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1月31日の花言葉はギョリュウバイで「蜜月」です。ギョリュウバイ(檉柳梅、学名:Leptospermum scoparium)はフトモモ科ギョリュウバイ属の常緑低木。特徴桃色の花が美しいため栽培される。ニュージーランドとオーストラリア南東部原産。ギョリュウバイの名は、ギョリュウに似て葉が小さく、花がウメに似ることから。ギョリュウ科のギョリュウ(檉柳)ともバラ科のウメとも関係がない。針葉樹のネズに似るのでネズモドキの別名もある。またマオリ語でマヌカ(Manuka)ともいう。葉がお茶や煎じ薬として利用されてきたことからティーツリー(英語では"Tea tree")ともいうが、アロマテラピーで利用されている同名のハーブ(学名Melaleuca alternifolia)とは同じフトモモ科であるものの、別種である。そこでこれらを区別するために、ギョリュウバイは、New Zealand teatreeとも呼ばれる。 .利用原生地では蜂蜜の蜜源としても好まれ、蜂蜜はマヌカハニー(英: Manuka honey)と呼ばれている。マヌカハニーはピロリ菌駆除力、殺菌力を持ち、民間療法で、胃炎に対し、効果があることが報告されている。 整腸・美肌にも良いとされ、オイルマッサージ用のエッセンシャルオイルや化粧石けん、ローションなどの化粧品に加工されている。引用:Wikipedia
2019.01.31
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第一朗読ヘブライ 10・19−25ヘブライ人への手紙 兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 福音朗読マルコ 4・21−25マルコによる福音 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」 1815年、トリノ教区のカステルヌオーボ近郊に生まれる。辛苦に満ちた幼少期を経て司祭となり、青少年の教育に全力を注ぎ、若者に職業やキリスト教的生活を修得させる修道会(サレジオ会)を創立した。また、多くの護教的な著作をも著した。1888年に死去。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です
2019.01.31
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第一朗読ヘブライ 10・11−18ヘブライ人への手紙 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。 「『それらの日の後、わたしが 彼らと結ぶ契約はこれである』と、 主は言われる。 『わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いにそれを書きつけよう。 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。 福音朗読マルコ 4・1−20マルコによる福音 〔そのとき、〕イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、 『彼らが見るには見るが、認めず、 聞くには聞くが、理解できず、 こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です人生の歩み カトリックの教えQアンドA/草野純英【1000円以上送料無料】
2019.01.30
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1月30日の花言葉はカルセオラリアで「助け合い」です。カルセオラリア(Calceolaria)はチリ、メキシコ、ペルー、ニュージーランドなどを原産とするゴマノハグサ科の多年草または低木で、200種ほどあり、花を観賞するために栽培される。キンチャクソウ(巾着草)ともいい、これは花弁の下側が袋状になっているのを巾着に例えたもの。カルセオラリアという名前はラテン語で小さな靴(スリッパ)を意味する「カルセオルス」という言葉に由来する。特に雑種起源のC. X herbeohybrida がよく栽培される。花色は赤、黄色など。日本では普通、秋蒔き一年草として扱い、春に開花する。このほかにもいろいろな雑種が栽培されている。カルセオラリア属はゴマノハグサ科の他のグループと系統が大きく異なるとされ、新しいAPG植物分類体系では他の2属とともにカルセオラリア科(Calceolariaceae)とされている。引用:Wikipedia
2019.01.30
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1月29日の花言葉はハナアナナスで「蓄える」です。ハナアナナス(学名:Tillandsia cyanea Linden ex K.Koch)は、ハナアナナス属の植物の1つ。紫の目立つ花をつける。この属のものは葉の表面に毛が多くて空中の湿気を吸収する、いわゆるエアープランツが多いが、本種は比較的普通の植物っぽく、鉢植えで栽培される。特徴多年生の草本で、茎はごく短く、葉を根出状に出す[2]。葉は20-30出る。長さ35cm以下で幅は10-15mm、線形から細い三角形で先端は細く尖り、小さな鱗片があり、基部には紫褐色の縦筋が出る。葉鞘は楕円形で長さ6cm。葉は弓状に反り返り、濃灰緑色。花茎は葉の間から出て、直立する茅や斜めに伸びる。茎の部分は葉の間に隠れ、花茎の方は深く瓦のように重なり合い、下部のものは葉状、上部のものは長楕円形で先端が尖る。その先に穂状花序を一つだけ着ける。花序は40以上の花を羽状につけたもので、長楕円形で先端は丸くなっているか広く尖り、長さは16cmまで、幅は約7cm。花を包む苞は楕円形で先端が尖り、竜骨状で革質、淡紅色から赤に淡緑色の鱗片がある。萼片は互いに離れ、楕円形で先端はやや尖り、長さ35mm。花弁は濃い菫色、菱形に近い円形で長さ20-25mm、大きく開く。雄蘂は花の内部に隠れ、雌蘂は突き出す。分布と生育環境エクアドル原産。基本変種はエクアドル南部の標高1700m付近に分布し、より低い地域に生育する変種と、コロンビアにまで分布のある変種がある。着生植物であり、湿った多雨林で高木の上の方に着生する。引用:Wikipedia
2019.01.29
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第一朗読ヘブライ 10・1−10ヘブライ人への手紙 〔皆さん、〕律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。 「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、 むしろ、わたしのために 体を備えてくださいました。 あなたは、焼き尽くす献げ物や 罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 そこで、わたしは言いました。 『御覧ください。わたしは来ました。 聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、 神よ、御心を行うために。』」ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 福音朗読マルコ 3・31−35マルコによる福音 〔そのとき、〕イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です神父燦燦 カトリック司祭58人に聴く [ カトリック新聞社 ]
2019.01.29
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第一朗読ヘブライ 9・15、24−28ヘブライ人への手紙 〔皆さん、〕キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 福音朗読マルコ 3・22−30マルコによる福音 〔そのとき、〕エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモン・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバで没したが、1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です【新品】【本】カトリックの信仰生活がわかる本 景山あき子/ほか共著
2019.01.28
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1月28日の花言葉はエンドウで「未来の喜び」です。エンドウ(豌豆、学名:Pisum sativum L.)は、マメ科の一・二年草。広く栽培され、食用となっている。一般に、エンドウマメとも。別名にノラマメ、グリーンピース(未熟の種子を食用とする場合の呼び方)、サヤエンドウ(莢豌豆・絹莢、未熟の莢を食用とする場合の呼び方)。日本での栽培種には、ウスイエンドウ(うすい豆)[1]、キヌサヤエンドウ、オランダエンドウ、がある。古代オリエント地方や地中海地方で麦作農耕の発祥とともに栽培化された豆で、原種は近東地方に今日でも野生している P. humile Boiss. et Noö. と推察されている。もともとは麦類の間で雑草として生えてきたこの原種の野生植物を、種実を食用にしたり、根粒菌による土の肥沃化に効果があるなどの利用価値を発見することで、麦類とともに混ぜ植え栽培するようになり、次第に栽培植物として品種改良が進んだと考えられている。この地域では農耕開始期に、カラスノエンドウもエンドウと同時に同様の利用が行われ始めたが、こちらの栽培利用はその後断絶し、今日では雑草とみなされている。また、同じ地域に起源を持つマメ科作物としては、ソラマメ、レンズマメ、ヒヨコマメが挙げられる。麦作農耕とともにユーラシア各地に広まり、中国に伝わったのは5世紀、日本へは9-10世紀には伝わった。 また、メンデルが実験材料としたことでも知られている。特徴さやの硬さにより、硬莢種(こうきょうしゅ) P. s. ssp. arvense Poir. と軟莢種(なんきょうしゅ)P. s. ssp.hortense Asch. がある。硬莢種はその名のとおり莢(さや)が固く、主として完熟して乾燥した豆を収穫して利用する。花は紅色である。軟莢種は莢が柔らかく、未熟な莢をサヤエンドウとして利用したり、成長を終えて乾燥前の生の豆をグリーンピースとして利用する。花は白いものが多い。スナップエンドウは軟莢種の中でも豆が大きく成長しても莢が柔らかく、豆と莢の両方を野菜として利用できる品種である。原産地が冬に雨が多い地中海性気候の近東地方であるため、夏の高温期は成長適期ではなく、麦類と同様に基本的には秋まきして翌春収穫する。冬の寒さの厳しい東北北部や北海道では春まきして初夏に収穫する。連作に弱く、一度栽培した土地では数年間栽培が困難となる。また、原産地が土壌にカルシウムなどが多い乾燥地帯であることから想像できるように、酸性土壌にも弱い。発芽に際しては同じマメ科のダイズのように胚軸が伸張して地上で子葉を双葉として展開するのではなく、上胚軸だけが伸張して地上に本葉だけを展開し、子葉は地中に残る。食品として 硬莢種は古くから乾燥種実として利用されており、日本ではアオエンドウは煎り豆、煮豆、餡(鶯餡)などに加工され、アカエンドウはみつまめやゆで豆として利用される。ヨーロッパでは煮込んでスープなどとして利用されてきた。しかし、今日、世界中でもっとも大量に消費されているのは乾燥していない未熟の莢や種実を野菜として利用する軟莢種である。東アジアでは未熟な莢を利用するサヤエンドウとして、インドから西では完熟直前の種実を利用するグリーンピースとして、主に消費されている。両者の性質を兼ね備えたのがスナップエンドウで、グリーンピースと同様に種実が完熟寸前まで大きく成長したものを収穫するが、莢もサヤエンドウと同様にやわらかく、果実全体が食べられる。2004年には、サッポロビールによりエンドウのタンパクを用いた第三のビールが開発され、新たな食品を生み出す素材として注目を浴びた。種実以外の利用もあり、若い苗や蔓の先の柔らかい茎葉も野菜として利用される。中国ではこれを豆苗(トウミョウ)と呼ぶ。メンデルの実験材料としてメンデルは遺伝の研究を行ない、現在はメンデルの法則として知られる法則を発見し、遺伝学の歴史に大きな足跡をのこした。 特に1遺伝子雑種と2遺伝子雑種の研究が有名である。 エンドウの種子には丸型としわ型がある。純系の丸型としわ型を自家受精させたものの種子を調べると全て丸型であった。これは丸型の形質がしわ型の形質に対して優性であることを示している。メンデルはこれを『優性の法則』と呼んだ。また、生まれてきた丸型の種子を自家受精させると、丸型:しわ型=3:1の比率で種子ができた。これは体細胞で対になっている対立遺伝子は配偶子形成の減数分裂第一分裂の際、二手にわかれそれぞれ別の配偶子に入ることを示していた。メンデルはこれを『分離の法則』と呼んだ。メンデルがエンドウを材料に使った理由は、そのころすでに数人の研究者によって、遺伝実験の材料として使われた事があったためと思われる。エンドウは自家受粉が可能で、このことも遺伝の実験には好都合だったと見られる。引用:Wikipedia
2019.01.28
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第一朗読ネヘミヤ 8・2−4a、5−6、8−10ネヘミヤ記 〔その日、〕祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。 書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立〔った。〕エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。 〔次いで、レビ人が〕神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」 第二朗読一コリント 12・12−30、 または 12・12−14、27使徒パウロのコリントの教会への手紙 〔皆さん、〕体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。≪足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。≫ あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。≪神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。≫ 福音朗読ルカ 1・1−4、4・14−21ルカによる福音 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。 〔さて、〕イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 カトリック児童福祉の日・献金(1月の最終日曜日) 「カトリック児童福祉の日」は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。この日にはまず第一に、子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが勧められています。日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています。 この日の献金は全世界からローマ教皇庁に送られ、世界各地の恵まれない子どもたちのために使われます。(カトリック中央協議会刊『カトリック教会情報ハンドブック2013』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用ですカトリック教会情報ハンドブック 2019 / カトリック中央協議会 【本】
2019.01.27
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1月27日の花言葉はキンカンで「思い出」です。キンカン(金柑)は、ミカン科キンカン属 (Fortunella) の常緑低木の総称である。別名キンキツ(金橘)ともいう。概要中国の長江中流域原産。俳句では秋の季語になっている。 英語などの「Kumquat」もしくは「Cumquat」は「金橘」の広東語読み「gam1gwat1 (カムクヮト)」に由来する。カール・ツンベルクによりミカン属に分類され、1784年刊行の『日本植物誌』("Flora Japonica")においてCitrus japonicaの学名を与えられていたが、1915年にウォルター・テニスン・スウィングル(英語版)により新属として分割され、ヨーロッパに紹介したロバート・フォーチュンヘの献名として新たな学名を与えられた。日本における2010年の収穫量は3,732 トンであり、その内訳は宮崎県2,604 トン、鹿児島県873 トン、その他255 トンとなっている。利用食用果実は果皮ごとあるいは果皮だけ生食する。皮の中果皮、つまり柑橘類の皮の白い綿状の部分に相当する部分に苦味と共に甘味がある。果肉は酸味が強い。果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮にする。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもある。薬用果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)という生薬名でいうこともある。果皮にはヘスペリジン(ビタミンP)を多く含む。観賞用観賞用として庭木として植えられることも多い。剪定に強いので生垣や鉢植え、盆栽にもできる。広東省や香港では、旧正月を迎える際に柑橘類の鉢植えを飾ることが多く、キンカンも好まれる。引用:Wikipedia
2019.01.27
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1月26日の花言葉はミスミソウで「内緒・優雅」です。ミスミソウ(三角草、学名:Hepatica nobilis)とは、キンポウゲ科ミスミソウ属の多年草。雪の下でも常緑であることからユキワリソウ(雪割草)の名でも知られる。イチリンソウ属のAnemone hepatica L.とされることもある。特徴北半球の温帯に自生し、日本では本州の中部以西の山間地に多く生育する。葉は常緑で三角形に近く三つに分かれている。花弁のように見えるのは萼片で、白、紫、ピンク色などがある。栽培も盛んで、八重咲きや覆輪花の品種も作出されている。薬用中世ヨーロッパでは、葉の形が肝臓を連想させることから肝臓の病気の治療に用いられた。現在ではにきび、気管支炎、痛風などの治療に用いられることがある。引用:Wikipedia
2019.01.26
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第一朗読二テモテ 1・1−8使徒パウロのテモテへの手紙 キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。 わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 第一朗読テトス 1・1−5使徒パウロのテトスへの手紙 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。 福音朗読ルカ 10・1−9ルカによる福音 〔そのとき、〕主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」 テモテとテトスは使徒パウロの弟子であり、協力者である。テモテはエフェソの教会を、テトスはクレタの教会を指導した。パウロは彼らに「牧会書簡」と呼ばれる手紙を送り、その中で、司牧者と信者たちを育てるうえでの、すぐれた教えを述べている。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用ですカトリック美術カレンダー(2019)
2019.01.26
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第一朗読使徒言行録 22・3−16使徒たちの宣教 〔その日、パウロは人々に言った。〕「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。 旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」 第一朗読使徒言行録 9・1−22使徒たちの宣教 〔その日、〕サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。 福音朗読マルコ 16・15−18マルコによる福音 〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 キリストの弟子たちを迫害していたサウロ(後のパウロ)はダマスコに向かう途中、復活したキリストと出会い、迫害者から信仰者に変わった(使徒言行録9・1−22)。パウロの回心をこの日に記念することの起源は定かではないが、5世紀後半の「ヒエロニムス殉教録」にはすでに記載されている。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用ですイエスの自己理解、弟子たちのイエス理解 新約聖書キリスト論入門 (現代カトリック思想叢書) [ レ-モンド・エドワ-ド・ブラウン ]
2019.01.25
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1月25日の花言葉はフウキギクで「快活・常に輝かしく」です。シネラリア(英語: Florist's Cineraria、学名:P. × hybrida)とは、キク科の植物の1種。日本での生い立ち花屋では昔「シネラリア」と呼ばれていたキク科ペリカルリス属の園芸品種群を指す。 最近は「死ねラリア」と連想する人が多いので「サイネリア」と英語っぽい読みの流通名で販売されている。 昔の学者は、海外から導入された物に必ず和名を付けていた習わしから、この植物は「フキザクラ = 蕗櫻」と言う和名を松村博士が1896年に付けている。 葉がフキの葉に似た形でサクラのように株を覆い尽くすように咲く様から名付けられたと推測される。花屋では古くはフウキギク(富貴菊)、フウキザクラ(富貴桜)などとも呼ばれた事もあるが現在はいずれも使われていない。引用:Wikipedia
2019.01.25
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1月24日の花言葉はエリカで「幸運」です。エリカ属(-ぞく、学名:Erica)とはツツジ科の植物の属のひとつ。700種類以上の種があり、その大部分は南アフリカ原産で、残りの70種程度がアフリカの他の地域や地中海地方、ヨーロッパ原産である。特徴多くの種は高さ20-150cmほどの低木であるが、E. arborea、E. scopariaのように高さ6-7mに達する種もある。エリカの群生地としては、北ドイツの自然保護地区、リューネブルガーハイデが有名。また小説『嵐が丘』の館の周囲に生えていたのもエリカ、英語ではヒース(heath)と呼ばれる。引用:Wikipedia
2019.01.24
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第一朗読ヘブライ 7・25〜8・6ヘブライ人への手紙 〔皆さん、イエスは〕常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。 福音朗読マルコ 3・7−12マルコによる福音 〔そのとき、〕イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 1567年にフランスのサヴォア地方に生まれる。司祭に叙階されると、祖国のカトリック教会の復興のために尽力した。ジュネーブの司教に選ばれると、教区の聖職者や信者たちの指導に全力を尽くし、著作と活動によって彼らの信仰を育て、すべての人にとって模範となった。1622年12月28日にリヨンで没し、遺体はアンネシーに埋葬された。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です【エントリーでP5倍 24日20:00〜】【新品】【本】福音み〜つけた! 「宗教」「倫理」を考えるために 高校編 日本カトリック教育学会/編
2019.01.24
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第一朗読ヘブライ 7・1−3、15−17ヘブライ人への手紙 〔皆さん、〕メルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。 このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、 「あなたこそ永遠に、 メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。 福音朗読マルコ 3・1−6マルコによる福音 〔そのとき、〕イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史 講談社現代新書 / 永田諒一著 【新書】
2019.01.23
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1月23日の花言葉はフクジュソウで「幸福を招く・長寿」です。フクジュソウ(福寿草、学名:Adonis ramosa)は、キンポウゲ科の多年草。別名、ガンジツソウ(元日草)。毒草である。1月1日の誕生花。特徴日本では北海道から九州にかけて分布し山林に生育する。シノニム(同一種を指す同意語)の種小名である amurensis は「アムール川流域の」という意味。花期は初春であり、3-4cmの黄色い花を咲かせる。当初は茎が伸びず、包に包まれた短い茎の上に花だけがつくが、次第に茎や葉が伸び、いくつかの花を咲かせる。この花は花弁を使って日光を花の中心に集め、その熱で虫を誘引している。その為、太陽光に応じて開閉(日光が当たると開き、日が陰ると閉じる)する。葉は細かく分かれる。夏になると地上部が枯れる。つまり初春に花を咲かせ、夏までに光合成をおこない、それから春までを地下で過ごす、典型的なスプリング・エフェメラルである。根はゴボウのようなまっすぐで太いものを多数持っている。春を告げる花の代表である。そのため元日草(がんじつそう)や朔日草(ついたちそう)の別名を持つ。福寿草という和名もまた新春を祝う意味がある。江戸時代より多数の園芸品種も作られている古典園芸植物で、緋色や緑色の花をつける品種もある。正月にはヤブコウジなどと寄せ植えにした植木鉢が販売される。ただし、フクジュソウは根がよく発達しているため、正月用の小さな化粧鉢にフクジュソウを植えようとすると根を大幅に切りつめる必要があり、開花後に衰弱してしまう。翌年も花を咲かせるためには不格好でもなるべく大きく深い鉢に植えられたフクジュソウを購入するとよい。露地植えでもよく育つ。また、根には強心作用、利尿作用があり民間薬として使われることがある。しかし、毒性(副作用)も強く素人の利用は死に至る危険な行為である。薬理作用、毒性共にアドニンという成分によるものと考えられている。花言葉は永久の幸福、思い出、幸福を招く、祝福。切手の意匠になった。1982年(昭和57年)7月5日発売 10円普通切手2003年(平成15年)4月1日発売 50円 日本郵政公社設立記念 四季花鳥図巻の部分図2012年(平成24年)12月3日発売 80円 季節の花シリーズ 第4集誤食地面から芽を出したばかりの頃は、フキノトウと間違えて誤食しやすい。また、若葉がヨモギの葉に似ている。症状は嘔吐、呼吸困難、心臓麻痺など。重症の場合死亡する[1]。テレビ信州で2007年3月30日放送の「情報ワイドゆうがたGet!」の特集コーナー「春うらら!花の里のんびり散歩!」で、テンプラを紹介し、女性リポーターが毒草と知らず食べてしまったが、幸い事故に至らず。引用:Wikipedia
2019.01.23
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1月22日の花言葉はシンビジウムで「深窓の麗人」です。シンビジウム(Cymbidium)はラン科の植物。シンビデュームとも表記される。日本語では単に「シンビジウム」というときは、東南アジアに自生しているものを品種改良した洋ランに限定されるが、原義ではシュンラン属に分類される種の総称である。この項では洋ランとしてのこの類について述べる。属全体については該当項を参照のこと。特徴ラン系のバルブを持ち、そこから根出状に細長い葉を伸ばす。花はバルブの基部から出る茎について、単独か総状に多数の花をつけるが、洋ランとして扱われるものでは多数花をつけるものがほとんどである。花茎は立ち上がるかやや垂れ下がり、あるいは垂れて長く下向きに伸びる。花はこの属の特徴的なものだが、花弁が幅広く、全体に抱え気味に咲くものが多い。自生地東アジアに自生地はあるが、洋ランのシンビデュームとして品種改良に利用されたのは、インドからミャンマー、マレーシアなどに自生しているものを中心とする。なお、東洋ラン系の種も交配親として利用される例がある。引用:Wikipedia
2019.01.22
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第一朗読ヘブライ 6・10−20ヘブライ人への手紙 〔皆さん、〕神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 福音朗読マルコ 2・23−28マルコによる福音 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 【任意・1月22日 聖ビンセンチオ助祭殉教者】サラゴサ(スペイン北東部)の教会の助祭であったビンセンチオは、ディオクレチアヌス帝による迫害のときにスペインのバレンシアで激しい拷問を受け、おそらく304年に殉教した。彼に対する崇敬は、直ちに教会中に広まった。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です【新品】【本】回帰としてのカトリック 藤原治/著
2019.01.22
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第一朗読ヘブライ 5・1−10ヘブライ人への手紙 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、 「あなたはわたしの子、 わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、 「あなたこそ永遠に、 メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 福音朗読マルコ 2・18−22マルコによる福音 〔そのとき、〕ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 3世紀後半、あるいはむしろ4世紀初めにローマで殉教した。ダマソ教皇は彼女の墓に碑文をささげ、聖アンブロジオをはじめ多くの教父たちが、アグネスをたたえている。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です日々の生活に気づきをもたらす25の話 カトリック・サプリ / 竹下節子 【新書】
2019.01.21
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1月21日の花言葉はオンシジウムで「可憐」です。オンシジューム(Oncidium)あるいはオンシジウムは中南米を中心に分布する、約400種を含むラン科の大属。樹上で着生生活を営む。洋ランとしても広く親しまれる。概要樹上につく着生植物だが、岩の上につくものや地上性の種もある。バルブ(偽球茎)は卵形から円筒形、往々にして扁平になるが、持たない例もある。葉はバルブの先端から2枚程度つき、普通は革質だが、剣状や円筒形などになる例もある。またバルブの基部の節からも葉が出る。花茎はバルブの基部から出て、長い花茎を上から斜め上に伸ばし、複数花、往々に多数の花を総状、円錐状につける。花は唇弁が大きく広がり、これが花の大部分を占める。萼と側花弁はほぼ同型で、唇弁より幅狭くて小さい。学名の Oncidium はギリシア語の onkos(とげ、隆起)に指小辞をつけたもので、唇弁の基部に隆起のあるさまをいったものといわれる。属内の花色は黄色がもっとも多い。利用洋ランとして栽培され、また切り花などとしても流通する。本属は、かつては400種を擁する大きな属で、鑑賞価値が高いものが数多くあった。それらを便宜的に薄葉系、厚葉系などに分けるのが普通であった。そのなかでもっとも普及していたものは黄色く広がった唇弁が目立つ花を多数つけるもので[2]、原種としてはOnc. flexuosum (Gomesa flexuosa のシノニム)や Onc. varicosum (Gomesa varicosa のシノニム)があげられる。それらを中心に作出された交配品が数多く、現在この類の代表とされるアロハイワナガもこの系列にある。しかし、最近では小型の原種、ケイロフォルム (Onc. cheirophorum) や、同じく小型でピンク花をつけるオルニソリンクム (Onc. ornithorhynchum)、およびそれらの交配種もよく市場に流通する。またオブリザタム (Onc. obryzatum )は小さな花が多数つくことで評価が高い。近年、分類学的な見直しによって、この属から分離されて他の属に移動したり、新属として独立する種が出てきている。上記の黄色い唇弁の種も、上記のように別属とされるようになっている。しかし現在もそれらはオンシジウムの名で流通しており、これは当分続くものと思われる。引用:Wikipedia
2019.01.21
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第一朗読イザヤ 62・1−5イザヤの預言シオンのために、わたしは決して口を閉ざさずエルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。諸国の民はあなたの正しさを見王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。あなたは主の御手の中で輝かしい冠となりあなたの神の御手の中で王冠となる。あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなくあなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれあなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれあなたの土地は夫を得るからである。若者がおとめをめとるようにあなたを再建される方があなたをめとり花婿が花嫁を喜びとするようにあなたの神はあなたを喜びとされる。 第二朗読一コリント 12・4−11使徒パウロのコリントの教会への手紙 〔皆さん、〕賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。 福音朗読ヨハネ 2・1−11ヨハネによる福音 〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史 講談社現代新書 / 永田諒一著 【新書】
2019.01.20
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北野天満宮の御祭神である天神さまの祥月命日にあたる2月25日に斎行される梅花祭。900年以上も前から執り行われてきました。神前には天神さまがことのほか梅を愛したことから、梅花を添えた御神饌や御供が供えられます。10:00からは境内に地元・上七軒の芸舞妓による野点の茶席が設けられ、梅の花の美しさに一層の華やぎが添えられます。日程:2019年2月25日(月)10:00~ 料金:野点拝服券1,500円(宝物殿拝観と御供物付) 場所:北野天満宮
2019.01.20
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1月20日の花言葉はストックで「不変の愛・逆境に堅実」です。アラセイトウ属(アラセイトウぞく、学名 Matthiola) は、アブラナ科の属の1つ。マッティオラ属ともいう。この属名は、シエーナの医師で博物学者だったピエトロ・アンドレア・マッティオリ (Pietro Andrea Mattioli) に献名された。この属には48種が含まれる。木本または草本[1]。マデイラ諸島とカナリア諸島、南ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアに自生する。本属の植物を総称してストック(stock)と呼ぶこともある。ただし、バージニアストック (Virginia stock, Malcolmia maritima) は、アラセイトウ属ではなく、同じアブラナ科のマルコルミア属である。引用:Wikipedia" />
2019.01.20
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1月19日の花言葉はクンシランで「貴い・望みを得る」です。クンシラン(君子蘭)属 Clivia は南アフリカ共和国とスワジランドに産するヒガンバナ科の属のひとつで、クリビア ミラビリス Clivia mirabilis を除き森林の薄暗い場所に自生する。「ラン」とつくが「ラン科」ではない。クロンキスト体系ではユリ科に含める。他のヒガンバナ亜科の植物の多くは地中に鱗茎を形成するが、本属と近縁のクリプトステファヌス属 Cryptostephanus では太い根を張るのみで鱗茎はない、根の様子だけみれば遠縁ではあるがムラサキクンシラン属 Agapanthus のものに良く似ている。ウケザキクンシラン(受咲き君子蘭)Clivia miniata の園芸品種が日本国内では良く知られている。引用:Wikipedia
2019.01.19
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平安時代の政治家で歌人でもあった菅原道真は、死後、天満大自在天神として崇められて信仰が広まり、「天神さん」として親しまれています。全国で1万数千社の天神社が存在しますが、北野天満宮は総本社として知られています。本展覧会は、北野天満宮が所蔵する神宝を中心に、ゆかりある数々の美術工芸品、歴史資料を一堂に集め、そこから浮かび上がる神社とその信仰の歴史を紹介します。日程:2019年2月23日(土)~4月14日(日)10:00~18:00(受付終了17:30)※金曜日は~19:30(受付終了19:00) 料金:1,400円 場所:京都文化博物館
2019.01.19
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第一朗読ヘブライ 4・12−16ヘブライ人への手紙 〔皆さん、〕神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができ〔ます。〕更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 福音朗読マルコ 2・13−17マルコによる福音 〔そのとき、〕イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です教皇フランシスコ講話集 2 (ペトロ文庫)[本/雑誌] / 教皇フランシスコ/著 カトリック中央協議会事務局/編訳
2019.01.19
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第一朗読ヘブライ 4・1−5、11ヘブライ人への手紙 〔皆さん、〕神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。 「わたしは怒って誓ったように、 『彼らを決してわたしの安息に あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 福音朗読マルコ 2・1−12マルコによる福音 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 キリスト教一致祈祷週間(1月18日~25日まで) 「すべての人を一つにしてください」という最後の晩さんでのイエスの祈りに耳を傾けるわたしたちはまた、折にふれて目に見える一致を示すように求められています。それは、ともに祈り、支え合うことによって、神がすべての人の救いのためにイエスを遣わしたことを「世が信じるため」です(ヨハネ17・21-23参照)。 キリスト教諸教会の間で毎年1月18日から25日に定められている一致祈祷週間は、このことを強く意識する機会となるでしょう。この一致祈祷週間のために、教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会は1968年以来、毎年テーマを決め、「礼拝式文」と「8日間のための聖書と祈り」を作成しています。日本ではカトリック中央協議会と日本キリスト教協議会が共同で翻訳し、小冊子を発行しています。(カトリック中央協議会刊『カトリック教会情報ハンドブック2013』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です毎日の読書 第4巻 「教会の祈り」読書 / カトリック中央協議会 【全集・双書】
2019.01.18
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五大力尊仁王会は醍醐寺の開山以来、1100年以上続く年中行事のひとつ。五大力尊とは不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大明王のこと。9:00から金堂で法要が営まれます。12:00から、金堂前に特設された舞台で「餅上げ力奉納」が始まり、五大明王に力を奉納すると無病息災などのご利益を授かるとされます。まずは女性の部が行われ、重さ90kgの紅白の鏡餅を、男性は重さ150kgの鏡餅を持ち上げて、持続時間が競われます。日程:2019年2月23日(土)料金:無料 場所:醍醐寺
2019.01.18
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1月18日の花言葉はパフィオペジラムで「優雅な装い」です。パフィオペディルム(パフィオペディラム Paphiopedilum)は、袋状の唇弁が特徴的なラン科植物で、洋ランの一属として知られる。洋ランとしての略称はPaph.である。形態地上に根を下ろす地生蘭もしくは半着生蘭であり、洋ランでは少数派に属する。茎はごく短く、葉は幅広い楕円形で平たく、根出状に重なる。花は、長い花茎の先に単独か、少数を穂状につける。花の外3弁のうち上向きの弁は幅広く、大きくなり、側面の2弁は互いに融合して、唇弁の背景になる。内3弁のうち側方2弁は細く、横に張る。唇弁は袋状、またはつぼ状になる。蕊柱はさじ型で、唇弁の口をふさぐような位置にある。その上面を覆う平らな部分は雄しべに由来するもので稔性はなく、仮雄蕊と呼ばれる。その下面の平らな部分が柱頭に当たる。雄しべは基部の左右側面にある。これは普通のラン科では蕊柱の先端に雄しべ、基部下側に柱頭があるという配置と大きく異なり、アツモリソウ亜科の特徴である。同亜科の中では、中南米に産するフラグミペディウム属 Phragmipedium に共通性が多い。名前について名前は女神のスリッパ(サンダル)を意味する。英語で「レディースリッパ (Ladyslipper)」とも。花の形が丁度女性の靴を思い起こさせる形をしているところから。古くはクマガイソウ・アツモリソウと同じくアツモリソウ属(Cypripedium)とされ、この属の学名仮名読みのシプリペジュームの名で流通した。現在、葉(常緑性の革質葉)、仮雄しべ(多肉質)、自生場所の違い等によって別の属に分けられている。「洋」ランのイメージが強いが、日本での栽培の歴史も浅くはなく、歴史的に水戸徳川家のコレクションが有名。現在、このコレクションは水戸市植物園等で栽培が続いている。また、袋状の花弁が食虫植物を思わせるため、虫を取ると良く言われるが、事実無根である。引用:Wikipedia
2019.01.18
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1月17日の花言葉はフキノトウで「待望」です。フキ(蕗、苳、款冬、菜蕗、学名:Petasites japonicus (Siebold et Zucc.) Maxim.[1])は、キク科フキ属の多年草、雌雄異株。特徴日本原産で、北海道、本州、四国、九州及び沖縄県に分布し、北は樺太から朝鮮半島や中国大陸でも見られる。山では沢や斜面、河川の中洲や川岸、林の際などで多く見られる。郊外でも河川の土手や用水路の周辺に見られ、水が豊富で風があまり強くない土地を好み繁殖する。近縁種は旧世界に広く分布し、ハーブとして利用される。また、幻覚作用の報告されている種もある。なお、現在、栽培種として市場に出回っている多くのフキは愛知早生という品種であり、愛知県東海市が生産量日本一である。関東地方以北には、2mほどにも伸びる秋田蕗があり、全国的にも有名である。こうした、巨大な蕗は倍数体によるものである。特に寒冷地では牧草地で大繁殖する。家畜が食べないので畜産農家からは嫌われている。アキタブキのうち、北海道・足寄町の螺湾川(らわんがわ)に沿って自生するラワンブキは高さ2-3mに達し、北海道遺産に指定されている。引用:Wikipedia
2019.01.17
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城南宮は平安京遷都の際、京の南に都の守護神として創建されました。神苑「楽水苑」の春の山の庭に、芳しい梅の香りが漂うころ、「しだれ梅と椿まつり」が開催されます。約150本もの紅白のしだれ梅と300本以上の椿を楽しむことができます。日程:2019年2月18日(月)~3月22日(金)9:00~16:30(受付終了16:00) 料金:神苑600円 場所:城南宮
2019.01.17
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第一朗読ヘブライ 3・7−14ヘブライ人への手紙 〔皆さん、〕聖霊がこう言われるとおりです。 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 荒れ野で試練を受けたころ、 神に反抗したときのように、 心をかたくなにしてはならない。 荒れ野であなたたちの先祖は わたしを試み、験し、 四十年の間わたしの業を見た。 だから、わたしは、その時代の者たちに対して 憤ってこう言った。 『彼らはいつも心が迷っており、 わたしの道を認めなかった。』 そのため、わたしは怒って誓った。 『彼らを決してわたしの安息に あずからせはしない』と。」 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。 福音朗読マルコ 1・40−45マルコによる福音 〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 「修道生活の父」として知られるアントニオは、250年頃エジプトで生まれた。両親の死後、財産を貧者に分け与えて荒れ野に引きこもり、そこで禁欲の生活を始め、多くの弟子が彼に師事した。ディオクレチアヌス帝による迫害のときに信仰のために苦しみを受けている人々を支え、アリウス派に対して戦った聖アタナシオを助けることなどによって、教会のために働いた。356年に死去。(カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より)聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用ですカトリックの教え 改訂版 カトリック教会
2019.01.17
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1月16 日の花言葉はカニサボテンで「恋の年頃」です。
2019.01.16
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雛まつりの起源は上巳(じょうし)の節供という、3月はじめに行われる禊(みそぎ)行事。人形は人間の形代(かたしろ)として穢れを引き受け水に流されていましたが、江戸時代には飾るための豪華な人形に変化していきました。当時の雛人形には、その時代の元号を冠して呼ばれる寛永雛・享保雛や、考案した人形師の名を付けたという次郎左衛門雛、江戸で誕生した古今雛、公家の装束を正しく写した有職雛などがあります。本展では、華やかな御殿雛飾りを中心に、御所人形や賀茂人形などさまざまな京人形を展示します。それぞれに異なる細部に注目して、雛人形の変遷をお楽しみください。日程:2019年2月13日(水)~3月17日(日)9:30~17:00(受付終了16:30)※金曜・土曜日は~20:00(受付終了19:30) 料金:520円※2月24日(日)は、天皇陛下御在位30年を慶祝して無料 場所:京都国立博物館
2019.01.16
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第一朗読ヘブライ 2・14−18ヘブライ人への手紙 〔人は〕血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 福音朗読マルコ 1・29−39マルコによる福音 〔そのとき、イエスは〕会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です近代カトリックの説教
2019.01.16
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1月15日の花言葉はセントウソウで「繊細な美しさ」です。セントウソウ (Chamaele decumbens) は、セリ科セントウソウ属の小柄な草で、早春に花が咲く。特徴柔らかで小柄な多年草である。根茎は短くて分枝し、株立ちになる。葉は根出葉を多数だし、高さはせいぜい10cm。葉柄は紫色を帯び、葉は緑か深緑、全体につやがあって無毛。葉身は3回羽状複葉に細かく裂けるが、より裂ける回数が少ない例もある。小葉は先の広がった三角形に近く、先端側は鋸歯状に切れ込む。花は4-5月に咲く、真っ白な5枚花弁は先端がわずかに内側に曲がり、5本の白い雄蕊が突き出る。花茎は高さ10-30cm、密生する葉の上に抜き出て複散形花序をなし、苞葉はない。個々の花は小さくて目立たないが、白くてまとまってつくので、薄暗い林床では全体としてはよく目立つ。名前の由来はわからないと牧野も書いている。岡崎は仙洞草の字を当てている。別名をオウレンダマシといい、これはオウレンに似ていることによる。生育環境森林の林床から林縁部に生える。分布北海道から九州まで分布する。日本固有種である。利害春早くに咲く花は、花の少ない季節でもあり、目を引くが、それ以外には利害関係はない。引用:Wikipedia
2019.01.15
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七草粥の風習は平安時代にはあったと伝わります。城南宮では旧暦の正月7日に近い2月11日に毎年行われています。春の七草であるセリ・ナズナ・スズナ・スズシロ・ホトケノザ・ゴギョウ・ハコベラを神前に供え、無病息災と延命長寿を祈願します。粥は城南宮神苑で栽培、収穫された七草などを使って炊かれたもの。当日はこれをお目当てに大勢の参拝者で賑わいます。日程:2019年2月11日(月・祝)10:00~16:00 料金:七草粥500円 神苑600円 場所:城南宮
2019.01.15
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第一朗読ヘブライ 2・5−12ヘブライ人への手紙 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。 「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。 また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。 あなたは彼を天使たちよりも、 わずかの間、低い者とされたが、 栄光と栄誉の冠を授け、 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 「わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、 集会の中であなたを賛美します」と言〔われました。〕 福音朗読マルコ 1・21−28マルコによる福音 イエスは、安息日に〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です【新品】【本】今に生きる教会 カトリックの教会論 メダルド・ケール/著 中野正勝/訳
2019.01.15
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第一朗読ヘブライ 1・1−6ヘブライ人への手紙 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。 いったい神は、かつて天使のだれに、 「あなたはわたしの子、 わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、 「わたしは彼の父となり、 彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、 「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。 福音朗読マルコ 1・14−20マルコによる福音 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です【新品】【本】新・カトリックと日本人 世界最大の宗教を理解するための本 坂本尭/著
2019.01.14
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三千院の大根焚きは、地元大原で有機栽培された大根を、出世金色不動明王のご宝前にて期間中毎日祈願し、焚き上げられ供されます。無病息災と開運招福を祈願した大根は、毎年1万食が準備され、心と体を芯から温めてくれます。日程:2019年2月8日(金)~11日(月・祝)9:00~16:30 料金:700円 場所:三千院
2019.01.14
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1月14日の花言葉はツバキで「気取らない優美さ」です。ツバキ(椿、海柘榴)またはヤブツバキ(藪椿、学名: Camellia japonica)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であってもサザンカを椿と呼ぶことはあまりない。形態・生態常緑性の高木。普通は高さ5–6mだが、樹高18m・胸高直径50cmにも達する例も知られる。ただしその成長は遅く、寿命は長い。樹皮はなめらかで灰白色、時に細かな突起がまばらに出る。枝はよくわかれる。冬芽は線状楕円形で先端はとがり、円頭の鱗片が折り重なる。鱗片の外側には細かい伏せた毛がある。鱗片は枝が伸びると脱落する。葉は互生、長楕円形から広楕円形、鋭尖頭(先端が突き出す)で、葉脚は広いくさび形、縁には鋸歯が並ぶ。葉質は厚くて表面につやがあり、濃緑色で裏面はやや色が薄い。花期は冬から春にかけてにまたがり、早咲きのものは冬さなかに咲く。分布日本原産。日本では本州、四国、九州、南西諸島から、それに国外では朝鮮半島南部と台湾から知られる。本州中北部にはごく近縁のユキツバキがあるが、ツバキは海岸沿いに青森県まで分布し、ユキツバキはより内陸標高の高い位置にあって住み分ける。人間との関わりツバキの花は古来から日本人に愛され、京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っている。他家受粉で結実するため、またユキツバキなどと容易に交配するために花色・花形に変異が生じやすいことから、古くから選抜による品種改良が行われてきた。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られた。茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。また、西洋に伝来すると、冬にでも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。花が美しく利用価値も高いので、『万葉集』の頃からよく知られたが、特に近世に茶花として好まれ、多くの園芸品種が作られた。美術や音楽の作品にもしばしば取り上げられている。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿にカメルという名前をつけ、ケンペルの記載に基づきジャポニカの名前をつけた。19世紀には園芸植物として流行し、『椿姫』(アレクサンドル・デュマ・フィスの小説、またそれを原作とするジュゼッペ・ヴェルディのオペラ)にも主人公の好きな花として登場する。ツバキの花は花弁が個々に散るのではなく、多くは花弁が基部でつながっていて萼を残して丸ごと落ちる。それが首が落ちる様子を連想させるために、入院している人間などのお見舞いに持っていくことはタブーとされている。この様は古来より落椿とも表現され、俳句においては春の季語である。なお「五色八重散椿」のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がばらばらに散る園芸品種もある。引用:Wikipedia
2019.01.14
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1月13日の花言葉はクリンコザクラで「美の秘密」です。
2019.01.13
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上徳寺は慶長8年(1603)に徳川家康の側室・阿茶局と息女の泰栄院の菩提を弔うために伝誉一阿を開山に建立されました。境内の世継地蔵に祈願すると良い世継ぎを授かるなど子授け、安産の祈願で知られます。毎年2月8日は1億日分の功徳が授かる「一億劫日功徳日」として子授けや福を授けてもらえる世継地蔵尊の功徳を讃える法要が行われます。十種福祈願法会(10:00~)、山伏による柴灯護摩供養(14:00~)、また酒粕汁や多幸焼(たこやき)の無料接待もあります。日程:2019年2月8日(金)9:00~16:00 料金:無料 場所:上徳寺
2019.01.13
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第一朗読イザヤ 40・1−5、9−11イザヤの預言慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口が〔そう〕宣言される。高い山に登れ良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるなユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。 第二朗読テトス 2・11−14、3・4−7使徒パウロのテトスへの手紙 〔愛する者よ、〕すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 福音朗読ルカ 3・15−16、21−22ルカによる福音 〔そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用ですカトリック入門 日本文化からのアプローチ ちくま新書 / 稲垣良典 【新書】
2019.01.13
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1月12日の花言葉はカンザクラで「気まぐれ」です。
2019.01.12
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伏見稲荷大社の初午(はつうま)大祭は京洛初春第一の祭りといわれます。前々日から本殿や摂社、末社の柱に稲荷山の杉と椎の枝で作られた青山飾りがとりつけられ、当日は多くの参拝者で賑わいます。社頭で授与される「験(しるし)の杉」(1,000円)は商売繁昌、家内安全などのご利益があるとされます。日程:2019年2月2日(土)8:00~ 料金:無料 場所:伏見稲荷大社
2019.01.12
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第一朗読一ヨハネ 5・14−21使徒ヨハネの手紙 〔愛する皆さん、〕何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。 福音朗読ヨハネ 3・22−30ヨハネによる福音 〔そのとき、〕イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です【新品】【本】カトリック入門 L.S.カニンガム/著 青木孝子/監訳
2019.01.12
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1月11日の花言葉はコチョウランで「幸福が飛んでくる」です。コチョウラン (学名:Phalaenopsis aphrodite) は、ラン科植物の一つ。東南アジアに分布し、白い美しい花をつける。この名は他の意味にも使われるが、ここではこの種のみについて記す。概説コチョウランという名は、コチョウラン属 Phalaenopsis の総称としても、同属およびドリテノプシス属を含む洋ランを含む名称としても使われる。しかし和名としてのコチョウランは P. aphrodite にあたえられたものである。総称としてのコチョウランについてはコチョウラン属を参照されたい。種としてのコチョウランは東南アジアに分布する大きな平たい葉を持つ単軸性の着生ランである。白い花は美しく、よく似たファレノプシス・アマビリス P. amabilis と共に洋ランとしてのコチョウランのイメージを代表するものである。学名の種小名はギリシャ神話の愛と美と豊穣の女神アフロディテから。特徴多年生の着生植物で、単軸性のラン。茎はごく短く直立し、上には四枚程度の葉を密生し、下方からは多数の根を出す。根は太くて良く伸びる。葉は二列性で折り重なって生じ、楕円形から長楕円形、表面は緑。花茎は茎の側面から伸びて斜上して先端は枝垂れ、長さは50-80cm、時に分枝する。先端よりに十数個の花をつける。花は白で径7cmほど、側花弁が幅広く、花全体が丸く見える。唇弁は黄色を帯び、赤味のある斑紋が出る。唇弁の先端は左右に突き出してまき鬚状になる。分布フィリピンから台湾に分布する。近似種同属のアマビリス P. amabilis は、本種に非常によく似ている。花はこの種の方が本種より多少大きく、また芯弁の基部中央の肉質突起がこの種では二個の角になるのに対して、本種では四個の角になっている。利用洋ランとして栽培される。この種そのものも栽培されるが、アマビリスの方が名が通っている。また交配親としても重視され、白花大輪種はこの種を親にしたものが数多い。本種およびアマビリスは通称としてのコチョウランのイメージの基本となっている面がある。引用:Wikipedia
2019.01.11
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