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「三日で出所(笑)!」 徘徊日記 2024年5月30日(木)舞子あたり 虫垂炎の除去手術で、入院でしたが、実に物分かりのいい主治医さんで、「どうせ寝ているだけなら帰りたい!」 というと「じゃあ、帰りますか。ホントに寝てるんですよ!」 というわけで、三泊四日で出所! 病院前のバス停で黄色い花が咲いていてしみじみのぞき込みました。 出て来たばっかりの建物を振り返りながら、なにをしてるんだ?! ですが、肺活量、94歳程度! と診断されてドキドキしたことを、もう忘れていますね。 四日目の朝、5月30日の明石大橋。やっぱり絶景でしたが、さようなら(笑)ですね。通院はしばらく続くようですが、無事退院の報告でした。 皆さん、色々心配していただいてありがとうございました。追記 2024・06・02 上の黄色い花の名前ですが、同居人に尋ねると「金糸梅(きんしばい)」、ブログを読んでくれた年上のおばさんは「ビヨウヤナギ」、年下なのにボクを弟扱いして50年来のオネ~さんは「弟切草(オトギリソウ)」、みんな違うことをおっしゃるので調べたら、みなさん御正解!(笑) みなさん、よくご存知ですね(笑)。にほんブログ村
2024.05.31
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「目覚めたら、目の前に明石大橋!」 徘徊日記 2024年5月29日(水)舞子あたり 2024年の5月29日(水)の朝、まあ、生まれて初めての手術とかの体験から目覚めて、とはいっても、手術といっても何も覚えていないし、その後も、ほとんど起きているのか寝ているのかわからない一晩でしたが、何故かおしっこだけはくりかえししたくなって、これまた、生まれて初めて、看護師さんにおしっこをとっていただくという不思議な体験を繰り返しして、で、夜が明けて、三度目のおしっこで、もう、歩いて自分で行ってもいいの?はい、がんばって!とか、はげまされて、フラフラ、おしっこに行って、窓から見える快晴の明石大橋を見てホッとしました。 まあ、虫垂炎ごときで、なにを大げさなとお笑いでしょうが、70歳を目前にした初体験、なかなかな体験でした。 それにしても、この風景、なかなか、絶景でしたね。にほんブログ村
2024.05.29
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岡田暁生「音楽の聴き方」(中公新書) 今回の案内は音楽学者、岡田暁生の「音楽の聴き方」(中公新書)です。下に目次を貼りましたが、この本自体は、ボクのような、まあ、ただ、ただ、ボンヤリ聴いてきて、演奏者の名前もすぐ忘れるし、演奏形式や楽器についても関心が深まるわけではなくて、「好き」とか「イイネ」とかで過ごしてきたタイプの人をわかった気にさせてくれる入門書 ですね(笑)。 スラスラ読めて、ちょっと賢くなった気がして楽しい本です。もっとも、彼が「フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルのブルックナーの第八交響曲」が「本当に素晴らしかった。」とおわりにで書いていらっしゃることが、本当にわかったかどうか、まあ、怪しいのですけどね。 で、なぜ「案内」か? というと、最近、映画を見るとか、まあ、小説を読むとかでもそうなのですが、自分が、なにをおもしろがっているのかよくわからないことがよくあって、にもかかわらず、他の人に「おもしろかったですか?」とか、「何処がいいですか」とか問われると、困惑というか、自己嫌悪というかに落ち込む経験を繰り返していて、ちょっと、イラついた日々を過ごしていたのですが、偶然手に取ったこの本のこういう所に、「うん、そうだよな」 という感じで、ちょっと落ち着いたので「案内」という次第です。 芸術の嗜好についての議論において、本来それは「蓼食う虫も好き好き」の「たかだか芸術談義」でしかないはずなのに、なぜ私たちはしばしばかくも憤激したり傷ついたりするのかを、パイヤール(フランスの文学理論家)は次のように説明する。「われわれが何年もかけて築き上げてきた、われわれの大切な書物を秘蔵する〈内なる図書館〉は、会話の各瞬間において、他人の〈内なる図書館〉と関係をもつ。そしてこの関係は摩擦と衝突の危険を孕んでいる。というのも、われわれはたんに〈内なる図書館〉を内部に宿しているだけではないからである。(中略)われわれの〈内なる図書館〉の本を中傷するような発言は、われわれを最も深い部分において傷つけるのである」(「読んでいない本について堂々と語る方法」(筑摩書房)P96) まあ、ボクの気を鎮めてくれたのは、この一節なので、ここまででいいのですが、これを著者がも一度まとめていますから、それも引用します。 これまでどういう本(音楽)に囲まれてきたか。どのような価値観をそこから 植えつけられてきたか。それについて、どういう人々から、どういうことを吹き込まれてきたか。一見生得的とも見える「相性」は、実は人の「内なる図書館」の履歴によって規定されている。それはいまや自分の身体生理の一部となっているところの、私たちがその中で育ってきた環境そのものなのだ。だからこそ芸術談義における相性の問題は、時として互いの皮膚を傷つけるような摩擦を引き起こしもするし、反対にそれがぴったり合った時は、あんなにも嬉のだろう。での人たかが相性、されど相性。「相性の良し悪し」は、私たち一人一人のこれまでの人生そのものにかかわってくる問題だとも言えよう。芸術鑑賞の下部構造はこういうものによって規定されている。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」とはブリア・サラヴァン「美味礼賛」の中の有名な一節だが、音楽についても同じことが当てはまるはずである。」(P13~14 ) 第1章のこのあたりで、芸術鑑賞における、「すきずきの」の固有性 とでもいうことについて書いていらっしゃるのですが、まあ、いってしまえばありきたりな一般論です。なのですが、スラスラ読める文章作法というか、ちょっとおもしろい逸話や、個人的体験の挿入がお上手で、あきずに読めていいです(笑)。 そもそもは10年前の本で、ボクもそのころ読んだんですけどね。 ああ、岡田暁生という人は1960年生まれで、京大の人文研の先生ですね。「オペラの運命(中公新書・サントリー学芸賞)、「ピアニストになりたい!」(春秋社・芸術選奨文部科学大臣新人賞)、最近では、ちくまプリマ―新書の よみがえる天才シリーズで「モーツァルト」とか、素人向けにいい人みたいですね(笑)。 目次、あげておきますね。目次はじめに第1章 音楽と共鳴するとき―「内なる図書館」を作る第2章 音楽を語る言葉を探す―神学修辞から「わざ言語」へ第3章 音楽を読む―言語としての音楽第4章 音楽はポータブルか?―複文化の中で音楽を聴く第5章 アマチュアの権利―してみなければ分からないおわりに文献ガイド まあ、お暇な方、いかが?ですね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.28
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ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン「シド・バレット 独りぼっちの狂気」シネリーブル神戸 多分というか、おそらくというか、まあ、思い込みだけですがというか、1970年に高校1年生だった、ボクくらいの年齢の人で、1974年に大学生になって、初めて自分の小遣いで買ったロックのLPレコードがピンクフロイドの「おせっかい」で、その次に買ったのが「原子心母」だったというような始まりがあって、6畳一間の学生アパートでヘッドホンで繰り返し聞きながら田舎ものから脱皮しようとあがいたような20歳だったような人というのはそんなにいないんじゃないでしょうかね。 だって、ポスト・ビートルズのあの時代 に、同じロックというなら、すでに伝説だったジミ・ヘンや、ジャニス・ジョップリン、やたらにかっこよかったクリームや、ツェッペリン、ジム・モリソンが亡くなって伝説化しつつあったドアーズならまだしも、「エコーズって知ってる?」 とか、あんまり一般的じゃなかった気がしますね(笑)。大学とかの同級生とかにも、まあ、そんな話をした覚えもありませんし。 その後、音楽に対する好みがどう変わっていったかなんていう話は、まあ、今日はどうでもよくて、あの、半年ほどの音の記憶にはピンクフロイドがどっかと座り込んでいて、こう書きながら、久しぶりにヘッドフォンから「原子心母」の出だしの砲声、オートバイの爆音、そして、あのメロディーが流れてくるのを聞いていると、チョット、いても立ってもいられないような気分になりますね。 シネリーブルでは、同時に坂本龍一とかジョン・レノンの映画もやっていたのですが、ボクは、やっぱり、ピンクフロイドの伝説の人、シド・バレット からですね。 で、見たのは「シド・バレット 独りぼっちの狂気」、シド・バレットの映っている古いフィルムを集めて、その頃のみんなが語っているというドキュメンタリーでした。さて、感想は、というわけですが、実は、上に書いた「おせっかい」や「原子心母」の頃には彼はもう、バンドにはいませんからね。だから、よく知らなかったんですよね。でも、映画の中で、彼のことを語っているのが、その頃のメンバーなのです。なんか、ちっともエラそうじゃないおじいさんになっているロジャー・ウォーターズやデビッド・ギルモアを見ていて、シミジミしちゃいましたね。もう、それで十分でした。 まあ、それにしても、神戸が都会なのか田舎なのか、ここで50年暮らしてきましたが、田舎者脱皮作戦はうまくいったわけではなさそうですね(笑)。監督ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン音楽 シド・バレット ピンク・フロイドナレーション ジェイソン・アイザックスキャストロジャー・ウォーターズデビッド・ギルモアニック・メイスンピート・タウンゼントグレアム・コクソンミック・ロックダギー・フィールズノエル・フィールディングトム・ストッパードアンドリュー・バンウィンガーデン2023年・94分・PG12・イギリス原題「Have You Got It Yet? The Story of Syd Barrett and Pink Floyd」2024・05・24・no071・シネリーブル神戸no244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.27
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NTLive サム・イェーツ「ワーニャ」シネリーブル神戸 実は、ここのところ、珍しく体調を壊していて、徘徊もままならない徘徊老人シマクマ君ですが、今週逃せば見損ないそうなのでやって来たシネリーブル神戸、見たのはNTLiveで、演目は「ワーニャ」でした。アントン・チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の翻案(?)でした。まあ、チェーホフだから、とにかく、行こ! というのが正直なところです。 で、見終えて唸りました。 いやー、すごい! の一言ですね。 原作では大学教授だったアレクサンダーが映画監督ですが、呼び名は同じで、彼の若い妻(エレーナ)がヘレナ、すでに亡くなっている先妻の娘(ソーニャ)がソニア、で、ソーニャが恋する医師(アーストロフ)がマイケルと呼ばれていて、ソーニャの母の兄である主人公ワーニャ伯父の呼び名はアイヴァンとなっていました。ほかにも、祖母エリザベスとか乳母とか、不動産屋とか登場するお芝居ですが、お話が現代風にアレンジされてはいるものの、見終えた印象は、戯曲として読んだことのある「ワーニャ伯父さん」と、まあ、同じでした。 しかし、今回、見ながらへたり込みそうになるほど驚いたのは、まず、上に書き上げた登場人物を、男女をとわずアンドリュー・スコットという俳優さんが、一人で演じたということです。 瞬間、瞬間、いったい誰が誰にしゃべっているのかわからない、複数の人物の、複数のセリフのやりとりを、すべて一人の男性の俳優がやり切っていて、見ていてシラケないどころか、だんだんお話の展開がリアルになっていったことですね。落語のような「語り」ではなくて、戯曲のセリフがそのままです。 開幕直後は、その段取りが理解できませんから、少々当惑しますが、お話が煮詰まってアイヴァン(ワーニャ伯父)が銃(原作ではピストル、この芝居では猟銃)を持ち出したり、モルヒネ自殺を図ろうとするあたりから、ソニア(ソーニャ)の名セリフの山場では、見ているこちらは思わず涙を流してしまうありさまで、久しぶりのチェーホフ芝居に堪能しました(笑)。まあ、あのセリフが聴きたいばかりにやってきたわけですからね、拍手!でしたね。 一人芝居を観るという経験が、あまりないのでよくわかりませんが、この舞台ではアンドリュー・スコットが登場人物全員を演じ、あろうことかヘレナとマイケルの不倫ベッドシーンまで「ナルホドそうやるのか!」 という艶めかしさで演じてみせて、その直後、部屋に入って来る夫アレクサンダーに早変わりしながら、身づくろいを整えるエレナだったりする場面もあったりして、感心というより、ちょっと笑いそうでしたが、やるもんですねえ・・・ アンドリュー・スコットという俳優は、同じNTLiveの「プレゼント・ラフター」というお芝居と、サム・メンデス監督の「1917」という映画で見たことがありましたが、今回のお芝居は出色でしたね。 ボクとしては、やはり、チェーホフが好き! ということがあっての観劇でしたが、もう、何十年も前に見た岸田今日子のラネフスカヤ夫人以来の納得でした。今でも記憶に残っている彼女の舞台上での存在感とは全く違った趣向の舞台でしたが、ボクの中に、新たなチェーホフ戯曲を焼きつけたような印象でした。役者というのは、ここまでやるんですね! もう一度、拍手!ですね(笑)。演出 サム・イェーツ原作 アントン・チェーホフ脚本 サイモン・スティーブンスキャストアンドリュー・スコット2024年・117分・イギリス原題 National Theatre Live「Vanya」2024・05・25・no072・シネリーブル神戸no245追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.26
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村上春樹「村上春樹 翻訳 ほとんど全仕事」(中央公論新社) 今日は、2017年に出された「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)の案内です。目次まえがき翻訳作品クロニクル一九八一 - 二〇一七対談 村上春樹×柴田元幸 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈前編〉サヴォイでストンプ オーティス・ファーガソン 村上春樹訳 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈後編〉寄稿 都甲幸治 教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランド 村上春樹の翻訳 作家村上春樹の翻訳に関する、まあ、彼自身が語っている著書は、柴田元幸と語り合っている本はもちろんのことですがたくさんあります。 で、この本でも、柴田との対談がメインディッシュなわけですが、その前に、村上春樹の翻訳した仕事がすべて、多分、二〇一七年の時点で、お仕事を振り返ってというコンセプトなのでしょうね、その本の写真に村上自身のエッセイが添えられているところがミソで、結構、楽しめます。 たとえば、彼が訳したサリンジャーの「キャッチャー」とオブライエンの「世界のすべての7月」のページはこんな感じです。 キャッチャーの思い出の中で、「僕としては正直な話、表現はあまりよくないかもしれないが、猫さんの首に鈴をかけるネズミくんのような心境だった。そして予想どおりというか、あるいは予想を超えてというか、最初のうちは厳しいことをいろいろ言われた。」 と振り返っていたりするのが、興味を引きますね。 今でも、村上訳の「キャッチャー」が、サリンジャーの原作の、あるいは野崎孝の初訳の「ライ麦畑」という翻訳の、小説家村上春樹による歪曲のような言われ方を耳にすることがありますが、まあ、そのあたりについて村上自身の耳に何が聞こえてきて、彼がどう考えたのかあたりは、20年前の「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)あたりでしゃべっているかもしれませんが、ボクは、彼の翻訳態度というのは、作家としても真摯だ というふうに感じていて、翻訳作業において、原作のハルキ化、いってしまえば歪曲が起こっているというふうには考えたことがないので、まあ、なんともいえませんね。 で、柴田元幸との対談はというと、今までに書籍化されているものに比べて、10年以上も新しいというところがポイントですね。お二人とも、以前のお二人では、もうないのです。まあ、「翻訳夜話1・2」(文春新書)あたりで、耳にした話が繰り返されているわけですから、語り口のどこかしらに、時間が過ぎたことを、ボクは感じました。 もう一つ、本書で、おもしろかったのは都甲幸治の「ハルキ論」ともいうべき、教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランドという短いエッセイでしたね。 彼(村上)の語る国家の論理との戦いは、翻訳する作品を選定するうえでも大きな役割を果たしている。なぜなら、その多くで戦争が扱われているからだ。国家は必要とあらば個人をたやすく殺し得る。その極限の形が戦争だ。オブライエン「本当の戦争の話をしよう」所収の「レイニー川」の青年は、ベトナム戦争は間違っているとわかっていながら兵役を拒否できない。フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」の主人公は第一次大戦帰りで、ときどき人を殺したことがありそうな目をする。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を書いたサリンジャーは第二次大戦で数々の激戦に参加した。そして彼らの作品と、国家や宗教教団について考える村上春樹は地続きだ。(P195~196)都甲幸治 そうか、そういう経路で考えるのか、と、まあ、そういう感じでしたが、村上春樹という作家の不幸は、加藤典洋亡き後、彼を正面から論じる批評家がいないことだとボクは思っていますが、ないものねだりなのでしょうかね(笑)。 掲載されている翻訳の書籍がカラー写真だということもあって、オシャレな本ですが、なかなか読みでもありましたよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.25
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「久しぶりに武庫川を越えました。」 徘徊日記 2024年5月8日(水) 関西労災病院あたり 生まれて初めて、介護タクシーという乗り物に乗りました。通院のお手伝いをしていた恩師が、入院していらっしゃった病院の医師から別の病院での診察を指示されての付き添いです。 半月ほど前には、乗用車から車椅子への乗り換えのお手伝いだったのですが、いよいよ、介護タクシーに頼らなければならないご様子で、タクシー内でのお話相手です。 タクシーが、西宮市内から武庫川を渡ったあたりで、「あの時ね、別世界だったんだよね。」「あの時?」「うん、震災の時。」 武庫川の川面を見ながら神戸の震災の時のことを思い出されたようでした。「そうでしたね、西宮までと、尼とは別世界でしたね。」 人のよさそうな、運転手さんが、相槌を打たれて、「うん、尼崎は、別世界だった。」「センセー、やっぱり、あの地震は…」「うん、はっきり、覚えているよ。久しぶりの尼崎だね(笑)。」 武庫川を越えて病院はすぐでした。 待合室で、付き添いをバトンタッチです。新た検査や採血やで、長い待ち時間の間、することもなくて、庭に降りて来て一服です。 病院の前の岩はバラ園した。白や赤のバラが満開でした。 関西労災病院の前の庭です。待合室の先生に写真を見せるとニッコリされていました。 帰り道のことですが、阪急の今津線を通過したあたりで「先生、あのころ、N君が、このあたりに棲んでいたんですよ。」「N ? ・・・ ああ、Nくんか。」 若くして亡くなった愛弟子のことを、チョット思い出されたようでした。 このブログをご覧になった方には、何の変哲もない会話ですが、タクシーの中で、先生が、うまく、まわらない口でおっしゃったことは、一句、一句、この日の一月後に亡くなってしまった恩師のことばを記録しておきたくて書いています。 他の人に言うべきことではないかもしれませんが、ご容赦くだいね。にほんブログ村
2024.05.24
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フリーヌル・パルマソン「ゴッドランド GODLAND」シネリーブル神戸 見終えて、1カ月ほどたちました。覚えているのは「氷原」、「溶岩の流れ出す火口」、「馬」、「十字架」、「人々の無表情な顔」、そして「カメラ機材を担ぐ牧師」です。 舞台がアイスランドということで関心が湧きました。文字通り、地の果て、海の果ての世界です。サーガという言葉がありますが、北欧神話に出てくる女神の島です。なんとなく、そういう所を期待して見ましたが、ハズレのような、アタリのような印象を持ちました。 映画が始まって、まず、勘違いしていたことをなんとなく感じました。18世紀、カメラが実用化され始めた時代に、おそらく北欧カトリックだったこの島に、新しいプロテスタントの信仰を広めようとカメラを担いで渡って来た牧師 の話に神話なんてありえないということです。 カメラを担いだ若者が撮りたかったのはエキゾチックな風景と支配に従う人々のポートレイトでした。要するに能天気なのです。 彼には新たなる信仰の伝道とでもいうのでしょうか、敬虔な信仰があるとはとても見えません。宗主国の使いという、そこで暮らす人間には、エラそうなだけの存在であることには気づくことのできない、ただのカメラ小僧の好奇心があるだけのように見えました。 映画を見ていて、彼が、辺境の海岸から十字架を馬に担がせ、自らはカメラを担いで旅をして目的地の集落に到着したあたりで、実は島の中心地の目的地近くに港があることがわかります。 で、彼は、にもかかわらず、この「試練の旅」の旅程を選んでいたとわかったあたりから、おそらく、世界の辺境の地で、たとえば、極東の島国にオランダのプロテスタントがやって来たのは15世紀ころだったわけですが、そのころから幾度も繰り返されたにちがいない宗教的伝道者たちの試練の旅をなぞろうとしている人物なのではないかと予感のような思いが浮かびました。だから、カメラなのです。 18世紀末、カメラにうながされるように始まった、どうもインチキ臭い試練の旅の記録が数葉の古びた写真で残されていて。それを見た21世紀の映画監督は、おそらく、世界最初のカメラ小僧の一人だった、この若い牧師が「行って、見て、帰ってくる」はずの旅の中で、被写体に対する、ただの好奇心で撮って、偶然、残されたにすぎない数葉の写真の足跡を追えばが、本人が気付いていたかどうかはともかくも、サーガの地の「神話的世界」とそこでを生きる人間が浮かび上がってくる、そんなモチーフだったのではないでしょうか。 この映画の面白さは、多分そこからでした。カメラのレンズに神の威信を託した愚かな若い牧師は、哀しいことに現像液の消費とともに神の威力を失い、野ざらしの白骨となって朽ちて消えてゆきます。残された数葉写真が語る出来事はアイスランドの自然、あるいは「神話的世界」の歴史の小さなエピソードとして21世紀のカメラ小僧であるフリーヌル・パルマソン監督によって復元されますが、彼が映し出したのは開拓者として渡って来た人間たちや、彼らが持ち込んだ新来の宗教を越えたアイスランドそのもの! だったのではないでしょうか。 主人公の若い牧師が、おろかな現代人にしか見えなかったというのが、この作品の印象でした。新奇な科学技術や思想や宗教を寄せ付けない厳然たる世界がある! ということを感じた作品でした。監督・脚本 フリーヌル・パルマソン撮影 マリア・フォン・ハウスボルフ美術 フロスティ・フリズリクソン衣装 ニーナ・グロンランド編集 ユリウス・クレブス・ダムスボ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャストエリオット・クロセット・ホーブ(ルーカス)イングバール・E・シーグルズソン(ラグナル)ビクトリア・カルメン・ゾンネ(アンナ)ヤコブ・ローマン(カール)イーダ・メッキン・フリンスドッティル(イーダ)ワーゲ・サンド(ヴィンセント)ヒルマル・グズヨウンソン(通訳)2022年・143分・G・デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン合作原題「Vanskabte Land」2024・04・15・no059・シネリーブル神戸no238・SCCno21追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.23
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アグニエシュカ・ホランド「人間の境界」シネリーブル神戸 なんとなくな、予感のようなものにうながされて見ました。アグニエシュカ・ホランドというポーランドの監督の「人間の境界」です。 映画の、そもそものタイトルであるGreen Borderという文字が白色のフォントで現れて、やがて、緑色に変わります。 で、映像では、緑の森林 がモノクロになって、場面は飛行機の機内に変わり映画が始まりました。 正確な小題は忘れてしまいましたが、「難民」、「国境警備兵」、「支援」という小タイトルが付けられて、いわば、三つの視点かららのオムニバス形式でGreen Borderの現実が描かれていました。 で、Green Borderとは何か? というと、映画の解説によれば、ポーランド語(?)ではZielona Granicaと書くらしいですが、「緑の国境を越える」=「政府の許可なく非合法に越境する」 という意味だそうで、EU圏内の国境自由通過を定めたシェンゲン協定(1995)以降、EU圏内における国境は自由通過らしいですが、この作品が映し出していたのはEU圏外から「誰」が、「何故」、EU圏内への、いや、ポーランドへの「非合法越境」のために、隣国ベラルーシに集まり、そこからZielona Granicaを越境しポーランドへの入国を求めているのか。そこで何が起きているのか? ということでした。 で、映画の最初に映し出された「緑の森」のシーンこそ、その現場であり、恐るべき「現実の場所」であるという作品でしたが、映し出される映像には言葉を失い、目を瞠る他になすすべがない印象の映画でした。「国家」と「国家」のボーダー、境界線であらわになる「国家」という共同幻想の悪夢のような現実の中に誰もが、無自覚に存在していて、その悪夢の中で、人間たちが「人権」も、「生存権」も、「モラル」も、「勇気」も、「善悪の判断」も、「誇り」も、みんな失って「ゴミ」くずとして存在している。 そんな印象でした。 映画に出てくる「難民」と呼ばれている人たちも、支援者たちも、あるいは、双方の国境警備の兵士たちや警官たちも、もう少し広げていえば、ただの市民を生活の場所から追い出した国家指導者たち、政治家たちや宗教原理主義者たちも、ついでにいえば、世界の「難民」の現実など、かけらも気にかけない生活を送る極東の島国の徘徊老人も、人間を失った、その悪夢の中に生きているという現実認識、それを突き付けてくる迫力がこの作品にはありました。 支援に参加し、国家のルールを越えて活動しようとするエリアという女性医師が登場し、彼女に対して、アナキストの一人が「あなたを見直したよ。てっきり自己評価を高めるために支援グループに入ったんだと思ったけど、違ったね。」 と語りかけるシーンに「映画は無力ではない!」 とチラシで語っているアグニエシュカ・ホランド監督の言葉の真意が木霊すのを感じました。 いや、それにしても、もう一度「人間」を取り戻すために、何をすればいいのか、を問いかけてくるというか、まあ、途方もない作品! でした。拍手!監督 アグニエシュカ・ホランド脚本マチェイ・ピスク ガブリエラ・ワザルキェビチ=シェチコ アグニエシュカ・ホランド撮影 トマシュ・ナウミュク美術 カタジナ・イェンジェイチク衣装 カタジナ・レビンスカ編集 パベル・ハリチカ音楽 フレデリック・ベルシュバルキャストジャラル・アルタウィル(バシール:シリア難民)マヤ・オスタシェフスカ(ユリア:精神科医)トマシュ・ブウォソク(ヤン:ポーランド国境警備兵)ベヒ・ジャナティ・アタイ(レイラ:アフガニスタン難民女性)モハマド・アル・ラシ(祖父:シリア難民)ダリア・ナウス(アミーナ)2023年・152分・G・ポーランド・フランス・チェコ・ベルギー合作原題「Zielona Granica」「Green Border」2024・05・15・no069・シネリーブル神戸no243追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.22
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村上春樹 柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書) ここのところ、サリンジャーが再、再、再、・・・噴火しています。まあ、もちろん、個人的な話ですが、ボクの中でのサリンジャー・ブームは、ほぼ、50年前、だから20歳ごろに大噴火があって、その後、数年おきに小噴火を繰り返し、まあ、50歳を境にして、何となく、もう、イイかな、という雰囲気で鎮火していたのですが、昨年末から読んでいる乗代雄介という作家にうながされるように、20年ぶりの噴火状態です。 で、今回案内するのが2003年、ちょうど20年前に、だからボクが50歳のときに出版された、村上春樹と柴田元幸の対談集、「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)というわけです。出版されてすぐに読んだのですが、ブームにうながされて読み直して面白かったので案内しています。こんな目次です。目次ライ麦畑の翻訳者たち―まえがきにかえて(村上春樹)対話1 ホールデンはサリンジャーなのか? 対話2 『キャッチャー』は謎に満ちている『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説(村上春樹)Call Me Holden(柴田元幸)あとがき 柴田元幸 村上春樹と柴田元幸の翻訳談義は、この「翻訳夜話1・2」(文春新書)のあと、柴田元幸がやっていた、たしか「モンキー」という文芸誌で繰り返し対談していて、それを本にした「本当の翻訳の話をしよう」(新潮文庫)とか、最近では「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)とか、たくさんあります。 まあ、その中で、サリンジャーに特化して喋りあっているのが本書です。目次をご覧になれば気づかれると思うのですが、村上訳「The Cathcher in the Rye」、野崎訳「ライ麦畑でつかまえて」について、かなり突っ込んだ対談で、まあそこが、本書の読みどころだとは思うのですが、実は、今回、読み直しておもしろかったのは「Call Me Holden」という、まあ、東大の先生であった柴田元幸の「サリンジャー講義」なのですが、なかなかシャレていたので紹介します。 こんな書き出しです。 だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ、なんて最後の最後に言ったけど、ほんとそのとおりで、あんな話書いちまったものだから、あれからもう五十年以上、要するに君はあの本で何が言いたかったんだいとか、あの話に全体について君はいまどう感じているんだいとか、ろくでもない質問を僕はさんざん浴びせられてきた。そんなこと、答えられるわけないよ。何が言いたいかわかっていたら、何もあんな長い話なんかせずに、はじめっからそれを言ってしまえばいいわけだし、あの話についてどう感じるかって訊かれたって、語ってしまったからにはあれはもう僕だけの話じゃなくて君の話でもあるわけで、君はどう感じているんだいってこっちが訊きたいくらいなのに、そういう質問する人に限って、だってこれは君自身の物語だろう、君自身のことは君がいちばんよくわかってるはずじゃないか、なんて言ったりする。それって物語について、というか人間について何か勘違いしてるんじゃないかな。語ることで、君は君自身から隔たってしまうんだよ、よくも悪くもね。嘘だと思ったら、君もやってみるといい。だけどそうは言っても、そうやって語って、自分自身から離れてみることでしか、自分に近づく道はない気もする。よくわからないんだけどさ。(P226) まあ、こんな感じです。ここから、ハックルベリーを経由して、ラルフ・エリスン、フィリップ・ロスへと展開していくところが、まあ、東大なのですが、おもしろいのは「君」の使用法と「語り」に関する言及ですね。「キャッチャー」でホールデンが語りかける「君」とはだれかというのは、小説の話法としてかなり重要な問題ですが、誰なのでしょうね?アメリカ現代文学を引っ張り出してきて、柴田が語ろうとしていることのポイントの一つがそこにあるんじゃないでしょうか。まあ、それ以上は、お読みいただくほかありませんが、引用部だけでもかなり面白いことをいっていると、ボクは思うのですね(笑)。 で、本章を終えた柴田元幸が、本書の最後の「あとがき」で 小説について、ああでもないこうでもないと話し合うことは、今日ではだんだん少なくなってきているかもしれない。この本がそういう流れを少しでも逆転させることができたら、こんな嬉しいことはない。(P246 ) とおっしゃっているのを読んで、チョット、感無量でしたね。こんなふうに思っていたこともあったなあ。でも、疲れちゃうこともあるんですよね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.21
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村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社) まだ、高校生と教室で出逢っていたころの「読書案内」です。還暦を迎えようかという老人が15歳に語る機会があったころの語りですが、捨てるのも残念なので、少々直して載せます(笑)。 さて、まさに、もっともきらめいている同時代の現役作家、村上春樹の新作の案内です。「騎士団長殺し(1部・2部)」(新潮社)という作品です。「きらめいている作家」、「現役の作家」・「同時代の作家」、そんなふうにいうと高校生諸君は、はてな?という感じになるのではないでしょうか。皆さん、村上春樹とか、読みますか? もう古いことになるのですが、ぼく自身が高校生だったころでも、「現役の作家」・「同時代の作家」なんていう感覚はありませんでした。 ぼくが高校一年生だった、その秋、市谷の自衛隊駐屯地でクーデタを呼びかけて、割腹自殺をして果てるという、とんでもない事件を起こし、新聞紙面をにぎわせた三島由紀夫という作家がいたのですが、事件の当日ニュースを見るまで、ボク自身、彼の名前さえ知りませんでした。もっとも、ぼくは面白くもなんともない3年間の高校生活のせいで、すっかり文学少年化(?)してしまって、2年後の秋の放課後の教室で神戸から転校してきた同級生が「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(現在は講談社文芸文庫)という小説を手にしてこれを知っとおか、天皇陛下のことが書いてあんねん。 といってぼくに手渡そうとしたのことがあったのですが、いや、これは三島とは正反対の主張をしとお大江健三郎というやつの、天皇制パロディ小説やと思うけど、お前、読んだんか? と返答すると、すっかり鼻白んだ彼は本を投げ出して教室から消えてしまいました。彼は三島由紀夫を崇拝する右翼少年になりたかったようなのですが、少々筋を間違えていたらしいのです。ああ、そういう少年がいた時代です(笑)。まあ、彼をちゃかした説明も当たっているかどうか、今となっては怪しいわけですが、当時の田舎の高校生の政治や文学に対する理解はその程度であったということで、彼がその場に残していった大江健三郎のその小説は今でもぼくの書棚のどこかにあると思います。 もっとも、文学少年などと思い込んでいた自意識過剰の高校生だったぼくが三島や大江に熱中するのはその翌年、京都での予備校通いの下宿での一人暮らしの時からです。その時、「現役作家」・「同時代作家」というべきものに出会うことになりました。 実は三島由紀夫と大江健三郎と村上春樹には共通点があります。何かおわかりでしょうか。答えはノーベル賞です。 三島は1960年代の後半ぐらいのことですがノーベル賞に一番近い日本人作家と騒がれていたし、大江はその後、実際にノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹もここ数年、受賞予想の常連ですね。ノーベル賞が意味することはいろいろあるかもしれませんが、何よりも世界文学として、その作品が取り扱われているということではないでしょうか。 世界文学としてというのは、その作品が書かれたオリジナルな言語の文化や社会の枠を超えてということですね。日本語で書かれた小説なんて、「世界」に出てゆけば翻訳でしか読まれないし、日本文化の固有性とか言いたがる人がいますが、世界中の文化が、本来、それぞれ固有だという普遍性において固有なだけですからね。 というわけで、「騎士団長殺し」という今回の作品も数か国語に翻訳され、世界同時発売という、日本人の作家としては、信じられないようなグローバルな扱いを受けています。それが世界文学としての側面の一つということですが、だからといって新作が優れているといえないところが、残念といえば残念ですね。 ただ、ぼくもそうなのですけど、ある作家の作品があるとすると、評判が悪かろうとよかろうと、それを読んでいればうれしいという感受性はあると思うのです。 理由はいろいろあると思いますが、同時代を生きている作家が世界を描き上げていく感受性は、その作家の作品を読み続けている同時代の読者の感受性を育てる ことになる場合があるのではないでしょうか。 ぼくにとって村上春樹はそういう作家のひとりだということだと思うのです。村上の作品を読んだことがない人のために言うと、村上春樹という作家はある時期から小説の中で使う装置というか、設定というかがずっと共通しています。それは、小説の中に、まあ、壁で仕切られているか、地下の何階かに降りていくか、階段を上がったり下りたりするか、あれこれ方法は工夫していますが、「あっちの世界とこっちの世界」 があるということだと思うのです。 一般的に、まあ、あたり前のことですが、小説が描いている世界があって、その世界は、読者が作品を読んでいる「今・ここ」の世界とは必ずしも一致しません。小説が描いている今とは、こことは、いつで、どこなんだという場合に、幾通りかの世界があるという前提が納得できなければ、小説なんて、ばかばかしくて読めませんね。 村上の場合のそれは、いわゆるSF的な設定だったり、登場人物の意識の世界の多重性だったりするわけではありません。「ここ」と「あそこ」という次元の違う世界 が設定されているのです。もっとも、村上は、この多重構造を、小説を読む人間に対して謎として差し出していて、たとえば太宰治の「トカトントン」の音が聞こえてくる世界の設定とは違いますね。太宰の音の発信源は別世界ではない、主人公がいて読み手がいるこっちの世界と地続きだと思うのですね。 「暴力の世界と愛の世界」とか、「死の世界と生の世界」とかに、小説が世界を分割するという設定が、そもそも現実とは違います。現実の世界はそういうふうに複数の世界として割り切ることはできません。現実の世界に足場を置く限り、それは、くっついているわけですから、太宰のような描き方になるというのが一つの方法ですね。ああ、みなさんには「走れメロス」の太宰治ですが、「トカトントン」、新潮文庫で読めますからね。主人公に、どっかから音が聞こえてくる小説です。 村上は重層化されている小説世界という虚構世界を、現実世界と、微妙にズレている構造を明かさないまま書き始めます。そこから、「人間」のドラマが展開するから、自分と同じ現実のこととして読者は読み始めます。はたして、彼の小説世界が、私たち読者の世界と地続きかと言えば、そこが怪しいところなのかもしれません。そもそも、彼の小説が描き出す「あっちの世界」は当然ですが、「こっちの世界」もまた物語的虚構の世界であって、そこから読まなければ、読み損じるのかもしれません。 しかし、まあ、そこが肝なのでしょうが、結局、人間のことが描かれていて、読み終われば悲しくなります。何気なく悲しい世界に生きてることを実感します。なんか「騎士団長殺し」という作品について、まったく要領得ない案内ですが、それが彼の文学だと、ボクは思うのですよね。一度、お読みになって見ませんか。同時代の作家と出会えるかもしれませんよ(笑)。(S)2017・12・20 こんな、今、自分で読み返しても論旨が分からないような作文を高校生に向かって書いていたことがあることが懐かしくて載せました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.20
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王兵(ワン・ビン)「青春」元町映画館 すごい映画を見ました。現代中国の資本主義化の心臓部ともいえる長江デルタ地域、織里という町にある子供服縫製工場で働く、ほぼ、十代後半から二十代の青年男女の住居とセットになっている仕事場での日常を、おそらく、監督であるワン・ビン一人のカメラで徹底的にドキュメントした215分でした。 「死霊魂」で度肝を抜かれたワン・ビン監督の最新ドキュメンタリー「青春」です。 視点の取りようによって、まさに資本主義の搾取の現場のドキュメントであり、青春を生きる若者たちの出会いの姿であり、田舎からやって来た素人の少年・少女たちが縫製の、ミシン仕事のプロになっていく成長譚であり、まあ、まとめていえば、徹底的な現実凝視のフィルムの中で、年収3万元にも満たない低賃金住み込み労働の青年たちの生活の姿、今を生きている姿が、生き生きと、いってしまえば肯定的に描かれていて、だからこそ、現代中国では、決して公開されない、いや、出来ないであろうという、実にスリリングで、矛盾に満ちたフィルムでした。ワン・ビン監督は怒りや同情を封印して、被写体である「人間」に肯定的に焦点を当てることで、中国にかぎらず「現代社会」の現実である貧しさを文字通り根底から描くことに成功している傑作でした。もうそれ以上言葉はないですね。 実は、この映画を見終えての帰路、電車の中で貧血を起こし、スマホに夢中の乗客たちは青ざめてしゃがみこんでいる老人に気付くこともなく、意識朦朧とした老人は普段は乗るはずもないタクシーで、やっとのことで帰宅し、翌朝、日曜日の救急診療に転がり込んで、まあ、事なきを得るという経験をしたのですが、「映画」に当たったのでしょうかね(笑)。 腹痛と貧血の冷や汗に耐えながら、ものすごい勢いでミシンを操っていた青年たちを思い浮かべながら「そうだよな、もう少し、世界を見てからでないとな。」 とか、なんとか、意地を張ってはいたのですが、もう年ですね(笑)。それにしても、意識朦朧の老人を励ましてくれた王兵(ワン・ビン)監督に拍手!でした。監督 ワン・ビン2023年・215分・フランス・ルクセンブルク・オランダ合作原題「青春 Youth (Spring)」2024・05・18・no070・元町映画館no246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.19
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濱口竜介「悪は存在しない」元町映画館 濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」を見ました。 つくづく、この監督の作品との相性の悪さを実感して見終えました。なんだかわけがわからない気分で座り込んでいると、ちょうど、一席空けた隣の席に座っていらっしゃった長髪でおひげを蓄えていらっしゃった、まあ、20代の後半か30代くらいのの男性が他のお客たちが出て行かれるのを待つような様子で座っておられたので、思わず声をかけました。「おもしろかったですか?」「はい。」「この監督の作品は、よくご覧になるのですか?」「はい、ドライブマイカーとか見ました。」 まあ、それだけの会話だったのですが、ちょっと、ホッとしました。 ボクには、始まりから最後まで、なんだかわからない落ち着かなさしかなくて、とどのつまりのラストは、ただ、ただ、ポカーンでした。 もう、それ以上、あれこれ言うことはないのですが、少し、言い訳を書くと、実は、この監督の作品は神戸を舞台にした長編に始まって、短編のオムニバス、何とか賞だかで騒がれた、隣の男性がご覧になったらしい作品まで、みんな見ているのですが、どの作品も、作品の方からスーッと離れていく感覚なのですね。 今回は、「おかワサビ」の話、「水を汲む」シーン、「薪を割る」シーンなんかが、スーッと、映画がボクから離れていった記憶として残ったのですが、どれも、ボクの生活の記憶に少しずれているというか、なんかウソやなと感じたからですね。 たとえば、一つ上げれば、ワサビは畑でも、まあ、田舎の家なら裏庭の日陰でも育ちます。葉っぱは、水気が少ないだけで、水辺のワサビと同じです。信州での、そばの薬味としての扱われ方は知りませんが、「そうなの?何を大げさな。」 という感じ浮かんできました。 映画が、そのシーンで背景化しようとしているのは「文化」や「自然」の歴史性というようなものかなとか思いながらも、たとえば「自然」に対する、この「話題」の作り手の作為というか、思いつきのようなものを感じてしまっているのかもしれませんが、そのあたりから、主人公らしき男性、そして、親子の「自然さ」に対する、ほんの幽かな疑い、まあ、白々しさの感覚から離れらなくなってしまうのですね。 その結果でしょうか、あたかも静かに錯綜するかの自然な会話が、異様に劇的というか、思わせぶりな意味を漂わせ始めて、まあ、それはそれで面白いのですが、やっぱり、「なんだかなあ???」 が浮かんできてしまうのです。 で、あのラストで、題名が「悪は存在しない」ですからね。「観る者誰もが無関係でいられない、心を揺さぶる物語」 なのだそうですが、今度は「よし!よし!」かなと期待して見たのですが、ボクには、やはり、「無関係」でした(笑)。 この人の映画、「青年団」という劇団の役者さんたちが出てくるのが楽しみの一つなのですが、今回も、少し老けられた山村崇子さんとかの姿を見つけたりしてなつかしかったですね。監督・脚本 濱口竜介撮影 北川喜雄編集 濱口竜介 山崎梓音楽 石橋英子キャスト大美賀均(巧)西川玲(花)小坂竜士(高橋)渋谷采郁(黛)菊池葉月三浦博之鳥井雄人山村崇子長尾卓磨宮田佳典田村泰二郎2023年・106分・G・日本2024・05・07・no065・元町映画館no245追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.18
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社) 快調に幕末史を駆け抜けるように描いている鈴ノ木ユウの「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社)がトラキチクンの2024年5月、二度目のマンガ便に入っていました。 土佐に帰った竜馬の苦闘が描かれている巻でしたが年代を整理すると、第8巻の巻頭の71話からの事件が、後に「井口村刃傷事件」と呼ばれている土佐藩の郷士、上士がぶつかり合う血みどろの幕開けの事件で、1861年3月、続く事件が「土佐勤王党」の結党で、同年8月、で、この巻では、まだわからない龍馬脱藩が1862年3月です。 7巻で江戸から帰国した竜馬が土佐で巻き込まれたのは、関ケ原以前の領主、長曾我部の家臣と、以後の山之内の家臣を「郷士」、「上士」と分けて、身分的上下関係で統治してきた幕末土佐藩の宿痾! ともいうべき現実で、78話あたりから登場した参政吉田東洋の暗殺、まだ姿を現さない山之内容堂の復権、武市半平太の処刑と続く、幕末史の中でも、とりわけ殺伐とした藩内闘争のはじまりのシーンなのですね。 坂本龍馬が幕末の志士と呼ばれている人たちの中で、独特のスタンスに立った理由の一つは、まあ、素人考えですが、土佐藩の、この内情をその目で見たということが関係していると思いますね。 で、8巻の名場面はこれです。 江戸の長州藩の藩邸で開かれた草莽決起の集会 に登場した高杉晋作ですね。まあ、それにしても、独特な顔で描きましたね。ちょっと笑ってしまいましたが、竜馬、晋作と登場して、まだ、当分、出てきそうもありませんが、西郷隆盛はどんな顔で描かれるのか、チョット楽しみですね。 8巻の、もう一人の新顔は乾退助ですね。彼は上士であるにもかかわらず、やがて勤王党に参加するはずですが、8巻ではまだ吉田東洋の周辺人物です。ハイ、自由民権のあの人、板垣退助として100円札だったかで有名になる人です。 まあ、とにかく、次号はどうなるのかな、脱藩まで行くのかな?そういう感じですね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.17
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イ・ハン「マイ・スイート・ハニー」キノシネマ神戸国際 昨日はトニー・レオン見たさに中国製スパイ・ノワール「無名」でしたが、今日はユ・へジン見たさで、韓国製ラブ・コメ映画でした。見たのはイ・ハン監督の「マイ・スイート・ハニー」で、同居人と同伴鑑賞でした。 見ながら、思わず声を出して笑いました。ユ・へジンさん、さすがですね。たぶん、実年齢は50歳を超えていらっしゃると思いますが、この映画で演じていらっしゃるのはチャ・チホさんといって、45歳、お菓子会社の研究員だそうで、豆腐チップを開発していて、お菓子ばっかり食べていて、栄養失調状態だという中年男でした。 目覚まし時計が山ほどある部屋で目覚めて、時計の指示する時刻どおり行動するという、まあ、ちょっとアブナイ人物を演じていらっしゃるのですが、あのお顔の唐変木が45歳にして、初めて恋に落ちるのですね。トンチンカンをいかに演じるか勝負だったと思うのですが、さすがの演技でしたね。 で、その唐変木のお相手は、大学生の娘さんと「私たち」で暮らしていらっしゃるイ・イルヨンさんというシングル・マザーで、演じていらっしゃるのがキム・ヒソンさんとおっしゃる女優さんでしたが、可愛らしいお顔立ちなのですが、この方も、脱・世俗というか、かなりぶっ飛んでいらっしゃるキャラなのですが、なかなかの熱演で、笑えました。 チラシにある通り、ちょっと変な二人の「最初の恋」と「最後の恋」の激突! で、ベタといえばベタ、アンマリといえば、あまりにアンマリな展開ですが、まったくシラケさせないのは、主役のお二人の熱演ももちろんですが、韓国映画の実力! という気がしました。 例えば、チン・ソンギュさんという男前の俳優さんが演じるビョンフンさんという、チャ・チホさんの上役の室長さんとかが登場するのですが、その彼が部下を相手にこんな演説をするシーンがあります。「僕がなんで出世が早いか分かるか?」「お父さんが社長だから」「違う」「祖父が創業者だから」「違う」「母親が理事だから」「違う。」「???」「愛だ」 要するに、自分はモテるということを言いたいだけのおバカ演説なのですが、笑えるんですね。 他にも、大学生のお嬢さんの、これでもか! と言わんばかりのチョー甘いマスクの恋人が、なんと、軽トラックを家の前に横付けして、二階のベランダに向かって「ロミオ」じゃあるまいし! の告白・熱唱シーンといい、薬屋さんのおねーさんとの人生相談といい、うまいものです。 まあ、なにはともあれ、カップルのお二人に拍手!ですね。監督 イ・ハン脚本 イ・ビョンホン撮影 イ・テユン音楽 チョ・ヨンウク美術 キム・ヒョノク編集 ナム・ナヨンキャストユ・ヘジン(チャ・チホ)キム・ヒソン(イ・イルヨン)チャ・インピョ(兄ソクホ)チン・ソンギュ(上役ビョンフン)ハン・ソナ(ウンスク)2023年・118分・G・韓国原題「Honey Sweet」2024・05・14・no068・キノシネマ神戸国際no09追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.16
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谷川俊太郎「みみをすます」 中村稔「現代詩人論 下」(青土社)より 中村稔の「現代詩人論」(青土社)の下巻です。上巻もそうでしたが700ページを越える大著です。下巻では飯島耕一、清岡卓行、吉岡実、大岡信、谷川俊太郎、安藤元雄、高橋睦郎、吉増剛造、荒川洋治の9人の詩人が論じられています。 フーン、とか思いながら最初に開いたページが谷川俊太郎でした。 谷川俊太郎は多能・多芸の詩人である。「ことばあそび」の詩も書いているが、平仮名だけで書いた詩集「みみをすます」がある。一九八二年に刊行されている。これには表題作「みみをすます」の他、五編の詩が収められているが、私はやはり「みみをすます」に注目する。ただ、たぶん一五〇行はゆうに越す長編詩なので、全文を紹介することは到底できない。かいつまんでこの詩を読むことにする。 ここで論じられているのはこの詩集ですね。 本棚でほこりをかぶって立っていました。谷川俊太郎「耳を澄ます」(福音館書店)、チッチキ夫人の蔵書ですが、ボクも何度か読んだことのある懐かしい詩集です。箱入りです。箱から出すと表紙がこんな感じです。 わが家の愉快な仲間たちが小学生のころ、多分、教科書で出逢った詩です。今でも教科書に載っているのでしょうか。 子供向けのやさしい詩だと思っていましたが、今回読み直してみて、少し感想がかわりました。 まあ、それはともかくとして、中村稔はこう続けています。 まず短い第一節は次のとおりである。みみをすますきのうのあまだれにみみをすます いかに耳を澄ましても、私たちは、昨日の雨だれの音を聞くことはできない。読者は不可能なことを強いられる。次々に不可能な行為を読者の耳に強制する。みみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすます 恐竜の呻きを聞くことができるはずはもないし、燃える木の叫び、プランクトンの音、まして自分の産声を聞くことができるはずもない。「みみをすます」は全編、こうした、いかに耳を澄ましても聞くことができるはずもない音、声などに耳を澄ますのだ、という。作者は読者が空想の世界、想像の世界に遊ぶように誘っているのである。読者が空想、想像の世界に遊ぶ愉しさを知るように、この詩を読者に提示しているのである。たとえば、山林火災で樹木が燃え上がる時、燃える樹木が泣き叫んでいると思いやることは私たちにとって決して理解できないことではない。この感情を拡張し、深化し、豊かにする契機をこの詩は私たちに提示しているのである。 こうした試みによって、谷川俊太郎は現代詩に新しい世界をもたらしたのである。彼でなくてはできないことであった。(P269~P370) ただ、ただ、ナルホド! ですね。この詩が書かれた時代、つまり、1980年代の始めころから、当時、三十代だったボクたちの世代が、十代で出逢った戦後詩の世界に新しい風が吹き始めていたのですね。 この詩を学校の教科書で読んで大きくなった愉快な仲間たちも、もう、40代です。今でも教科書に載っているのか、いないのか、そこのところはわかりませんが、小学校や中学校の教員とかになろうとしている、若い人たちに、是非、手に取ってほしい、読んでほしい詩集! ですね。 せっかくなので、谷川俊太郎の詩集にもどって中村稔が引用しきれなかった「みみをすます」全文を写してみたいと思います。みみをすます 谷川俊太郎みみをすますきのうのあまだれにみみをすますみみをすますいつからつづいてきたともしれぬひとびとのあしおとにみみをすますめをつむりみみをすますハイヒールのこつこつながぐつのどたどたぽっくりのぽくぽくみみをすますほうばのからんころんあみあげのざっくざっくぞうりのぺたぺたみみをすますわらぐつのさくさくきぐつのことことモカシンのすたすたわらじのてくてくそうしてはだしのひたひた・・・・・にまじるへびのするするこのはのかさこそきえかかるひのくすぶりくらやみのおくのみみなりみみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすますそのよるのみずおととびらのきしみささやきとわらいにみみをすますこだまするおかあさんのこもりうたにおとうさんのしんぞうのおとにみみをすますおじいさんのとおいせきおばあさんのはたのひびきたけやぶをわたるかぜとそのかぜにのるああめんとなんまいだしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすますくさをかるおとてつをうつおときをけずるおとふえをふくおとにくのにえるおとさけをつぐおととをたたくおとひとりごとうったえるこえおしえるこえめいれいするこえこばむこえあざけるこえねこなでごえときのこえそしておし・・・・・・みみをすますうまのいななきとゆみのつるおとやりがよろいをつらぬくおとみみもとにうなるたまおとひきずられるくさりふりおろされるむちののしりとのろいくびつりだいきのこぐもつきることのないあらそいのかんだかいものおとにまじるたかいびきとやがてすずめのさえずりかわらぬあさのしずけさにみみをすます(ひとつのおとにひとつのこえにみみをすますことがもうひとつのおとにもうひとつのこえにみみをふさぐことにならないように)みみをすますじゅうねんまえのむすめのすすりなきにみみをすますみみをすますひやくねんまえのひゃくしょうのしゃっくりにみみをすますみみをすますせんねんまえのいざりのいのりにみみをすますみみをすますいちまんねんまえのあかんぼのあくびにみみをすますみみをすますじゅうまんねんまえのこじかのなきごえにひゃくまんねんまえのしだのそよぎにせんまんねんまえのなだれにいちおくねんまえのほしのささやきにいっちょうねんまえのうちゅうのとどろきにみみをすますみみをすますみちばたのいしころにみみをすますかすかにうなるコンピュータにみみをすますくちごもるとなりのひとにみみをすますどこかでギターのつまびきどこかでさらがわれるどこかであいうえおざわめきのそこのいまにみみをすますみみをすますきょうへとながれこむあしたのまだきこえないおがわのせせらぎにみみをすます 中村稔が言うとおり、結構、長い詩です。あのころと違った感想と上で書きましたが、今回読み直して、たとえばしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすます というあたりに、今の、ボクのこころは強く動くのですが、あのころには、その感じはあまりなかったわけで、この詩が「ひらがな」で書かれていることの意味というか、効果というか、が、子供に向けてということではなくて、ボクのような年齢になった人間の、まあ、年齢は関係ないのかもしれませんが、ある種の「記憶」は「ひらがな」である! ということこそ、この詩の眼目だったんじゃないかという驚きですね。 詩人は「ひらがな」という方法の意味についてわかってこう書いているにちがいないのでしょうね。実感としてとしか言えませんが、「小学校の足踏みオルガン」ではなくて、「しょうがっこうのあしぶみおるがん」という表記が、老人の思い出を、記憶の底の方から揺さぶるのです。大したものですね(笑)。追記2024・11・20 2024年の11月13日に谷川俊太郎さんが亡くなったそうです。老衰だそうです。この詩人は宇宙人だから死なない! そう思っていました。まあ、ボクなんかには想像できない、どこか遠くへ行かれたんでしょうね。お声はみみをすませば、いつまでも聞こえてくるのかもしれませんね。 著者の中村稔さんは、谷川俊太郎さんより年長で、今年、97歳だったかだと思います。いつまでもこっちにいて書きつづけてほしいと思います。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.15
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チェン・アル「無名」シネリーブル神戸 ボクでも知っている香港映画のスター、トニー・レオンがあの顔でこっちを見ているポスターとか、上のチラシとかを見て、「やっぱり見ておきましょう!」 と思っていました。 で、神戸では封切りから10日くらいたっていますが、最初は、まあ、連休中ということもあって、ずっと満員でしたが、ようやく落ち着いてきたのを見計らってやって来たというわけです。チェン・アル監督の「無名」です。 1940年代の上海が舞台で、日本軍の特務、共産党の工作員、国民党、南京政府の政治保衛部、とりあえず、そのあたりが入り乱れてのスパイ映画でしたが、そこそこ面白かったですね。 この時代の上海は、まあ、わけが分かんない世界なのですが、国民党も重慶にいる蒋介石と南京の汪兆銘が争っていて、中日戦争の最中なのに、蒋介石は米・英と組んでいて、延安の共産党はソビエト・ロシアと、で、南京政府は日本と、というわけで、シッチャカメッチャカなわけで、なんでもありの舞台ですね。要するに、奇々怪々の時代なのです。 実際、トニー・レオン演じる、汪兆銘政権の保衛部のフーさんも、その部下イエくんを演じるワン・イーボーくんも、どうせ二重、三重スパイに決まっていると思っていたら、ホントにそういうことだったので笑ってしまいました。 間抜けだったのは、一番、偉そうにしていた日本の特務の渡部さんだったという結末は、ちょっと、中国でのウケ狙いを感じるご都合主義を感じましたが、彼が繰り広げる大東亜戦争遂行をめぐっての近衛、東条、石原のドタバタ無責任三つ巴論も、結構、外側からの視線という趣で面白かったのですが、満州での権益もみんな失って、スパイする必要がなくなった渡部くんが、「アレだけ迷惑をかけておいて、家に帰ってノンビリ百姓とかできると思うなよな!」 とばかりに、あっさりイエくんにとどめを刺されるのを見ていて、「やっぱり、中国共産党プロパガンダ映画かな?」 とか思ったりもしたわけです。 映画のシーンが、最後は香港に戻って来て、そのまた最後の最後に、イエくんが共産主義者なんだよ! と告白するシーンで終わるのも、意味深な気がしましたが、まあよくわかりませんね。 ボク自身は、見ていて、この時期の上海にヨーロッパ系というか、たとえば白系ロシア人とかの白人が全然いないことが、何となく不思議だなあとか考えながら、そういえば、この時期に堀田善衛と武田泰淳が上海にいたんだよなと思い出したのですが、これは、まあ、映画とは何の関係もない話ですね(笑)。監督・脚本・編集 チェン・アル:程耳撮影 ツァイ・タオキャストトニー・レオン:梁 朝偉(フー)ワン・イーボー:王一博(イエ)ジョウ・シュン(チェン)ホアン・レイ(ジャン)森博之(渡部)ダー・ポン(タン)エリック・ワン(ワン)チャン・ジンイー(ファン)2023年・131分・G・中国原題「無名」「Hidden Blade」2024・05・13・no067・シネリーブル神戸no242追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.14
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ノラ・フィングシャイト「システム・クラッシャー」元町映画館 2024年の5月、連休の最中でした。これならあんまり人おらんやろ。 題名の意味がよくわからないので、まあ、適当に狙って行ったのがノラ・フィングシャイトという、多分、ドイツの女性の監督の「システム・クラッシャー」という作品でした。「システム・クラッシャーって何?」 そう思って見ていたのですが、なんというか、もちろん、ボクなんかにはとても打ち返すことのできない真ん中高めの剛速球のストライクを投げ込まれ、キャッチャーもいて、その後ろに防球ネットを立てて見ていたにもかかわらず、びっくりしてひっくり返った! 感じの映画でした。とりあえず立ち上がって、拍手!拍手! 画面に登場した主人公のベニーという9歳だかの少女の行動の一部始終が映し出されていくにつれて、その言葉は、彼女、ベニーの生活圏において、常識的な秩序を維持しようと努力している医者や、教員や、ソーシャルワーカーやといった大人たち、それから、学校とか、施設とか、家庭とかで秩序のルールを守ったり、頼ったりして暮らしている大人や子供、親や、兄弟や、友達、そういう人たちが、そっと目配せして「彼女はあれなのよ。」 と囁き合う言葉だということのようでした。 実際に映画の中では、この言葉は、一度出て来たかどうかでしたし、もちろん「あれ」と口に出す人なんて、誰もいません。にもかかわらず、彼女は徹底的に「あれ」扱いでした。それが、この映画の描きかたなのですが、ボク自身は見ながら30年以上も昔の体験を思い出していました。 あの頃勤めていた仕事場でも、職員は、残念ながらボク自身も含めて、まあ、映画のベニーと症状はちがいますが、学校に来ることができない子供たち と出会うと、とりあえず、あれこれ試行錯誤はするのです。しかし、結局、医者やカウンセラーへ誘導し、「○×障害」とか「△△病」とか、症状に名前が付けられて、職員(ボク)自身は個人的な対応から解放されて一安心するというようなことが、何度もあったわけですが、その、何度もの、当の子供たちに安心がやってくることが、一度でもあったわけではありませんでした。子どもたちは、どうしようもない生きづらさを抱えて、そのまま社会に出て行ったのでした。そんなことを思い出しながら見ていると、映画の終盤、逃げていくベニーを追いかけながら、諦めて立ち尽くしてしまう通学付添人ミヒャの姿 が映し出されました。ミヒャは、この映画の中でベニーとつながる可能性を感じさせる数少ない人物だったのですが、その彼が立ち尽くすのを見て、ボク自身が打ちのめされたような気分になりましたね。 監督は情け容赦なく、ベニーのありのままを描いていきます。見ているこちらに、共感や同情、あるいは理解さえ求めているニュアンスはまるでありません。打てるもんなら打って見ろ! といわんばかりの剛速球です。しかし、徘徊老人はこの少女ベニーと、映画を撮ったノラ・フィングシャイトという監督に鷲づかみにされてしまったんです。 少女ベニーに対しては、さすがに、どうしてあげたらいいのかはわからないのですが、ガンバレ、あなたは何も悪くない! という気持ちだけは伝えてあげたいんですよね。 飴玉くわえている上のチラシの顔、イイでしょう!(笑) これ演技なんですよね。ベニーもすごいですが、演じたヘレナ・ゼンゲルという少女もすごいですね。拍手! それから、70になろうかという老人に、そんなふうに豪速球を投げ込んだ監督さん、確かに、少々高めでアッ!と思いましたが、すばらしい作品だと思いました。アホな感想しか書けなくてごめんなさいね、でも、あなたのボールの威力は腹に応えましたよ。拍手! でした。 監督・脚本 ノラ・フィングシャイト撮影 ユヌス・ロイ・イメール編集 ステファン・ベヒャンガー音楽 ジョン・ギュルトラーキャストヘレナ・ゼンゲル(バーナデット「ベニー」・クラース)アルブレヒト・シュッフ(非暴力トレーナー:ミヒャ)ガブリエラ・マリア・シュマイデ(ソーシャルワーカー:バファネ)リザ・ハーグマイスター(母:ビアンカ・クラース)メラニー・シュトラオプビクトリア・トラウトマンスドルフマリアム・ザリーテドロス・テクレプラン2019年・125分・ドイツ原題「Systemsprenger」2024・05・04・no064・元町映画館no244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.13
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アンドレアス・ドレーゼン「ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ」シネリーブル神戸 2024年のゴールデンウィークも終わってしまいましたが、まあ、3月くらいからその気配は感じてはいたのですが、映画館は結構盛況です。メデタイことなのですが、人がいない映画館にすっかり慣れてしまった徘徊老人にはチョット・・・、というわけで、この映画はいないだろうを探して見つけたのがこの作品でした。 アンドレアス・ドレーゼンというドイツの監督の「ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ」です。 会場は数人という所で、ノンビリ見ましたが、アタリ! でした。 ドイツのブレーメンという町のクルナスさんというトルコ系の移民の家族の長男、ムラートくんという二十歳前の青年が、町のイスラム教の祈祷所でオルグされパキスタンに行ってしまうのですが、そこで、タリバンとして米軍に逮捕されて、悪名高い、あのグアンタナモ収容所に収監されてしまうというのが事件の背景でした。だから、アフガニスタンを本拠地化したタリバンを標的化してやっつけるのに、アメリカが躍起になった2001年の9月11日のテロ事件以降の世界が舞台でした。 で、映画が描いた事件というか、物語は、この無実の青年の奪還なのですが、主役はママのラビエ・クルナスさん、演じているのはメルテン・カプタンという、実はコメディアンらしいのですが、デカい、中年のおばちゃんで、相手役が「まあ、ドイツのインテリはこういう顔してるんでしょうな」という感じの弁護士ベルンハルトさんという二人組の、世界を股にかけて飛び回る物語でした。「電話帳で予約したわよ!」 と叫んで、弁護士事務所に登場し、インテリ弁護士を圧倒してしまう始まりのシーンは見ものですよ。笑えます! ベンツのスポーツカーのアクセルを目いっぱい踏み込んで、ワキミ運転はするわ、一方通行を平気で逆進して、対向車に明るく挨拶するわの、このトルコから来たおばちゃんが、とどのつまりは、アメリカの最高裁にジョージ・W・ブッシュを訴えるという展開で、かなり楽しい映画でした。 でもね、ベトナムの頃でもそうだったんだと思いますが、国外の米軍基地を治外法権の収容所にすることで、国内向けには「正義」を演出してきたアメリカの世界の軍事統治の実相 をかなり鋭くえぐって見せているところとか、ヨーロッパの、この映画の場合はドイツですが、流入する移民政策の裏側 というか、あまり知られていない部分を暴いているわけで、これだけの社会批判を「お笑い」的にヒューマン・コメディで描いてみせる この監督の手腕には感心しました。拍手!ですね。で、なんといっても、最初から最後まで、まあ、疲れ果てながら、大活躍のおカーちゃんラビエ・クルナスさんを演じていたメルテン・カプタンに拍手!でした。 そこがトルコ的なのか、そのあたりはよくわかりませんが、おかーちゃんは大忙しでブッシュとか相手にしているのですが、おとーちゃんは知らん顔とか、それでいて、おカーちゃんがあこがれているベンツのスポーツカーを買ってあげるとか、いいご夫婦でしたね。もちろん、二人いる弟君たちもいいカンジ、いい家族でしたよ。 そのあたりの描き方が、この監督はうまいですね。 この映画で弁護士を演じていたのが、アレクサンダー・シェアーという俳優さんでしたが「ああ、あの人だ!」 と、三年ほど前に見た東ドイツの秘密警察のスパイだった「グンダーマン」という人を描ていた作品でグンダーマンを演じていた人だった人だと気づいて、この映画が、同じアンドレアス・ドレーゼンという監督の作品だということにようやくたどり着くという迂闊さだったのですが、この人たちの名前は、俳優も監督も今回で覚えました(笑)。監督 アンドレアス・ドレーゼン脚本 ライラ・シュティーラー撮影 アンドレアス・フーファー美術 ズザンネ・ホップフ編集 イョルク・ハウシルトキャストメルテン・カプタン(母ラビエ・クルナス)アレクサンダー・シェアー(ベルンハルト・ドッケ)マーク・ストッカーチャーリー・ヒュブナーナズミ・キリク2022年・119分・G・ドイツ・フランス合作原題「Rabiye Kurnaz gegen George W. Bush」2024・05・10・no066・シネリーブル神戸no241追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.12
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滝口悠生「水平線」(新潮社) 今回、案内するのは滝口悠生の新しい作品で「水平線」(新潮社)です。 昨年(2023年)一番記憶に残ったのがこの作品でした。昨年の夏ごろだったかに読み終えて、傑作だと思いましたが、うまくいえないので、放ったらかしになっていました(笑)。 滝口悠生という人は「死んでいないもの」(文春文庫)という、「死んでいなくなった」のか、「死んではいない」のか、わからないという、まあ、人をくった題で、葬式に集まった人間たちを描いて2016年だかに芥川賞をかっさらった作品で気に入ってから、何となく読み継いでできた作家です。 1982年生まれで、2003年には41歳。若い作家ですね。同世代の作家たちと、ちょっと味わいの違う中編小説の人だと思っていましたが、今回の「水平線」は26章、503ページの大作でした。 書き出しはこんな感じです。 屋上のデッキからは、洋上に快晴が広がりつつあるのが見えた。風は穏やかだったが、航行する船上では向かい風が生じ、風を受けた耳元からがぼうぼう鳴った。風は海から来て、船を抜け、また海に吹き去る。ときどき、そこに誰かの酔いが紛れているような気がしたが、それがゆうべの酒の残りなのか船酔いなのかわからない。どの方向に目をやっても、島影は全然見えない。いまデッキ上には誰もいない。(P3)船はいまも確かに一つの時間を前に進んでいる。昨日の昼前に東京の竹芝桟橋の港を出て、一晩を越えた。貨物船おがさわら丸の行き先はその名の通り小笠原諸島父島である。夜の明けた太平洋を南進している。(P4) ここでの語り手は横多平(よこたたいら)という登場人物自身のようですが、38歳、フリーの編集者だそうです。今、小笠原諸島の父島行きのおがさわら丸に乗っています。 彼が、なぜ、この船に乗っているのか。広大な「水平線」を越えて、彼はどこに向かっていて、そこで何が起きるのか。まあ、そんなムードで小説は始まりました。 しばらく読むと語り手が、三森来未(みつもりくるみ)というパン屋さんで働いている36歳の女性に替わって、今度は自衛隊入間基地の飛行場で出発を待っているこんな描写になります。 私の胸には、三森来未(みつもりくるみ)、と名前の書かれた札がついている。今日輸送されるのは私たち、つまり人間で、一瞬なにか物のように扱われているような気になるが、考えてみれば輸送機と言っても運ぶのは物資や資材に限った話ではなく、ふだんから人材つまり自衛隊員の輸送を担うものであるわけだった。自衛隊員にはそもそも旅客機なんかないだろうし。いや、もしかしたらあるのかな。いや、ないか。中略 私たちは戦場に派遣されないし、イラクにもクウェートにも派遣されない。輸送機の行き先は小笠原にある硫黄島という島である。東京都が春のお彼岸に行ってくる、硫黄島の元住民に向けた墓参事業は、かつて島に暮らしていたひとだけでなく、その親族も対象とされていて、ここに集まっているのはその参加者だ。(P15 ~P16) 小説は東京都の南の果て小笠原諸島の、そのまた南の果ての硫黄島に向かう二人の男女の姿を描くことから始まっているのですが、この三森来未さんの語りに続いて、硫黄島というのは、クリント・イーストウッドが映画で描いた、あの硫黄島のことで、1960年代の終わりにアメリカから返還されて以来、2010年現在、自衛隊の基地があるだけで、一般住民は一人も生活していない島だということ、太平洋戦争の末期、1944年に強制された全島疎開以前は1000人を超える島民が暮らしていらしいのですが、その後、硫黄島の争奪をめぐる激戦で日本陸軍の軍人20129人、100人近くの現地徴用の島民、6821人のアメリカ兵が亡くなり、今でも、10000人以上の遺骨が眠っているということを記したうえで、展開していきます。 もう少し登場人物と、この小説が描く物語の発端を説明すると、船に乗っている横多平と、自衛隊の輸送機を待っている三森来未は、来未さんが、離婚した母の旧姓を名乗っているだけで、それぞれ独身の実の兄妹です。その兄妹が、なぜ、今、硫黄島か? まあ、そういう疑問で読み進めたわけですが、その二人の携帯電話にフイにかかってくる電話がすべての始まりでした。 二人が生まれる40年以上も昔に、現地徴用されて硫黄島で亡くなったり、疎開した伊豆の町から蒸発したはずの祖父の弟や祖母の妹から電話がかかってくるという奇想的現実を発端に兄、妹を動かし始めるのです。 そこから、若い二人の現在の生活が描かれるのですが、その、「今」そのものの生活にケータイ電話から、いたずら電話を思わせる明るさで「過去」が響いてくる中で、語り手を変幻に替えていくことで、故郷を知らない二人とその家族、戦中、戦後を生きた祖父母の人生、1940年代の島の暮らしが重層的に重ねられていく書きぶりで、忘れられつつある戦後を背景に「現代」を描くという、久々の本格小説だと思いました。 まあ、ボクの感想ではさっぱり要領を得ないのですが、新潮社のホームページで作家の松家仁之さんが「死者から届く親しげな挨拶」と題して書評していらっしゃるので、関心のある方はそちらをどうぞ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.11
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100days 100bookcovers Challenge備忘録 (81日目~90日目) コロナが蔓延し始めた2020年の5月に友達と始めた「ブックカヴァーチャレンジ」の備忘録です。当時、フェイスブック上とかで「7デイズ・7ブックカヴァーズ」というのが流行だったのですが、お調子者のわれわれは「100デイズ、100ブックカヴァーズ」に挑戦したのですが、コロナの流行が、何となく忘れられて、戦争とか、神戸や東北の震災とかと同じように、教科書の片隅に記載される歴史事象の一つであったかのような「空気」が蔓延し始めていて、その上、お正月早々、能登半島を大きな地震が襲い大勢の人が苦しんでいらっしゃる2024年の3月現在、ようやく97冊目にたどり着いて、ゴールを目前にしています。この投稿は2024年5月で、6年目に突入しましたが、まだゴールはしていません(笑)。 紹介してきた書物のライン・アップに、格別の意味があるわけではありませんが、ほぼ、6年にわたるコロナ社会の生活を映してきた鏡であったかもしれません。少なくとも、紹介に参加した5人のメンバーは確かに6年の歳月を生きてきたわけですし、できれば、その時間を忘れないための備忘録でもあるわけです。 それぞれの書名か表紙写真をクリックしていただければリンク先の記事にたどりつけると思います。no81(2022・02・10 K・S)フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(高杉一郎訳・岩波書店)no82(2022・03・05 T・K)伊集院静「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社文庫)no83(2022・03・22 E・D)久住邦晴「奇跡の本屋を創りたい」(ミシマ社) no84(2022・04・08 T・S) 山下和美「天才柳澤教授の生活1~8」(講談社文庫)no85(2022・05・06・N・Y)なかにし礼「長崎ぶらぶら節」(文藝春秋)no86(2022・05・30・K・S)川端康成「雪国」(新潮文庫)no87(2022・06・30・T・K)ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集」(岸本佐知子訳 講談社文庫)no88(2022・07・30・E・DE)チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」(くぼたのぞみ訳 河出書房新社)no89(2023・08・31・T・S)嵐山光三郎「漂流怪人・きだみのる」(小学館文庫)no90(2022・10・28・N・Y)檀ふみ『父の縁側、私の書斎』(新潮社)追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目)(81日目~90日目)というかたちまとめています。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.10
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乗代雄介「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会) 乗代雄介という作家にはまっています。まあ、何が面白いのかよくわからないままなのですが、とりあえずみんな読んでみようか!? というはまり方です。 というわけで、今回の読書案内は「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会)という評論集です。少し長めの評論が一つ、書評、創作をまとめた本です。具体的な内容は後ろに目次を貼りましたからそれをご覧ください。 案内するのは(まあ、案内になっていない木もしますが)表題の評論「掠れうる星たちの実験」です。 読む作品、読む作品、語り手や登場人物の配置について、かなり意識的な方法論に基づいて書いているんじゃないかと、まあ、読み手のボクに思わせる乗代雄介という作家の「小説」に対する、自分では「考え事」といっていますが、まあ、小説論というのは少し大げさかもしれませんが、ようするに「考え事」が書かれている50ページほどの論考です。 で、手に取って、まあ、最近は評論とか面倒なのですが、ついつい、読み続けたきっかけは、チョット、ボクには並べて考えるなんて、とても思いつきそうもない二人の人物を引っ張り出してきて「考え事」を始めていたからです。 二人とは、「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーと「遠野物語」の柳田國男でした。まず、この取り合わせが面白いと思いませんか? このお二人が、乗代雄介の「考え事」に呼び出されていると聞いて、「語り」と「記述」、「書きことば」と「話ことば」、まあ、そのあたりを思い浮かべられた方は、なかなか、鋭いと思います。 で、書き出しあたりに、乗代雄介はこんなことをいっています まずは「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが、子供の頃エイグルティンガー先生に土曜日ごとに連れていかれた自然科学博物館について述懐する場面を見てみたい。ペアを組んだ女の子の汗ばんだ手、守衛の注意から、インディアンやエスキモー、鹿や南に渡っていく鳥の剥製を並べたジオラマ展示について詳述された後で「でも、この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ」とホールデンは語る。「何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちのほうさ」と続け、さらに変わるとは厳密にいえば「こっちが年をとる」ようなことではないと注釈をくわえている。(P11) 作家の考え事は、「変わること」と「変わらないこと」に焦点をあてて進みそうなのですが、続けて作家が引用したのは、下のような二つの文章でした。 こっちがいつも同じではないという、それだけのことなんだ。オーバーを着てるときがあったり、あるいはこのまえ組になった子が猩紅熱になって、今度は別な子と組になってたり、あるいはまた、エイグルティンガー先生に故障があって代わりの先生に引率されてたり、両親がバスルームですごい夫婦喧嘩をやったのを聞かされた後だったり、道路の水たまりにガソリンの虹が浮かんでくるとこを通ってきたばかりであったり。要するにどこか違ってるんだ―うまく説明できないけどさ。いや、かりにできるとしても、説明する気になるかどうかわかんないな。(「ライ麦畑でつかまえて」サリンジャー) 誰にでもいつ行ってもきっと好い景色などというものは、ないとさえ思っている。季節にもよろうしお天気都合や時刻のいかんもあろうし、はなはだしきはこちらの頭のぐあい胃腸の加減によっても、風景はよく見えたり悪く見えたりするものだと思っている。(「豆の葉と太陽」柳田國男) 乗代雄介はサリンジャーがホールデン少年に「説明する気になるかどうかわかんないな。」 と言わせていることの、小説の書き手にとっての問題について考えてみようとしているわけですが、それがどういう結論にたどりつくのか、あるいは、たどり着かないのか、そのあたりは、この論考をお読みいただくほかはないわけですが、この「考え事」の題としている「掠れうる星たち」を暗示する二つの引用で論をとじています。「自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた。」(柳田國男「幻覚の実験」)「おまえの星たちはほどんそ出そろったか?おまえは心情を書きつくすことにはげんだか?」(サリンジャー「シーモア序章」) 最近、ボクが、小説とか読んだり、映画とかを見ながら、引っかかっているのは、読んだり見たりしているボクが、それぞれの作品のどこに「ホントウノコト」を感じているのか、わけがわからないと思いながら、そのわけのわからなさに惹かれるのは何故か、そこにぼく自身が何を見たり、読んだりしているのか、まあ、そういうことで、できれば、それをちょっと言葉に出来ればいいのですが、「涙がとまりません」とか、「笑えました」とかいういい方でしか言葉にできないことを訝しく思っているのですが、乗代雄介という作家が、どうも、そのあたりのことにこだわって小説を書こうとしているようだと思わせる「考え事」でした。 要をえない案内ですが、ボクには、かなり面白い考え事でしたよ。で、本書の目次を貼っていきます。興味がわいたら、図書館へどうぞ(笑)。 目次評論掠れうる星たちの実験 P5書評 P61『職業としての小説家』村上春樹 『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』J・D・サリンジャー(金原瑞人訳) 『アナーキストの銀行家 フェルナンド・ペソア短編集』フェルナンド・ペソア(近藤紀子訳) 『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』ジェイ・ルービン編『ののの』太田靖久 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―』J・D・サリンジャー(野崎孝、井上謙治訳) 『サピエンス前戯』木下古栗 『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』竹内康浩、朴 舜起 『柳田國男全集31』柳田國男 『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』ベン・マッキンタイアー(小林朋則訳) 『揺れうごく鳥と樹々のつながり 裏庭と書庫からはじめる生態学』吉川徹朗 『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』梯久美子 『いまだ、おしまいの地』こだま 『契れないひと』たかたけし 『自然な構造体 自然と技術における形と構造、そしてその発生プロセス』フライス・オットー 他(岩村和夫訳) 『記憶よ、語れ 自伝再訪』ウラジーミル・ナボコフ(若島正訳) 『鷗外随筆集』森鷗外(千葉俊二編) 『佐倉牧野馬土手は泣いている(続)』青木更吉 『松本隆対談集KAZEMACHI CAFE』松本隆 他 『現代児童文学作家対談5 那須正幹・舟崎克彦・三田村信行』神宮輝夫 『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット(東辻賢治郎訳) 『トンネル』ベルンハルト・ケラーマン(秦豊吉訳) 『今日を歩く』いがらしみきお 『手賀沼周辺の水害 ―水と人とのたたかい400年―』中尾正己 『海とサルデーニャ 紀行・イタリアの島』D・H・ロレンス(武藤浩史訳) 『声と日本人』米山文明 『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー(野崎孝訳) 『案内係 ほか』フェリスベルト・エルナンデス(浜田和範訳) 創作 P217八月七日のポップコーン センリュウ・イッパツ 水戸ひとりの記 両さん像とツバメたち 鎌とドライバー 本当は怖い職業体験 This Time Tomorrow 六回裏、東北楽天イーグルスの攻撃は フィリフヨンカのべっぴんさん 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.09
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浦沢直樹「あさドラ 8」(小学館) 2024年5月のマンガ便に入っていました。浦沢直樹くんの「あさドラ」(小学館)の第8巻です。 第7巻が2022年の11月の発売でしたが、第8巻は2024年の1月の発売で、ホント、久しぶりですね。浦沢くんも1960年生まれで、還暦を越えていらっしゃるわけで、お身体とか、いろいろあったのかもしれませんが、無事、ご復活のようでメデタシ、メデタシですね(笑) で、表紙を見るとアサちゃんのお顔が変わっていますね。ちょっと、オネーサンになられたようです。読み終えてわかりました。7巻が1964年、東京オリンピックの年が舞台だったのですが、第8巻では、それから4年後、1968年になっていました。 そもそもこのマンガは1958年の伊勢湾台風が始まりで、その時に12歳だった浅田アサちゃんが、1964年には、当然、18歳で、なんと、飛行機乗りになっていて、問題の「アレ」と戦うという展開だったわけですが、みなさん、お忘れでしょうね(笑)。 というわけで、まず、8巻の人物紹介と目次です。 前半、第52話の「オーディション」から第54話「1964年の青春」あたりまでが、高校時代ですね。同級生のヨネちゃんの歌手デビューとか、ミヤコちゃんの女子プロレスの話です。で、55話「潮騒の踊子」くらいから1968年、22歳になったアサちゃんに新しい出会いがありますね。それがこのシーンです。 このシーンに登場してきたのがリバー・エスリッジという脱走したアメリカ兵です。そうです。お話は、東京オリンピックをへて、ベトナム戦争の時代に突入してきたというわけです。 伊勢湾台風、東京オリンピック、和製ポップ歌手、女子プロレス、そしてベトナム戦争です。 浦沢直樹くんは「戦後」の日本を生きた人たちの姿、だから、1946年生まれの少女を主人公に描いているとボクは思っているわけですが、アサちゃんより8歳年下のボクが、このマンガに強く惹かれているのはそのあたりなのですね。 脱走アメリカ兵とくれば、次はべ平連(ベトナムに平和を市民連合)なわけですが、そのあたり、どうなるのでしょうね。「でな、このマンガ、アレはどうなったんかな?」 トラキチ君の言葉ですが、いや、ホント、このマンガのつかみはアレだったはずなんですが、どうなるんでしょうね。 まあ、なにはともあれアサちゃんはどんどん大人になるし、時代は70年代に突入となると、ほんと、目が離せませんね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.08
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会田薫「梅鶯撩乱1~5」(講談社) 2024年4月のトラキチクンのマンガ便に第1巻から第5巻まで揃いで入っていたマンガです。第5巻の奥付を見ると2014年発行となっていますから、ちょうど10年前の作品です。 会田薫の「梅鶯撩乱 全5巻」(講談社)です。「長州幕末狂騒曲」、ラプソディですね。登場人物というか、まあ、主人公は「奇兵隊」の創始者高杉晋作と、彼の後を継いで第三代総督になった赤根武人という人物でした。もっとも、マンガの時代が、薩長同盟前夜という時代ですから歴史活劇という面もありはするのですが、題名をご覧になれば、きっとハテナ? とお思いになる通り、実はラブロマンス・マンガなのですね。 主人公の高杉晋作という人物は1839年生まれで、1867年(慶応3年)に27歳で亡くなった人です。死因は戦死とか刑死とかではなくて病死です。結核ですね。で、おもしろきこともなき世をおもしろく という川柳のような一句が辞世として有名ですが、高杉東行(とうぎょう)と号してたくさんの漢詩を残していることでも知られている人ですね。 で、「梅鶯撩乱」というマンガの題名を見ていてその詩のことが浮かんできました。いきなり白文では読めないでしょうから、とりあえず、書き下しです。ちなみに檐という字は「えん」とも「かく」とも読むようですが、軒先という意味です。数日来鶯鳴檐前に鳴きて去らず 之に賦して与ふ一朝檐角残夢を破る二朝窓前に亦弄吟す三朝四朝又朝々日々懇来し病痛を慰さむ君は方に於いて旧親あるにあらず又寸恩我が身に在すにあらず君何ぞ我に於いて看識を誤る吾素より人間に容れられず故人吾を責むるに詭智を以てす同族我を目するに放恣を以てす同族故人尚容れず而して君吾を容るる遂に何の意ぞ君去る勿れ老梅の枝君憩うべし荒溪の湄(みぎわ)寒香淡月は我が欲する所君が為に鞭を執って生涯を了らん ここ、数日、朝毎に軒先の梅の枝にやって来る鶯の声が詩情を喚起しての詩ですが、このマンガに「梅鶯撩乱」と題を付けた作者会田薫の頭に浮かんでいるのはこの詩のようです。 マンガは高杉晋作と遊女「此の糸」こと、「おうの」との出逢いで始まります。 ここに 、いかにも、今ふうの少年として描かれているのが晋作です。ここで出逢った二人、晋作はこの時「谷梅之助」を名乗ります。梅が晋作であり、鶯が遊女「此の糸」であるというロマンスですが、まあ、高杉晋作の生涯について少し知っていれば悲劇でしかないロマンスだということにすぐ気づいてしまう始まりですね。上の詩の最後の5行に、とても、その時代とは思えない率直な告白をおもわせる表現があって、驚きました。而君容吾果何意君勿去老梅之枝君可憩荒溪之湄寒香淡月我所欲爲君執鞭了生涯 ちなみに、もうひとりの主人公赤根武人は、この日、同じ遊郭で、遊女琴乃と出会います。遊郭に売られてきた「おうの」をかわいがり、おうのも、また、ただ一人信じた姐さん遊女が琴乃でした。 第1巻が描いているのは文久3年(1863年)ですから、高杉にはあと数年の命しか残されていません。高杉、赤根がともに師とした吉田松陰が大獄で首を刎ねられたのが1959年ですから、それから4年、そして、物語はこれから4年です。 まあ、そういう時代です。そういう時代を生きた男たちをヒーローとして描くパターンはたくさんありますが、実は主人公として二人の遊女を描いているところがこの作品の面白いところですね。ボクは、登場人物の顔が見分けられないこういう絵柄は苦手なのですが、おもしろく読み終えました。 ちなみに、蛇足ですが、マンガ便を届けてくれるトラキチ君の名前は、実はシンサククンなのですね。この作品を、「おもろいで!」 と推奨するのは、たぶん、そのあたりも関係しているでしょうね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.07
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ジャファール・ナジャフィ「メークアップ・アーティスト」元町映画館 神戸の元町映画館で4月27日から、ゴールデン・ウィークの前半1週間「イスラーム映画祭9」という企画をやっていました。見る気満々だったのですが、4月29日に出かけて挫折しました。なんと、満員御礼! だったんです。もともと60席というミニシアターではあるのですが、で、「イスラーム映画祭は毎年好評なんですよね。」 という映画館の方の話も聞いてはいたのですが、これほどとは思いませんでした。コロナのせいもあって、映画館存続の危機に見舞われている元町映画館には、願ってもない客の入りで、お目出たいのですが、お客のいない映画館に慣れてしまった徘徊老人には想定外の危機(笑) の到来です(笑)。 仕方がないので、その日は人ざかりの商店街徘徊に切り替えましたが、古本だの、同居人のためのお土産のシュークリームだの、すっかり無駄遣い徘徊になってしまい、反省! のご帰宅でした。 で、翌日、「今日は、連休とはいえ、学校とかやってるし!」 と出かけたのですが、何と、やっぱり盛況で、ちょっと早めに行ったつもりだったのですが、入場整理券54番でした。二日続けて挫折するのは癪なので入場して、結果的には、久しぶりに満席の映画館で映画をみました。 見たのはジャファール・ナジャフィという、イランの監督の「メークアップ・アーティスト」というドキュメンタリーでした。「なに?メークアップ・アーティストって?」 まあ、いつものように、そういういい加減なノリで見ていたのですが、これが、まあ、想定外(別に何も想定していたわけではないのですが)の面白さでした(笑)。 舞台がイランという国の田舎で、人々の生活の背景に見える山は一年中雪をかぶっているんじゃないかと思わせる雰囲気でした。登場するのは、その山間にある村で暮らしているのがバフティヤーリー族というのだそうですが、遊牧、だから、羊を飼っている暮らしの若い夫婦なのですが、その夫婦にカメラは密着して、ぶっちゃけていえば「夫婦喧嘩」を撮り続けていたことが、とにかく面白かったですね。「お前らが、こんなふうに映したりするから、女房が勝手なことを言うんだ。」 亭主のゴルムハンマドさんが、ときどきカメラに向かってそんなことを口走るのですが、まず、その距離感というか、カメラそのものが映画の中にあるというか、そこが面白かったんですね。 映画の中で、激高した亭主のゴルムハンマドさんが妻のミーナさんに殴りかかろうとするのを、マイクを持っているスタッフとかが止めに入るシーンまであるわけで、「この映画は、いったい、なにをドキュメントしているんだ?」 まあ、そういう、おもしろさの映画でしたね。 で、その夫婦なのですが、妻のミーナさんが、結婚はして子供も産んだけれど、諦められないと言っているのが、題名になっていますが、「メークアップ・アーティストになりたい!」 ということなのですね。ボクは、この映画を見るまで、メークアップ・アーティストというのが、現在では「美容師」とか「ネイリスト」とかいう職業名と同じ、普通名詞だということを知らなかったのですが、いかにも現代的な仕事ですね。 たとえば、ボクが「ネイリスト」という仕事の名前を知ったのは、もう、かなり昔ですが、高校生に将来の夢を聞いて知ったのですね。そういう専門学校があるって。今回のメークアップ・アーティストも、おんなじですね、映画の中でミーナさんが、大学に通ってもその仕事の技術を身につけたいというわけですが、その様子を見ながら、ボクが、驚きとともに感じたのは「若い!新しい!現代っ子やん!スゴイ!」 ということで、それが、この映画の二つ目の面白さでした。 「ネイリスト」という言葉というか、希望を口にした高校生を、その当時、50代だったボクは、マジマジと見たことを憶えています。何を言っているのか理解できなかったんですよね。 で、この映画に出てくる、ミーナさん以外のすべての人は、当時のボクと同じなんですね。彼女が「自分の人生を自分で決める」 と主張していることについては、反対、賛成はともかく、理解できているかもしれないようですが、「メークアップ・アーティスト」については、おそらく、誰一人理解できていないんです。女性の自立、家族制度、婚姻制度、夫婦の約束、子育て、そのあたりをめぐっての言い争いや、説得、説教が飛び交う中でミーナさんだけは現代っ子なのです。現代っ子というのは制度の中に浸って生きている人間を飛び越えるというか、平気で、夫のため、子どものために第二夫人を探しに行ったりするわけで、このフィルムを見ている、自分は先進国に暮らしているつもりで、ちょっとリベラリスト気取りの、まあ、ボクみたいな人間が「因習的」とかいう言葉を思い浮かべながら彼女の暮らしている村の生活や、彼女の境遇や行動を理解したがることも超えてしまうんですね。 現代っ子というのは、いつの時代、どこの社会にも登場するわけで、この映画でミーナさんが、その現代っ子として、自分の夢の実現に向けてぶっ飛んでいる! そこのところが、ボクにとって、この映画が異様に面白かった! ところですね。 で、三つめはというと、やっぱり、あのキアロスタミの国の映画だったことですね。ちょっと遠めから撮る風景とか、羊や馬のようすとか、その相手をしたり、それに乗ったりしている人のようすとか、村の人たちの会話、特に、最後のシーンなんてキアロスタミそのもので、意味なく拍手しそうでした。 ともあれ、ジャファール・ナジャフィ監督という名は覚えておこうと思いましたね。拍手!でした。監督ジャファール・ナジャフィ Jafar Najafiイラン・2021・76分・ペルシャ語英題「Makeup Artist」2024・04・30・no062・元町映画館no243追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.06
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J・D・サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」(金原瑞人訳・新潮社) 今回の読書案内は、「The Catcher in the Rye」、邦訳では「ライ麦畑でつかまえて」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の J・D・サリンジャー(1919年~2010年)がアメリカでは出版を禁じたとかいう噂のある、まあ、それがウソかホントか知りませんが、実際、アメリカでは出版されていないらしい、八つの短編と、一つの中編小説が収められた作品集「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」(金原瑞人訳・新潮社)です。 とりあえずですが、これが本書の目次です。後ろの数字はページ数です。「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」7「ぼくはちょっとおかしい」19「最後の休暇の最後の日」39「フランスにて」67「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」79「他人」99「若者たち」117「ロイス・タゲットのロングデビュー」133「ハプワース16、1924年」151 訳者あとがき248 この目次の「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」から「他人」までの6作は1944年から1946年に発表されていて、次の「若者たち」は1940年、「ロイス・タゲットのロングデビュー」は1942年に発表されています。 で、最後の「ハプワース16、1924年」の発表は1965年です。1940年の始まりから、この作品まで25年間です。サリンジャーは2010年まで生きたようですが、この作品以後1作も書いていません。 ちなみに「The Catcher in the Rye」の発表は 1951年、グラース家の物語の最後の作品、日本では「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-」(野崎孝・井上謙治訳)として河出書房新社・新潮文庫で出版されている「Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour:An Introduction Stories」のアメリカでの発表は1963年です。 こまこまとした年代にこだわっているように見えますが、この作品集にまとめられている作品群を分類すると、まず、「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」はサリンジャー自身が第二次大戦に従軍する以前に書いたと思われる、いわば処女作に当たる作品があります。 で、「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」から「他人」の6作は戦中、ないしは、戦後すぐに書かれたらしいのですが、すべて「ライ麦畑」の、あのホールデン・コールフィールド君の家族を描いている作品でコールフィールド・サーガというべき作品群ですが、「ライ麦畑」の準備作ともいえる作品があります。 そして、最後の「ハプワース16、1924年」は、作中では46歳、作家になった弟のバディ・グラース君が、その時にはすでにこの世の人ではない、兄シーモア・グラース君の7歳のときの手紙を写すという体裁でかかれている作品です。ハプワースというキャンプ地から少年だったシーモア君が両親へあてて書いた手紙を見つけた母から書留で送られてきて、それを、作家のバディ君がタイプで写すだけの作品です。要するに子供の手紙の形式で書かれているグラース・サーガ最後の作品です。で、それがサリンジャー最後の作品というわけです。 だから、この作品集によって、「ライ麦畑」で登場し、グラース・サーガ、つまりはフラニーやズーイ、シーモアの物語を書き継ぎながら、突如、世俗を捨てるかのように隠遁し、筆を折ってしまったジェローム・デイビッド・サリンジャーという作家の、作家自身によって隠されていた「はじまり」と「おわり」を日本語の翻訳でだけ読むことができるということなのでした。それがどうした? まあ、そうおっしゃる方が大半だと思うのですが、10代でサリンジャーに出逢い、その後、こっそり引きずり続けて、インチキな仕事で何とか生き延びて、いつの間にか70歳になってしまったというタイプの人間にとっては、チョットした事件なのですね。 忘れては、思い出し、新しい訳が出たといっては読み直し、で、また忘れて暮らしてきたのですが、まあ、いうところの「のっぴきならない」 何かをのど元あたりにつかえさせてきたただの読者であるはずの自分自身の50年が、やっぱり浮かびあがってしまう力が、この人の作品にはあるのですね。 若い人に、いきなり、この作品集をお勧めする気はしません。とりあえず、村上さんの訳であれ、野崎さんの訳であれ、なんなら英語のままでも構いませんよ、まずは、「ライ麦畑」のホールデンとか、フラニーとかシーモアとかにお出会いただいて、なんとはなしに、のどにとげが刺さったような気分になっていただいて、で、50年とはいいません、10年ばかり暮らしていただいてからお読みになることをお勧めします(笑)。 もっとも、ボク自身は、乗代雄介という若い作家の「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会)という本で、この作品集を教えられたわけですから、まあ、そう、エラそうにいう資格はありませんね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.05
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オタール・イオセリアーニ「蝶採り」シネ・リーブル神戸 舞台はフランスの田舎で、なんだかすごいお城で暮らしている2人の老婦人が登場します。お二人は森でピストルを撃つとか、オーケストラに楽器を持って出かけるとか、ヨーロッパって階級社会だったんだなあ!?!? と、その歴史を、生活感で残していることにポカーンとしながらも、彼女たちの人生の余裕というか、広さというかを、なんとなく羨ましく思って見ていると、バブル景気の日本から、彼女たちが暮らしているお城を買いたいとビジネスマンがやって来るんですよね。 金を持った日本人が、無思想、無節操に服を着せるとこうなるというかの、異様なリアリティを漲らせながら登場します。 なんというか、いろいろあったらしいジョージアとかいう国から、フランスのパリに来て、自前で映画を作っている人の脳裏に浮かぶ「これが日本人!」 というのが、このシーンの人たちなのだと思うと、ちょっと笑えないですね。 アジアの、だから韓国とか中国とかの、チョット歴史がらみの映画に出てくる日本人というのが、見ていてああ、いやだ! という存在として演出されていることが多いのは、まあ、仕方がないなと思うのですが、こういう、ヨーロッパでも、どっちかというと田舎風のノンビリしたの映画に、いかにも金の亡者の姿で登場するのが「日本人!」 なのだということを、ご当人であるボクたちは、もう少し自覚した方がいいのでしょうね。 映画は解説にある通り「滅びゆく古き良き時代へのノスタルジーをにじませながら」、現代社会が捨てていきつつある何かを、一抹の寂しさを漂わせながら「シニカルに描いた」作品でした。 経費が掛かって、世話が焼けることばかりが「老人問題」とか「高齢化社会」とかレッテルを張って話題になるご時世です。この映画がつくられたのが2004年だそうです。当時、50代だったわけですが、それから20年経った2023年の今、立派な老人になってしまって見ながらだからこそ、余計にそう感じるのでしょうが、年をとった人が、その人生において、受け取って来たものが、こうして消えてゆくことに対してイオセリアーニという人のナイーブな視線 にホッとさせられる映画でした。 監督イオセリアーニと二人のオバーちゃんに拍手!でした(笑)。監督 オタール・イオセリアーニ製作 マルティーヌ・マリニャック脚本 オタール・イオセリアーニ撮影 ウィリアム・ルプチャンスキー美術 エマニュエル・ド・ショビニ音楽 ニコラ・ズラビシュビリキャストナルダ・ブランシェマリ(アニエスのいとこの老婦人)アレクサンドル・チェルカソフ(公証人アンリ・ド・ランパデール)アレクサンドラ・リーベルマンマリ(アニエスの妹エレーヌ)エマニュエル・ド・ショビニ(神父)ピエレット・ポンポン・ベラッシュ(家政婦ヴァレリー)タマーラ・タラサシビリマリ(アニエス・ド・バイオネット)1992年・118分・フランス・ドイツ・イタリア合作原題「La chasse aux papillons」日本初公開 2004年6月19日2023・03・14-no040・シネ・リーブル神戸no187追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.05
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マルコ・ベロッキオ「エドガルダ・モルターラある少年の数奇な運命」シネリーブル神戸 2024年の連休は、元町映画館でやっているイスラム映画祭とか、シネリーブルの「無名」とか、やたら満員で、さて、どこに行こうかと困っています。 で、なるべく、ノンビリ見られそうな作品ということで、やって来たのがマルコ・ベロッキオというイタリアの監督の「エドガルダ・モルターラある少年の数奇な運命」です。はい、いつものようにノンビリ鑑賞出来ました(笑)。 で、映画ですが、19世紀の後半、教皇ピウス9世という人がやった、原題で「Rapito」=「誘拐」とズバリ指摘されてる「誘拐」事件を題材にした歴史ドラマで、こともあろうに、カトリックの総本山である教皇庁によって、白昼堂々とやってのけられた犯罪映画でした(笑)。 ボローニャの町のユダヤ人の家庭から、両親も兄弟たちも、心配してかけつけた親族も見ている前で、7歳の誕生日を迎える直前の少年、エドガルド・モルターラくんが拉致、誘拐される所から映画は始まりました。 見ているボクには何が起こっているのか実はよくわからなかったのですが、教皇の使いで、誘拐の当事者として登場するのが異端審問官だったとか、いつの間にか、その少年が、ユダヤ教徒である家族が知らないうちにキリスト教徒のメイドによって受洗させられていて、すでにキリスト教徒であるらしいとか、教皇庁に子どもを取り返しに来た母親と一緒に家に帰りたがったエドガルドに対して「母親が改宗したら、家に返してやる。」とかいう、シーンや発言を見たり聞いたりしているうちに、描かれている事件の輪郭が、まあ、ボンヤリとですが、つかめてきて、俄然、面白くなってきました。 映画は両親が訴え出た世俗的(教会の外での)な裁判の経過や、教皇庁で育てられて、成長していく少年の姿を描いていきます。誘拐されたのが7歳ですから、小学校1年生くらいだった少年が20歳を過ぎるあたりまでが描かれていますが、ボクの興味は「で、この少年はキリスト教徒になるのだろうか?」 でした。 マア、そんなふうなことを考えながら見ているボクにとって山場は三度ありました。一つ目は弟を救い出しに来た兄とに対して「ぼくはキリスト教徒だ!」と叫び、ともに家に帰ることを拒否した別れのシーン。二つ目は教皇ピウス9世の死の騒乱の中で「こんな死体は川に捨ててしまえ!」と叫ぶシーン。そして、最後は、母の臨終に駆け付けたエドガルドが、母から「ユダヤ教徒として死ぬ。」と、死への旅立ちの別れを拒否されるシーンです。 で、エンドロールには、彼がキリスト教の、カトリックですから神父ですかね、まあ、その仕事(?)で、90歳だかの年齢まで生きたことが流れてきました。さて、彼は真正な宗教者、キリスト教徒になったのでしょうか? まあ、そういうことを呟きながら、高架沿いを歩いていて思い出したのですが、この映画は1850年代から80年代くらいのイタリアが舞台なのですが、この時代のヨーロッパってわけわかんないんですよね。 日本の場合でも、黒船来航が1850年代で、そこから20年くらい、実はよくわからないわけですが、イタリアも、この時代は統一運動の最中で、教皇の権力と市民、まあ、国民国家の権力成立のせめぎあいの時代で、たとえば、エドガルドの兄が教皇庁に攻め込んでくる兵士として登場する背景とか、見ている時には、ちょっとあやふやで困りましが、兄はユダヤ教徒としてやって来たのではなくて、イタリア統一運動の市民兵として登場したのですね。 ひょっとしたら、日本人が明治維新のことをくりかえしテレビドラマとかで見ているように、イタリアの人には常識かもしれませんが、そのあたり、極東の徘徊老人にはちょっと難しかったですね。 しかし、統一イタリア王国がローマを首都にしたことで、国王を始め、政府関係者を片っ端から破門したり、ドイツのカトリックを弾圧したという理由で鉄血宰相ビスマルクを敵に回したりしたピウス9世のぶっ飛んだ描き方は、案外、実像に近いんじゃないかという印象で、市井のユダヤ人に対して、ほとんど、いいがかりとしか思えないやり方で子供を攫ってくるなんて、平気だったんでしょうね。 パオロ・ピエロボンという俳優さんが演じるピウス9世のという、その人物の不気味さは、なかなかだったと思いました。拍手! で、もう一つよかったのは子供のエドガルドを演じたエネア・サラ君と、お母さん役のバルバラ・ロンキマリさん、少年は可愛らしいし、お母さんはしっかり者で、拍手!でした。 チラシに「実話であるということが、何より恐ろしい」 というコピーがありますが、恐ろしいと宣伝したいのは幼児誘拐と洗脳教育ですかね?それとも洗礼とかで約束させられる信仰の絶対性とかですかね?ピウス9世をはじめとする権力的・官僚的宗教者ですかね?キリスト教によるユダヤ教蔑視ですかね? 映画の中に、教会の壁の十字架に釘付けにされたキリスト像の釘を、少年が抜くシーンがありましたが、釘を抜いてもらったキリストがフラフラ、どこかに行ってしまうのが笑えたのですが、あのシーンはよかったですね(笑)。現代社会において必要なのはあれかもしれませんね。 まあ、ボクは信心とか信仰とかには100%縁のない人間ですから勝手な言い草なのかもしれませんが、別に、この映画、歴史的事実は描いているかもしれませんが、だからと言って、恐ろしいことは描いていないと思うんですが。ボクとしては、映画を通して、妙な主張をしなかったマルコ・ベロッキオ監督さんにも拍手!でした。監督 マルコ・ベロッキオ脚本 マルコ・ベロッキオ スザンナ・ニッキャレッリ エドゥアルド・アルビナティ撮影 フランチェスコ・ディ・ジャコモ美術 アンドレア・カストリーナ衣装 セルジョ・バッロ編集 フランチェスカ・カルベリ ステファノ・マリオッティ音楽 ファビオ・マッシモ・カポグロッソキャストエネア・サラ(少年エドガルド・モルターラ)レオナルド・マルテーゼ(青年エドガルド・モルターラ)パオロ・ピエロボン(教皇ピウス9世)ファウスト・ルッソ・アレシ(父サロモーネ(モモロ)・モルターラ)バルバラ・ロンキマリ(母アンナ・パドヴァーニ)アンドレア・ゲルペッリコッラード・インベルニッツィフィリッポ・ティーミファブリツィオ・ジフーニ2023年・125分・G・イタリア・フランス・ドイツ合作原題「Rapito」2024・05・03・no063・シネリーブル神戸no240追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.04
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石塚真一「Blue Giant Momentum 1」(小学館) 2024年、4月、トラキチクンのマンガ便に入っていました。石塚真一「BLUE GIANT MOMENTUM 1」(小学館)です。 今や、映画にもなって、メジャーの道を歩き始めている「ブルージャイアント」ですが、ニューヨーク篇の始まりです。 アメリカを1周して、いろんな出会い、いろんな経験をしてきた宮本大君ですが、いよいよ、ニューヨークです。「ダイ・ミヤモト・モメンタム」、それが、ジャズの聖地ニューヨークに挑戦するバンドの名前です。 このニューヨーク篇が何巻まで続くのかわかりませんが、始まりの第1巻で、一番心に残ったいいシーンはこのシーンでした。 「ダイ・ミヤモト・モメンタム」が、ニューヨークで最初に演奏したのは「セーラー・キャット」というクラブです。客は、音楽なんて聴いていません。ビリヤードやカードゲーム、プロスポーツのテレビ中継に盛り上がってお酒をのんでいる、ライブステージで演奏するミュージシャンにとって最低ランク、最悪のお店です。ギャラも、客の間に回されるチップバケツに投げ込まれる小銭だけです。それが、はじめの1歩 ! の舞台でした。 で、今、ダイたちの演奏の音の大きさにいら立った客の一人が、まわってきた、そのチップバケツをひっくり返したシーンです、 ピアノのアントニオが、その客の態度に激高しかけたのを制止したが宮本大クンです。で、その時の一言と表情が素晴らしい。「Play! 弾け!」 モメンタム、Momentum、高校時代の物理の時間にモーメントという用語がありましたが、運動量とかいう意味でしたっけ?あれの類語ですね。ここでの使われ方は躍動 くらいでいいのでしょうか。「ブルージャイアント・モメンタム」、おもしろくなりそうですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.03
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坂月さかな「星旅少年(2)」(PIE) トラキチクンの2023年12月のマンガ便に、1巻と一緒に入っていたのが坂月さかなくんの「星旅少年(2)」(PIE)です。第1巻と同じく青い表紙のマンガです。 ご覧の裏表紙に描かれている、小道具が「Moon gate mug」とか「II-Yume pillow」とか、横文字で書かれている雰囲気や、主人公の少年は「文化保存局特別派遣員・星旅人・登録ナンバー303」くんなのですが、ほかの登場人物にはある呼び名がないとかいうことに、場違いな老人読者にはそれは、なぜ? まあ、そういう、浮かべなくてもいい疑問が浮かんでしまうわけですが、その疑問が解けるにしたがって、このマンガの世界のサミシイ広がりや奥行きもわかってきます。 坂月さかなくんという、おそらく若いマンガ家に、この作品を書かせている、その青い世界のさみしさを、場違いな老人読者にもジンワリと感じさせるところが、このマンガのよさだと思います。 宇宙の果てのような舞台をしつらえながら、まあ、そうしつらえたからこそでしょうが、かなりリアルな「さみしさ」にたどりつくほかないのが現代という時代なのでしょうね。 しかし、「青い宇宙」の果てに「さみ さ」にたどりつくであっても、「さみしさ」という自意識の底に「青い宇宙」を見つけるであっても、その感じ方は、ある意味ありきたりですよね。 で、ありきたりを知っているマンガ家が、様々な、ちょっと、おもしろい「イイネ!」アイテムが考えだしていて、それはそれで、フムフムなのですが、そういうのって、昔はナルシズムと呼ばれて笑いの対象だったと思うのですが、今では、おしゃれなSFファンタジーとして読まれちゃうんですかね?まあ、おしゃれだと思いますけど(笑)。 まあ、そうは言いながら、本巻、最終ページですが、トビアスの木の下で座りこんでいる303君の前にあらわれたトビアスって誰?で、この二人はなに話すの? というわけで第3巻を待ってしまうのですからしようがありません(笑)。 で、急に話が飛びますが、筒井功という方の「縄文語へ道」(河出書房新社)という著書によれば「青木」とか「青山」、「青谷」という地名に出てくる「青」というのは、縄文時代には「色」ではなくて「葬送の地」をあらわす言葉だったと述べられています。このマンガは、おそらく、宇宙のイメージによっての「青」を背景して描かれていると思いますが、実は、「青」とは「墓場」をあらわす「原日本語」だったかもしれないとなれば、坂月さかなさんが描こうとしているらしい物語世界へ直結するわけで、ちょっと、おもしろいと思うのですが、いかがでしょうね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.02
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吉野弘 「母」 中村稔「現代詩人論 上」(青土社)より 中村稔の大著「現代詩人論」(青土社)を読んでいて、久しぶりに再会した吉野弘の詩です。吉野弘という詩人の詩は高校あたりの教科書で紹介されていたりして、所謂、人口に膾炙している作品も多いのですが、「母」と題されたこの詩は初めて読みました。1979年の「叙景」という詩集に載せられていた詩だそうです。「母」 吉野弘身まかった母の胸の上に両手の指が組み合わされていた遠い日のことなぜか、今日ほのかな明るみを帯びて思い出されるあの手は生き残っている誰とももはや、手を取り合うすべがなかった死者の手を取っているのは死者自身の手だった組み合わされた両の手はそのくぼみに温もりと見まがうものをつつんでいたそのようにして旅だったのがその日の母だった で、中村稔の感想というか解説はこうです。 心に沁みる挽歌である。組み合わされた両手のくぼみに温もりと見まがうものを見たのはおそらく作者だけだろう。その母親の死を悼む気持ちが温もりと見まがうものを見させたのであろう。私はこの詩に若干こじつけめいたものを感じているが、作者の人柄を考えると、このまま受けとるのが正しいように思われる。(P354) ナルホド、ですね。 ボクは、この詩を読んで、病院のベッドで、ため息をついたと思うと、それを最後に静かに息をひきとった母の顔を思い浮かべましたが、手は浮かびませんでした。その時、ボクの右手は彼女のまだ暖かい右手を握っていたのですね。 で、ナースコールが押せなかったのですが、詰所のナースたちは朝の交代時で、そこに、たくさん並んでいたであろう画面の一つが、あれこれ波うちをやめて棒になったことに気付かなかったらしく、息子一人による見取りという体験になったのでした。 詩が描いているのは、それから半日ほど後のシーンだと思いますが、それを組み合わされた両の手の記憶のシーンとして、それから何年もたった、今、思い浮かべているところが、そういう言い方をすると身も蓋もありませんが、吉野弘のうまさですね。 詩が語っているのは現場の体験そのものではなく、詩人の記憶の中で結晶化(?)されつつある母の両手のようですね。 中村稔が「こじつけ」を口にしているのは、そのあたりかなあとも思いますが、そうはいっても、「心に沁みる挽歌」であること間違いないですね。ボクのような奴に、もう、10年以上も昔の母の手の、最後のぬくもりを思い出させたのですからね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.01
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