったく違いますからね。渡辺先生はもうド正統というか、お一人で大部なアメリカ文学史を編んでしまうような背筋ピーーンの学者さんですから。私のような893ものとはモノが違う。だけど、まあ、お名前だけしか存じ上げないとはいえ、斯界の大先輩ですから、私もご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。 さて、拙著が世に出て1カ月、そろそろ書評とかもちらほら出始めるのではないかなと思っていたら、日本経済新聞に、速水健朗さんが何か書いて下さったらしい・・・。 らしい・・・というのは、電子版なので、読めないのよ。 あーん、せっかくの書評なのに、本人が読めないとはこれいかに? 電子版の記事って、紙版の日経には載らないのかしら? それとも時間差で載るの? おせーて! でも、とにかく電子版であれ日経に出たということは、他紙もそろそろ、の可能性大。まあ、楽しみにして朗報を待ちましょうかね。
January 17, 2020
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よく、人間の欲望って、自然に湧き上がるものもさることながら、テレビとかの影響で外部から惹き起こされることが多い、的なことが指摘されるじゃん? ま、ワシはそういうのには惑わされんもんね、と思いつつ、よく考えるとガッツリ影響受けてます。 特に食べ物・・・。 つい先日、某テレビで「おはぎ」の特集をやっているのを見ていたら、もうおはぎが食べたくなってしまって。で、今日、仕事帰りに和菓子店に寄っておはぎを買って帰ろうと思ったら、売ってないでやんの。 さては、私と同じく、テレビに影響された奴が沢山いたんだな! で、今日は今日で、さっきテレビを見ていたら、博多の水炊きのことをやっていて。 ひゃー、水炊き食べたーい! ・・・って、またまた影響されとるやん! それにしても、最近、水炊き、食べてないなあ。っていうか、一体、いつから食べてないだろう。 水炊きと言えば思い出すのは、家族旅行よ。私が小学生の頃、冬休みの頃ですよ。山中湖に行くことになって。 父の教え子に、ヤナセに勤めている人が居て、その人が山中湖にあったヤナセの福利厚生施設の宿泊券か何かをくれたんですわ。それで行ったのですが。 季節外れだったので、その日その施設に泊っていたのは、私たち一家の他、もう一組だけ。何せ昭和の福利厚生施設ですから、食堂は大広間なわけ。その広ーい部屋に、たった二組ですから、寒々しくてね・・・。 で、そこで出たのが、なぜか博多風水炊きだったのよ。白濁したスープ、骨付きの鶏肉、それをポン酢で食べるシステム。寒い時に、寒い大広間で食べたせいか、旨かったなあ。 私が小学生なんだから、父も母も姉も若くて。楽しかった。博多水炊きは、だから、いい思い出の食べ物なのよ。 そんなこともありーの。水炊き、食べたいなあ。 ま、テレビに影響されてのことではあるけれども、そんな昔のことも思い出して、今はすっかり水炊きの口になってしまったワタクシなのであります。
January 16, 2020
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先週末で卒論指導が完全に終わり、その仕事から解放されたワタクシ。で、いつもですと、ここからの1カ月で自分の論文を一本、でっち上げるのが常なのですが・・・。 やーめた。今年は。 書くことが無いっていうのじゃないのよ。書きたいテーマはいくつもある。だけど、それを書くには材料が少なすぎる。 例年ですと、夏休みも含め、読むべき資料はずっと読んでいるので、書くだけなら1カ月もあれば書けるのよ。だけど昨年後半は新書書くので手一杯で、論文用の資料のインプットがほとんどできなかったわけ。 だから、さすがにインプットなしでアウトプットは無理だよな、という当然の結論に至ったと。 でも、これでもね、「やーめた」って腹を決めるまでに、結構、時間が掛かったのよ。「いや、でも、何とかイケるか?」みたいな葛藤があって。「テキトーこいて書いちまえよ」っていう「悪い釈迦楽くん」が耳もとでささやくものだから。 でも今回は「良い釈迦楽くん」の、「それは研究者倫理にもとるんじゃないのか?」っていうささやきの方に耳を傾けることにしました。 ま、論文書くのは止めたけど、だからといってヒマになるってもんじゃない。何しろ、英語教則本の市販版改訂があるからね。その作業をするので、春先まで結構、時間を食うだろうし。それを一生懸命やって、いい本を市場に送りたいっていうところもあるじゃん? ということで、論文の方は、今年9月締切の大学の紀要に提出できるよう、ちゃんとインプットしてから書きまーす。
January 15, 2020
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今日はビックリしました。坪内祐三さんが亡くなったって。享年61。心不全だったそうで。 前にもこのブログに書きましたが、今から5年ちょい前、2014年11月25日に、私、坪内さんと鼎談をしたんですわ。新潮文庫100周年記念のイベントだったのですが。鼎談と言っても、やはり坪内さんの迫力がものすごく、結局坪内さんが3分の2くらい話をされて、残りの3分の1を私ともうお一人が分け合う的な。 で、まあ、鼎談自体も面白かったのですが、その後、坪内さんに神保町と新宿、二軒の文壇バーに連れていってもらって、色々お話を伺いまして。それがとっても楽しかった。文壇バーというところにも初めて行きましたが、業界人が沢山居て、坪内さんもその人達からひっきりなしに挨拶されていて、大御所って感じでしたねえ。 で、他愛のない話も色々出たのですが、坪内さんは私の書いたあるエッセイを読まれていて、あれは映画化すべきだ、と盛んにおっしゃって下さいまして。 で、エッセイですから、当然、私自身も本の中に登場するのですが、ならば映画化した場合、私の役は誰が務めるのかという話題になり。 で、私が「それは長谷川博己さんにやってもらいたいですねえ」と言うと、坪内さんがすかさず「いやいや、釈迦楽さん役は向井理でしょう」と。そんなアホな話で盛り上がったことを思い出します。 その後も、私の書いた本を読んで好意的な書評までしてくださって。ついひと月前も、出たばかりの新書を坪内さんに送ったばかりだったのに・・・。 61歳。まさかそんなお歳で亡くなるとは。あれほどお元気だったのに。忙し過ぎたのか、お酒の飲み過ぎか・・・。 私からすれば、兄貴分的な雰囲気のある、いい先輩でした。残念ですなあ。 ほんと、ニュースを見て愕然。まだ信じられないです。しかし、もうご冥福をお祈りするしかありません。坪内さん、短いお付き合いでしたが、楽しかったです。合掌。
January 14, 2020
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さあて、そろそろ自己啓発本研究も再開しないと! というわけで、まず読んだのはサラ・バーカーという人の書いた『アレクサンダー式姿勢術』という本(原題:The Alexander Technique: The Revolutionary Way to Use Your Body for Total Energy 1978)。 ところで、アレクサンダー・テクニークって、ご存じ? この身体操法を編み出したのは、フレデリック・マサイアス・アレクサンダー(1869-1955)という人で、オーストラリアの人ですな。で、この人、元々俳優業(朗読業)志望の人だったのですが、ある時、どういうわけか声が全然出なくなってしまうわけ。声が出ないのでは俳優としては致命的なので、医者に通ったり、薬を飲んだり、色々するのだけど、何をやってもどうしても声が出ない。 で、もともとアレクサンダーさんはちょっと変わった人というか、何でも自分で工夫してやりたい人なので、こうなったらもう自分で治すしかないと思うんですな。 で、三面鏡の前で発声してみて、その時、自分の身体にどんなことが起こっているかを観察したと。 そしたら、ほんの少しですが、声を張ろうとする度に自分が顎を突き出していること、そして、そのために首の後ろの筋肉が緊張していることに気づいたと。 で、あ! これだ! ってんで、その辺りを意識的に変えてみたら、なんとなんと、すっきり声が出せるようになりました。 で、この経験から彼は俳優業に戻ることなく、発声法の先生になるわけね。で、そうしてみたら、単に声が出せるのみならず、身体の具合が良くなる人がどんどん出てきて、アレクサンダー・テクニークは、単に発声法というのではなく、魔法のような身体操法として有名になっていきました。例えばオルダス・ハックスリーとかジョージ・バーナード・ショー、あるいはアメリカの教育哲学者ジョン・デューイーなんかも、この身体操法を取り入れて長寿と健康を得ましたとさ。 さて、それはそうなんだけど、アレクサンダー・テクニークが自己啓発思想と絡んでくるのはここからね。 これは本書のあとがきで、北山耕平さんが書いていることなんですが、アメリカでは1960年代に価値の転換運動が生じ、それが70年代に入って整理統合されたと。で、その結果、方向性として打ち出されたのが「人間性の復活」と「新しい知覚の獲得」であった。 で、その具体例として、例えば宗教とか東洋思想とか、瞑想・ヨガ、そしてLSDなどの薬物の使用ってなことが出てきたわけですけれども、これらの目指すところは、文明の発達によって分離されてしまった人間のからだとこころを、再び有機的に結び付けようというものだったと。 で、その様々な方法論の流行の中で脚光を浴びたのが、アレクサンダー・テクニークであったと。 1960年代に「ハイ」になることが流行しましたが、70年代には、この「ハイ」な状態をいかに日常に採り入れ、人生を明るくしていくかというところに関心があったわけで、アレクサンダー・テクニークはそうした人々の探究心の中で、脚光を浴びたわけですな。 なるほどね~。 で、じゃあ、実際そのアレクサンダー・テクニークってのは何なのよ、って言う話になるわけですけれども。 まあ、一言で言いますとね、体を動かす際に、頭を身体から切り離し、その切り離した頭から先に上昇させるように動かして、身体はその上に向う頭にくっ付いて行く、的な感覚で動け、っていうことですな。 それだけ? そう、それだけ。基本的には。 だけど、例えば椅子から立ち上がる、なんていう日常的な動きでも、普通、人はまず膝とか太ももに力を入れ、場合によっては手で椅子を押し下げながら、よっこらしょ、とやったりするわけよ。 でもね、それは要するに、力を下に押し下げて、その反動で上に上がっていることになりますから。 そうではなく、まず頭をすっと持ち上げて、やや前傾姿勢になり、頭頂部から斜め前方に引っ張られるように動きだし、それに連動して残りの身体が付いて行く、みたいに立ち上がってご覧なさいと。全然違うからと。 要は、そういうこと。一事が万事、頭から先に動き出し、常に上昇する気持で身体を操ると。それが結局、アレクサンダー・テクニークのアルファであり、オメガなわけね。 で、思うんだけれども、これって、ひょっとして私がやっている八光流柔術の動きそのものじゃね? 八光流もね、基本は常に姿勢。頭頂部が天井から引っ張られるように動けと。そう指導されるわけですよ。だから、私は、期せずしてアレクサンダー・テクニークの練習をもう10年やっていたと。 ま、そんなことも思いつつ。 とりあえずアレクサンダー・テクニークの入門書を読んだだけですから、あまり大きなことも言えませんが、この身体操法の基本と、なぜそれがその時代に流行したかということ、そして自己啓発思想との結びつきについては、パッと理解できたので、割と良かったかな・・・。 とにかく、アレクサンダー・テクニークを日常生活に応用すると、とってもいいことが沢山起こるらしいですから、皆さんもお試しあれ~!!私が読んだ本ではないですけど・・・ ↓アレクサンダー・テクニーク入門 能力を出しきるからだの使い方 (実践講座) [ サラ・バーカー ]
January 13, 2020
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現にルノーのクルマに乗っているワタクシとしては、もちろん、この度のゴーン氏の逃亡劇に関心がないわけがなく・・・というか、いささか呆れ果てているところがあるわけですけれども。 この間の会見にしても、ゴーン氏の言い分によれば、「日本では一旦逮捕されると、有罪率99%で、問答無用で有罪にされてしまう」そうで、それに文句を言っておりましたが、これもおかしな話で、じゃあ、なんでもかんでもとりあえず逮捕して、後で『間違いでした』って釈放する方がいいのか?っていうことですよね・・・。 ・・・っていうか、不法に出国した時点で、あんた、100%有罪だからね! っていうか、そもそも日産という世界に名の知られた企業のトップが、こそこそと楽器の箱に隠れて出国しただなんて、想像するだけで恥しくないのかっていう。 とまあ、私に限らず、日本人の多くがゴーン氏に対して言いたいことは沢山あると思うわけですよ。 しかし。 この点に関して、ちょっと面白い見解を読みまして。それは大矢アキオさんというイタリア在住の自動者ジャーナリストの方のブログに書いてあったことなのですが。これこれ! ↓大矢アキオ氏のブログ これによると、イタリアではゴーン氏の逃亡劇について、もちろん揶揄的に見る見方もあるものの、日本におけるほど厳しくはない、というのですな。 つまり、「都合が悪くなったら逃げる」という文化が、ヨーロッパにはあると。 日本人には、サムライ的倫理観がありますから、敵前逃亡なんてもっての他、向う傷ならまだしも、逃げたところを後ろからバッサリ切られた場合、それは切られた方が恥だ、という見方がある。要するに、逃げる=卑怯だと。 だけど、そうじゃなくて、場合によっては逃げて、逃げた先で新規一転頑張るということも許される文化が、世界のどこかにはある。ま、大矢アキオさんが指摘されているのは、そういうことなわけですよ。 ふうむ。なるほどね・・・。 ま、私はそんな大矢氏のブログを読んで、ちょっとだけ納得しましたね。日本の価値観と違う価値観が世界にはあると。で、それを認めるのであれば、ゴーン氏が逃げたことにも一理ある・・・まあ、一理はないかもしれないけど、そういうことも起こり得ると思っておいた方がいいのかなと。 確かに、そもそもアメリカという国だって、ヨーロッパで行き詰った人が逃げて行って出来たような国だしね。 というわけで、ゴーンの野郎、卑怯にも逃げやがって・・・と思うのは日本人の心情としてもっともだと思うものの、「でも、そうは思わない人もいる」ということだけは、心の片隅ででも、理解しておいた方がいいのかもね。良くも悪くも、「したたか」ってそういうことだからね。
January 12, 2020
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いやあ、名古屋にある名城大学での刃傷沙汰、おっそろしいですなあ・・・。レポート提出期限を守らなかった学生に、「単位あげないよ」って言ったら刺されたんでしょ? え゛ーーー。そういうシチュエーション、私だって何度となく経験したよ。「そこをなんとか一つ」とか哀願してくるダメ学生に、きっぱり「ダメ出し」することは何度もあった。でも、そりゃそうでしょ。そのために提出期限を作ってるのだから。もし、ルールを守らず提出期限に遅れた学生を合格させていたら、他のちゃんとした学生に示しがつかんじゃん。 そんなんで一々刺されていたら、命がいくつあっても足りん。 まあ、私の場合、護身道5段ですからね。ダメダメな学生が刃物を振りかざして来たら、さしずめ「打込捕」で制し、ついで「雅勲」に極め落として地獄を見せてやりますけど、何か? っていうか、そろそろ私も同僚を誘って、学内に道場作ろうかな。「学生に刺されたくない者、この道場に来たれ!」みたいな感じで。 しかし、これから受験シーズンだってのに、名城大学も気の毒に。今回の事件で、多少は受験生が減ったりするんですかね。まあ、経営の上手い大学ですから、このくらい屁でもないのかも知れませんけどね。
January 11, 2020
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映画の割引券をもらったので、映画を観に行っちゃった! 何を観たかって? そりゃもちろん『スター・ウォーズ』・・・ じゃないんだなあ。『フォード vs フェラーリ』よ。 まあ、実はそれほど期待もしないで観に行ったのですが、実際のところ、これがね、良かったのよ。以下、ネタバレ注意ということで。 時代は1960年代、フォード社もちょっと景気が悪くて、社員のリストラをしなければならないような事態になっていたと。 そんな時、フォード社の重役の一人だったリー・アイアコッカがですね、フォード社もいつまでも大衆車ばかり作っているから民衆に飽きられるので、ル・マンのような大レースで勝つといったことをやって、フォード社のイメージアップを図るのがいいのではないか、ってなことをフォード2世に進言すると。 だけど、ル・マンではフェラーリが連戦連勝をしている。そのフェラーリに勝つなんて無理なので、ここは簡単に、そのフェラーリを買収して傘下に収めてしまえばいい。フェラーリがレースで勝てば、それは親会社の名誉になると。 で、そりゃいいってんで、フォード2世はアイアコッカをイタリアに派遣し、フェラーリの買収工作をさせるわけ。ところが・・・ これがフェラーリの罠だった。経営難に陥っていたフェラーリの総帥エンツォ・フェラーリは、最初から同じイタリアのフィアット社に買収されるつもりだったわけよ。だけど、ただ買収されるのでは安く買いたたかれるので、わざとフォードに買収されるかもしれないという噂を業界に流し、慌てたフィアット社が買値を吊り上げるのを狙ったんですな。 実際、フェラーリは予定通りフィアットの傘下に納まり、フォード社はいいように当て馬に使われただけ。その上、アイアコッカはエンツォに「お前らは、醜い工場に帰って醜いクルマでも作っとけ、ボケ! フォードも初代は良かったが、今の2代目はしょせん2代目に過ぎん」と追い返される始末。 で、イタリアでそういう扱いを受けたと知ったフォード2世は、さすがに頭に来て、今までレース活動には消極的だったのに、社を挙げてル・マンでフェラーリを打ち負かしてやれという大命令を下す。 で、その急ごしらえのル・マン・プロジェクトの中で、白羽の矢が立ったのが、アメリカ人で唯一、ル・マンで優勝した経験を持つシェルビー(マット・デイモン)だったと。で、シェルビーは、ル・マンに勝てるとしたら、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)にレースを任せるしかないと、彼にフォードGTのハンドルを委ねることにする。 で、シェルビーとケンはル・マンで勝つためのマシン開発に取り組むのですが、二人の相手はフェラーリだけではないんですな。巨大組織であるフォード社内にはその手をエンジンオイルで汚したこともないようなエリートが沢山いて、こいつらがフォード社のレース活動を邪魔しようとしたり、逆にレースに勝つ見込みが出始めると、今度はその手柄をシェルビー&ケンから奪おうとしたり、とにかく社内にも敵がごまんといる。 そんな中で、果たしてシェルビーとケンは、ル・マンでフェラーリを打ち負かせるのか?! って言うお話。 で、これがね、外連味のない、実にいい映画だったのよ。 フォード社社長のヘンリー・フォード2世と、フェラーリ総帥エンツォ・フェラーリの二人の描き分けもかなり面白いし、そういう曲者たちに翻弄されながら、速いクルマを仕上げる、ル・マンに勝つ、というシンプルな目標に向って必死に取り組む現場の連中の動向も面白い。 しかし、何と言ってもシェルビーとケンの間の友情がね・・。やっぱり、アメリカ映画は「バディもの」を作らせると上手いよね。あと、ケンと息子、ケンと奥さんの関係も良くて。 そして、1960年代の自動車レースの迫力! 今のF1と違って、無線なんかないですから、ピットを出たら、レーサーはたった一人で相棒のクルマと一緒に、他のレーサー、他のクルマと戦わなくてはならない。今のレースとは比べものにならないほど、孤独な戦いなわけよ。そういう、レースの最中の、レーサー同士の一騎打ち的な戦いぶりも、いいんだなあ・・・。 というわけで、『フォード vs フェラーリ』、出色のレース映画だったのでした。教授の熱烈おすすめ! と言っておきましょうかね。
January 10, 2020
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もう、ヤバいな。一昨年、深見東州大先生の『強運』を読んで以来、ワタクシの仕事運はどこまで上昇するのかっていうね。 なんとなんと、またまた某出版社から、出版企画っていうか、出版依頼が来たよ~! それがまた、ウソみたいなうまい話で。私が十年以上前に大学出版会から出した英語の教科書をですね、その出版社が改訂新版として出したいと、まあ、そういうご提案なわけ。ついては、ワタクシとしては自分の書いた教科書をちょこっと改訂するだけでいいと。あとのレイアウトやなんかは、みーんな出版社の方でやってくれると。 で、それを一般書として全国販売してくれるっていうんだから、もう、断るなどという選択肢はないじゃん? このお話し、ありがたくお受けしやーす! いや~。それにしても、わからんものですな。 だってさ、その教科書を最初に書いた時、ワタクシも色々な伝手を辿って、ほうぼうの出版社に掛けあったのよ。だけど、どこの出版社も全然関心を示してくれなかった。そこで仕方なく、勤務先大学の出版会から出したのですが、全国販売の販路もないので、実質的にはワタクシ自身が自分の授業で使うだけ。 それでも、順調に4版まで版を重ね、毎年3万円くらいの印税にはなりましたけれども、せいぜいその程度。 それがさ、急にこういう話が来て、全国販売してくれるっていうのだから、まあ、ラッキーですわな。 かつて私の師匠が、「認められない時も腐らずにいい仕事しなさい。存外、見る人は見ているものだよ」と私に言って励ましてくれましたけれども、こういうことがあると、「本当にそうだ」と思わざるを得ませんな。だからこそ、評価されない時も、一生懸命やらないとね。 ま、とにかく、今回のことは、ちょっとしたご褒美だと思って、「その話、乗ります!」とお返事しておきましょうかね。
January 9, 2020
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ひゃー! 高校ラグビー決勝! 桐蔭学園優勝! やった~!! ついに念願の単独優勝! おめでとう~!! 何故にワタクシが桐蔭学園の優勝を喜んでいるかと申しますと、母校だからですよ、母校。何を隠そう、ワタクシは横浜にあるこの学校の出身なのでありまーす。今は野球とかサッカーとかラグビーとか柔道とか、スポーツで有名な学校みたいになっちゃいましたけど、その昔は東大に100人くらい入る結構な受験校だったのですぞ。 ま、それはともかく、やっぱり自分の母校が何かで優勝したりすると、ちょっと嬉しくなりますね。それが母校愛というものなのかどうか。 で、母校がどーのこーのという話にくっつけて言いますと、たまたま今日、私の出身大学からメールをいただきまして。要するに、最近、私が本を出したものですから、大学が刊行している雑誌にその本の執筆経緯などを書けと、そういうお達しなわけ。 まあ、これもまたありがたいお話でありまして、大学の母校とも、なんとなくいまだにつながっているなと。そんなことを実感した次第。 で、思うのですが、自分と母校との関係から言うと、どこが一番近いのかなと。 ま、小学校・中学校時代を過ごした玉川学園、これもまたインパクトのある学校でね。とりわけ、私が在籍していた頃は創立者の小原国芳先生がお元気でしたから、小原先生の影響というものも強い。 玉川学園のモットーっていうのはね、「人生の最も苦しい、いやな、辛い、損な場面を、真っ先に、微笑みをもって担当せよ」だからね。これを小原先生に叩き込まれて私どもは育った。だから、あれから50年近く経った今でも、この言葉が胸から離れたことはありません。「微笑みを持って」というところが、一番難しいんだけどね。 そういう意味では、玉川学園が私の一番の母校、というところもある。 だけど、じゃあ今もなお玉川学園と密接に連絡を取り合っているかというと、そういうことは特にない。そういう意味で、今でも割と連絡があるのは、先にも言いました通り、出身大学との関係なんだなあ。私の出身大学というのは、卒業生を「社中」と捉えておりますのでね。その辺は、福澤先生以来の伝統があって。 だからまあ、自分にとって一番の母校って、どこなんだろう、って、たまに思うわけよ。ま、どれが一番、どれが二番なんて、順番を付けなくったっていいんだけど。 ま、私は学会でも浮いた存在というか、常に一匹狼的なところがありますから、別にどこに所属していなくったって全然構わないんだけれども、普段、そういう心がけなものだけに、逆に、たま~に母校から声が掛かったりすると、「ふうむ、そういえば、私には母校というものがあったんだ」なんて思って、ちょっとホッとするというか。そういうところもある。 母校との関係なんてのは、そのくらい淡いのがいいのかもね。
January 8, 2020
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今日、私より若い同僚から哲学関係の著書の恵投を受けまして。 その同僚、Iさんのご専門はジョン・ロック。今回いただいた本は、Iさんの師匠の還暦記念論文集みたいな感じで、そのお師匠さんの教え子たちが、それぞれ1章ずつ寄稿しているわけですな。 で、Iさんが書いた章というのは、ジョン・ロックの刑罰論を基準にしながら、お師匠さんの刑罰論の至らぬところというか、矛盾点を批判する、という内容。またそのIさんの批判に対して、お師匠さんが最後に再び反論コメントする、という体裁になっていて、要するにお師匠さん対弟子たちによる議論の応酬によって本が成り立っていると。 で、私も義理堅いものだから、自分の専門外である哲学的な議論であるとはいえ、せっかくいただいたものだから、読んだのよ。Iさんの書いた章と、お師匠さんによる反論の部分だけですが。 そしたら、どうなったと思います? 理解できました。そこで何が議論されているか、ちゃんと分かりました。 ほう、こういうむずかしい哲学的/法学的議論であっても、読めば内容が分かるんだ・・・。ふーん。そうなんだ・・・。 で、思ったんだけど、こうなってくると、この世で一番理解が難しい本って、ひょっとしてアメリカ文学の本じゃね? いや、実は今月18日までに、とあるアメリカ文学関係の本の書評を書かなくてはならないのだけど、もう、私にはその本に一体何が書いてあるのか、さっぱり分からないのよ。もう、ほとんど一文字も分からない個所が随所にある。アメリカ文学の人って、やたらにベンヤミンとかレヴィナスとかを引用したがるんだけど、両方とも何言っているんだか全然分からない。 一応、アメリカ文学を専門とする私に何が書いてあるのか分からないんだから、普通の人にはもっと分からないだろうね・・・。 で、さ。最近、そんな分からない本ばっかりなので、要するに学問的な本ってのは、皆難しいのかと思っていたのよ、私は。 だけど、今回、哲学・法学の専門書読んで、普通に読めば分かることが分かりました。 よって、この世で一番難しいのは、日本人が書いたアメリカ文学の専門書であると分かりました。 何だか変だよね! 文学なんて、もともと娯楽のためにあるものなのに、その研究書が一般の法哲学書より難しいっていうんだから。 変なの! ま、アメリカ文学関係の本で、一般の人が読んで理解できるのは、私が書いた本だけだな。
January 8, 2020
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昨年末で一応、卒論ゼミは終了した・・・予定だったのですが、今週末の卒論提出日を控えて切羽詰まったゼミ生3人が私の研究室にやってきて、そこで執筆の追い込みをさせてくれというので、まあ、いいよと。 で、3人それぞれ自分の卒論を書きながら、時折、私にも質問をしてくる。 質問っていうか、「結論をどう書けばいいですか?」的な奴なんですけれども。 「そんなの、自分で適当に考えろよ~!」とは思うものの、残り時間も少ないことだし、仏の釈迦楽としては、一応、一緒になって考えてやるというね。 優しいね・・・。実にいい先生だ・・・。 ま、私だって、別に結論部の妙案なんてものはないのですけれども、それでも「要するに、君はこのテーマを調べてきて、第1章、第2章、第3章とずっと書いてきて、結局、何が一番言いたいと思うの? 何が一番、印象に残ったの?」的なことを尋ねてみる。 で、それに対してゼミ生が返事をするのを、さらに私がコメントしたりしながら、何回か会話のキャッチボールをしていると、段々、「じゃあ、こういうことを書いたら、結論っぽくなるんじゃないの?」というのが定まってくるものなのよ。 やっぱりね、「会話」とか「対話」って大事。三人よれば文殊の知恵っていうけれど、なんか一つのテーマをめぐって人とあれこれ話をしていると、どこかから手がかりが見えてきて、方向性が定まってくるんだなあ。 ということで、まあ、3人それぞれ、なんとなくこういう感じで書けばいいのか、というのが分かったようなので、今日、私の研究室に来た甲斐はあったのではないかと。 ま、そうやって連中がどうにか書いたものを、今度は私が添削しなきゃいけないんだから、私だって切羽詰まっているんですけどね。 でも、こういう苦労もあと数日。ゴールは見えているんだから、切羽詰まったちゃんたちと一緒に、ラストスパートをかけていきますかね。
January 6, 2020
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ウィンドウズ7の保証期間の終焉が迫っているということで、我が家でもパソコンの買い替えを検討中。 今使っているのはヒューレット・パッカードのオール・イン・ワン・タイプで、2011年の2月に買った奴だから、結構、長いこと使ったことになります。モニターが23インチで、当時としては画期的にデカいなと思いましたけど、今やもっとでかいモニターなんていくらでもありますから、むしろコンパクトですらある。 今の所、どこも悪くなくて、普通に起動し、文章を書くとか、ネットを検索するとか、そういう使い方をしている限り、まったく問題ないんですけど、サポートが無くなると色々まずいこともあるようで、大学も買い替えを推奨している。古いものを大事に使うとか、そういう美徳は、少なくともパソコンの世界にはありませんな。 とはいえ、何だかんだ言って新しいモノ好きな私。買うとなれば、やっぱり少しは心が躍ります。ウソ。すっごく踊ります。 今回はどうしようかなと思っているのですが、やっぱり一体型で行くかなと。タワーを使うほどの、アレじゃないしね。 となると、選択肢はNECか富士通か。 で、今日、家の近くの家電量販店に行って、実物を見てきたのですが、店員さんの説明を聞くと、富士通の方がスペック的には上であると。SSDも装備されて、起動なんかものすごく速いらしい。 ま、デザイン的にはちょっとシンプル過ぎるかな、というきらいはあるのですが、やっぱアレかな。性能第一で決めるべきか・・・。富士通 FMVF77D3B【smtb-s】 今、日本中の人がパソコン買い替えに走っているようで、どの製品も品薄らしいですが、そうとなれば早く注文するしかない。一晩寝て、考えます。 さてさて、2011年から今日までの間に、パソコンがどれほど進化したのか、ちょっと楽しみですね。
January 5, 2020
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ひゃー、名古屋に戻ってきました~! 今回は1週間ほどの帰省でしたが、あっという間でしたな。前半、あまり体調は良くなかったですけれども、それでもなんとかやるべきことは全部やったし、まあまあでしたかね。 で、夕方から東名をブッ飛ばして名古屋まで戻ったのですが、毎回、東名を走る度に思うことがありまして。 渋滞表示が見にくい! 東名を西に走っていくと、足柄のところで東名と新東名に分岐するんですが、その分岐の手前の渋滞表示が超見にくいわけ。 よござんすか。東名から新東名に入るには、一番左側の車線を走って、左へ分岐していくわけよ。だから、ドライバーとしては、新東名=左側、東名=右側、という選択肢なわけね。 ところが、そこに掲げられている渋滞表示は、左側が東名、右側が新東名なんですわ。 まあね、結果として西に向かって海側を走るのが東名、山側を走るのが新東名ですから、地理的には渋滞表示は正しいのかも知れません。だけど、新東名に乗るので左に行こうか、それとも東名に乗り続けるので右側に行こうか、その選択をしようという時に、渋滞表示が左=東名、右=新東名だったら、感覚とずれるじゃん! だから、地理的な正確さなんかどうでもいいので、その場のドライバーの感覚通り、「左=新東名、右=東名」で表示してほしいわけよ。 その辺、分かってないなと思う訳ね。あの表示作った奴、はっきり言って馬鹿だわ。 新東名のSAの駐車場作った奴も相当な馬鹿だけど、一体、高速道路のデザインって、どこの馬鹿が担当しているの? とにかく、馬鹿な奴がデザインしたものってのは使いにくいんだから、さっさと変えて欲しい。 そういう「ご意見箱」的なものって、ないのかしら。あったら絶対提案してやろうっと。
January 5, 2020
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例年ですと、大晦日、『ゆく年 くる年』を見終わった段階で近所の神社に初詣に行くのですが、今年は私がまだ風邪を引きずっていたもので、それをやらなかったんですわ。 ということで、今日はまだ3が日だからいいだろうってんで、その神社まで初詣に行って参りました。しっかり住所・氏名を名乗った上で、お賽銭に見合わぬほどのとてつもない大望を告げ、その実現へ向けて力を貸して下さいとお願いしてきましたよ〜! 除夜の鐘を聞きながらの初詣だと、お酒や甘酒を無料で振る舞っているコーナーがあったりして賑やかなんですが、さすがに今日になっての初詣は閑散としておりまして、かろうじて寺務所の片隅でお守りやおみくじを売っているくらいでした。でも、まあ、年の初めの試しですから、おみくじを引いてみた。すると・・・ 大吉! やった〜、2年連続! 今年も幸先いいぞ〜! 特に今年も仕事運が良いようですから、期待しちゃいましょうかね。 で、そのまま帰るんじゃあつまらないってんで、ちょっと遠回りして家の近くの本屋さんに立ち寄り、特に新書コーナーで市場調査。 で、色々な出版社の色々な新書を手に取ってみたのですが、まあ、色々あるけど、玉石混淆だね。お手軽な内容のものも相当あるわ・・・。 だけど、玉石混交だというのは、必ずしも「玉はいいけど、石は悪い」ということを意味しないのかもね。 つまり、世の中には「石」っぽい新書を欲する読者が沢山いると。そういうことなんじゃないかしら。 新書でがっつり勉強したい、というのではなく、新書なんてのは、ほんの時間つぶしで読みたい、ちょっとだけ好奇心をくすぐってくれるようなものであればいい、と思っている人だって沢山いるんだろうなと。 そう考えて自分のことを考えると、ワタクシはつい、自分が書く本の中にめいっぱい情報を詰め込もうと思ってしまうタイプなのよ。だから、結果として、カロリー高めの本になってしまう。 そうじゃなくて、もっと脱力したような本の書き方を勉強した方がいいんじゃないかと。もっと文字大きめな、行間すっかすかの本が書けるようになって初めて、一人前の新書ライターと言えるんじゃないかなと。 ま、そんなことを思った次第。 でも、楽しいよね、年の初めにさ、今後、どういう風にモノを書いていこうか、なんてことをあれこれ考えるのって。 さて、おみくじも大吉だったことだし、今日は一つ、今後の計画でもじっくり考えてみようかな。
January 3, 2020
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正月二日は、小学校時代からの親友TとEと共に新年会をやるというのがもう長年の吉例となっておりまして、今日も3人で昼間っから相模大野で飲んで参りました。 しかし、アレだね、相模大野の寂れ方は、なかなかのもんですな。 一時期、お隣の町田に続けとばかり大規模な再開発があって、どこもかしこもキレイになったなあと思っていたのですが、伊勢丹は潰れるわ、その余波で伊勢丹までの商店街も寂れるわで、人通りもぐっと減ってしまった。なのに、マンションだけはボンボン建っていて、大丈夫なのかなって感じ。一つの町の発展と没落って、計算できないもんですな・・・。 ま、それはともかく。どうにかこうにか居酒屋にしけこんだ我ら3人組は、いつものようにくだらない話で盛り上がっておりました。ま、最近の傾向として、体調が悪い、体力が無くなった、親の具合が悪いとか、そういうしけた話も多いのですが。 そんな中、話題の中心になったのは、ジェネレーション・ギャップの話。 薬剤師のTによれば、同僚の若い人たちってのはもう完全にスマホ世代なので、何をするにもスマホ、スマホで、紙媒体を身近に置きたがらないんですと。 で、かつてはどこの薬局にも貼り出してあった調剤に必要なことを記した張り紙みたいなものがあるらしいのですが、最近、その見慣れた紙が貼ってない事が多く、Tとしては非常に不便を感じているらしいんですな。だけど、若い同僚たちは「そんなの、スマホでググれば一発っすよ」と言うばかりで、全然不便を感じていないと。 で、Tは「そんなこと言ったって、一目で全部を見渡せる紙媒体の便利さってのはあるのに、どうしてそれが分からねえのかな?」と不満たらたら。 分からぬでもないねえ。学生だって、最近はスマホばかりで、パソコンの扱いに暗い奴らばっかりだからねえ・・・。 あと、最近の若い連中には、バイタリティがない、という話も出まして。 我々、バブル世代は、QPコーワゴールドを2000円のユンケル皇帝液で飲み下して24時間働いた挙げ句に、夜通し運転して苗場とかにスキーに行ったわけですけれども、そういう元気が、若い世代に感じられないと。 っていうか、それを言ったら、我々よりも上の世代すらバブルを知らなくて、上司の人から「で、バブルって結局、何なの?」と聞かれたというのですな。 そういう意味では、今50代後半の我々ってのは、我が国の歴史の中でも、とっても異様な世代だったのかもね。 でも、面白かったけどね! とまあ、そんな世代間ギャップの話で盛り上がりつつ、Eの奴はモクモクとタバコを吸い、「電子タバコなんてダメだ、火がついてないとタバコは旨くない」とか言っているんだから、完全に旧人類ですな。 ま、バブル結構、旧人類結構でございます。 とにかくそんな具合で、おっさんたちの新年会は楽しく終了、互いに握手し、またの再会を期して別れたのでした。
January 2, 2020
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はーい、明けましておめでとうございます! 本ブログをご覧の皆様方だけに今年も幸運が訪れますように! さて、年が改まりまして元日。今日はのんびりと起き出して、お節を食べ、例年のように近くの新百合ケ丘まで出て軽く買い物をして参りました。まあ、着物を着ている人も少ないし、あまり元日の雰囲気もありませんでしたが、それでも初売りの熱気というのは多少はありましたかね。 で、いつものようにユニクロに行ってみたり、ギャップに行ってみたり、その他、あれこれ覗き見したんですけど、今日は特に掘り出し物もなく、かろうじて無印良品で私のスタンドカラーのシャツを一枚買ったくらいなもの。だけど、まあ、買い物目当てというより、初売りの様子を見に行くようなものですから、そんなもんでいいの。 で、帰宅後は、姉のところもいることだし、父の遺品の整理ついでに、カメラが趣味だった父が残した膨大な数の写真アルバムを見て、残すものと捨てるものを分ける作業に没頭。 しかし、昔の写真って、見始めると止まらないね。10年、20年前の写真ともなると、家族の誰もが若いものだから、「ひゃー、こんなに若〜い!」などと言い合いながら、しばし歓談のひと時。こういう時間が持てたのも父のおかげでございます。 で、そんな感じでワーキャー言った後、夕食は、これまたいつもの通り宅配ピザ。元日はお節とピザの組み合わせ、これがいいのよ。 とまあ、そんなわけで、例年通り、釈迦楽家の元日はのんびりと過ぎていったのでしたとさ。
January 1, 2020
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