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| 年月 |
略史 |
|---|---|
| 先史時代 BC3世紀~ |
モン族、マレー人、クメール人などの国が存在した。モン族はチャオプラヤー川下流域で、塀で囲んだ都市に仏教の高度文化圏を形成。マレー人はスマトラ島・マレー半島地域で海上交易を行う大乗仏教国を形成。クメール人はカンボジア・アンコールを首都としてアンコール王朝がタイ全土を支配し言語、美術、宗教などに影響が今なお残る。 |
| 13世紀前半~ |
スコータイ王朝(1238年~1448年) <タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。・・・WIKIPEDIA > メコン川の小国家を統一した小タイ族の王朝・スコータイ王国を形成し、クメールの衰退に乗じて、ラオスやシンガポールにまで領土を拡大、3代目王はタイ文字考案、上座部仏教(スリランカより伝道)国教制定、交易自由化など国家の基盤を形成。その後は、各地で離反が起こり小国化。アユタヤ王朝に吸収され消滅。 |
| 13世紀末~ |
ラーンナー王国(1296年~1558年) 同じ頃、タイ北部・チェンマイを首都に建国された王朝で、メコン川のヴィエンチャン小国家まで支配を広めたが、1558年にビルマに敗退し、属国となる。 |
| 14世紀半~ 18世紀後半 |
アユタヤ王朝(1351年~1767年) アユタヤを首都とする王朝は、34人の王が400年間に亘り続いたが、当初はクメール(1431年に同国首都を陥落させた)、チェンマイの勢力の侵攻、16世紀半、一時はビルマの属領となり17世紀初め回復する苦難を経ている。国際商業都市として栄えたものの1765年から2年間に及ぶビルマの再侵攻を防ぎきれず陥落、破壊された。 |
| 1767年~ 1782年 |
トンブリー王朝(1768年~1782年) アユタヤの将軍プラヤー・タクシンがバンコク対岸のトンブリーに新都を置き王となり、タイ人の国として北部も統合。タクシン王が自ら仏陀と宣言するなどの行動に、クーデターが起こり倒れる。 |
| 1782年~ 1932年 |
ラッタナコーシン王朝(チャクリー王朝) タクシン王を処刑したチャオ・プラヤー・チャクリーが権力掌握し、首都をバンコクに遷都、ラーマ1世としてビルマ侵攻で衰退したタイ文化復興、国内整備を行い、4世は外交関係を築いた。まだ、王の威厳は首都バンコクとその周辺にとどまり、地方自治は豪族、中央からの派遣知事に委任。5世は奴隷制度廃止、近代国家としての基礎固めで絶対王制を確立。ラーマ5世まで絶対王制のなかで、華人優遇策を行った(王室は中国の姓「鄭」を自称した)が、6世の時に華人の同化、属地主義を導入。この頃までに王族のための国費が増大となり、財政再建のため官僚の給料据え置きを7世が画策。さらに、7世は民主憲法設置を企図したが、王族の反対にあい一旦諦めたことで、官僚・陸軍勢力の不満が拡大、7世がフアヒン離宮に滞在中に、人民党(プラヤー・ポパン、プリーディー達)によるクーデターが1932年6月に勃発(立憲革命)、国王が臨時憲法を承認し、チャックリー王朝の絶対王制は崩壊する。 |
| 1932年~ 1973年 |
<立憲革命(立憲政変)、シャムからタイ王国へ国名変更> 人民代表委員会でプラヤー・「マノーパコーン」・ニティターダーがタイ初代の総理大臣として任命された。1933年4月に7世は総理大臣と共に新政権内の文民派プリーディーの「経済計画大綱」を批判して、国会は混乱し、総理大臣は国会閉鎖、共産主義思想を非合法化する。1933年6月、超法規的無能政権として、プラーヤー・パポン、ピブーンらが初の軍事クーデター(王政復古阻止)を起こす。同10月には親王による民主クーデターの画策が失敗する(首謀者国外逃亡)。7世は1934年、政治混乱のなか、白内障を理由に外遊に出て退位。(王位については後継の8世は事故で急逝、弟の9世による 60年余の立憲君主治世が続いている。) 立憲革命で1938年第3代首相となったビブン・ソンクラーム元帥は国名を民族名タイに変更、華人の帰化、漢字の使用制限を行う。太平洋戦争では一時日本側に追随したが、「自由タイ」のブリーディ(第8代)に譲り辞任。1947年に再度、軍事クーデターで政権復帰、1957年9月のクーデターで失脚するまで組閣(「永年宰相」と呼ばれる)。 その後も次々とクーデターが勃発。 |
| 1973年~ |
1973年10月14日学生革命が起こる。国王の学生への支持と、陸軍最高司令官の鎮圧不参加などから、タノーム政権(第15代)は崩壊、タンマサート大学・学長サンヤーによる内閣(第16代)が成立。 1976年10月6日に右翼組織、国境警備隊がクーデターを起こす。経済問題から度々おこるクーデターで、タイ通貨暴落。 1997年9月民主的憲法改正が行われて、新憲法下の全国選挙でタイ愛国党の タクシン・シナワット (警察中佐)が31代総理大臣に選出(2001年2月~2006年9月)される。親・反タクシン派間で社会的対立が激化、選挙ボイコット、選挙違憲無効判断で混乱の中、軍部政変でタクシン政権は終焉。 暫定首相ソンティ・ブンヤラットカリン(陸軍将軍、2006年9月~同10月)、 32代首相スラユット・チュラーノン(陸軍大将、2006年10月~2008年1月)、 33代首相サマック・スントラウェート(タイ愛国党の流れを汲む国民の力党、2008年1月~同11月)、では反政府運動( 黄色シャツ=PAD民主市民連合 )が拡大し、首相への憲法違反判決((TV料理番組出演報酬受領)で辞任。 34代首相ソムチャーイ・ウォンサワット(国民の力党、タクシン元首相の義弟、2008年11月~2008年12月)では、空港占拠、ASEAN首脳会議延期事件、選挙違反などで 党は解党 され失職。(タイには、二大政党があり、民主党と、タイ愛国党→国民の力党→タイ貢献党の主流がある。) 35代首相アピシット・ウェーチャチーワ(民主党、2008年12月~2011年8月)では、タクシン支持派( 赤シャツ=UDD反独裁民主戦線 )のデモ集会が頻発、治安部隊の出動で約90名の死者を出し、終結した。 36代首相インラック・シナワトラ女史(初の女性首相、タクシン元首相の末妹、同氏支持派のタイ貢献党、新党プアタイともいう、2011年月8月~)では、前政権の任期前の解散総選挙でタイ貢献党が53%を占め、首班指名された。就任前月からの降雨で大規模洪水被害に遭遇し、非常事態に直面したが、その後は、比較的安定して運営されている。 |
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