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『死霊Ⅰ』埴谷雄高(講談社文芸文庫) ……うーん、やはり。 ……やはり、第一次戦後派のあたりが弱い、な、と。 ……えっと、何の話かと申しますと、ははん、とお気づきの方もいらっしゃるだろうと思いますが、わたくしの近代日本文学読書傾向の弱点のことですね。 今を去ること10年ほど前に、何の間違いか、よしこれからは明治以降の日本文学、特に小説をしらみつぶしめった切りに、ブルドーザーの如くことごとく読んでくれるわ、と、わたくし、なんか錯覚した計画を立てまして、まぁ、それでもその後は地道にコツコツと読んでまいりました。 でも自分でもわかっているのですが、どうしてもいくつかの流派・時代の作品があまり読めていないんですね。 その一つが、いわゆる第一次戦後派と呼ばれる方々の作品です。 なぜ読めないかの理由も大体わかっています。 あまり積極的に手を出そうかという気にならないんですね。やはり、いかにもまじめで重苦しそうであります。 でも本当は、えいやっと思い切って読み始めたら、きっとさほど面白くないこともないんじゃないか、というあたりまでもわかっています。(さらにわたくし、密かに思うのですが、ここまでわかるのって、実は結構大変だと思うのですが、どうでしょうか。) そんな第一次戦後派の、いわば飛車角とでも言うべき作品が、今回の『死霊』であります。(ちなみに、今私は「飛車角」と書きましたが、どちらが飛車でどちらが角なのかもわかりませんが、その一方の作品を何と考えているかと言いますと、やはりあれですかね。野間宏『青年の環』。) というわけで『死霊』でありますが、今回はその「Ⅰ」だけであります。 この後続けて読んでいく、……という計画は、実は今のところ立てていません。 はっきり書くと、まー、この一冊でいいか、と。(本音は、読むのが結構ツライ!) そもそも私がこの作品を初めて知ったのは、たぶん高校3年生か、大学1年生あたりじゃなかったかと思い出すのですが、その頃「死霊第5章」が四半世紀ぶりに書かれたと話題になり、第1章から第5章までをまとめた単行本が出版されました。 私は、その新刊の『死霊』を本屋で手に取って、買おうか買うまいか、かなりじーーと迷ったのを覚えています。 なぜ迷ったかは、この小説が極めて難解であるという書評などを読んでいたからですね。 今では、自らの脳細胞が複雑な思考には全く耐えられないことを自覚していますが、それなりに突っ張っていたその頃の私も、自分の脳細胞はかなりできが悪いんじゃないかということに、やっと薄々気付き始めたのでした。 そして、この小説は私には理解できそうもない、と。 で、手に取っただけで買うこともなく月日はあっという間に流れ、この度読もうと意志するに至ったのは、なーに、簡単な話であります。 あの時一冊に5章まであったのが、3章で一冊になっていたからですね。 これくらいの分量なら難しくても、理解しようなんて思わなければ読みきれるのではないかと、まー、年を取って私という人間がかなり軽薄になってしまったわけですね。 そして読み始めると、えらいもので、その通り読めてしまいました。 そして読後、私は、考えました。 結構面白かったんじゃないか、と。 いえ、書かれてあることのほとんどがわかっていないのは間違いありません。 ……どれ、今日も少し読んでみるかと、手に取って読み始めて数分したら寝ている自分に気が付いたことも再三あります。 しかし、にもかかわらず、やはりこの小説には、間違いない、そんな私にもわかる魅力がある、と。 それを、本書の極めて「表面的」読書が終わった後に、考えてみました。 かつて澁澤龍彦が、本書は難解ではないと言ったとか聞きますが、まー、澁澤とか三島とか、あんなある意味特殊な脳細胞を持っていた人の感想はともかく、でもしかし、たしかに難しく書かれてあるわけではありません。 そもそもがストーリーがあってないようなものだから(まして3章までですから)、途中で居眠りしながらでも、これはそんなものでいいのだと居直ってしまいますと、結局ずっといろんな人物が論争しているだけのお話なんで、居眠りから目覚めてそのままに字面を追い直して、それなりに読めてしまうわけですね。 話は少し飛ぶのですが、うちのそばの図書館のホームページで『死霊』を検索してみましたら、山のように解説書らしいものがあることがわかりました。 なるほど、こんなのを何冊かでも読めば、より深い理解ができるのだなと思いましたが、でも少し考えて、やめました。 なんか、少し違うんじゃないか、と思ったんですね。 ただこの度一冊だけ、解説書ではありませんが、埴谷雄高がらみでこんな本を読みました。これはむかーし、私が古本屋さんで何となく買った本です。 『さびしい文学者の時代・「妄想病」対「躁鬱病」対談』 埴谷雄高・北杜夫(中央公論社) たぶん私はこの対談集を、北杜夫への興味で買ったのだと思います。でも買っただけで読んでいなかったのを、この度『死霊Ⅰ』を読みつつ間に挟んで読みました。 とっても面白かったです。 埴谷雄高が、『死霊』執筆に絡んだ解説めいたことをたくさん述べています。 自分はこんなつもりで『死霊』を書いた、書いている、書くつもりだ、といったことですね。(ちょうど第7章を書き始めてちっとも進まないと述べています。) その、エピソードがとても面白い。 人類の「最後の審判」の話。「無限」について。死んでも成長し続けるという事について。のっぺらぼう、とは。などなど。 そして、実際に『死霊Ⅰ』を読んでみると、そんな話が書かれてあるんですね。(私の読んだ範囲ではまだ書かれていない話題もありましたが。) そもそも作品が始まって少ししたところに、「自同律の不快」なんてテーマが出てきます。はじめの部分だけじゃなくその後も再三出てくるのですが、このテーマが、やはりとっても興味深いではありませんか。 「俺は、俺である」と呟くことがどうしてもできない、そう呟くことは名状しがたい不快であるなんて、いわれてみれば、とてもキュートな問い掛けであります。 で、わたくし考えてみました。そしてトイレで、ふっと思いつきました。 この興味深さは、そうだ、これはほら話ではないのか、と。 そうだそうだ、これはほら話の面白さと同じだ、と思い至ったのであります。 筆者埴谷雄高は、完全に昼夜が逆転して、そして幾晩も幾晩もひたすら「妄想」し続けたそうであります。 その妄想の結果が、ほら話でなくて何でありましょうか。 きっと本書の、難しい哲学的な文芸評論めいたものは、すでにたくさん出版されているのでしょう。 しかし、『死霊』とは、わたくし、この度、3章を読んだこの時点においては、ほら吹き爺さんのほら話である、とまとめさせていただきました。 今後、その変更はあるのか、それについては、申し訳ありませんが、何とも予測がつきません。 しかし「ほら話」ということで言いますと、最近ほら話のように読者に夢を見させてくれる小説は極めて少なく貴重なのだがと、敵前逃亡意識も少し持ってもいる私は、ぼそっと呟いたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.09.26
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『ポトスライムの舟』津村記久子(講談社文庫) 休憩終了のベルが鳴り、ラインが動き始める。休憩前よりは軽く感じる手を上げて、流れてきた一本目の乳液のキャップを固く閉めて、表裏上下とひっくり返して確かめ、再びコンベアに戻す。これから約二時間、ナガセはそれだけをする人間になる。 (略)工場の給料日があった。弁当を食べながら、いつも通りの薄給の明細を見て、おかしくなってしまったようだ。『時間を金で売っているような気がする』というフレーズを思いついたが最後、体が動かなくなった。働く自分自身にではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる。時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分の生の頼りなさに。それを続けなければいけないということに。 主人公「ナガセ」は、三十歳を向かえる独身大卒女子です。大学卒業後最初に勤めた会社で激しいパワハラにあって離職。組織の中で働くことにトラウマを持ち、契約社員としてラインの仕事をしているという設定です。 二つ目の引用の部分の後、彼女が腕に「今が一番の働き盛り」という文の入れ墨を彫ろうかと考えるという描写が入ります。上記の引用文にあるラインの作業に入ると、手を動かすかものを考える以外何もできなくて、えんえんとそんなことを考えてしまうという展開です。 さて、本書は、2009年前期の第140回芥川賞を受賞した作品です。 ネットでちょっと調べると、選考委員の山田詠美が選評に「『蟹工船』より、こっちでしょう。」と書いたとあります。 突然の『蟹工船』ブーム、ありましたねー。 そーか、本作はちょうどあのころの作品なのかー。 と、ちょっと感慨にふけり、さらに考えてみたら、じゃあ本作は、あの時期以降現在に至るまで、芥川賞受賞作品に連綿と続いている、齢30代あたりの女性の社会不適応小説の先駆けであったのですね。 そういえば私も覚えているのですが、ちょうどそのころ精神科のお医者さんの講演会に行ったら、その女医さんがこんなことをおっしゃっていました。 最近私は、たまたま30代後半の3人の女性のカウンセリングを続けてした。 1人目は、独身のキャリアウーマンで、こうして15年近く脇目も振らずに働いてきたがふと私の人生とは何だろうかと悩む、と。 2人目は、結婚して子供もいて仕事にもついている女性で、日々仕事と育児に追われっぱなしではて私の人生とは何なのか、と。 そして3人目は、専業主婦で、夫と子供のために私の人生は…… ……と、以下はお分かりと思います。 悩みの原因は三人三様でありながら、その根幹は、共通して現代社会で女性が生きることの存在論的違和感でありました。 またそういえば、『アンナ・カレーニナ』の冒頭は、幸せな家族は一様に同じだが、不幸な家族は実に様々な理由で不幸である、といった文じゃなかったかと思い出します。 そしてそれに加えての、「蟹工船労働」であります。 しかしつくづく思うに、いつの間に日本の若者を取り巻く労働環境は、これほどまで人間疎外になってしまったのでしょうか。 いえ、若者だけのことではありませんね。「ライン」に準ずる仕事が、非正規の労働者に割り当てられるものならば、その割合は全労働者の40パーセントに年々近づこうとしています。 そんなのは昔からだ、という声も聞こえそうです。 言われてみれば冒頭で引用した描写は、そのままチャップリンが『モダンタイムズ』で描いた「ギャグ」としての職場風景と同じではないですか。 なるほど、フォード社がオートメーションで自動車を作り出した時代まで遡る、ということですか。 でも、例えば織田作之助の『夫婦善哉』のあの昭和初年の夫婦も、いろんな店を作っては壊し、作っては壊ししていたと記憶しますが、人間疎外の労働とは書いてなかった、いえ、読めなかったはずです。 ……と、いう風な小説です。 しかし、というか、にもかかわらず、というか、本書の読後感はさほど悪くありません。 それは、筆者が最後に、主人公に小さな幸福感を与えたからでしょう。具体的に書きますと、一定量のまとまったお金を手に入れたこと、そして、崩していた体調が回復してきたこと(つまりきわめてフィジカルな理由)です。 それともう一つ、筆者の、視点の低い控えめな描写と適度なユーモア感覚の漂う文体が、この小さな幸福感をもたらしていることは見落とせません。(しかし考えれば、文章力にこの2つがあればほぼ最強という気もしますが。) しかし、しつこくしかし、わたくしとしては、本当にこれでいいのかという思いが、無いものねだりなのかもしれませんが、します。(そもそもこの人間不在は、きわめてメンタルなものであるはずでしょう。) これだけ徹底した人間不在の労働環境に、かなわぬまでも一太刀なりと浴びせるような小説を、最近の若い作家の中では一番私が気に入っているこの筆者に、ぜひとも書いていただきたいと願うものであります。 ぜひ。よろしく。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.09.17
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『パンク侍、斬られて候』町田康(角川文庫) 冒頭しばらくして本書の重要な登場人物(というか、と「登場集団」)の「腹ふり党」の説明が出てきます。本作品は2004年に単行本として刊行されていますが、「腹ふり党」のモチーフとしてあるのがオウム真理教であろうことは明らかながら、こんな風に書かれてあります。 醜道乱倫才という男が岐阜羽島で結党した腹ふり党は結社風の名前ですが完全な宗教団体です。腹ふり党の党員達はこの世界は巨大な条虫の胎内にあると信じています。彼らにとってこの世界で起こることはすべて無意味です。彼らが願うのは条虫の胎外、真実・真正の世界への脱出であり、その脱出口はただひとつすなわち条虫の肛門です。 ……うーん、何と言うか、やっぱりすごいですよね。 何がって、この「妄想力」は実に町田康ワールドで、さっぱりわけが分かりません。 なるほど、今後こんなコンセプトで描かれる作品世界なのだなということで、読み始めた私はとりあえず、これはいわゆる「無意味」とか「荒唐無稽」に対して我々はどれだけ物語を展開していけるか、読んでいけるか、という小説なのかなと感じました。 そういえば太宰治の初期の佳作「ロマネスク」という小説は、たぶんそんな話ではなかったかと思い出しながら。 しかし、……いえ、それは間違ってはいなかったと思いますが、ただ、「ロマネスク」は短編小説で、そのモチーフだけでは長編を支えきれませんでした。 そこでお話を読み進めていった私は、徐々に気が付いていくんですね。 そうか。これは世界のカタストロフを描く小説だと。 例えば、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』『希望の国のエクソダス』などや、中島らもの『ガダラの豚』なんかですね。 なるほど、頭の中で一連のそんな作品と比べながら読んでいくと、本作はなかなかとてもよくできた話だと、私はどんどん感心していきました。 というのも、このカタストロフを描く小説は、わたくし、まとめ方が結構大変だと思っていたからです。 上記に上げた小説も、私は終盤失速したんじゃないかと思うのですが、それは逆に、この手の話をまとめるのがいかに難しいかということの証明でもあるように感じられます。 例えば、主だった登場人物の出し入れが、かなり難しくなると思うんですね。 本作品でも、たぶん主人公といっていい「掛十之進」という武士は、登場してきてしばらく(黒和藩出頭家老内藤帯刀と出会うまで)が一番魅力的に描かれ、後に行くほど主人公としての存在感がなくなっていきます。 今あげた内藤帯刀にしても、始めは切れ味の良い水際立った内面を表していたのに、話が進むにつれてどんどん凡庸な人物になっていきます。 それはきっと、大きな世界が壊れようとしている状況が進行していくと、登場人物一個人ではとても支えられなくなるからだと思います。 ふっと思ったのですが、これは鳥山明の『ドラゴン・ボール』の世界と一緒だな、と。 つまり後からの登場人物(=ライバル)になるほど、「戦闘値」が恐ろしくインフレになっていくんですね。 本書でいえば、結局最後に高い「戦闘値」を持って残るのは、言葉を話す猿の「大臼延珍」と、腹ふり党復活後の党首・茶山半郎でありましょう。 そして本作では、この二名についての物語としてのまとめの付け方は、それなりに巧みだと(感心するほど巧みだとまでは感じませんでしたが)、私は思いました。 加えて、本書が奥行きのある物語になっていると私が感じたのは、二重三重に張り巡らされた、物語自体に対する、何といいますか、疑問、逡巡、抵抗感、違和感、不信感の描写であります。 例えばこんな表現、これは言葉を話す猿が戦闘中につぶやくセリフです。 「でもあいつを射殺したからといって事態がどうにかなるわけじゃないよね。人間があんな爆発を起こしうるということ。猿の俺がこうして喋っているということ。何万の猿と何万の人間がこんな嘘臭い河原で無意味に争っているということ。それらのことの根源にかかわる問題をきちんと解決しないとどうにもならない。でもあいつらは当面の問題の処理にばかり終始しているんだ!」 こんなモノローグの意味するものは、世界のすべての価値に対して拳を振り上げているような本書の展開とも軌を一にするものでしょうし、ひょっとしたら本当のところ私はよく知らないのですが、ロックンローラーでもある筆者にとっての「パンク」の精神でもあるのでしょうか。 そもそも自分が書いている小説世界の成り立ちに対して、盛り上がるその一瞬に冷や水を浴びせ熱狂を醒ましてしまう記述は、かねてより町田作品には見られるものですが、一つ間違えれば悪ふざけの塊のように見えかねない描写の中で、逆に作品世界の重層性を裏打ちするしたたかさを表現し、手練れな筆者の書きぶりを示しています。 ……そんな小説です。私は一気に読みました。快作です。 ただひとつ、読み終えた後、ふとあれはないのかと思ったことがあります。 それは、カタストロフを描く中で、筆者は残酷さやグロテスクなど様々な要素をふんだんに盛り込みながら、本作には最後までエロスが登場しませんでした。 批判の対象としてのエロスも、世界を批判するためのエロスも登場しません。 これはいったいどういうことでしょうか。 いえ、おそらくそれは筆者の問題として、また別の作品を読む時に、読者が考える材料となるものなのでありましょうか。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.09.08
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『伯爵夫人』蓮實重彦(新潮文庫) もうこの小説が発表されて3年にもなるのですね。文庫にもなってますし。 新潮文庫の裏表紙の文章に、こうあります。 東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で突如発表し、読書界を騒然とさせた三島由紀夫賞受賞作。 と、本作のスキャンダラスな状況が一応説明(上記の引用文だけでは、半分だけですが)されています。 スキャンダラスな理由の一つは、「東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で突如発表」という、そのまんまの部分です。 何といっても東大総長までしていた方ですから、功を成し名を遂げたそんな方でも、やはり小説を書きたいんだという(下記の「二つ目」に比べれば少し地味な感じの)驚きですね。 私はこの本のことを知った時、ふっと文芸評論家中村光夫のことを思い出しました。 中村光夫は私の好きな評論家の一人ですが、大学時代から文芸評論を発表し、長く芥川賞の選考委員もして、その間発表した『谷崎潤一郎論』や『志賀直哉論』では、大家をぼろくそにけなすような内容の評論で、そして、52歳で初めて小説を発表した方です。 中村光夫が小説を発表した時も少し話題になりましたが、私は、えっ、あの文芸評論家が、という程度の感想でしたが、やはり否定的な意見もけっこうあったようです。 幾つになっても、どんな人生キャリアがあっても、人は小説を書きたくなるのでしょうか。そういえば、村上龍が、小説家はターミナルの職業だと書いていたのを思い出します。様々な職業を経験して人は小説家になるが、小説家から次のキャリアに移る人間はほとんどいないという内容だったと思います。そうかもしれません。 二つ目のスキャンダラスの理由は、この小説の量的な割合で言いますと、たぶん3/4くらいが性描写であるということです。やはりこれが、この度の「話題」の中心でしょう。 シンプルに考えても、(しつこく)「東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で」こんな性的な話をよく考えているものだという驚きというか、うーん、まー、何というか、少々週刊誌的に言えば、少し気味が悪い、と。 (いえ、これは撤回しなくてはいけない表現ですかね。「性描写」をするのにもちろん年齢制限はありません。) で、そんな作品が三島由紀夫賞に選ばれたんですね。 以前私は、又吉直樹の芥川賞受賞作『火花』の読書報告で少し触れたように思いますが、本作(『伯爵夫人』のこと)についても、著者名著者経歴を完全に覆面化しても果たしてそのまま受賞したのだろうか、と。 ただし以前書いたように、この仮定は、仮定に過ぎないという意味でほぼ無意味です。つまり、事実としてその著者の作品が受賞しただけだ、と。(賞とは本来そういう結果論だ、という解釈ですね。) という本作を、この度読みました。 で、私としては、早い話ー、よー分からんのですね。 何がよー分からんのかと言えば、ちょうど三島賞受賞という事で、三島由紀夫に関連して考えてみたいと思います。 三島由紀夫の絶筆となった文芸評論『小説とは何か』の最終章に(つまりほぼ自殺が意志されていた頃に書かれた文章に)、小説は動物園で見たミナミ象アザラシの如きものであると書かれています。 そしてその説明が書かれてあるのですが、簡単にまとめますと、ただ存在しているだけということが表す存在の無意味性、といったところでしょうか。つまり、存在だけに意味があってそれ以外には意味がない、という事ですかね。 (こうまとめると、この小説の定義は、遺作『豊饒の海』最終巻『天人五衰』のラストシーン「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」という表現に共鳴していることがわかりますね。) ……えー、本線に戻りますが、私は本書を読んで、そんな感想を持ちました。 これは一体なんだと考えたところで、多分考えても仕方がないものがここにある、と思ったんですね。だから「よー分からん」と上述しましたが、あらゆる評価をすり抜けて本作が存在しているだけという理解をするべきなのかなと考えました。 ただ、読んだ後じーと考えていてふっと思ったのは、とにかく本作は存在自体が、何か、小説であったり、文学であったり、或いは批評であったりするもののパロディではないかという感じでした。 そしてそのパロディには、やはりいかにも80歳の筆者の(あえて書きますと「老人らしい」)「毒」が紛れ込ませてあると思いました。 私は本作について、それ以外ほとんど意味付けをすることはできませんでした。 でも上記の直感だけは、多分まるで外してはいないんじゃないかと思っています。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.09.01
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