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斎藤真理子
の 「韓国文学の中心にあるもの」
の 案内
を書きながら、今となっては50年ほども昔、六甲山のふもとにあった 大学
の 学生会館
にあった 「神戸大学新聞会」
の編集室で、当時、まだ 教育学部の学生
だった Mくん
が
「シマクマ、これ知とうか?」と言って差し出した真新しい雑誌のことを思い出しました。
在日 ということを正面から見据えた 詩人 は、この詩集をお出しになったころ 兵庫県 の公立高校で 朝鮮語 を教えた人でもあります。最初の職場で一度だけお出会いした記憶があります。 林先生 とお呼びしていましたが、あとがき
「猪飼野詩集」は、季刊「三千里」に10回にわたってれんさいしたものが大部分を占めていますが、当初は長編詩として試みられたものでした。それが、何分とも三つきに一回ずつの連載でしたので、その都度読み切れる必要に迫られて、実質的には連作詩に成り代わったものです。とはいっても、これはこれなりに私の意図が具現したものですので、斟酌される必要は少しもありません。この形のままで評価を受くべき、私の作品です。
ここのところようやく、「在日」も日本語の領域で自らの相貌をあらわにしだしています。三世、四世と代をつないだ異国暮らしが、それでも朝鮮人としての原初さを風化されずに持ち続けているのは、粗野なまでに“朝鮮”そのものである在日朝鮮人の原型像が、そこここに集落を成して存在しているからです。本国でさえ廃れてしまった大時代的な生活習慣までが、そこでは今でも大事な民族遺産のように受け継がれれていたりします。この頑迷さを笑うべきではありません。私のような器用なものばかりが“日本”を生きているのでしたら、「在日朝鮮人」は、とっくに失くなってしまっていたでしょう。それを失くさせない土着の郷土性のようなものが、在日朝鮮人の集落体であり、その集落の本源に、猪飼野は存在するのです。それだけに「猪飼野」は、開かれていない日本人にはうとましくも奇異な“村”でもあるものです。「猪飼野」という在日朝鮮人の代名詞のような町の名が、周辺住民の民主的な総意によって書き換えられたのは、まさしくその奇異な“村”性のためでした。「イカイノ」と聞くだけで、地所が、家屋が、高騰一方のこの時節に安く買いたたかれるというのです。ひいては縁談にまで支障をきたしているとかで、隣接する「中川町、桃谷〇丁目」に併呑されてしまいました。在日朝鮮人問題がどういう意味を今日もっているにせよ、70年もの間、“統治者”の国の日本で培ってきた在日朝鮮人の生活史は、そのまま、日本と朝鮮のはざまで凝固した日々の重なりに他ならないものです。詩こそ人間を描くものだと信じている私にとって、これは日本語にかかわるかぎりの、ゆるがせにできない私のテーマとなるものです。( 後略)
一九七八年十月八日 金時鐘 生 (P219~2219)
「この方が、あの、金時鐘か!」と、ビビった記憶しかありません(笑)。
追記
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