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『事件』大岡昇平(新潮文庫) 法廷において、最後に勝つものは真実である、という考えは、あまりに楽天的に過ぎるとしても、真実を排除した裁判は、民主主義社会では行われ得ないし、真実には実際それだけ裁判官の心証を拘束する力があるとみるべきである。 上記の文章は、約600ページの本小説のちょうど真ん中あたりに書かれたものですが、つまるところ本作のテーマはこれに尽きると言えそうな気がします。 さて、今回私が読んだのは、上記の裁判小説であります。 寡聞にも私は読んだことがないのですが、アメリカの推理小説に、ペリー・メイスンという弁護士を主人公にして、法廷で検察官と丁々発止のやりとりをするのがメインという推理小説のシリーズがあるそうです。本書でもその推理小説について少し触れている箇所があって、ただ日本の裁判制度では、そんな具合にはいかないと書かれてあります。 そんな「裁判小説」ですが、これも本書のどこかに書いてあったのですが、生涯裁判などにかかわらない人生は、それはそれでとてもいいのだとありました。 本作は、昭和36年が時代設定になっているので、現在の裁判員制度には全く触れられてなく、生涯裁判に係わらないのがよいのかどうかはそう簡単な話じゃなくなりましたが、とにかくわたくしは、本日に至るまで、一応裁判に係わったことがありません。 だからでしょうか、やはり本書を読んで、かなり法学や裁判について啓蒙されました。 本書は、解説に「情報小説」という言葉がありますが、わかりやすく言うと「漫画で分かる日本経済」みたいなのの類であります。 ただ、それを大岡昇平が書いています。 私は以前、大岡昇平が中原中也を論じた著書を読んだのですが、その時に感じたのと同様、平明で分かりやすく、非常にイメージをはっきりと描くことができる実に明晰な文章であります。さすがといおうか、とても好感の持てる文章です。 そこに小説的な展開がスリリングに広がっていき、比較的長い小説ですが、読者を飽きさせません。安心して読むことのできる作品になっています。 ところがそんな裁判についての「情報小説」を初めて読んだ私が、まずとても興味深い発見をしたのは、いきなり話が飛んでいくようですが、つかこうへいの『熱海殺人事件』はリアリズム演劇であったのか、という驚きでした。(もちろん、それは笑いを含んでのことでありますが。) つまり、少々誇張しつつ荒っぽくアナロジーを説明すれば、冒頭の本文の引用の特に前半に書かれていることは、結局裁判は巨大にフィクションであるということでありましょう。 上記に、ペリーメイスンが検察官とやり合うようには日本の裁判制度はなっていないと本書にあると書きましたが、本書内でもやはり弁護士と検察官は強烈にやり合い、また「だまし合い」をしています。 なるほど、裁判で最も重要なのは、言われてみればマスコミなどで聞いたような気もしますが、勝つための戦略であります。 読みだした当初、私はそんなところが「つか的」でとても面白いと感じつつも、しかし真面目な話として、人を裁く上に本当にそれでいいのかという気持も絶えず浮かんでいました。(その辺が「裁判」ビギナーな所以でしょうか。) しかしそれは結局のところ、いかんともしがたいものだという感情が、本書を読み進めるうちに強くなっていきます。なぜなら、実もふたもなく書くと、真実はしばしばわからないからであります。 本書には、こんな趣旨の表現が、何か所にもわたって書かれています。 自白あるいは法廷の証拠調べによって、疑う余地なしというところまで、事実がはっきりしてしまう事件はめったにない。大体は多少の疑問を残したまま、大綱において過たずという線で判決を書くほかはない。絶対的真実は神様しか御存知ないのだから、正しい裁判手続きによって、「法的真実」をうち立てればよい、という論者もいるくらいである。 例えば本小説のテーマの一つである、「殺人」か「傷害致死」かの判断の根拠についても、行為が行われた時刻と現場に再生可能な神の目が存在しない以上、裁判官によって出された判決は「法的真実」でしかないのは明らかです。 しかしだからこそ、筆者は、冒頭に引用した「真実」の重要性を強く述べているのだと言えます。 そんな小説でした。私はとても面白く読みました。 しかし、それでは本小説に高い文学性があるかといえば、それについては否ではないかと私は考えます。 それは、文学性とは、「法的真実」に対してさらに抉りこむように突き刺さっていくことを目指すものだと、私が思うからです。 ただし、本小説には、すべての裁判が終わった後のことに触れる最終章「真実」という部分があり、そこに、今私が述べたようなことは、筆者は百も承知と読み取れる展開があります。筆者は、本来の文学の姿を決して見失っているわけではありません。 ただ本書において、それは前面に出たテーマではないというだけであります。 この最終章は、文学的な存在に対する紹介を含みながら、また、作品のまとまりとしても一定の広がりを暗示させて終わるという、ほぼベストなエンディングではないかとわたくしも思うものです。 文学に対する、筆者の粘り強いこだわりを感じます。 大岡昇平の作品の持ち味、痛ましさを伴う懐かしさのようなもの、そして人生への虚無の視点も感じさせるのですが、それはまた、本作に対する筆者の誠実さでもあるように思います。 最後に、話は違うのですが、実際の裁判も本小説のごとくに弁護士のできの良し悪しでがらりと判決が変わってしまうのだとしたら、それはとっても恐ろしいことで、そしてできのよい弁護士とは、はたして、ずばりお金のかかる弁護士という事なんでしょうか。 わたくし、何となく、すっごく、心配なんですけどー。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.11.24
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『個人的な体験』大江健三郎(新潮文庫) 何を隠しましょう、って、少し恥ずかしい話なのでこんな書き方をしたのですが、実はわたくし、この冒頭の小説を、きっと45年ぶりくらいに読みました。 ……うーん、なんと言いますかー、実に何ともいえませんなー。 で、とても感心したかと言いますと、それが、そうでもないのが、我ながら少しよく分からないんですね。 今でもたいがい文章読解力に疑問符の付くわたくしではありますが、それでも、いくら何でも45年前よりは少しは読めるようになったと思うのですが(そうでもないのでしょうか)、ちょっと当てがはずれたように感じてしまいました。 下記に繰り返していますが、その中心は、この小説のクライマックスの、主人公が障害を持って生まれてきた我が子を責任を持って育て上げると決意する場面にいたる展開であります。 45年ぶりに読んだとはいえ、この小説がそんなストーリーを持った小説だと言うことは覚えていたんですね。そして若かりし頃の私は、そこに感動したような記憶があったんですね。そして、事実小説はそのように進んでいくのですが、しかしそのクライマックスの場面が、あー、なんと言いますかー、ちょっと期待はずれであったと言うことで、わたくし、少しぽかんと戸惑っています。 そんなわけで本小説を読み終えた私は、なんか置いてけぼりにされたような感情を持ち、いや、そんなはずはないと思い直して、今回の読書の跡をたどり直していくと、いくつかよく分からないところがありました。 しかし、まー、著者はノーベル文学賞受賞作家でいらっしゃいますし、今から考えれば、少々若書きの作品かなとも思いますが(でもこの作品の次が代表作『万延元年のフットボール』ですから)、やはり誰が悪い(良い悪いではないでしょーに)といえば、それは当然小説読解力に難のあるわたくしが悪いんだろーなー、ということでありましょう。 ま、しかし、まぁ、せっかくですから、この度私が読んでよく分からなかった部分を、せっかくですから、だらだらとあまりしつこくならないように、箇条書きでまとめてみました。この4つです。 1.主人公が、障害を持って生まれたわが子の死を願う心理がほぼ書き込まれていないんじゃないですか。 2.ヒロイン「火見子」の描かれ方が、前半は主人公にとって巫女的存在であったのが、後半になって急に「俗的」な軽い感じのものになってませんか。 3.途中から現れる「菊比古」という登場人物(主人公の「改心」にも大きく関わる人物)の書き込みが足りないんじゃないですか。 4.そして、やはりクライマックスの主人公の「改心」に至る必然性というか、説得力に欠けることはないですか。 この4点について、私は今もよく分かりません。(ただ、本作は、発表当時からかなり高い評価を得ている作品ですしねー。) 何となく一つ感じるのは、本作は昭和39年に例の「新潮社純文学書き下ろし特別作品」のシリーズで出版された作品で(あのシリーズは、出版されるたびに文学的事件のような、その時代の名作・問題作の宝庫でしたが)、やはり、「時代」という意味で、かなりな制約を受けているんじゃないかと言うことです。 例えば、島崎藤村の『破戒』が、現在ではやはり時代的限界を持つように。 つまり、それは障害というものに対する考え方、感じ方の大きな隔たりであり、それを考えれば、上記の「1」についてはかなり納得がいきます。 そんなように考えていきますと、「2」については、「火見子」という存在が、主人公の「青春」のメタファーだと捉えれば、それは主人公の青春との決別という理解ができそうです。 「3」の「菊比古」についての書き込み不足という私の考えも、それはそうでありながらも、大江作品を継続的に読んでいくと、この後「菊比古」的プロフィールは、レギュラー俳優のように出てきており、その先駆けに当たるのだと解釈できそうに思います。 という具合に、頑張って考えていきますと、それなりに納得の「芽」はあるのですが、どうにもよく分からないのが、やはり残った「4」であります。 ただこれにつきましても、我が「小説道の先人」の知人に伺いますと、これは初期の大江健三郎の思想的先導者サルトルの理論に関係する部分であるとのお教えをいただき、あ、そっちのほうの話、あ、それならわたくしダメ、わたくしの軟弱な脳細胞では理解不能だなと、えー、まー、いちおーは、矛を収めたといいますかー、そもそも、「勝負」にはなっていないんですがね。 しかし、大江健三郎の、若き頃の瑞々しい文章をこの度久しぶりに読みましたが、やはり凄いものだなーと、感心しました。 これは私の思いつき程度のことですが、やはり優れた小説の優れている理由の中心は、文体の力である、との証明ではないですか。 いえ、ひょっとしたら、これも今さらの当たり前のことなのかもしれませんがー。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.11.17
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『鴎外最大の悲劇』坂内正(新潮選書)「街のごろつきのような言いがかり」(高橋義孝)「自己弁疏に寧日がない」(同)「自分の最も深い傷口を隠したとまでは言うつもりはないが、何か釈然としないものを感じる」(山室静)「真の啓蒙家にはあるまじきものがひそんでいる」(伊達一男)「国内向けの論文と国外向けの論文」で「同一の主題に対してそうした使い分けができるということは」「科学者としての誠実さに疑いを挟まないわけにはいかない」(白崎昭一郎)「無法ともいうべき論法で、医学問題を論ずる論法とは思われない」「余りにも粗雑かつ常軌を逸した」論(山下政三)「人足の喧嘩調」(谷沢永一)「対者に混乱と無能感と劣等感を生じさせる為の、勝負感に発する手管」(同)「専ら先取得点の功績にのみ固執する評価軸は鴎外の顕著な信条のひとつ」(同) 私も今まで何冊かの文芸評論等を読んで、かなり厳しい評価が書かれている文章を読みましたが、冒頭のこの本ほど、徹底的に苛烈に「筆誅」を加えているような本は初めてでした。 そのターゲットとなっているものは、近年いろんな資料が新しく発表されるたびに、どう考えても責任問題が生じるだろうと思われる、主に日清日露戦争時における陸軍の兵食と脚気の問題についての重要関係者の一人鴎外の主張であります。 本書はそれに絞ってかなり詳しく分析がされているのですが、私は最初、本書を読みながら、鴎外に対する批判的な表現が出るごとにチェックしていったのですが、そんなことをしていたら本当にキリがないことに気づきました。 そこで上記には、筆者以外の鴎外評のみを挙げてみましたが、筆者の表現については、キリのない中で、いくつかだけ挙げてみます。(まとまってそうなやつを) ・相手の真意、問題提起を無視し、あるいは無視するために問題を矮小化したり転移して論を競い、当面の論争に勝つというのが鴎外論争術 ・自らの負けを認めることのできない林太郎の性格 ・林太郎の拘執性について病跡学的研究も必要 ・機を見るに敏 ・「明哲保身」 ・宿痾のようなものであった。 ・医局内に「彼は曲学阿世の徒だ」という声 ……と、取り上げていくとやはりキリがありません。 確かに本書を読む限りにおいては、鴎外の人間性について、テレビドラマなら間違いなく大悪役に描かれるだろうパーソナリティで、ちょっと他には類例が思いつかないほどであります。 しかし、……しかし、私は、本書を読んだ後、かつてとても感心した鴎外の一短編を読み直してみました。 少し前に、関川夏央の文章に、鴎外の真骨頂は「節度」であるという表現を読んだのですが、その評に一番ふさわしい作品じゃないかと思って読みました。 『ぢいさんばあさん』です。 読み終えて、やはり私はとても心洗われる思いを持ちました。 美濃部伊織の妻るんの、自らの運命に対し、背筋を伸ばしながら従容と従っていく様が、節度ある筆遣いで描かれていることに、私はやはり、感動しました。 こんな話の書ける作家の人柄と、上記のような苛烈な批判に曝される人間性が、同一人格の中に併存できるものなのでしょうか。 私にはわかりません。 本書の筆者は、文中で「晩年の鴎外の暗さ」を指摘していました。 上記にも言葉を取り上げた谷沢永一が、本書裏表紙の紹介文に「鴎外という明治期ならではの悲劇的な個性の謎」という文言を書いています。 人生というものの底知れぬ奥深さと恐ろしさ、そして尊さをふと感じる読書でありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.11.10
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