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『マチネの終わりに』平野啓一郎(毎日新聞出版) 「失恋」という言葉がありますね。 あー、そういえば、若かりし頃、心ならずもこの語の現す事態に、何度も何度も引きづり込まれていたなぁ、と、わたくしは遠くを見るような眼差しで少し切なく思い出すのでありますが。 ふと、考えたのですが、失恋の反対語は何なのでしょう。 単純に考えて、「失」の反対だから「得」、つまり「得恋」、ってそもそもこの熟語はどう読んだらいいのでしょう。 ……っと、思ってまさかと辞書に当たってみたら、え、載ってるよ。 私の引いたのは、2003年初版の「明鏡国語辞典」ですが、こう書いてありました。 得恋=恋がかなうこと。恋愛が成就すること。「失恋」に対して造られた語。 ……ったく、最近の辞書は何でもありですなー。少しは節度という事を知っていてもらいたいものであります。 しかし、辞書にあったとしても、私の問題意識はちっとも解明されていません。 つまり、私の問題意識とは、「恋がかなう」「恋愛が成就する」とは、どうなった状態、どういう段階のことを言うのか、ということであります。 しかし、まー、辞書にあるくらいですから、昔よりいろんな方がこれについて考えていただろうことは間違いなく、例えば私だって昔こんなことを考えていました。 世の中には恋がかなった恋愛小説はない、と。 悲恋を描く小説なら星の数ほどもあるでしょうが、恋がかなってハッピーエンドのように見える恋愛小説のエンドマークの先に、「ま、しかし、この先どうなるものやら。」というつぶやきを重ねない小説はないじゃないか、と、私は密かに思っていたんですね。 いえ、本当のことを言いますと、私は私の読んだ小説(90%くらいは日本の小説ですが)の中で、一作だけこの言葉を呟く必要はないかもしれないと思った小説に当たっています。 それは谷崎潤一郎の『春琴抄』です。 その小説だけは、「この先どうなるものやら」という言葉に対し、たぶん鉄壁の守りを持っているように私は感じました。 しかし、谷崎の恋愛至上主義はかなり特殊でありますから(だって、あの、谷崎ですから)、これをもって恋愛小説のベストとは言いかねる部分があります。 さて、なぜこんな話になったかといいますと、考えれば本当に久しぶりに現代日本文学恋愛小説を読んだなぁと、私は、上記の本を読み終えて気がついたからであります。 いえ、残念ながら、私は本作がまれに見る大傑作の恋愛小説だと感じたのではありません。でも、私なりにはいろいろ考えることが多かったと、読んだ後、思いました。 それを本書の読後感と絡めてまとめますと、「本書は、恋愛の終わりを描いた小説なのかもしれない」ということであります。 「恋愛の終わり」とは、もちろん「失恋」では、ありません。 あえて言いますと、ハッピーエンドとしての「恋愛の終わり」であります。 でも、これが、まだ余りよく分からないんですね。 例えば本書の中に、ヒロインが離婚をする時(二人の間に小さな男の子がいることもあって)、元夫の男性から「僕たちはきっと、離婚してからの方がいい関係になれるよ。」と言われますが、私の言いたい「恋愛の終わり」はもちろんこれではありません。 少し前に読んだ村上春樹の『騎士団長殺し』の中に、妻に離婚を切り出された主人公が、最後に妻から「もしこのまま別れても、友だちのままでいてくれる?」と言われ、意味が理解できないでいるという場面がありましたが、そこから生まれる状況が、私の言う「恋愛の終わり」なのか、これもよく分かりません。(その後、作品の展開はそのようにはなりませんでした。二人がよりを戻したからです。) 実は少し恥ずかしい話なのですが、私はこの年に至るまで、恋愛は人生にとって、とても大切なものだと思い続けてきました。 それは、何も分かっていなかったティーンエイジャーの頃(今でも何も分かっていませんが)、何かの拍子に(きっと何かの文章で読んだ孫引きの引用でしょう)「恋愛は人生の秘鑰なり」という、わりと有名な北村透谷の言葉を読み、とても納得してしまったんですね。 そして、なんと、延々とそのまま現在に至る、と。(そんなことを言った北村透谷は、無責任にも二十五歳で自殺してしまったというのに。) そんな私が読んだ本書ですが、本書のラストシーンで、ヒロインとヒーローは、まぁ、私の言うところの「恋愛の終わり」といった状況に入っていこうとします。 しかし、常識的に考えると彼らは「恋愛感情」から「同士=友人感情」に、ゆっくり移行しようとしていると読めそうです。少なくない読者はそう読んだかもしれません。 また、少なくない読者は、プラトニックではない恋愛感情がいよいよ始まるのだと読んだかもしれません。 でも、もちろん私はどちらの読み方にも与していません。 では、それはどんな読みなのだと言われたときに浮かんだのが、「恋愛の終わり」であり、それは何かの始まりであると同時に、しかし「秘鑰」ではなくなった「恋愛」であるような気がします。 どーも、よく分かりません。(そもそも私の脳細胞が、そんなアバウトかつイージーな作りであります。) そんなことを考えました。 上記にもちらりと書きましたが、読んでいて、はっきり言ってこれはないでしょうと思うような展開や描写もあったように思います。かなりでこぼこのあるお話でした。(思うに、人格と音楽的天才の微妙な混乱があるように感じるのですが。) でも、上記に私は久しぶりに現代日本文学の恋愛小説を読んだと書きましたが、ひょっとしたら恋愛小説は、今でも可能性があるかもしれないとも思った小説でした。(だって、現代小説は「こじらせ」系の男女の社会不適応小説ばかりではないですか。でも、本書の主人公達も少し「こじらせ」系ではありますが。) どうでしょう。どなたかお考えいただけませんか。 ハッピーエンドとしての「恋愛の終わり」の具体的な姿を。 人ごとみたいにすみません。でも、「これからも友だちでいようね」系ではない、そしてさらに言うと、死によっても裏打ちされない「恋愛の終わり」を。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.10.29
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『鴎外闘う家長』山崎正和(新潮文庫) 鴎外についての本をあれこれ読んでいますと、「扣鈕(ぼたん)」という詩がいろんなところに出てきます。それを何度となく読んでいると、とても哀感があっていい詩に思えてくるのですが、本当にいい詩なんでしょうかね。 この詩は、『うた日記』に収録されているのですが、『うた日記』は明治37年から38年にかけて鴎外が日露戦争に従軍した時の、陣中で手帳に書きつけた詩歌俳句を、月日順に編み明治40年に発行した書籍です。 南山(なんざん)の たたかひの日に 袖口の こがねのぼたん ひとつおとしつ その扣鈕惜し べるりんの 都大路の ぱつさあじゆ 電燈あをき 店にて買ひぬ はたとせまへに えぽれつと かがやきし友 こがね髪 ゆらぎし少女 はや老いにけん 死にもやしけん はたとせの 身のうきしづみ よろこびも かなしびも知る 袖のぼたんよ かたはとなりぬ ますらをの 玉と碎けし ももちたり それも惜しけど こも惜し扣鈕 身に添ふ扣鈕 どうですか。「ぱつさあじゆ」とか「えぽれつと」とか、現代ならカタカナで書かれるだろう単語が平仮名で書かれているためにノスタルジーが募って哀歓が漂うのだとすれば、同時代の感じ方とは異なるように思え、本質としてこの詩が持つ切ない美しさではないような気もして、どうもよくわかりません。 ところで、この詩がなぜ鴎外を説く文章に再三顔を出すかというと、それは第3連の「少女」が、鴎外の処女作『舞姫』の「エリス」のモデル問題に大いに関係するからですね。後述しますが、「エリス問題」は、鴎外を理解する生命線の一つです。 鴎外について、特にその伝記めいたものを説く本を何冊か読むと、これは私の偏見なんでしょうか、どんどん鴎外が嫌いになってくるのを止められません。 その理由は、3つです。(自分でもどうも困ったので、なぜかと考え3つにまとめたのですが。) 1.「エリス事件」でのドイツ女性への不誠実。さらには、それに関連する最初の妻の赤松登志子との結婚に対する無責任さ不誠実さ。 2.初期文学活動中の、さまざまな論争における権威主義と衒学趣味。論争相手に敬意もなく、勝てばいい式の自己愛的な仕方。 3.「脚気問題」における当該責任者としての、目を覆うような誤った権威主義的観念的主張と責任逃れを免れない指示。また、それに対する後日での無反省ぶり。 ……うーん、こうして改めて書くとますます鴎外が嫌いになってくるのですが、しかし、今更説くまでもなく、筆者の人間性と作品の芸術性とは、基本的に別のものですよね。 まぁ、ただし、「基本的に」ではありますが。 例えば、太宰治なんて人は、そんな人柄の人が近くにいたらちょっと引いてしまうような人ですよね。中原中也なんて、もっとそんな感じの人でしょ。宮沢賢治なんかもそうじゃないですか。 であるなら、鴎外が、人格として権威主義的衒学的、実はかなりキレやすく、上から目線の「ドーダの人」(この「ドーダの人」というのは、鹿島茂の言い回し)であっても、いい文学的作品を書けばそれでいいじゃないかと思うはずですが、どうでしょうか。 これも私の今までの誤解のせいでしょうか、私の中では、鴎外作品は、筆者が人格的に優れているから芸術性が高いのだいう、なんか鴎外と鴎外以外と、ダブル・スタンダードな考えを持っていたような気がします。 それがここになって急に、筆者の人格は中原中也並みにひどいけれど、作品はこんなにいいんだからそれでいいじゃないかと言われても、……えー、少し困ってしまうんですがねー……。 (もっとも、鴎外の日常は、例えば中也の日常などとは多分「月とスッポン」くらいの違いはありましょうし、また、そもそも太宰・中也的人格欠陥と、鴎外の「嫌な」人柄は、質的にはかなり違っていますが。) 例えば鴎外の珠玉のような短編小説。「じいさんばあさん」「最後の一句」「羽鳥千尋」などなど。 冒頭の本書において山崎正和は、それは鴎外が「闘う家長」を描いているからだと説きます。そして、なぜか「闘う家長」の姿は、鴎外の中で女性それも年端のいかない女性の姿で描かれる時がより魅力的だと分析します。 なるほど「山椒大夫」もそうであるか……。 「舞姫」に、ドイツ留学した主人公豊太郎が「奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり」と、自我の目覚めを説くシーンがありますが、作品の終盤ではその自我が「こは足を縛して放たれし鳥のしばし羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらず」でしかなかったことを、鴎外はとても入念に描いています。 この「自我の不在」こそが、実は生涯の鴎外の課題であったと説いたのが本書の大きなテーマです。 そして、そんな「自我」のない状態で、人はどうして生きていけるのかについての鴎外の方法論を、一言で解明したのが「闘う家長」という概念でした。 とても見事な展開です。 そもそも鴎外の「闘う家長」には、人間の無力感を描くイメージがあります。 それは「最後の一句」「山椒大夫」「高瀬舟」などの作品中の「家長」象だけでなく、例えば鴎外が樋口一葉に示した強いシンパシーがこれではなかったかと説く筆者の直感には、思わず唸ってしまう鋭いものがあります。 さて、上記に私は、3つの鴎外が嫌だなという理由を(私の勝手な理由を)挙げました。 しかし現代に至ってなお、個人が、国家や世界の中で生きていく時に終生求めねばならないアイデンティティを、自らの人生の蹉跌と共に語ったのが鴎外の作品であるならば、それを描く筆者は、やはり我々の先達というに足る、偉大な文学者でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.10.22
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『騎士団長殺し・第1部第2部』村上春樹(新潮社) 1.妻の離婚請求の謎→未解決 2.雨田具彦の変貌(人柄・画風)の謎→詳細は未解決 3.「騎士団長殺し」の絵の謎→未解決 4.免色の生き方(黒歴史)の謎→詳細は未解決 5.宮城県の女とスバル・フォレスターの男の謎→詳細は未解決 6.鈴の音の謎から騎士団長の登場 村上作品読書報告の後半です。 前回の最後に、騎士団長が登場するまでの本書の「謎」の主だったところを取り上げてみましたら(上記)、その謎はほとんど最後まで読んでも解明されていないという事がわかりました。(上記箇条書きの「→」の後の部分です。) つまり、基本的にほとんどのストーリー上の疑問点は、その後解決されることもなく、謎のままにほっぽり出されているということです。 というか、「6」にあたる一番大きい騎士団長の登場の謎が謎のままになっている以上、本文中にも同種の表現がありますが、「この世界は何が起こってもおかしくない世界」になってしまっていて、それ以降、「私」には、今までの謎を謎として捉える関心興味がなくなってしまっています。謎が謎じゃなくなっています。 確かに、もしも現実に「6」のようなことが起これば、ほかの謎は吹っ飛んでしまって、どうでもよくなっても仕方ないといえば仕方ないですよね。(しかしそんな世界を「地下二階」のフロアというのでしょうか。でもそれって、ちょっと都合よすぎませんか。) それでは「6」に至るまでの次々に起こった謎とは何だったのか、例えば最大の謎の騎士団長の登場にしても、登場までは即身仏の話とか上田秋成の『春雨物語』などを出してきて引っ張っておきながら、騎士団長が登場するや、彼はどんどんユーモラスな存在になっていきます。 それはまるで、良くいっても『ファウスト』のメフィストフェレス、いえ、のび太君のドラえもんともいえそうな、さらには、奥様は魔女とか、しゃべる馬とか、ドリトル先生のポリネシアなどまでアナロジーを許しそうなキャラクターであります。 つまり、騎士団長登場に至るまでの一見スリリングな謎とは、そもそも「幽霊の正体見たり」であって、もはや何でもありの世界が登場してしまうと、はったりこけ脅しのたぐいの筆者が読者の興味を誘導していただけの本質のない謎に過ぎなかった、……とまでは、……うーん、少し言いすぎですかねぇ。 初読の時は、きっと私ははらはらしながら読んでいたはずですものねぇ。 さて、とにかくそんな騎士団長は、作品の中に登場してしまいました。 しかし、……やはり、どうなんでしょう。この存在は、あまりといえばあまりに不可解すぎませんか。上記に私は、村上作品に意味を求めてはいけない(特にストーリーに関して)と書きましたが、それでもあまりに無意味すぎませんかね。 そもそも、この騎士団長はいったい何のために作品に出てきたのか、これについても、最後まで読んでもさっぱりわかりません。試しにこの騎士団長がしたこと(登場人物にさせたこと)を挙げてみますと、この二つでしょう。 1.自らを殺させることで、「私」を「地下巡り」に誘った。 2.免色邸で「まりえ」にアドバイスをした。 多分この二つだけだと思います。 まず「1」について、「私」が騎士団長に助けを求めたのは「2」の「まりえ」失踪の解決のためですが、「私」の「地下巡り」が「まりえ」失踪の解決にどれだけ役に立ったのか、まるでわかりません。(思うのですが、解決に役立ったというのなら、もう少しその接点を、それこそほのめかしてもよかったのではないでしょうか。) 次の「2」についても、騎士団長は「まりえ」を激励しアドバイスを与えますが、そもそもそんなアドバイスを与えなければ(決定的なのは、女中部屋に隠れていれば見つからないと言ったことでしょう)、「まりえ」はずっと早く免色に見つかり、少々ばつの悪い思いもしながら、それでも4日間も行方不明になるなんて馬鹿げたことにはならなかったでしょうし、あるいは、彼女の母親についての大切な情報を、免色から聞けた可能性だってありそうです。 ということは、騎士団長は、(関西弁で言うところの)「いらんことしい、いらんこと言い」ですか。いえ、上記の二つをセットで考えれば、彼こそこの失踪事件の「マッチポンプ」、首謀者ではないでしょうか。 それではそんな騎士団長を、我々はどう考えればいいのでしょう。 かつて村上小説には、かなり初期の段階からいわゆる「非存在」なものが再三姿を現してきました。 その代表は、羊男でしょうか。これは、基本的には騎士団長と同じでありながら、小説内での「意味」は明らかに大きく異なって、強烈な存在感と影響力を持っていました。 考えてみれば、上記に「マッチポンプ」と書きましたが、本書で騎士団長が殺されねばならなかった原因は、いわば「まりえ」の失踪であり、でもそれはそもそもローティーンのちょっとしたいたずら心(関西弁で言うところの「いちびり」、あるいは子供の好きな「探検」?)によるものではありませんか。 そんな軽々しいものによって出刃包丁で殺されてしまう騎士団長という造形は、思えば、羊男の存在感といかにかけ離れていることでしょう。(考えるほどに騎士団長は、卑小というか何というか、なんか、情けないかな。) 小説の中の非存在を信じることは、言うまでもなく快い小説鑑賞にとって、とても有効な手段です。しかし、その非存在が描かれたイメージに、深みや広がりがあまり感じられないとすれば、その非存在とは何なのでしょうか。 作品として、高い評価のできるものなのでしょうか。 「意味を問うな」というのなら、別にそれでもかまいません。 しかし、羊男は信じるに足りても、騎士団長については、信じる以前のところで戸惑ってしまう読後感を、この度の私は抱いてしまいました。 クラシック音楽の本を読んでいると、「説得力のある演奏」という言葉が結構出てきて、私のような素人でもなんとなくこの言葉のニュアンスはわかります。 それはとても説明のしにくい言葉ではありますが、音楽を聴いての実感としては、とても納得できる感覚です。 ひょっとしたら村上春樹は、読者に望む自らの小説の評価として、この言葉を抱かせたいと思って作品を書いているのではないとまで、ふと、私は思っています。 作品から意味を離れて、ただ読者を「悪いようにはしない」とすれば、この「説得力」という評価は、なかなか重要な指標だと思います。 ところが、今回の読書は、私にとって微妙に説得力の感じられなかった読書でした。 ……うーん、オールド村上ファンの私としては、誠に残念であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.10.14
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『騎士団長殺し・第1部第2部』村上春樹(新潮社) この本の読書報告は2回目です。 2回目というのは、連続としてのものという意味ではなく、本ブログに2回別々の感想文を書いた、という意味ですね。ついでに、わたくし本書は2回目の再読になります。 前回、本書の読書報告をした時、同時期に出版された村上春樹のインタビューの本について、かなり面白かったもので、何だかそれが中心の報告になってしまいました。 今回も同じインタビューの本をパラパラと読んでいたら、やはりとても面白く、これはいけないこのままでは前回と同じ展開の読書報告になってしまうと思い、読むのをやめました。そして、単独に小説そのものの読書報告を書こうと思ったんですね。 でも今回も、報告のきっかけについてだけは、記憶をたどってインタビュー集の中の筆者の言葉を取っ掛かりにしたいと思います。 筆者は小説を書く時、全体のまとまりとか、各部の意味とかを全く考えないでまず第一稿を書くと言っています。 しかし、そんなことをしていたら脈絡がなくなってしまわないかというインタビュアー(作家の川上未映子です)の質問に対して、筆者は、自分もそれなりの作家キャリアを重ねてきて、読者に対していわば「悪いようにはしない」というポイントだけは押さえていると答えています。 この「悪いようにはしない」の具体的なものは、例えば何なのでしょうか。 期待を裏切らないという意味で考えるなら、私にとって、村上作品が一番に期待を裏切らないのは、主人公の性格設定です。 私にとってこれは多分間違いありません。私は、村上小説は『風の歌を聴け』以来ほとんどを読んでいますが、読んでいて快感を覚えるものの第一は主人公の人柄であり、そしてそれに基づく生き方であります。それを少しまとめてみますね。 1.ストイックさ。我慢強さ。欲望、特に物欲の少なさ。自分なりの価値判断はあっても偏ったこだわり方はしない。 2.頭の良さ。明晰さ。整理能力の高さ。一人で生きるある種の能力の高さ。加えて様々な事柄に対する知識量の豊富さ。 3.そして、美人とのふんだんなセックス。(これは人柄ではありませんが、あえていえば魅力ですかね。) こう並べてみましたが、どうでしょうか。考えれば、確かに村上作品の主人公は、一貫してこのパーソナリティを裏切っていないように思います。(「3」はちょっと作品による違いはありそうですが。) でもそれって、本当にいいことなんでしょうかね。 文学的な話なんでしょうか。(歌手なんかは、新しいアルバムを出す時あまりに前作と比べて「新境地」の曲ばかりを並べないと、どこかで聞いた気がしますが。) 「悪いようにはしない」は、ストーリーについてもいえそうなところがたくさんあると思います。 まず、これも村上春樹がインタビューの中で言っていたことですが、自分は登場人物の「近代的自我」のようなものは(「地下一階」と筆者は表現しています)、書きたくない。書きたいのはその奥の(「地下二階」と書いてあります)「無意識」「集合的無意識」といった領域だ、と。 そういわれれば、村上作品定番の「井戸」とかは、そんなもののメタファーのような気がしますね。これも「悪いようにはしない」の一つなんでしょうか。 しかし、私は今回そんなことも考えながら読んでいて気づいたのですが、確かにストーリーにおいては「地下二階」のような展開、つまり「意味」とかを求めないものになっていると読めそうです。 ただ実際に、読者に対して「悪いようにはしない」と迫ってきそうな個所は、例えば本書でいえば、妻の「ゆず」との再生活に至るやり取りの部分であり、これは「地下一階」の「自我」フロアの話ではないのでしょうか。 「私」が「ゆず」ともう一度話し合おうと決心したのは、「私」が「地下巡り」を経験することで、自分の「ゆず」に対する欲求=自我のありかを自覚したからではないのでしょうか。 つまり、「集合無意識」に寄りかかって展開した部分は、実は「悪いようにはしない」には当たっていないことを、筆者は本当は分かっていてわざとそんな風に言っているのでしょうか。 さて、そんな「無意識」のようにどんどん進んでいくストーリーですが、冒頭にも書きましたように、私はこの度の読書は再読で、ストーリーについては、かなり穴あきでしたが割と覚えていた状態で読みました。 そうすると、やけに気になったのは、謎の多さでした。本当にこれでもかこれでもかと、出てきます。なんだかまだ食べている途中にどんどん次の料理が出てくる、時間制限付きのコース料理のようです。 前半のクライマックス騎士団長の登場までで、ちょっとどんな謎が出て来たのか、少し書きだしてみます。(小さな謎は見落としているかもしれません。) 1.妻の離婚請求の謎→未解決 2.雨田具彦の変貌(人柄・画風)の謎→詳細は未解決 3.「騎士団長殺し」の絵の謎→未解決 4.免色の生き方(黒歴史)の謎→詳細は未解決 5.宮城県の女とスバル・フォレスターの男の謎→詳細は未解決 とあって、そして満を持して、 6.鈴の音の謎から騎士団長の登場 となるのですが、すみません、……えー、もう少し詳しい報告は、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.10.06
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