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今、我が家はただならぬ「焼き芋ブーム」の真っ只中にありまして。 まあ、「安納芋」とか「シルクスイート」といった品種が登場した頃からその気は多少あったのですが、ここ最近、「紅はるか」とか「紅あずま」とか、「紅」のつく品種が出てきたことによって、とみに焼き芋が旨くなったような気がする。 で、スーパーマーケットなんかでも入り口付近に焼き芋コーナーを置くところが増え、しかも200円未満くらいの値段で売られるようになって、我が家でも、見かければ買う、くらいの感じになり、食べてみるとあまりにも旨いので、もう見かければ買うどころか、それ目当てでスーパーに行くくらいの感じになってきたというね。 我が家がそうなんだから、他の家もそうらしく、最近ではスーパーでも焼き芋の人気沸騰で、油断しているとすぐに売り切れてしまうようになったんですわ。 そうなると、焼き芋の焼き上がり時間が問題になってきて、焼き芋コーナーに「〇時〇分頃、焼き上がります」みたいな予告が出るようになった。もちろん、その時間が来れば店内アナウンスもある。そしてその後には、芋目当ての客同士の壮絶なる争奪戦が繰り広げられると。 で、昨日は家内がその争奪戦に参加し、無事、一本の焼き芋を戦利品として持ち帰った次第。 とまあ、現在、我が家はそんな焼き芋ブームの只中にあるんですけど、よく考えると、ついこの間までそんな風じゃなかったものが、こんな争奪戦の対象になるってのも、なんだか、妙なもので。 焼き芋くらい、のんびり買って、のんびり食べたいなあ・・・。
January 31, 2022
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論文を仕上げている時って、ほとんど本が読めない性質なのですが、せめて気軽な本でも読もうと手にしたのが本書。これこれ! ↓銀座で逢ったひと (単行本) [ 関 容子 ] 関容子さんについては、私は『日本の鶯』という本で知ったのですが、堀口大學への聞き書きで、詩人の生涯を振り返ったこの本は名著で、私も何年か前の「今年読んだ本」の第一位にした記憶がある。名著! ↓【中古】 日本の鶯 堀口大学聞書き 《自店管理番号300-06 138 -1》 というわけで、そんな関さんが取材を通して、あるいは個人的に知り合った著名な文学者・歌舞伎俳優・女優・俳優・落語家・画家・音楽家との触れ合いを綴った短めのエッセイを並べたこの本なら、当然面白いに決まっているだろうと当たりをつけて読んでみたと。 結果から言いますと、面白いです。 結局、関さんという人は、「可愛がられる人」なんですな。大御所の懐にひょいっと入ってしまって、何かと便宜を図ってもらえるようなタイプの人。相手の警戒心をいとも簡単に解いてしまって、他の人には打ち明けないような話もついポロっとしてしまうような。 だから、関さんが語る著名人の横顔は、その人の素顔に近い。まったくの素ではないかもしれないけれど、みんな優しい顔をしている。 だから本書が語るエピソードは、みんな、いいエピソードです。読んでいて気持ちがいい。まあ、どれも面白いのだけど、女優・俳優の人達のエピソードなんてのは、あまり知識がないもんだから、余計面白かったかな。名を成す人たちってのは、やっぱり、どこか普通の人とは違うんだなというのが良く分かる。 で、そうやって著名人のエピソードを語っていく本書の最後に、一人だけ著名人じゃない人が出てくる。それは関さんの夭折したお兄さんの話なんですが、歳が少し離れたこのお兄さんとの銀座でのデートを語ることで、「銀座で逢ったひと」を締めくくるという。そこもなかなかよろしい。 ということで、いい本でした。 しかし・・・。 関容子さんは、先に挙げた『日本の鶯』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するんですが、この時、中村勘三郎の声かけで、受賞パーティーが開かれ、山本健吉、戸板康二、小沢栄太郎夫妻、青木雨彦、小田島雄志、愛川欽也、吉行和子などが出席、それから沢村貞子までお祝いに駆け付けたというんですわ。 何コレ? 関さん同様、私も日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しておりますが、そんなことにはならなかったですよ。この差は何?? まあね。関さんの本は大詩人、堀口大學のことについてだし、その後関さんは、歌舞伎界の人達を取材したり、文壇・芸能界の人達を取材したりして本を書く仕事をされましたから、そういうことになるんでしょうけれども。 しかし、それを言ったら、私の祖父は堀口大學の面倒を随分見たし、歌舞伎評論家として名をなした人ですから、ある意味、私が関さんのような仕事をしたとしてもおかしくはなかったわけだ。そう考えると、ちょっと道を間違えたかな・・・。
January 30, 2022
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今日は土曜日ですが、県内某所にて仕事。内容は言えない類のやーつー。 っつーことで、休日らしくない一日になったのですが、せめて夕方のティータイムくらい楽しくやろうと思い、コンビニに寄ってスイーツを買って帰ることに。というのも、その某所から自宅までの間に、他にまともなお菓子屋さんがないのよ。 で、コンビニだけはセブン、ローソン、ファミマと全種類あるので、まずはセブンに寄ったのだけど、あまり食べたいものはなし。 で、ローソンでもあまり五感に訴えてくるものがなかったのだけど、とりあえずちょっと買って帰宅。で、食べてみたのだけど、うーん、大したことなし。 で、思うのだけど、コンビニ・スイーツって、世間で言われているほど旨い? ワタクシはマスコミでこのコンビニのこれが旨い、あのコンビニのあれが旨いって取り上げられる度に、その甘言に誘われて結構、あれこれ試してはいるんだけど、それで「マジ旨い」って思ってリピしたことがほとんどないという。 コンビニ・スイーツで、これは旨いと思うのは、ローソンの「バスチー」くらいなもんじゃないか?? え、どうなんだ、おい。 まあ、バスチーは旨いな。それは認めよう。 というわけで、スイーツも、結局、定番が一番旨いってことになるよね。ミスドのチョコファッション、ビアードパパのパイシュー、シャトレーゼのバタどら、ルタオのドゥーブル・フロマージュ、フロのプリンタルト、ウエストのドライケーキ、トップスのチョコレートケーキ、ユーハイムのバウムクーヘン、ヨックモックのシガール、モロゾフのプリン、ゴディバのチョコレート、福砂屋のカステラ・・・とか、そういうやーつー。 とか言いながら、結局、またコンビニ・スイーツに騙されて、変なの買っちゃうんだろうな…。俺も馬鹿だね・・・。
January 29, 2022
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現在、来年度の入ゼミ希望者の調整が大詰めになっております。 で、前にも書いたように、今回、私のゼミは入ゼミ希望者が多いもので、何人かは希望通りにならない可能性があるんですな。 となると、絶対ワタクシのゼミに入りたい学生としては、かなり気が気でないわけ。 で、そんな学生から「どうやったら、絶対確実に先生のゼミには入れますか?」と聞かれたので、「そうさなあ、竹の先に文を挟んで直訴するとか?」と答えておいたのですが、冗談のつもりだったのに、本当にそれをやろうとした女子学生がいたっていう。 ところが、残念なことにその子は濃厚接触者になってしまい、10日間の蟄居が命じられていたので、竹文をもって直訴できななくなってしまったと、メールに書いてきました。「果たし状をお渡しに行けず、残念!」と。 あのね、あれは「果たし状」じゃないから! でも、可愛いな。ジョークを真に受けて、その通り返すそのお笑い感覚。嫌いではない・・・。 まあ、この子は私の弟子にふさわしいと見た。ぜひ、取ろう。 結局、人の世では、熱意のある所に道は開けるのよ。私はそう思う。この学生は、ふさわしい熱意を見せたのだから、道を開いてあげましょう。 ということで、来年は、なかなか面白いゼミ生が入ってきそうな予感。今から楽しみ!
January 28, 2022
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一昨日のブログで、研究室から見える大きなケヤキを伐採されてしまってガッカリした、ってな話を書きましたが、後日譚がありまして。 たまたま教授会があったもんで、終了後に学長とっ捕まえて、どういうことじゃ、おりゃー!って猛抗議したのよ。 そしたら、今日になって、施設課かどこかの部局長が3人、雁首揃えて研究室まで詫びにきた。 ふうむ。そう来たか。 詫びられたって、伐っちゃったものが元に戻るわけでもなし。次からは、木を伐るとなったら、周辺の教員にアンケートでも取って、伐っていいかどうか事前に聞いてよ、とお願いしておきました。 しかし、今の学長は、どこかの国の首相と同じで、一応、聞く耳は持つわけね。そこは評価しよう。 だけどなあ、私の研究室の前の木だけじゃなく、卒業生が植えて行った記念樹までばっさりやるんだからね。 で、その点を指摘したら、「それは、周辺の先生方に許可を取りました」だって。 いやいや。教員に許可取ってどうすんだよ。許可取るなら、卒業生に許可取らなきゃいかんでしょ。あなたたちが植えた卒業記念の記念樹、邪魔だから伐っていいですか?って。 それが出来ないなら、伐るなと言いたい。どうしても邪魔なら、別なところに移植せよと。 だけど、それ以前に、木だって生き物だっていう、当たり前の感覚を持ってほしいもんですな。本当の問題は、そういう感覚がない、っていうところなんだからね。
January 28, 2022
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同僚でコロナに罹患した人が居るんですけど、その人が自宅から遠隔で授業をやってたら、大学当局からクレームが入ったとのこと。 コロナに罹ったら、遠隔で授業も出来ないんですってさ。 何で? いいじゃんねぇ、本人が軽症だからやれるって言っているんだから。何でダメなんだろう? あれかな、インターネットを通じて、コロナがうつると思っているのかな、大学当局は。 それともあれか、コンピュータがウイルスに罹ると思っているのかな? オミクロン株のことをコンピュータ・ウイルスだと思っているとか? まあ、お役所ってのは、バカバカしいことばっかり考えるもんですな。 その割に、抜けているところは抜けていて、コロナに罹って自宅療養している場合、復帰の目安って、すごく曖昧なんですってね。具合が良くなって10日くらい経ったら、自己判断で出社するかどうか決めろっていうんだから。何その自己判断って。そういうもんなの? もう2年もこんなことが続いていて、そんなこともまともに決められないんだと思うと、専門家ってのも大分怪しいもんですなあ。
January 26, 2022
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今日は久々に晴れていたので、研究室に入って窓を開け放ち、「今日も一日、頑張るぞ~、ファイト~、いっぱ~つ!」的な感じで外を眺めていたところ、何やら違和感が。 ン? どした? あ! ああ゛ー---------! ケヤキがない。私の愛した大ケヤキが・・・ないっ! えーーーーー―。嘘だろ・・・。伐っちゃったよ、あの大きなケヤキを。 はあ~。信じれん。 私がこの研究室に入って30年。3階の窓から見える大きなケヤキは、私の心の友でありました。春先、恐ろしい勢いで新芽を吹き出し、それこそ一夜にして禿木が緑豊かな大木になるのを、何度驚異の目で見つめたことでありましょうか。 夏は美しい天然の日よけとなり、秋は秋で少しずつ葉を落として、やがて冬の禿木となり、その枝越しに久しぶりに遠くまで見渡せるようになった時もまた、感動したものでございます。 そして、時折は鳥たちが遊びに来て、そんな時は私も驚かさないように、そー-っと窓越しに無邪気な鳥たちの遊びを眺めて癒されたものですよ。 そういうのを30年、味わってきたら、情もわきます。もう、すっかり友達だ。木の方だって、30年、窓越しに私のことを見てきたんだから、私のことを友達だと思っていたに違いない。 それを、伐っちゃったって・・・。私に何の断りもなしに。 そもそも、なんで伐ったんだろう? 大木とはいえ、巨大な幹の木ではなく、根元の方から細かく枝分かれした木だから、万が一倒れたって建物を傷つけるというようなこともないだろうに。 っていうか、この地球温暖化、SDGsの時代に、酸素と大きな木陰を提供してくれていた大木を伐るって、一体全体どういう了見なんだよっ!! 3階の窓から、切株になっちまった友の姿を見下して、涙がこぼれそうだ。 大学当局、許せん。ほんと、この大学にもいささか嫌気が差してきたぜ!
January 25, 2022
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学会の友人からご著書の寄贈を受けまして。 で、10人くらいの著者による論文集だったのですが、とりあえず「あとがき」を読んでビックリ・・・というか、「やっぱりそうか・・・」の感を強くした次第。 この論文集は、愛知県で最も有名と言っていい私学・英文科の大学院を出られた研究者たちが執筆しているのですが、この大学ではかつて独自の学会を持って盛んに活動をしておられたと。 ところが、例の「文学部取り潰し」の文部行政によって、伝統ある文学部は「国際地域文化なんちゃら」みたいな訳の分からない学部に改編され、結果英文学研究科は消滅したと。で、新たに院生が入ってこないのだから、学内学会も運営できなくなり、それに伴って大学からの補助金が消えて、学会誌を出すことも出来なくなってしまった。 つまり、文部行政によって、一つの世界が消えたわけですな。 そこで、長年続いた学会の最後の打ち上げ花火として論文集を企画し、出版にこぎつけた。それが本書であると。まあ、本書のあとがきにはそんなような内容のことが書いてあったんですわ。 これね、事情はどこも同じでね。 私の所属大学でも、文学・語学研究を専門にするための大学院はお取り潰しになり、専門職大学院みたいなのにされちゃったんですな。で、その専門職大学院とは、学問研究ではなく、専門学校みたいなことをやるところでありまして、要は、黒板の板書の仕方とか、出席の取り方とか、机間巡視の仕方とか、成績のエクセルへの入力の仕方とか、そういうのを習うところなわけ。もちろん、そんなこと、習うとかいうレベルのものではないので、誰も大学院に進学しなくなっちゃったし、たまさか進学している人達は、県内の学校から送り込まれた人達ばかりで、彼らは普段の仕事からちょっと離れて、楽が出来るから来るのであって、勉強しに来るわけではない。 だから、研究者の卵ってのは大学院にはいなくなったので、うちの大学でも学会は無くなり、院生たちで作っていた学会誌も出せなくなりました。 ここでも一つ、世界が消えたわけよ。 かつて文学部の中でも肩で風を切っていた英文科は、かくして風前の灯。いや、もう消えた灯か。 悲しいねえ。 ということで、いただいた論文集を手に、ため息をついているワタクシなのであります。
January 24, 2022
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入ゼミ希望者の予備調査の結果が届いたのですが、ワタクシのゼミに入りたいっていう学生がかなりの人数になってしまったという・・・。ちょっとビックリ。 まあね。昔はさ、科の所属学生の半数が私のゼミに入りたがって、最難関のゼミだったこともあるのですが、私も段々歳をとって、あまり学生と遊ばなくなってしまったし、むしろ自分の仕事に対する比率が上がって、ゼミ生指導は少ない方がいいな、的な感じになってしまった。 すると、やっぱりゼミ生もその辺の変化を感じ取るのか、入ゼミ希望者も落ち着いてきて、4,5人がいいところで推移していたのよ。 ところが来年度は、第一希望だけでその倍。第二、第三希望とかも入れると、ものすごい数になっちゃった。 何なんだろうね? 別に最近になってゼミ活動に力を入れ始めたってわけでもないのにね。 だけど、第一希望だけでそんなに多いとなると、全員は入れられないし、どこかで切らなくてはならない。それはそれで気の毒っていうか、せっかく希望してくれたのに、申し訳ないという気になる。 まあ、人対人のことだから、なかなかこちらが勝手に望むようには、行かないもんですな・・・。
January 23, 2022
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先日、大学が主催するFDに参加してきました。 もうね、多分文科省がうるさいんでしょうね。うちの大学でも、所属教員たるもの、年に一回は何らかのFDに参加しないといかんというお達しがありまして。で、そういう形式主義を排除すべしというFDこそ必要なんじゃないかと思いながら、あるFDに参加したと。 というのは、それが劇作家の平田オリザ氏の講演会だったから。まあ、良く知らんけど、よく聞く名前の人だし、どんな感じのことを話すのか、高みの見物でもしてやろうと。 そしたらね、これが面白かったのよ。平田オリザ、面白いわ~。大したもんだわ~。話し方もうまいし、話す内容もすごく良かった。偉くなるのも当たり前って感じ。御見それしました。 ま、1時間半にわたって彼が話した内容を全部書くわけにはいかないけれど、一つだけ、取り上げてみましょう。 お母さんと子供の会話ね。子供が学校から、嬉しそうに帰ってきて曰く、「僕、宿題出さなかったんだけど、平田先生、叱らなかったよ」と。 さて、この場合、お母さんはどういう反応をするのが正解でしょうか。 どう思います? 「ダメじゃないの、宿題やっていかなくちゃ!」かな? 「何で宿題やらなかったの?」かな? ぶぶーですね。 正解は、「そう! 平田先生、優しいね!」です。 子供が言葉として発言したのは、「宿題をしなかった」「でも叱られなかった」の二点ですけど、この発言にはもう一つ、重要な内容がある。そう、その子が嬉しそうに帰ってきて、いそいそと母親のところに飛んできて、この発言をした、ということ。 つまりこの子は、悪いことをしたのに怒られなかった、平田先生は優しい、いい先生だ、という自分の感動を、一刻も早く母親に伝えたかったんですな。だから、そのメッセージを受けた母親がやるべきことは、そのメッセージへの答え、すなわち子供の感動に共感することだったと。だから、「そう! 平田先生、優しいね!」が正解なわけ。 逆に、子供は母親に宿題のことなんて一つも伝えようとしていないので、もし母親が「なぜ宿題をしなかったの? ダメじゃないの!」なんて反応をしたら、母親が何を言っているのかわからなかったはずだと。 コミュニケーションってのは、そういうことなわけですよ。それは、AIには出来ない、人間にしかできないことなんだと。 で、こういう例を切り口にしながら平田オリザ氏は、コミュニケーションの重要性を説いていったのですが、非常に説得力がありました。いい講演でしたね。 ということで、FDなんてくだらないと思いながら参加したわりに、大いに啓発されて帰って来た次第。加えて演劇人・平田オリザの実力の何たるかが分かった一日となったのでした。
January 22, 2022
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昨年の秋ごろから書き始めた論文、今日、ようやく第一稿が書き終わりました~。は~、疲れた~。 まあ、とりあえず大まかな起承転結をつけた、というだけですから、これから推敲に入るわけですけれども、それでもね、仮縫いまでは終わったようなものだから、時間さえかければ、完成しないということはない。 書き物をしていて何が辛いって、「これ、書き上がるのか?」というのが分からない時点が一番辛いので、それが一段落しただけでも大収穫よ。 内容は・・・要するに、古代ギリシャ以来、人はどうやって死の恐怖を免れようとしてきたか、っていうことを自己啓発本の出版史から考える、というものなんですけど、かなり長い論文の中に、嫌というほど情報詰め込んだので、書くのは大変でした。読むのも大変だろうけどね。いや、読むのは簡単か。簡単に読めるように書いているんだから。 というわけで、明日は一旦、休憩しよう。連続して書き続けると、どうも近視眼的になって、どこが悪いのか、どこを直せばいいのか、分からなくなるきらいがあるので。 まあ、とにかく、ホッとしました。
January 21, 2022
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いやあ、ついこの間まで「日本ではコロナはもう終わったのかしら?」なんて余裕ぶちかましていましたけれど、やっぱりそうは問屋が卸さなかったですねえ。 愛知県もついに初の3000人超・・・。 しかも、私の所属大学の同僚(2回のワクチン接種済み)にも、よもや、よもやの感染者が出たということで、もう、いつ私自身がかかってもおかしくない状況になったと言ってよいでありましょう。 その割に、大学当局は何にも言ってこないな! どうするんだよ、このまま対面授業続けるのか? 期末試験どうするんだ?? せめて大雑把な指針でも示せと言いたい。 あと、共通試験は終わったけれど、これから個々の大学で入試が始まるからなあ。今の状況だと、受験生クラスター発生は不可避ではないのか?? はあ~・・・。誰だよ、ワクチン打ったらもう安心、とか言ってた奴は。それどころじゃないじゃないの。 まったく、どうなるんだろうね、この先、この国は・・・。
January 20, 2022
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英語の本質は名詞にあるのか、それとも動詞にあるのか、ってのは、なかなか面白い主題でありまして。 で、私は「名詞中心派」で、英語の場合、動詞なんてのは have とか make とか take とか get とか go とか be とか give とか、そういう基本動詞を12個くらいマスターすれば、後は「主語+基本動詞+形容詞+名詞+場所の特定」という公式にぶち込むだけで大抵のことは発話できる、という理論を信奉しております。もちろん、この理論は実証的に証明されていることで、その有効性は揺るぎがありません。 ところが、今売れ筋の英語教則本を見ると、「動詞中心派」が多いような気がする。例えば中山裕木子さんの『シンプルな英語』(講談社現代新書)なんかもそうで、典型的な「動詞中心派」でございます。動詞派の人に言わせると、英語の動詞は多様なので、自分の言いたいことに関わるピッタリの動詞があるのだから、それをズバッと使えばいいと。 ま、名詞派から言わせると、動詞派の英語学習法だと、使い方を覚えなければならない動詞の数がどんどん増えて、初心者には余計遠い道のりになるだろうと言いたくなる。 しかし、そうは言ってもこの中山さんの『シンプルな英語』という本はなかなか説得力のある本で、私もかなり勉強になりました。実際、この本を読んだことで、ひょっとして私が唱道する「名詞中心派」ってのはダメなんじゃね? と、少し弱気になり始めていたところもある。 ところが。 YouTube の英語サイトに「英語の耳」というのありましてね。これこれ! ↓英語の耳 これね、日常的な英語表現をじゃんじゃん聴かせてくれるサイトで、リスニングの練習にはもってこいなんですけど、これを聴いていると、私の信奉する名詞派理論の例文がひっきりなしに出て来るわけ。 実際、「英語の耳」に出てくる日常的な英語表現を拾っていくと、私の理論、すなわち「英語は基本動詞を12個くらいマスターすれば、あとは 主語+基本動詞+形容詞+名詞+場所の特定 (自動詞の場合は 主語+基本動詞+場所の特定)という公式通りに単語を並べればいい」という理論を実証するような例文ばっかり出てくるのよ。例えば・・・I got many freebies at the vegetable store. We don’t have any diplomatic relations with that country.I took a one-year leave from school.Did you give the monthly fee to the teacher?We all put our presents underneath the Christmas tree.I keep all my jewels in this box.I made a careless mistake on the test.They are doing research on the very frontiers of biology.Let me give you some adviceSmith went into politics in his early twenties.Our destination has come into view far in the distance.The car industry is now in crisis. ま、ざっと12個の基本動詞にまつわる例文を挙げましたが、こんな感じの例文がやたらに出てくる。 ・・・ということは、やっぱり私の理論は、かなり実用的なものなのではないかと。 ということで、「英語の耳」を聴いていたら、またまた自分の英語教授法に自信が復活して参りました。 もちろん中山さん的な動詞中心派の英語学習法を否定するわけじゃなくて、それはそれでいいと思うのですけど、初心者であればあるほど、私の名詞中心派の学習法の方が優れているのではないかと思います。興味のある方は、「英語の耳」を聴きながら、名詞中心理論に基づく次の教則本を読んでもらって、この本がいかに実用的な英語教則本か、実感していただければと思うのであります。これこれ! ↓[書籍のメール便同梱は2冊まで]/基本12動詞で何でも言える裏ワザ流英語術 〈動詞〉発想から〈名詞〉発想に頭を切り替える目からウロコの学習法[本/雑誌] / 尾崎俊介/著 小泉直/著
January 19, 2022
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今年も卒論の提出が終わり、来年度のゼミ生を決める時期となりまして。 で、私も2度の説明会を実施し、入ゼミ希望者に、「うちのゼミに入ると、こんな感じよ~」というのを説明してきた次第。 そしたら、なんか今年は説明会に顔を出す学生が例年以上に多くて、どした?って感じ。まあ、説明会に出たからと言って、入ゼミ希望を出して来るかどうかはわかりませんが。 ま、それはいいのですが、そしたら後で、この2度の説明会に来れなかった奴からメールをもらいまして。都合が悪くて、2度の説明会のどちらにも行けなかったので、個別に話を聞きに行ってもいいか?ということなんですな。 ま、それもいいですよ。そういうことはありますから。 でも、納得できなかったのは、そこから先。 当該の学生のメールに曰く、「・・・ということで、〇〇日の××時、あるいは●●日の△△時のどちらかで、先生のご都合のいい日・いい時間に〇をしてください」と。 え? ワシが学生の都合のいい時間を選ぶの? 逆じゃね? ワシが都合のいい日・いい時間を幾つか示して、それを学生が選ぶんじゃないの? もう、そんなことを言ってくる学生が居るのでビックリしちゃうわ。もちろん、逆だろ、と言っておきましたが。 それから全然メールの返事が来ないところを見ると、早くも「こいつ、五月蝿そうだな」と思われたのかも。でもいいわ、そんな学生が来ない方が。確かにワタクシとは合わなさそうだもんね。
January 18, 2022
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寒がりのワタクシは、この時期、例の「貼るカイロ」が手放せませんで、とりわけ外出するときは必ず服に貼って出掛けます。 ところで・・・ あの「貼るカイロ」という奴、どこに貼るのが正解なのかと。 私はですね、(もちろん服の上から、という意味ですが)腰の辺りに貼るか、あるいはもっと上の首の近く(両肩をつなぐ線の真ん中くらい)に貼るか、そのどちらかだったのですが、あれも毎日貼っていると、何て言うの、「貼り疲れ」がするというか、そんな感じがしてくる。多分、軽い低温やけどみたいな感じになって、肌が嫌がるんじゃないかしら。 というわけで、肩と腰以外の場所に貼るとしたら、どこに貼るのがいいのか、考えざるを得ない立場に置かれたわけですよ。 で、考えた末、脇の下辺りに貼ってみた。 なぜそうしたかと申しますと、脇の下って、大動脈が通っているでしょ? だから、そこを温めれば、温められた血液が全身を駆け巡ることとなり、「部分温め」が「全身温め」につながるのではないかと愚考したわけですよ。 で、実際にそうして貼ってみた結果・・・ 良き。 良きと思います。それにこの方式だと、今日は左脇、明日は右脇という感じで、貼る場所を変えられるしね。 というわけで、首・腰にプラスして左右の両脇が加わり、「貼るカイロ」も活躍場所を増やすこととなったのでありました。寒がりの御同輩もお試しあれ!
January 17, 2022
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はあ~、共通テスト終わった~。疲れるわ~。 それにしても昨日の東大会場での刃傷沙汰、被害に遭われた方々には一刻も早いご回復をお祈りいたします。 あれのおかげで、今日は日本中の試験会場周辺でパトカーがぐるぐる警戒に当たるという次第になったようで、なかなかの大事件になってしまいましたね。 しかし、それにしても「東大医学部に入りたい」が故の犯行って、ちょっとビックリだなあ。 私なんかよりもちょっと上の昭和世代だと、「受験戦争」なんて言葉があったくらいで、大学受験は死に物狂い。家族の期待を一身に受けて受験したものの、失敗したりすると精神の均衡を失って、どうにかなっちゃうなんてこともありました。例の「金属バット事件」とかね。 大学受験がすべて、もし希望の大学には入れなかったら、それはもう人間失格、みたいな発想って、昭和の話かと思ったら、令和にもあるんですなあ。 まあ、大学なんてどこに入ったっていいんですよ。そこで自分のやりたい勉強をすれば。自分で勉強するってところが重要なんでね。それが出来る環境であればどこでもいいの。 ま、昨日今日頑張った受験生諸君はお疲れ様でしたけど、一番重要なのはそこだ、ってことは是非伝えたいもんですなあ。
January 16, 2022
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最近、マフラーなるものに興味が湧いて参りまして。 マフラーとか手袋とか、あるいは帽子とか、何となく「後付け」感のあるものが嫌いで、今まであまり身につけなかったのですが、歳のせいか、暖かければ何でもいいじゃん、という気になってきましてね。 で、最近、亡くなった父のマフラーをね、するようになったんですけど、これがまあ、暖かいのなんのって。 服には案外うるさかった父ですから、このマフラーも多分、相当お高いものなんでしょう。「モノがいい」感満載でね。多分カシミア? だもので、ふんわりとして柔らかく、かつ暖かい。 で、色もちょっと赤味の入ったもので、ワタクシが自分では絶対に買わない色。だけど、実際に巻いてみると、結構、どんな色のスーツにも合うんですわ。 しかも、やっぱり「父のお下がり」っていうのがいいんだなあ。父がこのマフラーを巻いていた姿を思い出すもんね。それを倅のワタクシが受け継ぐと。巻くと父が「寒いぞ、風邪ひくなよ」って言っているような気がする。 お下がりって、いいなあ。この歳になって、ようやくわかってきた。 実家には、多分、あと何本か、父のマフラーが眠ってそうだから、今度実家に帰った時にでも、もう一本貰ってこようかな。
January 15, 2022
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寒いね。 何だろうね、温暖化なんじゃないの? 夏はいつもより暑くて、冬はいつも通り寒いって、どういうことだよ! っていうか、コメンテイターの人たちは、夏になると温暖化のことを口うるさく言うけど、冬のクソ寒い時には「温暖化がぁ、問題なのであってぇ、北極の白熊がぁ、困っているのであってぇ、もっと寒くなるべきであるぅ」って言わないね。結局みんな、寒いのは嫌なのね。 っていうか、今年はいつもより寒くない? 寒いの、苦手なんだよね・・・。 でまた、我が家限定の話をすると、ワタクシの書斎は家の北側にある。それもあって、リビングよりよほど寒い。まあ、我が家では北側の部屋のことを「北国」って呼んでいるんですけれども。 で、私は基本、家では北国にいることが多いので、凍えるのよ。 ということで、もう最近は、食事の時とか、ダイニングやリビングのある南国の方に行く時でも、北国の暖房は(弱にはするけど)つけっぱよ。地球の寒さに、微力ながら一撃を加えんと。だってそうでもしないと、また冷え切った北国に戻って仕事する気が失せるんだもの。 でも、そうやってつけっぱの北国に戻って、まだ少し暖かみの残る書斎に入ると、ちょっと背徳的な喜びがある。なんて言うの、「贅沢、しちゃったな」みたいな。ま、庶民のちょっとした贅沢だと思って、見逃してね! それにしても、我が家の北国なんてまだマシだ。この間読んだ『ある明治人の記録』(中公新書)の中に出てきた戊辰戦争の時の会津藩士とか、この寒さの中、下北半島に追いやられたんだからなあ・・・。まあ、そこまで想像を飛躍させなくとも、この寒空の中、世の中にはホームレスの人とかいるんだものね。彼らは凍えていないだろうか。大丈夫なのだろうか。 寒がりのワタクシのためにも、またそういう人達のためにも、早く春が来てほしいわ~。
January 14, 2022
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迫りくる文芸時評家としての仕事の予習として、荒川洋治さんの『文芸時評という感想』という本を読んでいるということは前に書きました。で、この本、二段組なもので、意外に分量がありましてね。まだ読んでいるの。 で、今日も読んでいたんですけど、そうしたら非常に面白い個所が見つかった。 つい先日、本ブログで、『書物の達人 丸谷才一』という本を読んだ話を書きましたが、その中でワタクシ、こんなことを書きました: で、もう一つ面白かったのは、鹿島茂さんの話。これは、鹿島さんから見た丸谷才一氏の人物分析で、本書の中ではピカ一に面白かった。(中略)とまあ、そんな感じで、鹿島さんはズバズバと丸谷才一を腑分けしていくんですけど、ワタクシが思うに、鹿島さんの分析は全部当たっているんじゃないかと。もう、鹿島さんの分析を読んだら、丸谷才一が全部分かった、っていう気になれます。(中略) ま、それはともかく、鹿島さんの文章を読んで丸谷才一という人がどういう人かは分かったのですが、その一方、おかげで丸谷才一にますます興味がなくなりました。 要するにね、鹿島茂さんの丸谷才一評は全部当たっているだろうと。そしてそれゆえに、私は丸谷才一への興味を失ったと。 さて、今日読んでいた荒川さんの本の中で、荒川さんが、須賀敦子についての鹿島茂さんの文章を読んで、こんなことを述べております: (鹿島さんの須賀さん評)は文句のつけようのない文章。須賀氏の文の性格を言いあてている。そして、言いあて過ぎている。だから心に残らない。(183頁) ね。ある意味、ここでワタクシと荒川さんは、鹿島さんの文をめぐってまったく同じことを言っていると思わない? それからもう一か所。私は先のブログの中で、丸谷才一氏の旧仮名遣いについて、こう述べておきました: 大体、今時旧仮名遣いでモノを書く人の本って、あんまり読みたい気にならないんだよね。 一方、『文芸時評という感想』の191頁で、荒川さんもまた丸谷才一氏の旧仮名遣いに関して、次のように述べている: 表記は例によって現代仮名遣いではなく歴史的仮名遣い。現代の話だが、作中の女性作家が「いいのよ、進藤さん。批評ですもの、かまはないのよ」はいいとしても、その進藤という恋人が「いや、さうは言つてません」とか「でも、まはりに質問して教へてもらふひともゐないからはふつて置くと」となると奇異である。(中略)「旧」を選んだり、平野氏のような大衆的ではない語彙を好む人の多くは日常を恐れているのか、自分を高いところに置く。世の多くの人が浴している日常の世界を無視もしくは回避するので、日常との関係が希薄になる。そこを文学的教養で埋め合わせて体面を保つしかない。おのずと作品は「パロディー」に傾く。 ね。そういうことですよ。 というわけで、期せずして、鹿島茂さんの賢さとあられもなさ、そして丸谷才一の旧仮名遣いに対し、ワタクシと荒川さんで意見が完全に一致していたことが判明したのでありました。 こういうのを読むと、ちょっと自信が出てきますな。俺もやれるんじゃね? っていう。
January 13, 2022
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今日は会議やら来年度の入ゼミ希望者への説明会やら、色々あったのですが、その合間を縫って某地元新聞社の記者さんと打ち合わせがありまして。 で、その記者さんと色々話をしていたんですけど、アレだね、文化部の記者ってのは、よく勉強しておられますな。下手な研究者よりよっぽど色々なことをご存じで。 で、アメリカ文学関係の知り合いも多いみたいで、話を進めるうちに、おやあの先生もご存じ? この先生もご存じ?って感じで、共通の知り合いが結構多かった。ビックリ。 で、打ち合わせの方は、簡単に終わったのですが、なかなかマスコミ関係者とお会いすることもないので、ここぞとばかり自己宣伝しちゃった! まあ、その辺、尻込みする方ではないので、今やっている研究のことをガンガンお話しして、いずれスゴイ研究書出すから、出たら新聞で取り上げてね~ってな具合。まあ、「ドアを叩け、そうすれば開けて貰えるであろう」の精神ですわ。 ということで、とりあえず地元新聞の文化部に知り合いが出来た。これは一日の収穫としては十分でありましょう。 あとは有言実行あるのみ。気合い入れて、論文書こうっと。
January 12, 2022
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今日の衝撃ニュースは、何と言ってもキング・カズのJFL鈴鹿への移籍・・・もそうなんだけど、やはり「岩波ホール閉館」を挙げなければなりますまい。 コロナ禍で経営が圧迫・・・。まあ、それはわかります。しかし、この単館映画館がこの50年間に果たしてきた役割を考えた時に、ああ、そうですか、っていう風になるのか?っていうね。 まあ、勝手な想像ですよ。私の。 もしね、これがフランスだったらどうなったか。私はそんな風に想像するわけですよ。 おそらくフランスだったら、これだけ貢献のあった文化施設がコロナ禍という不可避的な事情によって経営不振に陥ったのなら、政府が動いて何らかの援助をして存続を促すだろうと思うんですわ。なにせ「フランス文化省」の初代大臣はアンドレ・マルロー。それ以後も政治家というよりは、作家とか舞台監督とか、実際に文化的なことに携わってきた人を充ててきた国ですから。 つまり、フランスは自国の「文化」というものを重視し、それを誇り、必要があれば支えるわけよ。当たり前のこととして。 一方、我が国はどうなのかと。 岩波ホール閉館について、文科相に一言もないのかと。 まあ、恥を知れと言って可、だと思いますな。
January 11, 2022
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石光真人という人の編著になる『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 いやはや、何の気もなく読み始めたんですが、これが実は隠れた名著で。もうビックリよ。 私は日本史に弱いので、詳しいことは分かりませんが、要するに明治維新の時、会津藩は薩長同盟によって賊軍扱いされ、会津藩としては抵抗しなかったのに、弱みに付け込んだ薩長軍が攻め入ってきて城を破壊、城下町を蹂躙。その後、藩の復興が許されたものの、それは実際には北方の火山灰ばかりの不毛の地へ会津藩士を追いやる口実に過ぎなかったと。おかげで酷寒の地に追いやられた会津藩士たちは餓死必至の状況で途端の苦しみを味わうんですな。 で、その後も中央政府は薩長の藩の出の者で占められ、それ以外の出身者はせいぜい下級役人として薩長の出の連中に顎でこき使われるだけ。そういう藩閥政治が横行することに。 そんな中、苦労に苦労を重ね、辛酸を舐めた柴五郎は、それでも何とか伝手をたどって陸軍幼年学校に入ることが出来、最終的には出世して陸軍大将、台湾軍司令官、軍事参議官となって、軍人の頂点に立つ。で、その柴五郎が戊辰戦争当時の記憶を綴った自伝を、石光真人さんが若干編集したのが本書『ある明治人の記録』ということになる。 で、読むとね、ビックリするのよ。会津藩の苦難に。柴五郎の祖母・母・姉、そしてわずか7歳の妹まで、敵軍の襲来を前に自刃するんだから。なんでそういうことになるかっつーと、柴家の男たちは会津城に籠城して戦うわけだから、城の中の糧食を女が減らしちゃいかんというわけで、柴家の女たちは自ら城下町の家に留まるわけよ。その時点で、自分たちが死ぬことは覚悟の上。で、城に居たら敵に殺されるかもしれないってんで、母親は柴家で一番年少の男だった柴五郎だけ、山にキノコ狩りに行くという口実でもって逃がすわけよ。後でそれを知った時に柴五郎の悲嘆たるや・・・。 結局、柴家の男たちは全員生き残るのですが、その後、彼らが通り抜けた辛酸は、これまた筆舌に尽くしがたしっって感じ。 もう、こんなの読んだら、他人事ながら「薩長憎し! 許さん!」と誰でも思いますよ。 で、柴五郎が幼少時に体験したことの大半は、悲惨なものなんですけど、それでも何人かはちゃんとした人もいて、そういう人たちに助けられて、柴五郎はこの時代を生き抜いていくことになると。その辺の五郎ちゃんの冒険は、ちょっとした立志伝なんですけどね。 ま、とにかく、そんな感じで、戊辰戦争当時の驚くべき記録がここにある。これはね、もう日本人たるもの、必読ですよ。なーんて、還暦前になってようやくこの本の存在に気づいたワタクシに言われたくはないでしょうけれども、とにかく日本人全員、必読! まだ新年も松がとれたばかりですけれども、おそらく今年読んだ本ベスト1位か2位あたりに入りそうな本でございました。これこれ! ↓ある明治人の記録 改版 会津人柴五郎の遺書 (中公新書) [ 石光 真人 ]
January 10, 2022
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アメリカの黒人俳優、シドニー・ポワチエさんが亡くなりました。享年94。 ポワチエと言うと、誰もが『夜の大捜査線』か『招かれざる客』をあげそうな気がするんですけど、ワタクシ的には『野のユリ』なんだよなあ。ある事情から、尼僧に頼まれて教会を建てることになる放浪の男の話なんですが、ポワチエ演じるホーマー・スミス、尼僧たちに翻弄されるホーマー・スミスがなんとも可愛らしく描かれていて、ホントにいい映画でした。これこれ! ↓【中古】野のユリ [DVD] 黒人差別の只中に活躍した黒人俳優として色々苦労もあったでしょうけれども、彼が居たおかげで、リアルな黒人像がアメリカ映画の中に描かれるようになった、というところがある。まあ、ポワチエが先陣を切っていなければ、モーガン・フリーマン、デンゼル・ワシントン、サミュエル・L・ジャクソン、ローレンス・フィッシュバーンといった後輩たちの活躍は大分遅れていたでありましょう。 その意味で、アメリカ映画界に貢献するところ大だった名優、シドニー・ポワチエさんのご冥福をお祈りいたします。合掌。 それからもう一人、往年の名レスラー、ストロング小林さんの訃報もありましたね。 熱狂的プロレスファンだった子供の頃、馬場さんの出る全日本プロレス、猪木のいる新日本プロレスは週末のゴールデンタイムの放送でしたけれども、国際プロレスとなると、テレビ的にはちょっと格下の扱いという感じだった。でもプロレスさえ観れれば満足だった私は、律儀に国際プロレスも観ておりまして。 ラッシャー木村とかグレート草津、マイティ井上、アニマル浜口、そのあたりが当時の国際プロレスの看板でしたが、中でもストロング小林は目立って強かった。 何しろ体の大きさも、それから顔の造作も日本人離れしていて、ドン・レオ・ジョナサンのような大型外国人レスラーに負けていなかった。そしてプロレスのスタイルも正攻法というのか、体力と技術と、両方で攻めていくという感じで好感がもてた。これこれ! ↓ストロング小林 vs ドン・レオ・ジョナサン でまた国際プロレスに来る外国人レスラーも、正攻法の人が多くて、特に印象的だったのはビル・ロビンソンかな。相手を逆羽交い絞めにした状態から自分の後ろに投げる「スープレックス」(ジャーマン・スープレックスとは別物)という大技の持ち主で、最初に見た時は仰天したものであります。で、そんなビル・ロビンソンのイギリス流正統派レスリングを継承したストロング小林は、相手を持ち上げる系の力技、例えばバックドロップとかブレーン・バスターのような技をよく繰り出しておりましたっけ。全日や新日が、アブドーラ・ザ・ブッチャーとかタイガー・ジェット・シンとか、そういう色物に次第に頼るようになってきたのに対し、どこまでも地味に正統派プロレスをやっていた国際プロレスの在り方は、私は好きでしたねえ。 とまあ、そんな地味な国際プロレスの花形、ストロング小林さんのご冥福をお祈りいたします。合掌。
January 9, 2022
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『書物の達人 丸谷才一』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ・・・っていうか、何でこの本を読んだのか、自分でもよく覚えてないっていう。どこかで面白い本だという噂を聞いて、それを鵜呑みにして注文掛けたんだったっけなあ? とにかく、手元に届いたのでつい読んじゃった、という感じなんですけれども。これこれ! ↓書物の達人丸谷才一 (集英社新書) [ 菅野昭正 ] で、この本、タイトルからして分かるように、丸谷才一を讃えるための本でありまして、彼が亡くなった時に、そういうテーマの連続講演会が開かれたらしく、それをまとめたものなんですな。だから、講演録みたいなものなのよ。で、本書の中で丸谷さんを讃えているのは、川本三郎さん、湯川豊さん、岡野弘彦さん、鹿島茂さん、関容子さんの5名、それに編者の菅野昭正さんが加わるという感じ。 多分、この中の岡野弘彦さん、鹿島茂さん、関容子さんの3人は私もそのご著書を読んでファンであるものだから、多分、それでこの本を買う気になったんだろうな。そうじゃなくちゃ、理屈に合わないもん。だって・・・ ワタクシ、丸谷才一、興味ないし。 そう、とりたてて好きとか嫌いとかじゃないんだけど、興味がない。から、丸谷才一の書いたものをろくに読んだことがない。大体、今時旧仮名遣いでモノを書く人の本って、あんまり読みたい気にならないんだよね。それに丸谷才一って、声が大きいことで有名でしょ。ワタクシ、でかい声の人って、あんまり好きじゃないのよ。 となると、あまりよく知らないし、興味もない人について語っている人達の話を読んで面白いのか?っていうね。 で、結果から言うと、面白かったとも言えるし、面白くなかったとも言える。 とりあえず面白かったのは岡野弘彦さんの話で、これは岡野さんと、大岡信さんと、丸谷才一の三人で連歌を巻いたっていう話。これは、丸谷才一がどうのこうのというより、連歌というもののルールが書いてあって、それが面白かった。なるほど、連歌ってのは適当にやっているのではなくて、基本的なルールがあるんですな。そのことを初めて知って、それが面白かったんですわ。だけど、まあ、それだけと言えば、それだけね。 で、もう一つ面白かったのは、鹿島茂さんの話。これは、鹿島さんから見た丸谷才一氏の人物分析で、本書の中ではピカ一に面白かった。 でね、鹿島さんによると、丸谷才一は、結局、モダニストだった、ということになるんですな。 じゃあ、その前提としてモダニズムってのは何かという説明になるんですけど、モダニズム以前のロマン主義は、「この世には新しいものがある。だからその新しいものを見つけた人間が勝ちである」という考え方だと。換言すれば、「新しいものは、いいものだ」というわけ。だからロマンチストは、新しいものを探す。自分の国に新しいものがなければ、外国まで足を延ばす。イギリスになければ、南欧へ、そこにもなければトルコやオリエントへ。あるいは空間ではなく時間を遡って、「中世」を新しいものとして再発見した!とか。 一方、自然主義ってのはロマン主義とは方向性が逆で、遠い国・遠い昔に行くのではなく、自分たちの卑近なところに新しいものを求める。例えば娼婦の世界とかヤクザの世界など。だから外向きか内向きかの違いはあるんだけど、「世の中に新しいものはある」という考え方である点では、ロマン主義も自然主義もおんなじだと。 ところがモダニズムは違うんですねえ。モダニズムは「天の下に新しいものなし」という考え方がベースだというのですな。もう描くべきものは既に描かれてしまっているし、語るべきものは語られてしまっている。となると、モダニストにとっての創造とは、古い物の並べ替え、アレンジだと。古い陳腐な材料を、斬新に並べ替えることで、新味を出す。これがモダニストの行き方だと。 で、丸谷才一は、そういう意味のモダニストなのであって、彼がジョイスの文学に魅せられたのも、ジョイスが古い言葉を新しい並べ方で提示して見せたからだと。それから、丸谷が新古今和歌集を最も高く評価したのも、同じ理由だと。 で、もうひとつ、鹿島さんが丸谷才一を見る時の視点は、官能性への志向なんですな。 丸谷才一は1925年生まれだから、日本がどんどん戦争の方に向かう時に物心つき、青春時代を過ごした人であると。で、早々に自我を確立した丸谷さんにとって、戦争の何が嫌だったかというと、それが性的なものを抑圧するものだったことだろうと、鹿島さんは考えるわけ。で、性的なもの、すなわち官能性というのは、パーソナルなものの極致であって、ある意味、戦争を推し進める全体主義に対する最後の砦でもあった。丸谷さんが折口信夫ファンだったのも、折口が官能性を頑固に維持し続けたからだし、また官能的なものを許すような「寛容」さこそ、丸谷が最も重視したものだろうというわけね。 だから、彼は寛容じゃない人が嫌いだった。丸谷さんが小林秀雄のことが嫌いだった理由も、その辺りにあったのではないかと鹿島さんは見ております。 小林秀雄という人は、論理の飛躍をしてまでも、何でもズバッと切り捨てる。そういう一足飛びで切り捨てていく姿勢ってのは、若く血気の盛んな連中には受ける。だから小林秀雄も若い人たちの間で受けたわけだけれども、そういう非寛容な論理というのは、丸谷才一のよしとするところではない。彼はむしろ、寛容を旨とする人生態度の方を取った。丸谷才一の訳したアラン・シリトーの『長距離走者の孤独』の中に、主人公の若者が「奴ら(体制側の連中)もずるいが、俺もずるい」というセリフがあるのですが、相手を非難すると同時に、その非難のネタが自分の中にもあることを認めるような強靭さ、それこそが丸谷才一の評価するものであろうと。鹿島さんご自身はフランスのモラリスト文学を読んで寛容の精神を身に着けたけれども、丸谷さんは、おそらくイギリス文学の中からそういう寛容の精神を学んだのではないかと、鹿島さんは推測しております。 とまあ、そんな感じで、鹿島さんはズバズバと丸谷才一を腑分けしていくんですけど、ワタクシが思うに、鹿島さんの分析は全部当たっているんじゃないかと。もう、鹿島さんの分析を読んだら、丸谷才一が全部分かった、っていう気になれます。 だから、この本を読んでワタクシ、鹿島さんって頭いい! って、改めて思いました。 それにつけて言いますと、本書の冒頭で菅野昭正さんも丸谷さんの何たるかを分析しているんですけど、こちらはね、読んでも全然丸谷像が明確になりません。丸谷才一はモダニストだった、という趣旨は鹿島さんと同じなのですが、その説明が全然なっていない。菅野昭正さんってのは、世評の高い人だというのは存じあげておりますが、ワタクシにはイマイチ、ピンとこない人でありまして、同じフランス文学系でも、弟子筋の鹿島さんの方が遥かに頭いい!って感じを、今回、余計強くした次第。 ま、それはともかく、鹿島さんの文章を読んで丸谷才一という人がどういう人かは分かったのですが、その一方、おかげで丸谷才一にますます興味がなくなりました。 だって、わずか30頁弱の分析で過不足なく腑分けされちゃうんだもん。そんな人に興味ないよ~。 たとえば・・・誰でもいいんだけど、たとえば田中角栄にしましょうか。田中角栄についてのエピソードとか読むと、ああ、きっとこの人は人間的に魅力のある人だったんだろうな、というのは良く分かるし、実際に会ってみたかったなと思う。同じことは、三島由紀夫にも当てはまるし、折口信夫にも当てはまる。山之口貘さんだって、やっぱり会ってみたいなと思う。 だけど、丸谷才一に会いたいなあ、と思わないんだよね。そう思わせてくれるようなエピソードが一つもない。だから、いかに本書の論者たちが「丸谷才一は書物の達人です!」って口をそろえて言っても、ふ~ん、だから?って感じ。 ま、ひょっとしたら丸谷さんだって魅力的な人だったのかもしれないけれど、少なくとも本書を読んだ限りでは、そういうエピソードは書いてない。その意味で本書は、丸谷さんの何たるかを紹介する本として、さほど面白くなかったとも言えるわけですよ。 っつーわけで、ある程度、面白かったし、ある程度、面白く無かった。ワタクシにとって本書はそんな感じでしたね。 ああ! だけど、一つだけ、丸谷才一に関して感心した・・・というか勉強させられたことがありました。 丸谷才一という人は、書評を重視した人だったそうですが、彼には書評というものに一家言があった。それは「書評三原則」というもので、その三つの原則とは ①「書き出しの三行で読者を惹きつけること」 ②「書評対象の本の内容要約をちゃんとしろ」 ③「けなし書評はやめよ」というものだったと。 なるほど! 確かにね。それは納得だわ。今年、文芸時評をするに当たって、この三原則のことはちょっと頭の片隅に置いておこうかな。
January 8, 2022
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『キングスマン ファースト・エージェント』を観てきたのですが、これは面白いわ。さすが、マシュー・ヴォーン監督に駄作なし。 『キングスマン』シリーズは第1作、第2作とも面白い映画で、まず必見の部類ですけど、その前日譚である本作は、この作品だけ独立して観ても面白い。 でまた、内容が面白いのみならず、映像のセンスが素晴らしい。美しく、また時にユーモラスでもあり。伏線の回収も含め、何から何までほんとによくできている。 これが芸ですよ。芸。この芸を観るために、お金を払う価値があるという、そういうレベルの芸になっている。もうね、ちょっと前に観た『マトリックス・レザレクションズ』の面白くなさぶりとは正反対の出来よ。 というわけで、この映画、必見です。観てない方は是非! といいつつ、今日、この映画を観ていた人は、私たち夫婦を含めて数名。まあ、別にいいんだけど、何なんだろうね、日本人って。何が面白い映画なのかもわからなくなったの? かつては世界の映画界の中でもトップクラスにいた映画大国であったはずなのにね。
January 7, 2022
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今度、某新聞に私が書いた記事が載ることになったんですけど、それに使うので、昔撮った写真を掘り起こす必要がありまして。 で、フィルム時代に撮った古い写真を保存してあった箱を物置の奥から探し出してきまして、お目当ての写真をどうにか探し出した次第。 ま、それはいいんですけど、アレだね、昔の写真を掘り起こすのは駄目だね。もう、仕事そっちのけで見入っちゃうもの。 で、今から30年位前、要するに私が大学に赴任したばかりの頃の写真とか見ると、我ながら若いのよ。で、超痩せている。だからスタイルがすごくいい。いや、今だって結構痩せてはいるんですが、やっぱりね、若い時に痩せているのと、還暦間近で痩せているのでは、同じくらいの体重でも違うんだよね! でまた髪の毛が真っ黒でツヤツヤ。キューティクルだらけよ。ああ、こんな時代に戻りたい・・・。 一方、着ている服は、これがまたダサいんだ! まだバブルの余韻があったのか、スーツのズボンとかダボダボで、足が服の中で泳いでいる感じ。今見ると笑っちゃうほどなんだけど、その当時はこれがカッコ良かったのかねえ・・・? あと、私服になるとさらにダサくて、タックの入ったチノパンとかダボダボで履いていたりする。もちろんポロシャツ・インとかで。 いやあ、こんな服を着ていたのかよ! 最低だ! しかし、今からまた何十年かして、今の自分の風貌とかを写真で見たら、「あの頃は若かった! でも服がダサい!」なんて思うのでしょうか? それから、昔の写真を見ていて思うのだけど、昔は結構、人から写真をもらう、ということが結構あったよね! いわゆる「焼き増し」という奴。パーチィとか集団で何かしている時、何人かの人がカメラを持っていて、それらの人が撮ったものを、後で焼き増しして手渡ししてくれる、みたいな。だから、意外なアングルの写真とかが、手元にあったりする。 今はスマホで撮る時代だけど、「後で送るね」とかいいながら、送られてこないことの方が多い。で、自分だって自分のスマホで撮っても、後で見直すことなんかあんまりない。 そう思うと、フィルム・カメラの時代の方が、案外、豊かな写真との付き合い方をしていたのかもね。 とまあ、そんなことをつらつら思いつつ、若かりし頃の写真に見入っていた今日のワタクシなのでありました、とさ。
January 6, 2022
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昨年晩秋あたりから全然患者数が増えないし、もうコロナって、日本に関しては終わったのかと思っていたら、やっぱり来るのね、第6波。しかもこのタイミングで。 このタイミングってのは、もうじき共通テストが始まるというタイミングという意味ですが。 うちの大学なんて、人員ギリギリで共通テストを運営しているんだけど、これで学内クラスターとかで先生方が集団感染したり、あるいは濃厚接触者とかになったら、もう試験監督の人員が足りません、っていう話になるんじゃないだろうか。 っていうか、自分はオミクロンにかかってはいないけど、たまたま濃厚接触者になっちゃったから自宅待機要請で、試験監督できませーんとか言って当日、胸を張って休む、というパターンはどうなんだろうか。ひょっとして超ラッキー? とにかく、明日も倍、明後日はそのまた倍、ってな具合で増えていくのかどうか。自衛手段を講じつつ、日々更新される情報に要注目ってところですな。
January 5, 2022
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帰省する時、市立図書館に寄って文芸誌を一冊借り出し、実家でパラパラ読んでいたのですが、やっぱり面白くないんだなあ。そこに載っている小説、どれもこれも何一つ面白くない。なんだろうね、こういうのを書いている人ってのは、何が言いたくてこういうのを書いているのかね・・・。 ところでかく毒づいている私の文学観ってのはごくごくシンプルなもので、文学=義理×人情なのよ。 義理ってのは、渡世の義理、つまり人間関係のしがらみですな。あるいは主人公が置かれる所与のシチュエーションと言いましょうか。 一方、人情ってのは、人間らしい喜怒哀楽ですよ。 で、義理×人情となると、4つの場合が考えられる。すなわち「平凡なシチュエーション×普通の喜怒哀楽」「異常なシチュエーション×普通の喜怒哀楽」「平凡なシチュエーション×異常な喜怒哀楽」「異常なシチュエーション×異常な喜怒哀楽」の4つ。必ずそうだとは限らないけど、多分、最初に述べた「平凡なシチュエーション×普通の喜怒哀楽」が一番高級な文学になりがちで、後に続くほど低級になっていくような気がする。でも、とにかくこれらの状況の中で描かれる物語が、「そういうことって、あるよね~」という説得力をもって描かれていれば、それは文学だ、と思うわけ。もちろん、文学にも松竹梅はあるよ。あるけども、一応は文学の体裁はとれていると。 例えば、芥川龍之介の「手巾」とか。 あれは息子の死を母親が語るという話なんだけど、そういうことはよくあることだから、平凡なシチュエーションだよね。 だけど、その母親は笑いながら息子の死を語る。そしてその一方、テーブルの下ではハンカチをもみくちゃにしている。上半身で笑い、下半身で泣いているというか。これは普通の状態じゃないから「異常な喜怒哀楽」ということになる。つまり龍之介の「手巾」は「平凡なシチュエーション×異常な喜怒哀楽」の物語なわけだ。だから傾向としては、あまり大した文学性は持ちえない感じはする。でも、そういう風に息子の死を語るということ自体、日本人の行動として理解できなくはない。つまり「そういうことって、あるよね~」の範疇なので、これは一応は文学作品ということになる。 だけど、そのあと、この話はもうひとひねりある。 この婦人の行動を一旦は「武士道」の女性版だと感心した語り手が、あとで考え直して、実はそんなものではなく、むしろ非常に安っぽい行動だったのではないかという気がしてきて、正答が分からなくなる、というオチが付くわけね。まあ、このオチがこの作品の見どころというなるわけで、さて、このオチはあった方が良かったのか、なかった方が良かったのか、というのがこの作品に対する判断のしどころにもなると。文学作品は文学作品だけど、さて、松かな、竹かな、梅かな? ということですわな。 そうやって文学ってのは味わったり考えたりするもんだと思っていたのよ、ワタクシは。 ところが。 最近の文芸誌に載っている小説って、「異常なシチュエーション×異常な喜怒哀楽」のものばっかりで、その時点で期待薄である上、さらに「そういうことって、あるよね~」という共感が得られないものばっかりなのよ。 じゃあ、それ、文学じゃないじゃん! っていうね・・・。 だから、ワタクシの義理×人情方式では、「これは文学作品である」という烙印がそもそも押せないものばっかりなのよ。で、それを、どうやって「文芸時評」すればいいの? はあ~。難題だねえ。ほんとにワタクシ、文芸時評できるのかね? とまあ、そんなことを考えつつ、今日は名古屋の自宅に帰ります。明日からはまた名古屋からのお気楽日記、お楽しみに~!
January 4, 2022
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今日は甥っ子が実家に遊びに来ました。コロナ禍やなにやらで、1年半ぶりくらいに会ったって感じかな? 彼は東京でも西の方、駒場東大前に住んでいたのですが、最近、東京の東の方に引っ越しまして。で、その引っ越しにまつわる様々な話を面白おかしく語ってくれたんです。 で、それによると、同じ東京でも西の方と東の方では随分、住民気質に違いがあると。よく言えば下町的な人情味があるとも言えるし、その一方、今まではあまり遭遇したことのないようなヤンキーやギャルママ、そしてギャンブル好きのおっちゃんたちやふらふらと傍若無人に自転車を飛ばしてくるおじいさん、おばあさんが沢山いると。で、そのあたりの状況を今は学習中とのこと。 あと、やっぱり「荒川」というのがクセモノで、江戸時代の前からの暴れ川だけに、近隣のハザードマップを見るとまっかっかなんですってね。まあ、そういうのがあるから、家賃も西側と比べると大分安いらしいのですが。 でも広い間取りの家が安く借りられるせいか、若いファミリー層が沢山住んでいるらしく、公園などで見かける子供の数が半端ないと。少子高齢化なんてのは、東京の東の方ではあまり聞かない話なんですと。 ふうむ。なるほど。東京と言っても、その実態は多様ですな。 私自身も、親戚の関係で、そちらの方の土地勘がないわけではないのですが、もうその辺に行かなくなって40年以上経つ。それだけに、今日甥っ子から聞いた話はなかなか新鮮で面白かった。まあ、甥っ子が土地に馴染んだ頃に、一回くらい遊びに行ってみようかな。
January 3, 2022
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今日は先日完成した母の第二句集を、母の友人・知人に寄贈するべく、本の現物と送り状をスマートレターに詰めたり、送り先の住所を書いて郵便ポストに投函に行ったりといった作業をしておりました。まあ、母も物の管理が大分下手になっていて、送るべき相手の特定やその方の住所の特定からスタートしなければならないので、結構時間がかかりましたが。 それでも、私がそういう作業をしている間、自分の句集をあらためて眺めていた母は、「いい出来だねえ。最初は自信が無かったけど、これなら人に送っても恥ずかしくない」と自画自賛。 そう、自画自賛は釈迦楽家の特質なのであります。父も母も自画自賛タイプ。そしてその血はまっすぐに私に受け継がれているという・・・。 で、今日、その自信作を方々へ発送したので、しばらくしたら友人・知人から母のもとへ、礼状やら感想やらかが届くことでありましょう。そしてそれは当然、母をほめたたえる内容のものでありましょう。そしてそれを受け取った母は、当分の間、幸せになることでありましょう。 まあね、それこそが、句集を作った私の狙いでありましてね。 とにかく、必ずしも乗り気ではなかった母が、自分の句集に対してポジティヴな反応を示してくれたのは良かった。正月二日の成果としては、まずまずといったところではないでしょうかね。
January 2, 2022
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本ブログの読者の皆様、明けましておめでとうございます。皆さまにとって、(そして誰よりもワタクシにとって)本年がいい年になりますように! さて、コロナのせいで2年連続、初買いショッピングの楽しみを我慢したワタクシ、結局、お節を食べた後はノンビリ実家で本を読んだり、ちょっとだけ論文を書いたりしながら過ごしておりました。 で、今日読んでいたのは、岩田徹さんの『一万円選書』という本でありまして、これは先日、本ブログで言及しました「年末・年始にかけて読もうと近所の本屋で買った本」でございます。で、それを読了しちゃった。つまり本年最初の読了本ということになりますね。 この本の著者の岩田さんというのは、1952年生まれだそうですから、ワタクシより一回り年長ですね。北海道の炭鉱に生まれ、後に親が祖父の書店を継ぎ、やがて岩田さんもその書店を継ぐ形で本屋さんになったと。時代はバブルの頃で、その時分は本もよく売れ、町の小さな本屋だった「いわた書店」でも立ち読みの客がごった返していて、通路を歩くこともままならないほどだった。 で、調子に乗って店舗の拡張をしたところで、バブル崩壊。客足は遠のいたのに借金を背負うことになってしまった。で、そんな厳しい状況に20年ほどさらされて、もうどうにもならない、本屋を畳むかというところまで追い詰められたというのですな。 ところで、岩田さんは函館ラ・サール高校の出身なんですが、店を畳むかどうか悩んでいた時、ラ・サールの先輩と酒を飲む機会があった。で、裁判官だか検事だかになっていたその先輩に、本屋の窮状を訴えたところ、その先輩がズバッと1万円札を岩田さんに手渡して、これで俺に合う本を選んでくれと頼んだというのですな。まあ、先輩からしたら、少しでも岩田さんの店の売り上げを上げてやろうという心づもりだったのでしょう。 で、その時、岩田さんは、これは一つのチャレンジだと思ったというのですな。それで店に帰ってから一生懸命考えて、その先輩の性格やらなにやらに合わせたおすすめ本を1万円分選び、先輩に送ったと。 そしたら、岩田さんの選んだ本を全部読んだその先輩曰く、「勧められた本は皆面白かった。ところで俺のような客が100人もいたら、お前の店も大分楽になるんじゃないか・・・」。 これに岩田さんはピンときたわけね。で、彼は「一万円選書」というアイディアを思いつく。早速「一万円で、あなた向けの本を選びます」という企画を打ち上げ、ネットで募集したと。それが2007年の話。 ところが、そう簡単には申し込みは増えなくて、せいぜい月に一人とかそういう感じだったんですと。そんなレベルではもちろん、店の売り上げの足しには大してならない。だけど、岩田さんはその一万円選書の企画を細々とやり続けるんですな。 そしたら2014年にとあるテレビの深夜番組が岩田さんの一万円選書のことを取り上げたと。 すると、もうその瞬間から日本中から選書の依頼が殺到! 以後、多い年で7000件、平均しても3700件くらいの依頼がくる。4000件と考えても、それぞれが1万円の依頼なら4000万円。そのうちの2割が収入になるとして、800万円。それプラス、書店としての売り上げもあるわけですから、北海道のド田舎の小さな独立書店の売り上げとして悪くない。 それよりも何よりも、毎日2時間、数名の依頼にこたえるために選書をするその時間の充実感! これが岩田さんにとっては重要だった。それ以前は苦しみだった書店の経営が、今はライフワークになり、やりがいを感じながら、作家と読者の中継ぎの役割を全うしている。60歳を越えてからの逆転人生。それから10年、今もなお殺到する選書依頼にこたえながら、冥利に尽きる書店経営を続けていると。 ま、そんなことの次第が書いてある。それがこの本の内容なんですな。 なかなか面白いよね! 岩田さんに1万円札をズバッと差し出して、最初の「選書」を依頼した先輩という人も素晴らしいし、それにヒントをつかんだ岩田さんも素晴らしい。そして最初はなかなかうまくいかなかったけれども、それでも長く続けたことでテレビ番組に取り上げられて一気に逆転した、というのも面白い。また最果ての小さな町の書店、在庫も少なく、人通りも少なくて、書店経営としては最悪の土地なんだけど、そのことが逆に「選書」をするための時間的余裕をもたらすという、逆転の状況がまた面白い。そしてなにより、60歳を越えての逆転劇、今では仕事が他のして仕方がないというのも素晴らしい。 本が売れない、条件も悪い、あとはもう店を畳むしかないという状況は同じなのに、「一万円選書」という企画一つでこの状況がオセロゲームのように全部好転してしまうというね。それを考えたら、今、苦境に陥っている人だって、ひょっとしたらその苦境こそがチャンスなんだって思えるかもしれないじゃん? 考え方のヒントとして、面白い実例だなと。 ま、そんな感じで新年一発目の読書はなかなか面白かったのでした。これこれ! ↓一万円選書 北国の小さな本屋が起こした奇跡の物語【電子書籍】[ 岩田徹 ] しかし・・・それにしても、やっぱりテレビの影響ってのは、ものすごいのね。深夜番組でちょっと取り上げられただけで、一発逆転になっちゃうというのだもの。誰か、深夜番組で、私の書いた本のことを取り上げてくれないかしら・・・。
January 1, 2022
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