< 承前 >
今回の下見の結果、コースを変更して、当日本番は芹川沿いに彦根市街へと走る予定にしましたので、以下は当日は走らないこととなります。しかし、記事は今回の「下見」についての記事なので、当初案の通り更に南下、高宮宿へと向かう記事となります。
唯称寺という寺の山号は「鳥籠山」となっているので、写真に撮りました。鳥籠山は万葉にも登場するが、それが何処の山であるかは諸説があって定まらない。
近江路
の
鳥籠
の山なる
不知哉川
日
のこの頃は 恋ひつつもあらむ
(万葉集巻4-487)
犬上の 鳥籠の山なる 不知哉川
いさとを聞こせ 我が名のらすな
(万葉集巻11-2710)
鳥籠の山(床の山)は、芹川に架かる大堀橋の北東側の小山・大堀山(鞍掛山とも言う)がそれだという説や名神高速彦根ICの東側の正法寺の背後の山(宮山、桧峯、金毘羅山など)とする説、小野付近の山とする説、佐和山とする説など色々あって、どれと定まらないのはその名の如く現代の我々を嘲弄しているのでもあるか(笑)。それは「いさや<不知哉>」ですかな。
そして当然のことながら「いさや川」もその名の通り、芹川説、小野川説、犬上川説などあって、どの川とも我々は「いさや<不知哉>」なのである。
中山道を横切って近江鉄道が走っている。道路が線路を横切っているのか線路が道路を横切っているのかは、見る人の視点によって異なるのであろうが、鉄道よりも中山道の方がずっと先輩であるから、この場合は鉄道が中山道を横切っているでいいのだろう。
線路を越えた辺りから高宮地区である。高宮宿である。中山道六十九次の中でも本庄宿(現、埼玉県本庄市)に次いで2番目に大きい宿場と言われた高宮宿である。
高宮神社の鳥居前に宿駅「座・楽庵」おとくら、という趣のある建物がある。旧近江商人「布惣」跡である。高宮上布の卸問屋の跡である。
高宮上布とは、愛知 (えち)
、犬上 (いぬかみ)
、神崎 (かんざき)
地方など高宮の周辺で産出される麻布のことである。高宮には布座が許されていて、各地から集まる麻布を全国に売っていた。
高宮の布は繊細で美しく、献上品としても使用され、高宮嶋とも呼ばれたという。最近、この高宮上布を復活させようとの地元の活動によって、それが復活しつつあるとのこと。
高宮神社に立ち寄る。鳥居脇の表示板によると祭神はニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの二神とのこと。ご夫婦ですな。
中門脇の庭の中に芭蕉の句碑がある。
をりをりに伊吹を見てや冬ごもり
この句は、元禄4年10月中旬、大垣の千川亭に招かれた際の挨拶吟であり、支考編「笈日記撰集」では上の通り「伊吹を見てや」であるが、如行編「後の旅集」では「伊吹を見ては」となっている。
小生の手元にある「芭蕉全句集」には掲載されていないが、高宮の地で詠んだ句に「 たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子
」というのがあるとのこと。芭蕉は当地の小林家に逗留したことがあり、この句はその折の句らしい。小林家には芭蕉が着ていた紙子(当時の雨具)を埋めた紙子塚があるそうだが、これを知ったのは帰宅してからのこと。
高宮神社から少し南に下った処に大鳥居がある。
多賀大社の一の鳥居であり、中山道から此処で道を東にとると多賀大社なのである。と言っても距離はかなりある(3km余)ので、今回は行かず。
奥の細道の旅では芭蕉と曽良は多賀大社に詣でているから、この鳥居を潜って道を東にとったのであろう。
芭蕉は大垣へと向かう前に彦根(平田)に立ち寄り、そのついでに多賀大社に寄り道しているのであるが、このような旅人も多くあったのだろう。高宮は麻布の集散地としてだけでなく、多賀大社の門前町と言うか中継地点としても栄えたのであったろう。
そして、何故か大きな石のタヌキさんが鳥居の近くに鎮座。福々タヌキとある。
円照寺という同名の寺が奈良市にもあり、その名につられて門前に近寄ってみると、境内には徳川家康が腰掛けたという石があるらしい。家康が腰掛けた石は、それと伝わらぬものも含めれば、無数にあるだろうから、珍しくもない筈であるが、このようにものものしくすると名所旧蹟となるから面白い。偐家持だって今日一日を振り返れば既に何箇所かで石に腰掛けているのだから。
そして犬上川。いさや(不知哉)川がこの川だという説もあるが、真偽の程は、我、「もはら不知哉」であります。
これより川沿いの県道197号線を下流に向かって走りますが、もう字数制限に掛かりそうです。続きは次回とします。( つづく )
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