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タララ、ラッタラッタランという前奏に差し挟まれた「アーン」を覚えていますか。青江三奈(1941~2000)が1968(昭和43)年に歌って、100万枚を超える大ヒットとなった「伊勢佐木町ブルース」です。 子どもたちもまねた「アーン」は、「ため息」だと穏健に言い表されてきました。低音のハスキーボイスが特徴の青江が、「ため息路線」として、森進一さんとともに売り出されていたことも理由の一つでしょう。 でも、あれは、どう聞いても、きわどい吐息でしょう。あんななまめかしい声色はそれまでの歌謡曲にはありませんでした。事実、お堅いNHKでは当初、「ため息」は禁じられ、紅白歌合戦でも代わりに楽器が鳴らされたそうです。生声が許されたのは、ヒットから何年も後だといいます。 「確かに『ため息』じゃないよね」。作曲した鈴木庸一さん(80)は、待ち合わせた横浜・伊勢佐木町で苦笑しました。「でも最初からセクシーなものを意図して作ったんじゃない。偶然がいいものを生むことがあるんだ」。そう言って、43年前のレコーディング風景を回想しました。 67年晩秋の東京・築地。録音スタジオで、青江は十数人のバンドを背に、マイクの前に立ちました。当時は伴奏とともに収録し、編曲もその場で変えていきました。前日までは、バイオリンの前奏の合間に、ギターの胴を「タタッ、タッ」とたたく編曲でしたが、地味でした。制作が難航していた時、青江が「ア、ンッ」と、のどの奥でせき払いをしました。 「それだ。三奈よ、ロマンチックにアッハン、ウッフンとやってみろ」。ガラスの向こうの調整室で、ディレクターが腰を浮かせました。「もっと色っぽく」という要求に応え、青江はシンコペーションのリズムで「ンアッ、ンアッーン」と拍子を取りました。そしてあの歌が生まれたのです。作曲の鈴木さんは「あれがなければ、これほどの印象を残す歌にはならなかったでしょう」と振り返ります。 ところで発表当時、青江は公称23歳。それにしては余りにもあでやか過ぎるのではないでしょうか? 実はデビュー前の4年間、銀座や横浜のナイトクラブで歌い、人気を誇っていたのです。が、その過去を年月ごと封印、4歳さばを読んでのデビューだったのでした。クラブ時代を知る脚本家、ジェームス三木さん(75)が言います。「だからあのセクシーボイスは偶然生まれたんじゃない。男が女を口説く空間から出てきた彼女が身につけていた、ある種の必然なんだよ」 「港ヨコハマ」の「灯」を訪ねてみましょう。
この歌がヒットしたとき、18歳ですか。興味がない、といっても嫌でもテレビやラジオから流れてくるし。大学へ行けば、横浜には「伊勢崎町」ってあるのか?って間違った質問をよくされました・・・ そんな印象があって、なかなか好きになれなかった歌です。
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