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『日本の同時代小説』斎藤美奈子(岩波新書) わたくし、本書を2週間くらい前に読み終えたのですが、その後今日に至るも、どーも、気になって仕方ないという本です。 純文学小説の好きな私にとって、いやあぁぁぁな気持ちになって仕方がないという本です。 仕方がないので、少し、報告します。 本書の中盤あたりに、村上龍『希望の国のエクソダス』からこんな部分が引用されています。 中流という階級が消滅しつつあった。経済格差に慣れていない大多数の日本人にとって、それは耐えがたいことだった。八割から九割の国民が没落感に囚われ、羨望と嫉妬が露わになった。人々は怒りに駆り立てられ、無力感に襲われた。当然のことのように新しいナショナリズが起こり、いくつかの新右翼の政党が生まれ、無力感に沈む人々は新興宗教に吸い込まれていった。 本書の筆者斎藤美奈子も、「二〇〇〇年代以降の日本を、この言葉はほぼ正確に予言しています。」と書いていますが、まさに感心するほどに見事に予言していますね。 (閑話ですが、予言といえば私は、忌野清志郎が福島原発事故の20年以上も前に「ラブ・ミー・テンダー」の替え歌の中で「放射能はいらねぇ 牛乳が飲みてぇ」と歌い、まさに事故直後、原発周辺の牧場で、人の避難した後、乳牛が取り残されている場面をテレビで見て、鳥肌が立ったのを覚えています。とりあえず、閑話ですが。) 『希望の国のエクソダス』は、私も読みましたが、ここは記憶に残っていません。 そして2000年以降の現実は、加えてこの村上予言に入らなかった原発事故レベル7が起こり、没落感・無力感そして、国家や科学に対する不信感が、より強くなっているように思えます。 本書のテーマである、純文学の、特に2000年以降の動向についてですが、それは、すでに想像がつくように、実に重苦しい泥沼に陥っているというところでしょうか。 ……うーん、つらい。 本書は時代を10年ごとに区切って、1960年代から順番に日本の同時代小説を解説する構成になっています。各年代にタイトルがついているのですが、例えば、2000年代と2010年代はこうなっています。 「2000年代 戦争と格差社会」 「2010年代 ディストピアを超えて」 どうですか。このタイトルを見ただけで、いかにも暗ーーいという感じですね。筆者も、2010年代の章の最初の、その時代の概観を簡単に述べた文章の終わりを、このように結んでいます。 そんな時代状況のせいなのか、2010年代は「ディストピア小説の時代」でした。00年代から蓄積された不穏な空気が満タンになり、一気に爆発したようなものだった。「ディストピア」とは「ユートピア」の反対語。ジョージ・オーウェル『1984』が描くような、絶望に支配された世界です。では以下、覚悟してお読みください。 ……「覚悟して」って言われてもなぁ……、と思いながら私は、以下の、まぁ少し大げさに言えば悪夢のような文章を読みました。 細かい説明はもちろんいろいろありますが、それらをぐぐっと端折って、そして、「純文学」が、この時代にいかに立ち向かえていないか、その原因を分析した個所を少しまとめてみます。 筆者がまず指摘しているのは、明治以降に成立した近代文学というものが、「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」から始まったもので、もともとが敗者、弱者の芸術で、呆然と立ち尽くすか、問題解決を先送りにしたがるものであったという指摘。 二つ目は、純文学小説は、作品の結末において事件は解決せず、主人公は宙づりにされたままの方が「余韻」を含み文学らしさを醸成するという、そもそも安易に人を救わないものであるという指摘。 筆者はこの後、こう続けます。 この特質ゆえに、純文学は一定の芸術性を確保し、自由な解釈を許し、人々を啓発し、ついでにいえば権威も保ってきました。しかしまた、そのスノッブでペシミスティックな姿ゆえ、徐々に読者は離れていった。(中略)読者の「劣化」を嘆くのは本末転倒でしょう。厳しい時代に、厳しい小説なんか誰も読みたくないからです。 ……うーん、……うーん、困った。 今後の日本文学に、未来はあるのか。 というわけで、私は本書を読んで、2週間近くも何だかそわそわと不安な毎日を送るという、考えれば、とんでもない本を読んでしまいました。難儀な読書体験です。 でも、上記に、「2010年代 ディストピアを超えて」とあるように、本書の最後に「ディストピア」を超えるための方策が、少しだけ、書かれていないわけでもありません。(この曲がりくねった私の書き方にご注目ください。) それは2017年にヒットした『君たちはどう生きるか』に触れて書き出されています。 そしてそれが、十分な解決策なのか否か、なかなか判断の難しい所でありますが、とにかく、とにかく、一つ、書かれています。 でもそれについては、私はここでは書かないで終わりたいと思います。 気になる方は、どうかご自分でじっくりお読みください。 どうも、すみません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.07.29
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『唐草物語』澁澤龍彦(河出文庫) さて、澁澤龍彦です。 今回この報告を書くに当たって、一体私は何歳くらいまで澁澤龍彦の本(あの黒魔術がどうのこうのという本)を、追いかけるように読んでいたのだろうかと思い、20代中盤くらいから書き始めたエクセルの読書記録(20代中盤からエクセルで記録し始めたのではなく、ノートに書いていたのを後年まとめたのですが)を見返してみました。 それで解ったのは、私は20代までは澁澤作品をかなり読んでいて、しかし30歳以降は殆ど読んでいないということでした。 とすると、私にとって澁澤龍彦は、まさに「青春の読書」体験だったということですか。 うーん、太宰治の小説が、青春期のはしかのような作品だとはよく言われることですが、私にとっては澁澤作品が、それにあたっているのでしょうかねー。 しかしなぜ、「澁澤黒魔術作品」が私の青春読書だったのでしょう。 さて、『唐草物語』です。 本書には、12の短編小説が収録されています。なるほど一応小説ですが、当たり前だとは言え、澁澤龍彦の「黒魔術」系の話題も満載しています。 ただ、半数ほどの作品は日本古典の世界が舞台となっており、そこに目新しさがあって、今の私としてはこちらの方が、はるかに嗜好に合致します。 前から6つ目に「金色堂異聞」という作品があって、奥州平泉の金色堂の話なのですが、このあたりから、小説としてはかなりほぐれてくる感じがします。(初めの方の作品は、少し展開がぎこちない気がします。)中盤作品あたりからやっと、展開が自由になってきたような感じです。 そしてその次の7つ目に書かれてある「六道の辻」という作品が、私は本書の中で一番できがいいと思いました。 筆者自身のような人物が出てきて狂言回しをしていき、フィクショナルなパートに繋がっていくのですが、そのつなぎ目がとてもなめらかで、終盤の種明かしのような、また読者をけむに巻くためのようなブッキッシュな説明部も、きちんと過不足なく収まっています。 その絶妙なバランス具合が、やはり最もメインの部分であろうフィクショナルな展開部を際立たせていて、とても見事です。 さらにこの後の作品も面白く書かれているのですが、しかしそんな作品を一つ一つ読み終えて、私はふと、中島敦の短編のことを思いました。 同時に私は、この中島敦との比較は、はたしてフェアなものなのかとも感じました。 つまり、短編小説の面白さとしては、中島敦レベルのものがこの作品群の中にもあるとは思いつつも、それが心を撃つものかという事になると、これはちょっと比較のできるものではないなと思ったわけです。 確か三島由紀夫が、もしも澁澤龍彦がいなかったら日本の文学界はどんなに寂しかっただろうかみたいなことを書いていたように覚えています。 それは概論的な一つの評価としては、私も大いに納得できると思います。 ただ、それが澁澤龍彦のすべての作品においてとなると私の手には余るのですが、少なくとも今回の小説集の小説でいえば、その寂しさには堪えられると言えないこともないという気がします。 では中島作品との比較について、なぜ私がはたしてフェアだろうかと自らに問いかけたのかというと、そもそもこの澁澤短編小説作品は、人間を描こうなどと思って書かれたものかという事であります。 いわゆる人間を描くというのは、文学にとってかなり普遍性ある価値だとは思いますが、それを端から認めない価値だって多分ないわけではなく、ひょっとしたら澁澤短編小説がそうである可能性は低くない、と。 だとすれば、これらの作品を読んで我々が反応すべき「正しい」(もちろん「 」付きの正しさです)姿は、面白がってそれで完結すればいいということありで、そして、そのための作品であるなら、この短編集は十分なものを私たちに提供してくれていると思います。 本文冒頭になぜ20代だけに私は澁澤作品を読んだのだろうという問いをしましたが、何となくその答えの「感じ」は、わかる気もします。 要するに20代のあの頃、私にとって日常生活というものは本当のところなかった、そんな時代の読書だった、ということでしょうか。(そんな時代に、確かに黒魔術は入り込みやすいという気がします。) それはまた、今思えば1960年代後半から70年代前半という時代の空気にかなり負っていたようにも思います。 しかしその後、極私的な話としては、私は30代になり子供もできて、仕事の上でもお定まりのストレスまみれになって、今度はそんな時に「黒魔術」とか「サド」とか「ホムンクルス」とかいわれても、私の精神世界は猥雑な現実に飲み込まれてしまっていて、どこの世界の話なのかうまく反応しなくなったのだと思います。 結局それは、私の精神世界がいかに脆弱であったかということであるのでしょう。 ただ、どんな現実に生きても全き自由な精神世界を持つというのは大いにあこがれはしますが、なかなか凡人には我がものとし難いものだと、これも今となって(澁澤作品にかつての魅力をさほど感じなくなって)、少し寂しく思うものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.07.21
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『鬼の詩・生きいそぎの記』藤本義一(河出文庫) この筆者は亡くなって6年ほど立つ方ですが、私は初めて小説を読みました。 わたくしは関西に住んでいますので、この関西人作家もすでに読んでいればよかったのでしょうが、私が今まで触手を伸ばした関西人作家は(関西人作家というより、関西風土っぽい作家ですかね。単に関西生まれなら村上春樹も関西生まれですが、普通村上春樹は関西人作家とは考えませんものね)、武田麟太郎・織田作之助・開高健あたりかなと思います。 ……こうして考えてみると、そもそも今まで余りたくさんの関西人作家に興味を持っていた訳じゃないことが、わが事ながら初めて分かりました。 上記に3人挙げましたが、中心は何といっても織田作之助でしょう。本書には織田作之助に触れたこんな個所があります。 やはり織田作というのは、そこに根づいて、大阪弁で書いていったがために、戦後の文学史の中で、太宰よりも大変評価が低くなって、ほとんど文庫の本もなにも出ないという状態になる。それこそが文学だ、それこそが郷愁の生んだ文学なんじゃないかと。太宰の場合は、なんか上流家庭の言葉を使って、そしていろんなものを書くんだけれど、これは受けるけれど、俺はこの”太宰の故郷の状況”というものは好きじゃないというんですね。”故郷の人間”として、太宰はどうも俺は全部駄目だと。 ちょっとだけ説明しておきます。この本は少しヘンな構成で、5つの作品が収録されているのですが、小説らしい小説は3作。一応小説と考えても悪くないのが映画監督川島雄三を描いた「生きいそぎの記」1作。もう一つはその川島雄三について語った藤本義一の講演録、となっています。そして上記の引用文は、講演録から川島について述べている部分です。 実はこの講演録が私は本書の中で一番面白かったのですが、方言(というより私にとっては関西弁ということですが)を用いた小説作品について、改めて考えるところがあります。 これは実はなかなか微妙な問題で、そう簡単にまとめることはできないのですが、しかし、我々は(少なくと関西人でありながらの私は)一応標準語で書かれた作品を多く読んでいます。昔、長塚節の『土』を読んだ時、その地の方言がセリフで書かれていて、何が書かれているのかあまり分からなくて往生したことを思い出します。 それに、太宰と織田作を比較して織田作が読まれないと書かれても、そもそも文学史の中で太宰より読まれている作家が何人いるのかと言うことですよね。 そんなわけで、私は一概にこの説に賛同するのではありませんが、なかなか興味深い講演録でした。 ということで、私はこの度初めて藤本義一の小説を読んだのですが、なぜ読んだのかというと、それは又吉直樹の『火花』を少し前に読んだからですね。 『火花』は何が書かれた作品かはいろんな角度から説明できると思いますが、一種の「職人小説」とまとめることもできそうに思います。 職人小説で、お笑い関係の分野でと連想した時、私は藤本氏の「鬼の詩」を思い出したわけです。私は読んではいませんでしたが、直木賞受賞作として何となく知っていたので、この度手に取った、と。 ところが、お笑い分野でありながら、一向に面白くない(この「面白くない」はつまらないではなくて、笑いの要素がないという意味です)んですね。 上記に挙げた小説らしい小説3作が、落語家、漫才師などの話でありながら、それが揃いも揃って暗い。ことごとく暗い。とにかく、暗い。圧倒的に暗い。 何でこんなに暗いのかというと、例えばこんな部分があります。 「芸の虫ちゅう虫は、ほんまに小っぽい虫やろけども、一旦これに食いつかれたら最後、どないしても食い荒されてしまうなあ。芸の虫は、体の中で毒を吐いたり、昼寝したり、また忙しゅうに走りよったりして、どもならんわい」 こんなことを呟いてはったこともおます。 職人小説は、大抵こんな感じになってしまうんですね。対象の職業(技芸など)をどんどん追いつめていって、それも超人的に追いつめていって、そしてその挙句、人格的には破綻してしまうという。 私は『火花』を読んだ時も、現代はこんなところに「無頼派作家」がいたのかと思いましたが、無頼派作家というのも一種の職業小説絡みの「技芸」だと言えそうに感じます。 ただ、人格破綻しないパターンもあります。その典型は中島敦の「名人伝」だと思います。一つの道を追求した挙げ句の人格(技芸・創造物等)が、いかに超人的、神の領域の如きものになったかという小説ですね。 まー、シュールの方へ展開するというパターンですね。これは、あっけにとられることはあっても、さほど暗くないと思います。(これはエンターテイメントですが、阿佐田哲也の麻雀小説、特に短編の作品もそんな感じじゃなかったでしょうかね。) ともあれ、この度3作のお笑い分野の職人小説を読みましたが、あまりに暗いことから、それなら、実は私は、又吉直樹の『火花』をさほどの秀作とは思わなかったのですが、少なくともお笑いの「ネタ」のような個所はそれなりに面白かったことが思い出されました。 しかし、関西人作家の藤本氏の、他の作品はもっと面白い(この面白いは本当に笑ってしまう面白さ)のでしょうねぇ。上記に触れましたが、同収録の講演録は、わたくし、読んでいて何度か噴き出しました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.07.16
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『ジニのパズル』崔実(講談社) やー、なかなか元気な小説が出て来たぞと思いました。 主人公の中学一年生の女の子が、そこいらじゅうを走り回って飛び回っているような小説です。 といっても、もちろん能天気な話ではなくて、後述しますように、たくさんの困難を抱えた女の子の話です。 あるいは、私がなかなか元気な小説と思ったのは、ひょっとしたら、やたらにたくさんのエピソードが詰め込まれているせいかも知れません。 この小説は、筆者にとってデビュー作であるようで(例の『コンビニ人間』が芥川賞を受賞したときに同時にその候補になり、残念ながら受賞を逃した作品です。『コンビニ人間』がなければ、受賞していたかもしれない作品です)、そんな作品に往々にして見られますが、とにかくぶち込むという感じが、本作にもありそうです。 ただ、そんなたくさんのエピソードに、ちょっと出来の良し悪しの幅があるように思いました。 例えば、北朝鮮に行った(帰った?)主人公ジニの祖父の手紙とか、ジニがほのかな思いを寄せようとする同級生の男の子の話とか、分かりはするが段取りっぽい書き込みだと私は感じました。 書くならもう少ししっかり書き込んでほしいかな、と思いました。 ついでですから、先に少し気になったところを挙げておきますね。 在日三世韓国人のジニが小学校6年生の時に、今までそれなりに友達関係のあった同じクラスの女子から、彼女が朝鮮人だとわかったとたんにひどい侮辱を受けるという場面があります。 でも彼女は苗字を韓国名で名乗っていたようだし、そもそもこの話の舞台(ジニが小学6年生の時)は1997年の東京で、その時代にこういう状況って、リアリティがあるのでしょうか。(……いや、あるのかな。) また、この話のきっかけになった授業をしていた先生について、その事件直後のこんな描写があります。 仲間たちは、転校先の朝鮮学校のことを訊かなくなった。距離を置くように、私を遠ざけるようになった。歴史の先生は、まるで罪人でも見るかのような目付きで私を見た。私の席を通り過ぎる時や、階段ですれちがう時には、横目でじろりと、どこか憎悪さえ感じるような視線を私に送った。 もちろんこの描写は一人称のもので、先生に対して主人公がこう感じているのだと、その主観を描いていると読めないわけではないでしょうが、ちょっと違和感を覚える所です。 「ゲームセンターの悪魔」の章でも、ジニに許しがたい悪意と行為をなす黒いスーツ姿の男たちについて(このエピソードは展開上とても大事なポイントではありますが)、どうも今一つリアリティに欠ける感じがするのは、私の読みそこないでしょうか。 ……というように、まず私が気になった個所を先に挙げたのですが、そんな「違和感」にもかかわらず、本書は、全体としてとてもパワフルさの感じられる、そしてそれなりに大きな流れと見通しのある作品だと思いました。 読後私は、しばらくじっと内容を思い出しながら考えてみたのですが、この「パワフルさ」「大きさ」は、主人公ジニが4つの困難に立ち向かっている、いわば四重苦を描いている作品だからじゃないかと気づきました。 四重苦とは、このようなものです。 1、若さ(未熟さ)という困難。 2、本文に「不思議ちゃん」という表現がありますが、 強烈な自意識と周囲への不適応という困難。 3、今の日本に女性として生きていることの困難。 4、そして、在日韓国人三世という困難。 改めて指摘してみると、これはなかなか、なかなかな作品ですね。一つ一つを取り上げても、それだけでお話ができそうなテーマ=困難を、4つも一挙に取り上げているのはすごいですね。 しかし、それはパワフルさを生みもしましたが、ちょっと「自爆」気味に終わってしまったきらいもあります。 というのも、主人公はこの4つの「困難」に対して立ち向かおうと決意しますが、最終的に独りで「革命」を起こそうとしたのは、結果論で言えば一番対抗しやすそうな4番の「困難」に対する行動でありました。 では、残りの3つの「困難」に対しては、どう立ち向かうべきであったか。 それを考えた時、私は、最後の「違和感」にたどり着きました。 つまり、…… 例えば、『ライ麦畑で捕まえて』の主人公、高校生のホールデンは、 未熟であることで断罪されるか、 という私の中の問い掛けでした。 本書の主人公ジニは、私の中では、『ライ麦畑』の「ホールデン」の隣に位置していても、まずおかしくない主人公だと思います。 でも、彼女はやはり、何といってもまだ中学一年生にすぎません。 上記の残りの「困難」に対しては、私は学ぶことで立ち向かえる力をつける以外にないと感じます。 その時この作品は、パワフルではあるが、そのパワフルさの根源を主人公が幼いこと(未熟であること)に負っているのなら、やはり不満が少し残りはしないかと思いました。 でも、いい作品だと思います。 心がゾクゾクしました。 それは、感動したという事でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.07.08
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『山の音』川端康成(岩波文庫) 本当に久しぶりにこの小説を再読しました。 前回読んだのは、恐らく私が大学の二年生か三年生くらいだったと思います。なぜそんなことが分かるかというと、その頃本書を読んでこれを卒論にしてもいいかなぁと思ったのを、今も覚えているからです。 結局私は本書を卒論にはしませんでしたが(本ブログで何度か触れましたが、私の大学の卒論は谷崎潤一郎でした)、しかし今回改めて思ったのは、あの頃の私はどの程度この小説を理解していたのだろうかということです。だって、本書のテーマは、簡単にざっくり言えば「老境の疎外感」ではありませんか。せめてそれくらいは読みとって、その上で卒論にしてもいいかなーと私は思っていたのでしょうかねー。(もしもそうなら、それはそれでなんだかねじれたチョイスのような気もしますね。) さて私は、この度本書を読みながらあれこれ思ったり感じたりしていたのですが、上記に触れたようにこの小説のテーマが「老い」だとすれば、まず連想的に浮かんだのは谷崎潤一郎の小説『鍵』や『瘋癲老人日記』でした。そこで、特に『鍵』と本書について、幾つかの項目を比較しつつチェックしてみました。 『山の音』→ 昭和24年執筆・川端50歳・主人公設定60歳・日本男性平均寿命56歳 (ただし『山の音』は昭和24年から29年の執筆) 『鍵』→ 昭和31年執筆・谷崎70歳・主人公設定56歳・日本男性平均寿命64歳 どうですか。なんか、いろんな事が見えてきそうな比較ですね。 今回これらをチェックして私が一番におやっと思ったのは、『山の音』の方が先に書かれていると言うことでした。私は、逆のように、つまり『鍵』の方が先に書かれたように錯覚していました。 そしてついでに思ったのが、この順ならば、特に『鍵』の後の谷崎の『瘋癲老人日記』は『山の音』に触発されたのではないのか、ということでした。どちらも息子の嫁に対する恋心の話であります。 (と、思っていたらウィキペディアにやはりそんなことが書いてありました。中村光夫が同じ事を指摘したら、川端本人が「谷崎さんは読んでませんよ。そんなものは」と受け流した、と。うーん、なかなか魅力的なエピソードですね。) 再び上記の比較を見ます。やはり引っかかるのは『山の音』の主人公・信吾の年齢が60歳だということですかね。 信吾は会社重役か社長の設定ですが、その頃の男の平均寿命と比べるとかなり高齢に設定されていることに気が付きます。 仮に現在の平均寿命であてはめると、信吾は80歳台後半になってきますが、まだ現役で毎日通勤をしているあたり、ちょっとどこか非現実的な年齢のような気もします。(それともその頃は会社経営もどこかのんびりしていて、「社長も老後の名誉職」みたいなところがあったのかも知れませんね。今では信じられないような。) 実際のところ、信吾の精神状態は、ほぼ執筆時の川端の年齢(50歳)くらいのものが描かれているように思います。 では、何がそこに描かれているかと言えば、上記に触れた「老境の疎外感」でしょうが、これが本当に見事に描かれています。 そもそも本小説は16の章によって分けられているのですが(それが執筆された経緯は、いかにも川端的なものなのですが)、各章のエピソードの出し入れが何とも無手勝流で縦横無尽で惚れ惚れとします。 各章どこをとっても凄いのですが、冒頭の、少し前まで家にいた女中の名前を忘れてしまう話から、妻が小さないびきをかく話、庭の老木が新芽を出す話、縁の下で行われた犬のお産の話などなど、どれをとっても極めて小説的・象徴的であります。 私は読みながら何度か、現代の若手作家の描くエピソードの出し入れとどう違うのだろうかと考えたのですが、しかしなんだかよく分からないのですが、とにかく細やかさと滑らかさがまるで違うように感じました。 本書の場合は、エピソードが全然「段取り」ではありません。継ぎ目がありません。 うまく言えないのですが、読み手への感情の染み込み方が全く違います。水が砂に染み込むようなしっとり感が全く異なるように思います。 しかし、もちろんそこに描かれているエピソードは快いものではなく、老いの不安や死そのものをイメージするものがほとんどです。 特に強烈なのは、日常生活の中に突然何の前触れもなく姿を現す、裂け目のような老いへの無力感・疎外感のエピソードです。 これらの挿話は、どれを取っても本当にそれはそれは凄いのですが、例えば物語後半始まりあたりの「鳥の家」の章では、鳶の話から始まって蛇の話になり、そしていきなり息子の嫁の人工妊娠中絶の話に移っていきます。このエピソードの飛び石のような連想とリズム感は抜群で、ぐいぐいと読ませていきます。 そして、やはり川端作品といえば描かれる「エロス」(老境の男が息子の嫁に対して感じるという、これも実に川端的な不道徳的退廃的爛熟的そしてそれゆえの甘美極まる「エロス」)についても、本書においてはそれが「老い」の対照物として設定されている(「老い・死」に対する「生・性」)ゆえに、どちらへもの抜群の相乗効果を現し、凄惨なばかりの「エロス」となっています。 ……、さて、という風に私は今回本書を、やはりため息が出るばかりに惚れ惚れと読みました。(大学二、三年時の私もそうだったのでしょうか。) 本書は、戦後日本の小説の最高峰だと評価されるものであると、これもウィキペディアにありましたが、最高峰とは、本書が本当にとても小説らしい小説、堂々たる小説という意味であるのなら、全くその通りだと、私は思うばかりであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.07.01
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