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ひと月ほど前に入稿しておいた母の句集が完成しました~! 母が30年の句歴の中で作った数千句の中から選び抜いた100句を、亡き父の撮影した写真を添えて編集したもの。ちゃんとISBNも取り、国会図書館に納入されるものとして完成! 昨年6月に父が亡くなり、8月に四十九日法要を済ませた後、母を励ますために姉と私で企画したこの句集、最初は嫌だ嫌だと言っていた母ですが、完成間近になってきたら結構ノリノリで、「俳句仲間に『もうすぐ句集が出来るのよ』って言っちゃったわ~」などと笑っていましたから、実物を見せたらさぞ喜ぶことでございましょう。 これ、2月の母の誕生日近くに帰省した時、姉と一緒に渡す予定なんです。86才のバースデー・プレゼント。 それまでは、私が一人、句集をなでさすって、完成を喜ぶことにいたしましょうかね。
January 31, 2018
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授業で『ブルース・ブラザース』を学生に見せたんですけど、うーん、イマイチ反応が悪かったですねえ・・・。 私もこの映画を観るのは久々だったのですが、めっちゃ面白い。で、面白いなあと思いながら、ちらっと学生たちを見ると、無反応なわけ。 大体、この映画に出てくるビッグ・アーチストのことを知らないわけですよ、今時の学生は。ジェームズ・ブラウンを知らないし、アレサ・フランクリンを知らないし、チャカ・カーンを知らない。レイ・チャールズも知らないし、キャブ・キャロウェイも知らない。キャブ・キャロウェイなんて、本作中、例の白いタキシードを着て「ミニー・ザ・ムーチャ」をフルで歌ってくれているのにね。 だから、「ええ! こんな大物が出てるんだ!」っていう感動がない。 それに映画の最後では、スティーブン・スピルバーグまでちょい役で出てくるのに。映画を観た後、「最後に出てくる、クック郡の出納課の役人さん、あれスピルバーグだよ」って言っても、スピルバーグを知らないわけよ。 で、「えー! ほら、『E.T.』とか撮った人」と言っても、そもそも『E.T.』を知らない。 ジョン・ベルーシの恋人役でキャリー・フィッシャーが出ていても、レイア姫と気づかないという。最近の学生、『スター・ウォーズ』も観ないからね。 無論、出演者が誰かはさておくとして、物語として、映画として、面白いと思ってくれればいいんですけど、それも大分怪しかったなあ・・・。 難しいこと聞いてもロクな答えは返ってこないと思ったので、「で、この映画面白かった?」って、小学生向けの質問してみたけど、シ――――ンだったよ。時計の秒針の音が聞こえるほど。 多分、もうダメなんじゃないかな。 まあ、一事が万事。何が伝わるんだろうね、今の若い人には。
January 30, 2018
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やっぱりやっちまった・・・。風邪。昨日は一日、床に臥せっておりました。最近、お気に入りの「エキナセア&ゴールデンシール」の液体サプリを飲んで頑張ったのですが、力足りず。でも、昨年の秋に風邪で倒れた時、薬を飲み過ぎて自爆したもので、今回は風邪薬は極力飲まず、ビタミンCの錠剤だけでなんとか回復途上にまで持っていったという・・・。それだけでも褒めてやってください。 というわけで先週末は何もできなかったのですけれども、一冊だけ本を読み切りました。ジョニー大倉の『キャロル夜明け前 第2章』という本。これこれ! ↓キャロル夜明け前(第2章) [ ジョニー大倉 ] 私の買ったのは「新装増補版」なので、表紙がちょっと違うけどね。 で、これは前に読んで面白かった『キャロル夜明け前』のいわば続篇でありまして、キャロル解散後、矢沢永吉とジョニー大倉がそれぞれの道を歩み始めたあたりの事情にまで触れております。 だけど、前作の『夜明け前』もそうだけど、結局この2冊は、ジョニー大倉から矢沢永吉に向けて出した届かぬラブレターですよ。 ジョニー自身、永ちゃんのことを「(自分にとっての)宿命」と言っているように、乗り越えたくても乗り越えられない壁、憎らしい反面、あこがれもあり、永ちゃんの進む道に受け入れられないものを感じながらも、彼に認められたくて仕方がないところもある、そんな、出会ってしまったが最後、どうしても目が離せないという相手なんですな。だから、自分の道を進んでいても、ついつい、永ちゃんの活躍が気になる。永ちゃんと自分を比べてしまう。永ちゃんの目に、今の自分がどう映るかが気になってしまう。 これは、キツイと思いますよ。 で、結局、キャロル解散以来、二人の軌跡は交わらないまま終わってしまうのですけど、ただ一度だけ、ジョニーが病に倒れて次第に力を失って行った時、永ちゃんから見舞いの花が届いたことがある。その時の様子を、ジョニーの奥さんが記しているのですけど・・・ 「矢沢永吉」と書かれた名札を上から指でなぞりながら、 「無理することないのになー」と言ったあと、 「永ちゃん、ありがとう、うれしいな」 と、何度もうなずきながら喜びを口にしました。がんの苦痛を一瞬忘れて、懐かしい遠い日に戻ることができた、あのときのジョニーの少しテレた嬉しそうな笑顔が忘れられません。(248ページ) そうして死んでいったわけね。 『キャロル夜明け前』と、その続編の本作を比べると、やはり最初の本の方が内容が濃いように思いますけれども、こちらには上のようなエピソードが綴られていますから、やっぱり両方合わせて読んで良かったかなと。 ということで、永ちゃんの『成りあがり』&『アー・ユー・ハッピー?』と共に、ジョニー大倉のこの2冊、教授のおすすめ、と言っておきましょう。
January 29, 2018
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今日は入試関連業務で土曜日であるにも関わらず大学でお仕事。やれやれ。 で、その仕事も一段落して自分の研究室に戻る途中、メールボックスのある部屋に行ったら、私が前に注文しておいた本が1ダースほど届いていて、それが誰からも見られる棚にずらっと並べてあった。 おっと、やべえ、やべえ。一刻も早く撤収しなくては。 私の場合、自己啓発本の研究をしているもので、「瞬時にお金持ちになる方法」みたいなアホな本もたーくさん買うわけ。研究の一端として。だけど、それが私の注文した本としてずらり並んでいるのを他人から見られると、「あれ、釈迦楽さん、そんなにがっついて金持ちになりたいの?」みたいに思われちゃうじゃん? それはあまりにも恥ずいので、なるべく他の先生方に見られないうちに撤収したいわけよ。 もちろん、そういう本ばっかりじゃないよ。ちゃんと真面目な本も買いますよ。たまには。 で、今日届いた「真面目な本」の中には、昨年出版されたばかりのエマソンについての研究書もありまして。 この本を書いているのは、私より1歳だけ年長の、すごく優秀な研究者の方。 で、実は私も今書いている本の中でエマソンのことをちらっと取り上げる予定なもので、この優秀な研究者がエマソンについてどんな風に書いているのか、気になったわけですよ。もし、私と同じ方向性のことを書いていたら、私が屋上屋を架すようなことしても意味ないじゃん? で、そのことが不安だったもので、早速、パラパラとページをめくって一通り眺めてみたのですが・・・ うん、大丈夫。この本にはエマソンと自己啓発思想の関連についてのことは書いてないね。すっごく真面目な、正統的な研究書でした。 そう、私の場合、他の研究者が真面目な研究をしている内は枕を高くしていられるのよ。そういう真面目な研究は、私のふざけた研究と重なることがないものでね。 だけど、彼の大真面目なエマソン像が、私のふざけたエマソン像と比べて、エマソンの本質をより的確にとらえている・・・とは限らないからね、などと言ってみたりして。 ま、そのくらいの自負がなきゃ、研究者なんてやってられませんよ。
January 27, 2018
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昨夜遅く、野暮用で外に出たら雪がチラホラ舞っておりました。 で、そのまま家に戻ろうとしてふと見ると、服についた白いモノはキレイな雪の結晶だったという。 いやあ、久しぶりに見ましたよ、雪の結晶。で、家に戻ってから家内とベランダに出てみると、ベランダの手すりも雪の結晶だらけ。 それにしても、雪の結晶ってのはキレイなもんですな! これほど繊細で、これほどアートなものが自然に空から降って来るなんて、なんてことでしょう。虹と同様、何か神秘的なものを感じますな。中谷宇吉郎先生の、「雪は空からの手紙」という名言が思い出されます。 まあ、尋常じゃない寒さだからこそ、なのでしょうけどね。 しかし、この寒さ、どうなっちゃってるんでしょうか。身の危険を感じるほどの寒さですね。 それでも、私には家があるからいいですけど、この寒さでホームレスの人たちとか、どうしているんでしょうか。ブルーシートでしのげるレベルじゃないんじゃないかなあ。大丈夫かしら。 もうちょいしたら節分ですけれど、早く春にならないかなあ。
January 26, 2018
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某ブログを見ていたら、「甲府方面だとマンションが100万円台で売っている」とか書いてあったので、ふーん、そんなもんかなあと思い、今、安い中古マンションってどのくらいで売っているのだろうと思って、スーモのサイトで甲信越方面のマンションを探してみたわけ。試みに。 そしたら! 今、中古のマンルームマンション、28平米とかだと、10万円で売っているのね。家賃じゃなくて、売値が。 私が見たのは、斑尾のマンションだったから、多分、スキー好き向けの別荘ですな。きっとバブルの頃、調子に乗って作ったんじゃないの? 当時は相当な売値でも飛ぶように売れたんだろうけど、それが今や10万円ですよ。 ひょっとして、レンタルスペース借りるより安いんじゃね? ワタクシも一つ買って、本の置き場とかにしようかな、まじで。 斑尾はさすがに遠いか。 でも、今、そういう時代なんだなと。中古マンション10万円の時代なんだなと。親戚の多い子供だったら、お年玉で買える。 多分、そういうかつてのリゾートマンションって空室だらけなんだろうから、そういうのを友人同志でいくつか買ってさ、定年になったら、そこ集合で遊ぶってのはどう? 10万円なら、しかも友人がそばにいるなら、結構、面白い買いものじゃない? そんなこと考えるだけでも、ちょっと気晴らしになるなあ。
January 25, 2018
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先日のブログにも書きましたが、最近、鈴木晶さんに興味が出てきたもので、その鈴木さんがお書きになった『フロイト以後』(講談社現代新書、1992年)という本を読んでしまいました。 『フロイト以後』とありますが、フロイト以前のことも、またフロイトのことも書いてあるわけで、それにプラスしてフロイト以後の様々な心理学・精神分析学の発展を追っているわけですから、なかなかの力作、それを40歳くらいの時にものしているわけですから、大したもの。 で、フロイト以後のパートで出てくるのが、(有名どころだけ名前を挙げるだけでも)ユング、ライヒ、ラカン、ジュリア・クリステヴァ、ミハイル・バフチーン、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ポール・リクール、ドゥルーズ=ガタリ・・・という感じ。 ・・・もうさ、私が苦手な面々総ざらえじゃん。 そう、私はこの手の思想家たちが超苦手なのでした。思想家本人の言っていることもさっぱり分からないし、その解説書もまったく分からないし、読んで面白いと思ったことが一度もないし、その内容が自分と縁があると思ったことも一度もない。だから、1980年代半ば過ぎ、アメリカ文学関係の学会でもこれらの思想家の言説がやたらに援用されるようになってからというもの、私は学会内に自分の居場所が全くなくなってしまったという感じを受けたのでした。そこで私は学会とは縁を切って、自分の興味のあることだけを研究するようになったのですが。 もっとも、あれほどデリダだ、脱構築だ、と言っていたのに、今じゃそんなこと言う人、学会の中にもいなくなったけどね! 鈴木晶さんも書かれていましたけど、「最近はほとんど耳にしなくなったが、数年前にはどんな雑誌を開いても「脱構築」という言葉が目に入ってきたものだ。この言葉を言い出したのはジャック・デリダだが、これがアメリカにわたって、テクスト分析の一方法として、デリダの思想から独立して一人歩きをはじめ、大流行し、それにつられて日本のアメリカ文学者たちが大騒ぎをしていたのである。」(193-194頁) 「それにつられて大騒ぎ」か。まさに。だけどここに一人、つられなかったアメリカ文学者が居るぜ。 さて、それはともかく、この本がそういう本であるのなら、私には無縁の本なんじゃないの?と思われるかも知れませんが、そうでもないんだなあ。先ほど言ったように、私は自分に興味のあることしか研究しませんから、この本だって私の現在の興味から読む。そう、自己啓発思想の観点から読むのであります。 自己啓発思想、とりわけ「引き寄せ系」自己啓発思想の祖であるフィニアス・クインビーという人は、精神治療の人なんですな。1802年の生れだから、1856年生れのフロイトより半世紀も早く生まれている。で、そのクインビーは、人間の心を「意識」と「無意識」に分けて考えていて、無意識に巣食っている病巣を取り除くことによって病気を治すということを行なっていたわけ。また、その後発展していく自己啓発思想の中では、この宇宙というのはエーテル状のもので出来ていて、それが固体に凝縮したものがいわゆる「モノ」であり、また人間を含む動・植物だ、という風にな独自の宇宙観が生まれてくる。 で、この辺のややインチキ臭い思想と、正統的な(と言っていいのか分かりませんが)フロイト系列の思想と、どうつながるんじゃ、というのがワタクシの興味のありどころなわけ。 で、そういう観点からこの本を読んで行きますと、フロイト以前、そしてクインビー以前の決定的なモーメントというのは、フランツ・アントン・メスメルの登場なんだということがはっきり分かる。 ちなみにメスメルという人は1734年にスイスとドイツの国境付近に生れ、ウィーン大学医学部卒ですからフロイトの大先輩。ただし、33歳でものした学位論文のテーマは「人体疾患に及ぼす惑星の影響について」。いきなりインチキ臭い。で、その後自宅に劇場まで備えるような大金持ちの未亡人と結婚し、この劇場でモーツァルトが書いた最初のオペラ『バスチアーンとバスチエンヌ』が初演されたというのだから、これはすごい。 で、メスメルはこの大豪邸で治療を始めるのだけれども、1774年のある時、様々な発作に悩む25歳の女性の治療において、まず彼女に鉄を含んだ薬を飲ませ、その後身体に磁石を貼りつけたところ、数時間で全快するということが起きるんですな。で、この治療がなぜ成功したかを考えた挙句、メスメルは次のように結論付けた:人間(さらには宇宙全体)は、ある流体に充たされており、患者が治癒したのは、メスメル自身の中に蓄積していた流体が患者の中に磁気流を生じさせたためだと(35ページ)。 で、これがメスメルの有名な「動物磁気(magnetisme animal)」ですな。 で、メスメルはこの動物磁気による治療法を引っさげてパリに進出、当時のパリの科学ブーム(熱気球で人は空も飛べるようになった!)の時流に乗って大人気となるわけ。 で、あんまり人気が出ちゃったもので、一人一人治療していたらまどろっこしいということになり、患者を「磁気桶」に浸からせて、みんな一遍に治しちゃったと。で、こりゃいいってんで、この独自の治療法をアカデミズムに認めさせようと一生懸命になったのだけど、ルイ16世から委任された委員会(このメンバーに、アメリカ自己啓発思想の祖の一人、ベンジャミン・フランクリンが居た、というのがめっちゃ面白いところなんですけど)から全否定されて、それでブームは去り、失意のうちにメスメルは亡くなりましたとさ。 でも、とにかく、メスメルの思想を要約すると、①宇宙には物理的流体(動物磁気)が充満しており、それが人間・地球・天体を、そして人間どうしを媒介している。②人体内にある流体の分布が不均等になると病気になる。したがって、その流体の平衡が回復すれば病気は治癒する。③ある種の技術(磁気治療)を用いれば、この流体の流路を開いたり、流体を貯留できたりする。他の人間に移送することもできる。④かくして患者に「分利」(発作の激発のこと)を誘発することによって病気の治療が可能である。(39ページ) となるんですと。 で、なにはともあれ流体が宇宙を、そして人体を満たしているという発想、これがフロイトのリビドーの概念に繋がるそうなんですけど、もちろん、クインビーの思想にもつながるわけね。何となれば、クインビーもまた、メスメル派の治療を受けて自分の病気を治し、自分でもメスメルを勉強していたのだから。 つまり、メスメルを根っこにして、その後継者としてクインビーとフロイドは並び立つわけだ。ある意味。 もっとも、患者をトランス状態にして治療する、ということ自体は、メスメルが発明したものではない、ということも鈴木さんは指摘しております。例えばメスメルの同時代人の「ガスナー神父」なんてのは、メスメル以上にこの種の治療が得意だったとのこと。 だけど、ガスナー神父がやったのは、「悪魔祓い」なのね。病気は悪魔の仕業で、悪魔祓いをすれば病気は治るという発想。そういうのは昔からあるわけですよ。 だから、そういう昔からの宗教的な説明を、非宗教的なものにしたという意味で、メスメルは近代精神療法の祖なわけね。で、メスメルの近代的精神療法の流れは、以後、シャルコー、リエボー&ベルネーム、ブロイアー(あるいはアンナ・O)に受け継がれ、やがてフロイトのところまで来ると。 ちなみに、このメスメルの流体説は、その後、フロイトの弟子であるウィリアム・ライヒに受け継がれ、「オルゴン・エネルギー説」っていうのになるんですと。鈴木さんに拠りますと、ライヒは若い頃にフロイトに傾倒し、その若き弟子となるんですけど、その後生物学に関心が移り、オルゴン・エネルギーの研究に没頭、ライヒによれば、宇宙に遍在している生命エネルギーを措定し、これが滞ると人は病気になるとして、このエネルギーをオルゴン・エネルギーと命名、その後アメリカに渡り、オルゴン・エネルギー集積器を開発したりするんですけど、当然、マッド・サイエンティストとしてキ印扱いされるようになり、1957年に獄中で死ぬという悲惨なことになる(何ソレ?)。 だけど、ここからがまた面白いところなんだけど、このライヒのオルゴン研究は、その後、アメリカ西海岸のカウンターカルチャーに少なからぬ影響を与えた(138ページ)というのですな。西海岸のカウンターカルチャーって、やっぱエサレン研究所ですかねえ。 あと、ライヒの思想は、世界一自由な学校として知られる「サマーヒル・スクール」の創設者A・S・ニールに影響を与え、それがトモエ学園の小林宗作にも影響を与えたと言いますから、トモエ学園の卒業生であるトットちゃんこと黒柳徹子氏なんてのは、遠くライヒの影響を被っているのかもね。 あと、もう一つ面白かったのは、私が敬愛してやまないアメリカの作家・絵本作家ウィリアム・スタイクがライヒの崇拝者で、ライヒ本人に頼まれて『聞け、小人物よ』の挿絵を描いたという事実。マジですか・・・。 それから、フロイトの時代になりますと、動物磁気がどうのこうのという部分が、例の「無意識」がどうのこうのということに変化してくるわけで、それゆえ「無意識」というものはフロイトが発見したんだという俗な理解があるわけですけれども、それは全然事実に反する。鈴木さんはここでフロイトを徹底批判したアイゼンクという人を引用しているのですが、それによると:「1870年頃は、「無意識」は専門家ばかりでなく、教養をひけらかしたいひとびとにとっても既に格好な当世風の話題であった。ドイツの作家フォン・スピールハーゲンは、一八九〇年前後に書かれた小説の中で、一八七〇年代のベルリンのサロンの雰囲気を描写し、当時の主な話題は二つ、すなわちワーグナーの音楽、つまりトリスタンと、フォン・ハルトマンの無意識の哲学、つまり本能であった」と(52ページ)。 無意識というのは、だから、フロイトの専売特許ではないと。 ただし、フロイトの無意識の解釈というか、理論は、それはフロイト独自のものであり、そのフロイトの無意識論が後世に影響を与えたという意味では、やはりフロイトの専売特許とも考えられる、という風に鈴木さんは仰ってます。 ・・・ってなわけで、この本はもちろん入門書ではありますが、上に書いてきたようなことが一応、私の頭の中で整理されたので、やっぱり読んで良かったかなと。 ただ、この話題に本格的に取り組むとなると、それだけで大研究になっちゃうので、私としては、あくまで自己啓発思想研究の枝葉の一つ程度に扱わないとね。【中古】フロイト以後 / 鈴木晶
January 24, 2018
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このところジャズの本を買ってなかったなと思い、久しぶりに『人生が変わる 55のジャズ名盤入門』(鈴木良雄著、竹書房新書)という本を買ってチラチラ読んでいたのですが、ざっと目次を見たところ、著者の鈴木良雄さんが推薦している55枚のジャズ・アルバム、ほぼ全部持っているなと。 さすがワタクシ。いかにジャズ・リスナーの王道を歩んでいるかってことですよね! ただし、この55枚の推奨アルバムのうち、マイルス・デイヴィスの2枚、『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』と『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』だけ持っていなかったので、買っちゃった。 で、順に聴いているのですが、勿論、マイルスのアルバムですからいいです。勿論。勿論。 だけど、マイルスのトランペットって音圧が強いので、こちらも覚悟を決めて聴かないと、負けちゃうのね。だから、休み休み聴いた方がいいかなと思って、あんまりがっついて聴かないようにしているところ。 ところで、マイルスよりももっと気楽に聞ける音楽として、最近私がはまっているのが、YouTube で聴ける音源。 「Tiny Desk Concert」というのが楽しくて、息抜きによく聴いています。 例えば、小学生くらいの女の子が、見事な歌唱を見せるこんなのなんてどう? 超キュートじゃありません?これこれ! ↓Tiny Desk Concert これだけに限らず、シリーズもので色々なアーティストのアンプラグドな演奏が聴けるので、おすすめでございます。クラシックからカントリーからロックから、色々なジャンルが聴けますぞ!
January 23, 2018
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WOWOWでやっていたのを録画しておいた『パッセンジャー』という映画、昨日、観ちゃいましたので、ちょいと心覚えを。以下、ネタバレ注意ということで。 地球から遠く離れた星への移住を希望する5000人もの人を乗せたアヴァロン号が宇宙を航行している図から映画は始まるのですが、そこでいきなり隕石群と遭遇! 一応、宇宙船はシールドで守られてはいるのですが、想定外の巨大な隕石と衝突してしまい、船の一部にダメージを負ってしまうんですな。 そしてそのダメージの影響か、冬眠状態で眠っていたジムのポッドが開いてしまい、5000人の乗客の中でただ一人だけ目覚めてしまうんです。 この移住計画では、地球からその星までの旅程が120年。だから乗客は120年間冬眠して、到着の3カ月ほど前に自動的に起きることになっていたんですな。だけどジムだけは、突発的な故障により一人だけ起きてしまった。まだ地球を離れてから30年しか経っていなかったので、あと90年間、船内で一人で居なければならない。 それに気づいたジムはすぐに地球に連絡して対処法を尋ねようとするのですが、なにしろ光速の半分のスピードですでに30年間飛んでいますから、地球にジムのメッセージが届くまでに15年かかる。そしてその返事がジムの元に届くまでにまた数十年。それでは間に合わない。 要するに、彼は死ぬまで独りぼっちということが決定したわけね。 広く豪華な船内に、話し相手はアンドロイドのバーテンダー、アーサーただ一人。このままたった一人で数十年暮らし、死んでいくんだと考えたら、もう絶望しかない。とりあえず1年間は一人で頑張ってみたけれど、そこで限界が来る。 で、ジムはさんざん悩んだ末、もう一人、船内のポッドで冬眠していたある美しい女性を起こすことにします。で、ポッドをわざと故障させてしまう。 で、そうとは知らずにジムに起こされてしまった女性・オーロラは、当初、1年前のジムと同じ反応を示します。とにかく、どうにかならないか、ありとあらゆる手段を講じようとするわけ。しかし、最終的にはジムが到達したのと同様の結論に至る:どうにもならないと。 かくして、過酷な運命を二人で耐えなくてはならなくなったジムとオーロラは、必然的に仲良くなり、恋に落ち、そしてついに結婚したいと思うようになる。で、ジムは船内から適当にくすねてきた指輪を用意して、オーロラへのプロポーズを計画・・・ が! オーロラを起こすかどうかでさんざん悩んでいた時期、ジムの相談相手になっていたアンドロイド・バーテンダーのアーサーが、オーロラに、彼女を起こしたのはジムであることを漏らしてしまうんですな。もちろん、ジムはアーサーに「このことは秘密に」と言ってあったのですが、オーロラと恋仲になるにつれ、うっかり「二人の間に秘密はない」とアーサーに宣言してしまったもので。 で、そのことを知ったオーロラは激怒します。親しい友人たちとの絆を切ってまで他の星への移住という冒険を計画し、さらにはもう一度地球に戻って、かの星の暮らしぶりを報告しようと計画していたオーロラの夢は、すべてジムによって奪われた――そのことを知ってしまった以上、オーロラにとってジムは憎むべき不倶戴天の敵でしかない。 船内に二人しかいないのに、その二人が決定的に決裂するという、最悪の事態が起こったわけ。 しかし、そんな中、宇宙船アヴァロン号の様子がおかしくなり始めます。どうやら、2年前の隕石との衝突で生じた欠損が、いよいよ悪化してしまったんです。このままではジムとオーロラはもちろんのこと、5000人の乗客と200人以上のクルーの命は宇宙の藻屑と消えることになることは必至。 さて、ジムとオーロラは、この事態にどう対処するのか? そして二人の運命は? ・・・みたいな話。 で、先にこの映画への私の点数を言っておくと・・・ 「80点」です! 結構面白い! あのね、この映画、まず設定がいいです。冬眠から一人目ざめてしまい、あとは一生一人で居るしかないという状況。すぐそばに5000人の人が居るのに、それでもやっぱり独りぼっち。文字通り「群衆の中の孤独」というシチュエーション、これはかなりオリジナルなのではないかと。 そして、豪華な船内をこの先、自分が死ぬまで独り占めできるというシチュエーション。これも素晴らしい。このブログでも何度も言ってますけど、私の夢って、深夜のデパートを借り切って、一人で買い物をするというものですからね。まさに、それじゃん。 あと、話し相手のアーサーがいいんだなあ。ジムとアーサーが会話するシーンってのは、要するにアレですよ、映画『シャイニング』へのオマージュですよ。 そして、この映画の決め台詞の一つであるオーロラの「You die, I die!」というのは、これまた映画『タイタニック』(You jump, I jump!)に対するオマージュね。 さらに宇宙船アヴァロンが、船体を回転させることで重力を発生させているという前提は、『2001年宇宙の旅』へのオマージュでもある。 そういう風に細かく見ていくとなかなか凝っているわけですな。 もちろん、突っ込みどころはあちこちにあります。地球からそんなに遠く離れた星に移住するのはいいとして、先に向こうにいった連中がどうなったのか、その答えはまだ地球に届いていないはず。それなのにどんどん移住者を送り込んで大丈夫なのか? とか。あと、いくら「私、壊れないので」という自信があるにしても、万が一、冬眠ポッドが故障したときの備えをしてしてなかったのか? とか。 でも、そうした疑問をあまり深く意識させないほど、テンポよく映画は進行するんですわ。だから、飽きるということがない。 そういう意味で、ここ数年で見た宇宙モノの中では案外これが一番面白かったのではないかと。少なくとも『ゼロ・グラビティ』とか『オデッセイ』より好き。あと題名がちょっと似ている『メッセージ』よりはるかに好き。 ということで、大傑作ということではありませんが、2時間何も考えず映画に没入できるという点で、この映画、ちょっとおすすめしておきましょう。パッセンジャー 【DVD】
January 22, 2018
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ジョージ・レナードという人の書いた『達人のサイエンス』(原題:The Key to Success and Long-Term Fulfillment)という本を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 この本、原書は1991年に書かれ、それが1994年に翻訳されて、今日まで13版(刷)まで版を重ねております。昨日ブログに書いた『神との対話』(文庫版)は2002年初版で今日まで39刷ですから、それに比べたらそこまでではないのですけれども、見た目地味な本なのに、そこそこ売れております。 ちなみにジョージ・レナードという人は『ルック』という有名なアメリカの雑誌の編集局次長を務めたアメリカの教育問題の専門家。合気道の達人でもあり、そんなところから1980年代には「究極のフィットネス」という特集記事を『エスクァイア』誌に書いて評判となり、それが本書の母体となったとのこと。 さらに言うと、この人はカリフォルニアの「エサレン研究所」の名誉所長ですな。「名誉所長」って何なの?というのはありますけれども、とにかくこの人がエサレン系であることは確か。つまり、禅とかさ、瞑想とかさ、そういう身体の修業を通じて精神まで鍛えちゃう的なのがお好き系と見た。先にも言いましたが、合気道の達人だしね。 で、本書『達人のサイエンス』なんですけど、日本語で「達人」と言っているのは、英語では「マスタリー(mastery)」でありまして、楽器演奏でも、スポーツでも、クルマの運転でも、とにかく何かの技術を極めちゃう状態のこと――なんですが、本書で言う「マスタリー」は、その究極の状態のことを言っているのではなく、そこへ到達しようと努力する、その「過程」のことも含めて「マスタリー」と呼ぶわけね。だから、マスタリーはしばしば本書の中で「旅」とも呼ばれます。 だから、なんであれ新しいことを学ぼうとする時、マスタリーの旅が始まるわけですよ。でまた、学ぶということは、本能によってあらかじめプログラミングされたこと以外の何かを学ぶということであって、極めて人間的な行動であるわけですな。だから、マスタリーへの道というのは、誰にとっても、いつでも開かれている。 が! 開かれているというのと、その道を辿るというのは全く異なることなわけでして。 まあ、人間ってのは誰でも何か新しいことを始めるということ自体には興味があるわけですよ。なんか、楽器を習ってみようかな、とか、外国語勉強してみようかな、とか、テニス教室通ってみようかなとか、社交ダンスやってみようかなとか、そういう思いは、誰しも経験することでありましょう。 しかし、そういう新たな学びを始めたとしても、誰もがマスタリーの道を歩むとは限らない。要するに、挫折する人が出てくる(というか、大抵の人は挫折する)。 で、挫折するにもタイプがありまして、「ダブラー(Dabbler)」タイプの人は、ミーハー型で、何にでも興味をもってすぐに飛びつくんだけれども、最初の壁にぶち当たった途端、「これ、ひょっとしてオレに合ってないんじゃね?」と思ってすぐに止めてしまい、また別なものに飛びつくということを繰り返す。 また「オブセッシブ(Obsessive)」というタイプもあって、とにかく性急に結果を出そうとして初めのうち猛烈に打ち込むんですな。で、そんな風ですから、最初のうちは急激に上達するのですけど、その勢いに乗って成功したり失敗したりを繰り返すうちに、最終的には途中で燃え尽きてしまう。 もう一つ、「ハッカー(Hacker)」タイプというのがあって、ちょっとでも上達すると、もうそこで満足してしまうんですな。で、そこに留まり続けることに何の不満もない。だから、結局、前進しないわけですよ。前進しないまま、そこでオワリ。 なるほどね。 この3つのタイプは、挫折する人の典型症例でありまして、それぞれの人がどれかのタイプにきちっと当て嵌まるというものでもなく、一人の人がそのチャレンジするモノに応じて違うタイプの挫折の道を辿ることもある。事実、ワタクシなんかはダブラーでもあり、ハッカーでもあるかな。例えばワタクシが楽器をマスターできないのはダブラーだからだし、何年やってもスキーが上達しないのはハッカーだから。自分で言っていて耳が痛いわ。 で、レナード曰く、新しい分野にチャレンジすると、急速に進歩する瞬間と、停滞する期間が交互にやって来ると。全体として見れば、進化は一方的な右肩上がりではあるのだけど、停滞する期間にあるチャレンジャーにとっては、「いくら練習しても上手くならないよ!」という、絶望的な気分に陥ることにもなる。 で、この停滞する期間のことを「プラトー」と言うのですが、要はこの「プラトー」にどう対処するかで、マスタリーの道を辿れるか辿れないかの分岐点があると。レナード曰く: われわれは成果、賞、クライマックスに基づいた評価の仕方を山ほど教えられてきた。しかし、人はスーパーボウルで勝利した直後ですら、もう明日のことを心配しはじめるのだ。もしわれわれがよき人生、すなわちマスタリー的な人生を送っているのであれば、その大半はプラトーで過ごすことになろう。さもなければ人生の大部分はじっとしておれない不安定なものとなり、ついにはプラトーから逃避するための自己破壊的なあがきに終ってしまうだろう。 そこで次のような疑問が出てくる。プラトーというなかなか成果が見えない長い努力の時期を価値あることとして認め、楽しく生活し、しかもそれが好きになれるような教育が、家庭や学校や職場など、どこで行われているだろうか? ま、レナード氏はこの本の最初に述べていることなんですけど、アメリカという国は、成果主義の権化と言いましょうか、とにかく結果を出せ、それもすぐに出せ、という風潮が強まっているのであって、そういう国の中で成果が出ない時期を過すのは、とてつもなく困難だと。 だーけーどー。 プラトーを愛さなかったら、それはすなわち人生を愛さないというのと同意だと、レナード氏は言っております。なんとなれば、人生というのは常に、何かへの途上なのだから。 だから、プラトーに留まりなさいと。練習と実践、それを果てしなく繰り返すこと。これこそが達人の道なのだと。どうせ、何かに到達したと思った瞬間、更に上の目標が出来るのであって、「これが終点」と言えるような到達点なんかもともと存在しないのだから、何かの途上に留まることを愛さなかったら、それはもう生きているのを捨てるようなものなわけね。実際、何かの達人と呼ばれる人は、ゴールに到達することなんか目指してない。彼らは、ただ好きだからやっているだけなのであって、我々もそれを見習うべきだと。 この辺になってくると、これはアレだね。アブラハム・マズローですよ。「人間ってのは自己実現に向って絶えず成長する」っていう奴。マズローもエサレン研究所系の人だから、その点でもバッチリ符合する。 で、しかしそうは言っても、プラトーに留まり続けるっていうのは、それなりに骨でもある。そこでレナードさんは、いくつかのコツを伝授してくれちゃってます。 例えばね、何はともあれ「いい指導者を見つける」こと。これが大事。 それから「ひたすら練習すること」。 それから「プライドを捨てて、没入すること」。 それから「イメージ・トレーニング」を重視すること。人間ってのは、ヴィジョンを持つことによって、後から技術が追いかけてくるということが往々にしてある。思考は現実化するわけですな。 それから「時には限界に挑むこと」。 あと、その他の注意点として、自分もしくは周囲からの抵抗に慣れるということね。人間ってのは、恒常性を重視するので、何か新しいことを始めると、古い習慣からの抵抗を受けるわけ。長年、寝坊を繰り返していると、ある時、「よーし、明日から早朝に起きてジョギングするぞ」と決意しても、すぐに意志がくじけちゃうところがある(耳が痛い!)。それに周囲の人間もそう。人が向上を意図して何か新しいことを始めると、「そんなことやめちゃえよ」と邪魔しようとする。でも、そういうことはある意味人間として自然なことなのだから、そういう抵抗があるぞ、と最初から覚悟して、それに対処するつもりでコトを始めないと挫折しちゃうわけね。 その他、エネルギーというのは使えば使うほど湧いてくるものだから、エネルギーが無くなるから、というのを挫折の理由にしちゃダメ、とか。 一貫性というのは重要だから、何かの練習を始めるなら、曜日とか時間をしっかり決めた方がいいよとか。でもあまり一貫性にこだわり過ぎるのもダメで、決めたことを二、三回さぼったからって、それを止める口実にしない方がいい。エマソンも言っているように「やみくもな一貫性は、小心者の迷信」だから。 あとね、マスタリーというのは、何か特別なことでなくてもいい。例えば「家事」のような平凡なことですら、意識的に、能率よく、完璧にこなそうと思えば、それなりの覚悟と練習が必要になってくるので、そういう平凡なことをマスタリーの目標にするのもいい。些事も意識的にすればそれが修業の場になるわけね。 まあ、そんな感じのことが縷々書かれております。あ、それから、本書の最後には、レナードさん考案になるリラックス法と言いましょうか、ヨガ的な感じの、自分の重心を意識する的な運動法みたいなのも書かれていますので、そういうのに興味のある人は必読。 というわけで、この本、自己啓発本としてはあまりにもまともと言いましょうか、お説ごもっともな話ばかりで、すごくタメになる反面、それが最初からできるんだったら誰も悩まねーよ、という感じにもなる、そういう本ですね。 でもね、まあ、「プラトーを愛せ、何故ならそれが人生だからだ」っていう一点については、世の(自助努力型)自己啓発本の要点を一言で表現しているようなところがあって、それは評価できるんじゃないかと。結局、そこにマズローも、チクセントミハイも、全部含まれちゃうわけだし。 それどころか、この一言って、誰が言ったにしても、ものすごい金言っぽくない? インドのヨガの最高位の行者が言いました、といっても通じるし、オビワン・ケノービが若きルーク・スカイウォーカーに向って言いました、といっても通じそうな気がする。 っていうか、これちょっとパクって、卒業式の訓示とかで使おうかな・・・。ワタクシ、3月の卒業式の日に卒業生に向ってスピーチしなくちゃいけないんですけど。 ちなみに、レナードさんは合気道5段の達人ですから、本書の随所に合気道の話が出て参ります。マスタリーの例としてね。しかも、彼は47歳くらいの時に合気道を始めたんですな。だから、45歳くらいで八光流柔術を始めたワタクシとしては、すごく共感できるわけよ。そうそう!みたいな。そういう意味でも面白かったかな。 ということで、まあ、読んで無駄にはならない本ですので、おすすめ印を押しておきましょうかね。これこれ! ↓達人のサイエンス 真の自己成長のために [ ジョージ・バー・レナード ]
January 21, 2018
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ニール・ドナルド・ウォルシュという人の書いた『神との対話』(原題:Conversations with God, 1995)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、ウォルシュさんが神さまと対話した時の実況録みたいな感じなんですけど、当時、ウォルシュさんがあれこれ生活に破綻をきたしていて、自暴自棄になって、この際、神さまに文句言ったろうとか思って、便箋に「なんでわしの人生はこんななんじゃ~!」とか不満をぶちまけ、言いたいこと言ってちょっとすっきりしたところではたと手が止まり、逆に自動筆記みたいな感じで自分の意図しない言葉をつらつらと書き始めちゃった。 で、自分が予期せず書いてしまったものを読んだら、なんと! それは神さまからのメッセージでした! で、以後、ウォルシュさんと神さまの間に対話が始まり、ウォルシュさんの質問に神さまが答える形でこの宇宙の仕組み、神さまの心づもり、人間はどう生きるべきかといったことが次々と開陳されていった・・・。 ・・・みたいな感じ。 ふーん、そうなんだ~。良かったね~。 で、ここでこの本を閉じるか、読み進めるか、二つに一つ。 だけどね、この時点では「アホか」と思われるかも知れませんが、この先、案外面白い展開ですよ。基本、引き寄せ系の自己啓発本ではあるのですが、その宇宙観/神さま観はちょっと面白い。 で、神さまご本人の説明によるとですよ、始めに、神さまだけが存在していたんですと。つまり神さま一人が「存在のすべて」であった。 ところが「存在のすべて」であると、自分自身のことが全く分からないと。 光があるから、闇の意味が分かるわけでありまして、物事ってのは比較対照する物があって初めて認識することが出来るわけですよ。だけど、当時は神さまが存在のすべてだから、神さまには自分のことが分からないわけね。 だけど、神さまは自分がどういう存在であるかを知りたいと強く欲したんですな。 そこで、神さまがどうしたかっていうと、自分の一部を細かく分けて独立させたわけ。その小さい自分があるから、それと比較して大きい自分、すなわち自分本体が分かるようになったと。で、その「小さい自分」ってのが、要するに人間であります。神は人間を自分の似姿に作られた、というのはこういう意味だと。 で、神さまは、自分の一部であり、同様に創造的存在である人間に様々な体験をさせることによって、自分がどのような存在なのかを知りたいと思われた。それが唯一の、自分を知る方法だったから(115頁辺りを参照せよ)。 だけど、人間は神の分身であり完全な存在だから、人間もまた自分自身を体験することが出来ない。そこで次善の策として、神は人間を物質界に送り込む際に、人間に自分が神の一部であることを忘れさせたと。つまり、キリスト教のある宗派が主張するように、神は不完全な存在、原罪を背負った存在として人間を作ったのではないんですな。そうではなくて、完全な存在として人間を作ったのだけど、そのことを人間に忘れさせた。だから、この物質界で人間は愚かなものも含めて様々な体験をすることになるのだけど、結果、神さまは自分以外のことを知ることが出来るようになり、それによって自分自身のことを知ることが出来るようになった。 これが神と人間との神聖な共同作業であり、また人間の生の最終目標は、自分が神(の一部)であることを思い出すことだと。 だけど、そうは言ってもそう簡単に「あ、思い出した! 俺って神さまだったんだ!」ってなことにはならんわけで、人間はこの世で色々な目に遭います。愉しいこと、苦しいこと、悲しいこと。悔しいこと、辛いこと、笑っちゃうこと。でも、そうした人間の喜怒哀楽を通して、神は自分を理解していくわけ。 なーるほどー。そうだったんだ~。 引き寄せ系の自己啓発本を読んでいると、「人間は完全な宇宙の一部である」「人間(及び宇宙にあるすべて)は宇宙を構成するエーテルが冷えて固まったもの」ってな説明をするものが沢山ありますけど、「それはすべて神が神自身を理解するため」という上位概念を提示してきたのは本書の独自なところでありまして、そこは面白いと思いますねえ。 で、ここからさらにウォルシュを通じて神さまが説明するのは、人間の「自由選択」という概念ね。 従来のキリスト教の倫理からすると、この世には「正しいこと」と「悪いこと」があって、人間は正しいことを選ぶ義務があり、もし悪いことを選んだら地獄墜ちだと、まあそんな風に思われている。でも、本当はそういうことはまったくないと。 つまり、正しいか正しくないかってのは、人間が勝手に決めつけたもので、実際にはそんなものはないし、だから、正しいことをしなくてはいけないというような義務もない。神さまは、人間がどういう選択をするか、それを観察しているのであって、その結果には何の興味も抱いていない。また人間が自由に選択することによって何か悪いことが起きた場合でも、神さまにはそれをコントロールする術はないと。 また神さまは「十戒」のようなルールを決めたこともない(163-164頁)。だから、神さまの教えに従わなくてはならないということもない。もし神がルールを作ったのであれば、「みんな、私の作ったルールに従うかな?」などと成行きを見ているはずがない。だって、神がルールを作るなら、神の創造物すべてにそれを守らせるはずだから。 「神はルールを作るに違いない」などと考えるのは、子供の時に親から躾られ、親の言うことを聞かないと罰があるぞ、という風に教えられてきた、それを人間が勝手に敷衍したからであって、私自身はそんなこと決めた覚えもないし、人間が何をやろうが意にも介さないと、ウォルシュの神さまは言います。 それはちょうど、親が子どもに遊ばせているのと一緒。子供が原っぱに行ってかくれんぼうをしようが、鬼ごっこをしようが、野球をしようが、それには興味がない。何をするかは子どもが決めればいいのであって、「これをやれ」と命じることはない。ただ、楽しく遊んでくれていることだけを見守っているだけだと(36頁辺り)。 つまり神さまは人間に完全なる自由を与えたんですな。もし、「いい選択をしたら天国、悪い選択をしたら地獄行きだ、さあ、お前はどっちを選ぶ?」というのでは、自由選択とは言えない。それに、もし人間に「いい選択」だけしてほしいのであれば、そもそも「悪い選択」を自分が作るはずがない(114頁辺り)。だから、人間は人生において、何一つ怖れることなく、自由に選択していけばいい。そしてその選択によって人間は刻一刻と世界を創造しているのであると。 だから、人間の魂の目的ってのは、様々な体験をすること。神さま曰く: 愛とは感情――憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望など――がないことではなく、あらゆる感情の総和だ。あらゆるものの集合、すべてである。だから、魂が完璧な愛を経験するには、「人間のあらゆる感情」を経験しなければならない。自分が理解できないことに、共感できるだろうか。自分が経験しなかったことについて、他人を許せるだろうか? そう考えれば、魂の旅がどんなに単純で、しかもすごいものかがわかるだろう。そこでようやく、魂が何をめざしているかが理解できるはずだ。人間の魂の目的はすべてを経験すること、それによってすべてになりえることだ。一度も下降したことがなければ、どうして上昇できるだろう? 一度も左になったことがなくて、どうして右になれるだろう? 冷たいということを知らなければ、どうして温かくなれるだろう? 悪を否定していたら、どうして善になれるだろう? 選択肢がなければ魂は何も選べない。魂が偉大さを体験するためには、偉大であることはどういうことかを知らなければならない。そこで魂は、偉大さは偉大でないところにしか存在しないと気づく。だから、魂は偉大でないものを決して非難しない。それどころか祝福する。そこには自らの一部、別の一部が現われるために必要な一部があるから。(143-144頁) しかし、もちろん人間の魂には、一つの欲求があって、それは「出来る限りの栄光を体験すること」。だから、自分の魂の叫びにちゃんと耳を傾ければ、人間ってのは、どんなプロセスを経、どんな道を通ろうとも、最終的には神の元に帰ってくる。だから、辿り着く先のことを心配することはまったくないんですな(151頁)。そうじゃなくて、重要なのは、そのプロセス・道であると(175頁)。神さまは言います: あなたがたは人生を使って、真の自分、こうありたいと願ってきた自分を創造する。また、ある行動を拒否する理由もひとつしかない。それが自分にふさわしくなくなった、という理由だ。その行為が、あなたがたの真の姿を表さないからである。正しい自分を示したいと願うなら、永遠のなかに映し出したいと思う自分にふさわしくないものはすべて、変えていくよう努めなければならない。(70頁) ・・・とまあ、ウォルシュの神さまがいう世界の仕組み、人間の在り方っては、ざっとこんな感じ。だから、キリスト教原理主義が教えるような、「原罪」なんてものはないし、神が特定の人間を天国に送ったり、地獄に送ったりすることもない(204頁)。だから、安心して自分の人生を歩んで行きなさいってわけなんですな。 どう? 納得する? ワタクシはねえ・・・割と好きかも、この世界観。特に「人間の自由意志による選択」ということの説明として、これ以上、説得力のある説明ってないんじゃないか、とすら思いますね。 あと、この世に完全に正しいこととか、完全に誤ったことなんてないし、すべては相対的なものだとする考え方も好きかも。絶対的な正邪でモノを判断すると、どうしても束縛されますからね。 あと、この考え方からすると、自分が間違いを犯すことの意味も、ポジティヴに捉えられる気がする。だって、間違いを犯した体験もまた重要だ、というわけですからね。そうして初めて、その対極にある栄光が理解できるわけだし。また、何か悪いことをやったから、自分は地獄行きだと思う必要もなくなる。自分の行き先(=神の栄光)はあらかじめ分かっているわけだから、結果に不安を抱くことなく、そのプロセスの充実だけに集中できる。これは、いわば、チクセントミハイの「フロー」の考え方に似ております。 要するに、ポジティヴ思考なわけですよ。ポジティヴ思考を、キリスト教概念の新たな意味づけによって説明していると言いましょうか。自分がやりたいように、また自分の直感と反省に従って自分の道を歩んでいくのを、神さまが喜んでいるんだと言われれば、勇気も湧いてくるというものじゃん? で、こんな風に宇宙観/神さま観を決めてしまえば、ここから先は割と普通な自己啓発本的言説になります。 つまり、人間は自分の人生の創造主であると。だから、まず自分の心に成りたい自分を思い描き、それを言葉で宣言し、行動に移せば、かならずそうなると。また、もし今、自分の置かれた状況が悪いのであれば、それは過去に自分が思ったことがそうさせているのだから、まず自分の思いから変えろという言い方(インサイド・アウトの発想法)も、一般的な自己啓発本に近い。 それから、この世の悪い状況も、複数の人間の思いを反映しているのだから、人間(たち)は、今この瞬間に、思いを変えることによってこの悪い状況を変えることが出来る、というのも、他の自己啓発本と同じ。 病気に対する考え方も同じね。病気というのは、すべて自分自身が創り出したものであると。 あ、あと、苦しみについての考え方ですが、ウォルシュの神さまによると、苦しみってのは基本的に存在しないと。ただ客観的な状況があるだけで、その状況に対して人間が苦しいと思えば苦しいのだと。これ、恋愛トラブルに即して考えると良く分かるのですが、恋人に浮気された場合、そのこと自体は単なる事実。だけど、浮気された側がそれを気に病んだら、それが苦だと。だから、苦しみと思うかどうかは自分自身の選択ということにもなる。 ウォルシュの神さまによれば、そもそも人間関係のトラブルってのは、相手に期待することから起るんですな。そうではなくて、自己中になって、自分がこの関係の中から何を掴み、どう充実させるかということだけに集中して選択していれば、決して相手から傷つけられることはない。もっと端的に言えば、他人に期待するから「不安」になるので、自分の情熱だけに集中しろと。そういうつもりの二人が結びつけば、結婚関係からも最大限の喜びが得られるよと。 そうそう、一つ言い忘れましたが、ウォルシュの神さまによれば、神さまが世界を創った時、自分自身が「愛」なものだから、それだけでは「愛」が判らないので、その対極物として「不安」を創った、ってなことを言っております。だから人間のすべての行動の動機には、この二つ、すなわち「愛」と「不安」があると(39&102頁)。 ちなみに、「愛」と「不安」という二極観は、ジャンポルスキーの『愛とは、怖れを手ばなすこと』という本とも共通しますけれども、実はジャンポルスキーも、本書の著者ウォルシュも、ACIM(『奇跡のコース』という本に影響を受けた人々)系の著者なのね。実際、本書の中でウォルシュの神さまは『奇跡のコース』は、自分が書かせたんだと語っております(154頁)。ということはつまり、この「愛」と「不安」を重視する考え方というのは、『ACIM』から来ているのかもね。私はまだこれを読んだことがないので、今のところ推測に過ぎませんが。 ってなわけで、あれこれ書いてきましたが、この本、さすがベストセラーとなるだけあって、結構、面白かったかも。結論的なところから言うと凡百の自己啓発本と同じことを言ってはいるのですが、そこに至るまでのバックグラウンドの構築が見事。読んでいて、付箋の森みたいになってしまった。そういう自己啓発本って、なかなかないですよ。 ちなみに、本書を書いたことで、著者のウォルシュさんは「これ、本当に神さまと直接対話して書いたの?」という質問を百万回くらい受けたようですが、その問いに答えてウォルシュさん曰く「まあ、それはどうでもいいんじゃないですか? 本書の内容があなたに役に立ったならば」だそうですけど、まあ、そういうことですよね。 ということで、本書『神との対話』、教授のおすすめ!と言っておきましょう。神との対話 宇宙をみつける自分をみつける (サンマーク文庫) [ ニール・ドナルド・ウォルシュ ]
January 20, 2018
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今日は研究日でお休みだったので、あれこれ買い物を済ませてしまいました。掃除機が壊れてしまったので、それを買いたかったもので。 で、そのついでに、ちょいとGUに立寄って通勤用のワイシャツ買っちゃった。サイズがちょうど私の体型に合っていたので、これまでユニクロのワイシャツを愛用してきた私ですが、最近、ユニクロのワイシャツのクオリティに疑問符が付くようになったものでね。 具体的に言いますと、袖口ね。最近のユニクロのワイシャツって、数回着ただけで袖口がほつれるんですわ。特に腕時計をする左手側の。だけど、袖口って、案外目立ちますからね。そこがほつれているワイシャツなんか着ていたら、男がすたるってもんでしょ。 だったら、もっと値段の高いブランドもののワイシャツでも着れば、ってことなんでしょうけど、そこを敢えて逆に行くのがワタクシ流。ユニクロよりさらに廉価帯のGUに行っちゃうという。だけど、最近、ファッション的にはむしろユニクロよりGUの方が攻めているってとこない? ということで、今日は白いワイシャツと、ちょっと洒落乙な薄緑色のワイシャツの2枚をお買い上げ・・・ ・・・したのですが、驚いたのはこの先よ。 最近、GUって、会計がセルフになったのね。で、私も初めてセルフでレジを済ませたのですけど、これがまあ、実によく出来たシステムでビックリよ。 なんかね、商品の入ったカゴを入れるボックスがあって、カゴに商品をごちゃごちゃと入れたまま、そこにカゴこと入れるわけ。すると、アーラ不思議、何を買ったか、たちどころに表示が出る。で、後は現金なりカードなりで会計すればオーケー。実に明瞭で簡単。最近、スーパーマーケットでセルフレジのところがあるけど、それと比べてもGUのシステムの方が遥かに楽。自分で一つ一つ商品のバーコードをかざす必要ないんだもの。 ICチップとかを読み取るというのなら分かるけど、そうじゃないのに、どうやってごちゃごちゃとカゴに入っている商品を識別するんだろう? その手の技術の発達ってすごいね。 で、つくづく思ったんだけど、これから先、スーパーだろうがコンビニだろうが、本屋だろうが何だろうが、こういった新しいセルフレジのシステムが広まるんだろうなと。 「AIが発達したら、人間の雇用がぐっと減るだろう」的なことを最近よく耳にしますけど、確かにそうかもしれませんな。今回、GUの会計システムを体験して、そのことを実感しちゃった。 しかし、そうなってくると、これからは「AIに置き換えられない職業」に就いておかないと、危ないね。 「教師」ってどうなんだろう? AIが発達しても、割と最後まで残る職業のような気がしない? いや、最近は e-learning とかあるから、油断できないか・・・。英語の先生とかだったら、もうコンピュータで置き換えられそうだなあ・・・。 となると・・・何だろう、最後まで残る人間的職業って? 「武道の師範」とかどう? これはさすがに機械じゃ置き換えられないでしょう。 よし、私もAIの発達で、大学から追い出されたら、武道の師範として身を立てようっと!
January 19, 2018
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うちの大学、あまりにもお金がなくて、以前は入っていた各研究室のスチームが数年前から入らなくなり、それぞれの先生が自分のお金(研究費)で買ったエアコンを使うようになっているんです。 でも、やっぱりそれだけだと寒いのね。 で、それに腹を立てたイギリス人の同僚R教授が、研究棟の廊下のホワイトボードに怒りの書き込みをなさいまして。曰く: Is this building cold enough? Can you tough it out? つまり、「この建物、十分に涼しい?」というわけですけれども、「十分に暖かい?」と言わず、「十分に涼しい?」と書くところがちょっとひねってあって、これがイギリス流のユーモアなんだろうなと。 このセンス、いいわ~。日本人にはなかなか出ない発想なのではないかと。 で、その後に続く「Can you tough it out?」ですけど、これ、今、R先生的にブームな言い方で、「頑張る」という意味。「(こんな寒くて)頑張れる?」ということですな。 ま、とにかくR先生が怒るのも無理はないほど情けない状況の我が大学。寒いわ~、色々な意味で。
January 18, 2018
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昨夜レイトショーで『キングスマン ゴールデンサークル』を観てきちゃった。以下、ネタバレ注意ということで。 前作においてイギリスの独自諜報機関「キングスマン」のメンバーとなったエグジーですが、今回はそのエグジーがいきなり襲われるところから始まります。 襲ってきたのは、かつてエグジーと共にキングスマンの候補生だったチャーリー・ヘスケス。彼はキングスマンのメンバーになれなかったルサンチマンから謎の麻薬組織「ゴールデンサークル」の女ボス・ポピーの手下となって、キングスマン壊滅に動いていたんですな。 で、チャーリーの最初の襲撃は辛うじてかわしたものの、ゴールデンサークルが持つロボット技術により、世界各地に潜むキングスマンの基地が特定されてしまい、ミサイル攻撃を受けて壊滅。 しかもゴールデンサークルは麻薬にウイルスを混ぜて販売しており、その麻薬を使った人々をウイルスに感染させていたんですな。そして全世界の麻薬使用者を病気にさせ、いわば彼らを人質にして解毒剤をアメリカ政府に購入させると共に、麻薬の取り締まり自体を止めさせようとする。これがゴールデンサークル/ポピーの狙いだったわけ。 一方、先の襲撃にしぶとく生き残ったエグジーは、もう一人の生き残りであるマーリンと協力し、キングスマン再建、及びゴールデンサークル壊滅のため、キングスマンのアメリカ版とも言うべき「ステイツマン」という組織に協力依頼するため、アメリカに向います。 で、アメリカのステイツマンの基地に行ったエグジーとマーリンを驚かせたのは、その基地内にエグジーの師匠でもあったキングスマンの主要メンバー、ハリーが居たこと。前作で死んだはずのハリーは、ステイツマンに助けられたものの、記憶を失い、今は自分を蝶の研究者だと思い込んでいる。 さて、ハリーは記憶を取り戻すことができるのか? エグジーとマーリンは、ハリーと共に強大な敵、「ゴールデンサークル」に反撃できるのか? ってな話。 で、この映画に対する私の評価点はと言いますと・・・ 「89点」です。高得点! 超面白い!! ま、欠点を一つ挙げるならば、前作と今作で、悪の組織のやり口があまりにも同じパターンであること。前作はスマホに仕込んだ無料のシム、今作は麻薬に仕込んだウイルスという違いがあるだけで、後はほとんど同じ。 だけど、そのことすら忘れさせるほど、面白いのよ。最初から最後までめちゃくちゃ面白い。『007』も『ミッション・インポッシブル』も、ちょっと真面目な映画に成り過ぎちゃった感がありますが、『キングスマン』シリーズは、かつての『007』にあったような、ちょっとふざけたところも残っていて、そこがとってもいい。 意外な人物がサプライズ登場し、非常に重要な役割を果たすところもいいし、前作を踏まえた色々なシチュエーションが実にうまくはまっているところもすごくいい。音楽の使い方もいいんだ。冒頭のプリンスからブッ飛ばしているし、ジョン・デンバーの使い方もめちゃくちゃ笑える。 監督のマシュー・ヴォーンは、私の愛してやまない『レイヤー・ケーキ』を撮った監督でもあり、これまた私の愛してやまない『スナッチ』や『ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』のプロデューサーでもある。やっぱ、才能ある人は違うわ。 ということで、この映画、久々、教授の熱烈おすすめ!です。でも、できれば前作を観てからの方がいいかな。前作を観てないと楽しめないというわけではありませんが、前作を観ていれば余計楽しめるのは確か。両方とも観る価値ありですので、是非!
January 17, 2018
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父の蔵書を整理していた時、田中菊雄さんの『現代読書法』という本があって、それは古本屋に売らずに取っておいたんですが、半年くらい前に同じ著者の『英語研究者のために』という本を読んでとても面白かったもので、今回、暇な時間にちらっとこちらの本も読んでしまったという次第。 前回、『英語研究者のために』について心覚えを書いた時(コチラ)にも書きましたが、この田中菊雄さんという人は独学と刻苦勉励の人でありまして、正規の学校教育は高等小学校までしか受けていないにもかからわず、独学で英語学を極め、山形大学教授となり、また有名な『岩波英和辞典』の編纂に携わったという人。そんな人が書いた読書法の本ですから、読むに値するのかなと。 で、そういう経歴の人ですから、基本的に超真面目なわけですよ、田中さんという方は。で、そんな真面目な人の書いた読書法ですから、出だしからして超真面目でありまして、「読書法というけれど、そもそも読書に法なるものがあるのか?」とか、「そんな法を論じている暇に、さっさと多読した方が良いのではないか?」とか、「そもそも本とはなんであるか?」とか、「読書は何のためにするのか」とか、そんなことがウダウダ書いてある。 だから、真面目に付き合うと超退屈な出だしなんですけど、それはいいの。こちらも大人だから。「そんなのいいからさっさと本題に入ろう?!」とか思わず、「そうだよね、この本が書かれた1941年ったら、そういう枕も必要だよね」的に忖度して読んであげられるのね。 だから、結局、この本って、「この本を読んで田中先生から読書の方法を学ぼう!」というのではなく、田中菊雄という人物の個人的な読書遍歴を読み、田中菊雄という人物を知るための本だ、という風に捉えるべきものなわけよ。明治に生まれ、戦中・戦後を生き抜いた一人の英語学の碩学、それも独学と刻苦勉励の人物が、どのような本を読んで人となったか――本書を読む興味はただ一点、そこにあるのでございます。 となると、俄然、自己啓発史的な意味での興味も湧いてくるのでありまして。 で、そういう面から読みますと、やっぱりこの時代の人、正しく自己啓発本を読んでいるなと。 例えばこんなことが書いてある: 逆境者がいかに書物によって発憤し、志を立てて、その難路を切り拓いたか、古来その例に乏しくない。いかにこれらの人々が一書にその全生涯を負うたか、考えると恐ろしいほどである。中村正直訳の『西国立志編』(原名『自助論』)の一冊がいかに多くの逆境の青年を救ったであろうか? 今この筆を執っている私自身も実にその一人であった。(162ページ) やっぱり、『西国立志編』なんだなあ・・・。 で、それに続けて田中さん曰く: この種の書物で、次に私を裨益したのは、米国青少年のために書かれたマーデンの『プッシュイング・ツー・ザ・フロント』(驀進)という書物である。私はこの人の文章の力に魅せられて朗々読誦しつつ非常な感謝を以てこれを読んだ。世には成功ということを何かしら卑俗なことのごとく軽蔑し、この書を謗る人もないではないが、少くとも私には良書であった。プルタークの『英雄伝』、カーライルの『英雄崇拝論』、エマーソンの『典型的人物』などもまた逆境の読み物として好適の良書である。(163ページ) やっぱり、オリソン・マーデンの『プッシュイング・ツー・ザ・フロント』なんだなあ・・・。そしてエマソンなんだなあ・・・。 特にマーデンの本に関しては、「この本を謗る人がいた」と書いてありますが、田中さんの生きた時代に、この本が日本でも多く読まれたということがこれでわかる。賛否両論ということは、それだけ話題になっていた、ということですからね。 とまあ、本書を読んでいると、明治・大正・昭和初期において、志のある青少年が一体何を読んで発奮していたかというのがよくわかります。それは、サミュエル・スマイルズであり、オリソン・マーデンであり、エマソンであり、またマルクス・アウレリウスであり、『知的生活』のハマートンであり、カーライルであり、ウィリアム・ジェイムズであり、新渡戸稲造であり、徳富蘇峰であり・・・といった、自己啓発本の典型的なリストであったことが確認されるのであります。 特に、エマソンへの言及が多いね。やっぱりこの時代、日本でもエマソンの人気ってのは相当なものだったのでしょうな。あと、ウィリアム・ジェイムズに関しては、その訃報に接した夏目漱石が、修善寺の大患の後であったにも拘わらず、ジェイムズの本を再読して力を得た、というようなことが「思い出すことなど」に載っているということが書いてある。そうか、夏目漱石もジェイムズを読んでいたわけね・・・。 というわけで、本書を読みながら、この時期の日本における自己啓発本流布の実態をつかむことが出来たのでした。 ところで。 この本は元々父の本であったわけですから、読んでいると、父が文中にアンダーラインを引いた個所が何か所が出てくる。で、父がどこにアンダーラインを引いたかによって、父がこの本の何に感心したかがよくわかるわけね。 じゃあ、どこにアンダーラインが引いてあるかというと、田中さんが若い時に苦学された、その有様を語っている個所。例えば、「センチュリー辞典」を買うにあたって、月賦で購入したため、ほぼ1年間に亘っておかずは沢庵だけになったというくだりとか。まあ、いかにも親父が好きそうなエピソードでございます。 私の父は東大とか、一橋とか、官学に学んでひとかどの人物になりたかった人なんですな。田舎の人ですから、「官学」というのが重要なわけよ。だから、その志を果たせず、結局、早稲田に学んだことに複雑な思いを抱いていた。 早稲田大学に対する父の思い入れというのは二重になっていて、一方では「早稲田はすごいんだ」という誇らしい気持ちを抱いている一方、「東大・一橋に行けなかったからそこに行った」という、二流意識に付きまとわれてもいた。 「誇り」と「恥」。この正反対の思いが一つに混ざっているというところが複雑なわけね。 で、そういうものがあるもので、一方で「東大卒」の人に対する無条件の尊敬がある。東大を出ているというだけで、十分、父の尊敬の対象になりえたんですな。「あの人は東大を出ているんだからね」というのは、もう父の最大限の誉め言葉なんです。 で、早稲田大学を基点にして上(=東大)をまぶしく眺めるのと同時に、その基点より下の方を眺めるのも父は好きでした。つまり、東大どころか早稲田大学すら出られなかった人が独学と刻苦勉励の末に名を成す、というストーリーにも非常に興味があったんです。 例えば植物学の牧野富太郎博士とかね。 だから、父が高等小学校しか出ていない田中菊雄さんに興味があったというのは、私にはすっごくよくわかる。 で、父の学歴に対するこういった二重構造に対し、若い日の私は「嫌だなあ」と思っていて、ああはなりたくないという思いから、私は学歴というものに対する興味を一切、意図的に放擲したのでした。 だけど、その父が死んで、その遺品の中に在りし日の父のそういう部分を思い出させるようなものに出会うと、不思議と嫌じゃないんだよね。むしろ懐かしい。あー、親父らしいなと。親父の奴、いかにも親父がアンダーラインを引きそうなところにアンダーライン引いているじゃん、というのが、微笑ましくて仕方がない。 これがさ、「仏になるとすべて許される」ってことなんじゃないの? そんな気がしない? ワタクシも欠点の多い人間ですが、死んだらさ、迷惑をかけた人たちに許してもらいたいし、許してもらえるんじゃないかって気がする。釈迦楽さんは困った人だったよね、でも懐かしいねって。 そうだったら、いいよね。 現代読書法 (講談社学術文庫) / 田中 菊雄 【中古】
January 16, 2018
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お昼前に爆破予告の電話がかかってきたらしく、午後の授業全部つぶれて、学生も教員も即避難命令ですよ。四半世紀以上この大学に勤務していますけど、こんなこと初めて・・・。 まあ、一昨日・昨日とセンター入試勤務で我々教員は疲れ果てているのに、今年はその翌日の代休がなくなり、今日からいきなり授業が始まったんですが、爆破予告のおかげで半ドンになって、助かったっちゃー助かったんですけれども・・・。 ん? いやー、違う違う! 爆破予告の電話かけたのワタクシじゃないよ!! ワタクシだったら、ちゃんと朝8時にかけて、午前中から授業つぶしますわ!(文字通り、爆!) だけど、誰がやるのかねえ、こういうこと。 昨日のセンター試験で点数とれなかった受験生が腹いせに? それともただの愉快犯? あるいは・・・大学関係者??!! 予告電話なんて、すぐにバレるだろうにねえ。一体、犯人は誰だったのか、興味津々だわ。 それにしても二、三日前、このブログに「うちの大学、もう限界点に達している」って書きましたけど、ワタクシの言った通りのことが実際に起っているじゃないの。ほんと、こういうことがいつ起こっても不思議じゃないところまで来ていたんだよね。 こういうのを「慧眼」っていうんじゃないの? なーんつって。 ・・・いや、だから、ワタクシじゃないって!
January 15, 2018
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はー、センター入試終わった~。疲れた~。 実は私が試験監督を担当していた部屋は、センター入試始まって以来の歴史的に特殊な事情により、終了時間がことの他遅く、うちの大学では一番最後だったんです。 で、もう他の教員がとっくに帰宅した後、ようやく試験が終了して、私と数名のスタッフが試験本部に戻ったのですが、私のところが終れば今年度のセンター入試が終了するということで、居残っていた事務職の皆さんからの暖かい拍手の中迎え入れられるという妙な感じになったという・・・。何コレ? ま、それはともかく。二日間の重労働で帰宅して、飯を食ったらもう何もする気が起らず、頭を使わなくて済みそうな映画でも見ようということになり、前にWOWOWでやっていたのを録画しておいた『君の名は』を観ちゃった。 ところで、我が家ではこれに先立って「前・前・前世ブーム」というのがありまして。 『君の名は』で使われて妙に流行った「前・前・前世がどうのこうの」っていう歌があるじゃないですか。 我ら夫婦はもちろん、この映画を観るようなタイプの人じゃないので、当然、今までこの映画を観たことがなく、この歌についてもまともに全部聞いたことがないわけよ。 そこで、「君の前・前・前世・・・」からその先を適当に自分で作って歌うというのが流行ったわけ。それが我が家の「前・前・前世ブーム」。例えば「僕を全・全・全世界が崇める~」とか。 だけど、ついに映画そのものを観ちゃったからさ。このブームもここらで終りだなと。 で、映画そのものについてなんだけど、びっくりした。まさか彗星の話だったとは。聞いてなかったわ~。 感想は以上。まあ、泥のように疲れていなかったら、とても最後まで観れなかったと思うので、疲れていて良かった!(のか?)。 ま、今日本ではこういうのが流行るのか、っていう社会勉強にはなったかな。
January 14, 2018
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今日はセンター試験の初日。今年はとりわけ寒いので大変よ。名古屋でこれだけ寒いんだから、雪の降る地域なんて、もっと大変なんでしょうな。実際、雪で受験生が会場まで辿り着かず、繰り下げ実施した大学もあったようだし。 わざわざ酷寒の時期を選んで試験をするのが、そもそも間違いなんだけどね。 それにしても、今日はうちの大学、試験監督官の中に体調を崩す人が続出で、もう大変よ。各部屋の監督責任者は教授じゃないとダメ、的なルールがあるんですけど、予定していた教授が休んじゃったりするものだから、朝から監督官の入れ替えで大わらわ。でまた、事務方もカツカツの人数で準備しているためか細かいミスも相次いであわや大惨事。 もう、うちの大学、限界点に達しているかも。マンパワー的にも、金銭的にも。 財政的に余程ひっ迫しているのか、ハードな休日出勤にも拘らず、試験監督のお弁当は自己負担(そんな大学って、あんまりないですよ)、しかも土日出勤しているのに、月曜日は平常授業なんですよね。明日は事務方の若手が深夜までかかって教室を元に戻す作業をしなくちゃいけないんじゃないかと。 300人分二日間の弁当代50万。それも出せないほど、うちの大学の財政はひっ迫しているのかねえ・・・。しかもケチな学長の差し入れは一箱のみかんと飴だけって・・・。 先生方も事務方も疲労困憊状態だし、明日、事故がなければいいけど・・・。
January 14, 2018
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家内の愛車マツダ・デミオ君が車検を迎えたので、今日は午前中からマツダ・ディーラーへ。 で、愛車を入庫したついでに、そのディーラーに置いてあったマツダの新型CX-8をチラ見して来ちゃった。 全長4.9メーターの3列シート車ですから、それなりに存在感はあるのですが、エクステリア・デザインがいいし、乗ってみると内装もいいんだよね。これは売れるわ。ちょっと欲しいかも。ただ、実家の車庫には入りそうもないかな・・・。ま、カタログだけもらって来ちゃった! ま、それはいいのですけど、デミオの代車にもらったのがトヨタ・ヴィッツの最新型。 で、多大なる興味をもってそれをチラッと運転してみたのですが・・・これがまあ、箸にも棒にもかからないクルマでね。コンパクトな割に後部座席も十分広く、実用車として不足はないのですが、エンジンは出だしの常用域でウワーーンと不快に唸り、ハンドリングは手ごたえゼロ。とにかく乗ってこれほど気持がアップしないクルマも珍しいなと。 トヨタ車の中では、それほどバカ売れするクルマじゃないんだから、もう少し、通好みのクルマに仕立てればいいのに・・・。例えば、超柔らかいぶわんぶわんのサスペンションに、ふっかふかのシートをおごり、全車パノラミック・ルーフにして、一昔前のフランス車的な趣にするとかさ。この極上の柔らかい乗り心地を手に入れるなら、ヴィッツを買うしかない、的な。 まあ、そういうセンスは、トヨタに期待しちゃいけないか・・・。 で、そんなまったく面白味のないクルマを運転しながら、我らが次に向かったのは、塩釜口にあるフレンチのお店「ブラッセリー・クー」。前に一度来て美味しかったので、再度来店。旨しでございます。 そしてこのお店の道の反対側に美味しいケーキの店「ア・ヌー・パリ」というのがあって、帰りにここでケーキ買っちゃった。 で、お腹も膨れ、オヤツまで買ってしまった我らが次に向かったのは、昨年11月末にオープンして周辺道路に大渋滞を巻き起こしている「赤池プライムツリー」。イトーヨーカドー系のショッピングモールでございます。 オープン当初はあまりの人出で近くにも寄れなかったのですが、さすがにひと月半くらい経って落ち着いてきたといいましょうか。普通に駐車場に入れられました。 で、期待を込めて中を見始めたのですが・・・ 普通? 東海地方初出店の店多し! みたいな前評判だったのですが、別にどうってこともないかな。ここは何度も来たいなと思うようなお店は、少なくとも我ら夫婦にはなかったかも。 ただ、一箇所だけ特筆すべき場所が! それは何かと申しますと、プライムツリー内にあるペットショップ。これはすごい。 例えば、スズメくらいの大きさのハヤブサとか売っているのよ。ハヤブサだよ! それがまたピーピー鳴いて超キャワイイ!! ただ三十数万円もするんですけどね。 あとね、あとね、フクロモモンガとか売っているの。カワイイ!! あとハリネズミ! この辺は数万円で買える・・・。買うか? モモンガ買っちゃうか? とまあ、今日は色々遊んでしまったワタクシですが、明日から始まるセンター試験の監督が憂鬱で、それで今日は束の間、気晴らしをしていたわけ。その位、許されるでしょ?
January 12, 2018
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今日は「米文学概説」の授業があったのですが、たまたま「失われた世代」の辺りの話になり、作家としてはヘミングウェイを取り上げたわけ。 で、短篇集『我らの時代に』の中に入っている「医師とその妻」を読んだのですが、今回は少し趣向を変えまして、「プロファイリング」の手法で読んでみよう、ということを心掛けてみたんです。 つまり、小説のテキストは収集されたデータだと。で、このデータを使って、登場人物の医師がどういう人物か、当ててみようと。 例えば、この医師は金持ちなのか、金持ちでないのか、と問うてみる。 データによれば、「山荘」を持っているようだから、ある程度は金持ちらしい。しかし、暖炉にくべる薪にするために、湖に放置されている材木の流木を失敬しようとしているところをみると、お金が有り余っているようには見えない。しかも、その流木集めのために、白人ではなくインディアンの労働者を雇っているところを見ると、それなりにケチなのではないかと。 では、この医師はいい医師なのか、どうなのか。 データによれば、インディアンの妻の肺炎を治してやったばかりか、その治療費も猶予してやっているところを見ると、それなりに名医のようでもある。ただ、医学雑誌が封も切らずに山積みになっているところを見ると、あまり勉強熱心とも言えないところもある。新しい知識を得ようという志はあるが、実際に努力するところまでは行かない、まあ、その程度の医師なのだろうと。 つまり、ごく普通の小市民的医師ですな。 で、この医師と奥さんの関係はどうなのか。 データによれば、二人は別の寝室で寝ているようなので、とても円満な状態とはいえそうもない。しかも妻は「クリスチャン・サイエンス」の信者というから、科学的な医学を信用していないことになる。となれば、夫の仕事に対する信頼もさほど期待できそうもないのであって、そういうところからも、この二人が決して熱く結ばれているわけではないと推測できる。 ・・・ってな調子で、小説内のデータから、プロファイリングの要領で登場人物の性格や、登場人物間の人間関係を推測するという、一種のゲームをやってみたと。 そういう調子でどんどん学生を指名し、私の問いに答えさせ、その答えの根拠を示させるという感じで読み進めていったら、割と調子よく登場人物たちの性格や人間関係が掴めていったんですな。 で、この短い短編で、医師とその妻の間に横たわる闇をいかにヘミングウェイが巧みに描いているかを示してみたわけ。 思うんだけど、ヘミングウェイの読み方・・・つまり学生に読ませる時の読み方という意味ですが・・・としてはこれがベストではないかと。逆にプロファイリングを意識させないと、今時の読解力のない学生には、ヘミングウェイは読めないですよ。 この話、同業者の間では受けるんじゃないかと思うのですが、どう?
January 12, 2018
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乗り継ぎの失敗で空港で一夜を明かす羽目になった女性が、退屈凌ぎに空港職員たちとダンスする、っていう動画、御存知?これこれ! ↓深夜の空港でダンス! これ、なかなかいいよね! 乗り継ぎの失敗なんて、本質的にはネガティヴな経験ですけど、それをネガティヴなまま受け取るか、それともそこから工夫して楽しく過ごすか。その選択ってのは常にオープンなわけですな。 楽しい方の選択をする人になりたいもんです。
January 10, 2018
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今朝の新聞の訃報欄に横浜市立大学名誉教授、小野寺健(おのでら・たけし)先生の訃報が載っておりました。享年86。亡くなられたのは今年の1月1日だったんですね。 小野寺先生はジョージ・オーウェル、アニタ・ブルックナー、E・M・フォースター、イーヴリン・ウォー、マーガレット・ドラブル、そしてカズオ・イシグロなどの翻訳でも知られた英文学研究の泰斗。この世代の英文学の教授では珍しくありませんが、研究に占める翻訳の割合が大きく、優れたイギリスの文学作品を日本の読書家に紹介することに意を用いられた先生でした。それだけ文人肌の強い先生だったと言えるかもしれません。 私が小野寺先生と初めてお会いしたのは大学院生の時で、小野寺先生が私の通っていた大学の大学院に教えに来ていただいていたのが縁でした。私の代の英米文学研究科は同期が5人居たのですが、その5人で先生の授業を取らせていただいたのを覚えております。有名な先生でしたから、我々としても喜び勇んで先生の授業を取った、というところがありました。 で、先生は我々大学院生を、上から教える相手という風ではなく、いわば同じ道を歩む後輩として接してくださっていたところがあり、学期の最後の授業では、我々を引き連れて食事に連れて行って、そこで授業では収まらないようなお話を縦横にしてくださるのが常でした。 小柄で、丸顔で、いつも笑顔を絶やさない先生は、しかしいざ文学の話になるとなかなか手ごわいと言いましょうか、院生の生意気な意見をうんうんと言いながら聞いてくださる時もあれば、納得できないようなことを我々が言い出すと、「いや、そうかな?」と、我々の論点の矛盾を突き、鋭い突っ込みを入れて若造どもをぎゃふんと言わせる、そんなところがありました。 しかし、なによりも私が先生に親しみを感じるのは、文学がお好きだった、という一点。先生は英文学をこよなく愛され、それを論じて倦むところがなかった。楽しくて楽しくて仕方がない、と思っていらっしゃることがそばにいるだけでわかりました。文学に対して邪念がないと言いましょうか。 特に先生は、繊細な心の綾を紡いでいくような文学作品がお好きで、それゆえ、特に女性作家がお好きだったのではないかと思います。我々が先生に教わっていた頃は、アイリス・マードックとかマーガレット・ドラブルといったあたりにご執心で、特にドラブルの作品を随分読まされた記憶があります。そんなことでもなかったら『碾臼』とか『黄金のイェルサレム』とか『ピムリコの菓子』とか、そんなドラブルの作品を私が読むとは思えない。ドラブルなんてのは私の趣味では全くないのですが、小野寺先生が面白い、面白いとおっしゃるので、それに背中を押されて読んだ、というところでしょうか。でも、そうやって小野寺先生の薦められる本を読み、先生の文学談義を聴けたことが、今でもいい思い出として私の中にあります。 先生は英文学で、私はアメリカ文学が専門ですから、大学院を出てからは、直接先生と関わることはあまりなかったのですが、先ほど言った同期の5人のうちの一人がホテル・オークラで結婚式を挙げた時、先生と私もその結婚式に呼ばれたもので、そこで久しぶりに先生とお話しする機会を得たことがありました。 その時、先生と何をお話ししたかはすっかり忘れてしまいましたが、一つだけ印象に残ったことがありまして。 結婚式の後、先生と私と二人だけで地下鉄の駅の方に歩き出したのですけれども、実は先生も私も極端な方向音痴だったんです。 それで私は「先生の歩いていく方向に行けばいいんだ」と思っていて、先生は先生で「釈迦楽君は道を知っているのだろう」と思っておられて、それで結局、いつまでもグルグル歩き回って全然駅に着かなかったという。しまいに、「釈迦楽君、ここはさっきも通ったんじゃないかね?」みたいなことになり、二人で大笑いしたことを、本当に昨日のことのように思い出します。 それからまたしばらく時間が経ち、2002年に私が初めての研究書を出版した際、不覚にも先生にそれをお送りしてはいなかったのですが、先生はどこかで拙著を読んでくださったようで、「釈迦楽君の文章はいいからなあ」と褒めてくださっていたと、これは人づてに聞いたことでした。先生の直接の教え子ではない、ただ大学院で先生の謦咳に触れただけの私を覚えていてくださったばかりか、お褒めの言葉までいただいたと聞いて、私は欣喜雀躍したのでした。先ほども言いましたが、先生は文人肌のお方だったので、その先生に文章を褒められるのは、この上ない名誉であったからです。 横浜市立大学を定年でお辞めになってから、文化学院や、各種文化センターなどで文学を講じていらっしゃると聞いていたこともあり、まだまだお元気なのだろうと勝手に想像していて、そのうちにお会いしたいものだと思っていたのですけれども、結局、その後お目にかかる機会もなく、この日を迎えてしまいました。今思えば、せめてお手紙でも差し上げていればと、残念でなりません。 先生の数多い御著書の中で、今、推薦するとしたら、やはり晶文社から出ていた『イギリス的人生』がいいのではないかと思います。これはイギリス的感性と先生の感性がマッチしたところから醸し出される好エッセイでありまして、イギリス文学伝統の散文芸術を体現したような本。 実は私がこの本を入手した道筋はちょっと変わっていて、十年ほど前に八ヶ岳(小淵沢)で遊んだ際、名古屋に戻る前に「カントリーキッチン」という地元のレストランで夕食を取っていたのですが、会計を済ませようとしてふと見ると、レジの前に何冊か本が置いてあって、「食事をされた方は、どれでも一冊、お好きな本をお持ち帰りください」と貼り紙がしてある。で、おや、どれどれ、どんな本があるのかな? と思って置いてあった本を眺めていたら、この小野寺先生のエッセイ集の美本が鎮座していたんです。私がそれをひったくるように持ち帰ったことは言うまでもありません。 おそらく八ヶ岳あたりに別荘を構える老紳士が、この本を蔵書に入れていたものの、その後、その方が亡くなり、蔵書の処分に困った遺族が、レストランのオーナーに頼んで、そんな風に処分をしたのではないか・・・。これは私の勝手な想像ですが、もしそうだとしたら、これはまた実に小野寺先生のエッセイ集にふさわしい成り行きであり、またそれが偶然、先生のことを知る私の手に落ちたのであれば、これもまた面白い成り行きであったと思うのです。このことを、先生にお伝えすればよかった・・・。【中古】イギリス的人生 (1983年) 私は今、この本を手にしながらこれを書いているのですけれども、今日はこの後、この本をしばし再読して、今は亡き、懐かしき小野寺先生のことを偲びたいと思います。先生の温顔を思い浮かべながら。合掌。
January 9, 2018
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今日のこと、というより昨日のことなんですけど、今年度のゼミ生5人の卒論指導をすべて終了いたしました~! はあ~。疲れた~。ここ数年、「ゼミ生3人」という状況が続いていたもので、例年の倍近い5人の指導となると、結構、骨が折れました。でも、それももう過去の話。終わってみれば、やっぱり楽しかったかな。 で、昨日は指導が終った時点で、少し気分を変えようと、夕方から雨の中、お茶をしに外に出ちゃった。 家内と私が向かったのは、長久手にあります「ヴァイスベーレン」というお店。これこれ! ↓ヴァイスベーレンのHP で、ここの名物はガレットとクレープなんですけど、それではなくてフレンチトーストを注文。ここのフレンチトーストは、たっぷりしている上、ソフトクリームがまるまる一つ乗ってくるので、1個注文して家内とシェアということで。それに各種紅茶が自慢の店なので、コーヒーではなく紅茶を戴きました。 で、まったり。フレンチトースト、旨いなあ。メープルシロップとソフトクリームをたっぷり添えたそれは、「卒論からの解放」を祝うにはちょうどいい甘さでございました。 そしてゆったりとコーヒータイムならぬ紅茶タイムを楽しんだ後、夕食用の買い物をして帰る・・・予定だったのですが、その前に軽くブックオフに寄っちゃった。最近、「息抜きブックオフ」が流行中なので。 実はですね、最近、買いたいと思っている本の中で、正規の値段ではなく108円で買いたいと思う本をリストアップして、スマホの「メモ」機能に書き込んであるのだ! でまた、そのリストが結構、長いものになってきたので、ここらで何冊か片付けられたらいいなと。 で、スマホ片手に「108円」コーナーをうろついてみたのですが・・・ 案外見つからないねえ。 なんだかんだ20冊くらいのリストだったのですけど、結局、目指す本は一冊も買えず。残念! ただ、手ぶらで帰るのもアレだったので、こんな2冊を買っちゃった:○林望『時間の作法』角川SSC新書【中古】 「時間」の作法 角川SSC新書/林望【著】 【中古】afb○松岡正剛『知の編集術』講談社現代新書○◆◆知の編集術 発想・思考を生み出す技法 / 松岡正剛/著 / 講談社 まあ、美本で108円ならどちらもOKでしょ。 ということで、昨日は卒論から解放された喜びを、のんびり味わったのでございます。
January 9, 2018
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昨日、エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』について触れましたが、この本の翻訳者は鈴木晶さんという方でありまして。 鈴木晶さんという方、もちろん私は存じ上げないのですけれども、しばしば面白い本を訳される方ですよね。以前から、「あ、面白そうな本だな」と思うような本で、ふと訳者を見ると「鈴木晶」となっていることが多かったものですから、結構、信頼を寄せている人なんです、翻訳者として。 で、今回もそうだったので、つい興味が湧き、ウィキペディアで調べちゃったの。鈴木晶さんって一体どんな人なんだろうと。 ウィキペディアの記述を引用しますと・・・ 鈴木晶(1952-)は、日本の舞踏評論家、舞踏史家、翻訳家である。 ん? ちょっと待って?! 翻訳家の肩書の前に「舞踏評論家」っていうのが来るの? 鈴木さんは舞踏評論家なの? 気を取り直してその続きを読んでみましょう: 法政大学教授で、文学批評、精神分析、その思想史、特にスラヴォイ・ジジェクを専門とし、エーリヒ・フロム著「愛するということ」の翻訳者として知られる。ロマンティック・バレエ、バレエ・リュスを始めとした、19世紀から20世紀にかけての西洋バレエ史なども詳しい。 はあ~。そうだったんだ。バレエ史の人なんだ。そりゃビックリだわ。わたしゃてっきり英米文学畑の人かと思ってた。その先を読み進めますと・・・ 東京都生まれ。東京教育大学附属駒場高等学校の同学年に四方田犬彦や金子勝がいた。1977年に東京大学文学部露文科を卒業し、大学院人文科学研究科博士課程を満期退学した。駿河台大学専任講師、法政大学第一教養部教授を歴任して、現在は法政大学国際文化学部教授。早稲田大学大学院文学研究科の客員教授、東京芸術大学(音楽学部)の講師も務める。 なるほど、四方田犬彦さんと高校が同期ですか。じゃあ、アレだ。東大の黄金時代だ。でも英文科じゃなくて露文科だったのね。それでスラブ語に強いからスラヴォイ・ジジェクなのか。 その先を読んでみましょう。ナニナニ・・・: 学生時代に小説を書いて高橋たか子に見せに行ったが、小説になっていないとして翻訳を勧められ、高橋と共訳をしたりするうちに秘書的存在になり、高橋和巳・高橋たか子の著作権を管理。 ん? ちょっと待って?! 高橋和巳・たか子の著作権を管理? どういうこと? で、思わず今度は「高橋たか子」のウィキペディア記述を見に行ったら、こんなことが書いてありました: 2013年7月12日、茅ケ崎市の老人ホームで心不全のため死去した。喪主を務めた鈴木喜久雄氏(翻訳家の鈴木晶)はたか子の40年来の弟子で、たか子の生前から高橋家の鎌倉の自邸に妻子と暮らし、和巳・たか子両名の著作権代理人を務めていた。 ん? ちょっと待って?! 「たか子の生前から高橋家の鎌倉の自邸に妻子と暮らし」って・・・。いくら恩師とはいえ、他人の家に奥さん連れて居候していたの?? じゃあ、鈴木晶さんの奥さんって誰よ、と思って再度鈴木さんのウィキペディア記述を見ますと・・・ 妻は翻訳家の灰島かりで、娘は作家の鈴木涼美である。 ほう、奥さんも翻訳家なのか。灰島かりさんのウィキペディア記述を確認すると・・・あらま、一昨年に亡くなられている。お気の毒に・・・ で・・・娘さんがいて作家なのか。どれどれ鈴木涼美ってどんな作家なんですかね。ウィキペディアで見てみよう。どれどれ・・・ 鈴木涼美(1983-)は、日本の社会学者、タレント、作家、元○○女優である。 ん? ちょっと待って?! 社会学者でタレントで作家で・・・元○○女優? というわけで、ちょっとした興味から鈴木晶さんの御経歴をぐぐっているうちに、「ん? ちょっと待って?!」ってことばっかりが出てきて、いささかビックリのワタクシなのであります。まあ、なかなか面白そうな人生ですな・・・。
January 8, 2018
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正月早々、あんまり縁起のいいタイトルじゃないですけど、エリザベス・キューブラー・ロスという人の書いた『死ぬ瞬間 死とその過程について』(原題: On Death and Dying)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 私がエリザベス・キューブラー・ロスの名前を聞いたのは、ジェラルド・G・ジャンポルスキーの『愛とは怖れを手ばなすこと』という本を読んだ時に、「ACIM」というニューエイジ系の一連の自己啓発本の存在に気付き、その系統のライターの一人にロスの名前が挙がっていたことがきっかけだったので、当然、私はロスというのはニューエイジ系の人だと思っていたわけ。 で、その人の本のタイトルが『死ぬ瞬間』でしょ。これはもう、人間が死ぬと、その死者の目の前にどういう風景が現われるのか、どんなお迎えがやってきて、どんな天国に迎え入れられるのか・・・みたいな話が展開するのかと思うじゃん? 全然違いました。 この本は、もう、ガチの真面目な本でした。(まあ、ニューエイジ系の著者がふざけているとは言いませんが・・・) エリザベス・キューブラー・ロスという人は、スイス・チューリヒの生れで、ユングと同郷というか、実際、チューリヒで医学生をしていた時にはユングの姿をよく見かけたそうですけれども、当時、スイスはヨーロッパの中では辺境も辺境、ど田舎もど田舎、近代科学と無縁の場所だったらしいんですな。だから人が死ぬというのも、ごく自然な成り行きと捉えられ、人間的に処理されていた。死にゆく人は、家族に見守られ、家族は死にゆく人から後のことを頼まれて、そうやって尊厳を保ったまま死んでいったと。 その後、彼女は医者になり、アメリカに渡って近代的な医学に携わるわけですけれども、そうなるともう、死にゆく人に尊厳なんかありゃしない。瀕死の病人はチューブと機械にがんじがらめにされて、清潔だけれども人間味のない壁に囲まれ、医師と看護師からモノのように扱われながら死んでいく。 これは一体何事だと。死にゆく人をどう扱えばいいのか、もっと考えなきゃいかんのじゃないかと、まあ、ロスは考えるわけですな。 で、じゃあ、死にゆく人をどう扱えばいいか、それを考えるためには、誰に話を聞けば一番参考になるかと考えた時に、実際に死にかけている人に聞くのが一番いい(に違いない)と、彼女は考えた。 そこで、シカゴ大学の病院で、もうすぐ死ぬ人たちにインタビューをしようということになったのだけど、ここでロスは激しい抵抗に遭います。 シカゴ大学病院の医師・看護師たちは、ロスの試みに猛反対するんですな。死にかけている人に、「あんた、もうすぐ死ぬんだけれど、どんな気分?」と尋ねるなんて、なんという非人道的なことか。お前それでも人間か? というわけ。わしの患者に、そんなインタビューをすることは許さん! みたいな。 だけど、実際にインタビューしてみると、死にかけている患者は、むしろその種のインタビューを歓迎します。彼ら・彼女らは、自分がもうすぐ死ぬことを十分理解していたし、そのことを語ること自体、何ら抵抗がなかった。というか、むしろ医者や見舞いに来る人たちがその話題を避けるために、人生の終わりに言うべきことも言えない、そんな状況に陥って苦しんでいたわけ。それから、末期患者に対する病院の対応ぶりにも不満が多く、その不満をインタビューの中でぶちまけたかったわけね。 で、ロスの企図に賛同した患者がインタビューに応じ、またそのインタビューから得られる知見に価値があるということが段々明らかになるにつれ、今まで強く反対していた医師の中にも賛同者が現われはじめ、さほど時期をおかずに、末期患者へのインタビューは、医者の卵、すなわち医学生にとっての必須のカリキュラムにもなっていくんです。 というわけで、この本『死ぬ瞬間』は、そういう末期患者とのインタビューを軸にして、そのインタビューから浮かび上がる末期患者の思いを明らかにし、そういう思いに対処するにはどうすればいいかを考察していく、そんな本になりました。 ね、ガチでしょ? ここには「来世」だの、「生まれ変わり」だの、そういうニューエイジ的な側面はかけらもございません。 さて、じゃあ、末期患者のインタビューから何が浮かび上がってきたかと申しますと、人間というのは一般に、自分がもうすぐ死ぬんだとわかった瞬間から、実際に死ぬまでに、5つの過程を踏む、ということでございます。これがこの本を世界的に有名にすることになる「死の五段階」という奴ね。 具体的にはどういう過程・段階かと言いますと、まず診断を受け、たとえば末期のガンです、みたいなことを医師から伝えられた際、その最初の衝撃を受けた後、患者は「否認」します。そんなわきゃーないだろう、多分、別な患者のカルテと自分のカルテを混同したんじゃないか? 的な。これが第一段階。 これを通り過ぎると、今度は「怒り」の段階に入ります。「何で俺なんだ、俺は何も悪いことをしていないのに、何で俺が死ななくちゃならないんだ」という怒りがむくむくと。患者が怒っているわけですから、医者も看護士も見舞に訪れる家族もしんどい時期でございます。これが第二段階。 次、第三段階に入りますと「取り引き」が始まります。これは子供が親に向って取り引きを持ちかけるのと一緒。子供はよく「自分の部屋を掃除するから、午後は遊びに行っていいでしょ?」的な取り引きを親に持ちかけることがありますが、これと同じで、「この病気を治してくれたら、何でもします。一生を奉仕に捧げてもいい」とか、そういうことを考え出す。勿論、神さまに対して。 しかし、どう取り引きをもちかけようと、自分の病気は良くならないと悟った時、「抑鬱」の段階に入ります。第四段階ですな。これは患者によって様々なパターンがあります。もう自分には未来がなく、やりたいと思っていたことが出来ないのだということを悲しむこともあるし、自分が死んだら、残された家族はどうなる、という思いからの悲しみもある。この状況もまた、医者・看護師・家族にとって対処の難しい時期になります。例えば、この時期の患者に「悲しまないで」と励ますのは、逆に良くない、とかね。むしろ思い切り悲しませてあげた方がいいとか。 そしてこの時期を通り越すと、今度は「受容」の時期が来ます。これが第五段階。もう患者は自分が死ぬことを受け入れております。だから、この段階では、家族が「死なないでくれ!」と言ったり、「病気がよくなったらどこに行こう」というようなことを言うのは逆効果だったりする。患者本人が死を受け入れ始めているのだから、その意志に沿うように、家族もまた静かにこの運命を受け入れないといけないわけ。尊厳をもって、最後までその人らしく死なせてあげるにはどうすればいいか、ということを考えるべき時に来ております。 そしてこの第五段階の後、「虚脱」がやって参ります。もう、患者は自分をこの世に結び付けているものを一つずつ切り離していきます。もう友人のお見舞いもいらない、もう子供達のお見舞いもいらない。最後の最後、自分の夫や妻といった、長年連れ添った人が一人居ればいい、的な心境になっている。心境もそうだし、体力もそうなんですな。そして、その一人を最後の絆として、その絆を切り離してあの世に旅立つと。 とまあ、そんな具合に人間というのは自らの死を準備していくと。 だから、重要なのは、そのそれぞれの段階に応じた対処を、患者の周辺に居る人々は心掛けなけれならないよと。 なるほどね・・・。納得するけど、重い話題でございます。私ももう少し早くこの本を読んでおけば、死にゆく父の必要にもう少しうまく応えられたのではないかと思うことあり。 ただ、ロスも強調していますが、どの段階にいる患者――たとえ「受容」期に居る患者ですら――一寸の希望だけは持ち続ける。これはもう最後まで持ち続けると言います。つまり、「ひょっとしたら明日、画期的な治療法・治療薬が開発され、自分は助かるかも知れない」という気持、奇跡を待つ気持だけは持ち続ける。 だからね、死病に取り憑かれた患者に「もう絶望です」と医師が言っては絶対ダメなのね。それはやってはいけないこと。重要です。 でもとにかく、近代医学の中で一番忘れられた存在なのは、当の患者なんですな。だから、その患者が、自分の死を前にして何を考えているかを探ったこの本はすごく貴重というか、価値のある試みであったことは確かでしょう。この本が世界的なベストセラー、ロングセラーになったことも頷けます。そういう意味では、この本、医療関係者はもとより、一般人の我々も是非一度通読しておくことが望ましいのではないかと、私も思います。なんとなれば、我々もいつか必ず家族の誰かを送ることになるし、自分自身もまた死の床に臥せる日が必ずやってくるのですから。「死ぬ瞬間」と死後の生/エリザベス・キューブラー・ロス/鈴木晶【2500円以上送料無料】 ところで、本書の巻末に訳者・鈴木晶氏の簡潔な解説がついているのですが、それによると、エリザベス・キューブラー・ロスは、この本を書いて一躍有名になった後で、「死後の世界」に興味を抱きだし、後年はそっちに行ってしまったと。それゆえ、この本に感銘を受けた多くの読者を、後年、失うことになり、その代りに「死後の世界」に興味のある人々を新たに読者につけたと。 なるほど~。このガチの本を書いた後で、ロスはアチラの世界、ニューエイジ方面に旅立たれたわけね。それで、ACIM系ライターに名前が挙がっていたのか・・・。 色々納得です。 だから、ニューエイジ系ライターとしてのロスを知りたければ、もっと後年の本を読まなければならないわけですな。また読むべき本が増えたよ・・・。一冊読むと、さらに読むべき本が増えて際限がない。 ま、それはこっちの話でありまして、『死ぬ瞬間』については、誰が読んでも損のない本と思いますので、教授のおすすめ!です。
January 7, 2018
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前にも一度、私が贔屓にする食べ物屋さんは必ずと言っていいほど潰れる、という話を書いたと思いますが、最近、立て続けに3軒、潰してしまいました。 一つは名東区にある中華料理の名店「茉莉花(ジャスミン)」。 昨年末、ボーナスをもらった時に、ここで食べようと思っていたのですが、予約しようとしてネットで電話番号を調べようとしたところ、「閉店」の文字が・・・。 え゛ーーーー。嘘でしょ・・・。 中華料理というと、何となくギトギトした感じのお店になってしまって、フレンチ的な店構えの中華料理店ってあんまりないじゃないですか。ところがこの店はそうだったのよ。それで贔屓にしていて、時々、食べに行っていたのですが、残念なことになってしまいました。 どこか、ホテルに入っている中華料理店とかだと、ある程度洒落た感じは出るかも知れませんけど、そうなると今度は値段がバカ高いか、味が平凡か、どっちかになることが多い。値段も適当で、しかも美味しくて、しかもお洒落で、自宅の近くにある、ってな中華料理店って、ないようで本当にないんですわ。その意味で、茉莉花が閉店したのは痛かった・・・。 で、もう一軒は本郷にあった『八の角』というラーメン屋さん。 狭いお店でしたけど、ここは「トマトラーメン」という独自のラーメンが売りもので、ヘルシーな感じが好きだったのに。昨年末、行こうと思って休業日を調べようとググったら、閉店してた・・・。 3軒目は相模大野にあった喫茶店「ダンケ」ね。 駅前大通りから一本横道に入った雑居ビルの2階にあって、入るのにちょっとだけ勇気がいるのですけど、入るとなかなか居心地もよく、この店独自の「バターコーヒー」が実に旨い。カップも選べて、ケーキ類も凝ったものが置いてあって、穴場中の穴場だったのですが、それが先日、新年会の後に訪れたら美容室に様変わりしていたという・・・。 直近はこの3軒なんだけど、他にも沢山のお店を潰して来たんだ、ワタクシは。例えば名古屋・本山にあるチーズケーキの名店「ララハウス」も潰れちゃったし、一社にあった「ミロアール」も潰れたんだった。 ついでに言えば、塩釜口にあったトルコ料理の名店『オリエンタルの青い月』も潰れたし、上社にあったイタリアンの『ビアンキ』も潰れた。 いったい何故? なんで私が贔屓にする店だけが潰れるんだ? 私が贔屓にしていないお店、一度入ったけど、それほどでもないなと見限ったお店は今でも繁盛しているのに? 私の味覚がおかしいのか? 私が好きな味は、世間の人々からすると不味い味なのか? それとも飲食業界にとって、私は疫病神なのか?? とにかく、意図したことではないとはいえ、申し訳ない・・・。 もう、なんか怖い。自分が怖いわ。 この他にも、私が贔屓にしている店というのは何軒もあるのですけれども、それらの店が潰れませんように!
January 6, 2018
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2018年、最初に観た映画は、『キングスマン2』・・・となる予定だったのですが、それより先に『ブルーに生まれついて』を観ちゃった。これ、2015年に公開された映画なんですけど、WOWOWでやっていたのを録画しておいたんですよね~。以下、ネタバレ注意ということで。 これ、ジャズ・トランぺッターのチェット・ベイカーの伝記を元にした映画なんですけど、西海岸の若手トランぺッターとして人気ナンバーワンの地位を得たものの、勢い込んでニューヨークのジャズ虎の穴、「バードランド」で演奏したら、そこの主とも言うべきマイルス・デイヴィスから「お前なんか、バードランドで演奏するにゃ10年早い」とかクソミソに言われた挙句、麻薬にも手を出し、さらに麻薬の売人とトラぶって前歯と顎の骨を砕かれる始末。トランぺッターにとっては致命的な怪我で、実際、再起不能と言われるほどになるんですな。 が、怪我の直前に知り合った女優の卵たるジェーンの助けもあって麻薬と手を切り、どん底から這い上がって、再びバードランドで、しかもマイルスやディジー・ガレスピーなど大物の前で、復活の演奏をする。 さて、この演奏は、マイルスの称賛を得られるのか、それとも・・・ ・・・ってな話。 まあ、映画の出来としてどうなのかと言ったら・・・ 普通? チェット・ベイカーにはもう一つ『Let's Get Lost』というドキュメンタリー映画があって、こっちと比べてどうなんだ、というのはありますが、私は『Let's Get Lost』の方を観ていないので何とも。 ただ、主演のイーサン・ホークがチェット・ベイカーに成りきっている度合は大したもの。実際、ちょっと面影に似ているところもあって、すごいですよ。映画の中でチェットが歌う場面も、多分、ホークが実際に歌っているんだと思いますが、それもとてもいい。 だから、映画としてはイマイチですけど、アメリカの俳優の実力はすごいなと。 それを言ったら、映画『レイ』でレイ・チャールズに扮したジェイミー・フォックスも凄かったし、『ジェームズ・ブラウン 最高のソウルを持つ男』でブラウンを演じたチャドウィック・ボーズマンも凄かった。マジで成りきるからね。 ただ、ジャズ映画って、どうなんだろう、私見ではあんまりいいのはないね。世評の高いクリント・イーストウッド監督の『バード』とか、私にはまったくピンとこなかったし。ハービー・ハンコックが音楽監督を、デクスター・ゴードンが主演を務めた『ラウンド・ミッドナイト』も、うーん、何度も観たいと思うほどの出来ではなかったような。『グレン・ミラー物語』とか『ベニイ・グッドマン物語』とかまで遡っちゃうとどうなのか知りませんが。 なんだろうね。もうさ、ジャズマンの話って、結局、破滅型の人間を描いてナンボの世界になっちゃうんだけど、私自身、破滅型では全然ないので、感情移入できないんだよね。なんでそこで麻薬に走っちゃうの、才能あるんならちゃんと才能伸ばせばいいだけの話でしょ、ってなっちゃうので、映画観ててもカタストロフィが生じないわけよ。「あーーー・・・」って思いたいのに、この手の映画だと「あーあ」になっちゃうといいましょうか。 というわけで、あまりいい評価はできませんけど、先ほども言いましたように、イーサン・ホークの熱演だけは買うので、「70点」、あげとこうかな。チェット・ファンの方限定ということで、ご紹介しておきましょう。これこれ! ↓【輸入盤】BORN TO BE BLUE [ ブルーに生まれついて ]
January 6, 2018
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私の場合、このグログ自体が日記みたいなもんですから、時々、「昨年の今頃って何やってたんだっけ?」的な興味から、過去ログを振り返ったりするのですが、昨年のこのブログを見ると、昨年も4日に名古屋に戻っているんですな。 で,昨年は名古屋に戻る前にちょっと面白いことがありまして。 まだ生きていた父が、眼鏡を失くしたというので、皆で探したら炬燵の中から出て来たと。だけど、誰かに踏まれでもしたのか、片方のレンズがフレームから外れていたので、名古屋に帰る前にちょいと眼鏡屋さんに行って、はめて来てもらうよと、私が軽く請け負ったわけ。 で、いざ眼鏡屋に行く段になって、「で、さっきの壊れた眼鏡はどこ?」と新聞を読んでいた父に問うと、「さっきまでその辺に置いておいたんだが」とか言いながら探している。で、またもや皆で探し始めたのですが、しばらくしたら父がその眼鏡をしているのに気がついたという。 父は片方のレンズが取れた眼鏡をかけて、それに気づかずに新聞を読んでいたというね。 で、家族一同大爆笑。まさに『サザエさん』の世界だよね! だけど、そのコミカルな場面を一年後の今、振り返ってみると、その頃から父の衰えがひどくなっていて、そういうことにも気づかないほどになっていたんだろうなと。 今日、相続関係のことがすべて終わり、税理士さんにもお支払いを済ませて、やれやれというところなんですけど、一年前はそんな風だったんだ、と思い返すと、なんだかね・・・。物悲しいね。 さてさて、これから私はまた名古屋に戻ります。明日からはまた通常通り、名古屋からのお気楽日記、お楽しみに〜!
January 4, 2018
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毎年、小学校時代からの友人二人と正月2日に顔を合わせるのが決まりなんですけど、今年は諸般の都合で今日3日に恒例の新年会となりました。 で、いつものように相模大野の居酒屋で飲んでいたのですが、この年になると、どこも親のことで苦労することが多いようで、親友のTも昨年はおふくろさんを施設に入れる入れないで色々面倒なことがあったのだとか。 で、一つ面白かったのは、そういうことがあるにつけ、Tの奴がどんどん信心深くなっていったこと。早くに亡くなった親父さんの墓参りなんかも、割とこまめに行くようになったと。それで、墓の中の親父さんに「おふくろのこと、よろしく頼むよ」とか、頼んでくるのだそうで。 で、そういうことがあるものだから、神様に祈る方法とかも本を読んで勉強するようになったと。例えば『妻に龍が付きまして』なんて本を読むと、そういうことが色々書いてあるらしい。【新品】【本】妻に龍が付きまして… 小野寺S一貴/著 例えば神社にお参りする時、じゃらじゃらを鳴らすのは、あれは神様の呼び鈴を押しているようなもので、あれやらないと神様が気づいてくれないと。だからまずあれを盛大に鳴らす。そして、自分の住所・氏名をきちんと述べ(声に出した方がよい)、その上で願いごとを神様に伝えると。そうしないと向こうでも誰に頼まれたのか分からないから、願いの叶えようがない、というのですな。 なるほど! 今まで神社でお参りする時、住所・氏名なんか名乗ったことないわ。それで願っても叶わなかったのか! あと、お賽銭もひょいと投げ込むのではなく、あれは「よりしろ」なので、10円玉なんかじゃなく、せめて500円玉、できれば札を使い、そこに願いを載せるようにして奉納するのがよろしいと。なるほどね〜。 それから、願った以上、他力本願でいかないといけないのですって。神様に頼んでおいて、その傍らで自助努力しちゃったのじゃ、神様を信用していないのと同じだというのですな。 うーむ、これは[引き寄せ系」の自己啓発本と同じことを言っておりますな。自助努力を放棄する点で、引き寄せ系自己啓発本って、結構批判されるのですが、この理屈からすれば、自助努力を放棄することの意味がよくわかる。なるほど、なるほど。 とまあ、そんな感じでお祈りの仕方なんかを本で勉強しているうちに、どんどん興味がわき、日本の色彩についての本とか、歴史についての本とか、そういう方面まで読むようになったと。 あと、それに限らず、現実生活に辛いことが多かったため、本に逃避することが多く、推理小説にはまったんですって。1年で100冊くらい読んだとか。 それでその中から何冊か推薦されたのですが、例えば・・・犯罪 / 原タイトル:GLUCK UND ANDERE VERBRECHEN (創元推理文庫)[本/雑誌] / フェルディナント・フォン・シーラッハ/著 酒寄進一/訳将棋殺人事件 講談社文庫 / 竹本健治 【文庫】【中古】氷菓 (古典部シリーズ1) / 米澤穂信◆◆連城三紀彦レジェンド 傑作ミステリー集 / 連城三紀彦/〔著〕 綾辻行人/編 伊坂幸太郎/編 小野不由美/編 米澤穂信/編 / 講談社 とか、そんな感じ。こういう方面、私はまったく疎いので、Tの熱いトークをただうんうんと頷いて聞いているしか無いのですが、まあ、読まず嫌いしないで、私もたまにはこういうのを読んでみましょうかね。 で、その後、Tのトークはさらに万年筆に凝り出し、あの吸い取り紙を巻き付ける奴まで買っちゃったとかいう話に及んだのですが、ここで時間切れ。お開きとなった次第。あーん、万年筆の話したかったのに。 というわけで、お互い、色々ありますが、やっぱり子どもの頃からの友達というのはいいものでございます。次にいつ会えるか分かりませんが、Tのオススメ本、ちょっと読んでおきましょうか。
January 3, 2018
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今日は姪っ子やら甥っ子もやって来まして、一気に人数が増え、正月らしい賑やかな一日となりました。 それで、姪っ子がおばあちゃんのためにプレゼントだとか言って面白いものを買って来まして。 「Q&A ダイアリー」というものなんですけど、ご存知? まあ、小振りの5年日記帳なんですけど、ただの日記帳じゃあないんだなあ。 1年365日、それぞれの日ごとに質問が書いてあるの。例えば「今日、一番楽しかったことは何ですか?」とか。で、その質問に答える形で日記を書くわけ。 でまたその質問ってのがかなり面白いもので、「今月、クレジットカードで買ったものの中で一番恥ずかしいものは何ですか?」とかね。「あなたの一番のライバルは誰ですか?」とか。あるいは「今日、一番腹が立ったことは何ですか?」とか。「最近、誰に対して怒りましたか?」とか。 で、5年日記ですから、同じ質問に対して5年間、答え続けるわけですよ。それが5年分溜まれば、結構面白いだろうなと。 ま、そんな感じ。でも、これ、今結構売れているみたいですよ。まあね、日記って、「何を書けばいいか分からない」とか「毎日、書くことがない」とか、そういうことを言う人は多いですけど、ただ質問に答えればいいのだったら、簡単に続けられそうです。 アイディアだよね〜。こういうの、最初に考える奴ってすごいわ。 結局、「日記って続かないよね」という、誰でもが言うことを逆手に取って、「じゃあ、どうすれば続くだろう」って考えればいいのか。 「毎日、献立考えるの面倒臭い」っていうのを逆手に取って、クックパッドが生まれたように。 不満こそチャンス、なのかもね。なんか、私も考えようかな。 ま、それはともかく、「Q&A ダイアリー」、果たして母は続くでしょうか。高見の見物と行きましょうかね。5Years Q&A Diary改訂新版 1日1問5年日記
January 2, 2018
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明けました・・・ね。我が家は喪中なので、その先は言わないの。ま、とにかく、2018年になりました。 で、お節・・・ではないけれど、ちょっとそれっぽいものを食べてから、これは例年通り買い初めに出かけまして、ユニクロでカシミアのセーター買っちゃった。紺だけど、少し白い糸が混じっているような奴。ちょっと地味だけど、通勤のスーツの下に着ていくのにはいいかなと。 それはさておき。 実はですね、数日前からジョニー大倉が書いた『キャロル 夜明け前』という本を読んでいたのですが、それを本日、元日に読み終わりまして。これがね、実に良い本だったのよ。すごく面白かった。今年は元日からこんな面白い本を読んじゃって、ひょっとして今年は「読書運」いいのかも。 ただし、この本を読むには、その前提として矢沢永吉の『成りあがり』を読んでいることが必須ね。アレ読まないでこの本だけ読んでも意味がないというか。 要するに伝説のロックンロールバンド「キャロル」成立の事情を、矢沢の永ちゃんサイドから見たのが『成りあがり』で、ジョニー大倉側から見たのが『キャロル 夜明け前』ということなんですな。 で、私は前に永ちゃんの『成りあがり』を読んでいて、その中で永ちゃんが「ジョニーたちのことは一生許さん」みたいなことを言っているので、ジョニーの野郎、永ちゃんの気も知らないで、ちょっと売れたからっていい気になって・・・なんて思っていたわけ。 だけど今回、その辺の事情をジョニー大倉側から見てみると、ジョニーと永ちゃんが決裂したのは、必ずしもジョニーが一方的に悪いんじゃないな、ということが分かってくる。いわゆる「方向性の違い」とか言うのではないけれど、性格の違い、目指すものの違い(高さの違いではなく、方向が違うという意味で)、さらには生育環境の違い、そういうものが諸々重なって、いつの間にか同じバンドにいるのに違う方を向いていたという感じになったのでしょうな。 結局、ジョニーさんと永ちゃんの違いを説明するキーワードは、「母親」なのかもね。 二人とも結構過酷な少年期を過ごすわけですけれども、ジョニーには愛する母親が居て、そこの絆だけは決して崩れていない。一方、永ちゃんの方は母親との絆というのが最初から奪われちゃっていて、空白なわけよ。 だから、ジョニーには甘える何かがあるけれども、永ちゃんには甘えられるものがない。だから、永ちゃんには「成功」しか、自分の存在を確かめる術が無かったと。 で、永ちゃんにとって成功ってのは、それを掴む前までは夢であったとしても、掴んでしまった後は現実なんですよ。ビジネス、ビジネス。一方、ジョニーにとって成功とは、掴んでしまった後でも夢なわけね。ぽわぽわとした。だから成功の夢に酔いしれることができる。 で、成功の夢に酔いしれていた(or いつまでも酔いしれていたい)ジョニーと、それを現実として捉えている永ちゃんとでは、一緒の場所には居られないわけですな。それが要するにキャロルの解散であったと。 だけど、そういう寂しい結末であったとしても、キャロルで成功するまでは、永ちゃんとジョニーは同じ地平に居たわけで、その成功途上の二人の交流ってのは、すごくいいです。 例えば永ちゃんは、キャロル結成の前はビートルズへの憧れから「マシュルームカット」の髪型をしていたというのですな。今では想像もつかないけれど。だけど、ジョニーの方は、同じビートルズでも、デビュー前の荒々しい時代のビートルズに憧れていたので、バンドをやるなら革ジャンにリーゼントだろうと。 で、嫌がる永ちゃんに無理矢理革ジャンを着せ、無理矢理リーゼントをさせるあたりのジョニーの苦労話とか、なかなか微笑ましい。もっとも、革ジャン・リーゼントが売れると分かった途端、それを自分の発案であるかのように取り入れる永ちゃんがいるというね。そういうところがあるわけよ、永ちゃんには。 でも、とにかくキャロルのイメージである「革ジャン・リーゼント」というのは、永ちゃんの発案じゃなくて、ジョニーの発案なわけね。なんか、イメージ的にはキャロルはすべて永ちゃんの作ったもの、という感じがあるけれど、必ずしもそうでもなかったらしい。 例えばキャロルの名曲、「ファンキー・モンキー・ベイビー」の成立経緯もそう。あれは、作詞家として、あるいは編曲家としてのジョニーの才能があって初めて成立した曲であって、永ちゃん一人で作ったわけでは決してない。 とにかく、永ちゃんの『成りあがり』だけ読んでいたのではダメだなというのを、この本を読んですごく感じました。そしてジョニー大倉という人のことを、大分見直しました。事実、見直すだけの価値のある人だと、この本を読んで感じましたね。またこの本を読んでこそ、矢沢永吉という人物のこともより深く理解できるような気がします。 ということで、正月早々、この本を読んで良かった! 教授の熱烈おすすめ!です。ちなみにこの本には続編があるらしいので、私も早速ゲットするつもりです。キャロル夜明け前 / ジョニー大倉 【本】キャロル夜明け前 第2章/ジョニー大倉【1000円以上送料無料】
January 1, 2018
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